Visible Cloaks, Yoshio Ojima & Satsuki Shibano - FRKWYS Vol. 15: serenitatem

環境音楽家の尾島由郎とピアニストの柴野さつき、Visible Cloaksによるコラボレーション作品。尾島とスペンサー・ドランが制作に携わっている「KANKYO ONGAKU: JAPANESE AMBIENT ENVIRONMENTAL & NEW AGE MUSIC 1980-90」がリリースされ、それがグラミー賞にノミネートされるという功績を挙げた2019年、80年代に誕生した日本の環境音楽は過去に例を見ないほどに注目を集め、新たな世代のリスナーたちの前で息吹を返すこととなった。そのコンテクストを踏まえながらも、同年にリリースされたこの「serenitatem」は、環境音楽を過去の遺跡として留めるのではなく、現代の感性と繋ぐように再構築させ、新たな装いをもって提示したという点で、大きな意味を持つアルバムとなっている。2年の歳月に及ぶ制作期間をかけ、両者の間を往還しながら作り上げられた今作は、幾十にもわたる音の層が相互に反応しながら、優雅な気配をまとったひとつのアンビエンスへと結晶しているが、そこには四人それぞれが持つ個性に加え、相手の音楽性にリスペクトを払う行為の美しさや、コラボレーションという手法からでしか生まれることのなかった、未知の発見が多分に含まれている。ラジオ放送局セント・ギガが、かつて電波の向こう側にいるリスナーに向けて送り続けたステーションコールのメッセージ”I’m here.I’m glad you’re there.”、その言葉と呼応するように、「anata」で柴野から紡がれる”どこかで 私は あなたと”という歌詞、それは時間や場所も異なる二組のアーティストたちが、音をもとに出会う運命を辿り、結実した今作と同じように、これからもその発された言葉がキャッチされる時を待ち続けるだろう。

空間現代 - Palm

京都を中心に活動する空間現代による、オリジナル作品としては約7年ぶりのリリースとなるサードアルバム。これまでと同様にギター、ベース、ドラムが形作るリズムのズレと反復、そして同期の手法を基調に据えながらも、今作が前作品たちと異なった印象を受けるのは、その三者の音自体に根本的なズレが生じていることだろう。それぞれが相手の存在に意識を払いながらも、あえて正面を向かずに角度をずらしながら演奏しているようで、一方が出すフレーズに対し、一方がそれをどの程度まで受け止め、あるいは横に流しているのかがよく分からないように設定されている。これまでの作品の展開にあった、三者が中心点に集まって生まれる強烈な一致とダイナミズムは、5曲目の「Sougei」を除いてはほとんど見当たらず、どちらかというと、距離の関係を絶えず変化させながら、中心点から放散するように遠ざかっていく「齟齬」の感覚に重点が置いているように思う。ダンスミュージックの機能にみられる身体とビートの同期を留保して彼らが選んだ、その齟齬が表すものとは、ならば一体何なのだろう?今作に関するインタビューを読むと、彼らはバンド活動と照らし合わせながら、他者との関係性によって意味が変化するという点において、「コミュニケーション」がキーになったと語っている。意思や感情のコミュニケーションには、自分と他者の関係性の上で生じるという点において、一定の伝達不可能性が必然的に潜んでいる。しかし肝心なのは、気を留められるのではなく、その脆弱性や断絶を認め、引き受けることにあるだろう。そのような文脈に重ねながら、今作で彼らが意識的に炙り出した齟齬の感覚をもう一度見つめてみると、共通の意味理解がそもそも存在しない「分かり合えなさ」を起点に置いて、オルタナティブなコミュニケーションツールと、「分かり合える」かもしれない可能性、あるいはその萌芽の瞬間を探し当てようとしているようにも思えた。

梅沢英樹 + 上村洋一 - re/ports

梅沢英樹と上村洋一、二人のアーティストの共同制作による、およそ40分にわたる音響作品。流氷や海底に広がる音、波や雨の音、温泉施設の反響音や鐘楼など、世界の様々な場所で録音された自然と人工物の環境音が、電子音による変調や加工、あるいはミュージックコンクレートの手法によって編集されながら(そこには具体音も含まれている)、多様な色彩やイメージを含んだサウンドのストリームへと溶け合い、曖昧模糊としたアンビエンスを紡いでいく。彼らはフィールドレコーディングという録音の手法に対し、集中して聴く行為に眠る純粋な発見や、あるいは環境音がもたらすリラクゼーションといった要素に加えて、意識的に複数性という視点を、様々なレベルにおいて含ませている。リリース文の言葉を引用すれば、それは「自然と人工の境界が曖昧で、一聴して判断がつきにくい状態」を設け、「いま、聴いている音は一体何なのだろうか」と問いを立ててみる、つまり対象が常に別のものへと成り代わる可能性や矛盾の余地を、予め考慮しておくということである。自然や生態系という大きな存在に対し、従来の画一的な接し方や恒常的な思考では、もはや関係が存続できないと自明となったいま、彼らが自然と音に向けるプルーラルな捉え方は、現代において有効的な視座だと言えるし、同時にとてもナチュラルな態度である。そうした彼らのアプローチにフィードバックするかのように、音たちもまた、制作者である二人の意匠を超えて、いくつもの意味をおのずから語り始めるだろう。ちなみに、環境音と楽器、そしてコラボレーションという制作方法の組み合わせからは、ピーター・ブロッツマンとハン・ベニンクが、アウフェンの森林で録音した「Schwarzwaldfahrt」というレコードを思い出した。

