50 Japanese track maker / musician 2019
日本の豊穣な地下シーンを50組のアーティストと楽曲で振り返る。
日本の音楽シーンの今を振り返る企画、2019年の今年はついに4回目です。さまざまな話題がある中で、MASSAGEの今年は個別の作品にフォーカスし、レビューを多くアップした年でもありました。毎日、無数に現れる膨大なリリースに溺れそうになりながら、その心奪う世界観に圧倒されたり、心安らかになったりする、その繰り返し。その終わりのないようにも見える旅路は、ありとあらゆる方向に伸びた進化の枝をたどるようなものです。しかしカオティックに見えるこのシーンも次第にその内容が洗練され、成熟を見せてきている気がします。来歴も全く異なる作り手たちが生み出してきた、メロディやリズム、轟音や静けさの奥に耳を澄まし、ぜひ彼らが日々汲み出し続ける可能性を見つけてみてください。以下はレビュアーのチームで選んだ50選です。多種多様な作品のどれかが、もしあなたのお気に入りの作品となってくれればとても嬉しく思います。
MadeggやKazumichi Komatsuなどいくつかの名義で活動し、今年はナカコーことKoji Nakamuraの作品「Epitaph」にプロデューサーとして参加したことも話題になった。不穏な空気とともに荒れて硬質なテクスチャーが共鳴し合いながら、抑制されたリズムを刻んでいく「Deep Metal」から、一転してやわらかなメロディがアンビエント的なニュアンスを保ちながら反復していく「Wind」、敷き詰められたエレクトロニックな音響に鳥のさえずりのようなSEが交錯しながらくぐもったビートを紡ぎ出していく「Houseplant」など、バリエーション豊かな感触を持つスタイルの楽曲が展開していく。共鳴する音同士が作り出す質感と、あるいはその衝突がもたらす不協和音が複雑なリズムを刻み、相互に溶け出し位相をずらしながら、魅力的な陶芸作品のように豊かで複雑な形態を描き出す。
並べられた小さな火が並ぶ厳かな儀式のような張り詰めた緊張のなかを、対称的な雰囲気を持った2人が作り出した轟音が響きわたる。その時代、その場所でしか聴くことのできない、紛れもないアンダーグラウンドの音楽。そこには、全てを包み込むような暖かさを持った暴力と、優しく繊細な凶暴さがあった。閉鎖された酒の匂いと埃に満ちた空間の、世界とはパラレルに存在する静止した時間の中でしか見つけることの出来ない、その次にやってくる世界。いつも目撃者は数少ない。バカバカしいことを喋りながら、ときどき去っていった人々のことを思いながら、その強すぎる光のような振動の眩しさの中でつかの間の安らぎを得る。それよりほかに重要なものなどあるだろうか。
京都出身のシンガソングライターNTsKiと、RVNGからのリリースなど活動の幅を広げるサウンドクリエイター7FOによる、異色のコラボレーションEP。Brenda Rayによる80年代ポストパンクの名曲「D’ya Hear Me!」をカバーした作品。7FOによるダビーで、ほんのりと温かみを感じさせるどこかストレンジなトラックに、NTsKiのドリーミーで、張り詰めた響きを持ったささやくようなウィスパーボイスが響き渡る。二人の化学反応が、オリジナル曲の作り出した瞬くような輝きを、より強い輪郭で描き出している。よりダビーさを増したBim Oneのリミックスに加え、ノイジーな歪みを効かせたCVNによるミックスも秀悦。
現在はパリを拠点に活動しているツジコノリコが、映像作家のジョージ・コヤマと共同で制作した
2017年発表の長編映画「Kuro」のオリジナル・サウンドトラック集。監督・脚本・主演をツジコが務めているほか、この劇伴も彼女が手がけている。パリに住む日本人ロミは、麻痺状態になったフランス人の恋人ミルを介護しながら生活している。ロミはミルに、二人が共に日本に住んでいた頃に経験した、とある話を語り始める。それは介護士としてロミが老人オノの家に住み込みで働くようになり、そこにミルが移り住んでから始まった、謎に満ちた出来事だった…という物語なのだが、映像と音、お互いが別々の次元に位置しながらも、関係を及ぼし合うという構成のギミックが、プロットに従属されない重層的な空間を作り出し、怪談話や民話、奇譚とも判別のつかない独自の異様さ、深淵な空間をあらわにしていく。ツジコ本人のモノローグによって出来事のあらましが語られていく中、画面が淡々と捉えるのは、描写された部屋や場所の、年月が経って荒廃した姿。過去と現在、映像とモノローグのあわいで、暗雲が立ち込めながらも温かみを帯びた電子音が、両者の衝突や空白を縫いながら、恐怖と居心地の良さが一体となったような、いいがたい感覚を紡いでいく。個人的には、ツジコがおぼろげに歌う「ゴンドラの唄」に心を打たれていたのだが、映画内のシーンでみると意外な印象を受けた。映画は彼らのオフィシャルサイトのVimeoページから見ることができるので、音楽だけ聴いた人はぜひチェックを。
「アジア全土がひとまとめになってしまったハイテック巨大コロニー」の「地下で鳴り響くハイブリットダンスミュージックの断片」というこのアルバムを聴いていると、映画『エクス・マキナ』で女性アンドロイドが踊るシーンを思い出した。アンドロイドを制作した男性プログラマーが無表情の彼女と楽しげに踊る。ふわっとカラダにいいことばかりやっていたら、そのうち輪郭がほんやりしてきそう。たまにはちょっとカラダに悪いこともしたかったり。人工物に囲まれていても、いい音楽が流れればカラダは自然と動くもの。ここはひとつ、「添加物まみれになって踊り狂って下さい」ということばに素直に従っておこう。
関西学院大学の音楽研究部のレーベルONKENからリリースされたEP。タイトルはずばり『JUSCO』、2色刷りのスーパーのチラシを思わせるアートワーク……といっても、サウンドはいわゆるjuscotechやmallsoftとは異なっている。1曲目の“Jusco”はスーパーやショッピングセンター内ではおなじみのアナウンスがちりばめられたダンスナンバー、2曲目の“Food Court”は今や有名となったあの曲を思い出させるようなイントロから始まる浮遊感ある1曲になっている。Yu-kohとzenemosのふたりのユニット、64controll。これからどんなふうに展開していくのかを楽しみにしておきたい。
よりクリアに、明晰な意思を持って進化した軌跡が感じられる、Masaki KuboのプロジェクトFormer_Airlineの新作。どこまでも浮上することなく抑えられたトーンを維持しながら、反復するギターや電子音響の響きがソリッドかつハードな質感の、多様な表情を持ったアンビエンスを織りなしていく。そのサウンドのスタイルはクラウトロックからインダストリアル、ドローンノイズまでもを飲み込み、その前衛性のもつ跳躍と躍動を、張り詰めた緊張のなかに閉じ込める。その幅広い楽曲のスタイルの中には、一本の弦の振動を聴くかのようなシンプルさと、それがゆえの強さがある。新しさや古さを乗り越えた先にしかたどり着くことのできないい、清々しく開けた地平を感じることができる作品。
