今回は1970年に開催された大阪万博(日本万国博覧会、EXPO’70)におけるコンピュータアートについて考察したい。以前の回でも触れたように、大阪万博は黎明期のコンピュータアートにとって、ひいては日本の戦後美術全体にとっても大きなターニングポイントとなった。大阪万博には当時の前衛芸術家が総動員され、「企業の論理や資本の論理に晒された1」ことによって疲弊していったことが指摘されている。そして、このことは、コンピュータアートが下火となっていった要因としても語られてきた。しかし、黎明期のコンピュータアートの動向に即して、より具体的に事態を確認していくと、そこには別の様相も見えてくる。すなわち、コンピュータを利用した表現が、プロッターによる出力に代表される可視的で物質的な「作品」の形式から、映像や演出の制御、さらには環境そのものの制御へと展開していき、それゆえに「作品」としての輪郭を失っていった過程としても捉えることができるのである。今回は、その転換を山田学と月尾嘉男による実践を通して確認していきたい。
戦後日本美術を専門とする美術史家の富井玲子は、芸術の表象を影で支える運営や制度など、オペレーション側の活動に着目した『オペレーションの思想―戦後日本美術史における見えない手2』(2024年)を著している。富井は同書において、大阪万博について、「定番のトピックとして比較的研究が進んでいること3」を理由に大きく扱ってはいないが、次のように言及している。
草月アートセンターについては、インターメディア的な動向への注視が反芸術作家たちと共振し、非芸術を迂回して70年代以降のビデオ・アートなどの動きへと繋がっていく。一方、オペレーションから万博を考えると、資本力のなかった反芸術作家たちが国家や企業の潤沢な予算を得た結果、魚が水に溺れた感もある。万博における現代美術の読み直し自体も進んでいるが、万博の後に続いていく70年代美術への負の遺産としての意味を今一度検討する余地があるだろうと私は考えている4。
このように富井は大阪万博を、あらためて検討する余地のある「70年代美術への負の遺産」と捉えている。それは、前衛芸術家たちが国家や企業の潤沢な予算のもとに急速に組み込まれることで、それまでの芸術実践の姿勢やメジャメントが変質してしまったことを意味している。
私見では、大阪万博のオペレーションを考察するうえで重要なのは、組織や制度だけでなく、システムによる制御という側面にこそ踏み込むことである。たしかに、富井のように芸術活動の後景にある制度やインフラを解きほぐすアプローチを行うならば、おそらく大阪万博の運営委員会・実行委員会等の組織や体制、およびその予算などに着目することは欠かせない。そして、そのような研究はすでに多くの蓄積があるだろう。しかし、そこでより重要なのは、来客の動線や場の状態を把握しながら、日々の運営のなかで演出と環境制御を担ったコンピュータシステム群の存在、あるいはその構想である。そしてその代表的な事例として挙げられるのが、山田が大きな役割を担った「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造」というプロジェクトであり、磯崎が構想し、月尾がその実装を担った「お祭り広場装置」である。
- このような主張は、坂根巌夫「コンピュータ・アートの未来 その原罪性を超えるために」などで確認することができる。『コンピュートピア別冊 コンピュータ・芸術 テクノロジーと社会/アートと人間の間』、コンピュータ・エージ社、1973年 pp.52-59 所収
- 富井玲子『オペレーションの思想――戦後日本美術史における見えない手』、イースト・プレス、2024年
- ibid、p.94
- ibid、p.94
環境芸術の大実験場
ある意味で大阪万博は、1960年代後半の前衛が志向した「環境5」「インターメディア」「ハプニング」「エレクトロニクス」を、国家事業と企業パビリオンの巨大なシステムの中で一挙に実現してしまった場だった。とりわけ、前衛とテクノロジーとの関わりが深い、せんい館、ペプシ館、鉄鋼館、三井グループ館、そして本稿で中心的に取り上げる「お祭り広場」において、そのことは顕著である6。飯田豊によれば、「色彩と空間」展と「空間から環境へ」展(ともに1966年)をキュレーションしていた東野芳明は、万博に「環境芸術の大実験場」としての期待を表明していた7。しかしそこで求められたのは、自律した単独作品というより、会場全体を構成する環境演出の一部としての制作だった。
また、67年のモントリオール万博の手法を踏襲し、「映像博」としての側面も持った大阪万博は、会場内に多くのマルチスクリーンが配備され、光学映像が飽和するような有り様は批判の対象にもなっていた8。そうしたなかで、コンピュータによる固有の表現もまた、エンターテインメント色の強い装置やシステムの一部へと組み込まれていった。
大阪万博と美術をめぐっては、2005年に椹木野衣が『戦争と万博9』を著し、その問題系を大きく切り開いている。さらに、椹木は「大阪万博―前衛芸術の滝壺10」の中で、万博に参画した作家・美術関係者の詳細な情報を整理している。大阪万博には「夜の会」、「実験工房」、「具体美術協会」、「ネオダダ」、「エンバイラメントの会」、「グループ音楽」といったグループの美術家たちが参画しており、椹木は「イデオロギーや理論的背景、活動時期の区分を超え、会場計画に惜しげもなく投入され、作家もまたこれを拒まずに受け入れたことが伺える」と述べている。本稿では、このように戦後美術の様々な潮流が一堂に会する「滝壺」となった大阪万博において、コンピュータアートという小さな支流がどのような立場で合流し、そこにどのような葛藤があったのかを明らかにしたい。
- 「環境」はマクルーハンの芸術理論の中心的な概念として知られているが、椹木野衣の『戦争と万博』(講談社学術文庫p.22)によれば、日本における「環境」概念の起源は浅田孝に求めることができるという。椹木はここで浅田孝が大阪万博の初期計画に関わっていたことを明らかにしている。また、磯崎新こそが「メタボリズムの背後の浅田孝と、実験工房の背後の瀧口修造、その双方の流れを汲んで万博に臨んだ」と述べている。
- ここで挙げた施設には、当時の前衛芸術やインターメディア実践に深く関わる作家たちが参加していた。たとえば、せんい館には松本俊夫、横尾忠則、吉村益信、四谷シモン、ペプシ館にはE.A.T.、鉄鋼館には武満徹、宇佐美圭司、イアニス・クセナキス、高橋悠治、三井グループ館には山口勝弘らが関わっていた。
- 飯田豊「マクルーハン,環境芸術,大阪万博――60年代日本の美術評論におけるマクルーハン受容」『立命館産業社会論集』第48巻第4号、2013年3月、pp.103–122.参照。 飯田によれば「色彩と空間」展は1966年4月にニューヨークのジューイッシュ美術館で開催された「プライマリー・ストラクチャーズ」展に影響を受けて企画された。
また、「色彩と空間」展については、伊村靖子「「色彩と空間」展から大阪万博まで」、『現代思想』2020年3月臨時増刊号(第48巻第3号)「総特集=磯崎新」、青土社、2020年、pp.351-363が詳しい。 - 大阪万博におけるマルチスクリーンによる光学映像の氾濫への批判は、その後反省を促し、70年代以降の、山口勝弘や中谷芙二子らによるビデオ・アートの動きへと繋がっていく。(暮沢剛巳・飯田豊・江藤光紀・加島卓・鯖江秀樹・ウィリアム・O・ガードナー『万国博覧会と「日本」――アートとメディアの視点から』、勁草書房、2024年の第1章 飯田豊「「映像博」の日本的展開」参照)
- 椹木野衣『戦争と万博』、講談社、2025年
- 椹木野衣「大阪万博―前衛芸術の滝壺」平野暁臣編著『大阪万博 20世紀が夢見た21世紀』小学館クリエイティブ、2014年、pp.212-215
大阪万博に参画したコンピュータアーティスト
これまで私が連載のなかで取り上げてきたコンピュータアーティストのうち、大阪万博に参加した人物としては、CTG解散後も継続してアーティストとして活動していた幸村真佐男と、SARASVATIの山田学・月尾嘉男があげられる。ただし、幸村は自作を出展していたわけではなく、石岡瑛子のポスター作品のCGを担当していた11。また、山田と月尾も、みずからのコンピュータアニメーション作品を万博に出展していたわけではない。だが彼らこそ、万博の裏舞台においてコンピュータを実際に作動させる側にいた人物たちであった。
本連載の第一回で紹介したように、山田と月尾はコンピュータアニメーション作品《風雅の技法》(1967年)で知られている。この作品では立方体が回転し、変形し、増殖する様子がコマ撮りによって制作されていた。しかし重要なのは、山田と月尾がコンピュータアニメーションの作家である以上に、丹下健三研究室に所属する都市工学者として、積極的に都市計画にコンピュータを応用する実践を進めていたことである。そして、《風雅の技法》もまた、そのような実践の延長上で生み出された作品だったという事実である。2013年に出版された『丹下健三を語る12』の中で、月尾は次のように述べている。
個人的な最大の成果は、世界最初のコンピュータアニメーション(山田・月尾「風雅の技法」)で、これは僕がシステム工学の石井威望先生と丹下研究室の先輩である西原清之さんと一緒に集合住宅の最適設計をコンピュータで行なっていた結果が契機になっています。時期は66から67年頃ではないかと思います。「風雅の技法」はこの時に多数の透視図をコンピュータで描いたのですが、それをコマ撮りして3分弱のアニメーションにしたもので、海外でも上映されました。誰がアップしたのかは知りませんがYouTubeにもあります13。
ここで月尾が《風雅の技法》を「個人的な最大の成果」として振り返っていることは注目に値する。月尾は他の著作でも度々「風雅の技法」について言及しており、それが月尾自身にとっても重要な経験だったことが伺える14。さらに重要なのは、月尾がこの作品の成立を、「集合住宅の最適設計」という都市工学的な計算機利用の文脈のなかで説明している点である。西原清之の著作『空間のシステムデザイン』を見ると、KAM-1プロジェクトと呼ばれる東京の国電K駅前再開発調査の解説の中で、プロッターによる集合住宅の建物ユニットの作図がすでに試みられていたことがわかる15。月尾はこのプロジェクトに参画しており、《風雅の技法》は、こうした作図法や配置シミュレーションの延長上で生み出された16。

