Yoshio Ojima Interview

スパイラル環境音楽とNEWSIC、パーソナル文化への変遷とその共鳴。

Interview and text: Kazunori Toganoki

一連のアンビエント・ミュージックやBGMを総称した「環境音楽」というワードが日本で浸透を見せるのは1980年代前期からだが、そもそもここでいう「環境」とは何を示しているのか、その言葉の由来を探ってみると、1960年代に国内で起きた「環境芸術」と呼ばれるムーブメントの中で提起された環境性の概念に、その起源の一端をみることができる。1966年の「空間から環境へ展」を契機として盛んになっていったこの運動は、「観客をとりまく空間そのものをテーマとして扱った作品やパフォーマンス」を中心とした一連の動向であり、こちらのシンポジウムでの浅田彰の発言によれば、「建築・都市計画の文脈」における「環境」と、フルクサスなどを筆頭に行われたハプニングの生起する場としての、「芸術」の文脈における「環境」が相互に交わりながら、領域横断的な発展を遂げていった。ちなみにこの運動の中で音楽が果たした役割も大きく、一柳慧や秋山邦晴、湯浅譲二といった現代音楽の分野の作家たちが、当時の先端的なテクノロジーを積極的に扱いながら、時間や空間を題材に扱った音作品を発表している。高度成長期のまっただ中でそうした先人たちによって生み出された、環境への新しい視点や先鋭的な表現のアプローチを受け継ぎながら、環境音楽のアーティストたちは、80年代のコマーシャリズムと消費文化が席巻し揺動する時代性のなかで、自分たちが含まれている環境へと改めて意識的に耳を傾け、外部との関係を更新し直すことを、音を通して模索していたのかもしれない。
シーンの黎明期から環境音楽に携わってきた音楽家・尾島由郎の作品がいま、いくらかの月日を経て、新たな世代のリスナーの間で注目を集めていることは間違いないが、これまでのキャリアにおける、その多岐に渡る仕事についてはあまり知られていないだろう。スパイラルやリビングデザインセンターOZONEを含む、さまざまな商業施設の環境音楽を手がけてきたほかに、レーベルNEWSICの企画制作やアーティストプロデュース、そしてサウンドデザインやシステムの開発への参加など、多面的な活動を行いながら、時代特有のみずみずしさと、タイムレスな前衛性を同時に内包したような音のアンビエンスを体現し続けてきた。そして今、彼の音楽性に影響を受けた現行のアーティスト達との連繋によって、また新たな流れが紡がれつつある。
今回のインタビューでは、これまでのキャリアを振り返ってもらいながら、当時の環境音楽シーンについてや流行の誘因となったその時代性、そしてVisible Cloaksとの共作『serenitatem』について、話を伺った。

様々な集客施設の環境音楽を制作された経歴を持つ尾島さんですが、最もその名が知られている仕事のひとつに、青山にあるスパイラルの館内音楽があります。どのような経緯で、スパイラルに携わるようになったのかを教えていただけますか。

話はすこし遡るんですが、スパイラルがオープンする2年前の1983年に、西武百貨店が「Pier & Loft」というファッションイベントを開いたんです。竹芝桟橋にあった鈴江倉庫が会場でした。あの辺一体は倉庫街なんですが、ニューヨークのロフトカルチャーを真似て、ギャラリーやアーティストのスタジオとして再利用されていたエリアだったんですね。その場所に目をつけた西武百貨店が、当時提携したばかりのニューヨークやヨーロッパのファッションブランドを紹介するコレクションを開催したんですが、そのショーの合間に行うライブに音楽家の吉村弘さんが呼ばれたんです。当時の先端的なカルチャーが一堂に会するっていうのがイベントのコンセプトで、二日間のうち初日のライブはMELONでした。ニューウェイブと環境音楽っていう、今思えば結構乱暴な取り合わせでした。まあ、そのくらい環境音楽はブームになっていたんです。で、吉村さんから当日のライブを手伝ってほしいと頼まれて、一緒に曲を作ったりステージで演奏をしました。ちなみにその時の楽曲をまとめて、当時僕が主宰していた複製技術工房というインディペンデントのカセットレーベルからリリースしたのが、一昨年にChee Shimizuさんのレーベルから再発された『Pier and Loft』です。

