セル・オートマトンとは、忍耐についての研究である。まずグリッドを定義する。それぞれのセルに状態を割り当てる。そして、隣接するセルに基づいて各セルがどのように更新されるかを定めたルールを書く。次に実行ボタンを押し、自らの決定が時間の中で展開していく様子を見守る。その展開はしばしば、予期していなかった方向へ、さらには予測することすらできなかった方向へ進んでいく。しかしその一方で、すべてのステップは必然的に前のステップから導かれている。この営み全体は、少なくとも20世紀半ば以降、数学者とアーティストをほぼ同程度に魅了してきたひとつの逆説の上に成り立っている。すなわち、局所的レベルでは完全な決定論でありながら、全体レベルでは真の驚きを生み出すという逆説である。
馬喰町のNEORT++で5月末まで開催されているKazuhiro Tanimotoの《Rain Blooms》は、この逆説を真正面から扱っている。比喩としてではない。美学的な便利さとしてでもない。この作品において、その逆説そのものが主題なのである。
本展の中心にあるのは、Tanimotoが2年をかけてゼロから構築したセル・オートマトンである。この点は強調する価値がある。なぜなら、ジェネラティブアートの領域では、計算モデルがしばしば交換可能な「表皮」のように扱われ、ある特定の見た目を得るために適用されるものとして消費されがちだからである。Tanimotoのアプローチは、むしろ材料研究に近い。そして彼が化学者であることを考えれば、それは極めて自然なことでもある。彼は古典的なセル・オートマトンを、いくつかの明確な方向へ拡張している。近傍構造は標準的なものではなく、セルは固定されたムーア近傍やフォン・ノイマン近傍を超えた位置を参照する。その参照先は、実行開始時にランダム、あるいは一定のパターンに従って決定される。さらに、複数の種が同一システム内に共存しており、それぞれが攻撃・同化・無関心といった異なる関係性によって統御されている。そして各セルには「活力」のパラメータが与えられており、その値は相互作用を通じて増減する。その結果として、システムには遠目には代謝のようにも見える性質が与えられている。これらの拡張はどれも装飾的なものではない。それぞれがシステムの振る舞いを構造的に変化させ、より単純なモデルでは決して到達できない可能性の領域を切り開いている。
視覚的な結果は非常に印象的だ。しかし、それらに説得力を与えているのは、明らかに「デザインされていない」ことにある。有機的で膨張するような動きが現れたかと思えば、ほとんど機械的ともいえる直線的運動が隣り合って出現する。そして、それらの振る舞いが接触する境界では、複雑な干渉パターンが形成される。外部から形状やジェスチャー、痕跡を導入すると、それは即座にグリッドの論理へ吸収され、局所ルールが作用する中で崩壊し、増殖し、再構成されていく。Tanimoto自身はこれを「キャンバスに絵具を垂らすこと」に喩えている。この比喩は的確である。ただし、このキャンバスには意志がある。
この作品を現在のジェネラティブアート市場における目新しい存在として位置づけるのは容易だろう。しかしそれは誤りである。この系譜は長く、そして豊かな歴史を持っている。ジョン・コンウェイの《ライフゲーム》(1970年)は、その文化的文法を確立した。1980年代におけるスティーブン・ウルフラムの初等セル・オートマトンの体系的分類は、最も単純なルールセットですら驚異的な複雑性を生み出し得ることを示した。セル・オートマトンを用いたアーティストには、実に多様な人物が存在する。たとえばケイシー・リアスは、《Process》シリーズにおいて組織のような生物学的パターンの創発を探求した。またカール・シムズは、進化する仮想生命体を用い、まさに「作者によって作り込まれていない」からこそ生きているように見える形態を生成した。日本においても、ジェネラティブシステムと物理的インスタレーションの交差には独自の厚い歴史が存在する。1950〜60年代の具体美術協会によるシステム的実践では、素材やプロセスに自律的に作用させようとする志向が、今日ジェネラティブアーティストたちがコードを通じて語る問題意識を先取りしていた。そして数十年後には、池田亮司によるデータ駆動型環境へとその流れは接続されていく。