梅沢英樹と上村洋一、二人のアーティストの共同制作による、およそ40分にわたる音響作品。流氷や海底に広がる音、波や雨の音、温泉施設の反響音や鐘楼など、世界の様々な場所で録音された自然と人工物の環境音が、電子音による変調や加工、あるいはミュージックコンクレートの手法によって編集されながら(そこには具体音も含まれている)、多様な色彩やイメージを含んだサウンドのストリームへと溶け合い、曖昧模糊としたアンビエンスを紡いでいく。彼らはフィールドレコーディングという録音の手法に対し、集中して聴く行為に眠る純粋な発見や、あるいは環境音がもたらすリラクゼーションといった要素に加えて、意識的に複数性という視点を、様々なレベルにおいて含ませている。リリース文の言葉を引用すれば、それは「自然と人工の境界が曖昧で、一聴して判断がつきにくい状態」を設け、「いま、聴いている音は一体何なのだろうか」と問いを立ててみる、つまり対象が常に別のものへと成り代わる可能性や矛盾の余地を、予め考慮しておくということである。自然や生態系という大きな存在に対し、従来の画一的な接し方や恒常的な思考では、もはや関係が存続できないと自明となったいま、彼らが自然と音に向けるプルーラルな捉え方は、現代において有効的な視座だと言えるし、同時にとてもナチュラルな態度である。そうした彼らのアプローチにフィードバックするかのように、音たちもまた、制作者である二人の意匠を超えて、いくつもの意味をおのずから語り始めるだろう。ちなみに、環境音と楽器、そしてコラボレーションという制作方法の組み合わせからは、ピーター・ブロッツマンとハン・ベニンクが、アウフェンの森林で録音した「Schwarzwaldfahrt」というレコードを思い出した。
GOODMOODGOKUは、北海道出身のラッパー/シンガー/トラックメイカー/プロデューサー。
GOKUGREEN名義からGOODMOODGOKUに変わって以来初のアルバムとなる。ボーカルのみならずビートも全曲フルプロデュースしたという本作品は、スローなテンポにメロディアスなフローと残響音が後をひく。ヒップホップが持つアンビエントの要素がメロウな心地よさを作り出し、いつの間にか自然と陶酔感が体を包む。GOODMOODGOKUの甘美でメロウな世界観に身を委ねて楽しみたい。
Nozomu Matsumotoは、東京を拠点に活動するサウンドアーティスト/キュレーター。「Phonocentrism」は音中心主義のことで、アーティスト自身が音やスピーチによって言葉で紡ぎ拡げていくことを目的としている。演奏時間がジャスト20分の本作品の参加アーティストは、CEMETERY、DJ Obake、Emamouse、H.Takahashi、Hegira Moya、Hideki Umezawa、Kazumichi Komatsu、Kenji Exilevevo、LSTNGT、メトロノリ(Metoronori)、Rina Cho、toilet status、Y.Ohashi、Yoshitaka Hikawa。作品はSumiko Matsumotoによるボーカルにより展開していく。ラップ、メタル、ボーカル、EDM、ノイズがコラージュのように重なり、ジャンルを特定できないコンセプチュアルな世界観が目の前に拡がっていく。
EP-4の佐藤薫がディレクターを務めるレーベル〈φonon〉より、神戸を拠点に活動するbonnounomukuroによる作品。これまでも〈birdFriend〉や〈ICERICE〉、〈New Masterpiece〉ほか、CDRによる自主リリースなど、数多くの作品を作り出してきた彼の作品のうち、本作にも家口成樹をサポートで2014年~2018年の間に制作されたて13時間以上もある楽曲からセレクトされたというCDアルバム作品。タイトルにもなっているように彼の愛機であるMPCにより、多種多様な音素材が細切れにされ、変調され、折り重ねられるように紡がれていく。ぶっきらぼうでありながら微かな叙情性をも漂わせた、濃密な時間が過ぎ去っていく。即興によってしか生み出し得ないカオティックなグルーブの豊かさに満ちた作品。
wai wai music resort。ワイ ワイ ミュージック リゾート。そのサウンドがどんなものなのか、この名前からうまく想像できないかもしれない(少なくとも私はそうだった。そして、それは彼らの狙いどおりなのかもしれないとも思う)。アルバム『WWMR 1』のアートワークは白地の真ん中に刺繍で描かれた海と木々。南国にも見えるし、日本のどこかにも見える。空の色は日暮れのような、明け方のような。音を聴いてみると、リゾート感あるポップサウンドながら、ほど良く温度は低め。ビル街の天気雨、常時接続でない電子メールのやり取り、夜の車の中で聴くFMラジオ。そこには、ぼんやりとした輪かくを探りながら旅という非日常に寄せる期待と日常にまぎれたリゾートが静かに広がっている。
イタリアの実験レーベル〈Presto!?〉より、東京のコレクティブBaconのメンバーとしても知られるBRFによる、2016年にリリースされた「BRF-KU」以来となるTasho Ishi名義の作品。来たるべきオリンピックを前に変容していく都市の意識をサウンドに見立てて表出したかのような、綿密なコンセプトのもと組み立てられた「サウンド・トレンディドラマ」。薩摩琵琶師、鶴田錦士の召喚や、サトシナカモトへの言及、パークハイアット新宿52階で録音されたというラグジュアリーフィールドレコーディングなど、高密度に編まれた情報性と突拍子もない発想に、サウンドのテクニカルに構成を施されたドラマ性が結合される。豊かすぎるバリエーションを持って紡がれるその複雑な一種の物語には、しかしながらとても馴染みも感じる。それは私たちが巨大なメディア空間を通して、脊髄反射的に眺めている光景と似ているからかもしれない。パケットのように分割され送り出されていく、オートメーションのような感情と、そして仮想であるがゆえの空虚。それは、過大な差異化のエネルギーが生み出した巨大なメタ意識かもしれない。いつしかその虚空にわたしたちは慣れ親しみ、居心地の良さすら感じるようになった。しかしこの夢心地は、いつか私たちを殺すだろう。
