MASSAGE MONTHLY REVIEW – 9
MASSAGE&ゲストで、9月の音楽リリースをふり返る。
現行リリースの作品の広大な大海原から、9月に出会った素晴らしいリリースをご紹介。
現行リリースの作品の広大な大海原から、9月に出会った素晴らしいリリースをご紹介。
東京を中心とする2つのユニット、eightyeight-eightynineとplaktiltsによるスプリットカセットがリリースされた。両者ともインダストリアル、ドローン、そしてノイズなどのタームを用いて紹介されるユニットである。いうまでもなく、これらは昨今ますます加速する作品のリリースの波の中で頻繁に見かける語だ。いまや音楽に限らず、様々な歴史的な遺産はアーカイブ化され、並列化というよりもまるで棚に陳列された参照すべき一つの項目でしかない。たやすく「それっぽさ」を作れる現在においては、一つのジャンルやタームは音楽的な「雰囲気」として、まるで香辛料のように利用される。つまり、これらがかつて語の本来の意味としての「オルタナティブ」であった時はすでに去ったとも言えるのだろう。「ロック」や「パンク」と言った語が先立ったように、様々なターム、ジャンルが後に続く。このようなタームを使って形容される「オルタナティブ」には果たして「代替する」というこの語の意味をどこまで見出すことができるだろうか。
こういったある種のあきらめは確かに筆者の心のどこかにあるけれど、eightyeight-eightynineの音楽にはオルタナティブの姿がちらつくように思う。使い古された閃きとも言えるが、ダブの手法が大きな役割を果たしている。昨今のエクスペリメンタルやレフトフィールドの方法論において、彼らの音楽が近接するだろうテクノの視点からはたとえばLogosのような「ウェイトレス」な方向が模索される。特にノイズを主軸にして注音域から高音域をメインに展開するならば、差異化を図るには低音域でのビートに注目が集まるが、彼らは古典的ともいえる4/4のフォーマットをベースに、ダブの手法を選択する。もちろん、ダブは確かにポストパンクの時代から空間的な広がりを生み出す手段として効果を持っていたし、言うまでもなくテクノの領域ではBasic Channelの存在がすぐに思い出されるだろう。ダブ・テクノだ。しかし、Basic Channelがそのレーベルのリリースラインナップも含めた視点で見ればテクノだけではなくレゲエの更新という趣向もあった他方で、eightyeight-eightynineはあくまでもダブを手法として何か「別のところ」を目指そうとする狙いがある。つまり、ここではテクノではなくポスト・パンクの道が明確に選択されている。冒頭からくり返される笑うようなピアノは、P.I.Lの、つまりJohn Lydonの乾いた笑いであり、Keith Leveneの冷めきったギターを思い起こさせる。感覚が麻痺するほどの長いループとノイズは、熱くマッチョな暴力性ではなくどこまでも冷めている。暗闇の中でも影が存在すると思えるような、暗さと冷たさ、そして少し湿った音が続いていく。
他方でPlaktiltsは異なったアプローチで「オルタナティブ」を描こうとする。2曲が連続して収録されているが、冒頭はアンビエントと形容される音が着実に空間を作っていく。ミドルには高速で鳴るビートがある一方で、ハイとローはゆっくりと存在感を示しながらレイヤーを重ねていく。その流れの中で自然と入っている爆音のノイズはあまりにも美しい。まるでゆっくりと釘を身体に打ち込まれいくように、それまでのそれぞれの音域のバランスが保たれながらノイズを身体に突き刺さっていく。たとえばいわゆるスロウコアのように突然ノイズが飛び込んでくるような飛び道具としてのノイズではない。ただそこにいつのまにかノイズがあり、何かが体に打ち込まれるような感覚をもつ。派手な音楽ではあるが、決して驚かしではなく波のようにノイズが飲み込んでいく。
言葉が機能主義的な考えでは結局のところは個人の内心を運ぶための乗り物でしかないことと、ノイズも同様かもしれない。eightyeight-eightynineとplaktiltsというそれぞれのユニットが今作にどんな思いを込めているのか、音楽からだけではわからない。いや、そもそも理解など求めてもないのだろう。このカセットから聴こえてくるものは反抗でなく、圧倒的な拒絶である。日々の様々な出来事を受け止め、またこなしていきながらもただ老いていくだけの人生を受け止めてしまう我々の存在を拒絶するように、そう「俺はお前ではない」と呟くように、ETERNAL FRESHMANというタイトルすらノイズのように響いてくる。「オルタナティブ」はどこにあるのか、ずっと探している。こんな時代だからこそなのだろうか、拒絶の中にこそ「それ」はあるのもしれない。
