Interview with Kari Altmann

ネットワークに接続したイメージをかき混ぜ、新しい生態系を作り出すKari Altmann。
アーティストはフィルター、そしてレンズになる。

Text: Yusuke Shono, Translation: Noriko Taguchi, chocolat, Goh Hirose

Kari Altmannというアーティストの作品をひとことで言い表すのはとても難しい。彼女のプロジェクトの多くが、音楽やデジタル画像、そして立体や映像、印刷物といった考えられうる限り最も幅広いメディアを複合的に組み合わされたものでできており、その表現のアウトプットもInstagramからTumblr、Soundcloud、実際の空間を用いたインスタレーションなどといったさまざまな場所に、ときには時を超えて存在しているからだ。

その作品から受ける印象は、とても皮膚感覚的なもので構成されているように思う。例えば複数の画像からやってくる、共通の触感であったり、色彩。またそこにある差異や、違和感。これらが独自のイメージ言語となり、これまで感じたことのないような感覚を創出している。リブログ的な画像から、自作のグラフィック、さまざまな要素が織り交ぜられるそのスタイルは、イメージが著者性という束縛を超えて、まるで自分自身の生態系を作り出しているかのようである。

彼女はこのインタビューで、多くのプロジェクトは継続的で散発的に成長していくものだと述べている。こうした制作の姿勢は、単一の物語に解釈されることへの抵抗のようにも見えるし、あるいは結果として既存のアーティスト像をそれが更新するものだとしても、そうした姿勢こそ現代という多メディアな環境を生きるわたしたちの自然な表現形式の一つということに過ぎないのかもしれない。

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Soft Mobility Video Teaser Editorial for ArtPapers Magazine

実際の展示だけではなく、TumblrやSoundcroudなど他のメディアへ作品を拡張させていくのがあなたの作品の特徴だと思います。そのような活動形態になったのはなぜでしょうか?

それはとても自然なことだったんです。形式は探究すべきだし、理解すべき。メディアやプラットフォームにしばられることには興味がないんです。主に心理的、社会的色彩、声あるいは前口述的なエネルギーを、自分は作品に込めたい。そうすればアウトプットが何であれ、理解できる。唯一の問題は、産業が追いついてないということ。だから彼らは1つの種類の仕事やカテゴリに制限しようとする。少なくとも今わたしたちはこうした制約から逃げられるプラットフォームを手に入れた。でも、ほかのものと同じようにプラットフォームにも限界はある。これがミックスしたり、全体性を保つことがよいことの理由。

またギャラリーとオンラインでは異なるシステムがあり、また異なる観客が存在していると思います。あなたはその二つの間を往復しながら、その二つにどのように折り合いをつけているのでしょうか?

それは作品によります。ギャラリーやイベントのためと同様に、エディトリアルや公共の場所でもたくさんのことを行ってる。まだその全部をエクスポートしているように感じる。それから、ほとんど作品は柔軟なフォーマットで印刷されたり、もしくはオンデマンドのみで発表されることが多い。目の前で触れる手仕事の部分を作り出すまで、人々にそれを見ないように交渉することは難しいけれど、状況はよくなってきている。すべての印刷物は、社会的、地理的および経済的な状況を、なんらかの方法で反映しているような気がする。旅を始めるとき、あるいは多くのスタートアップと作業し始めたとき、それは本当に面白いことになる。私はギャラリーで妥協したり、創造的なソリューションを明らかにしようとするけれど、その壁の内側にある物流構造にはまだ制約がある。だから時々はそれと戦って、乗り切らないとならない。願わくば、それが長い目で見て、私のあとにやって来る似た実践を行うアーティストや、自分自身のためになればと思ってる。