Midori Hiranoは、ドイツはベルリン在住の音楽家/コンポーザー/プロデューサー。別名義でMimiCofとしても活動している。「Mirrors in Mirrors」は、オーストラリアはメルボルンを拠点とするレーベル〈Daisart〉より、以前本誌のMONTHLY REVIEWで取り上げたNico Niquo (https://themassage.jp/massage-monthly-review-9/ )に次ぐ2作目のアルバムとしてリリースされた。これまで、ピアノや弦楽器、声、フィールドワークなど多彩な音と電子音を構造的に作り上げた作品や、MimiCofでは電子音楽を中心とした作品をリリースし、ポスト・モダン、アンビエント、エレクトロニカの新しいかたちを体現している。本作はピアノを中心とし、電子音が光を紡ぎ模様を織りなすアンビエントな世界観が美しい作品。まるで息づかいが聞こえそうなテクスチャーで、力強くもやさしいピアノの旋律と、光のように繊細で時に鋭い電子音や丁寧で美しいシンセサイザーが凛とした音響を作り出す。タイトル「Mirrors in Mirrors」のように、合わせ鏡に映る自分を見た時に覚えた、限定された視覚空間に存在する色や光のプリズムによる奇妙で美しい情景を、新鮮でどこかノスタルジックに描いた作品。
からりとしていて軽く聴きやすいサウンド、曲のタイトルにも「new」、「dream」、「happy」、「relax」……とポジティヴなワードが並ぶ。未来は前に進むものだと信じて疑わなかったころの空気がそこにはある。それでも熱さはなく、むしろどこか少し冷めている部分も感じる。盛り上がる時間を外側から見ているみたいな、少し不思議な感覚になる。限りなくポジティヴな空気で満たされていた時代は過ぎたとしても、あきらめたようでいてまだあきらめていない何かが、このはじけるようにポップなサウンドの中にはある。………まあややこしいことは考えなくても、オシャレで爽やかなシティボーイのフェイバリットになるアルバムなのは1曲目のイントロですぐにわかるはず。
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ボルチモアのようなミニマルビートから、モジュラーシンセの実験的なサウンドまで、スケッチを描くようにさまざまな形態を持った電子音響が自在にその音を響かせる、2013年までに作られた未公開作品とリマスター音源。音楽とそうでないものの境界の上で遊びながら、BPMなどおかまいなしに自由自在にその姿を変化させていく。現代の既製品ではない音楽がだいたいそうであるように、けして入門者が入りやすいものではないが、そうではない音楽だけが持ち得る、新鮮な創造性が満ち満ちている。そのひとつが、変容の感覚かもしれない。放たれた音が描いた形を即興的に変化させ、喜びに満ちいた驚きを持続させていく。それはどの方向にも進んでいける、刺激に満ちた余白である。その可能性に満ちた世界で、わたしたちはダンスすることも、あたらしいビジョンを紡ぐことも、すべてなにもかもが可能なのである。
誰に当てられた手紙かわからないまま、さまようような宙に浮いてしまった感覚。日々の生活のような普通な佇まいに、どこかしらスペシャルな感じがある。ふれたら壊れてしまいそうなほど繊細さを持ったゆらぎがギリギリのバランスで保たれていて、聴いているあいだ中ドキドキしてしまう。突然の休止によってうまれた空白のようなもどかしさと不安、ほのかに刺しこんだ希望のような感情が形を得ないまま、回り灯篭のように微かに浮かび上がっては消える。奇妙な愛おしさに満ちた作品。
テクノ黎明期より唯一無二の和製エキゾ・ダブへと昇華させてきたユニットKING OF OPUS。本作「I STILL LOVE YOU FEAT. 鶴岡龍」は、2018年にリリースされたアルバム「S.T.」からの7インチ・シングル・カットだ。ダブの浮遊感溢れるリズムに鶴岡龍のトークボックスが立体的に重なり、聴くものを熱帯夜でしっとり汗ばんだ時のような不思議な高揚感へと導く。一方、カップリングのchisha「macha macha」は、エキゾチックな音とシンセがコロコロ笑っているようで、穏やかな曲調がなんともかわいらしい。淡い恋心を歌った歌詞は80年代J-popとも異国の大衆歌謡とも感じられる。心地よい湿度と熱気を帯びた本作。遠く熱い国を想像して聴くのもよいが、敢えて梅雨シーズンに聴いて、幻想的なユートピア感を味わいたい。
レーベル〈Wasabi Tapes〉や音楽ブログSim formatから自身の+YOU、DJWWWWなどの名義で音楽活動も行う、実験的な音楽に対する愛に貫かれた活動を続けてきたKenjiによる、香港の〈Absurd TRAX〉からとなる作品。メトロノリやShintaro Matsuo、Natalia Panzerなどレーベルやブログで交流にあった人物がゲストとして迎え、ささやくような朗読に行われる朗読に、バラエティ豊かな音響を切り貼りしながら交錯させていく。音のコラージュによって混沌とした世界を作り出すその編集スタイルは洗練されて、以前と比べてより優しいタッチになったような気がする。すべての要素がフラットに響き交錯し、そして全体的にドライな覚醒感を獲得してる。その後、突如としてレーベルと音楽活動を終了してしまったことはとてもショックな出来事だったが、今の時代の気分を確実に捉え形にする唯一無二のそのスタイルを、またいつか異なる形で私たちに見せてくれる日が来るのではないだろうか。
玉名ラーメンは、現役女子高生のボーカリスト/ラッパー/トラックメイカー/プロデューサー。Nobuyuki SakumaのソロプロジェクトであるCVNのアルバム「I.C.」内の楽曲「舌下 Zekka (Karaoke)」のボーカルバージョンに玉名ラーメンが迎えられ「舌下 Zekka feat. 玉名ラーメン」としてリリースされたのも記憶に新しい。
玉名ラーメンの訥々と語るような声と歌詞は、感情を抑えながら自身の心情を静かに伝えようとしているようで逆に情熱的ともいえる。時に軽く時にダークで心地よいトラックに身を任せて聴いていると、思わず彼女の心の中を覗きに行ってしまったような感覚になり、背徳感のような淡い戸惑いを覚える。等身大の彼女の心を詩のような世界観へと変化させていく玉名ラーメン。時間の流れとともに、彼女はどのような世界観を創りだしていくのだろうか。
色とりどりのプラスチックを2枚のCD-Rでサンドした、CD-R Hamburgerとしてリリースされたwoopheadclrmsの作品。あらゆるサウンドを切り刻み、上手に調理して、想像もできないような新しいニュアンスを作り出す。その調合の妙により作り出されるワクワクするようなその世界は、古いコメディ映画のような陽気さと、その奥にある寂しげなムードも感じられる。次々と新しい展開を生み出していく躁的なにぎやかさは息を潜め、よりゴージャスに、よりラディカルに精密さを増したサウンド。不定形でカオティックな現代の音楽が獲得した、聴くものの聴覚を開いていくような解放の感覚と、その次に来るものを予感させる傑作。