SARASVATI (山田学、月尾嘉男)《風雅の技法》(1967年)の一場面

プロッターによる建物ユニットの図 出典:西原清之『空間のシステムデザイン』、彰国社、1973年、p.206
- 2026年3月に著者とNEORTのNori、MASSAGE MAGAZINEの庄野の3名で中京大学の大泉和文研究室を訪問した。大泉氏には長時間にわたるインタビューをさせていただくとともに、膨大な川野洋、CTGに関わる資料を閲覧させていただいた。その際に、石岡瑛子のポスター作品で利用された幸村真佐男のプログラムの資料も閲覧させていただくことができた。
- 槇文彦、神谷宏治編著『丹下健三を語る 初期から1970年までの軌跡』、鹿島出版会、2013年
- ibid、p.197
- 1939年生まれの山田学と42年生まれの月尾嘉男は、同じ高校の3年違いの先輩・後輩の関係であり、雑誌『都市住宅』の表紙を二人に任せた杉浦康平は、「山田=月尾両君がいつもセットになっていた」とも述べている(ibid. pp.192-193. 参照)。山田が後年「風雅の技法」をどのように語っているかも確認したいところだが、山田は東京大学都市工学科助手を経て85年から准教授を務めていたなか、95年1月に亡くなっている(東京大学都市デザイン研究室『Urban Design Lab. Magazine 都市デザイン研究室マガジン vol.280, Jun. 30th 2019, 6』、2019年、p.2参照)。
- 西原清之『空間のシステムデザイン』、彰国社、1973年
先行研究と本稿の位置づけ
大阪万博に関する先行研究は膨大であり、そのすべてを確認できているわけではないが、少なくとも本稿のテーマに関わるところでは、主として三つの研究潮流を見出すことができる。第一に、前衛芸術家の動員、万博批判、あるいは国家・企業・制度との関係を問う美術史的・思想史的研究である。第二に、映像博、環境芸術、インターメディア、さらにはその後のビデオアートやメディアアートへの連関を論じる研究である。第三に、大阪万博との関わりの強い丹下健三研究室や都市計画におけるコンピュータ利用に関する研究であり、景観設計、交通計画、視覚構造分析、シミュレーション技法の意義を明らかにしてきた。そのなかに、山田学と月尾嘉男についての研究が含まれている。
しかし、これら三つの研究領域は必ずしも十分に接続されてこなかった。特に、黎明期のコンピュータアートの文脈から大阪万博について論じた研究、また山田学と月尾嘉男の理論と実践の両面から検討した研究は、なお十分ではない。
本稿では、山田と月尾の二人が大阪万博でどのような役割を担ったのかを追う。ただし、山田と月尾に焦点を当てるがゆえに、運営や各パビリオンで実践された個別のコンピュータ利用の豊穣な事例については取り扱うことができなかった17。そこにはコンピュータアートの文脈において顧みられるべき多くの実験があったに違いない。しかし、本稿の課題は、そうした広範な事例を網羅することではなく、山田と月尾の実践を通して、大阪万博におけるコンピュータ利用の重心がどこにあったのかを捉え直すことにある。
- 都市計画におけるコンピュータ利用によって生まれた立方体の作図が、コンピュータアートの作品《風雅の技法》に繋がったことは興味深い。ここで注目したいのは、ソル・ルウィットも、山田・月尾と同様にI. M.ペイの建築事務所でグラフィックデザインの仕事についた経験があるという共通点である。ルウィットはアシスタントに指示をして「ストラクチャー」の制作を行なったが。このスタイルは建築事務所での勤務経験の影響によるものだと言われている。コンピュータのコード(パンチカード)による立方体の作図と、指示(指示書)による作図とはやはり共通性を持っていたのである。(2025年12月から2026年4月まで東京都現代美術館で「ソル・ルウィット オープン・ストラクチャー」展が開催されていた。)
- 月尾が「情報システム」というテキストで整理している通り、万博では案内情報サービスや、入退場者管理、駐車場管理、待ち合わせ案内など、さまざまな情報システムが稼働していた。また、日本の最初期のビデオゲームや、さまざまなエンターテイメントの装置が来場者を愉しませていた。
1. 万博批判と前衛芸術家の動員
大阪万博に対する批判は、開幕以前からすでに明確なかたちをとって現れていた。ここでは、山田と月尾の実践に入る前に、万博批判に関わるいくつかの代表的な事例を見ておきたい。少なくとも、これらの批判の文脈は、山田と月尾の実践とも無関係ではなかった。
まず挙げられるのが、亀倉雄策による批判である。亀倉は1969年2月21日の『読売新聞』夕刊紙上で、万博に参加した建築家、画家、デザイナー、音楽家、映画監督、評論家らの名を列挙し、彼らを「万博に動員された前衛芸術家」として批判した18。また、亀倉は自身が万博を訪れた体験にもとづく「万国博のむなしさ19」では、「万博の宿命といえば、この雑多な人間群に対して説得力のあるもの以外は価値がないということを知らなければならない」と述べている。亀倉がここで指摘しているのは、前衛芸術を大衆に対して「見世物小屋形式」で提示することのむなしさであり20、前衛芸術が国家的事業の内部に組み込まれることで、その自律性や批判性を失っていくという事態であった。
美術評論の領域において、より強い調子で万博を批判したのが針生一郎である。針生は1969年に刊行された編著『われわれにとって万博とはなにか21』において、1970年の万博を、予想される安保闘争から人々の関心をそらし、繁栄と進歩の幻想へと誘導する巨大なカムフラージュ装置として捉え、情報技術を含む現代のテクノロジーが権力や資本との結びつきを強める一方で、感覚や思想そのものを商品化し、操作と支配の手段へと変えていく危険を指摘している22。万博批判は個別の感想にとどまらず、批評的言説として形成されていたのである。
この『われわれにとって万博とはなにか』に収められた対談で、たびたび名指しされているのが当時お祭り広場の装置の準備に奔走していた磯崎新である。建築の領域にとどまらず美術業界とも深く関わっていた磯崎は、針生に親しみを込めて「磯崎君」と呼ばれる一方で、同時に批判の対象にもなっていた。五十嵐太郎によれば、磯崎はお祭り広場を中心に万博の準備に携わっていた間でも、「お祭りと広場の合体。手放しの楽天主義。お目でたいことづくめ」、「いかなる壮大な都市計画も、背後に廃墟を背負っている」と批判を行なっていたという23。「廃墟」は敗戦を14歳で迎えた磯崎にとって原風景であり、1968年のミラノ・トリエンナーレでは《ふたたび廃墟になったヒロシマ》を出展していた。
このように準備の時期からアンビバレントな立場にいた磯崎をめぐっては、万博開幕と同時に病院へ運び込まれたというエピソードがよく知られている。膨大な時間と労力を費やしたにもかかわらず、自らの構想と仕事が思うように実現しなかったことで、彼は肉体的にも精神的にも大きな打撃を受けたのだという24。
さらに注目すべきなのは、万博閉幕後に磯崎自身がこの経験をどのように総括したかである。磯崎は、大阪万博の翌年に刊行された東野芳明編『芸術のすすめ』(1971年)所収の「テクノロジー・芸術・体制25」において、最初にナチス体制下で都市計画とホロコーストの双方に関与した建築家アルベルト・シュペーアの事例について論じた上で、自らが参画したお祭り広場の実践を、「体制の完全な管理下に置かれてしまった」もの、すなわち「敗退」であったものとして位置づけている。詳細は後述するが、このお祭り広場こそ、月尾嘉男がコンピュータ・プログラムの実装において中心的な役割を担い、山田学がコンピュータアートのあるべきかたちとして肯定的に論じた対象でもあった。だが磯崎は、次のように述べる。
管理というソフトな技術が、規制をつくるというやりかたをつうじて、この広場で駆使された。ソフトなテクノロジーが支える空間が観客の自発性を誘発し、参加を成立させるという構想が、管理の主導権を握った主催者達によって、皮肉にも排除と抑圧と疎外という、裏がえしの使われかたに陥ってしまった。この広場は体制によって水準化されたといってもよい。所詮それは体制がつくりだした「にせの祭り」であったからだ、という批評も成り立つであろう。
体制がテクノロジーを芸術と結びつけるような試みを、ものの見事に収奪してしまった、という、この文章の表題となったような関係を考えざるを得ない現象が、たしかにおこってしまった。何か眼に見えない者の手に、この広場はうばい去られたのではないか。あとには、全身から力がぬけおちるような徒労感だけが残ってしまった。不可視のものをつくろうと試みながら、つくる過程でやはり不可視なものから逆支配される、私はまったく道化役者を演じたのではなかったか。シュペーア程の壮大な道化にも至らない、はやばやと墜落してしまっただけではなかったか26。
この発言から読み取れるのは、観客の自発性を誘発し、参加を成立させるはずだった環境が、逆に制度的・技術的な力のもとで排除と抑圧の装置へと変質してしまうという事態である。そこに大阪万博の根本的な両義性があらわれている。しかし同時に、ここには技術の作動様式そのものに関わる問題、すなわちハイデガーのいう「総駆り立て体制(Ge-stell)」を想起させる局面もある。可能性を拓くために実験されていた技術が、その操作者である人間をも含めて、知覚や行動を配列し、管理する装置へと反転しうるのである。磯崎がお祭り広場に見た「不可視なものから」の「逆支配」は、まさにこの転倒として読むことができる27。

お祭り広場の写真 出典: 「EXPO’70の記録(I)」『工芸ニュース』第38巻第3号、丸善、1970年、p.16
テクノロジーアートが「企業の論理や資本の論理に晒された」ことの代表例としては、E.A.T.(Experiments in Art and Technology)によるペプシ館も挙げられる。E.A.T.は、ロバート・ラウシェンバーグとベル電話研究所のエンジニア、ビリー・クルーヴァーによって1966年に設立された、芸術家と技術者の協働を促進する非営利組織である。大阪万博ではペプシ館の設計・演出・プログラムを担い、中谷芙二子もそこに加わって、技術者との協働のもとで霧の彫刻を構想・実現した。しかし暮沢剛巳によれば、ペプシ館では準備段階から施工現場とE.A.T.のあいだで対立が生じ、工事は難航した。さらに開幕後にはペプシコ社とE.A.T.の関係が悪化し、プログラムは中止に追い込まれた。その結果、E.A.T.は開幕後わずか40日間で撤退することになったという28。
最後に、宇佐美圭司による大阪万博後の回想を見ておきたい。宇佐美は67年にパリ青年ビエンナーレに参加し、68年にはレーザー光線を駆使した代表作《Laser: Beam: Joint》を発表するなどの活躍を見せ、鉄鋼館には美術監督として参加していた。そんな宇佐美は、万博の翌年『美術手帖』1971年6月号掲載の「ポスト万博の動き」のなかで次のように語っている。
万博はもう遠い昔の出来事のような気がする。それは悪夢のように私たちを過ぎ去ったのだろうか。私自身について言えば、ほぼ二年間、作品製作にかけた日々と「エンカウンター’70」と名付けた作品は、万博そのものから遊離して、強いリアリティーを今も残している。
誰も万博をもう語らない。そして私もまた語りたくはない。しかしあの時、問いかけられた参加の論理は、今もその解答を迫り続けていることに違いはない。お祭りは、今も続いており、明日もまたお祭りなのだから29。
宇佐美の発言が示唆的なのは、万博での制作経験そのものを単純に否定しているのではない点にある。実際この文章で宇佐美は、閉幕後大阪府に寄贈された鉄鋼館のホールを使い、武満徹らと継続的に実験的な試みを行う可能性にも触れている。宇佐美が「今もその解答を迫り続けている」と述べる「参加の論理」とは、芸術が巨大な制度、資本、テクノロジーと結びつくとき、作家はいかに関わるのかという問いにほかならない。そして「お祭りは、今も続いており、明日もまたお祭りなのだから」という言葉は、万博という出来事が反復するという意味ではなく、芸術が制度や資本の大きな演出の仕組みに取り込まれていく構造が、その後もなお形を変えながら続いているという認識を表していると考えられる30。
以上の批判や回想から確認できるのは、大阪万博が単に前衛芸術家を「動員」した場だったということだけではない。より重要なのは、テクノロジーとアートの前衛的な結合が未来的な可能性を示すものとして期待されながらも、同時に制度と管理の論理へと容易に反転しうるものとして語られ、経験されていたことである。そして、この点でもっとも示唆的なのは、磯崎新の証言である。大阪万博におけるコンピュータと環境制御の問題は、まさにこの両義性のなかで捉えられなければならない。
- 針生一郎編『われわれにとって万博とはなにか』、田畑書店、1969年、p.266。本書では様々な媒体に掲載された各種の大阪万博批判の文章を「資料」として掲載している。
- 亀倉雄策「万国博のむなしさ」『工芸ニュース』第38巻第3号、丸善、1970年11月、pp.30-31。ここで亀倉はパビリオンを歩いて移動する肉体的疲れと、「農協かなんかのオトッサンやオッカサン」がゾロゾロ歩いている「農協的雰囲気」の疲れによって、「文化とか芸術とか言うものを感じる神経がひどく鈍ってしまった」と述べる。そしてこのような作用が働くことが万博というものの決定的な宿命であると思う、と述べる。「農協的雰囲気」という表現はやや問題があるとも思うが、この亀倉の率直な感想は、後世に芸術作品を芸術関係者が語る際に見落とされがちな実態的な状況を示していると思われる。
- 亀倉のように大阪万博に来場した上での批判は、後年にも多く確認することができる。例えば、藤森照信は伊東豊雄との対談で大阪万博について、「行きました。当時大学生だったのですが、つまらないと思った。」と述べている。そして、伊東も月尾がオープン前に見せてくれたお祭り広場を見て、「これが未来都市かと愕然として、他は見に行かなかった」と述べている。伊東豊雄・藤森照信「1970年代 自閉する住宅」『現代建築を語る』東西アスファルト事業協同組合、2019年
- 針生一郎編『われわれにとって万博とはなにか』、田畑書店、1969年 ここには、多木浩二による「万博反対論」「知の頽廃」「EXPOSE・1968 なにかいってくれ、いまさがす批評」も収められている。
- ibid、p.2
- 五十嵐太郎「大阪万博の建築群〜モダニズムからポストモダンへ」、平野暁臣編著『大阪万博 20世紀が夢見た21世紀』小学館クリエイティブ、2014年、pp.164-167
- 木藤野絵「大阪万博における吉村益信の活動について –「せんい館」と「お祭り広場」を中心に」、『大分県立美術館研究紀要 第7号』、大分県立美術館、2023年、p.52
田中純『磯崎新論』によれば磯崎は大阪万博の開会式前夜まで、諸装置の動作確認に奔走し、帰り着いた明け方に帰りついた宿で「ぎっくり腰に襲われ、身動きがとれなく」なってしまったという。(田中純『磯崎新論』、講談社、2024年、p.192 参照) - 磯崎新「テクノロジー・芸術・体制」、東野芳明編『芸術のすすめ』筑摩書房、1972年所収、pp.127-167
- ibid. pp.166-167.
- 豊川斎赫によれば、インタビューの中で磯崎は当時を振り返り、お祭り広場を構想する中で「技術の魔力」に魅せられていく事態を、歴史家ジョン・ダワーが「原爆の父」と称されるロバート、オッペンハイマーらの心性について論じた研究の中で使う“scientific sweetness”という語彙で説明したという。豊川斎赫『群像としての丹下研究室―戦後日本建築・都市史のメインストリーム』、オーム社、2012年、p.360
- 暮沢剛巳・江藤光紀『大阪万博が演出した未来――前衛芸術の想像力とその時代』、青弓社、2014年、第5章 暮沢剛巳「ペプシ館――「独自の単一性と全体性」に見るモントリオール万博からの問題継起」を参照
- 宇佐美圭司「ポスト万博の動き」『美術手帖』第23巻第343号、美術出版社、1971年6月、pp.24-25
- こうした論点は、芸術とテクノロジーの結びつきが別の仕方で拡大している現在を考えるうえでも、なお有効である。
2. 山田学と月尾嘉男による都市計画へのコンピュータ利用の実践
1970年の『工芸ニュース』第38巻第3号「EXPO’70のデザイン・システムとプロセス:座談会」に掲載された大阪万博の工程年表を見ると、1966年の「会場基本計画原案作成委員会」に31、チーフ・プランナーとして西山夘三と丹下健三の名前が記されており、コア・スタッフには磯崎新、上田篤、曽根幸一らと並んで山田学の名前を確認することができる。1966年は《風雅の技法》(1967年)が制作される前年にあたるが、山田はコンピュータアニメーションの制作と並行して、本業である都市計画の現場においても、すでに重要な役割を担っていた。