それに加えて、私はいつもウェブや映像、携帯機器、パフォーマンス、音楽などに戻っていく。私はEuro-GalleryやC.A.D.(Contemporary Art Daily / Computer Aided Drafting)スタイルの印刷だけやることにはプレッシャーは感じない。シェアできるものを作るのが好きだし、玄関をくぐって行くのではなく、瞬時に見ることができるものを作るのが好き。自分のやっていることをアプリ開発者のように考え始めている。あるいは自分のプロジェクトを様々なフォームに形を変えるデバイスやコード、集合のようなものとも考えている。自分のウェブが存在して、自分のアイデンティティを管理できている限り、個々の部品とそれらのメタイメージを、すべて一緒にするように設計を同時に保つことができる。親密な友人と同じように、自分の作品や、そのタグやイメージを世界中の人々にシェアすることは、みんなのもう一つの現実になり始めている。

あなたの作品は企業文化が作り出してきたテクノロジーや、ブランドが作り出してきたイメージを再利用しているものが多く存在します。あなたがそれらを作品化する方法論とはなんでしょうか?また、それらを作品に使用する際に気をつけていることはありますか?

私はどんな言語やイメージでも作り出すし、考察する。そこにはさまざまな理由がある。私はそれが理想主義者の美しさや、現実逃避であるかぎり、浅ましい魅力も、良性のストレスも信じている。コンセプトや共感するやり方において、ほんのちょっとショッキングなもの、怪しいものや実際に未加工で、原始的に感じるものが本当に好き。でもその背後には、より大きな感情的で哲学的な可能性があるべきだと思う。たくさんのレベルがあって、最初に引き込まれたり、あるいは反発のあとに時間をかけて解かれる、そしてもっと大きな領域に連れ出してくれるレイヤーのあるものが大好き。私は実際にその展開と目的について考えている。そして実際に自分が扱うマテリアルと一緒に暮している。

私はまたクトーニアン(クトゥルフ神話に登場する架空の種族)の海賊版、トロール美学、とても微妙な、あるいは説得力のある、まだ捉えられたことのない、ニッチな言語の中にいる。会社やブランドだけからではない。多くのタイプの言語、言葉遊び、生き物の写真や、携帯用のソーシャルメディアの写真、絵画の比喩、DJの比喩、CGIのキャラクターデザイン、セルフィー、あげ始めたら終わりがない。でもブランドは、偽りの普遍的な記号。ぞっとするほどね。ある人々にとってはほかのものより読み取りやすく、捕まえやすい。それは見過ごしやすい部分。

私はブランドを恐れてはいない。それらはミーム、そして記憶と本質的には同じだから。それらはアイデンティティ、そしてメタ・イメージがどのように働くかの方法。自分の作品はそれに触れる可能性があっても、ブランドや会社やテクノロジー、インターネットあるいはアルゴリズムに「ついて」の作品ではないと50回はいい続けたい。これはメタ・イメージ、共同ファンタジー・イメージ、そのソフト・パワー、そのミーム学、彼らの適応、そのハイブリッド状態、そして生存についての作品なのです。ブランドではなく、これらのメタ・イメージを参照すれば、企業への参照の鎖を断ち切れると思う。

私はハイパー資本主義、そしてさらに共同社会のオフグリッド、あるいはアンダーグラウンドのスペースやイメージで育ってきた。私にとって、そして私の周りのグループに機能する、何らかのイメージのシステムをいつも作り出そうとしてきた。だから私の言語は、その状況と環境を反映しているのです。

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Screen Shot 2015-07-13 at 10.17.50 AM

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HITASHYA, 2013-PRESENT
AUDIO, VISUALS, PERFORMANCE, INSTALLATIONS, VIDEO, ETC.

去年公開された最新のプロジェクト「XOMIA」について伺いたいと思います。あなたの作品の特徴であるテクノロジーへのファンタジーと、さまざまなメディアを横断した表現が高度に結合した表現であると感じました。もしよければこのような複雑な展示が生み出された背景について教えていただけますか?