Tujiko Noriko - Kuro(OST)

現在はパリを拠点に活動しているツジコノリコが、映像作家のジョージ・コヤマと共同で制作した
2017年発表の長編映画「Kuro」のオリジナル・サウンドトラック集。監督・脚本・主演をツジコが務めているほか、この劇伴も彼女が手がけている。パリに住む日本人ロミは、麻痺状態になったフランス人の恋人ミルを介護しながら生活している。ロミはミルに、二人が共に日本に住んでいた頃に経験した、とある話を語り始める。それは介護士としてロミが老人オノの家に住み込みで働くようになり、そこにミルが移り住んでから始まった、謎に満ちた出来事だった…という物語なのだが、映像と音、お互いが別々の次元に位置しながらも、関係を及ぼし合うという構成のギミックが、プロットに従属されない重層的な空間を作り出し、怪談話や民話、奇譚とも判別のつかない独自の異様さ、深淵な空間をあらわにしていく。ツジコ本人のモノローグによって出来事のあらましが語られていく中、画面が淡々と捉えるのは、描写された部屋や場所の、年月が経って荒廃した姿。過去と現在、映像とモノローグのあわいで、暗雲が立ち込めながらも温かみを帯びた電子音が、両者の衝突や空白を縫いながら、恐怖と居心地の良さが一体となったような、いいがたい感覚を紡いでいく。個人的には、ツジコがおぼろげに歌う「ゴンドラの唄」に心を打たれていたのだが、映画内のシーンでみると意外な印象を受けた。映画は彼らのオフィシャルサイトのVimeoページから見ることができるので、音楽だけ聴いた人はぜひチェックを。

Gabber Modus Operandi – HOXXXYA

先月インドネシアを訪れ、一週間くらいジョグジャカルタに滞在した。ジョグジャカルタは首都のジャカルタより物価が安い上、ジャワの芸術文化と縁の深い都市で、国内のアーティストの多くがジョグジャか、あるいは第3の都市と言われてるバンドゥンのどちらかに集まっている。今回の滞在目的はジャワ民衆文化のリサーチだったが、現行の音楽/コンテンポラリーアートのシーンに触れる機会もいくらかあり、色々面白い動きが拡散的に起きているのを肌身で感じた。

それで現地の人と話している際に、最近地元で面白いアーティストがいるか聞いてみると、みんなこぞって口にしていたのが2人組のGabber Modus Operandiだった。バリ島のデンパサールを拠点に活動する彼らは、2018年結成とまだ活動歴は浅いながら、ジョグジャカルタのYes No Waveからリリースしたファーストアルバム『Puxxximaxxx』が注目を集め、CTM FestivalやUnsound、そしてNyege Nyegeなどの海外フェスに出演、今急速にその名が広がっている。上海のSVBKVLTから先日リリースされた『Hoxxxya』は、ガバ/ハードコアとインドネシアのポップスや民族音楽をミングルさせた、異形のハイブリゼーションともいえるダンスミュージック。ジャワの憑依儀礼である、ジャティランのスピリットを原動力としながら、BPM180以上で刻まれるインダストリアルなビート、大衆音楽として親しまれているダンドゥットの奇怪なメロディ、そしてサロンペットと呼ばれる笛や、ガムランのスレンドロ/ペダン音階を用いた旋律がもたらす明滅的な響きが一緒くたになって、トランシーな空間を形成していく。

他宗教、多民族というバックグラウンドを持つインドネシアは、交配と継承を繰り返しながら、単一のアイデンティティでは束ねられないほどに、非常に多面的で豊穣な音楽文化を生み出してきた歴史を持つのだが、そのローカリティを自分たちの表現に結びつけるような発想は、この数年前までシーンには存在しなかったらしい。しかしエクスペリメンタル・デュオのSenyawaの登場によって状況は大きく変わり、彼らに感化された若いアーティスト達(もちろんGabberも)が、自国の文化に目を向け、現代的なスタイルを模索し始めたのだという。かつての交配の歴史を受け継ぐかのように、また新しいサウンドが作られつつあろうとしている。