大阪万博の工程年表の1966年から68年の箇所 出典:「EXPO’70のデザイン・システムとプロセス:座談会」『工芸ニュース』第38巻第3号、丸善、1970年、p.55
丹下研究室におけるコンピュータ利用
丹下健三研究室におけるコンピュータ利用を考えるうえで重要なのが、水谷晃啓「丹下健三研究室のコンピュータ利用の再評価と今日的意義について32」(2016年)である。水谷によれば、丹下研究室におけるコンピュータ利用は、山田学・月尾嘉男を中心に、1963年の「東京都庁舎の庁内の職員、来客に関する流動調査」から始まった。そして、それは1966年の都市計画学会に提出された「道路の景観設計33」、1967年の「「URTRAN」の開発34」、そして「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造35」という一連の論文・実践へと展開していった。これらのコンピュータ導入手法は、ハーバード大学・MITの Joint Center for Urbanism、とりわけケヴィン・リンチの影響が強く認められるが、同時に、それ以前から丹下研究室が蓄積していた都市研究の方法とも接続していた36。
- なお、この年表の中で、お祭り広場の装置設計は1968年に、シンボルゾーン基本構想から派生する一つの工程として記載されている。
- 水谷晃啓:「丹下健三研究室のコンピュータ利用の再評価と今日的意義について―コンピュータシミュレーションを用いたデザイン手法とその理論に着目して―」、『日本建築学会環境系論文集』、81巻723号、2016年、pp.487-494。水谷によれば丹下研究室に関する主要な先行研究として、藤森照信と豊川斎赫、八束はじめによる研究を紹介している。豊川の『群像としての丹下研究室』には山田学の博士論文についての記述も確認することができる。
- 渡辺定夫・山田学・荒田厚・松本敏行「道路の景観設計」『都市計画論文集』第1号、1966年、pp.51–56
- 渡辺定夫・山田学・荒田厚・月尾嘉男「『URTRAN』の開発」『都市計画論文集』第2巻、1967年、pp.51–57
- 奥平耕造・山田学・鳥栖那智夫・松本敏行「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造」『都市計画論文集』第2巻、1967年、pp.59–67
- 水谷晃啓「丹下健三研究室のコンピュータ利用の再評価と今日的意義について―コンピュータシミュレーションを用いたデザイン手法とその理論に着目して―」『日本建築学会環境系論文集』81巻723号、2016年、p.488
「URTRANの開発」
URTRANとは、都市計画における各種プロセスに対応する専門言語体系の構築を目指した試みである。この体系を構築することは、ただコンピュータ利用の利便性に寄与するというだけでなく、都市計画における「人間―機械系」を具体的で明晰なものとすることで、論理性を高めることが志向された。その構想についてまとめた論文が「URTRANの開発」であり、著者は渡辺定夫と山田学、荒田厚、月尾嘉男となっている。この論文は『コンピュートピア』1969年2月号に、月尾嘉男の名義で「都市計画のための言語体系:URTRAN」として掲載されており、本文末には元論文を書き改めたものである旨が記されている。このことからも、URTRANの構築において月尾の役割が大きかったことがうかがえる。
「URTRANの開発」では、都市計画を「(I).現状分析」、「(Ⅱ).予測」、「(Ⅲ).計画案作成」、「(Ⅳ).評価・シミュレーション」という四段階に分け、それぞれを処理するサブルーチン群が構想されている。それに対して都市計画の変数として「(A)蓄積された量(例:昼間人口、夜間人口、商品販売額など)」、「(B)流れの量(例:通勤通学者数、自動車O-D数など)」、「(C)空間体系(例:行政区画、地形条件、交通ネットワークなど)」の3つのカテゴリーを設定し、それらのデータを相互に連携させながら計画の進行と共に用いることが想定されていた。このようにURTRANは都市を静止した平面としてではなく、地点同士の関係、交通や通信の流れ、空間配置の変化を含む動的なものとして捉え、それを計算と図化の両面から扱おうとしていたのである。
論文には具体的な命令名についても説明が記載されている。例えば CALL POTNT は各点のポテンシャル値を求めるもので、CALL GRAPH は地点間の結合関係を図示し、CALL STMAP や CALL FLMAP はデータを地図上に描くためのものであった。さらに予測の段階では、CALL LSQET による最小二乗法、CALL MRKET によるマルコフ過程、評価の段階では CALL ASIGN1 や CALL ASIGN2 による交通量配分が想定されていた。また、「その他に、特殊な入出力装置を付加することにより図形で入力したり、立体写真で出力したり、アニメーションの形で出力したりすることも可能である」という記述があり、山田と月尾のアニメーション形式へのこだわりや意欲もうかがわせる。
水谷晃啓と八束はじめは「丹下健三研究室のコンピュータ利用の評価とその今日的応用方法の検討」の中でURTRANについても詳細な検証を行い、ProcessingとRhinoceros+Grasshopperを用いて、その「今日的な応用」を試みている。その中で、水谷と八束は、URTRANが三つのサブシステムから構成されていたことを指摘して、次のように述べている。
丹下研は、愛称 「ウルボット」、「リボット」、「グラフォット」の三つのモデルから構成されるコンピュータ・システムの開発を目指した。「リボット」は分布検定・予測・相関・ポテンシャル・支配関係等の演算を行うとされ、「グラフォット」は図面や写真などの解析を通じて空間の利用状況を図示し、透視図などを作成するものとされた。この二つが連結して図表や図面などの報告書を作成し、その報告書のデータから計画案を出力するのが「ウルボット」であるとされた37。
ここで示されている「ウルボット」、「リボット」、「グラフォット」という三つのモデルは、四段階の処理の中をフィードバックループによって往復しながら連携される構想だったと考えられる。水谷・八束は、URTRANが「交通工学に基づいて開発された「ICES38」よりも、より本質的なデザインを可能とする統合的なシステムの開発を目指していた」と評価している。また、丹下研究室が「人間―機械系」を明確に体系化しようとした点を評価し、「丹下研のコンピュータ利用および言語開発は、単に時間や労力を抑えるために行われたのではなく、コンピュータを導入することで、デザイナーの思考やデザインのプロセスを明確化し、計画自体の論理性を高めることが目的であったといえる」と述べる。
月尾自身の回想によれば、月尾の修士論文はURTRANを構成する三つのサブシステムの一つ「URBOT(ウルボット)」に関するものだった。内部の個別プログラムについては、景観シミュレーションや歩行者移動の初期プログラムを山田が、交通シミュレーションや集合住宅の構成、地図作成のプログラムを月尾が主に担っていたという39。しかし、月尾によれば「URBOT」はすべて実用段階には至らなかったという。水谷・八束も「丹下研のコンピュータ利用は十分に発展しないまま70年代以降行われなくなった」と述べている。おそらくそこには、個別のプログラムを作ることはできても、それらをフィードバックループで相互に連携させ、一つのシステムとして安定的に運用することが、当時の計算機環境では難しかったという事情があったのではないかと考えられる。後述するお祭り広場で実現することが困難だった箇所も、このフィードバックの部分である。論文では特に「(Ⅲ).計画案作成」と「(Ⅳ).評価・シミュレーション」との間でのフィードバックが多い旨の記述があり、難易度の高さが想像される。実際、「URTRANの開発」が執筆された段階では「まだ使用機器も最終的に決定していない」状況であり、出力形式についても「可能な限りグラフィックディスプレイの方向へ進める」という記述にとどまっており、実際にどの程度まで実現されたのかは定かではない。

「URTRANの開発」に掲載された図 ここでも複数の立方体が配置された作図が掲載されている。
- 水谷晃啓・八束はじめ「丹下健三研究室のコンピュータ利用の評価とその今日的応用方法の検討」『第36回情報・システム・利用・技術シンポジウム 2013』日本建築学会・情報システム技術委員会、2013年、p.263
- ICESはIntegrated Civil Engineering. Systemの略で、1960年代にMITで構想・開発された、土木工学上の諸問題を統合的に処理する大規模コンピュータ・システムであり、道路・構造・交通解析などの個別領域を連携させることで、設計と計画の一貫的な計算環境を実現しようとした。
- 槇文彦、神谷宏治編著『丹下健三を語る 初期から1970年までの軌跡』、鹿島出版会、2013年、p.193 月尾嘉男と同級生の伊東豊雄は、1971年に株式会社アーバンロボット(URBOT)を設立しており、月尾とも働いていた。なお、月尾は「万国博覧会関係のシミュレーションなどは、当時、若松町にあったIBMの窓口にプログラムを持っていって計算してもらっていたと思います」と回想している。
「磐梯・猪苗代観光開発計画」
『Urban Design Lab. Magazine40』によれば、丹下研究室が関わった1966年の「磐梯・猪苗代観光開発計画」では、ケヴィン・リンチの『都市のイメージ』に端を発するかたちで、物理的空間の視覚構造に関する議論が行われていた。そのなかで山田学は、どの地点からどこが見えるのかを計算する独自のモデルを作成したという。当時、東京大学都市工学科助手だった渡辺定夫は、山田の仕事を次のように回想している。
この作用は、山田学が一生懸命頑張ったんだ。今は簡単だけど、地図上にグリッドをひいてグリッドごとに標高を全部出す。そして、どの山がどういうようにどこから見えるかっていうのかっていう[著者注:原文ママ]見える見えないモデルというのをコンピューターで山田学が頑張って作るんですよ。それで何と何が一緒に見えると、いわゆる八景図らしくなるかとか、画像としてどうなるかという、つまり地図上にイメージベースを作ることに関心があった。それは突き詰めていくと道路設計のルート設定に関係しそうだと。一方で、道路の方は上りも下りも含めて勾配の成分がある。その二つの制限条件の中で名物になるような景色というものを探すことができるのではというのがこれのテーマなんだよな41。
この証言が示しているのは、山田の実践が、ただある地点からの可視・不可視の判定だけを行なっていたわけではないということである。この計画は、自然保護地区と利用開発地区の区分、新たな観光自動車道の構想、高度な余暇生活に対応する観光都市計画という三つの柱から構成されていたが42、とりわけ観光自動車道の策定において、視覚構造の分析が中心的な役割を担っていた。問題となっていたのは、ある地点で何が見えるかという静止した眺望ではなく、移動にともなって景観がどのような順序で現れ、どのような印象の起伏を形成するかという経験の編成である。
豊川斎赫によれば、この計画では渡辺定夫、山田学ら丹下研メンバーに加え、川上秀光や鈴木忠義の視覚情報理論を基礎として、「よい景色とは何か」「パノラマをいかに構成するか」という方法論が探究されていた43。そこでは、シンボルがどのような順序で視野に入ると感動が生まれるのか(カタルシス・ポイント)が主題とされ、クラシック音楽の楽章に比せられる動的な景観設計が構想されている。このとき景観は、対象としての像ではなく、移動の過程において配列される系列として捉え直されている。このように、山田の試みは、地形、眺望、道路勾配、移動経路、景観の連なりを、空間的かつ時間的な体験として把握し、それをコンピュータによって計算可能な形式へと翻訳するものであったと言える。
この実践は、1967年に始まる「京都都市軸計画」へと引き継がれ、さらに大阪万博における群衆流動や視覚構造の分析へと接続していく。こうして見ると、「磐梯・猪苗代観光開発計画」は、コンピュータ利用が形態の生成から、知覚と移動の時間的編成へと展開していく過程を示す初期の重要な局面として位置づけることができる。

