エキソニモとYCAM共同企画による「メディアアートの輪廻転生」を見に、山口に行ってきました。東京から新幹線に乗って6時間、山々に囲まれた平地をとにかく歩いてYCAMへ向かいました。
YCAMの入口に入ってすぐ目に留まる、芝生で作られた巨大な山形のオブジェが今回のメインの展示物。その内部に収められているのは、アーティストたちがすでに「死んだ」と考える自らの作品です。富士山のような形をした山は、メディアアートの亡骸を収めた古墳をイメージして作られているようです。
入り口の前面には、CDプレイヤーやMD、iPod、ICレコーダーなど懐かしさを感じるさまざまな音声メディアが並べられています。鑑賞者はそのメディアから一つを選び、解説を聞きながら作品を見て回ることができます。照明の落とされた内部の空間には、8つの作品が並べられており、アーティストによる解説によって、それらが死んだとされる理由が明らかにされていきます。
死の原因はそれはもうほんとうに様々。物にも生き物のような死がある、と見るならば、人間と同じようにメディアアートにも当然いろいろな形の死があります。それはメディアアートでなくても、そうなのです。芸術に永遠の命があるように思いがちだけれども、案外そうじゃなかったりする。さまざまな死因を眺めながら、メディアアート作品も自分たちの営みと近い存在なのだと思うと、ちょっとエモーショナルな気分に襲われました。
もちろんメディアアートを黎明期から支えてきたアーティストたちによる出展なのだから、その死はメディアアートそのものの生と死を描き出しているはずです。けれども、こうして過去に作られた作品を裏側から眺めるという行為は、作家の個人的な感情に近づく性質を持っているもののように感じられました。
展示の序文には、エキソニモによる印象的なエピソードが掲げられています。
NYのギャラリーでメディアアート作品を展示した時、ギャラリーのディレクターからこんなことを聞かれた。「もし作品が売れた後、壊れたらどうする?」「壊れたら直しますよ」即答すると彼は笑ってこう返してきた「いや、君たちがいなくなった後の話だよ」
このやりとりを機に、彼らは「アートの寿命」についてもっと真剣に考えるようになったといいます。メディア環境の変化が激しくなった今、メディアアートに関心を持ってきた人々の間でそのような問題点が多く取り沙汰されるようになってきた、ということなのかもしれません。その問いを言い換えるとすれば、次のようなものになると思います。
「アートに魂があるとしたら、それはどこにあるのか」
アートが死を迎えることは、かならずしもその形を失うということを意味するのではありません。「形」が作品の肉体だとしたら、その死は、アートの魂が消滅することなのです。そう考えると、その答えにはさまざまなヴァリエーションがあるはずです。それどころか、作り手の数だけ異なる考えがあるほうが自然でしょう。そう思うと、今回の展示の本体は、実は、アーティストたちへのインタビュー、そして周囲に飾られた無数の声であるというように思えてきました。
インタビュー映像の中で、藤幡正樹はメディアアーティストにおいては、作品と観客の間にある体験が重要であると述べています。また、森脇裕之は反芸術という前衛芸術の意思を受け継ぐメディアアートが、美術館のなかで生き延びること自体に葛藤を感じると言っていました。また衝撃的だったのは今は絵本作家に転身している岩井俊雄が、自分たちは当時デジタルの永遠性に酔っていて、単に企業の作り出したキャッチフレーズに騙されていたのではないか、と発言していたことでした。
いまやアーティストではなく企業体が大規模な作品を展開し、会場に列をなすほどメディアアートは人々の間に身近な存在になっています。けれどそんな現代において、メディアアートの第一人者たちがその死や寿命について語ってる。それが指し示す意味に実際、重い心持ちになったのも事実です。作品と同じようにジャンルにも寿命があります。むしろその寿命は作品の命より短い。ジャンルは明確に社会的な役割を担わされているからです。そんなメディアアートにある現在の意識を、顕在化させたのがエキソニモによるこの展示でした。またこの展示そのものが、象徴的にではありますが、メディアアートというジャンルの死を宣告してもいる。そう感じる展示であり、またこの展示そのものがそうしたメッセージを孕んだ作品である、と感じました。
メディアアートの輪廻転生
https://www.ycam.jp/events/2018/reincarnation-of-media-art/
開催日時:2018年7月21日(土)〜10月28日(日)10:00〜18:00