2018年の2月3日から18日まで、原宿のBLOCK HOUSEにて、永田康祐と大岩雄典の二人展「明るい水槽」が行われた。永田の展示は、Amazonで購入されたというプロダクトとそれが包まれていたと思しき梱包材がアクリルの台とともに設置されたもので、鑑賞者は注意深く配置された品々の間を、オーディオガイドの作品解説を聞きながら歩き回る。透明な板とダンボールの組み合わせは、Walead Beshtyの「FedEx boxes」のオマージュであることに気がついた方もいたかもしれない。
これまでも永田は、デスクトップのイメージの表層がいかに現実の空間に影響しているかという問題を問うてきたが、今回イメージを扱ったと思われる作品は「Theseus」だけで、すべての作品はオーディオガイドで語られる解説と作品をセットで体験することに鑑賞の主眼が置かれている。
提示されている内容も、コンピュータやデスクトップに関連した例にとどまらない。Amazonエコーが大量の誤発注を行ってしまったという、コンピュータが直接話法と間接話法を理解できないといった事例に始まり、商品が有名になりすぎることによって商標権が消失するというジェネリサイドという事態、水族館のイワシが、観賞用としても餌としても使用されることなども等しく取り扱っている。ここで扱われている発話やテキスト、あるいは「いわし」といったものは、時系列や文脈の層を飛び越えてそれぞれバグのような状態を引き起こしている。
次元の異なるレイヤーとレイヤーが重ね合わされた時、この混線のような事態が引き起こされる。こうした錯綜した事態を引き起こす異なる次元にあるものの「重なりあい」について、研究者の水野勝仁は自身の論文でこう述べている。
物理世界と仮想世界とは違いを排除することはなく、ただただ重なり合っていくのである。この重なり合っていく世界を強く意識して、積極的に表現していったのが「ポストインターネット」と呼ばれた状況なのである。私は前の文で過去形を用いたけれど、それらは「ポストインターネット」という言葉についてだけであり、今後は物理世界と仮想世界とが重なりあい、あらゆるものが重なり合っていく状況が自然なものになっていくだろう。
(ポストインターネットにおいて,否応なしに重なり合っていく世界)
永田の描く発話やテキストの引き起こしたバグは、水野のいう「あらゆるものが重なり合っていく状況」と、強く呼応しているようにみえる。修復ブラシツールを用いて作られた、彼の平面作品「Theseus」のようなイメージの象徴的な操作によって作られた「重なり」から、日常にある事物が織りなすあらゆる「重なり」へという転戦は、ポストインターネットというデスクトップの文化が引き起こした新しいリアリティと、それがわたしたちにもたらしたものを、より広い視野から検証しようという試みに思える。そのような状況を考察することにより、見えてくるものとは何なのか。展示「明るい水槽」を終えた、永田康祐に話を聞いてみた。
今回の展示、大岩雄典さんとの2人展でしたがどのような経緯でお二人での展示となったのでしょうか?
2017年の6月に行われた「Surfin’」という展示を一緒に行ったのがきっかけです。大岩がSurfinでの各々の作品について、永田は多層的で大岩は並列的だと、『大岩雄典・永田康祐作品の情報の物質性について、あるいは「サーフィンは崇高」』で書いています。私は大岩の指摘についてあまり意識していなかったので、その対比がおもしろいと思いました。どちらが言い出したのかは忘れましたが、それで二人展をやろうということになりました。
2人の作品に共通する点でもありますが、特に永田さんにとって、これまでの写真や立体の造作によるアプローチから、「言葉」をメインに据えた今回の展示には大きな変化を感じました。イメージから言葉へという転換を選択したのはなぜでしょうか?
もし転換があったとしたら、「Sierra」を制作しているタイミングですでにあったのだと思います。これまで、「Inbetween」や「Function Composition」、「Theseus」など、映像メディアを通じた経験における画像による表象と現実の関係について一貫して検討していました。「Sierra」ではそうした問題をより敷衍して実践しようと考えました。具体的には、OSやマルチウィンドウといったコンピュータのインターフェースにおける慣習や、それらが開発されるに至った社会的背景、実際に製造する企業のイデオロギーなどです。「Sierra」では映像メディアに限らず、そうした現代的な経験の条件を、物理的支持体や鑑賞者の認識に限らず広く扱おうとしました。今回の展示(オーディオガイド)は「Sierra」におけるこのような問題意識の連続にあります。オーディオガイドでは映像メディアではなく、ギャラリーやそこでの展示という形式=形態が対象になっています。
実は、オーディオガイド内容が選んだヘッドホンによって異なると聞いて展示には2回伺ったのです。2回の展示体験は、非常に異なったものになりました。作品自体にそのような複数の可能性が内包されているのがとても面白いと思いました。永田さんは作者、鑑賞者の関係をどのように考えていますか?
