インターネットの裂け目のような空間から、アートの新しい鉱脈を発掘し続けるアーティストJon Rafman。その彼の展示「I HAVE TEN THOUSAND COMPOUND EYES AND EACH IS NAMED SUFFERING」がアムステルダムのStedelijk Museumで開催されているというので、見に行ってきました。
今開催中のベルリンビエンナーレでは彫刻作品がいろいろ出品されているようですが、こちらは映像と映像を用いたインスタレーションがメインのようです。Jon Rafmanの作品といえば、よく9-eyesが引き合いに出されますが、逆にOneohtrix Point Neverのビデオクリップで彼のことを知ったという人も多いと思います。今回の展示もそのOPNの作品がバッチリとフィーチャーされていました。
そんな映像クリエイターとしての彼の特有な部分は、デジタルメディア周辺に漂っているさまざまな素材を用いて、新しい映像言語を作り出そうとしているという点です。たとえばアーケードゲーム、ヴァーチャルリアリティ、日本のアニメ、ネット掲示板、独特のフェティシズムやオブセッションといったもの。そこにあるものはオンラインサブカルチャーと呼ぶことができるものです。それらは特殊なコミュ二ティで育まれ、これまで多くの人々の目にふれることのない孤立した文脈でした。
けれどもインターネット以降の世界とは、突如としてそうしたものに出会うようになってしまった世界であるともいえます。外部からそうしたイメージと出会ったとき、わたしたちはきっと奇妙に思ったり、気持ち悪く思ったりするかもしれません。しかしそれは進化の形が私たちと隔たっているに過ぎず、単に入り組んだ形の欲望の姿であるだけなのです。
Jon Rafmanがそうした独特のフェティシズムやオブセッションのようなものを素材として用いる際に、どのような姿勢を持っているかは少しわかりにくい部分があります。けれども、そこに固有の文化的価値を認めていることは確かだと思います。Rhizomeに掲載された彼のコラム「Codes of Honor」によると、彼は2009年のほとんどの時間をアーケードの暗がりで時間を過ごし、その強烈な達成感と束の間の名声を味わい、ゲーム特有の悲劇的な要素を知ったと述べているからです。
さて展示の話に戻ります。今回の展覧会で、一つ目の部屋で人々が目にすることになるのが、このコラムと同タイトルの作品「Codes of Honor」なのです。鑑賞者は小さな箱型の空間でこの映像を鑑賞します。乗り込むタイプのアーケードゲームの体験をイメージしていることは間違いないでしょう。今回のインスタレーションはこのように、映像を鑑賞するだけでなく、実際に映像に関連付けられたフィジカルな形の視聴方法を作り出しているのが大きなポイントでした。
この作品はさまざまなゲームやそれに関連する映像のコラージュ、ローポリゴンなオリジナル?のイメージ、そしてモノローグで構成されているのですが、どこか物悲しさのような感情に貫かれています。エドワード・ホッパーがもし現代にアーケードに集うゲーマーを描いたら、このようなイメージになるのかもしれません。
その視聴ボックスの背後には「erysichthon」というタイトルの神話をモチーフにした映像と、ブランコが空間にぶら下がっています。erysichthonはその神話の登場人物の名前で、神聖な樫の巨木を切り倒した罰によりerysichthonはけして癒えない飢えを与えられ、そして最終的には激しい飢えにより自分自身さえ食らってしまう。そんな話です。今回のタイトル「I HAVE TEN THOUSAND COMPOUND EYES AND EACH IS NAMED SUFFERING」はこの映像から取られたものだそうです。
そこから読み取れるのは、彼がこの神話で語ろうとしているのが、無限に増幅された私たちの視覚のパワーがもたらす苦しみについての物語であるということです。 その悲劇は寓話ですが、どこか喜劇のような部分もあります。人間の愚かさと、愚かであることへの愛のもののようなものを僕はそこに感じるのです。彼が「Codes of Honor」で語った、伝説的なゲーマーたちの達成したものと、その儚さの物語にも通じるものがある気がしませんか。
このモチーフはビエンナーレに出品されている彫刻に拡張していっているようなので、そちらの作品も追跡してもっと掘り下げた報告ができたらと思っています。
ふたつ目の部屋の作品については明日時間があったらまとめてみたいと思います。