Toshiya Tsunoda – Extract From Field Recording Archive

「振動の伝達」を扱ったフィールドレコーディング作品を中心に、音源のリリースやインスタレーションの発表などを行うサウンドアーティスト/美術家の角田俊也。今作は彼の90年代の代表作として知られる「Extract From Field Recording Archive 」シリーズに、未発表の新作音源を追加した5枚組CD。音を波の振動として捉える角田は、振動運動の現象的側面や、音の発生/伝播を生み出す空間との関係性に焦点を当て、港や工業といった豊富な振動現象が観察されやすい場所に注目して長年フィールド録音を続けてきた。振動は彼によっていくつかのパターンに分類されており、例えばシリーズ1作目に収録されている音源は「定常波」と呼ばれる種類のもので、それは複数の音波が反射と干渉を繰り返して、ある特定のエリアで停滞している音のことを指している。どれも音が持続しているという点では共通しているものの、振動源の素材や性質によって、それぞれの音色や周波数、倍音の具合は千差万別で、異なる背景を備えた音たちは、どれもハードコアでミニマルな様相ながら味わい深い響きをなしている。

彼の作品は、一聴してそれだけでは何の音なのかよく分からない。それは人間の可聴域外の音であったり、空気ではなく固体を媒質とした音であったり、つまり日常で私たちが知覚できない、あるいは意識に留まることのない音が主な対象だからであり、録音された音源そのものに、視覚的イメージや追体験性を喚起させる要素は含まれていないからだ。その点でも、一般的なフィールドレコーディング作品にみられるようなサイトスペシフィックな要素は、角田の音作品には表面上からは切り取られてしまっている。それは作品のコンテクスト(録音の場所や状況、振動源、FMシンセのモジュレータのような、振動に影響する外部の振動音など)を理解するというプロセスのなかで立ち上がってくるものなのかもしれない。自分の場合は曲ごとの説明を読み、それぞれの文脈を捉えることでまったく異なる聞こえ方へと変わった。

フィールドレコーディング作品はその形式の性質上、現実世界で生じて録音された音を「聴く」行為とは、つまり一体なにを意味するのか、という疑問を聴き手に問い続ける(作家の意図からも離れて)わけだが、角田の作品からは、音を通した対象物の「自律性」(ハーマンの言葉を借りるなら)、意味作用に絡み取られる前の事物の「存在」そのものが強く感じられる。モーターやエンジンの駆動、配管の内部での共鳴、フェンスの震え、etc…。機能という契約から一時的に逃れて再び現れたそれらには、こちらを誘引するような穏やかならぬ気配とぬくもりが感じ取れるだろう。ものたちの間に交わされている接触や干渉、総じて「起こる」≒「在る」ことを浮かび上がらせるという角田の主題は、音のオントロジーを探る実践でもあるともいえる。

ちなみに、本人が自身の作品や録音について、いくつかまとめて書いてあるのをmixiのコミュニティで見つけた。
どれも面白い内容なので興味のある人はチェックを。

https://mixi.jp/list_bbs.pl?id=715447&type=bbs

Sisso – Mateso

高校生のときの自分にとって、音楽の全ての基準は「速さ」にかかっていた。毎日謎にわき出てくるフラストレーションや虚無の感情をもろとも打ち消してくれるハードコアパンクは救世主的な存在で、速度と音量とエネルギーのマキシマムを追求する美学は、参照する見識や価値観を持ち合わせていない当時の自分にとって、極めて単純明快な存在でリアリティーにあふれており、信頼を置いて身を委ねることができた。速さに対してそんな一端のエモい感情を抱いていた自分だったが、ウガンダのNyege Nyege TapesからリリースされたSisso a.k.a モハメド・ハムザ・アレーのデビュー作『Mateso』はかつての自らの感傷を一蹴してくれるくらい、尋常じゃないレベルの速さだった。同レーベルからリリースされ昨年話題を集めた『Sounds of Sisso』は、「Singeli」と呼ばれるタンザニア発祥の新しいダンスミュージックのアーティスト達をフィーチャーしたコンピレーションアルバムだったが、Sissoは若くして(現在25歳)そのシーンを担っている中核人物の一人。Singeli自体はガバやハッピーハードコアに比較されるが、平均BPM200以上の圧倒的なテンポに加え、低音よりも高音を強調して生まれるチープで意味不明なドライブ感と、ローカルな音楽エッセンスを多分に取り入れつつ、それらをハイピッチにして繰り返す催眠的ループ(Carl Stoneを彷彿とさせる?)を掛け合わせたSissoのサウンドは、西欧産のクラブミュージックとは全く異なったリズムと狂気を放っている。これはアフリカという土地固有の時間史観や、鋭敏なリズム感性から由来しているのか、それとも切迫する現実社会への何らかのアンチテーゼを示しているのか…。 その理由が何にせよ、こちらのイマジネーションを差し挟む余地もないほどに、彼の音楽は確かな強度を持って、底抜けの明るさと美しさと速さを呈している。