Pier & Loft会場の鈴江倉庫の屋外にて、画面右が吉村、中央が尾島

Pier & Loftパフォーマンスの時の様子

それからしばらく経って、スパイラルに関わることになります。スパイラルはワコールが文化事業の一環で始めた複合文化施設で、1985年に青山にオープンしました。オープンに向けてスパイラルの準備室ではオリジナルの館内音楽が必要だろうという話になり、僕の名前が上がったようです。先の「Pier & Loft」イベントで西武百貨店のディレクターだった方がフリーになって、スパイラルの準備室にいらっしゃったのもきっかけの一つです。お話を受けたのはまだ24歳くらいの時でした。

商業施設のオリジナルの環境音楽を作るという仕事に対して、どのような印象を抱かれていましたか。

それまで演劇や映像関係の仕事に携わったことはありましたが、実際の空間や場所が音楽を必要としていて、そこに自分の音楽を存在させることができるというのは、非常にわくわくしました。もちろん新しい仕事の場所という側面でもね。例えば先日シアトルのLIGHT IN THE ATTICからリリースされた『KANKYO ONGAKU: JAPANESE AMBIENT ENVIRONMENTAL & NEW AGE MUSIC 1980-90』に選ばれている、同時代に環境音楽を作っていた人たちも、全員がもともと環境音楽専門の作曲家というよりは、どちらかというとロックやジャズといった、別のジャンルや分野で活躍されていた人が多くて、環境音楽という需要ができてから新たに参加していったケースもあります。
でも自分を含めて、空間と結びついた音楽というテーマ自体に面白さを感じて関わるようになった人間も多かったと思います。ダンスや演劇、映像といった他の分野の場合だと、どうしても時間的なしがらみがあるんですが、環境音楽はそういう制約からは解放されているし、なにより長尺の曲を作れる。音楽だけが空間の「時間」の流れを操っているという特性にはいまだに面白さを感じます。

具体的にはどのスペースを手がけられたのでしょう。

スパイラルの1階から2階までのパブリックスペースで流れる音楽を手がけました。それらの環境音楽は「Une Collection Des Chainons: Music For Spiral」という二枚のアルバムにまとめてリリースされているんですが、それぞれの曲のタイトルは実際に流れていた各エリアに対応しています。例えば[Entrance]は入り口、[Espelanado]が青山通りに面した椅子が並んでいる中階段 、[Gallery]がカフェの横のギャラリースペース、[AStrium]が奥の吹き抜け、[Market]が二階のショップ、この5つのゾーンの音楽を色々な時間帯に応じて用意しました。ちなみにアルバム収録曲は全て一部分を抜き出したバージョンで、実際のオリジナルはもっと長いんです。

