MASSAGE MONTHLY REVIEW – 6
MASSAGE&ゲストで、6月の音楽リリースをふり返る。
現行リリースの作品の広大な大海原から、6月に出会った素晴らしいリリースをご紹介。
現行リリースの作品の広大な大海原から、6月に出会った素晴らしいリリースをご紹介。
Kit Lossこと21st Century Wolfの作り出す、エレクトロニックな幻影。傷ひとつなく仕上げられた美しい工業製品のように、消費するために生み出された幻想には儚さがともなう。なめらかなカーブのようなそのサウンドはどこまでも抽象的で、模様のようなリズミカルなパターンはとても美しい。人工現実にいるような澄みわたる清涼さが漂うその幻想は、暗くジメジメとしたこの現実から私たちを救えるのだろうか?醒めることもなく、没入することもなく、無防備なまま避難できる場所としての音楽。ここではないどこか遠くへと誘う夢心地の儚さがただただ狂おしい。
パソコン音楽クラブの音楽は不思議だといつも思う。1980~90年代の機材を鳴らして作られたそのサウンドには確かに懐かしい空気がある。それなら何か過去に似たものはあるかと探してみるけれど、ない。過去の記憶を持つ機材で作られた新しい音楽。そんな奇妙なパラドックスのようなものがノスタルジーと高揚感を生む。ほんとうにあったかどうかもよくわからない記憶、初めてきたはずなのになぜか懐かしい場所、聴いたことがあるようで聴いたことがない音楽……すべてをはっきりとさせる必要もないのかもしれない。あいまいなまま、すべてが夢の中のできごとように進んでいってもいいのだろう。たぶん。
異質なセンスを持つwoopheadclrmsの作品は、plunderphonicsやカットアップコラージュといった手法にある現代の感性がエネルギッシュに溢れ出している。具体音から、ささやき声、エレクトロニックな音色までもが、鮮やかに豊かに交錯し合い、瞬間ごとに驚きをもたらし続ける。一段と洗練され、またぶっ飛んでもいるその立体的な響きは、奇妙で異質な美しさを持つが、都市の環境にチューニングされた私たちの耳には、とても心地よくナチュラルにさえ響く。カットアップコラージュされたテクスチャーが、まるで映画のようにメタ的な世界を描く極彩色の作品。
本作のタイトルは、“A land without a people for a people without a land”(土地をもたない人々のための、人々のいない土地)からの引用だろう。これは現在に至るまで様々な場面で引用されるフレーズであり、「シオニズム」(ユダヤ人によるイスラエル復興を目指す運動)の文脈で用いられてきた。このフレーズを引用しつつ、その頭にNEVERという否定の語を配している。ここに、その土地に住んでいたパレスチナ人の存在を広め、売上を募金することで彼らをサポートしようとするキュレーターのJaclyn Kendallの強い意志があらわれている。また音楽は社会においてどんな力を持ちうるのかと、改めて考えさせられる。本作は30名のアーティストから提供された楽曲を収録している。たとえば〈L.I.E.S〉や〈Desire〉からリリースを重ねてきたS. Englishをはじめとしたロウなテクノ/ハウスが取り上げられる中、白眉と言えるのはObject Blueの神経症的でありながら、揺れるリズムが4/4のリズムを脱構築するトラックだろう。参加アーティストはいずれもカセットテープのリリースを主にするような、アンダーグラウンドでフレッシュな面々だが,そのバラエティとクオリティには舌を巻く。彼らの楽曲を音そのものとして楽しむならば、ロウでインダストリアルな、昨今のテクノ/ハウスの流れを押さえたものだといえる。しかし、音楽は言うまでもなく音の組み合わせたもの以上の「何か」である。ダンス・ミュージックがマイノリティを包摂する機能を持つ文化であれば、それはパレスチナやイスラエルに暮らす人々に対してどのような意味を持つことができるのか。音楽が力であるとすれば、その力を連帯につなげるために受け手に求められるのは享楽だけでは不十分だ。このアルバムはそんな消費を許さない力強さがある。ヒリヒリとした空気で満たされているし、その空気こそがある種の連帯を示しているのかもしれない。音楽に政治を持ち込むな?そんな享楽はここでは許されていない。
昨年には来日も果たし、素晴らしいパフォーマンスを披露してくれた、ポートランド在住の音楽家ジェフ・ウィッチャーによる新作『Approximately 1,000 Beers』は、本人による作品紹介の言葉を借りるなら《「脱構築」したカントリー・ミュージック》。音声合成エンジンを全面的に用いた本作は、ジェネレーティブ・システムと土地古来的/伝統的なポップミュージックの邂逅という、一見この世の終わりを予感させるかのような印象を与えるが、あたえられた言葉を拾っていくと、ささやかな日常の一端と、記号で形成された閉鎖的空間の、奇妙な繋がり合いが見つけられる。いくつにもねじ曲がって結ばれた関係は「断続」ではなく、「接近」という純粋な愛の形、彼らしいユーモアとふんだんのサーカズムが、対置しあう両者を「自然なほど」不自然にリンクさせていく。数十年後、Arthur Russellの『Love is Overtaking Me』や、今作のクレジットにも記載されている現代的カントリー・ミュージシャンのReginald Wranglerと並べて、この作品が「ポスト・カントリー・ミュージック」として回顧されていれば素直に嬉しく思うし、また地獄だとも思う。