2017年のヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞したAnne Imhofのパフォーマンス作品「Faust」のサウンドトラック。〈PAN〉レーベルのオフシュートとしてリリースされた。ヴェネツィアに旅行した際に幸運にも遭遇することができたビエンナーレの会場で展開されていた彼女の作品は、ドイツ館の建物をガラスの床板と壁で仕切った空間の中で、インスタレーション作品の中で散発的に行われるパフォーマンスを鑑賞するというもの。優美な動きを見せるドーベルマン(動物愛護の観点から後に廃止された)、さまざまな場所に配された存在感を放つパフォーマー、日常を切り出したかのうような断片的で幻想的なイメージがオペラとともに観客と演者の間に折り重ねられていくという、多層的な構造を持った作品だった。多くの人々が詰めかける場で鑑賞するには複雑すぎる作品であり、そのエッセンスを掴めたとは言い難いが、そのような場でも印象に残ったのはサウンドであった。中心となるのはパフォーマであるEliza DouglasとFranziska Aignerによって書かれ歌われる物語性を持った3つのオペラだが、Billy Bultheelによるインダストリアルに歪められた抽象的なピースが、インターリュードのように場面を転換する。その基底にあるのはメタリックで電子的な響きを持った憂鬱なムードであり、その多次元的な構造を展開しながらゆっくりと聴くものを人工的な高揚へと導いていく。20代には、クラブやテクノの文化が花開いていたフランクフルトで、クラブのバウンサーとして働き、コミューンで作曲などを手掛けていたという彼女の作品には、アートや音楽だけでない多様な文化の壁を横断するような姿勢を感じる。空間と時間をイメージの力で繋ぎその閉塞を外へと打ち破ろうという意思を感じるパフォーマンスの一方で、ヨーロッパの音楽の歴史性を反映したかのようにも聴こえるこのサウンドには、むしろカオティックなエネルギーを内向きに凝縮させたような印象を放つ。
並べられた小さな火が並ぶ厳かな儀式のような張り詰めた緊張のなかを、対称的な雰囲気を持った2人が作り出した轟音が響きわたる。その時代、その場所でしか聴くことのできない、紛れもないアンダーグラウンドの音楽。そこには、全てを包み込むような暖かさを持った暴力と、優しく繊細な凶暴さがあった。閉鎖された酒の匂いと埃に満ちた空間の、世界とはパラレルに存在する静止した時間の中でしか見つけることの出来ない、その次にやってくる世界。いつも目撃者は数少ない。バカバカしいことを喋りながら、ときどき去っていった人々のことを思いながら、その強すぎる光のような振動の眩しさの中でつかの間の安らぎを得る。それよりほかに重要なものなどあるだろうか。
謎の匿名アーティスト、Glåsbirdのセカンドアルバム『Svalbarð』。ひんやりとしていながらも、どこか温かみを感じるサウンドはあまりに心地良く、聴いているとすっぽりと何かに覆われたかのような感覚になる。あるときは聴きながら思いのほかやっていたことに集中してしまい、聞こえているはずの音が聞こえなくなっていた。けれど、ふと集中が途切れて再び音が耳に流れ込んでくると、旅先から自分の家に帰ってきたときの安堵感のような、また格別の心地良さが訪れてくる。この「a sonic expedition of Greenland(音のグリーンランド遠征)」は、Google Earth、360° photos、グリーンランドに住む人のブログ、地図、動画などを参考に作られているという。Glåsbird自身がグリーンランドに滞在して制作した作品ではないということだろう。ひょっとすると、グリーンランドを訪れたこともないのかもしれない。実際にその場に行くだけがイマジネーションを広げる手段なわけではないこともある。行ったことがないからこそ、自由に広がるイメージもある。1年の半分が昼間ばかりの日、残りの半分は夜ばかりの日で、全土の80パーセント以上が雪と氷に覆われていて、人間より白クマの数のほうが多い……そんな北極圏の国、グリーンランド。今こうしている部屋の窓を開けたら、外はまっくらで静かな雪景色なのではないだろうかという気がしてくる。