場所との関係性でいうと、何か意図や目的を想定して楽曲を作られましたか。

各ゾーンの目的や空間の特性に応じた音環境を作って、訪れたお客さんの体験性の質を向上させる、ということが念頭にありました。スパイラルは色々な目的の空間が集約していて、なおかつそれぞれのエリアがシームレスに繋がった設計になっています。それに応じて、例えば一階だと単純に待ち合わせだったり、ギャラリーを見に来た人、カフェの打ち合わせの人みたいに、一つの場所に多様な目的を持ったお客さんが集まるわけです。そういうバラエティのある人たちを相手に、全員を同じ感情へ促していくような強い方向性ではなく、個々人の気持ちが前に進んだり、あるいはとどまってるようにするのを適度にアシストするくらいのレベルで、音楽が穏やかに働きかける。それが結果的に、スパイラルでしか味わえないような感動や体験に繋がって、その人にとって特別な場所として残っていくと思うんです。
まだ80年代って、感性を定量化したり、心理学的な観点を取り入れた空間デザインは整理されていなくて、わりと感覚と経験を頼りに手がけることが多かったようです。データに基づいた店舗設計やマーケティングが一般化したのは2000年代に入ってからで、僕も当時は、明確でロジカルな思考をもって取り組んでいたわけではないんですが、あとから振り返ってみて、現代でいう感性工学的な視点から音を作っていたんだなと気づきました。
例えば入り口の雑貨を扱っているコーナのところ、あそこの床は大理石なんですが、窓際のエスプラナードから下がカーペットになってて、足の踏みごたえが変わるんです。踏みごたえが柔らかくなることで緊張感が薄れて、リラックスした気持ちで絵を眺めたり、腰掛けたりできるようになる。音楽もそれに対応して、方向を示すような金属的な響きの強いサウンドから、より丸い質感のサウンドに変化しています。多用的な空間に応じて、視点をミクロ/マクロに変化させながら音を作れるというのも、スパイラルの環境音楽ならではでした。

その後、様々な場所のサウンドデザインを手がける上で、やはり最初の仕事がスパイラルの館内音楽だったのというのはご自身にとっては大きかったのでしょうか。

そうですね。一度サウンドアーティストのビル・フォンタナの音響彫刻の展覧会をスパイラルでやったときに、音のインスタレーションを発表する場という視点から見て、ここの空間は独特で面白いね、と彼に言われて腑に落ちたことがあって。一番初めに良い空間を自分は与えられたなと思います。もう少しフラットな商業施設やギャラリーだったら、そこまでサウンドデザインのアプローチは広げられなかったですから。スパライルだからこそ学べたことが多くあったし、後の集客施設のサウンドデザインに関しても、あそこで会得したことがとても役に立ちました。

レーベルのNEWSICが始まったのは、どのようなきっかけがあったのでしょうか。

スパイラルがスタートしてしばらくすると、館内音楽を気に入ってくれて音源を購入したいというお客さまからの問い合わせが結構ありました。それならカセットで出版してみようという話になり、それがきっかけとなって、音楽レーベルのNEWSICが始まったんです。

レーベルに何かコンセプトはありましたか?

すでにスタイルが出来上がっているものではなくて、まだ開拓の余地のあるような新しい音楽を推したいという気持ちがありました。レーベルって世の中の新しい音楽を先行して提供する役割を担っていると思っていたので、積極的にたくさんアーティストと会ってリサーチして、どういう音楽がスパイラルの人たちに受け入れられるか、あるいは耳の早いリスナーに届くか、そういうアンテナは張り巡らせていました。
あとはいわゆる「アンビエント」専門や「実験音楽」専門のように、ひとつのジャンルに固定して打ち出したりはせず、NEWSICが新しい音楽を中心としたひとつのプラットフォームとして機能するように、バラエティのあるセレクトを心がけていました。

1993年当時のNEWSICレーベルカタログのフライヤー

最初のリリースは、濱瀬元彦さんの『樹木の音階』と沢村満さんのミッチライヴ名義での『夏の波の思い出』ですよね。お二人を選ばれたのはどういう経緯だったんでしょう?

最初のリリース作品はレーベルの方向性を表現できるように多様性を出したいと色々話し合って決めました。沢村さんは、彼がMIDIレコードの『Dear Heart』というサブレーベルからファーストアルバムを出した時に、スパイラルのガーデンでライブをした繋がりもありお願いしました。濱瀬さんは、最近新録盤も出た『Intaglio』と『Reminiscence』という彼のアルバムが僕は大好きで、現代音楽的なアプローチの作品を出したいと思い、声をかけたんです。