「磐梯・猪苗代地域観光基本計画」に掲載された「動景観設計」、福島県、1966年、出典: 渡辺定夫編著『アーバンデザインの現代的展望』、鹿島出版会、1993年
- 東京大学都市デザイン研究室『Urban Design Lab. Magazine 都市デザイン研究室マガジン vol.280, Jun. 30th 2019, 6』、『Urban Design Lab. Magazine 都市デザイン研究室マガジン vol.284, Oct. 28th 2019, 特集号』、2019年
- 東京大学都市デザイン研究室『Urban Design Lab. Magazine 都市デザイン研究室マガジン vol.284, Oct. 28th 2019, 特集号』、2019年、p.3
- 豊川斎赫『群像としての丹下研究室―戦後日本建築・都市史のメインストリーム』、オーム社、2012年、p.121
- ibid.
「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造」
大阪万博の会場計画において、丹下研究室が関わったプロジェクトが、1967年の「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造44」である。この論文は、奥平耕造、山田学、鳥栖那智夫、松本敏行の共著であり、大阪万博の会場を、一日に60万人規模の観客が流入し、滞留し、移動する巨大な環境として把握しようとしたものだった。当時の万博計画は、京大西山研究室が基本計画を担い、丹下研究室が実施設計を担当するという複雑な体制のもとで進められており、その内部調整も絶えず行われていた。そうしたなかで山田学と曽根幸一は、万博対応のため大阪に出向し、まず敷地の約半分を占める駐車場計画に取り組むとともに、中央・東・北・西口を結ぶ環状の単線モノレールや、各ゲートからお祭り広場へ来場者を円滑に導く動く歩道など、場内交通の骨格を構想した45。
山田らは、観客の動きを、会場内の拠点を示すセントロイドと、それらを結ぶリンクからなるネットワークの上でモデル化した。どのゲートから入り、どの方面へ向かい、どの施設に吸引されるのかを、全体構造として把握しようとしたのである。シミュレーションにはGPSS46が用いられ、さらにネットワークや吸引力配置の分析にはFORTRAN、FAP47、MAP48が使用されていた。
この論文で注目すべきなのは、流動分析だけではなく、視覚構造の分析が同時に行われている点である。山田らは、会場は「わかりやすくなければならない」と述べ、ケヴィン・リンチのlegibilityの議論を踏まえながら、方位認識、位置認識、方向認識という観点から会場空間を捉えている。そこでは、観客が移動の連なりのなかで空間を把握するシーケンシャル・モデルや、眺望範囲図を重ね合わせたポテンシャル・マップが用いられ、その結果はドット状の図として出力されていた。さらに本文中には、眺望範囲図から透視図を起こし、プロッターによって図化させたという記述も見られる。博覧会開催前には、このような群集流の特性が視覚構造との関係から予測分析され、開催期間中には大屋根の上から来場者の動きが観察されてコンピュータ解析が行われたという49。丹下研究室にとって、動線計画はそのまま会場構造の形成に関わる重要な課題であり、山田らの研究は会場設営において大きな役割を果たしたと考えられる。さらに、ここで展開された群集流のコンピュータ解析は、のちの沖縄国際海洋博覧会や筑波国際科学技術博覧会へと引き継がれていった50。コンピュータはここで、静止した図像を出力する装置ではなく、人間の移動と知覚のプロセスを把握し、環境全体を設計するための装置として機能していた。この点は、後に山田がコンピュータアートの核心を「時間性」や「プロセス・コントロール」に見いだしていくこととも深く結びついている。

