MASSAGE MONTHLY REVIEW – 3
MASSAGE&ゲストで、3月の音楽リリースをふり返る。
現行リリースの作品の広大な大海原から、3月に出会った素晴らしいリリースをご紹介。
現行リリースの作品の広大な大海原から、3月に出会った素晴らしいリリースをご紹介。
ヴィジュアル&サウンドアーティストのMartins Rokisのプロジェクト、N1Lのミックステープの第二弾。波のように打ち寄せる混沌としたハーモニクスにより、想像力を刺激する未視感にあふれた世界像が描き出される豪快な電子音響作品。ダンスミュージックのスタイルを基底に敷きながら、その奥でさまざまな文脈が交接させられていく。そのレフトフィールドな感性が描く世界観は未来的だが、どこか叙情的な暖かみもたたえている。さまざまに織りなされる多様なサウンドはゆらぎやランダムネスによってより抽象的な形をなし、さらにその複雑性の中に自らを溶解させて、より自然の形に近くなっていく。そのテクスチャーへの複雑性の追求は、近年のモードと言っても良いだろう。都市文化の混沌とした人工の中に生成するその複雑性は、わたしたちにとって住心地の良いヴァーチャルな自然である。そこには 野性的でプリミティブなレイブによる高揚も、潜在的に胸に響く直感的で肉体的な快楽も、心休まる静けさすら存在している。
Midori Hiranoは、ドイツはベルリン在住の音楽家/コンポーザー/プロデューサー。別名義でMimiCofとしても活動している。「Mirrors in Mirrors」は、オーストラリアはメルボルンを拠点とするレーベル〈Daisart〉より、以前本誌のMONTHLY REVIEWで取り上げたNico Niquo (https://themassage.jp/massage-monthly-review-9/)に次ぐ2作目のアルバムとしてリリースされた。これまで、ピアノや弦楽器、声、フィールドワークなど多彩な音と電子音を構造的に作り上げた作品や、MimiCofでは電子音楽を中心とした作品をリリースし、ポスト・モダン、アンビエント、エレクトロニカの新しいかたちを体現している。本作はピアノを中心とし、電子音が光を紡ぎ模様を織りなすアンビエントな世界観が美しい作品。まるで息づかいが聞こえそうなテクスチャーで、力強くもやさしいピアノの旋律と、光のように繊細で時に鋭い電子音や丁寧で美しいシンセサイザーが凛とした音響を作り出す。タイトル「Mirrors in Mirrors」のように、合わせ鏡に映る自分を見た時に覚えた、限定された視覚空間に存在する色や光のプリズムによる奇妙で美しい情景を、新鮮でどこかノスタルジックに描いた作品。
「京極流箏曲 新春譜」は、彫刻家/京極流2代目宗家 筝曲者/ハープ奏者の雨田光平が、昭和30年頃に青木繁が描いた神々のイメージを創作源に作曲したもの。本作品は、昭和45年に自主制作LPのために琴、笙、ハープを含めた6名で合奏・歌唱して収録したものと、日本古来の美や伝統芸能・民族芸能を電子音楽に昇華する音楽家SUGAI KENによるリワークが収録されており、大阪のレーベル〈EM Records〉よりリリースされた。かすかな心覚えをたどって聴くと、ハープと箏の音色が生み出す不思議な質感の倍音や、雅楽風の調弦や奏法を超えた古の明るく美しい世界観に心が洗われる。
一方、SUGAI KENのリワークは、暗くうっすら光が入る空間でどんどん物語が展開されていく。静けさ中に広がるけだるいリズム、縦横無尽に走る電子音や和の気配を纏ったフィールドレコーディングの群れたちが現代に「新春譜」を紐解き、聴こえないはずの演者同志の間合いや音の余白を体現している。終盤のモールス信号にはどんな意味が込められているのだろうか。