「テクノロジーへのファンタジー」という質問への答になっているかは、わかりません。たぶん再定義を見込むなら、あるいはもっと柔軟な境界においてなら、それを理解できるかもしれません。

https://en.wikipedia.org/wiki/Zomia_(geography)

間違いなく不吉で、崇高な、優しい、そして同時に共感できるもののはず。展示されているものの幾つか(例えばFlexia映像の中の用語)は、とても恐ろしくて、怪しい。あるものは本能的で、あるものは静かで快適で、あるものは哀れで、笑えるもの。ほかの反応、参照や読み物の範囲の真ん中に位置しないとならないある種類の、瞬間的な生物学的な衝動をそのすべてがかき混ぜる。あなたがそこにいられたら、瞬間そこで生き、異なるリアリティに侵入することができるでしょう。

私は共同のファンタジー・イメージが、どのように周りにあるものをなんでも一緒に使用するようになって、地域や集団を作り出し、生物学的条件を作り出し、そしてあるいはその周りにある新しい土地、周りにある変化する場所を見つけるために適応し、動き続けなければならない、さまざまな力の対象になるのかについてたくさん考えてきた。メタ・イメージ、ネットワークに接続したファンタジー・イメージは、極めて重要な衝動であり、それは道を見つけるでしょう。だから、あなたはまたこれらのものごとが魅力の生態系とコード化された領土を確立する方法を、そしてどれだけ多くの異なる種類のものが混ぜられた地形で戦い抜くのかを、見なければならないのです。極めて多くの層やフィルタ、極めて多くの印象があります。私も内部レベルでは、DIYソフトのパワーと、境界の戦争について多くのことを考えています。でも、たぶん最初の世界環境内では、生き残るもの、曖昧さ、居所のなさを感じます。

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XOMIA (Return Home, Realflow, All Terrain) installed at Ellis King, 2015

最近どんなものに惹かれますか? アートでなくてもかまいません。

あらゆるものにある種のディズニーフィルターがあるのを観察し続けてる。たぶんそれは、春の汚染を通過した最新のHDの光る表面、あるいは携帯をアップグレードしないとならないということかも。わたしは再び、自分の目を更新したのかもしれない。光沢、宝石の音色、曲線、動いてると感じるもの、液体、かわいすぎるもの。その下には何かが潜んでいる。自分が見た韓国ドラマやインドの映画の多くにあるものを、わたしはパレットとして考えてる。ドバイでもそういうものを多く見た。「Hitashya」と「Ttoxhibaa」はそこに近づいている。地面を耕す、コアに浸透するファンタジー画像について、そして仮想現実のようなものがどのように文化に働くかについてたくさん考えている。私はレンズ、フィルタ、コードやコアに戻り続けている。境界と倫理について、感情の労働、そして最近の知性についてもまた、たくさん考えています。

もし今後の予定がありましたらおしえてください。

私はリニアなやり方で働かない。いつもマルチタスクで、季節のように、気分、そしてオーディエンスによって、その日ごとに注意をどこに注ぎ込むかを決める。自分のプロジェクトの多くは、ライブあるいは休止状態、そしてレイヤー化できる個人的なモードとして考えている。それらはまた、すべてが完全に死んでいるのではなく、時間をかけて進化します。

自分の作品はみな最終的な目的や(多くのリソースが必要になる)ショーに直線的に向かうよりも、散発的にアップデートされ、オンデマンドのプレゼンテーションに書き出されることが多い。あるいは最終のファイナルショーはわたしの人生の終わりかもしれない。ここで言っていることは、「XLTE」や「HITASHYA」、「SOFT MOBILITY」、「SUPPORTMELIKETHIS」、「ON HATCH」、「GARDEN CLUB」、「ABUNDANZIA」、「HANDHELD」、「VALUE SHIFT」、「ROMANTIC GESTURE」、「RESTING POINT」といった、順番待ちになっている現在のモードのこと。

実際に言ってしまうと、これは「HITASHYA」の影響を大きく受けているだけど、音楽に集中する予定。それから、「Soft Mobility」のためにペインティングや、短い脚本やパフォーマンスを作っている。春にはいつも「Garden Club」がアクティブ。天気があまりにも熱で変色するなら、血液が表面に登ってきて数週間は完全に「XLTE」の期間になるわね。

Kari Altmann
http://karialtmann.com/

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