Tanimotoのこの系譜への貢献は明確である。彼はセル・オートマトンをスタイルとして扱うことに関心があるのではない。彼が関心を寄せているのは、計算モデルに十分な内部複雑性を与えたとき、それが予測能力を超えて振る舞い始めるという事態である。その鍵となる革新が、多種共存フレームワークである。セル集団間に敵対や同化の関係を導入することで、Tanimotoは「安定しない」システムを作り出している。古典的なセル・オートマトンは、均衡や反復へ向かう傾向を持つ。それに対してTanimotoのシステムは、持続的な不安定性へ向かう。つまり、視覚場がカオスにも静止にも陥ることなく、継続的な変容状態を維持し続けるのである。これは見かけ以上に達成が難しい性質であり、《Rain Blooms》を初期状態の美しさだけを提示し、持続時間について何も語ることのない、多くのジェネラティブ作品から分け隔てている決定的な特徴でもある。
サウンドデザインもまた、この解釈を補強している。Tanimotoはサウンドトラックを作曲したり、イベントに音を割り当てたりしているのではない。音響は、グリッド上の色相・明度・彩度の変化から直接生成されているのである。彼は画面上から代表的なピクセルを選び、それぞれにオシレーターを割り当て、一定の閾値を超えた色変化を、ピクセルの視覚状態に応じて周波数とエンベロープへマッピングすることで音へ変換している。視覚と聴覚は共通の生成源を共有している。その結果は、ロマン主義的意味での共感覚ではない。むしろ、より精密な実演である。もし映像と音響が同一の計算プロセスの出力であるならば、それらの対応関係は恣意的ではなく、構造的なものとなる。NEORT++での没入型インスタレーションでは、この二重の出力が空間全体を満たしている。そしてその効果は、スペクタクルというよりも、一貫性に近い。観客が見聞きするすべては、異なるチャネルを通して観測された、同一のシステムなのである。

Installation view of the exhibition “Rain Blooms” at NEORT++, 2026, by Kazuhiro Tanimoto. Photography by NEORT.
物理的なLED作品群についても、個別に言及する必要がある。《Rain Blooms Lattice》と題されたこれらの作品は、アルミニウムフレームとLEDパネルによって構成され、組み込みESP32マイクロコントローラ上でアルゴリズムを実行している。これらはモニターではない。作品を「表示」しているのではない。それらは作品を「実行」しているのである。この違いは重要である。なぜならそれは、スクリーンベースの提示では不可能だった仕方で、作品とメディウムの間の距離を崩壊させるからだ。スクリーンとは常に媒介物である。それに対し、アルゴリズムをネイティブに実行する専用ハードウェアは、「物質化したアルゴリズム」そのものなのである。Tanimotoは《Lattice》作品を、《Rain Blooms》をより単純なシステムへ還元し、その動作原理を露出させる「標本」として説明している。それは、彼が対話の中で明確に語っている、テクノロジーに基づく表現を理解するには、テクノロジーに対する解像度を上げる必要があるということを教育的機能として体現するものでもある。中核アルゴリズムが実際にマイクロコントローラへ移植可能であるという事実そのものが、システムのコンパクトさについての一つの表明でもある。そして、その性質をTanimotoは重視している。これは、PCの巨大な共有インフラへ依存するプログラムではない。それ自体で動作できるほどに小さいシステムなのである。
