タケシムラタは1974年、アメリカのシカゴ生まれのアーティストである。最初期からデータ・モッシングを作品制作に使用しており、その後のグリッチ・ムーヴメントにおいてもパイオニアの1人として名が挙がることが多い。ムラタが作る作品の表面は、感情移入を受け入れない。デジタルの完璧な清潔さを隠そうとしない。作品の表面は、それが観念上のオブジェクトであり、現実とは乖離した世界のものであることを常に意識させる。にも関わらず、例えば「Get Your Ass to Mars」を長く眺めていると、長い映画のあるシーンを切り取った、スチール写真を見ているかのような錯覚が起こる。見ているこちらの心の状態が変化して、空間の前後にあるはずの物語を想像してしまう。なぜこのような心の投影が起こるのだろう? 参照すべき物語を持たないスチール写真が呼び出す虚ろな心は、虚ろであるがゆえに不穏で、しかし瞑想的な静けさがある。それは具象的なモチーフが作り出す、抽象的な時間である。ムラタの作品が作り出す心境は、何かが起こりそうな予感であり、全てが終わった後の残滓でもある。
初期の作品で、映像におけるグリッチ表現にかなり早い段階から取り組んでいましたね。グリッチとの出会いはどのようなものだったのでしょう?また、作品の中でグリッチを扱うことについて伺いたいのですが、グリッチをどういうものと考えていますか?
2003年頃に初めてこのビデオを制作したとき、自分は映画出身だったから表現としてのグリッチはまだ知らなかった。そのころは、Pat O’Neill、Ed Emshwiller、Steina Vasulkaのようなアーティストの映画を見ていたよ。背後の物語ではなく、メディアを全面に出すという彼らのアプローチの直接性は、20年以上前の作品にもかかわらず、近いものに感じられた。それはまだ破壊的だった。デジタルメディアをこういうふうに見ていて、ある時、ダウンロードに失敗したときにそのアイデアを得たんだ。海賊版の映像を実際に見たことはないけど、その圧縮されたキーフレームから多くの実験が始まった。
あなたの作風には,(こういう言い方には語弊があるかもしれませんが)非常にサイケデリックな面があると思います。いわゆる大文字の「サイケデリック」カルチャーというものについて,どういう距離感を持たれていますか?
初期の映像作品には似ている点がたくさんある。最も似ているのは、出発点として心の状態が入れ替わること。そのためには特にフィルムとビデオが適している。幻想、特にヴィジョンの持続性はとてもサイケデリックだけど、映像が始まると目に見えないほど強い力を持つ。
「OM Rider」の最後で狼男がトランペットで吹いている曲は、米軍の葬送で使用される「Taps」と呼ばれるものですよね。序盤で使われるシンセサイザーの演奏との対比がとても印象的でした。C. Spencer Yehの起用など、映像作品の音についても独特な世界観がありますが,音楽と作品の関わりについてお聞きしたいです。
オオカミが鳴らしている「Taps」は、トランペットを吹いて最初の一年か一週目の、子供の演奏を記録したもの。いちばん初歩的な能力だけど、その誠実さがよいと感じた。老人へのトリビュートに合うことが分かった。オオカミの誠実さにもかかわらず、彼のスキル不足が最終的に老人の死を失敗に終わらせる。
サウンドトラックはまた、ほかのアーティストとコラボレーションできる機会でもある。制作過程のこのステップはとても楽しみで、その音が作品に反映されることもある。 Robert Beattyとはほとんどすべてのプロジェクトで協力してきたよ。彼は有能なミュージシャンだし、最近はヴィジュアルアートにも同じ才能を発揮している。Devin Flynnも多才なアーティストだね。一緒に働くことができてラッキーだよ。
あなたの両親は建築家だそうですが、八角形の家で鶏と一緒に住んでいたという話が興味深かったです。そのような環境は現在の作品に影響を与えましたか?