終わりのない白昼夢のようだった昨年の『DREAM WALK』に続いて、今年リリースされた『Night Flow』には夜から夜が明ける前の感覚が描かれている。子どもでも夜中まで起きていることが許されていた大みそかも、大人になってからの夜遊びも、夜遅くまで起きていることにはどこかわくわくするものがある。夜の闇は色々なものを覆い、時に都合の悪いものを隠してくれたりもする。夜が明けるのがおしいような気がすることも少なくないけれど、夜明けはどんな人にも(動物にも)等しくやってくるし、非日常の時間が明けるとそこには日常が訪れる。明るくなれば嫌が応にも多少は前を向かなければならない気持ちにも自然となる。そして夜がくるとまた。
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ウィーンのレーベル〈Ashida Park〉からリリースされた、大阪のトラックメイカーLe Makeupの作品。独特のからりとした叙情性を携えた作品。靄がかかったようなローファイなサウンドが郷愁を誘う「Aisou」から、エレクトロニックなサウンドがリズミカルに響く「Galfy」、ギターのゆらぎが歌詞の世界とゆるやかに溶け合う「Bangkok」まで、エクスペンタルでありながら、爽やかなひねりの効いた楽曲が揃う。夢のような余韻を持った連なりを持った日本語詩はより後景に引き、その印象だけが曖昧な響きを持つ電子音響と混じりあいながら、軽やかに吹き抜けていく。「Galfy」はccontraryによるリミックも収録。
Native Rapperは京都在住のトラックメイカー/シンガーソングライター。ファーストアルバム「TRIP」のリミックアルバムとなる本作品は、リミキサーにパソコン音楽クラブ、TREKKIE TRAX CREW、Batsu、ゆnovation、has &MonoDrumを迎えている。
「TRIP」は、日常をテーマにした歌詞とフューチャーポップの爽やかなシンセサイザーベースのメロディーが、普段何気なく触れる感情(例えば自問自答したり、ちょっと楽しい妄想をしたり、時に大切な人を想うけれども不確かな感情の交錯でもやもやしたり)をダンスミュージックへと昇華させているのだが、今回のリミックスではその世界観をより色濃く鮮やかな色彩で魅せている。日々のなんとなくが、実はとても素晴らしいことなのではないかと思わせてくれる作品。
HKEによってVaporwaveレーベルとして設立された〈Dream Catalogue〉はオーナーが交代し、人間とテクノロジーが融合する時代に向け、夢の中で目覚めている感覚をアートメディアとして提示していくレーベルとして再始動した。「FRAGILE」は、そんなレーベル再始動の2019年から、レーベルのレジデント・アーティストとなったYOSHIMIによる通算8枚目のアルバム。日本の歴史に横たわる幽幻的な想像力を多彩な質感の上に構成していくそのスタイルはそのままに、彼のルーツである映画やCMの音楽を手掛けてきたクラシカル、現代音楽、ミニマル・ミュージック、前衛など多様な音楽的背景が垣間見える作品。精巧に構築された音の空間を、不安を誘うように変転する音階が彷徨い続ける。弦楽器と打楽器、ノイズ、電子音響の精密な配置によって作り出される多様な次元を横断するその時間感覚は、まるで粒子の荒いヨーロッパの前衛映画を見ているかのよう。ひとつひとつの音の響きが、ラグジュアリーともいってよいようなスケールの豊かを持って緩やかに広がっていく。その暗い深さを持った音世界は、聴くものすべてを幻想の旅へと誘うだろう。
https://dreamcatalogue.com/store/product/yoshimi-fragile/
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アートギャラリーのように楽曲を展示することをコンセプトに、一曲長尺のみの作品をラインナップし続けてきたシドニーのレーベル〈Longform Editions〉から、Hegira Moyaによる、ゆったりとした時間感覚に貫かれた丁寧に織り上げられた電子音響の世界。深く音の波の間を潜水し、ゆっくりと変化していくその光景を楽しむことができる20分の組曲。儚い軌道を描きながら形をなした音は、その静けさに満ち溢れたサウンドスケープの中で、響きの中に互いに共鳴し、溶け合い、消えていく。次第に没入感を増しながらエモーショナルに物語を描き出す、幻想的な美しさを持ったディープリスニング作品。
奈良を拠点に活動するレーベル〈Muzan Editions〉から大阪を拠点に活動する電子音楽家/トラックメーカー、Hideo Nakasakoの作品。くすんだ色調を持った音色と、ざらざらした粒子感のあるノイズが反復しながら、温かな感触を持った豊かなテクスチャーを描き出す。呼吸するように反復するパルスとビートは、催眠的な反復の中で溶け出して、ただ空気の流れのような穏やかな感覚だけを残し、ゆっくりと体を通り抜けていく。オーガニックな響きにより形作られていく音像が、人肌のようなちょうどよい温かみが聴くものを心地よく包み込んでくれる電子音響作品。
Primordial Voidからリリースされた「Eye Cavity」やNicolòと共同制作したアンビエントアルバム「Desolation」など、今年だけでもかなり多くのリリースを行っているemamouseの作品群の中で、今年はよりシンプルでアコースティックな感触を持つ本作品の印象が強く残っている。不器用に爪弾かれる感情の古い箇所に触れてくるようなメロディは、ときにおかしみを湛えて、ときに物憂げにも感じられる。“Denpa song”といいう形容では、その作品の持つ魅力は一部しか伝わらないだろう。風変わりなそのスタイルの奥には、古い童話にあるようなミステリアスなフィーリングや、聴くもの者は常に不安と安心の間に置く、微細に揺れ動く感情がある。たしかにそれは未知の感覚であり、わたしたちはその身に覚えのない懐かしさを自分自身の感情の中に発掘しているのかもしれない。