展覧会を取り巻く制度的フレームもまた、注目に値する。《Rain Blooms》はNEORTとArt Blocks Studioによるコラボレーションとして実現しており、Art Blocksでは128エディションのデジタル作品がリリースされる。NEORTは2022年から馬喰町のギャラリーを運営し、日本におけるコードベース実践を軸としたキュレーションプログラムを着実に築いてきた。一方、Art Blocksは2025年に500プロジェクトによるカノン形成を完了し、アメリカおよびヨーロッパのジェネラティブアート・エコシステムにおいて同等の位置を占めている。この提携は両コミュニティを接続する橋として提示されているが、その枠組みは単なる商業的連携ではない。両組織はともに、ジェネラティブアートを「デジタル・コレクティブルの一分野」としてではなく、独自の批評基準を備えたキュレーション領域として扱う姿勢を示してきた。そして、この最初の共同イニシアティブにおいてTanimotoの作品が媒介として選ばれたことは、最も持続的な貢献を行う作家とは、計算を近道としてではなく、一つの規律として扱う者であるという共通認識を示唆している。
最終的に、《Rain Blooms》が提示しているのは、ジェネラティブアートにおける最も生産的な問いは、「それがどのように見えるか」ではなく、「どのようなシステムがそれを生み出したのか」であるということだ。Tanimotoは、時間を通じて観客の注意を持続させるだけの内部的豊かさを備えたシステムを構築した。そして彼は、それを「見た目」のレベルではなく、「ルール」のレベルで行ったのである。そこから立ち現れる「開花」はたしかに美しい。しかし、その美しさは目的ではなく、結果である。目的はシステムそのものにある。そして、そのシステムこそが作品なのである。
Rules, Not Forms: A Conversation with Kazuhiro Tanimoto
『Rain Blooms』は、5月31日まで馬喰町のNEORT++で開催されている。また128エディションのリリースが、5月22日にArt Blocks Studioにて公開された。以下は、Tanimotoとの対話である。システムの論理、創発の美学、そして「形態」ではなく「ルール」を設計するとはどういうことなのかについて話を聞いた。
システムそのものについて
《Rain Blooms》の中心となるセル・オートマトンの開発には2年を費やしたとのことですが、実際の開発プロセスはどのようなものでしたか。主に視覚的出力をテストしながらルールを調整していったのでしょうか。それとも、化学における問題設定のように、より形式的なアプローチで進められたのでしょうか。
実際には、その両方が絡み合っていました。ただ、プロセス全体の中では、形式的な側面がかなり大きな割合を占めていました。
セル・オートマトンはしばしば「単純な局所ルールから複雑な振る舞いが生まれるシステム」と説明されますが、実際には、多くのルールはすぐに発散したり、逆に単調な状態へ収束してしまいます。《ライフゲーム》のように興味深い振る舞いが現れるケースは、セル・オートマトン全体の中ではかなり例外的です。
そのため、オリジナルのセル・オートマトンによる初期実験では、システムはすぐ発散または収束してしまい、自分が望むような振る舞いはまったく見えてきませんでした。そこで、「どういう仕組みにすべきか」を繰り返し考え、検証可能なシステムを構築し、さまざまなルールを設定して実験し、大きく失敗し、その原因を考え、また組み直すということを何度も繰り返しました。もちろん、失敗の判断自体は出力を見て、視覚的に行っていました。しかし問題を解決するためには、システムやルールに立ち返り、それ自体を変更する必要がありました。そうした非視覚的な作業が、プロセス前半の大部分を占めていました。それは確かに、見えないものを想像しながら実験を繰り返す化学の問題への向き合い方に近い感覚でした。ちなみに、これは固定されたシステムに対してパラメータを調整し、「見た目を良くする」作業ではありませんでした。システムそのものの設計を作り直すということでした。
ある程度システムの方向性が定まってからは、振る舞いや多様性を視覚的に判断しながら、ルールを変更・追加する形で開発を続けました。ただ、その段階でも、ルールが直接「動き」を指定しているわけではありません。動きは結果として現れるものであり、その意味でプロセスは常に探索でした。

Installation view of “Rain Blooms Lattice” at NEORT++, 2026, by Kazuhiro Tanimoto. Photography by NEORT.