その後は海外作品を挟んで、打楽器奏者の越智義朗さんのアルバム『ナチュラルソニック』が続いています。

当時彼はイッセイミヤケのコレクションの音楽を担当していました。今思えば、越智さんみたいにファッションブランドとコネクションがあって演奏する人間だったり、あるいは文化施設とコネクションのあった自分のような人間だったり、いわゆる従来の作曲家やプレイヤーとは違った、新しいタイプの音楽家があの当時生まれたのかもしれません。

そして尾島さんの音楽活動のパートナーでもある、柴野さつきさんのアルバム制作が始まるんですよね?
クラシック音楽の教育を受けたピアニストの柴野さつきさんはエリック・サティを専門とする演奏家としてデビューしましたが、次にクラシックの枠組みを超えた音楽にアプローチするために僕にプロデュースの依頼がありました。そこでNEWSICレーベルの中で制作したアルバムが「Rendez-vous」です。プロデュース作業を通じて、やがて二人の異なる特性を活かし、ピアノと電子楽器が生み出す新しい響きを生み出す共同の音楽製作を始めるようになり、それは現在に至るまで続いています。

あと気になっていた作品があって、1993年にリリースされた『Silence』というコンピレーションアルバムです。これまでのNEWSICの流れと違ってかなり異端的な内容という印象があって。Holger CzukayやSimon Fisher Turner、David Cunningham、Jan Steeleといった海外の実験音楽家から、国内は尾島さんや柴野さんや池田亮司さん、そしてあのジョン・C・リリーがリーディングで参加していたりと、非常にユニークなセレクションですよね。

これは当時NEWSICのディレクションを一緒にしていた池田亮司さんと共に企画したアルバムで、二人で色々相談しながら、海外や国内のアーティストにオファーしました。ジョン・C・リリーの曲は、ちょうどイルカの会議で来日していた時に会いに行って、本人に朗読してもらって、そのヴォイスの後ろに僕と池田さんがドローンを乗せたものです。このV.Aを再発したいという問い合わせが結構あるんですけど、残念ながら権利関係の問題で、今のところは難しそうです。
そういえば当時、NEWSICの作品を海外流通させるために、海外の音楽見本市に出展したことがあったんですが、逆に海外のレーベルに売り込まれました(笑)。日本のレーベルだからお金がたくさんあると思惑して向こうのレーベルの人が集まってきて、結局手にいっぱい抱えるくらいのテープを持って帰る羽目になってしまいました。

では少し話題を変えて、当時の環境音楽のシーンについて伺いたいと思います。
ここ数年で、海外を中心に日本の環境音楽の再評価と音源の再発化が進んでいますが、シーンの当事者であった尾島さんこそ、おそらく一番身をもってその流れを感じられているかと思います。その集大成ともいえるようなコンピレーションアルバム「Kankyō Ongaku」もSpencer Doran監修の下で昨年リリースされ、大きな話題になりました。
いま個人的に思うのは、いわゆるレコードディガーが発掘した作品を、SNSやYoutubeといったデジタル上のプラットフォームをベースにシェアされてバズ化する現代のスタイルの中で、良くも悪くも音楽作品だけが切り取られて伝播して、当時の社会背景の部分にはそれほど焦点は当てられていない。ただ環境音楽自体は、芦川聡さんの『波の記譜法』に見られるサウンドスケープ的なアプローチの類から、インテリアミュージックや空間の音楽、あるいはもっと大衆的に敷衍したニューエイジやヒーリングミュージックなど、様々な要素を包括した敬称で、時代のコンテスクトや潮流との強い相互関係から生まれて発展したものです。なので、その背景の部分をもう少し当事者であった尾島さんからお聞きしたいなと。環境音楽が80年代の都市文化に広く浸透したのは、何が根本にあったと思いますか?