「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造」に掲載されたシミュレーション結果の図
- 奥平耕造・山田学・鳥栖那智夫・松本敏行「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造」『都市計画論文集』第2巻、1967年、pp.59–67
- 豊川斎赫『群像としての丹下研究室―戦後日本建築・都市史のメインストリーム』、オーム社、2012年、p.325 この「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造」の著者に曽根幸一の名前がないが、曽根の作品として「日本万国博覧会基幹施設レイアウト」(1969年)があり、「動く歩道と7つの広場」の設計も担っている。
- GPSSはGeneral Purpose Simulation System の略。IBMで開発された離散事象シミュレーション用のプログラミング・システム。待ち行列や交通流のような、時間的に進行する離散的な事象のモデル化に適している。
- FAPはFORTRAN Assembly Program の略。FORTRAN と組み合わせて用いられた低水準のアセンブリ系言語。機械語に近い水準での記述を可能にする。
- MAPはMacro Assembly Program の略。マクロ機能を備えたアセンブリ系言語。低水準の制御や定型処理の記述に用いられた。
- 豊川斎赫『群像としての丹下研究室―戦後日本建築・都市史のメインストリーム』、オーム社、2012年、p.325
- ibid.
3. 山田学のコンピュータアート論
山田学は、都市計画の実務においてコンピュータを利用していただけでなく、その経験とコンピュータアニメーションの制作経験を背景として、独自のコンピュータアート観を形成していた。
この点をよく示しているのが、『建築』に掲載された「エレクトロニック・メタ・マチックの時代―コンピューター・ピクチュア51」である。山田はここで、ジャン・ティンゲリーの《メタ・マチック》やCTGのコンピュータアートを踏まえつつ、自らが手がけたコンピュータアニメーションについて振り返りながら、次のように述べている。
私たちは昨年コンピューターを介したアニメーションを製作したが,このときにはコンピューターおよびプロッターの技術的制約に大いに悩まされた。このアニメーションにおいて私たちは新しい問題を提出したとは思っていない。(中略)コンピューターの特性に含まれている時間性を,いかに表現にとり入れてゆくかという点に,私は意味を認めている。現実の技術体系(いわゆるオートメーション工場)の中では,コンピューターの時間性をプロセス・コントロールとして一般化しているのであるが,コンピューター・アートといわれるものの中には,このような例を知らない,プロッターをつかっているかぎり,その性能すなわち驚くべき遅さ(ちょっとした画に1時間以上かかる)のために,コンピューターの時間性を表現できないでいる。日本ではまだ一般化していないCRT(一種のブラウン管)の電子的反応のみがコンピューターの時間性を画の上で表現することができる。しかし1枚の画面に投影可能な線数は,失望するほどに少ないのである。
コンピューターを介するアートとしては,音楽,詩,彫刻,絵画,映画など,従来のジャンルの中での実験が試みられているが,ここでは絵画について少し触れたにとどまった。どこの誰が何をしているかという地図はいまや膨大なものになっている。しかしまだ,コンクリートでも石造建築と同じことができるんだと語っているようなところもある。コンピューター・アートの現在での最高作品は何かといえば,それはロケットコントロールである52。
このように山田は、コンピュータアートの核心を、出力されたイメージではなく、コンピュータの「時間性」とそのプロセス制御能力に見出していた。他方で、それらは工場などのオートメーションの領域ではすでに実現されていたにもかかわらず、コンピュータアートの世界では、プロッターの遅さや当時のCRTの技術的制約のために、十分な表現へと結実することができなかった。山田は、まさにこの点に対して「失望」を感じていたのである53。だからこそ山田は、当時におけるコンピュータアートの最高作品として「ロケットコントロール」を挙げたのであり、そこでは、当時のアポロ計画を支えたNASAの制御システムが念頭にあったのではないか。山田がこの文章を書いたのは1968年、すなわち大阪万博の準備が進められていた時期であった。興味深いことに、同じ頃、お祭り広場の構想を進めていた磯崎新もまた、「テクノロジーの新しさが生み出す何か」に賭けるべく、当時最高水準のシステムを備えていたNASAを視察している54。そして、磯崎が一番関心を持ったのは、全部のオペレーションを中央制御室で集中的にコントロールしていることだった55。
次の文章は「エレクトロ・ロマンチカ −テクノロジーとコンピューター・アート56」というタイトルのもので、電通が発行した『季刊 クリエイティビティ』に掲載されたものである。そこでも山田はラインプリンタやプロッターで出力されるコンピュータアートではなく、プロセス制御こそが人力の範囲を超えたコンピュータの「電子的特質」をもっともよく発揮するものだとして、明確にコンピュータによる制御(コマンダーとしてのコンピュータ)を価値づけている。
山田は、ベル研究所のジョン・R・ピアースによる情報理論的芸術観に言及しつつ、1950年代以降のコンピュータアートが乱数やマルコフ連鎖に基づく統計的・確率的な構成原理に依拠してきたことを確認している57。しかし同時に、それらがしばしば創造性そのものと混同され、単なる確率的生成へと還元されてしまう傾向に対して、明確な距離を取っている。さらに山田は、人間とマシンの「対話」や「共同作業」といった当時の一般的な語りにも批判的であった。彼にとって「人間と機械の共生」という言い方は、思想的な理念というより、むしろ技術システムの側で用いられるテクニカル・タームにすぎない。そこでは人間と機械が対等に協働しているというより、人間が技術の論理へと同化していく傾向、すなわち「テクノロジーとの同一化指向」が見て取られているのである。
さらに同じ文脈で山田は、川野洋による整理にも言及する。コンピュータをシミュレーターとして捉える立場を川野がCBA(Computer Based Art)と呼んだことを踏まえつつ、その成果の限界を指摘するのである。この点について山田は、次のように述べている。
このようなシミュレーターとしての解釈を川野氏はCBA(コンピューター・ブイスド・アート)と呼んでいる。川野氏も認めるように、CBAの成果は貧弱で、現在コンピューター・アートの作品と言われているものは、CAA(コンピューター・エイデッド・アート)の範囲のものである。一昨年、われわれが製作したコンピューター・アニメーションもCAAをねらったものであるし、CTGの作品のほとんどもCAAの線の上に並んでいる。CAAのコンピューターに対する見方は、モジュレーターとドラフターと簡単なジェネレーターとしてである。ドラフターは音合成装置でもよいし、カッターでもよいし、その他なんでもよい。
しかしながら、CAAの成果はいったいなんだろうという反省も深刻である。プロッタによる作品群と、オプティカル・アートと称する作品群との区別は、どこにあるのだろうか。正確無比という以上のメリットがあるのだろうか。コンピューターとプログラムの開発のなかに、すべてが既に語りつくされているという議論、イメージとはプログラムそれ自体であり、電子であり、プログラムの体系のデザイン自体がアートであるという見解に満足できるだろうか。しかし、コンピューター・アートとは、プログラムの体系そのものであり、これを発明すること、コラボレートすることがアートである。出力装置自体はオプショナルな存在であるから、偶然、現象がうつしだされているにすぎない。出力装置などは、自分で作ってとりつければよい58。
この引用が示すように、山田は当時のコンピュータアートの多くを、厳密にはCAA(Computer Aided Art)の段階にとどまるものとして位置づけている。また山田はCTGのプロッター作品や、SARASVATI(山田と月尾)のコンピュータアニメーション作品もCAAの枠内にとどまっていたことを認める。CTGやSARASVATIはコンピュータを用いた芸術実践として先駆的であったが、その多くは依然として出力装置を前提とした制作、言い換えればモジュレーターやドラフターとしてのコンピュータ利用の範囲にあったと山田は見ているのである。
同時に山田は、この整理を踏まえつつ、コンピュータアートをプログラム体系そのものの設計へと還元する議論にも懐疑を示す。「イメージとはプログラムそれ自体である」という見解を認めながらも、それだけではコンピュータの本質を捉えきれないと考えるのである。つまり、山田は今日的な議論で言うところのコードやアルゴリズム自体が作品であるとする主張にも満足していない。山田がここで重視しているのは、出力でも、生成アルゴリズムでもなく、むしろそれらを統御するプロセスの次元である。
この問題意識は、次の「コマンダーとしてのコンピューター」という概念において、さらに明確に示されている。
コマンダーとしてのコンピューター
いわゆるコンピューターと言われているものは,一定の計算をして答をラインプリンタなり,プロッターなりに出力して,その仕事を終了する。このタイプのコンピューターの出力は,時間とは無関係に独立してくるから,全部出力がそろった時点で,結果を認識できるわけだ。しかし,この結果と,人間のおよびもつかぬというマジック的意味での計算内容とは,相関があるとは思われない。
現在,このタイプのコンピューターからの出力をコンピューター・アートと呼ぶことが多いが,それらの出力は正確さをとり除いたら,人力でも不可能ではないものが大部分である。しかしながら,人間がコントロールできないものを代わってコントロールするプロセス制御用コンピューターの出力こそは,人力の範囲をこえた電子的特質を充分に発揮したものである。人間の利用できる情報量にしても,毎秒数十ビット以下と言われているから,出力においては,さらに少ない情報量のコントロールしかできないのが普通である。工場内でのプロセス制御,窓口のデータ処理等,現実の社会のなかで実働中のプロセス制御用コンピューターのアートへの登場は,まだまだのようである59。
山田はこの文脈で、「コマンダーとしてのコンピューター」という発想を提示する。彼によれば、通常のコンピュータは計算結果をラインプリンタやプロッターに出力して仕事を終えるが、そうした出力は時間とは切り離されており、人間にとっては結果としてしか認識されない。これに対して、人間が直接制御しきれないものを代わって制御するプロセス制御用コンピュータは、人力を超えた「電子的特質」を発揮する。そして、アートが静的な作品からアクションの集合体へと変貌しつつある以上、そこにはコントローラーが不可欠になるというのである。山田はその本格的な実現を、万博のお祭り広場に設置される制御システムに見ていた。
スタティックなアートから,アクションの集合体としてのアートへと変貌しつつある今日,コントローラーを抜きにしたアートは考えられないだろう。だが,この分野での本格的なコントローラーは,来年の万博や祭広場に設置される予定になっていて,現在ソフトウェアの整備が進行しているという段階にある。2台のロボット,6台の大屋根下のトリー,1,500灯のライト,300チャンネルのスピーカーが,ディスプレイという環境演出用言語で書かれたプログラムによって,展開されるはずである。
それぞれのエレメントのオンオフとレベルをどのようにデザインするかは,アニメーションの駒のデザインと共通するところがあり,この部分については,従前からのいわゆるコンピューターの援助をうけるのもよいだろうが,それらが時間的にプロセス化し,コントローラーによってヒラヒラと制御をうけるという情景を想像するのは,愉快なことではないか。
万博でのプロセスコントロールは,お祭広場という極めて小さいエリアをカバーしているにすぎないのだが,このようなコントロールは,地区へ,さらには都市全体へと拡大されるという現実が,いわゆるアーチストを飛びこえてテクノロジーのレベルで実現するかもしれない60。
このような山田の議論は、後年レフ・マノヴィッチが『Software Takes Command(ソフトウェアが指揮を執る)』(2013年)で論じた、ソフトウェアがメディア制作の条件を規定するという視点と接続しうるものである。ただし、繰り返すが、山田が重視したのは、コンピュータを単なる作図や出力の装置としてではなく、時間的に進行するプロセスを制御するものとして捉える点にあった。山田にとって問題は、いかにコンピュータの「時間性」を表現に取り入れるかであり、その意味でコンピュータアートの最高作品は「ロケットコントロール」であるとさえ述べられる。このような認識には、時間的なシーケンスを可視化してきた山田の都市計画プロジェクトにおける経験が反映されているだろう。
また、コンピュータの「電子的特性」を重視する山田の議論は、久保田晃弘によるコードの「実行的価値61」に通じる。山田にとってコンピュータは時間的に変化するプロセスを司る装置であり、その構想はサイバネティクス的な環境設計論に近い。ゆえに山田の「コマンダーとしてのコンピュータ」は、ソフトウェア論の先駆というだけでなく、制御それ自体を美学の水準で捉えようとする、より急進的な構想として読むことができる62。
このように、山田は、コンピュータが出力する視覚イメージだけでなく、コードやアルゴリズム自体でもなく、電子的処理の実行に伴うプロセスコントロールへとアートの領野を広げる視座を持っていた。では、山田学が「本格的なコントローラー」として期待をかけた「お祭り広場」とは、一体どのような実践だったのか。次にそれを確認したい。
- 山田学「エレクトロニック・メタ・マチックの時代――コンピューター・ピクチュア」『建築』98号、中外出版、1968年11月、pp.5–7
- 山田学「エレクトロニック・メタ・マチックの時代 コンピューター・ピクチュア」、中外出版株式会社編『建築』98号,中外出版,1968年11月、pp.5-7
- このような葛藤を、CTGも69年にCGアニメーション作品を制作するなかで感じていた。大泉和文『コンピュータ・アートの創生 CTGの軌跡と思想 1966-1969』、NTT出版、2015年 の第3章に、CTGの解体と、CGアニメーション制作、そして上映会での反応について詳細な記述がある。大泉によれば「結果的にCGアニメーション制作はCTG解体を決定させ加速させた」(p.226)。
- 「アイロニーの終焉 浅田彰+磯崎新 (1985年8月号に掲載の対談再録)」『現代思想』2020年3月臨時増刊号(第48巻第3号)「総特集=磯崎新」、青土社、2020年、p.35
- 磯崎新・日埜直彦『磯崎新インタヴューズ』LIXIL出版、2014年、p.115
- 山田学「エレクトロ・ロマンチカ―テクノロジーとコンピュータ・アート―」『季刊クリエイティビティ』No.17、1969年、pp.20-25
- 本連載第2回で紹介したように、川野洋はベル研究所でのベラ・ジューレスによるコンピュータを利用した模様の生成の事例を、ピアースの著作で知ったことをきっかけとして、自身の「計算機デザインの実験」が始まったと述べている。
- 山田学「エレクトロ・ロマンチカ -テクノロジーとコンピュータ・アート-」『季刊 クリエイティビティ SUMMER No.17‘69』、株式会社電通、1969年、p.24
- ibid、p.24
- ibid、pp.24-25。この『季刊 クリエイティビティ』に掲載の新川和夫「コンピューター・アートによるCF作成」を確認すると、山田学が電通による東レ「パレル」のCM制作にも協力していたことがわかる。
- 久保田晃弘・畠中実編『メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?』フィルムアート社、2018年、p.132
- このような構想をより広い都市論の水準で捉え直すうえで示唆的なのが、フリードリヒ・キットラーの「The City Is a Medium」である。キットラーは都市を、建築物の集合や居住空間ではなく、命令・アドレス・データの流れが接続され、処理されるメディア的装置として捉えた。都市は、道路、交通、通信、エネルギーのネットワークが重なり合い、信号の切替と分配が不断に行われる場として把握される。
4. 月尾嘉男によるお祭り広場装置の実践
1965年末に万博の会場計画が始まった当初、その構想は丹下健三と西山夘三を中心に進められていた。しかしその後、丹下が次第に主導権を握っていくことになる。月尾嘉男によれば、その過程で大きな役割を果たしたのがコンピュータによる動線計画であった63。丹下はこの有効性を理解して以来、コンピュータの利用価値に強い関心を持つようになったという。その後、丹下研究室の出身で、独立後も丹下の「スコピエ都市計画」などに参画していた磯崎新も、この万博の計画に深く関与し、1967年には『日本万国博「お祭り広場」を中心とした外部空間における水・音・光などを利用した綜合演出機構の研究調査報告書』を取りまとめ、お祭り広場の企画立案を担った。磯崎は、ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズとの近接や、「エンバイラメントの会」、「空間から環境へ」展に見られる環境芸術・インターメディア的な実践を関心の背景に持っていた64。そのうえで磯崎は、これを光・音響・機械を総合的に制御する「サイバネティック・エンバイラメント」として構想し、「インヴィジブル・モニュメント」と位置づけた65。そこでは、ハードウェアよりもソフトウェアを、建築的体験を規定していく上で重要な要素として捉えていた。その構想は、固定的な造形物を提示するのではなく、イヴェント、システム、プロセス、そしてフィードバックを組み合わせることで、催しごとに異なる空間演出を実現し、人々の知覚そのものに働きかける場をつくり出そうとするものであった。
磯崎が当初構想していたのは、光や音や機械が一方向的に観客へ作用する空間ではなく、広場内に生じる状況を感知し、それに応じて演出の側も変化する「応答場66」であった。そこではコンピュータは、あらかじめ定められた演出を再生する装置にとどまらず、空間の状態に応じて「コンピューターが自己学習しながら有効な判断をなすこと」が想定されていた。しかし、この構想が全面的に実現されたわけではない。磯崎自身が述べるように、技術的・経済的制約のため、外界の情報への応答はロボットに仕込まれた範囲にとどまり、広場全体の運用は最終的には人間の判断とマニュアルコントロールに大きく依存していた。
お祭り広場は、万博会場中央のシンボルゾーンに設けられた巨大な大屋根下のフラット空間であり、多様なイヴェントと来場者の動線が交錯する、会場オペレーションの中核でもあった。大屋根は丹下健三が設計し、その案を岡本太郎の《太陽の塔》が貫入したことはよく知られている。岡本太郎は、「まつり」の広場には「生命的で、根源的な感動」を与えるものが必要であり、「モダニズムの発想ではなく、ヤボッちいものこそ主張されるべき67」として、この超可視的な《太陽の塔》を推し進めたが、それが磯崎の「インヴィジブル・モニュメント」の構想と対立していたことは言うまでもない。しかし、磯崎が67年の報告書で提示していたお祭り広場のイメージスケッチでも、2体の巨大なロボットが描かれていることは興味深い。この2体が後に「デメ」と「デク」に繋がることになる。この印象的なスケッチは六角鬼丈が描いたものだというが、ここで描かれたロボットたちは、岡本太郎が求めた「ヤボッちさ」や過剰なスケール感を、ある程度先取りしていたとも考えられる68。