古典的なセル・オートマトンは通常、固定された近傍構造を用います。しかしあなたは近傍セルの定義を拡張し、さらに異なる相互作用を持つ複数種を導入しています。古典モデルでは不十分だと感じたのは、プロセスのどの段階だったのでしょうか。また、そのモデルには実現できなかった、どのような振る舞いを必要としていたのでしょうか。
《Rain Blooms》として追求すべき方向性が明確になるまでには、二つの段階がありました。まず2024年初頭、私はALifeに本格的に取り組み始め、セル・オートマトンの面白さや奥深さに惹かれていきました。しかし、《ライフゲーム》を用いた実験では、実行ごとに異なる性格を作り出すことができず、動きもかなり等方的で、多様性に限界を感じました。そのため、かなり早い段階で、オリジナルのシステムが必要だと感じていました。私が必要としていたのは、白黒、あるいはせいぜい四色程度が点滅するようなものではなく、人間が手で完全には描き切れないような、もっと複雑で多様な計算世界でした。それが、私が目指し始めた基盤です。
もう一つ重要だったのは、2024年9月に東京のNEORT++で開催されたグループ展《Patterns of Flow》に参加したときです。この展示は、Right Click SaveのAXEL氏とNEORTの庄野祐輔氏によってキュレーションされていました。そこで、日本のコンピュータアートの先駆者である川野洋の思想に触れました。特に『ネットワーク美学の誕生』における考え方に強く惹かれました。そこでは、中央の司令塔を持たない独立したエージェント同士が相互作用し、その結果として最終的な構造が形成されるという、ボトムアップ的な概念が提示されていました。私はその思想を、セル・オートマトンによって具体化したいと思うようになりました。

Installation view of “Sea of Code” at NEORT++, 2024, by Kazuhiro Tanimoto. Photography by NEORT.
活力パラメータは、このシステムにおける非常に興味深い追加要素です。それはセル内部に代謝やライフサイクルのようなものを暗示しています。活力は種間関係とどのように相互作用するのでしょうか。たとえば、隣接セルが敵対的か、同化的か、あるいは無関心かによって、セルの活力は変化するのでしょうか。
おっしゃる通り、関係性によって活力の扱いは変化します。種間で起こる直接的な相互作用には、「攻撃」「同化」「無視」の三種類があります。攻撃の場合、勝利したセルは相手の活力も吸収します。無視の場合は活力のやり取りは発生しません。同化の場合は、少しだけ活力を共有します。こうしたやり取りの結果として、各セルが持つ活力が次の攻撃結果にも影響を与えます。この活力は、このシステムにおける複雑な振る舞いを生み出す要因の一つになっています。ただし、活力はあくまで複雑な計算世界を実現するための技術的手法であり、生物を正確にシミュレーションすることを目的としているわけではありません。
外部から形状を導入した際、それが「キャンバスに落とされた絵具」のように振る舞い、即座にオートマトンの一部になると説明されています。システムはどのように外部入力を吸収するのでしょうか。統合される前に断絶の瞬間は存在するのでしょうか。それとも、その移行はシームレスなのでしょうか。
移行は極めてシームレスです。セル・オートマトンの計算は、GPU上で各フレームごとに一括して実行され、次のフレームが生成されます。その前段階として、私は前フレームに対して単純な図形を描き込みます。その図形が追加されたフレームをGPUへ渡し、セル・オートマトン計算を実行します。するとGPUは、それらの図形が「存在している状態」として次フレームを計算します。挿入された図形が、オートマトンの一部として振る舞っていない瞬間は存在しません。
作者性と創発について
あなたは《Rain Blooms》を、最終形態がアーティストによって直接決定されないプロセスとして説明しています。しかし同時に、すべてのルールはあなた自身が設計しています。あなたは、自らが「作者」である部分と、システムが「作者」である部分との境界をどのように捉えていますか。その区別自体に意味はあるのでしょうか。
現時点では、自分が設計したシステムと、そのシステムが出力した結果を、あまり分けて意識していません。ゼロからシステムを明示的に設計している以上、たとえ目指す方向性が同じだったとしても、人によって構築される具体的なシステムは異なりますし、そのシステムが生み出す出力も異なります。これは絵画で言えば、使う絵具や筆、手の動きが人によって異なるため、同じ対象を描いてもアーティストによって異なる作品になることに近いと思っています。その差異こそが作者性と呼ばれるべきものであり、作者性はシステムにも、出力にも宿っていると考えています。たとえシステムが自分の想像を超えたものを生み出したとしても、システムと出力は切り離せず、シームレスにつながっています。そして私は、それを他人の作品ではなく、自分の作品だと感じています。
ここで重要なのは、現時点では、人間の意思がまったく介在しない100パーセント純粋なシステムを構築することは不可能であり、私自身もそれを目指しているわけではない、ということです。それでも、通常の方法よりは人間の意図をより削ぎ落としたシステムを作りたいと思っています。純度10パーセントと純度80パーセントでは意味が異なる。その極限に何かが存在するのかを試している実験なのです。これはゼロか一かの二項対立ではなく、グラデーションの問題だと思っています。

Installation view of “Rain Blooms Lattice” at NEORT++, 2026, by Kazuhiro Tanimoto. Photography by NEORT.