とても難しい問題なので、決まった回答は準備できませんが、基本的に作者と鑑賞者の関係を一般化して考えることはありません。各々の展示で作者や鑑賞者の権能は微妙に異なっており、その都度関係は取り結ばれるものだからです。さらに言えば各々の能動性や性格によっても異なるでしょう。監視員やギャラリースタッフに積極的に話しかけて作品についての説明を引き出そうとする人もいれば、一方で作品リストやフロアシートすら手に取らずに作品を見る人もいます。もちろん、展示に行かずSNSで内容を知ったという人もいます。作者についても同様です。作品について忠実に全て話そうと努める人もいれば、あきらかな作り話をでっち上げる人もいます。口を閉ざして、思うように見て欲しいという人もいます。
この展示に関しては、ギャラリースタッフが割り当てられておらず、自分が監視をしなければならないという条件だったので、そのことについて考えました。作者が展示室にいて、質問などがあった際に、作者本人が作品について語ることは鑑賞へ大きな影響を及ぼします。作者が在廊していることを知って、一度見た展示に再度足を運ぶ人もいると聞きます。そのことを作品の内部に組み込もうと思いました。例えばエスプレッソの給仕もそうした関係のトリガーとしても機能していたと思います。
そもそも鑑賞体験というのは一意ではないと思いますが、一方で、鑑賞者の前提によって受け取ることのできる主題自体が大きく変わってしまいますよね。その問題についてはどう思いますか?
一つ前の質問に対する回答とも重複しますが、それは条件の問題です。条件は避けられえないものですが、それについて積極的に考えることもできるし、あたり前のこととして受け入れ、問題として扱わないということもできます。作品では、オーディオガイドでの説明や作品の形態=形式的特徴を通じて幾つかの文脈を参照しています。こうした参照関係についてはなるべくその道筋をたどることができるように設計していますが、全てをたどることの難しさについても理解しています。そしてなにより、このようなリファレンスは私自身が意図しないレベルでも起きうるものです。私にとって、作品制作とは、こうした起きうるべき幾つかの鑑賞のヴァージョンを想定した上で、ある特定のレベルにおいて一定のパフォーマンスが発揮されるようにチューニングしていく作業です。それは単に「鑑賞者の前提」に限った話ではなく、作品内テキストの多言語対応や展示記録の方法、再展示する場合の検討にまで敷衍して考えられる問題です。
ナレーションの内容で描かれているような、さまざまな事例が非常に興味深かったです。事例のチョイスにはどのような配慮を行いましたか?
これといった配慮はしていませんが、単一のコンテクストに収斂させないようにということと、美術史的な意味での同時代性を無視しないということには注意しました。自分が美術作品として提示しているということは自覚的でありつつ、美術に内在的になりすぎないというバランスです。その上でAmazonというプラットフォームは便利でした。購入し展示した対象のほとんどは、私のAmazonアカウントのウィッシュリストの中から選びました。私はウィッシュリストをあまり整理していないので、私生活で必要なものと研究や制作に必要なものが混在しています。
ツイッターで、Aram BarhollやKatja Novitskova、Walead Beshtyの作品の例を引き合いに、ポストインターネットについて言及されていましたね。また今回展示会場の造作にも、輸送への問題意識が展示全体にも反映されていると感じました。こうしたモチーフにフォーカスするのにはどのような動機があったのでしょうか?
哲学研究者のルイ・ドゥーラスは『Within Postinternet Part I』のなかで「美術の文脈において、ポストインターネットという言葉は、単にインターネットによるコンテンポラリーアート全般のデジタル化・脱中心化、ないしはニューメディアの特性に対する諦めを意味していると考えられる。それゆえ、〔このような文脈において〕ポストインターネットはカテゴリーではなく、状況=条件、すなわち同時代的な美術である、ということだ」と述べています。これは身も蓋もない主張ですが、主張自体には同意します。重要なのはポストインターネットを条件と捉えることです。BarhollやNovitskovaの、インターネットアイコンやストックイメージを現実に設置〔install〕するというアプローチには、ポストインターネット的条件すなわち「コンテンポラリーアート全般のデジタル化・脱中心化」にあって物理的な作品を制作し、輸送して設置するという政治性を見ることができます。それを考える上でBeshtyの「FedEx boxes」のシリーズは重要です。また、Beshtyに関してはポストインターネット・アートにおけるミニマリズムやライトアンドスペースの影響を考える上でも重要なリファレンスたり得ると思います。
オーディオガイドでは、実際の商品と記号としての商品との間をつなぐインターフェースとしてAmazonを扱おうと思いました。そこには当然佐川急便という外部システムの労働が含まれます(それは配送ラベルによって明らかにされています)。画像やレビューを通じて見ていた対象がクリックによって自宅に配送される。そのような状況=条件自体を作品では扱っています。インターネットによって多層化した商品との関わりについては、先の質問でも指摘のあった「鑑賞体験というのは一意ではない」ということともつながる問題だと思います。繰り返しになりますが、それは作品はもちろんのこと、展示という形式=形態や鑑賞経験の条件を作品のなかで扱うという動機に基づいているということです。