DIS Magazineといえば、言わずと知れたニューヨークをベースに活動するオンラインメディア。そのメンバーはLauren Boyle、Solomon Chase、Marco Roso、David Toroの4名で、そのほかにもゲストとして多くの批評家やキュレーター、写真家、アートディレクターが記事や作品を提供。ポストインターネットのみならず、オンラインの文化をとりまくさまざま事象や実践に多角的な視点から焦点を当て、良質で膨大な量のコンテンツにより独自の文化圏を作り出してきました。
DIS Magazineの活動は拡張し続けており、さまざまなアーティストが作り出したイメージをストックフォトとして提供する「DISimages」や、アートブロジェクトとして商品を作り出す実験「DISown」など、いろいろな形でメディア以外のプロジェクトも公開してきました。単に情報を伝えるだけではなく、オンライン上で行い得るありとあらゆる実験や実践を発表し、その計り知れない影響力は世界中に伝播し続けています。
その進化し続けているDIS Magazineが次のベルリン・ビエンナーレのキュレーターを務めると聞いたときには、とても驚きました。選考委員会は2014年8月に、DIS Magazineを第9回ベルリン・ビエンナーレのキュレーションチームとして推薦することを、全会一致で決めたといいます。若く新しいアートの潮流を紹介してきたベルリン・ビエンナーレが、彼らを選んだという事実は理解出来る一方、「コンテンポラリーアート」という枠組みにはたして彼らがマッチするのか未知数の部分もあったからです。もちろんそうした懸念は承知の上だったでしょうから、こうしたリスクを選んだという事実自体が、ベルリン・ビエンナーレの提案ということに違いありません。
DIS Magazineがこれまで提案してきてきたオンライン上のラディカルな実践と実験が、はたしてどのように実空間へと移植されているのでしょうか。そしてまた彼らの今現在の関心やテーマは、どのような時間と空間にあるのでしょうか。それらについて実際に触れて確かめたい、そう思って筆者はベルリンへと飛ぶことにしたのです。
扮装した現在
さて、実はベルリンで展示を見ながらいろいろなことを考えていると、どうやら次号となるMASSAGE11のテーマが生まれてきたのではないかという気がしてきたのです。彼らが考えていることについて、今ここで、しかもまとまった形で、どうしても掘り下げておく必要があると思ったからです。
だから展示の具体的な紹介に行く前に、先に彼らが提案しているテーマについて語っておかなくてはなりません。けれどもこれがすこしやっかいなのです。だから本原稿はそこに焦点を絞ってみたいと思います。彼らが掲げたテーマは次のようなものでした。
「The Present in Drag」
Dragは扮装を意味するので、このコピーは「扮装した現在」というような意味になります。展示のテーマにしては、すこし意味がわかりにくいですね。彼らはカタログに掲載されている宣言文でこのように語るところから始めます。
テーマとして、「現在」はちょっと絶望的な響きがある。ものすごい二日酔いをなんとか吹き飛ばそうとする、スピニングのインストラクターみたいだ。展覧会はますますTEDトークのような、自信満々劇場になりつつある。パニック映画やホラー映画とさほど変わらない快楽原則がここでは働いている。逆に会場のスピーカーで増幅される「ビッグデータ」、「フィルターバブル」、「ポスト・インターネット」「人類世」とといったフレーズを聞くと、人々は怯えて自分のトートバッグをよりしっかりと握りしめる。
ようこそ、ポスト現代へ。もはや未来は、おなじみの、予測可能な、不変な、過去のように思えるものの、現在は不確実な将来と共に取り残されている。ドナルド・トランプは大統領になるだろうか?小麦は有毒か?イラクは国だろうか?フランスは民主主義?シャキーラが好き?うつ病を患っている?
わたしたちは戦時下にいる?現在こそが、未知で、予測不可能で、了解不可能な世界なのだ。現在は、いくつものフィクションが繰り返し語られることにより捏造されている。今日の世界に、リアルなものなんて何もない。フィクションに投資するほうが、現実に賭けるよりもお得だ。つまりSFからファンタジーへとジャンルを移行する現実こそが、刺激的で、オープンで、誰もが参加できる非二進法的な世界を作る。私たちが動員した、スーパーグループのようなアーティストやコラボレーターたちは、この不確実性によって疲弊するのではなく、むしろ活性化されている。このような現状からは誰もがオルタナティブな現在を構築し、失墜した物語を再構成し、絶え間ない流れから意味を解読することができる。
彼らはここで「SFからファンタジーへとジャンルを移行する現実」を支持すると述べています。これは「未来」ではなく「現在」に、価値を賭け変えることを意味しています。この時間に関する見方こそ、今回のキュレーションの肝なのです。私たちが生きる「現在」は、それ自体フィクションにほかならない。これこそ彼らが言うところの「扮装(in Drag)」した「現在(Present)」というテーマの意味するものであると思います。
彼らの視点が面白いのは、現実を批判するでもなく、暴くのでもなく、その姿を生のまま肯定しようとしている部分です。まるで青春を謳歌するかのように、彼らは自分たちの文化を強力な力で出現させようとしているように見えます。この虚構の創出力こそ、彼らが言うところのファンタジーの力なのかもしれません。その力は芸術のみならず、この資本主義の根底にも同じように備わっています。ときにはそれは想像力を飛翔させもしますし、またときには必要のない商品を購入させたりもします。けれども力そのものは善でも、悪でもありません。
ただこのようなあたりまえの現在の姿が、どのように「コンテンポラリーアート」と呼ばれる枠組みに位置付けられるか、実のところ自分にはまったくわかりません。
しかしながら彼らが行おうとしている、この謎めいた提起について応答する必要があると私は考えています。いまここに生きる者として、このパラドキシカルな現在について、私たちは一度語っておかねばならないのです。「現在」という現実と、その虚構としての力についてを。
さて、次回はベルリンという町に繰り広げられた展示のアウトラインについて書いてみたいと思っています。