セル・オートマトンや関連システムを用いた芸術表現には長い歴史があります。あなた自身、自らの作品をその系譜の中に意識的に位置づけていますか。芸術あるいは科学において、あなたのアプローチに影響を与えた先行者はいますか。
系譜という意味では、私は自分の作品を、セル・オートマトンを科学モデルとして用いる流れよりも、それを映像や音響を生成する装置として扱ってきたコンピュータアートやジェネラティブアートの流れの中に置いています。
また、これは何が正しいかという話ではなく、自分がどのようなものを作りたいかという問題でもあります。私は、極めて多様で複雑な状況が立ち現れる世界を目指していました。一次元セル・オートマトンを使ったパターンジェネレータでもなければ、概念を示すための単純なデモでもない。鑑賞者が長時間観察し、そのたびに異なるものを発見し、そこから周囲の現象や概念へ接続していけるだけの密度を持った作品として成立させたかったのです。
これは自分の調査不足かもしれませんが、直接的な視覚的参照点になる作品はあまり見つかりませんでした。そのため、出発点は《ライフゲーム》でした。音響については、Christoph Stähliの《Game Of Sound》が非常に近いと感じています。セルの変化を音へマッピングし、アンビエントサウンドを生成するという関心において、《Rain Blooms》と重なる部分があります。
その意味で、《Rain Blooms》は《ライフゲーム》やセル・オートマトンの歴史から出発し、それを単なるパターン生成ではなく、時間の中で観察される映像・音響環境として再構築しようとする試みだと考えています。
アーティストステートメントでは「コンピュータ固有の表現」という言葉が用いられています。これはどういう意味でしょうか。計算を通してコンピュータが生成するものの中に、原理的に他の手段では実現できないものがあると考えていますか。
現時点では、「コンピュータ固有の表現」が本当に存在するかどうかを断定することはできません。ただ、私はそれを探求したいと思っていますし、100パーセント純粋でなければ検討する価値がないとも考えていません。私が考えているのは、「コンピュータを使う強い必然性がある表現」です。
ここではひとまず、「コンピュータ」を狭義に定義します。つまり、人間によって設計・製造された、高速計算を行う現代的な電子計算機です。通常の制作環境において、私はコンピュータを、大量の計算を高速で扱う能力に最も適したメディウムだと認識しています。
私にとって重要なのは、後から誰かが結果を模倣し、似たものを描けるかどうかではありません。重要なのは、そのイメージが、人間によって完成形として直接想像され、人間の感性や思考プロセスを強く継承したものなのか、それとも膨大な計算ルールの集積の結果として現れ、人間の思考では到達しにくいイメージなのか、という点です。
《Rain Blooms》の1フレームだけを見れば、人間が時間をかければ手で模倣することは可能かもしれません。それが10フレーム、100フレームになったとしても、原理的には不可能とは言い切れないでしょう。しかし、それを1時間動かそうとすれば、30fpsなら10万8000フレームを描かなければなりません。これが原理的に不可能だとは断定できませんが、実際にはほとんど不可能に近い。つまり、「原理的に可能」であることと、「実践的に可能」であることの間には大きな隔たりがあります。私はそこを強く区別しています。
その結果として、私がコンピュータ的表現だと感じているものには、少なくとも二つの要素があります。一つは、高速計算の結果として、人間が完成形として直接想像しにくいイメージが立ち現れること。もう一つは、高速計算の反復によって、それらが時間変化として動き続けることです。

Installation view of the exhibition “Rain Blooms” at NEORT++, 2026, by Kazuhiro Tanimoto. Photography by NEORT.