京都を中心に活動する空間現代による、オリジナル作品としては約7年ぶりのリリースとなるサードアルバム。これまでと同様にギター、ベース、ドラムが形作るリズムのズレと反復、そして同期の手法を基調に据えながらも、今作が前作品たちと異なった印象を受けるのは、その三者の音自体に根本的なズレが生じていることだろう。それぞれが相手の存在に意識を払いながらも、あえて正面を向かずに角度をずらしながら演奏しているようで、一方が出すフレーズに対し、一方がそれをどの程度まで受け止め、あるいは横に流しているのかがよく分からないように設定されている。これまでの作品の展開にあった、三者が中心点に集まって生まれる強烈な一致とダイナミズムは、5曲目の「Sougei」を除いてはほとんど見当たらず、どちらかというと、距離の関係を絶えず変化させながら、中心点から放散するように遠ざかっていく「齟齬」の感覚に重点が置いているように思う。ダンスミュージックの機能にみられる身体とビートの同期を留保して彼らが選んだ、その齟齬が表すものとは、ならば一体何なのだろう?今作に関するインタビューを読むと、彼らはバンド活動と照らし合わせながら、他者との関係性によって意味が変化するという点において、「コミュニケーション」がキーになったと語っている。意思や感情のコミュニケーションには、自分と他者の関係性の上で生じるという点において、一定の伝達不可能性が必然的に潜んでいる。しかし肝心なのは、気を留められるのではなく、その脆弱性や断絶を認め、引き受けることにあるだろう。そのような文脈に重ねながら、今作で彼らが意識的に炙り出した齟齬の感覚をもう一度見つめてみると、共通の意味理解がそもそも存在しない「分かり合えなさ」を起点に置いて、オルタナティブなコミュニケーションツールと、「分かり合える」かもしれない可能性、あるいはその萌芽の瞬間を探し当てようとしているようにも思えた。
「京極流箏曲 新春譜」は、彫刻家/京極流2代目宗家 筝曲者/ハープ奏者の雨田光平が、昭和30年頃に青木繁が描いた神々のイメージを創作源に作曲したもの。本作品は、昭和45年に自主制作LPのために琴、笙、ハープを含めた6名で合奏・歌唱して収録したものと、日本古来の美や伝統芸能・民族芸能を電子音楽に昇華する音楽家SUGAI KENによるリワークが収録されており、大阪のレーベル〈EM Records〉よりリリースされた。かすかな心覚えをたどって聴くと、ハープと箏の音色が生み出す不思議な質感の倍音や、雅楽風の調弦や奏法を超えた古の明るく美しい世界観に心が洗われる。
一方、SUGAI KENのリワークは、暗くうっすら光が入る空間でどんどん物語が展開されていく。静けさ中に広がるけだるいリズム、縦横無尽に走る電子音や和の気配を纏ったフィールドレコーディングの群れたちが現代に「新春譜」を紐解き、聴こえないはずの演者同志の間合いや音の余白を体現している。終盤のモールス信号にはどんな意味が込められているのだろうか。
昨年、レーベルHIHATTから『Rubber Band EP』をリリースしたHajime Iidaの弟、SUGURU IIDAが、同じくHIHATTから今年4月にリリースしたファーストシングル。春の日差しの暖かさとまだ残る雪のひんやりとした冷たさ、どちらをも感じさせるサウンド。一貫して見守るように穏やかなリズムの響きの中に時折はっとするアクセントの瞬間が訪れ、そこには静かな緊張感や疾走感も共存している。今年のリリースはこのシングル1曲のみだったが、これからどういった作品がリリースされていくのかを楽しみにしておこうと思う。もちろん、兄のHajime Iidaの今後のリリースにも期待したい。
小確幸と呼ばれるものについてよく考える。大きな期待をせず、過度な刺激を求めず、目の前にある小さいけれど確かなものを喜び、楽しみ、そこに幸福を感じられたら、と。feather shuttles foreverの『図上のシーサイドタウン』(には小確幸がある。サボテンの鉢を抱えてドイツ車に乗ったり、くらい遊びをしたり、ボルシチを食べたり、時には、スタンプばかりのメッセージなら夜は9時に寝ると静かに怒ったり(船出が早いのは漁村だからだろうか。そんなことを想像するのも楽しい)、そして、「失踪しませんか?」と誘ってみたり。ほどよい脱力感と浮かれ具合と風通しの良さ。このアルバムを聴いていると、自分もそんな日常を過ごす人になれたみたいに錯覚できる。それも、小さいけれど幸せなことなのかもしれない。
2000年初頭の大阪のアンダーグラウンドシーンの空気とも連動する唯一無二の作品を作り出してきたALTZの久々のリリースである「La tone」は、色褪せることのない爽やかな驚きを感じられる快作だ。真っ黒なビートはいつもどおりファニーな面持ちを持ち、その優しさに溢れた個性を響かせている。ストイックでミニマルでありながら、いつでも奔放な自由さを宿したビート。弾け出したい心を抑えるかのように、抑えられたそのリズムの中にあるストイシズムは逆に情熱的ともいえる。その熱気は、鮮やかに身体性と結びついて、聴くものの心をその原始の炎で焼き焦がす。フルバンドとなったその演奏は、楽器と楽器は有機的に結合し合い、鮮烈なその色彩を眼の前に大きく広げていく。よりスケール感を増したその世界観で、ここではない世界へと接続するユートピアを出現させる。
toplessdeath名義での楽曲発表や、ForestlimitでのDJやライブなどの活動を行っている脳BRAINによる1stコラージュカセット作品。現代音楽からレトロムービーまで、あらゆる領域からサンプリングされた元ネタから絞り採った果汁を、カオティックなグルーヴのなかへとかき混ぜていく。圧倒されるほどに濃密な情報量は、フリッカーの明滅のような目眩の感覚を引き起こす。高密度に圧縮された引用の嵐にみられるような、濃密な即興性もさることながら、友人の乱雑な自室に招かれたような不思議な居心地よさも感じられる。溢れ出る文化への愛を、音に溶かし合わせて作られたような小宇宙。
日本の音楽のアーカイブシリーズを制作しているLight in the Atticからリリースされたこのアルバムは、Bandcampの“The Best Albums of 2019”に選ばれていることからも日本国外での注目度の高さがわかる。日本のニューエイジ、アンビエントミュージックの人気は、YouTube、DJ mix、このジャンルに特化したブログなどを中心にここ7〜8年で海外で広がりを見せた動きだが、高速で変化する都会の喧騒の中で作られていた静かでクリーンな音楽が今インターネットを中心に広がり、多くの人々に好まれるという現象が起こっているのは、そのころとはまた違った喧騒が溢れているからなのかもしれない。そして、その中にいる現代の人々を癒すのもやはり音楽なのだろう。
イギリスを拠点に活動するサウンドデザイナー、オーディオビジュアルアーティストAkiko HarunaのデビューEP。張り詰めた緊張に響くビートのなかを、切り刻まれ歪んだヴォーカルがときにセンセーショナルに、ときに感情の抑制された言葉を刻んでいく。ミニマルな要素によって形作られていくその音響は、繊細に研ぎ澄まされており、派手さはないものの強固な軸を作り出している。静かだが確かな跳躍とその新鮮な驚きの積み重ねが生み出す空間性を持ったサウンドは、ダンサーとしてのバックグラウンドから生み出されているようにも思う。その寡黙なスタイルを持ったサウンドは、間違いなく脱構築されたダンスミュージックのはてに生み出されつつある今日的な感性の一つだろう。