2018年3月25日にコンピレーションアルバム『Megadrive』でスタートしたレーベル〈Local VIsions〉。ちょうど1年後の今年3月25日に再びコンピレーションアルバム『Oneironaut』がリリースされた。参加アーティストは17組から21組に増え、これがそのまま昨年1年間のレーベルの広がりを表わしているといえるだろう。これまでに作品をリリースしたアーティストから、これからのリリースを期待させるアーティストまで、その幅はひとつのジャンルには収まらないほどに広い。それでいて、やはり1枚のアルバムとしてのカラーがある。アルバムタイトルの“oneironaut”は「これは夢だと自覚しつつ夢の中を旅する人」を意味する。リアルワールドへとどんどん広がっていきながらも、どこかそれもすべてインターネットという夢の中だとわかっているような〈Local Visions〉がoneironautそのものなのかもしれない。彼らと一緒なら、私たちもoneironautになって夢の中で遊ぶことができる。そして夢と現実は溶け合って、徐々にあいまいになり、その境界線がなくなる……そんな日もそのうちにくるのだろう。
モントリオールを拠点とするフランス人ミュージシャンJoni Void。哲学者メルロ・ポンティなどが知覚を主題とした現象学の思考を音的に解釈して、マイクロサンプリングや偶然を用いて試みた作曲を行なっている。音楽を聴くということ自体すでに聴覚的には受身であるのだが、このアルバムを聴くたび印象を忘れていることに気づき、一つの複雑なストーリーに入り混むように聴きなれない音を耳にしている。シュールレアリスムの系譜も色濃いアートワークは音とも親和性を感じる。
アンビエント・ミュージックにおいて「環境」がどのようにとらえられているのかという視点は、その分析における一つの有効な視点である。特定の場所や環境についてその姿を描くようなものであったり,異次元・異空間のような新たな環境を作り、提示するものであったり「環境」をどのようにとらえるかには様々なアプローチがある。広島を拠点とする作家であるMeitei(冥丁)による最新作がリリースされた。彼のアンビエント・ミュージックの作家としてのアプローチ,つまり「環境」を捉える際の彼の視点は日本という「環境」を、過去を参照しながら(つまり時間という縦軸を基礎として)描こうとするものだ。
一聴すれば、それ自体は柔らかなアンビエントと形容されるだろう。音は全体を通して一貫している。プレスリリースにはJ Dillaの名も出ているように、ゆったりとしたタメのあるリズムがループしていく様はビート・ミュージックとして魅力をもち、出たり入ったりをくり返す様々な音や水の音などが聴き手のテンションを高く上げすぎることなく、一定の熱量を保っていく。チルアウトにも最適な、夜のさざなみのような美しさがある。
このような音像はMeiteiが取り上げる今作のテーマと結び付くことでさらに深みをましていく。彼は「失われた日本の空気」に注目したと紹介されているが、これはつまりは既に無くなっているものであり、彼の楽曲は亡失(≒忘失)の感覚を与えるものとして捉えることができよう。Meiteiの音楽が迫ろうとするものは日本のどこからかかき集め、こじつけたような現在進行形の「すごさ」ではない。彼が取り上げるのは本邦において既に失われた何かであり、その中には我々の先祖たちが想像力をもとに描いてきた「怪」や「幻」が含まれる。ここには文明の発達が妖怪の存在を消し去ってしまったと主張した水木しげると同様の、忘失への嘆きがあるようにも思えてくる。明治の文明化以降に様々なものが失われてきた中で、我々はそれを進歩と呼べるのだろうか…という水木の問いは大げさに聞こえるかもしれない。しかし、Meiteiの音楽がメタ・メッセージとして持つ(もしくは機能する)ものは我々のルーツへの視点であり、進歩史観とは無縁である。我々が失いつつ、しかしどこかにその感覚を残しているようなものへの視点が基礎となっている点でアンビエントというよりもフォーク・ミュージックと言ったほうが適切なのかもしれない。