音響と没入について
《Rain Blooms》の音響は、セルの視覚状態、つまり色相・明度・彩度の変化から直接生成されています。この音響的側面はシステムから自然に立ち現れたのでしょうか。それとも、変換レイヤーを設計する必要があったのでしょうか。また、音が「機能している」とはどのように判断していますか。
これまであまり触れてきませんでしたが、私は、コンピュータの計算能力によって、映像と音響をリアルタイムで同時生成できること自体が、表現を拡張しているとも感じています。もともと私は、セルのざわめきや囁きのようなものを作りたいと思い、音を導入しました。画面上から20×20の代表ピクセルを選び、それぞれにオシレーターを割り当てています。そして各ピクセルの位置に基づいて、音が左右どこから聞こえるかを決定しています。そのピクセルの色変化が一定の閾値を超えたとき、色相・明度・彩度に応じて周波数やADSRを割り当て、音へ変換しています。つまり、映像を音へ翻訳しているので、「音響的次元がシステムから自然に立ち現れた」と言うのは少し不自然かもしれません。さらに、和声についてはコード進行に基づいてコードを割り当てており、そこでは人間によって構築された音楽理論を直接利用しています。この音響面は、非常に人間的な表現と呼ぶべきものであり、その意味では、ここにも理想と現実の衝突があります。
私は、音が機能しているかどうかを、単独の音楽として完成しているかよりも、画面内部に存在する変化の密度やざわめきを、聴覚的にも感じられるかどうかによって判断しています。それによって作品が単なる映像ではなく、一つの環境として感じられるなら、音は機能していると考えています。
本展は、鑑賞者を絶えず変化する環境の内部へ置く没入型展示として説明されています。この文脈において、あなたにとって没入とは何を意味しますか。それはスケールの問題でしょうか。持続時間でしょうか。それとも固定された視点の不在でしょうか。
私は、そのすべてだと思っています。没入には、作品が視野の大部分を占めること、鑑賞者が視点を移動させても作品の変化の内部に留まり続けられること、そして中断感を生まない持続時間が必要です。また、局所的な小さな構造変化へ集中したり、そこから離れて、それらの蓄積によって生まれる大きな構成を把握したり、その両方を往復することによって、「世界へ入り込む」という経験が生まれるのだと思います。NEORT++は、日本では非常に稀有なギャラリーであり、これを実現するための技術力と知的受容性の両方を備えています。彼らのこの作品への貢献は計り知れませんし、ここまで自分を導いてくれたことに深く感謝しています。
素材と文脈について
あなたは本業では化学者でもあります。作品について語る際の言葉には、物理的・化学的プロセスの反響が感じられます。科学者としての仕事と芸術実践のあいだには、直接的な概念上のつながりがあるのでしょうか。それとも、たまたま語彙を共有している並行した関心なのでしょうか。
化学における仕事と芸術実践が直接つながっている部分もありますし、並行した関心として重なっている部分もあります。《Rain Blooms》は、特定の化学反応や物理現象を直接シミュレートする作品ではありません。しかし、生成、変容、崩壊、相互作用といった考え方は、化学者として私が世界を見てきた方法と深く関係しています。化学において、分子や物質の性質は、単一の要素だけで決まるものではありません。分子構造、相互作用、環境、時間、濃度、温度など、さまざまな要因が絡み合い、全体としての振る舞いが現れます。物事を要素へ分解することは重要ですが、それだけでは全体の振る舞いや面白さが見えてこないこともあります。このような見方は、物質だけでなく、社会現象を見つめる感覚にも近いものがあります。全体の状態は、個々の要素だけから生まれるのではなく、それらの関係性や時間的変化から生まれるのです。
《Rain Blooms》においても、私は単一の中心や一つの意味を扱っているのではなく、多数の要素の相互作用からボトムアップに立ち上がる現象を扱っています。作品を単一のメッセージへ還元するのではなく、複雑なものを複雑なまま観察する態度に、自分の科学的関心はつながっていると思います。
また、研究における仮説検証や失敗の扱い方も、私の制作に影響しています。意図した結果が現れないとき、私は単に出力を見て調整するのではありません。仕組みに立ち返り、原因を考え、モデルや条件を組み直します。その反復は、研究と制作の双方に共通しています。

Installation view of “Rain Blooms Lattice” at NEORT++, 2026, by Kazuhiro Tanimoto. Photography by NEORT.