80年代に入って登場した、「個人」重視のライフスタイルと消費文化の影響がベースにあると思います。それまでの70年代ってどちらかといえば社会との関わりがメインで、生活のパーソナルな側面はまだまだ優先されていなかった。80年代になって、自分にとっての暮らしを充実させようとする個人重視のライフスタイルや、それまでの日常の生活感から離れた建物や居住空間、価値観や気分に基づいたカルチャーやファッションといった新しいニーズが、若い人達の間で高まっていったように思います。西武なんかはそこに積極的にコミットしていった。音楽のマーケットもそこに目をつけて、パーソナルな生活にフィットするような音楽をどんどん提案していくんです。今までの70年代的な生活感を感じさせないシンプルでモダンなインテリアを前提にして聴かれる静かな音楽だったり、あるいは音楽がそういう空間を想起させるようなものだったり。そこにサティの「家具の音楽」のコンセプトを絡めたインストゥルメンタルや、環境音楽が役割を担っていったと思うんです。

音楽好きのためというよりは、もっと広範囲で、ライフスタイルとして接する人々に向けて訴求される音楽だったと。

音楽にあまり詳しくない人の層までも視野に入れて、パッケージングや広告を図ったことで、マーケットとして成功したし、ひとつの流行にまで至ったんでしょうね。例えば僕の場合、アパレルに関連する繋がりが結構あったんですが、ファッションに関わっている人はとくに新しい文化に対して敏感だった印象があって、ショップの若い店員さんとかも新しい音楽によく反応してくれました。リスナーだけでなくて、作り手の側にも、あの80年代の空気感やスタイルには少なからず影響を受けていたと思います。
ところが、いまだに当時の環境音楽が流れている施設ってスパイラルくらいしかないと思うんですよ。当時都内には、マツダのM2ビルとか、代官山のゴルティエのブティックビルとか、そういうデザインの建物物がたくさんあったんですが、バブル期にできたビルはもう取り壊されて、今はほとんど残っていない。もし残っていれば、環境音楽が実際にそうした空間に添えられていた音楽だったというのがもう少し理解できると思うのですが、今は音楽だけしか残っていませんからね。

さきほども少し話にあがりましたが、その環境音楽シーンの流れでエリック・サティはどのように受け取られていたのでしょうか。

「家具の音楽」のイメージやコンセプトが、環境音楽に明確に位置づいて機能したのは確かですが、ただ実際にサティが唱えたものとは別の形に歪曲されて、コマーシャリズムの中で増幅、浸透していったと思います。当時の関わりでいうと、芦川聡さんが主宰されていたサウンド・プロセス・デザインから、彼のソロアルバム『スティルウェイ』、吉村弘さんの『ナインポストカード』、そしてそれらに続いて、1984年に柴野さつきさんがサティのアルバム『Erik Satie (France 1866-1925)』をリリースしたんです。柴野さつきさんはJ.J.バルビエの教えを受けて、フランスから戻ってきたところでした。当初このアルバムは芦川さんがアレンジした「家具の音楽」のピアノバージョンをメインに据えたアルバム、という内容で企画がスタートしたそうですが、悲しいことにアルバムが完成する前に芦川さんが亡くなってしまい、結果的には環境音楽的な、起伏の少ない静かなサティのピアノ曲を柴野さんが弾く、というコンセプトに変更になったそうです。

環境音楽的なコンセプトにも関わらず、アルバムには「家具の音楽」の楽曲は収録されていませんよね。

柴野さんから聞いた話では、芦川さんと打ち合わせしている中で、芦川さんがポツンと「でも家具の音楽ってはっきり言って聞きづらい曲だよね、環境音楽っぽくないよね」って、言ってたそうです。
僕も初めて「家具の音楽」を知った時は、「人が聴くことを前提しない」というコンセプト自体にすごくわくわくしたんですよ。で、ある日、吉村弘さんの家に遊びにいった時、初めて実際の曲を聴かせてもらってびっくりして。もっとジムノペティのような静かな音楽を期待していたら全然そうではなかった。そもそも「家具の音楽」は室内楽曲ですしね(笑)。その後ずっと「家具の音楽」のコンセプトと実際の楽曲のギャップには、ずっと疑問が残っていました。