Ragnar Grippe – Symphonic Songs

70年代中期から現在にいたるまで精力的に活動を続けてきたスウェーデン出身の電子音楽家、ラグナー・グリッペの1980年の貴重な未発表音源集が〈Dais records〉より2枚組のLPでリリース。アートワークを手がけるのはAscetic Houseの主宰者でもあるJS Aurelius。クラシック音楽の演奏者としてのキャリアを若くして諦めたラグナーは、当時彼にとっては未知の領域であった電子音楽を追求するために、フランスのGroupe de Recherches Musicale(GRM)で本格的に作曲を学び、その後大学での研究を続けながら、実験音楽の分野で着実に才能を開眼させていく。この『Symphonic Songs』はコンテンポラリー・ダンスの振付師であるスーザン・バージュからの依頼を受け、彼女の新作公演の劇伴のために用意された作品。音楽史に名を残した77年の怪デビュー作『Sand』が、もともと交流のあったリュック・フェラーリが個人運営するALMスタジオで録音されたのに対し、今作はミュージックコンクレート/エレクトロアコースティック界ではGRMやIRCAMと肩を並べて知られる、ラグナーにとっては馴染みの深い地元ストックホルムのElektronmusikstudion(EMS)で録音された。ブックラシンセイザーやマルチトラックレコーダーをはじめ、潤沢な機材が揃ったEMSスタジオの環境のおかげで、前作には見られない新たな挑戦が色々試みられている。「Sand」のコンクレートかつミニマルなテクスチャー(前述したスタジオでの機材の制約が翻って、こういう独自の音楽性が編み出されたのか)は消失し、今作では異なるレイヤー同士を重ね合わせながら、ブックラによるサウンド実験を心ゆくまで楽しんでいる。全体で80分を超える長尺で、劇場面に沿った音のパートがどんどん繋がれていくという構成のため、特に一貫したテーマ性は見られないのだが、電子変調された男女の声音や突発的な金属音の挿入が緊張感を持続させながら、ぬめりを帯びた音の弛緩と収縮が繰り返され、独特の飽和した感覚がなんとも居心地良い。ちなみに実験度全開のこの作品の翌年に発表された『Lost Secrets』では一転して鮮やかなニューウェーブ色のバンドサウンドを披露していて、現在の視点からは全く不可解な、クロスオーバーともいえないこういう音楽性の脈絡のなさは、ある種テクノロジーがジャンルを先行していた時代の特権性を示すものでもあって面白い。

竹間淳 – Les Archives

以前RVNG Intl.のオーナーのマットが来日していた時、今度サブレーベルから日本のレアなアヴァンギャルド作品を再発するよと彼から話を聞き、それから約1年半リリースを心待ちにしていた作品。
アラブ古典音楽の演奏家として現在活動し、ボンバーマンなど数々のサウンドトラックを手掛けた作曲家としても知られる竹間淳が1984年にソロ名義で発表したLP『Divertimento』。この『Divertimento』の収録曲に新たに3曲を追加し、アートワークを再編したリワーク作品『Les Archives』が〈Freedom To Spend〉からリリースされた。デジタルアーカイブ化が隅々まで浸透した現在でも、得体の知れない作品をサルヴェージしてくるここのレーベルの姿勢と野心には毎度感服させられるが、これまでのカタログのなかでおそらく最も知名度が低く(ネット上の情報の寡少さから察するに、オリジナル盤の存在はこれまでほぼ共有されてなかったはず) 、また音楽性としても異端な作品だと思う。ビートの機械的な反復とポリメトリックなフレーズを軸に、ポップスやフュージョン、ニューウェーブやインダストリアル、プロトテクノといった様々なジャンルを技巧的に組み直した、クロスオーバーな様式を一見装いつつ、同時にそれぞれの音に対して付随する情感やイメージがまるで疎外されているというか、妙に矛盾した響きが全体に通底している。それは例えるなら、大音量で鳴り響いているが「激しく」はないメタルミュージック、あるいは静謐な音色だが「静けさ」が立ち込めていないアンビエントミュージックのようで、「〜的」な恣意の意味作用が無効化された音がそのまま即物化し、その都度コンテクストが独自で生み出されていくようなもの、といったらよいか。海外メディアのインタビューを通して、彼女は自らの作品を「絶対音楽」と形容していて、それは近代の標題音楽に対するアンチテーゼ、つまり記号の還元化を拒み、音の形式や秩序そのものが存在定義を成す音楽を意味するのだが、いくばくかの時間が経過した現代において、フォーマリズムから端を発した彼女の音楽は、もはやそのような二元論的な対立を軽々と跳躍してしまいフラグメンタルな形を増強させ、肯非の入り混じったフェティッシュな戯れと誘惑を成しているように聴こえてくる。そのいびつな「遊戯性」に関しては、収録2曲目のタイトルが示す「Pataphysique」(パタフィジック)という、詩人のアルフレッド・ジャリが作り上げた造語とその概念にも大いに通じているのだが、それに関しては、オリジナル盤に同封されているライナーノーツの素晴らしい解説を一部抜粋してここに載せておく。
「ジャリが、この素敵な造語をもって、とりすました「形而上学」なるものを嘲笑したように、竹間淳も、音楽の分野での、頑迷なアカデミズムと軽薄なポピュラー・ミュージックという両極ファシズムの恐るべき支配を、研ぎ澄まされた聖なる悪意を持って、徹底的に茶化しているのだ。(中略)このモダン・ミュージックのジャリは、自分の音楽だけにどっぷりと浸り込んでいるのでなく、透徹したイロニーというスタンスをもって、音の「PHYSIQUE」を超えていく。(中略)あたかも蝶のような「パタ」の姿勢、つまり「PHYSIQUE」の強固なクロチュールからほんの心持ち身をずらすことで、彼女は幾重にも張り巡らされた罠の中から逃れさっているのだ。」
(ちなみに今回『Les Archives』の文を担当したのはアーティストのナタリア・パンツァー。彼女の丁寧な言葉遣いもとても素敵で、こういう自由なセレクションも含めて良いレーベルだな..としみじみ思ってしまった)