大都市に長年住んでから、妻と一緒にニューヨークのキャッツキル山地にある手作りの八角形の家に引っ越したんだ。家は60フィートの高さの松で囲まれていて、庭があって、鶏を育てていた。以前の都市でのアパート生活とは、まったく対照的だった。スタジオは田舎だったし、ずいぶん隔離されてる。都市での仕事を続けていたけれど、離れても直接の関わりは薄かった。それはニューヨーク市に移ってから、自分が持っていなかった視点だった。そういう日々の経験から、テクノロジーとその進化する役割について考え始めた。それで、デジタルで制作されたフォトリアリスティックな静物画「Get Your Ass to Mars」が生まれたんだ。
例えば時間ベースのアートワークを作っているとき、時間や空間のアーキテクチャは意識しますか?
まさに。 Melter 3-Dのような直接的なものもあれば、写真のような間接的なものもある。映像、印刷、彫刻も作るときは同じプロセスを用いる。それはいずれにせよ、アニメーションから来ている。
あなたの作品には画や映画・ゲーム・アニメーションなどのサブカルチャーの影響が具体的にモチーフとして織り込まれているものもあれば、抽象的な表現の方向性を持つものもあります。両者の間のバランスをどのように考えていますか?
記憶や夢を通して空間を表現しようとすると、自分がここに導かれることがよくある。 CG制作はその状態をうまく再現する。 CG環境での作業することも、時々は夢を見ているようなものになる。スクリーンを通して画像を見ることは、大部分の高低で重要な部分なんだ。
今のコンピュータグラフィックスはほとんど現実と見分けがつかないところに来ていると思いますが、あなたはもっとCG特有のスタイルを維持しているように思えます。あなたはその特性のどういった点に可能性を感じますか?
人工的に汚れや不完全さを追加すれば、CGのオブジェクトも現実世界に馴染んで現実味あるものになる。でも僕は鮮明なシャープネスのほうが好みだね。完璧な形と表面は、同時に深い満足と不安を導くことができる。それは僕が作品で探求している矛盾なんだ。
アナログな表現からデジタルへの以降の中で、使用するツールにも大きな変化があったと思いますが、制作の背景にあるヴィジョンに影響はありましたか?
すべてのツールが変わった。最初は、例えばフィルムの長さで図られる時間のような、映画製作から伝えられる感覚が重要だと思ってた。でも、長年にわたるデジタル制作のスピードと絶え間のない進化にも心動かされてきた。自分たちが住む増殖していくデジタル世界と繋がる方法として、その影響は素晴らしいものだった。
「Melter 3-D」のアイデアには非常に驚かされました。どのような経緯で完成に至った作品なのでしょうか?
液体クロムのシミュレーションで遊んでいて、同時にCNC製の彫刻制作の作業を始めたんだ。ニューヨークでGregory Barsamianの「Feral Fount」を1年前に見て、またその後にジブリ博物館の3Dゾエトロープに夢中になった。実際の空間でアニメーションを見られるという信じられないほどの効果にもかかわらず、アニメーション化されたオブジェクトの繰り返しによりイリュージョンが明らかになる。回転のある角度ごとに、アニメーションのシーケンスの次の反復が分かってしまうんだ。たとえば、トトロが飛び跳ねるのではなく、同時に20個のリングが見えるというふうに。
自分がクロムが流れる球体で3Dゾエトロープを作ったら、この繰り返しを隠すこと、イリュージョンの仕組みを隠すことができると思った。そしてひとつの流れる3Dのオーブが完成した。自分の作品のなかでも、これは実際に見てほしいもののひとつだね。
また、初期の作品でも「Melter 02」と題されたものがあります。「Melter」はシリーズなのでしょうか?
行動することに感謝だね。10年ごとに1つ作る。「Melter 04」が登場する予定。
もし今後のヴィジョンがあったら教えてください。
そう、ニューヨークのSalon 94の新しいショウに向けての制作を始めている。この展示では、彫刻、合成写真、CG映像シミュレーションを組み合わせることになると思う。
Takeshi Murata
http://www.takeshimurata.com