Yolabmiは東京在住のインダストリアルやダブといった楽曲のリリースやライブ、またコラージュなどのヴィジュアルワークも手がけるコンポーザー。「To Nocturnal Fellows」は、ロシアを拠点に活動するArthur Kovaløvの主宰レーベル〈Perfect Aesthetics〉からリリースされた、抽象的なアンビエント的な感触を持つ作品。ダブステップのような硬質で荒れたテクスチャーを持ったその音響の、延々と続く崩落を眺るような催眠的な心地よさが、破壊と再生を縫うように絶妙なバランスで続いていく。退廃的なロマンティシズム、そして未来というより旅の途中に撮られた個人的な1枚の写真、あるいは荒涼とした見知らぬ国で撮影されたモノクロ映画のような、独特の寂しさを持つ作品。暗く孤独な奥に横たわる、その深くゆったりとした共鳴の世界に身を沈めたい。(S)
以前RVNG Intl.のオーナーのマットが来日していた時、今度サブレーベルから日本のレアなアヴァンギャルド作品を再発するよと彼から話を聞き、それから約1年半リリースを心待ちにしていた作品。
アラブ古典音楽の演奏家として現在活動し、ボンバーマンなど数々のサウンドトラックを手掛けた作曲家としても知られる竹間淳が1984年にソロ名義で発表したLP『Divertimento』。この『Divertimento』の収録曲に新たに3曲を追加し、アートワークを再編したリワーク作品『Les Archives』が〈Freedom To Spend〉からリリースされた。デジタルアーカイブ化が隅々まで浸透した現在でも、得体の知れない作品をサルヴェージしてくるここのレーベルの姿勢と野心には毎度感服させられるが、これまでのカタログのなかでおそらく最も知名度が低く(ネット上の情報の寡少さから察するに、オリジナル盤の存在はこれまでほぼ共有されてなかったはず) 、また音楽性としても異端な作品だと思う。ビートの機械的な反復とポリメトリックなフレーズを軸に、ポップスやフュージョン、ニューウェーブやインダストリアル、プロトテクノといった様々なジャンルを技巧的に組み直した、クロスオーバーな様式を一見装いつつ、同時にそれぞれの音に対して付随する情感やイメージがまるで疎外されているというか、妙に矛盾した響きが全体に通底している。それは例えるなら、大音量で鳴り響いているが「激しく」はないメタルミュージック、あるいは静謐な音色だが「静けさ」が立ち込めていないアンビエントミュージックのようで、「〜的」な恣意の意味作用が無効化された音がそのまま即物化し、その都度コンテクストが独自で生み出されていくようなもの、といったらよいか。海外メディアのインタビューを通して、彼女は自らの作品を「絶対音楽」と形容していて、それは近代の標題音楽に対するアンチテーゼ、つまり記号の還元化を拒み、音の形式や秩序そのものが存在定義を成す音楽を意味するのだが、いくばくかの時間が経過した現代において、フォーマリズムから端を発した彼女の音楽は、もはやそのような二元論的な対立を軽々と跳躍してしまいフラグメンタルな形を増強させ、肯非の入り混じったフェティッシュな戯れと誘惑を成しているように聴こえてくる。そのいびつな「遊戯性」に関しては、収録2曲目のタイトルが示す「Pataphysique」(パタフィジック)という、詩人のアルフレッド・ジャリが作り上げた造語とその概念にも大いに通じているのだが、それに関しては、オリジナル盤に同封されているライナーノーツの素晴らしい解説を一部抜粋してここに載せておく。
「ジャリが、この素敵な造語をもって、とりすました「形而上学」なるものを嘲笑したように、竹間淳も、音楽の分野での、頑迷なアカデミズムと軽薄なポピュラー・ミュージックという両極ファシズムの恐るべき支配を、研ぎ澄まされた聖なる悪意を持って、徹底的に茶化しているのだ。(中略)このモダン・ミュージックのジャリは、自分の音楽だけにどっぷりと浸り込んでいるのでなく、透徹したイロニーというスタンスをもって、音の「PHYSIQUE」を超えていく。(中略)あたかも蝶のような「パタ」の姿勢、つまり「PHYSIQUE」の強固なクロチュールからほんの心持ち身をずらすことで、彼女は幾重にも張り巡らされた罠の中から逃れさっているのだ。」
(ちなみに今回『Les Archives』の文を担当したのはアーティストのナタリア・パンツァー。彼女の丁寧な言葉遣いもとても素敵で、こういう自由なセレクションも含めて良いレーベルだな..としみじみ思ってしまった)
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Diplo主宰のレーベルMad Decentよりカセットでリリースされた作品。あらゆるものが過多になりつつあるオンライン以降の音楽シーンにありながら、胸がすくような素朴さとシンプルさ、そしてそれ故なのか音のもつ豊かな感触と、その響きには組み尽くせないほどの奥行きが感じられる。初期のテクノ、あるいは初期衝動的なエネルギーを持つ様々なジャンルの持つ、未知へと誘われるような特有のワクワクする感覚が破綻せずに持続していく。なめらかに変化していくリズムと、親しみすら感じる、色彩を持った心地よい音色。エピックではないし、かといって小品ではまったくない。ここではないどこかではなく、いまここにあるものすべて。当たり前にある事物の、生命的な現象を目撃しているような感覚に近い。それは日常に根ざした面白さ、銭湯でお風呂に入ったり、昼食を食べたりといった生活からこの作品が紡がれているからなのかもしれない。
まだ寒い2月にリリースされたGimgigamの『The Trip』は、ジャケットのイメージそのままのサウンドに暖かい季節が待ちどおしくなるアルバム。1曲ごとに少しずつ曲の持つ空気は変化し、さまざまな国のリゾート地を訪れる贅沢な旅をしているようにも感じられるので、実際にこれからのシーズンの旅行に携えていって、車窓から景色を眺めたり、歩いて目に入るものを見たりしながら楽しむのもいいし、あるいは、ジャケットのイラストそのままにホテルの部屋やプールサイドで聴くのも最高だろう。けれど、あえて日常の中で聴くのが一番いい気もする。今いる場所からトリップしてしまえるだけでなく、きっと時間までタイムスリップして、不思議におもしろい感覚を味わえるのではないかと思うから。