日本という看板を背負わせ、欧米をはじめとした外側への回答のように考えることは日本と海外、つまり内外のどちらの側にもある種の特権的な意味づけをしかねない。海の向こうのきらめく文化に対して、この島国の文化の「すごさ」「独特さ」をアピールすることは安易なナショナリズムにも結び付き得る。マイルドで優しい「日本(的なもの)」を喜ぶポジティブな気持ちで結び付く、ナショナリズムを掻き立てられた者どもをすり抜けるように、失われてしまった幻によって立ち上がってくる「環境」を描いている。あまりにも遠くなり、おぼろげに揺れる蜃気楼のような環境である。
以前RVNG Intl.のオーナーのマットが来日していた時、今度サブレーベルから日本のレアなアヴァンギャルド作品を再発するよと彼から話を聞き、それから約1年半リリースを心待ちにしていた作品。
アラブ古典音楽の演奏家として現在活動し、ボンバーマンなど数々のサウンドトラックを手掛けた作曲家としても知られる竹間淳が1984年にソロ名義で発表したLP『Divertimento』。この『Divertimento』の収録曲に新たに3曲を追加し、アートワークを再編したリワーク作品『Les Archives』が〈Freedom To Spend〉からリリースされた。デジタルアーカイブ化が隅々まで浸透した現在でも、得体の知れない作品をサルヴェージしてくるここのレーベルの姿勢と野心には毎度感服させられるが、これまでのカタログのなかでおそらく最も知名度が低く(ネット上の情報の寡少さから察するに、オリジナル盤の存在はこれまでほぼ共有されてなかったはず) 、また音楽性としても異端な作品だと思う。ビートの機械的な反復とポリメトリックなフレーズを軸に、ポップスやフュージョン、ニューウェーブやインダストリアル、プロトテクノといった様々なジャンルを技巧的に組み直した、クロスオーバーな様式を一見装いつつ、同時にそれぞれの音に対して付随する情感やイメージがまるで疎外されているというか、妙に矛盾した響きが全体に通底している。それは例えるなら、大音量で鳴り響いているが「激しく」はないメタルミュージック、あるいは静謐な音色だが「静けさ」が立ち込めていないアンビエントミュージックのようで、「〜的」な恣意の意味作用が無効化された音がそのまま即物化し、その都度コンテクストが独自で生み出されていくようなもの、といったらよいか。海外メディアのインタビューを通して、彼女は自らの作品を「絶対音楽」と形容していて、それは近代の標題音楽に対するアンチテーゼ、つまり記号の還元化を拒み、音の形式や秩序そのものが存在定義を成す音楽を意味するのだが、いくばくかの時間が経過した現代において、フォーマリズムから端を発した彼女の音楽は、もはやそのような二元論的な対立を軽々と跳躍してしまいフラグメンタルな形を増強させ、肯非の入り混じったフェティッシュな戯れと誘惑を成しているように聴こえてくる。そのいびつな「遊戯性」に関しては、収録2曲目のタイトルが示す「Pataphysique」(パタフィジック)という、詩人のアルフレッド・ジャリが作り上げた造語とその概念にも大いに通じているのだが、それに関しては、オリジナル盤に同封されているライナーノーツの素晴らしい解説を一部抜粋してここに載せておく。
「ジャリが、この素敵な造語をもって、とりすました「形而上学」なるものを嘲笑したように、竹間淳も、音楽の分野での、頑迷なアカデミズムと軽薄なポピュラー・ミュージックという両極ファシズムの恐るべき支配を、研ぎ澄まされた聖なる悪意を持って、徹底的に茶化しているのだ。(中略)このモダン・ミュージックのジャリは、自分の音楽だけにどっぷりと浸り込んでいるのでなく、透徹したイロニーというスタンスをもって、音の「PHYSIQUE」を超えていく。(中略)あたかも蝶のような「パタ」の姿勢、つまり「PHYSIQUE」の強固なクロチュールからほんの心持ち身をずらすことで、彼女は幾重にも張り巡らされた罠の中から逃れさっているのだ。」
(ちなみに今回『Les Archives』の文を担当したのはアーティストのナタリア・パンツァー。彼女の丁寧な言葉遣いもとても素敵で、こういう自由なセレクションも含めて良いレーベルだな..としみじみ思ってしまった)