最近になり、柴野さんと共に開催している「エリック・サティ・エキセントリック・ライブ」のためにサティについてもう一度調べていくうちに、色々謎が解けてきて。「家具の音楽」はコンセプチュアルアートとしてダダ的に表現された、一種のパフォーマンスなんです。マックス・ジャコブという詩人が画廊で行ったサロン芝居の演奏会場で、サティは「家具の音楽」を受注するスペースを作ったり、会場の壁に社会主義的なスローガンを貼ったり、いろんなパフォーマンスを通して「家具の音楽」というコンセプトを表そうとしていた。実際に会場で演奏されていた「ビストロ」「サロン」という曲は、どちらもモティーフはサティのオリジナル曲ではありません。モティーフの一つはアンブロワーズ・トマで、もう一人がサン・サーンス。トマはサティが学校に通っていた時の先生で、サティはトマに軽蔑されていました。一方のサンサーンスは当時の大御所の作曲家で、彼が所属していた芸術アカデミーに、サティが立候補するのを何回も落としていた。そうやって自分を嫌っていた人物のメロディを意図的に取り入れて、それをサティは「家具の音楽」と称したんです。

皮肉が効いていますね。

ええ。なぜそのようなことをサティがしたかというと、当時芝居や演奏会を観に来る貴族やセレブたちって、お喋りをするのが目的で、実際にはあまり音楽を聴いていなかった人が多かったようです。音楽が社交の場のBGMになってしまっていた。それはプルーストなんかも描いてますよね。で、それをサティも経験していて、じゃあ初めからみんなが無視できていつもの調子で話ができる音楽を、サン・サーンスとかトマといった手垢にまみれた大衆的なモチーフを使って聴かれなくても同じような音楽を用意しましょう、っていうとてもアイロニーに満ちた考えを楽曲に込めたわけです。
サティはそれ以前に、カフェで雇われの演奏家として生計を立てていて、そういう場所で自分が作りたいものとは別の音楽が求められていることを経験していた。音楽の大衆化が進んで、パリの街中のいたるところで流れるようになって、よりエンターテインメント指向性の強い楽曲が求められた。その傾向をサティは快く感じていなかったのでしょう。だから大衆との線引きを設けて、自分の純粋な創作物の領域を作るために、あえて世の中が必要としている、BGMのような音楽を自ら唱えたのではないでしょうか。なので「家具の音楽」というコンセプトは、実は自分の大切な音楽を守るための一種のアンチテーゼでもあったわけです。
ところが80年代の国内のモダニズムの中で、サティの「家具の音楽」は「静かな音楽」といったイメージを率先してつけられて、実際の真意とはだいぶかけ離れて捉えられてしまった。そういう誤謬のもとサティブームが起きて、そこに日本の環境音楽のブームが重なっていったというのが、あの時代のひとつにあると思うんです。

柴野さつきと共に、成城学園前のCAFE BEULMANSで不定期に開催している「エリック・サティ・エキセントリック・トーク・ライブ」。毎回新たに発掘された資料を通じて、エリック・サティの大胆な新解釈を披露している。

当時の異常なまでのサティブームは日本特有の現象だったとお聞きしましたが、そのような捻れの背景があったんですね。
では最後に共作『Serenitatem』について伺いたいのですが、レコーディングがスタートしたのは2年ほど前だったそうですね。

初めてVisible Cloaksの二人と会ったのは、彼らが日本ツアーを行った2017年のときですが、それより前からスペンサーとは一緒に作品を作ろうと連絡を取り合っていて、メールでアイデアの部分は共有できていたので、滞在中のレコーディングはスムーズに進みました。というのも、まず最初に彼らの作品を聴いた時、音に対するアプローチが僕と柴野さんの音楽にとても似ているなと思ったんです。二人が分離している関係ではなく、共同でひとつのストリームを作り上げていくというやり方です。僕らの場合、自分は電子楽器、柴野さんはピアノとそれぞれの演奏の役割は違いますが、互いの境界線がない作りになっているので、どちらの音楽作品とも取れるように聞こえてしまうような。そういう作り方を彼らの音楽にも感じていたので、今回の共作に関しても、それを2倍にしたという感じでした。