環境音楽家の尾島由郎とピアニストの柴野さつき、Visible Cloaksによるコラボレーション作品。尾島とスペンサー・ドランが制作に携わっている「KANKYO ONGAKU: JAPANESE AMBIENT ENVIRONMENTAL & NEW AGE MUSIC 1980-90」がリリースされ、それがグラミー賞にノミネートされるという功績を挙げた2019年、80年代に誕生した日本の環境音楽は過去に例を見ないほどに注目を集め、新たな世代のリスナーたちの前で息吹を返すこととなった。そのコンテクストを踏まえながらも、同年にリリースされたこの「serenitatem」は、環境音楽を過去の遺跡として留めるのではなく、現代の感性と繋ぐように再構築させ、新たな装いをもって提示したという点で、大きな意味を持つアルバムとなっている。2年の歳月に及ぶ制作期間をかけ、両者の間を往還しながら作り上げられた今作は、幾十にもわたる音の層が相互に反応しながら、優雅な気配をまとったひとつのアンビエンスへと結晶しているが、そこには四人それぞれが持つ個性に加え、相手の音楽性にリスペクトを払う行為の美しさや、コラボレーションという手法からでしか生まれることのなかった、未知の発見が多分に含まれている。ラジオ放送局セント・ギガが、かつて電波の向こう側にいるリスナーに向けて送り続けたステーションコールのメッセージ”I’m here.I’m glad you’re there.”、その言葉と呼応するように、「anata」で柴野から紡がれる”どこかで 私は あなたと”という歌詞、それは時間や場所も異なる二組のアーティストたちが、音をもとに出会う運命を辿り、結実した今作と同じように、これからもその発された言葉がキャッチされる時を待ち続けるだろう。
昨年より、西川文章、Iku Sakanと共にスタジオICECREAM MUSICを設立し、またバンドのgoatから、ロジェクトのGEIST、Virginal Variations、レーベル〈birdFriend〉の運営まで、そのコンセプトの視野と活動の幅を広げ続けてきた日野浩志郎のソロプロジェクト、YPYによるトラック集。スペーシーな電子音響のなかを硬質なダンスビートが響き渡る「Guilty Pants」から、パーカッシブなビートと環境音が錯綜しながら熱帯的エキゾチズムを描くアンビエント調の楽曲「Pesom Plants」、ミニマルなビートに持続音が錯綜しながら重層的世界を展開していく中川裕貴がチェロで参加した「All Wounds」まで、微かな目眩のような感覚を引き起こす独特の楽曲が並ぶ。そのどこまでも体の奥に沈み込むような重いビートが、聴くものを瞑想的な深みへといざなう、すべてがシンプルかつ強固なアイデアに貫かれた楽曲集。
Grey Matter ArchivesのキュレーションやAvyss Magazineの運営者としても知られるCVNの〈Orange Milk〉からとなる新作。ジャケットは「PHENOMENON:RGB」展にも参加したSabrina Rattéであり、NTsKiや、Cemetery、Le Makeup、LSTNGT、ROTTENLAVAなど盟友たちとのコラボレーションを繰り広げた、まさに現行のシーンをアルバムの上に広げたマガジンのような作品となっている。印象的な一曲目のNTsKiをフィーチャーした「成分」はまどろんだアトモスフィアの中を彼女の柔らかな声質が響き渡り、都市的な背景のもとノスタルジックな和やかさと安心感で包み込む。ノイジーでインダストリアルな感触を持つ楽曲からリズミカルに聴くものを揺さぶるダンストラックまで、よりフリーキーにより自由に組み合わされたサウンドで心地よく耳を刺激する。静と動、秩序と無秩序の間で引き起こされてきた駆け引きを紐解きながら、即興のさなかに生み出された解を目撃しているかのような研ぎ澄まされた洗練。音の振動すべてが楽器であるような、録音上の徹底呈した平等性は、デジタルによりもたらされた現代の音の洗練の極地と言ってよいだろう。異質なもの同士の重ね合わせと結合により作られたそれらは、調和を否定することによって逆説的に美しさを生成するという、現代におけるバロック的な美であるといってよいかもしれない。(S)
山口県在住のトラックメイカーtoiret statusがライブ会場でのみ販売していたCD作品。ループするメロディがヴァラエティ豊かなリズムを刻む即興的なエネルギーを放つ「origami」、彩り豊かでな電子音響が弾むように自由自在に跳ね踊る「confetti」、切り刻まれた変調されたボーカルがダイナミックなビートの上で交錯する「tissue」、クラシカルなメロディが入り組んだ形を描きながら、乗り物酔いしそうなほど高配の激しいを描く「balloons」、振幅を刻むビートが描く複雑なリズムにソフトなタッチのメロディが絡み合う「airplane」など、音が前頭葉に直接インプットされているよう原始的快楽と、それが描き出す独自の色彩を持ったサイケデリックかつドリーミーな世界が描かれていく。複雑かつ抑揚に富んだリズミカルなビートがより全面に押し出された多様な表情を持つサウンドが、あらゆる制約から開放された喜びに満ちた彩り豊かな光景を描き出す。
「振動の伝達」を扱ったフィールドレコーディング作品を中心に、音源のリリースやインスタレーションの発表などを行うサウンドアーティスト/美術家の角田俊也。今作は彼の90年代の代表作として知られる「Extract From Field Recording Archive 」シリーズに、未発表の新作音源を追加した5枚組CD。音を波の振動として捉える角田は、振動運動の現象的側面や、音の発生/伝播を生み出す空間との関係性に焦点を当て、港や工業といった豊富な振動現象が観察されやすい場所に注目して長年フィールド録音を続けてきた。振動は彼によっていくつかのパターンに分類されており、例えばシリーズ1作目に収録されている音源は「定常波」と呼ばれる種類のもので、それは複数の音波が反射と干渉を繰り返して、ある特定のエリアで停滞している音のことを指している。どれも音が持続しているという点では共通しているものの、振動源の素材や性質によって、それぞれの音色や周波数、倍音の具合は千差万別で、異なる背景を備えた音たちは、どれもハードコアでミニマルな様相ながら味わい深い響きをなしている。
彼の作品は、一聴してそれだけでは何の音なのかよく分からない。それは人間の可聴域外の音であったり、空気ではなく固体を媒質とした音であったり、つまり日常で私たちが知覚できない、あるいは意識に留まることのない音が主な対象だからであり、録音された音源そのものに、視覚的イメージや追体験性を喚起させる要素は含まれていないからだ。その点でも、一般的なフィールドレコーディング作品にみられるようなサイトスペシフィックな要素は、角田の音作品には表面上からは切り取られてしまっている。それは作品のコンテクスト(録音の場所や状況、振動源、FMシンセのモジュレータのような、振動に影響する外部の振動音など)を理解するというプロセスのなかで立ち上がってくるものなのかもしれない。自分の場合は曲ごとの説明を読み、それぞれの文脈を捉えることでまったく異なる聞こえ方へと変わった。