SAM ASHLEY & WERNER DURAND – I’d Rather Be Lucky Than Good

数年前にジョン・C・リリーの本を読んだのがきっかけで、興味本位でアイソレーションタンクを体験しに行ったことがある。場所はたしか白金台の普通のマンションの一室で、自分より先に予約をしていた連れから、担当の人の眼の瞳孔が終始開いているのが恐ろしくて、説明を受けたところで適当な理由をつけて帰ってしまいました、と連絡があったので、若干の警戒心を抱きつつ施設を訪れたのだが、その瞳孔の開いた人がLSDについて熱く語る以外は特に何もなく、2時間ばかりタンクを堪能した。外部からの刺激が完全にシャットアウトされた状況で、高濃度の塩水に浸かって何もせず体を浮かべるのだが、期待していたような深い瞑想状態に突入したり、スピってありがたい声が聞こえてくることは最後まで起きず、ただ肉体の表面と塩水の境界線が曖昧になってきたころから変化が生じはじめ、心臓音や呼吸の鼻音や、聞いたことのない内臓の動く音が徐々に増幅されて聞こえるようになり、内側の身体活動の様子が音でライブ中継されているみたいだった。あとは時間が進むのが異常に遅く感じるせいか、時間の流れが対象化されていったのも覚えている。タンクで体験できる内容は人によって千差万別らしいが、個人的には、身体にくっついた意識をそこから剥がして何が起きるのかをモニターする、ひとつの臨床実験みたいだった。
アメリカの作曲家/サウンドアーティストのサム・アシュリーは、ヴォーカリストとしてロバート・アシュリーのオペラ作品に長年にわたって参加し、またその他のLovely Music周辺の実験音楽家達と様々なコラボレーションを重ねてきた経歴を持ちながら、生涯にわたって独自のシャーマニズムを追求し続けてきた神秘主義者でもあり、ソロ活動では自身の思想や見識を反映させたユニークな音響作品を発表してきた。彼に関する文献がネット上ではほぼ見当たらないため、その思想の詳細を伺うことはできないのだが、ルクレシア・ダルトとの興味深い対談インタビューによると、アシュリーは、幻覚や催眠状態、シンクロニシティといった人間の身体に生じるトランス現象を知覚拡張の手がかりとして重要視する一方で、古典的な宗教的信仰の価値観やそれにまつわるイメージ(光や神からの啓示など)をすべて否定している。到達不可能なエリアをあらかじめ設定し、そこに位置する絶対的な他者を崇拝することは、自らの超越の可能性を放棄し、単なる自己満足的な行為に留まってしまう。代替者としての絶対的存在を据え置くのではなく、自身が主体となる以外に外部との関係を更新することはできない、とリアリスティックかつラディカルな視点から神秘的な現象を現代的に捉え直し、その姿勢を表現行為上で実践してきた。
〈Unseen Worlds〉からリリースされた、サム・アシュリーとウァーナー・ドゥーランド共作によるスポークンワード作品『I’d Rather Be Lucky Than Good』でアシュリーは、ドゥーランドによる民族音とドローンを織り交ぜた不穏なサウンドを背景に、世界中の不可思議な物語や寓話を紡いでいく。マニフェスト・デスティニーやカニバリズム、架空の生物に遭遇した人物の話など、大小様々な歴史上の悲劇や出来事を、時間と空間を超えて自在に結び合せ、人間という種に本来備わる脆弱性、脆弱であるがゆえに余地として残された超越世界の可能性を、音とともに浮かび上がらせる。その言葉には、変性状態に似たアンビエンスが立ち込めている。眠りながらにして目覚めているような催眠的な気配のなか、しかしアシュリーの言葉はあるひとつの明瞭なメッセージを私たちに暗示している、「この世界が存在するためには、関係を形成しようとする私達の意思と指向性がなくてはならない」と。
ちなみにジャケットデザインを手がけたのはベルリン在住のSam Lubicz。ここ最近のアートワークは、病理めいたコラージュに拍車がかかっていて最高です。