カナダ出身のバンド、Tupper Ware Remix Party、略してTWRP。まず目をひいたのはそのアートワーク。80年代のレコードそのもの帯、英語タイトルと日本語タイトル(秀逸)が併記されている。ジャケットのイラストは日本のアニメのようであり、アメコミのようであり、ちょっとオズの魔法使いのような童話ものに見えたりもした。実際の彼らもこのアートワークそのままの姿をしている。「Elite squad of Rock Stars from the future(未来のロックスターからきたエリート集団)」とのこと。80年代にインスパイアされたサウンドは、Daft Punk、YMO、80’sのディスコ、AOR、ジャパニーズ・シティポップなどからインスピレーションを得ているという。L.A.D.Y Radioという架空のラジオステーションからの放送を聴いている気分にさせてくれるこのアルバムは、ごきげんなディスコからクールなギターサウンドまでがコンパクトに詰まったハッピーな1枚。日本が大好きだという彼ら。「日本が好きで、とにかく日本に行きたい!」と言っている。日本をイメージして作ったという“Japan Quest”という曲もある。サブタイトルは「Search For the Japanese Booking Agent(日本のエージェントを探して)」。昨年、日本限定盤のベストアルバムもリリースされているが、来日公演はまだのもよう。ぜひ日本のステージで楽しむ彼らを見て、一緒に楽しんでみたいものだ。
途中から観始めた深夜放送の知らない映画。何度チューニングし直しても途切れるラジオ。どこかの無線が入ってきて怖くなってしまったトランシーバー。100匹目の猿。バタフライ・エフェクト。vaporwaveにはそういったものにどこか近いものを感じていた。楽しい時間を引き伸ばしたいスクリュー。好きな瞬間だけを切り刻んで詰め込んだカットアップ。気に入ったところを何度もかみしめるためのリピート。だらだらと見ていられたテレビ番組やCMをザッピングするみたいなコラージュ。得体がしれないけど、得体がしれないからこそ気になる。今、わからないものはずいぶん少なくなっている。わからなかったら検索すれば大概の情報は転がっている。そこには別の恐ろしさがある。そのうち、わからないものなど何もなくなってしまうかもしれない。わかったと思ったことが実際ほんとうかどうかもわからなくなるかもしれない。そうなる前に、なんだかわからないものをなんだかわからないままにしておくという感覚をもう少し楽しんでいたいと思う。『Live From Japan』は昨年日本で行なわれたNEO GAIA PHANTASYツアーでのdeath’s dynamic shroudのプレイを録音したnuwrld mixtape。これまでの作品とリリースされていなかった6曲が含まれている。気持ち良い音の洪水だ。もともとは、インターネットで発表される音楽にはライブで披露する予定などないものが多かったのではないだろうか。ベッドルームのモニターの前で踊っていた人たちは演者の前で踊るようになった。そして、これからどこへいくのだろう。
先月インドネシアを訪れ、一週間くらいジョグジャカルタに滞在した。ジョグジャカルタは首都のジャカルタより物価が安い上、ジャワの芸術文化と縁の深い都市で、国内のアーティストの多くがジョグジャか、あるいは第3の都市と言われてるバンドゥンのどちらかに集まっている。今回の滞在目的はジャワ民衆文化のリサーチだったが、現行の音楽/コンテンポラリーアートのシーンに触れる機会もいくらかあり、色々面白い動きが拡散的に起きているのを肌身で感じた。
それで現地の人と話している際に、最近地元で面白いアーティストがいるか聞いてみると、みんなこぞって口にしていたのが2人組のGabber Modus Operandiだった。バリ島のデンパサールを拠点に活動する彼らは、2018年結成とまだ活動歴は浅いながら、ジョグジャカルタのYes No Waveからリリースしたファーストアルバム『Puxxximaxxx』が注目を集め、CTM FestivalやUnsound、そしてNyege Nyegeなどの海外フェスに出演、今急速にその名が広がっている。上海のSVBKVLTから先日リリースされた『Hoxxxya』は、ガバ/ハードコアとインドネシアのポップスや民族音楽をミングルさせた、異形のハイブリゼーションともいえるダンスミュージック。ジャワの憑依儀礼である、ジャティランのスピリットを原動力としながら、BPM180以上で刻まれるインダストリアルなビート、大衆音楽として親しまれているダンドゥットの奇怪なメロディ、そしてサロンペットと呼ばれる笛や、ガムランのスレンドロ/ペダン音階を用いた旋律がもたらす明滅的な響きが一緒くたになって、トランシーな空間を形成していく。
他宗教、多民族というバックグラウンドを持つインドネシアは、交配と継承を繰り返しながら、単一のアイデンティティでは束ねられないほどに、非常に多面的で豊穣な音楽文化を生み出してきた歴史を持つのだが、そのローカリティを自分たちの表現に結びつけるような発想は、この数年前までシーンには存在しなかったらしい。しかしエクスペリメンタル・デュオのSenyawaの登場によって状況は大きく変わり、彼らに感化された若いアーティスト達(もちろんGabberも)が、自国の文化に目を向け、現代的なスタイルを模索し始めたのだという。かつての交配の歴史を受け継ぐかのように、また新しいサウンドが作られつつあろうとしている。