フィールドレコーディング作品はその形式の性質上、現実世界で生じて録音された音を「聴く」行為とは、つまり一体なにを意味するのか、という疑問を聴き手に問い続ける(作家の意図からも離れて)わけだが、角田の作品からは、音を通した対象物の「自律性」(ハーマンの言葉を借りるなら)、意味作用に絡み取られる前の事物の「存在」そのものが強く感じられる。モーターやエンジンの駆動、配管の内部での共鳴、フェンスの震え、etc…。機能という契約から一時的に逃れて再び現れたそれらには、こちらを誘引するような穏やかならぬ気配とぬくもりが感じ取れるだろう。ものたちの間に交わされている接触や干渉、総じて「起こる」≒「在る」ことを浮かび上がらせるという角田の主題は、音のオントロジーを探る実践でもあるともいえる。
ちなみに、本人が自身の作品や録音について、いくつかまとめて書いてあるのをmixiのコミュニティで見つけた。
どれも面白い内容なので興味のある人はチェックを。
https://mixi.jp/list_bbs.pl?id=715447&type=bbs
ロンドンをベースに活動するアジアに焦点を当てたコレクティブ〈CHINABOT〉より、京都を拠点に置くミュージシャンSeaketaの作品。京都の地名とオノマトペのダブルミーニングになっているのと同じように、各トラック名も擬音語をモチーフにしている。それは、彼が経験を音に変換することに夢中になっていることと関連しているという。予測の難しいほど断片化され、加工されたその音の混合物は、もちろん心休まるものではないが、複雑に見えるその奥にはシンプルに原初的な快楽を刺激してくる感覚もある。見慣れぬ質感が作り出す不気味さとポップさ、時間によって変化していく複雑な模様、不定形なゆらぎとミニマルなリズムが作り出す没入を誘う酩酊まで、境界を問いながら音そのものが拡張する遊びを続けていく。
2017年のリリース以来、〈Orange Milk〉からは2作目となる、Ryu Yoshizawa のプロジェクトKoeosaemeによる作品。聴くものの聴覚を切り裂くような、研ぎ澄まされた鋭利さで編まれた音像が、多次元的な複雑さで次々と予想不可能な形を描き、ダイナミックに異形で抽象的な世界を織り出していく。電子音響から、断片的に垣間見えるヴォーカルチョップ、きしむように響くストリングスなどの生音まで、多様な表情を持つ音響が、まるで新しい言語であるかのように特別な空間を作り出していく。型破りであるだけでなく、サウンドデザイナーとしての職業で培ったと思しき精密さも併せ持つ。音の響きにより、現代音楽からダンスミュージックにいたるまで、あらゆる初期衝動をすべてを取り込んだかのような純度の高いアイデアにより、編まれた作品。
アンビエント・ミュージックにおいて「環境」がどのようにとらえられているのかという視点は、その分析における一つの有効な視点である。特定の場所や環境についてその姿を描くようなものであったり,異次元・異空間のような新たな環境を作り、提示するものであったり「環境」をどのようにとらえるかには様々なアプローチがある。広島を拠点とする作家であるMeitei(冥丁)による最新作がリリースされた。彼のアンビエント・ミュージックの作家としてのアプローチ,つまり「環境」を捉える際の彼の視点は日本という「環境」を、過去を参照しながら(つまり時間という縦軸を基礎として)描こうとするものだ。
一聴すれば、それ自体は柔らかなアンビエントと形容されるだろう。音は全体を通して一貫している。プレスリリースにはJ Dillaの名も出ているように、ゆったりとしたタメのあるリズムがループしていく様はビート・ミュージックとして魅力をもち、出たり入ったりをくり返す様々な音や水の音などが聴き手のテンションを高く上げすぎることなく、一定の熱量を保っていく。チルアウトにも最適な、夜のさざなみのような美しさがある。
このような音像はMeiteiが取り上げる今作のテーマと結び付くことでさらに深みをましていく。彼は「失われた日本の空気」に注目したと紹介されているが、これはつまりは既に無くなっているものであり、彼の楽曲は亡失(≒忘失)の感覚を与えるものとして捉えることができよう。Meiteiの音楽が迫ろうとするものは日本のどこからかかき集め、こじつけたような現在進行形の「すごさ」ではない。彼が取り上げるのは本邦において既に失われた何かであり、その中には我々の先祖たちが想像力をもとに描いてきた「怪」や「幻」が含まれる。ここには文明の発達が妖怪の存在を消し去ってしまったと主張した水木しげると同様の、忘失への嘆きがあるようにも思えてくる。明治の文明化以降に様々なものが失われてきた中で、我々はそれを進歩と呼べるのだろうか…という水木の問いは大げさに聞こえるかもしれない。しかし、Meiteiの音楽がメタ・メッセージとして持つ(もしくは機能する)ものは我々のルーツへの視点であり、進歩史観とは無縁である。我々が失いつつ、しかしどこかにその感覚を残しているようなものへの視点が基礎となっている点でアンビエントというよりもフォーク・ミュージックと言ったほうが適切なのかもしれない。
日本という看板を背負わせ、欧米をはじめとした外側への回答のように考えることは日本と海外、つまり内外のどちらの側にもある種の特権的な意味づけをしかねない。海の向こうのきらめく文化に対して、この島国の文化の「すごさ」「独特さ」をアピールすることは安易なナショナリズムにも結び付き得る。マイルドで優しい「日本(的なもの)」を喜ぶポジティブな気持ちで結び付く、ナショナリズムを掻き立てられた者どもをすり抜けるように、失われてしまった幻によって立ち上がってくる「環境」を描いている。あまりにも遠くなり、おぼろげに揺れる蜃気楼のような環境である。
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leedianことHitoshi Asaumiは、愛媛出身の音楽家。ゆったりとした時間が流れる空間で、プリミティブな音たちが美しい花のように咲き乱れ幾重にも重なる。残響音が心地よい。一方で、美しい旋律とダークなビート、電子音やノイズなどの破壊音が自由に展開していく。ユートピアとディストピアを行き来し、どこか虚無感があり冷ややかで暗い世界観。聴き終わった後に、自由と破壊が切り替わる狂喜にも似た瞬間をまた振り返りたくなる作品。
架空の神戸を舞台とした、都合の良いお洒落と恋のストーリーから1年あまり。『Port Island』の恋人たちは少し大人になって旅に出かける。架空の航空会社ソーダ・リゾート・エアライン「らくらく直行便」の「ゆったり快適シート」で「くつろぐ空の旅」へ。「Aランクの南国ムード溢れるバルコニー付きホテル」に滞在し、「壮大な海と空、きれいな白砂のビーチ」でのんびり寝ころんだあと、「潮風のリゾートディナー」に舌鼓を打てば、日々の生活の疲れやうまくいかない恋の痛みも気づけば消えていることでしょう。心地良く優しい癒しの旅、『Soda Resort Journey』へあなたも出かけませんか?
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