David Wojnarowicz & Ben Neill – ITSOFOMO: In The Shadow of Forward Motion

「再発」というワードにはなぜか妙なエロティシズムを覚える。入手困難な音源のアーカイブ化という文化慈善的な側面はいちど脇に置いて、それは、既存の文脈に包摂されずに逸脱と変容を繰り返していく、なにか巨大な音楽集合体の渦めきにあえて触れ、今までの経験で図らずも重ねてきた、期待やイメージのようなものがその都度容易に覆されていく、といった自身のマゾ的行為が現前化するからなのかもしれない。過去作品の発掘は音楽の分野に限った出来事ではないけれど、創作意欲のまま制作に没頭し、欠片を遺していった音楽家たちが偶然世界中に多く存在し、無数のレーベルがそれをサルベージしてくれるおかげで、現行の作品にはない倒錯的めいた享楽をそこに見出しては、不思議な喜びを味わうことができる(少なくとも自分の場合)。
国内でも海外でもほとんど話題に上っていないのだが、先月LPで再発された『ITSOFOMO-In the Shadow of Forward Motion』も、どのような文脈からもこぼれ落ちてしまうような、得体のしれなさと強度にあふれた作品だった。これは芸術家のデイヴィッド・ヴォイナロヴィチと、作曲家のベン・ネイルのコラボレーションによるパフォーマンス『In the Shadow of Foward Motion』のサウンドトラック集で、1989年にニューヨークのザ・キッチンで初めて上演され、その後何度かアメリカ国内や海外で披露されている。ヴォイナロヴィチは映像や写真、ペインティング、音楽、インスタレーション、パフォーマンスと多岐に及ぶ分野で活躍したアーティストで、過酷な幼少時代と同性愛者としての出自を作品内に取り込んだ作風で知られ、HIIVを発症したのち37歳で生涯を終えるまで、アクティヴィストとしても活動を続けた。今年の夏に、ニューヨークで彼の大規模な回顧展が開かれ、今回の『ITSOFOMO』が約25年ぶりに再び公の場で披露されるという機会があったようだ。
電子処理化された管楽器とパーカッション、ヴォイナロヴィチの唸りにも近い低い声によって読み上げられるテキスト・スピーチ、異なる映像が映し出された4つのヴィデオクリップとスクリーン、数人のダンサー、といった複合的な要素が混交しながら、一定の速度に従ってメディアのアマルガムは加速を続けていく。作品のテーマとなる「アクセレレーション」(≒「速度」)は、思想家のポール・ヴィリリオが唱えた「ドロモロジー」に端を発したもので、前進へと駆り立てる近代資本主義以降の原理と、ヴォイナロヴィチの内省的な感情の言葉が重なりながらフィードバックし、「社会」と「個人」の狭間に生じたエネルギーが、力強い身体的な喚起を促していく。減衰することのない速度に飲み込まれ、はじめは戸惑いを覚えていた私たちもいつのまにか一要素として構成され、狂気じみた前進運動に進んで加担するようになり、やがてその場に留まることを忘れてしまう。その共犯関係をヴォイナロヴィチによって暴かれたのち、なおも流れに身を任せるか、逃れようと踠くのかは、それぞれに委ねられている。

Lukas Grundmann – timestretched-ACID

ベルリンに拠点を置くサウンドアーティスト/DJのLukas Grundmanによる、Oqkoからの新作。インスタレーションの発表やワークショップの開催といった活動が中心で、まとまったソロ名義の音源をリリースしたことはこれまで多分なかったはず。2014年にアーティストのMonika Dorniakとコラボレーションした『Emological Symphony』は、パフォーマンス中のダンサーの心拍数や呼吸速度、体温などを測定し、そのスコアを音のパラメーターに変換するという試みで、異なるメディウムの相互関係性をリアルタイムに外在化させるという興味深い内容でした。今回の『timestretched-ACID』は、アシッド・ハウスを定義づけたベースシンセサイザーのTB-303にフォーカスして、ダンスミュージックにおけるテクスチャーの考察と脱構築をコンセプトにした作品。IRCAM Labのタイムストレッチソフトを用いて、あの独特な太身のベース音を引き伸ばしながら、ピッチとリズムを自在にずらしていきます。勿論ソフトウェアの影響はかなりありますが、フレーズを消失して逆にうねりが強調されたTB-303は、ぬめりがあって湿気多分、そしてきらびやか。星空の下で沼を眺めているような気持ちになります。アシッド・ハウスという文脈には完全に相応せず、どちらかというと60年期のGRMの作家を彷彿とさせる音響物の仕上がり。ジップ付のビニールにSDカードというフィジカル形態も中々渋みがあって良いです。

