アンビエント・ミュージックにおいて「環境」がどのようにとらえられているのかという視点は、その分析における一つの有効な視点である。特定の場所や環境についてその姿を描くようなものであったり,異次元・異空間のような新たな環境を作り、提示するものであったり「環境」をどのようにとらえるかには様々なアプローチがある。広島を拠点とする作家であるMeitei(冥丁)による最新作がリリースされた。彼のアンビエント・ミュージックの作家としてのアプローチ,つまり「環境」を捉える際の彼の視点は日本という「環境」を、過去を参照しながら(つまり時間という縦軸を基礎として)描こうとするものだ。
一聴すれば、それ自体は柔らかなアンビエントと形容されるだろう。音は全体を通して一貫している。プレスリリースにはJ Dillaの名も出ているように、ゆったりとしたタメのあるリズムがループしていく様はビート・ミュージックとして魅力をもち、出たり入ったりをくり返す様々な音や水の音などが聴き手のテンションを高く上げすぎることなく、一定の熱量を保っていく。チルアウトにも最適な、夜のさざなみのような美しさがある。
このような音像はMeiteiが取り上げる今作のテーマと結び付くことでさらに深みをましていく。彼は「失われた日本の空気」に注目したと紹介されているが、これはつまりは既に無くなっているものであり、彼の楽曲は亡失(≒忘失)の感覚を与えるものとして捉えることができよう。Meiteiの音楽が迫ろうとするものは日本のどこからかかき集め、こじつけたような現在進行形の「すごさ」ではない。彼が取り上げるのは本邦において既に失われた何かであり、その中には我々の先祖たちが想像力をもとに描いてきた「怪」や「幻」が含まれる。ここには文明の発達が妖怪の存在を消し去ってしまったと主張した水木しげると同様の、忘失への嘆きがあるようにも思えてくる。明治の文明化以降に様々なものが失われてきた中で、我々はそれを進歩と呼べるのだろうか…という水木の問いは大げさに聞こえるかもしれない。しかし、Meiteiの音楽がメタ・メッセージとして持つ(もしくは機能する)ものは我々のルーツへの視点であり、進歩史観とは無縁である。我々が失いつつ、しかしどこかにその感覚を残しているようなものへの視点が基礎となっている点でアンビエントというよりもフォーク・ミュージックと言ったほうが適切なのかもしれない。
日本という看板を背負わせ、欧米をはじめとした外側への回答のように考えることは日本と海外、つまり内外のどちらの側にもある種の特権的な意味づけをしかねない。海の向こうのきらめく文化に対して、この島国の文化の「すごさ」「独特さ」をアピールすることは安易なナショナリズムにも結び付き得る。マイルドで優しい「日本(的なもの)」を喜ぶポジティブな気持ちで結び付く、ナショナリズムを掻き立てられた者どもをすり抜けるように、失われてしまった幻によって立ち上がってくる「環境」を描いている。あまりにも遠くなり、おぼろげに揺れる蜃気楼のような環境である。