報告書に掲載された「お祭り広場」のイメージスケッチ 出典:磯崎新『制作の現場――プロジェクトの位相』(『磯崎新建築論集』第8巻)、岩波書店、2015年
お祭り広場では様々なイヴェントが開催された。木藤野絵の研究によれば、4月から9月の間、具体美術協会や、吉村益信とその会社「貫通」も、このお祭り広場で催された「夜のイベント」に参画していた。中でも吉村の企画である「ビームで貫通」ではイヴェント中に観客が乱入し警備員が取り押さえるトラブルも発生したという69。この広場を「演出可能な空間」とするために、照明・音響・可動装置を統合する制御系が構築され、制御用コンピュータFACOM270-30と専用言語DISPLAYによって、プリセットの呼び出しやテープ同期による自動演出まで可能にされていた。この空間と演出システムの構想・設計を磯崎が担い、月尾嘉男がその実装を支えたのである70。
- 槇文彦、神谷宏治編著『丹下健三を語る 初期から1970年までの軌跡』、鹿島出版会、2013年、p.195
- この報告書を作成するための予備的なスタディに「エンバイラメントの会」のメンバーも関わっている。
- 丹下健三はケヴィン・リンチの都市論や、ノーバート・ウィーナーの情報理論を基礎に据えて「お祭り広場」で自らの環境表現を実現しようと模索していた(豊川、2012年)。それを磯崎新は「サイバネティック・エンバイラメント」として解釈して引き継ぎ、構想を進めた。1960年代における磯崎新の思考は、建築を「完成した物体」から、時間のなかで生成し変容しつづける「出来事」へと転換していく過程として整理できる。その起点にあるのが、1962年前後に展開された「プロセス・プランニング」である。その関心は、同時期のネオ・ダダやハプニングに見られる態度と同型の問題系に属しており、建築を前衛芸術的実験の射程へとひらく契機となっていた。こうした関心は、1963年前後から都市論へと拡張され、1967年の「見えない都市」は、このような思考を理論的に明確化し、都市を不可視の関係(情報、フロー、制御)のネットワークとして把握し直す試みであった。
- 磯崎新・月尾嘉男「ソフト・アーキテクチュア――応答場としての環境」『建築文化』No.279、彰国社、1970年1月、pp.67–93
- 磯崎新『制作の現場――プロジェクトの位相』(『磯崎新建築論集』第8巻)、岩波書店、2015年
- 槇文彦、神谷宏治編著『丹下健三を語る 初期から1970年までの軌跡』、鹿島出版会、2013年、p.211。八束はじめはこの当初案のロボットについて、「最終のものよりずっと巨大で「屋根」より高く、しかもはるかに「人間」ないし「人形」のような形をしている。エスニックなお祭り風の感じもとても強く、太陽の塔に似ていなくもない。」と評している。
- 木藤野絵「大阪万博における吉村益信の活動について –「せんい館」と「お祭り広場」を中心に」、『大分県立美術館研究紀要 第7号』、大分県立美術館、2023年、p.53
- 磯崎は決してコンピュータでの作業に馴染んでいたわけではない。例えば、磯崎は柄沢祐輔によるインタビュー「アルゴリズム的思考の軌跡をめぐって」において、次のように述べている。「あの時代、丹下研究室にいた山田学や月尾嘉男などのやり方を見ていると、一つひとつのデータのベースを全部パンチカードに書き込んで、それを並べて計算機と繋いでやっていた。今でいうと小さなコンピュータでやれるものが、この部屋の三倍くらいの場所が必要だった。僕はそれを見ててあほらしくてとてもつきあいきれないと思いました。」、「僕は十年くらい前に一度コンピュータを買ったんですが、思いなおして、やらないことにした。人生の半分はコンピュータの前に座っていないといけない。それだったら海に泳ぎにいったほうがまだましだと思いました(笑)」。磯崎新「アルゴリズム的思考の軌跡をめぐって」柄沢祐輔聞き手、『10+1』No.48(特集=アルゴリズム的思考と建築)、INAX出版、2007年9月30日、pp.72–81
『コンピュートピア』「『お祭り広場』の演出システム」
月尾は『富士時報』や『美術手帖』、『建築文化』などでたびたびお祭り広場の装置について解説しているが、磯崎新と月尾嘉男が連名で発表した記事として、『コンピュートピア』1970年3月号の「〈21世紀をプランする〉『お祭り広場』の演出システム71」を確認することができる。この記事での二人の所属は、磯崎が山口勝弘とともに設立した会社「KK環境計画」となっている。磯崎・月尾は、お祭り広場を、従来の万国博が示してきたような巨大モニュメントの延長ではなく、出来事を生み出す場として捉えている。以下、この記事の内容に即して、お祭り広場における装置群の概要を紹介することとする。

『コンピュートピア』1970年3月号(pp.22-23)の紙面の様子
磯崎・月尾によれば、過去の万国博では、クリスタル・パレスやエッフェル塔に代表されるように、同時代の技術を巨大建築として提示することが中心にあった。これに対して大阪万博では、単に大きく重いものを建てることではなく、精密で繊細な装置群が一体化し、組織的に作動することそれ自体が新しい質の驚きを生むとされる。したがって、お祭り広場のモニュメント性は固定した「物」にではなく、巨大なイヴェントを発生させる場に置かれるべきだと考えられていた。実際、お祭り広場は会場中央のシンボルゾーンに位置し、休息、待合、集合、食事の場であると同時に、ナショナルデーの式典、世界各国の伝統的な祭り、日本各地の催しなど、多様な出来事が半年間、朝から夜まで絶え間なく展開される空間として説明されている。そこでは数百人から数千人、ときには一万人を超える人々が集まることが想定され、観客もまた単なる受け手ではなく、広場を動き回りながら人的な共感を生み出す参加者として位置づけられていた。西山夘三が強調したのは、誰もが主体的に参加できる「祭り」の楽しさであり、丹下健三が述べたのは、人工頭脳の活用によって人間と技術の関係を可視化することであった。
この構想を実現するために、お祭り広場にはあらかじめ多様なハードウェアが組み込まれていた。本文で挙げられているのは、照明装置、音響装置、機械装置、制御装置である。照明は一般照明と特殊照明に分かれ、メタルハライドランプ、ハロゲンランプ、ストロボライト、ライティングブース、各種スポットライトなどによって構成される。音響については、複数のテープレコーダーや電子音響装置、多数のマイクに加え、約700個のスピーカーが288系統で配置され、入力と出力を任意に組み合わせることができた。さらに、天井側にはトロリーとトロリーサスペンサーが設けられ、地上側には移動舞台、リフティングステージ、移動観覧席、催し物ロボット、サブコントロール・ステーションなどが置かれていた。加えて、文字・図形・アニメーションを表示できる電光案内板も設置されている。つまり広場全体が、催しの内容に応じて構成を変えうる可変的な装置空間として構想されていたのである。
これに対して、ソフトウェアの側面として重視されているのは、それらの装置をいかに接続し、運用するかという演出方式である。磯崎・月尾によれば、広場に分散した装置を184日間にわたって制御し、しかも群集の動きやハプニングのような不確定な要素にも対応するため、制御系統は現場、サブコントロール・ルーム、メインコントロール・ルームの三つに分けられ、制御方式も「手動操作」、「遠隔操作」、「制御パターンの呼出し」、「演出プログラムによる自動進行」の四つに整理されていた。なかでも特徴的なのが四つ目である。これは磁気テープに記録した演出プログラムを6チャンネルのテープレコーダーと同期させて自動進行させる方式であり、そのためにDISPLAYという演出用プログラム言語まで開発されていた。磯崎・月尾は、同じ機能はリレーのシーケンスによるハードウェア的解決でも実現可能だとしながらも、184日間のみの使用、目的設定の不明確さ、比較的短い製作期間といった条件のために、今回はコンピュータによるソフトウェア的解決が採用されたと説明している。このように、お祭り広場はハードウェアとしての演出装置と、ソフトウェアとしての演出方式とを組み合わせることで成立するように構想されていたのである。
この解説記事は開幕前に書かれたものであるため、最後は、(設計者が役割を終えた後は、)「残された空間では、演出者の意志と運営組織とこの装置との間の長い長いゲームが184日間にわたって展開していく」と、期待と不安が滲む一文で結ばれている。しかし結果的には、運営側が安全確保と行事の円滑な進行を優先したため、磯崎が構想した可変的で参加型の広場は十分には実現されず、各種装置も活用を制限され、観客の自由な参加もパーテーションや警備によって抑えられることになったという72。

お祭り広場のオペレーターデスクの様子 出典:月尾嘉男・佐藤光昭・佐藤武孝「電子計算機による日本万国博・お祭り広場の演出」『富士時報』43巻6号、1970年、pp.636

お祭り広場の様子 出典:島原正男「万博の建築音響の舞台裏―お祭り広場とその諸装置について」『電子』10巻8号(108)、1970年、pp.33
- 磯崎新・月尾嘉男「21世紀をプランする 『お祭り広場』の演出システム」『コンピュートピア』4巻37号、コンピュータ・エージ社、1970年3月
- 木藤野絵「大阪万博における吉村益信の活動について―『せんい館』と『お祭り広場』を中心に」『大分県立美術館研究紀要』第7号、大分県立美術館、2023年所収を参照。
DISPLAY
月尾が開発したDISPLAYについては、磯部英彬が「大阪万国博DISPLAY言語のシミュレーションからみるマルチチャンネルテープ音楽の再現性73」において詳細な調査を行っている。磯部は、電子音楽史とその再現可能性という観点から、DISPLAYとそれを支えたマルチチャンネル音響・照明の制御機構を検証し、お祭り広場が単なる会場ではなく、コンピュータによって高度な再現性をもって運用された総合的演出空間であり、日本の初期マルチチャンネル電子音楽の実現にとって重要な実験の場であったことを明らかにしている。
詳細は磯部英彬の論文に譲るが、ここではその要点だけを確認したい。磯部によれば、DISPLAYは Display Instruments Systematic Programming Language at Anytime by Yourself の略称で、お祭り広場の制御コンピュータ FACOM 270-30 上で動作する専用の演出プログラム言語であった。これは広場に配備された多数の照明・スピーカー・ロボット艤装を時間軸に沿って制御するためのもので、間接照明、ダウンライト、ストロボ、ライティングブース、天井・床・柱脚スピーカーなどをグループ単位で操作できた。しかも演目ごとの設定をあらかじめ記録しておき、必要なタイミングで呼び出すことで、会期中の膨大な催しを、再現性をもって運用することが可能になっていた。
磯部によれば、DISPLAY言語の開発は1968年11月に開始され、まず設計が行われ、その後、詳細設計を経て、1969年4月から6月にかけてコーディングが進められた。以後、二度のデバッグ試験を経て、同年11月から開幕までの5か月間、現地試験が行われたという。ソフトウェア開発は万博開催直前まで継続され、開幕が近づくと「お祭り広場構成室」という部屋が設けられ、そこで模型を用いて演出計画が検討された。このようにその開発期間は約1年5ヶ月であり、終盤まで現地試験と調整が継続していたことがうかがえる。磯部はそのコード面と言語仕様についても具体的に解説している。
DISPLAYの仕様の中心にあったのは、「DISPLAY-P」と「DISPLAY-W」という二つのファイルである。「DISPLAY-P」は個々の演出装置の基本動作を記述するファイルで、最初の行に、間接照明(INDER)、ダウンライト(DOWNL)、ストロボライト (FLASH)、ライティングブース(BOOTH)、天井スピーカー(TSPEK)、床スピーカー(FSPEK)、 ロボット(ROBOT)という演出装置を指定する命令文を記述する。続いて装置番号、タイミング、on/off などを指定することで、指定した装置に対する具体的な動きを命令することができた。実例としては 「TSPEK-A-01@」というコードに続けて 「00,0,031,1@」「00,0,032,1@」… のような行が並び、最後を 「ENDPT@」で閉じる形式だった。ここでTSPEKは天井スピーカーを指し、Aは動作パターンの種別「A:正比例パターン」を意味し、他の動作パターンとしては「L:直線」、「S:斜行」、「P:放射」、「E:渦巻」、「U:ユーザーパターン」などが用意されていた。これに対して 「DISPLAY-W」 は、それら複数の「DISPLAY-P」を開始時刻、継続時間、入力チャンネルと結びつけて一つの演目に統合する上位ファイルであり、「0420,TSPEK,E-01,S,C,60,7@」「0420,TSPEK,E-02,S,C,60,8@」…のような記述によって、どのパターンをいつ、どの入力で、どのくらいの時間走らせるかを指定していた。「DISPLAY-P」で個々の装置単位のパターンを作成し、それを「DISPLAY-W」で束ねてシーケンシャルに命令することで、音響や照明を含む全体の動きを構成することができたのである。
このように、磯部の記述から確認できるのは、この言語が単なる個別の装置のオン・オフの列ではなく、多数の音響・照明装置を演奏時間軸に沿って切り替え、運用する仕組みとして構想されていたという点である。演出プログラムはパンチカードで作成され、磁気ドラムに読み込まれて運用された。さらにマルチチャンネル音楽の上演では、6トラックのオープンリールデッキを用い、音声に加えて制御信号パルスを同期させることで、FACOM270-30とその他の装置との同期を行なっていた。磯部の研究の大きな意義は、これらの仕様を文献的に整理するだけでなく、実際にCycling ’74 MAX によるシミュレーションプログラムの開発を行うことで、DISPLAYが総合演出空間としてのお祭り広場を支える実行条件の一端を具体的に示した点にある。
月尾嘉男は、富士電機社員の佐藤光昭、佐藤武孝との共著で「電子計算機による日本万国博・お祭り広場の演出74」を発表し、お祭り広場における制御機構について解説している。この論文と上述した磯部による研究をあわせて確認すると、大屋根のグリッド状の構成が、そのまま演出装置をマトリックス状に配置するための機構となっていた点も興味深い。すなわち、お祭り広場では建築構造そのものが、演出制御の配置原理と結びついていたのである。