アルバム全編を通して、複数の音が個々で鳴っているというよりは、音と音の触発が連鎖しながら、創発的に全体が現れてくるような響きを感じました。

それが一番現れているのが“Stratum”という曲です。基本となるピアノのフレーズをMIDI変換してマリンバやボイスのシークエンスをジェネレートしたり、エフェクトやモジュレーションしたりしてレイヤーを重ねていきました。“Stratum”は「層」という意味なんですが、結果として複数の層が圧縮されて、‘Strutum-less’な形になっています。そういうプロセスは、音楽的なテクニックを使って色々なレベルや強度で、全曲に渡って行っています。なのでコラボレーションといっても、それぞれが自分の役割分担をこなすというよりは、アンサンブルのようなものを一緒に形作っている意識に近かったです。

全体のバランスや構成はスペンサーが担当したのでしょうか。

そうですね、基本的にこちらでレコーディングしたステムを彼に渡して、どのように使うかはお任せしました。後日送られてきたミックスを聴いてみると、見事にこちらが意図していた配置の仕方だったので、ああ、これはうまくいきそうだなと感じました。僕はさらにそこにエフェクトだったり、ダイナミックスの調整をしていきました。
実際に曲として具現化していくミックスの段階で、スペンサーの音に対する新しい感覚には感心しました。音でイメージをビジュアライズしていく、デザイン的な音のあり方といえばいいのかな。例えばですが、空間に直方体や球体のような様々なフォルムが立体的に配置されてて、それらが交互に入れ替わったり、瞬きをする速度で別のところへ移動する、みたいなモーションが音に感じられるんですよ。いってみればそれは「ポップ」なんですが、表現がポップというよりは、音のあり方自体がポップなんです。そういう視覚的な要素と結びついたミックスって彼らに限らず、最近の色々なジャンルに見られると思うんですが、今回自分が参加して、自分たちの時代にはなかった、その音のカラクリみたいなものがどうなっているのかよく分かりました。

今と昔の間で音に対しての感覚が違うというのは、やはりDAWを用いた制作環境の影響が大きいかもしれません。

そうですね、スマートフォンで音楽が完結するという聴取環境の変化だったり、機材のクオリティも関係しているのかもしれません。
僕が音楽を始めた時の録音機材はMTRで、その時のやり方や感覚だったりが、制作する上でベースに残っているんですよ。MTRはとどのつまりスコアのメタファーであって、ガイドを聴きながら音を重ねていくっていう流れがまずあって、曲のベースとなる部分を決めて、音を決めていく。それはいわゆる一般的な音楽の形式やパートの構成をリファレンスしながら、頭の中で組み立てることになるんですよね。そういう構成の仕方は自分がDAWを使うようになってからも無意識的に引き継がれているわけです。今回の彼の、色々な音をデザインパーツとして組み立てて全体を構成するようなミックスはとても興味深かったです。

作るプロセスの部分は聴く側からすると見えづらいので、そのような違いがあったというのはとても面白く感じます。

あと彼は、音を聴くことに対してすごくエネルギーをかけるタイプのミュージシャンだなと思いました。音源のやりとりで、こちらから投げた音に対してどんな微細な変化にもレスポンスするし、その変化を全て分かった上で自分に返しているというのが伝わりました。相手の音を聴くって基本的な行為なんですが、実は意外と難しくて、聴き逃してしまうことが多いですから。