Sean McCann – Saccharine Scores

Sean McCannの新作『Saccharine Scores』が、自身が運営するレーベルRecitalよりリリース。
ストックホルムのアート施設フィルキンゲンで演奏された表題曲のライブ音源ほか、新/既存の全4曲が収録されています。
またCDに付随するブックレットには、それぞれの曲にまつわるリーディングテキストやスコア、本人による解説やイラスト、演奏写真などがたっぷり掲載されており、彼のコンポジションをより深く知ることができる内容です。
約26分の長さから成る新曲『Saccharine Scores』は、実験音楽家John Chantlerが主催するフェスティバルでのパフォーマンスのために作曲されたもので、管楽器やコントラバス、ピアノなどのパートを含む10人の演奏者によってテキストのリーディングと楽器の演奏が行われながら、両者が混合していくという構成です。全体を統一する定まったリズムはなく、プレイヤーが与えられたテキストをそれぞれが好きなタイミングで読みあげ、次に楽器の演奏に移行し、またテキストの読みあげに戻る、という流れを繰り返し、その比重がテキストから演奏へと徐々に変移していくように指示されています。
休止や空間的な余白を強調しつつ、非常にゆったりとした速度で描かれる各々の音のラインは、抽象と具体の狭間を行きかうようにして鮮やかな色彩を帯び、そしてその色彩はまた次の色彩へとって代わられていきます。そんな様々な色が混濁しながら形成される全体のハーモニクスは、束ねられた「持続」を稼働として、絶えず変化を続け、また偶発的な生成を続けていきます。「動く」ことによってはからずも「結ばれていく」、そんな状態としての美しさが、この曲には意図されずに現れていると思います。レコーディング音源版もぜひ出してほしい。

Jeff Witscher – Approximately 1,000 Beers

昨年には来日も果たし、素晴らしいパフォーマンスを披露してくれた、ポートランド在住の音楽家ジェフ・ウィッチャーによる新作『Approximately 1,000 Beers』は、本人による作品紹介の言葉を借りるなら《「脱構築」したカントリー・ミュージック》。音声合成エンジンを全面的に用いた本作は、ジェネレーティブ・システムと土地古来的/伝統的なポップミュージックの邂逅という、一見この世の終わりを予感させるかのような印象を与えるが、あたえられた言葉を拾っていくと、ささやかな日常の一端と、記号で形成された閉鎖的空間の、奇妙な繋がり合いが見つけられる。いくつにもねじ曲がって結ばれた関係は「断続」ではなく、「接近」という純粋な愛の形、彼らしいユーモアとふんだんのサーカズムが、対置しあう両者を「自然なほど」不自然にリンクさせていく。数十年後、Arthur Russellの『Love is Overtaking Me』や、今作のクレジットにも記載されている現代的カントリー・ミュージシャンのReginald Wranglerと並べて、この作品が「ポスト・カントリー・ミュージック」として回顧されていれば素直に嬉しく思うし、また地獄だとも思う。

Haron – Wandelaar

Wichelroedeのオーナーが新しく始動したレーベル〈Queeste〉より、そのリリース第1作となったオランダ在住Haronの『Wandelaar』。〈BAAK〉からのいくつかのリリースで知られるように、アムスのダンスミュージックシーンで結構名を知られている彼ですが、今作では持ち味の脱力系テクノ路線から離れ、グランドピアノを軸に置いたクラシカル/アンビエントな作風に。タイトルの『Wandelaar』(≒Walker, Hiker)という言葉が示すように、音の移動と、その表情や様子の変化を楽しむ作品となっています。深いレゾナンスを漂わせつつ音たちが消えゆく瞬間、視界が開けるかのように現れる清澄な空気感は、美しい瞬間のひとつ。個人的には、なぜか数年前に飛騨高山近くの高原を訪れた記憶が思い出され、あの美味い空気や、静動が収斂する光景と重なり合いました。今回のような音楽性の大きな転回は彼にとって過去との分断という訳ではなくきっと延長線上に繋がっていて、それは音に付いていったり、寄り添ったり、軌跡を辿ったりする行為自体を「音楽」と捉えているように思えるから。ダンスフロアを離れ、喧騒から離れた草原に移ったHaronがその鋭敏で繊細な感覚を使って、次はどんな音の「場所」に移動するのか、楽しみに待ちたいと思います。