「お祭り広場天井取り付け機械配置図」 出典「電子計算機による日本万国博・お祭り広場の演出」
また、この月尾らによる論文では実際のコードの写真が、「Coding example of play Schedule(作品のコーディング例)」として掲載されている75。写真からコードの記述を書き出したものが以下である。これが「DISPLAY-W」のコードの例だと考えられる。
------------------------------------
WCHEK LIST
NO. DISPLAY FIELD
1 IDENT-002@
2 0000,TSPK,A-02,D:S,15,0,01@
3 0005,TSPK,A-03,D:S,15,0,01@
4 0005,BOOTH,G-03,S@
5 0005,INDIR,G-03,S@
6 0010,FSPEK,A-01,D:S,10,0,02@
7 0016,TSPEK,A-02,E,01@
8 0016,TSPEK,L-03,D,C,07,0,02@
9 0021,TSPEK,A-01,E,01@
10 0021,TSPEK,A-03,E,02@
11 0030,BOOTH,G-03,E@
12 0031,INDIR,G-03,E@
13 0038,TSPEK,L-03,E,02@
14 0040,FLASH,S-05,S,S,05@
15 0040,FLASH,S-06,S,S,05@
16 0040,FLASH,S-07,S,S,05@
17 0046,FLASH,L-05,E@
18 0046,FLASH,L-06,E@
19 0046,FLASH,L-07,E@
20 0050,FLASH,E-02,D,S,10,1@
21 0061,FLASH,E-02,E@
22 0066,FSPEK,R,S,08@
23 0070,FLASH,A-02,D,S,10,1@
24 0082,FSPEK,R,E,08@
25 0083,FLASH,A-01,E@
26 0086,FLASH,L-01,D,S,10,1@
27 0097,FLASH,L-01,E@
28 0102,FLASH,S-08,D,S,10,1@
29 0113,FLASH,S-08,E@
30 0113,FLASH,P-03,D,S,05,1@
ENDWO@
------------------------------------
このように、DISPLAYのコードは、お祭り広場に配置されたスピーカーや照明などの諸装置に対して、いつ、どれを、どのパターンで動作させるかといった命令をシーケンシャルに一まとまりの束として管理、実行できるようになっていた。「インヴィジブル・モニュメント」に実態があるとすれば、それはこのコードと、装置群を操作する人々のオペレーションによる「制御」にこそ求めることができるだろう。

お祭り広場 計算制御システムの図 出典: 月尾嘉男「制御機構」『美術手帖』22巻330号増刊、1970年7月、p.125
- 磯部英彬「大阪万国博DISPLAY言語のシミュレーションからみるマルチチャンネルテープ音楽の再現性」『東京音楽大学研究紀要』第45集、東京音楽大学、2021年
- 月尾嘉男・佐藤光昭・佐藤武孝「電子計算機による日本万国博・お祭り広場の演出」『富士時報』43巻6号、1970年、pp.630–641
- ibid. p.639
- ibid. pp.630-641
- ibid. pp.639
月尾嘉男の「制御」論
月尾嘉男は、お祭り広場だけでなく、万博会場全体におけるシステムとコンピュータ制御についても広く調査していたようである。「情報システム」というテキストでは、「主要行事案内情報サービス」「入退場者情報システム」「駐車場情報システム」「待ち合わせ案内情報システム」など、会場運営を支える情報処理の仕組みを技術的に解説している。また、『美術手帖』掲載の「EXPO’70演出の技術 制御機構76」では、「お祭り広場」を含む五つの事例を紹介し、鉄鋼館の「スペースシアター」、三井グループ館の「創造の楽園」、古賀パビリオンの「コンピュートピア」、さらにフジパンロボット館やお祭り広場で稼働した「ロボット」についても解説している。
注目すべきなのは、その前段において月尾が、芸術と技術の接近を独自の仕方で整理している点である。彼は、芸術の側から技術へ接近していくアプローチを「テクノロジカル・アート」、逆に技術の側から芸術へ接近していくアプローチを「アーティスティック・テクノロジー」と呼び分けている。
そして前者については、「アースワーク、ライトアート、コンセプチュアルアート、ライブエレクトロニクスミュージック」のように、本来メッセージを表現するメディウムだったものが、直接そのままメッセージを示すようなジャンルが次々と出現してきていると述べる。ここではマクルーハンによる「メディアはメッセージ」という認識が参照されている。月尾は、続けて「コンピュータアートもコンピュータを本来のメディアとして用いた作品が現れつつある」と述べている。
他方で後者については、そこで行われていることは本質的にシミュレーションであり、「綜合というよりはむしろ分析に基礎を置いている」と批判する。秩序と無秩序という尺度によって構成されたその種の表現は、「リダンダンシー0の乱数とリダンダンシー1の時計の秒を刻む音の間をさまよう」ような、拠り所のないものにならざるを得ないというのである。
この整理から見るかぎり、月尾が相対的に高く評価しているのは、芸術から技術へと接近していく「テクノロジカル・アート」の側である。そして、「アーティスティック・テクノロジー」への批判は、コンピュータを用いて既存の構造を分析し、モデル化し、生成するタイプの実践一般へ向けられている。その批判の射程には、川野洋のコンピュータアート(論)も含まれうると考えられる。この点で月尾の批判は、山田学による従来のコンピュータアートへの批判と通底している77。
しかし、月尾の議論の核心はこの種の分類それ自体よりも、むしろ「制御」への着目にある。「制御について」という節において月尾は次のように述べている。
制御とは希望の通りにならない現象を,希望の通りにすることであり,ほとんどすべての人間の行為は制御といってもいいすぎではないが,もう少し技術的にいえば「ある目的に適合するように対象となっているものに所要の操作を加えること」といえる。したがって芸術といえどもメディアを扱う以上制御と無関係ではあり得ない。(中略)
シーケンス制御は,あらかじめ決められた順序で制御の段階を進めていく方法で,制御対象の状態がどのようであるかということとは無関係である。
フィードバック制御はそれに対して,制御対象の状態を知って,その状態と目的とする状態との差を補うような制御を行なう方法である。
フィードフォワード制御は,フィードバック制御が制御対象の現在の状態と目的の状態との差を用いるのに対し制御対象の未来の状態を予測してその状態と目的の状態との差を補うように制御する方法で,より高度となる78。
このように月尾は、「制御」とは「希望の通りにならない現象を,希望の通りにすること」であり、技術的にいえば「ある目的に適合するように対象となっているものに所要の操作を加えること」だと述べる。さらに、芸術もメディアを扱う以上、「制御と無関係ではあり得ない」とする。そして、工学的制御をシーケンス制御、フィードバック制御、フィードフォワード制御に分けて説明している。
月尾がここで示しているのは、制御を単なる機械操作としてではなく、複数の装置、メディア、行為を一定の目的に向けて時間的・空間的に編成する原理として捉える視点である。そこでコンピュータは、作品の形態を生成する装置というよりも、異質な要素を接続し、出来事全体を運用する中枢として理解されている。この点で月尾の制御論は、山田学がコンピュータを、環境全体を指揮する「コマンダー」として捉えた発想と重なっている。両者に共通しているのは、コンピュータを完成した図像や造形を出力する機械としてではなく、多数の要素を時間的・空間的に編成し、環境全体を指揮するオペレーションの中枢として理解していたことである。大阪万博において裏舞台で運用・実行され、「前景化」していたのは、まさにこの意味でのコンピュータ、すなわち作品を作る機械というより、環境を指揮し、出来事を組織する司令装置としてのコンピュータであった。そして、山田と月尾は、その「制御」の地平に、コンピュータの「電子的特質」が担う芸術性を見出していたのである。
- 月尾嘉男「制御機構」『美術手帖』22巻330号増刊、1970年7月、pp.121-126
- この点で月尾の批判は、山田学のコンピュータアート批判と明確に重なっている。山田もまた、乱数やマルコフ連鎖に基づく生成や、プロッター出力を中心とするCAA的実践を、コンピュータの本質を十分に引き出したものとは見なしていなかった。両者に共通するのは、コンピュータを既存形式の生成装置としてではなく、多数の要素を時間的に編成し、環境全体を制御する装置として捉える視点である。
- 月尾嘉男「制御機構」『美術手帖』22巻330号増刊、1970年7月、pp.125
結語
大阪万博とは、コンピュータアートが自律的な「作品」の形式を離れ、出来事を生成し、環境を作動させる技術へと拡張されていく決定的な局面であった。しかし同時に、その拡張は無条件に肯定されるべきものではなかった。磯崎新が痛感したように、お祭り広場におけるテクノロジーと芸術の結合は、観客の参加を誘発する開かれた環境であると同時に、制度と管理の論理に包摂される危うさをはらんでいたのである。万博批判が鋭く告発したのも、まさにこの点であった。環境的・プロセス的な表現は、従来の作品概念を更新する先進性を持ちながらも、そのことゆえに国家や企業の巨大なオペレーションへと接続されやすかったのだと言えるだろう。山田と月尾の実践は、この両義性をもっとも鮮明に体現していたのである。
この意味で、大阪万博を「コンピュータアートの終焉」あるいは「前衛の敗北」とだけ理解するのは十分ではない。むしろそこで問われるべきなのは、万博において実践された環境制御とオペレーションの論理が、その巨大なスケールゆえに、後の70年代のコンピュータアート、さらにはテクノロジーアートの状況にも影を落としたという点である 79。大阪万博は、可能性が先鋭的に開かれた場であると同時に、その後に続く実践に対して「負の遺産」としての意味をも残したのである。しかし、この「負の遺産」が70年代だけでなく、80年代以降、さらには今日のテクノロジー×アートにとってどのような意義を持つのかは、あらためて問われる必要がある。
今回確認した「転換」は建築や都市計画の領域から見ても、大阪万博という一回的な出来事の内部で完結したわけではない。コンピュータを用いて環境や出来事を時間的に編成し、指揮し、制御するという発想は、その後も別様のかたちで持続していった。ここで想起されるのが、磯崎新が1970年に『建築文化』に発表した「ソフト・アーキテクチュア―応答場としての環境80」である。磯崎はそこで、「建築は環境を決定づけるメディア自身になる」「建築はソフトウェアを当然ながら包含する」と述べ、人間の行動や情報に応答する諸装置を作り出すような建築を「ソフト・アーキテクチュア」と呼んだ。そこでは建築は固定的な物体としてではなく、人間の行動や情報に応答する環境として捉え直されており、「装置化空間モデル」という言葉によって、お祭り広場計画や生活空間の可変性が論じられていた。そしてこの発想は、月尾嘉男がのちに「装置としての都市」という主題81へと向かっていくことにも通じている。月尾は大阪万博閉幕後も磯崎の「コンピュータ・エイデッド・シティ計画82」(72年)に参画し、磯崎自身もニューヨークの「パレイディアム」(85年)のようなイヴェント空間の実践へとこの問題系を反復していく。さらに、こうした環境の編成という発想は、丹下健三が万博以後に海外都市計画へと展開した構想のなかにも、別のスケールで見いだすことができる。たとえば丹下は、大阪万博と同じ1970年にリー・クアンユーと親交を結んだことを契機に、以後シンガポールの都市計画にも深く関わっていく。1983年には丹下健三とI.M.ペイがマリーナベイ開発に関わるマスタープランを提示しており、結果としては、放射状の計画を示した丹下案ではなく、グリッド状の計画を示したI.M.ペイ案が採用された。後に高度にメディア化された都市空間の典型として語られるシンガポールに対して、丹下および丹下研究室の実験とその知見が陰で寄与していた可能性もある。大阪万博は、日本の戦後前衛美術と都市計画、そしてコンピュータアートとが合流した地点であったと言えるが、それは単なる終点ではなく、環境制御と空間演出をめぐる建築・都市計画上の実践が、その後いくつもの方向へ分岐していく結節点でもあった。