ちなみに今回の共作にあたって、Visible Cloaksがラジオ放送局のセント・ギガの音源を参考にしたと紹介文を読んで知りました。

セント・ギガは世界初の衛星放送によるデジタルラジオ放送局で、潮の干満と月の運行を組み合わせた「タイド・テーブル」によって24時間、音楽と自然音、そしてナレーションをミックスしたストリームを放送していました。僕が当時プログラムに関わっていたことを伝えるとスペンサーが興味を持って、まだまとまった音源を聴いたことがないと言うので、保管してあったアーカイブを彼にあげたんです。それがとても面白かったみたいで、特に放送内での曲の流れや音のストリームに発見があったらしく、インスピレーションになったと話していました。曲と曲の繋ぎの間で声やSEが入る構成だったり、選曲のバラエティにも驚いていました。
セント・ギガのプログラムは、タイド・テーブルによって進行するので、時報や広告や会話はなく、それぞれの切れ目がないので、番組やプログラムという明確な枠があるわけでもなかったんです。

尾島さんも何度かプログラムを担当されたことがあるそうですね。

ええ、アーティストにプログラムを託す時があって、僕も何度かプログラムを担当したり、柴野さんはヴォイスで参加していました。ほかにも僕のコレクション・デ・シェノンの原曲のロングバージョンや、収録曲以外のものを放送でよく使ってくれたりしました。

1992年当時のセント・ギガの番組が収録されたテープ類

セント・ギガは新しい音楽を発信する場所として当時認知されていたんでしょうか?

うーん、どうでしょう。リスナーの数は少なかったと思うし、このスタイルでの放送が続いたのはたった2年くらいなんです。放送はWOWOWのサブチャンネルを使って行なっていたし、そもそもテレビでラジオを聴かなきゃいけないという条件自体がかなり敷居が高かったですから。まあそういったわけでわずか2年で通常のラジオ放送局に転じてしまいましたが、当初は非常にチャレンジャブルな存在でした。

今後の予定を教えてください。

6月に東京と大阪で、「Visible Cloaks, Yoshio Ojima & Satsuki Shibano – serenitatem – World Premiere Live in Japan 2019」というコンサートを行いましたが、これをきっかけに今年の秋からこのカルテットでヨーロッパツアーがスタートします。11月にトリノで開催されるClub To Clubと、ユトレヒトのLe Guess Who?をはじめとしてヨーロッパ六カ国での演奏が決まっています。柴野さつきさんとの二人のユニットでは、9月にアンビエントミュージックの野外パーティーCAMP Off-Toneに参加します。初の屋外ライブなので今から楽しみです。
それから年内には海外のレーベルより「Une Collection Des Chainons: Music For Spiral」をはじめとする複数のNEWSIC作品のリイシュー予定があります。過去にリリースした作品も含めて、新たに出会う方達にこれからも音楽を届けていければ幸せです。

尾島由郎 Yoshio Ojima
一貫してアンビエントミュージック/環境音楽の世界を追求している作曲家、音楽プロデューサー、マルチメディアプロデューサー。代表作はスパイラル(ワコールアートセンター)のための環境音楽集『Une Collection des Chainons I & II』(1988年、Spiral)、『HandsSome』(1993年、Spiral)、ピアニスト柴野さつきとのコラボレーションアルバム『Caresse』(1994年、Spiral)、『Music for Element』(1994年、les disques des chainons)、『belle de nuit』(2012年les disques des chainons)。また、2017年に17853 Recordsよりリイシューされた吉村弘『Pier&Loft』(1983年、複製技術工房)など、プロデュース作も数多い。
80年代より、「スパイラル」(ワコールアートセンター)や「リビングデザインセンターOZONE」(新宿パークタワー)、「東京オペラシティ ガレリア」、「キャナルシティ博多」などの集客施設の環境音楽を多数制作し、サウンドデザインやサウンドシステムの開発にも関わる。
最近では、80〜90年代の日本の環境音楽にフォーカスしたコンピレーションアルバム『Kankyō Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』(2019年、Light In The Attic)に過去の楽曲が収録されるほか、海外レーベルより『Une Collection des Chainons』をはじめとする過去のアルバムのリイシューも予定されている。

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