Jan Jelinek – Zwischen

ジョン・ケージ、スラヴォイ・ジジェク、レディー・ガガ、ヨーゼフ・ボイス、シュトックハウゼン、マルクス・エルンストといった、見慣れた思想家や芸術家、文化人の名前と共に、それぞれに与えられた、質問のような疑問文。作名には決してふさわしくない固有名詞と、長々とした文章の組み合わせがタイトルとして羅列する、ヤン・イェリネックの新作『Zwischen』は、ドイツの公共ラジオ局のために制作された音源集であり、同局で行われたインタビューの回答を素材として用いたコラージュ作品。ただし、抜粋された言葉は全て、正確にいえば「言葉」ではなく、タイトル『Zwischen』の訳に当たる「between」≒「間」、つまり言葉と言葉のつなぎ目となる、話し手の意図しない余白の音声部分である。通常の会話において、直接的な意味以外に、パラ言語と呼ばれるアクセントや身振り、イントネーションといった周辺的側面を含めて、話し手は言葉を伝達する。このアルバムではその中でも、ポーズ、しかもそれがスムーズに行われ損なった箇所だけがフォーカスされており、例えば言葉の頭に着く無駄な音(「あ〜」のような)や吃音、ブレス、口腔内の摩擦音、あるいは伸ばされた語尾、といった二次的な伝達レベルにおけるエラーが切り取られては、執拗に繰り返し、変調されている。会話において捨象される無駄な発音が、一つのサウンドという単位で音楽内に用いられたとき、現れるのは「言葉の残滓」とも言うべき疵や綻びが彷徨する、異様なまでに不気味で艶かしい音響空間。もはやそこでは固有性は完全に失われ、所有者を離れ、ヴェールを剥ぎ取られた無数の塊が、ぽっかりと宙に浮かぶ。傑作『Loop-Finding-Jazz-Records』で見られる卓越したサンプリングの手法を、イェリネックは今作でさらに細かく突き詰めて脱構築し、入念に練られたミュージック・コンクレートへと仕上げた。

Justin Meyers – Struggle Artist

ミネアポリス在住のサウンドアーティスト/映像作家であり、自身のレーベルSympathy Limitedを主宰するジャスティン・メイヤースによる新作がShelter Pressからリリース。死を覚悟するほどの大病を患った後、慢性的な身体的苦痛や治療との苦闘をモチーフに制作された前作「Negative Space (1981-2014)」が、ある時期における彼自身の心理的な投影だとすれば、「継続する日常と、限られた時間の中で、アートを作り続ける」事への「失意と疑問」を、特有の知性とシニシズムをたっぷりと効かせながら、肯定でも否定でもなく、赤裸々な独白として提示したのが、今作「Struggle Artist」だろう。唐突なカットアップや休止、不自然にフォーカスされた生活音、グラニュラーシンセシスを基調とした間延びした音色を単なる手法として「実験音楽」的だと形容してしまうのは容易だが、全体に覚えるその「もどかしさ」が、個人個人の同居する日常と現実の「割り切れなさ」と重なり合った途端、強烈なリアリズムとなって私たちに切迫する。インターネットの普及以前・以降に関わらず、「エクスペリメンタル・ミュージック」と称される類の音楽は、素晴らしい才能と熱量を持った個人達によって世界中で絶え間なく生み出され、私達はその恩恵を享受することができるが、そこに作り手の心理や思考を汲み取ることは必ずしも必要とされないし、ましてや日々大量にアップされる音源群を前にしては、不問であるかのようにも思える。だがこのアルバムのタイトルに与えられた「アーティストとしての闘い」の切実な意味を、私達は時折立ち止まって考える必要がある。

アルプ – アルプの音楽会 音の顔と性格

木下美紗都と石塚周太による音楽プロジェクトの、2016年に横浜のSTスポットで行われた公演『アルプの音楽会 音の顔と性格』の記録音源。音楽サイトのototoyよりハイレゾ・フォーマットで配信されている。「ふだんはなかなか聞こえるようにはならない音や考え」を可視/聴化し、「そのように聞こえるという形をまさにその形にしている条件や状態」である、音の「たくさんの顔」を探るという説明が付属のブックレットに記されているが、ここではまず音が現象として成立するための様々な「動詞」(叩く、触れる、撫でる、擦れる、揺れる、反響する、弾ける、etc)が、音と等価なレベルで現前化している。物理法則という人間の干渉不可能なルールに基づきながらも、音はひとつの動きで驚くほど表情を変えては、一箇所に留まることはできない。そうしたアンビバレントな特性を熟知しつつ操作しながら、今作で彼らは身体と音の接点を生み出そうとしているように思う。残念ながら公演には足を運べなかったので、生の空間がどんなものであったか体験できなかったのが悔しい。音源には公演のダイジェスト映像が付いてきます。

https://ototoy.jp/_/default/p/118745