丹下健三によるマリーナベイ・マスタープランの模型、The URA Centre (Urban Redevelopment Authority) にて、2026年2月著者撮影
大阪万博をめぐる議論の論点は、メディアアートが商業的注目を集め、アルゴリズムやAIが空間・知覚・行動の制御にまで深く関与する現在において、なお切実な射程を持っている。今日、アルゴリズムやAIは画像生成にとどまらず、監視、誘導、推薦、空間演出、群衆制御にまで浸透している。この状況は、コンピュータが作品を生成する装置から環境を運用する装置へと拡張された大阪万博の問題系を、より大規模かつ不可視なかたちで引き継いでいる。コンピュータが作品を作るだけでなく、環境そのものを統御し、人間の経験を編成するものとなったとき、芸術はいかなる距離と批判性を保ちうるのか。大阪万博における山田学と月尾嘉男の実践は、この問いの歴史的起点のひとつとして、改めて検討されるべきなのである。
次回は、端山貢明を軸として、大阪万博以降の70年代前半におけるコンピュータアートの動向を確認する予定である。
- 馬定延の『日本メディアアート史』などで指摘されているように、大阪万博に対する反動として、日本ではその後ビデオ・アートが台頭することになった。
- 磯崎新・月尾嘉男「ソフト・アーキテクチュア――応答場としての環境」『建築文化』No.279、彰国社、1970年1月、pp.67–93
- 月尾嘉男『装置としての都市』、鹿島出版会、1981年
- コンピュータ・エイデッド・シティ》については、松井茂による論考を参照。松井茂「繰り返し語り、騙られる《コンピュータ・エイデッド・シティ》をめぐって−1968年のテレヴィジョンと幻視者」、『現代思想』2020年3月臨時増刊号(第48巻第3号)「総特集=磯崎新」、青土社、2020年、pp.242-255
補記
最後に少し2025年の大阪・関西万博についても触れておきたい。私は2025年6月に大阪・関西万博を訪れた。入場してすぐにイタリア館の「待ち時間2時間超」と書かれた看板を見て、「2時間ちょっとなら」と列に並んだ結果、結局5時間半を費やしたのも、今となってはよい思い出である。当然のように事前予約が必須の人気パビリオンには一つも入れなかったが、比較的空いているパビリオンを十ほど回って楽しむことができた。マルチスクリーンの傾向は大阪・関西万博においても見られ、多くのパビリオンで没入型の展示が採用されていた。その訪問に先立って、私は1970年大阪万博の跡地である万博記念公園も訪れ、太陽の塔の内部と、旧鉄鋼館を利用したEXPO’70パビリオンを見学した。そこでは鉄鋼館のステージが残されており、クセナキスの音楽にあわせて宇佐美圭司のレーザービームが飛び交う様子を追体験することができた。本稿は、1970年と2025年の二つの万博を往還した経験を、一つの契機としている。

万博記念公園内の「EXPO’70 パビリオン」に展示されている模型 2025年6月著者撮影
- 飯田豊「マクルーハン,環境芸術,大阪万博―60年代日本の美術評論におけるマクルーハン受容」『立命館産業社会論集』第48巻第4号、2013年3月、pp.103–122
- 五十嵐太郎「大阪万博の建築群〜モダニズムからポストモダンへ」、平野暁臣編著『大阪万博 20世紀が夢見た21世紀』小学館クリエイティブ、2014年、pp.164-167
- 磯崎新『空間へ』、美術出版社、1971年
- 磯崎新『いま、見えない都市』、大和書房、1985年
- 磯崎新『制作の現場――プロジェクトの位相』(『磯崎新建築論集』第8巻)、岩波書店、2015年
- 磯崎新『偶有性操縦法――何が新国立競技場問題を迷走させたのか』、青土社、2016年
- 磯崎新「テクノロジー・芸術・体制」、東野芳明編『芸術のすすめ』筑摩書房、1972年所収、pp.127-167
- 磯崎新・月尾嘉男「21世紀をプランする 『お祭り広場』の演出システム」『コンピュートピア』4巻37号、コンピュータ・エージ社、1970年3月
- 磯崎新・月尾嘉男「ソフト・アーキテクチュア―応答場としての環境」『建築文化』No.279、彰国社、1970年1月、pp.67–93
- 磯崎新「アルゴリズム的思考の軌跡をめぐって」柄沢祐輔聞き手、『10+1』No.48(特集=アルゴリズム的思考と建築)、INAX出版、2007年9月30日、pp.72–81
- 磯部英彬「大阪万博のお祭り広場における電子音楽作品の上演方法についての分析と考察」『東京音楽大学研究紀要』第44集、東京音楽大学、2020年
- 磯部英彬「大阪万国博DISPLAY言語のシミュレーションからみるマルチチャンネルテープ音楽の再現性」『東京音楽大学研究紀要』第45集、東京音楽大学、2021年
- 伊村靖子「「色彩と空間」展から大阪万博まで」、『現代思想』2020年3月臨時増刊号(第48巻第3号)「総特集=磯崎新」、青土社、2020年、pp.351-363
- 宇佐美圭司「ポスト万博の動き」『美術手帖』第23巻第343号、美術出版社、1971年6月、pp.24-25
- 大泉和文『コンピュータ・アートの創生 CTGの軌跡と思想 1966-1969』、NTT出版、2015年
- 奥平耕造・山田学・鳥栖那智夫・松本敏行「万国博覧会場内の観客流動と視覚構造」『都市計画論文集』第2巻、1967年、pp.59–67
- 亀倉雄策「万国博のむなしさ」『工芸ニュース』第38巻第3号、丸善、1970年11月、pp.30-31
- 鯉沼晴悠「INSIGHT|反博運動とは何だったのか――1970年以後の未来のために」『paperC』、2024年10月18日
- 鯉沼晴悠「INSIGHT|政治性と創造性の狭間で―日本万国博参加者の芸術実践」『paperC』、2024年12月9日
- 木藤野絵「大阪万博における吉村益信の活動について―『せんい館』と『お祭り広場』を中心に」『大分県立美術館研究紀要』第7号、大分県立美術館、2023年、pp.46-58
- 久保田晃弘・畠中実編『メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?』フィルムアート社、2018年
- 暮沢剛巳・江藤光紀『大阪万博が演出した未来――前衛芸術の想像力とその時代』、青弓社、2014年
- 暮沢剛巳・飯田豊・江藤光紀『万国博覧会と「日本」―アートとメディアの視点から』、勁草書房、2024年
- 『現代思想』2020年3月臨時増刊号(第48巻第3号)「総特集=磯崎新」、青土社、2020年
- 『工芸ニュース』第38巻3号、丸善、1970年
- 坂根巌夫「コンピュータ・アートの未来 その原罪性を超えるために」、『コンピュートピア別冊 コンピュータ・芸術 テクノロジーと社会/アートと人間の間』、コンピュータ・エージ社、1973年 pp.52-59
- 佐野真由子編『万博学――万国博覧会という、世界を把握する方法』、思文閣出版、2020年
- 椹木野衣「大阪万博――前衛芸術の滝壺」『大阪万博――20世紀が夢見た21世紀』、小学館クリエイティブ、2014年、pp.212-215
- 椹木野衣『戦争と万博』、講談社、2025年
- 島原正男「万博の建築音響の舞台裏―お祭り広場とその諸装置について」『電子』10巻8号(108)、1970年、pp.33-40
- 田中純『磯崎新論』、講談社、2024年
- 月尾嘉男「都市計画のための言語体系:URTRAN」『コンピュートピア』3巻23号、コンピュータ・エージ社、1969年2月、pp.109-114
- 月尾嘉男「21世紀をプランする われわれは明日どこに住むか」『コンピュートピア』3巻28号、コンピュータ・エージ社、1969年7月、pp.18-26
- 月尾嘉男「計画とコンピュータ」『コンピュートピア』3巻臨時増刊号(29)、コンピュータ・エージ社、1969年7月、pp.78-82
- 月尾嘉男「EXPO’70演出の技術 制御機構」『美術手帖』22巻330号増刊、1970年7月、pp.121-126
- 月尾嘉男「情報システム」、「EXPO’70(特集)」『新建築』45巻5号、新建築社、1970年5月、pp.282–283
- 月尾嘉男・佐藤光昭・佐藤武孝「電子計算機による日本万国博・お祭り広場の演出」『富士時報』43巻6号、1970年、pp.630–641
- 月尾嘉男『装置としての都市』、鹿島出版会、1981年
- 東京藝術大学『1970年大阪万国博覧会 参加企業・関係者・関係団体の資料の現状調査と資料目録の作成 実施報告書』、2018年
- 東京大学都市デザイン研究室『Urban Design Lab. Magazine』vol.280、2019年6月30日
- 東京大学都市デザイン研究室『Urban Design Lab. Magazine』vol.284、2019年10月28日
- 東野芳明編『芸術のすすめ』、筑摩書房、1972年
- 豊川斎赫『群像としての丹下研究室―戦後日本建築・都市史のメインストリーム』、オーム社、2012年
- 『日本万国博覧会公式記録資料集 別冊B5』、日本万国博覧会協会、1971年
- 針生一郎編『われわれにとって万博とはなにか』、田畑書店、1969年
- 『美術手帖』22巻330号増刊「EXPO’70 人間と文明」、1970年7月
- 『美術手帖』23巻343号、1971年6月
- 馬定延『日本メディアアート史』、アルテスパブリッシング、2014年
- 松井茂「繰り返し語り、騙られる《コンピュータ・エイデッド・シティ》をめぐって−1968年のテレヴィジョンと幻視者」、『現代思想』2020年3月臨時増刊号(第48巻第3号)「総特集=磯崎新」、青土社、2020年、pp.242-255
- 柳井良文『建築情報学試論――情報空間としての建築・都市の設計に関する一考察』、東京大学博士論文、2015年
- 山田学「コンピュータ・アニメーション」『コンピュートピア』3巻臨時増刊号(29)、コンピュータ・エージ社、1969年7月、pp.90-93
- 山田学「エレクトロ・ロマンチカ―テクノロジーとコンピュータ・アート―」『季刊クリエイティビティ』No.17、1969年、pp.20-25
- 山田学「エレクトロニック・メタ・マチックの時代―コンピューター・ピクチュア」『建築』98号、中外出版、1968年11月、pp.5–7
- 槇文彦、神谷宏治編著『丹下健三を語る 初期から1970年までの軌跡』、鹿島出版会、2013年
- 水谷晃啓・八束はじめ「丹下健三研究室のコンピュータ利用の評価とその今日的応用方法の検討」『第36回情報・システム・利用・技術シンポジウム 2013』、日本建築学会・情報システム技術委員会、報告H43、2013年、pp.261–264
- 水谷晃啓「丹下健三研究室のコンピュータ利用の再評価と今日的意義について」『日本建築学会環境系論文集』81巻723号、2016年5月、pp.487–494
- 渡辺定夫編著『アーバンデザインの現代的展望』、鹿島出版会、1993年
- 渡辺定夫・山田学・荒田厚・松本敏行「道路の景観設計」『都市計画論文集』第1号、1966年、pp.51–56
- 渡辺定夫・山田学・荒田厚・月尾嘉男「『URTRAN』の開発」『都市計画論文集』第2巻、1967年、pp.51–57
- Friedrich A. Kittler, “The City Is a Medium,” trans. Matthew Griffin, New Literary History 27, no. 4 (Autumn 1996), pp.717–729
- Lev Manovich, “Software Takes Command”, Bloomsbury Academic, 2013
Hasaqui Yamanobe
アーティスト、リサーチャー。p5jsを用いたジェネラティブアートの制作や、それに触発されたドローイング作品の制作を行っている。またNFTやブロックチェーンのメディウムにフォーカスした展覧会『Proof of X』の企画などに参加している。NFTに関連する論考として「アートから見たNFTの可能性」(『The New Creator Economy NFTが生み出す新しいアートの形』、BNN、2022年所収)や、「NFTと「書き取りシステム」としてのブロックチェーン」(『Proof of X ーBlockchain As A New Medium For Art』、NEORT、2023年所収)などがある。