本展の物理LED作品は、事前にレンダリングされた出力を表示するのではなく、組み込みマイクロコントローラ上でアルゴリズムを実行しています。カスタムハードウェアを制作した動機は何だったのでしょうか。また、物理作品は、あなたにとってデジタルエディションとは異なる仕方で機能しているのでしょうか。
まず、物理LED作品《Lattice》には、《Rain Blooms》をより単純なシステムへと段階的に還元し、その動作原理を示す標本のような役割があります。展示において、最終的な《Rain Blooms》だけが四面の壁に投影されていたとしたら、それは一般的なCG映像として受け取られてしまうかもしれません。これは絵画や彫刻を含むあらゆる制作物に言えることだと思いますが、作品を深く楽しむためには、それに関する知識が必要です。《Rain Blooms》の場合、どのような技術が使われているのか、どのようなルールが作用してこの結果を生んでいるのか、そしてそれらのルールがどのように段階的に変化し、最終的に《Rain Blooms》へ至ったのかを、できる限り説明する必要があると感じています。
一般に、こうしたものは単なる技術デモ、あるいは立場を示すためのレトリック装置として受け取られることがありますが、私はその見方に少し違和感を覚えます。根本的に、人は自分が好きなものや専門領域に対して高い解像度を持っており、その領域では微細な差異を美しさや面白さとして認識し、解釈することができます。一方で、それ以外の領域については解像度が低いため、以前のものと何が違うのかわからない、あるいはその美しさや面白さが理解できないと感じることがあります。これは本来、テクノロジーに基づく表現だけに固有の問題ではありません。人間の感性や思考に基づく表現にも、テクノロジーに基づく表現にも、それぞれ固有の美しさや面白さがあります。テクノロジーに基づく表現の面白さを理解するには、テクノロジーに対する解像度を上げる必要があります。たとえそれを完全に達成することが不可能だとしても、少しでも実現しようとする試みなのです。
第二に、私は「小さなシステム」に惹かれています。ある種の競争心のようなものかもしれませんが、ブロックチェーン上にアップロードできるほど小さなデータサイズの仕組みから、多様な現象が立ち上がることに、驚きと小さな喜びを感じます。しかし、PC上でプログラムサイズが小さいからといって、必ずしもそのシステムが小さいとは限りません。そのプログラムを実行するためのOSやグラフィックドライバ、その他のインフラがあらかじめ組み込まれており、プログラムはそれらを利用しているからです。一方で、中核となるアルゴリズムを、LEDを制御するESP32のようなマイクロコントローラへ移植できるということは、それがPCの巨大な共有インフラに依存せずに動作できるほど小さなシステムであることを示しています。
このプロジェクトは、NEORTとArt Blocks Studioの協働であり、日本のジェネラティブアートを国際的な観客へ接続する一歩として位置づけられています。日本のジェネラティブアートコミュニティと、より広い国際的なシーンとの関係をどのように見ていますか。また、日本という文脈が、ここで制作される作品に何か特有の影響を与えていると思いますか。
この数年間、私はArt BlocksとNEORTの双方に、それぞれ独立した形で関わってきました。NEORTは、誠実さと大胆な実行力を兼ね備えた組織であり、日本のジェネラティブアートコミュニティから最も強い信頼を得ていることは間違いありません。同時に、日本ではデジタルアート、とりわけその中のジェネラティブアートコミュニティは、まだ決して主流の存在ではありません。またNEORTは、このシーンへの貢献の大きさに比して、十分に報われていないとも思います。
そのような状況の中で、自分の作品が、Art Blocks、国際的に認知されているNEORT、そして日本のデジタルアートシーンのあいだに一つの接点を作れることは、大変光栄です。また、日本で積み重ねられてきた実践やコミュニティが、より広く見られる機会にもなると思っています。
作品そのものについて言えば、《Rain Blooms》に日本的なイメージや地域性を意識的に取り込もうとしたわけではありません。しかし、日本においてコンピュータアートと工芸的な洗練が重なり合ってきた流れの中に、自分の実践を位置づけて考えることはできます。現在私が関心を持っているのは、コンピュータによる計算を用いた表現が、視覚、音、時間、空間をどのように作品へと変えることができるのかという問いです。その問いは、日本国内だけでなく、国際的なジェネラティブアートの領域においても共有できるものだと思います。
展示情報
会期:2026/5/15 – 2026/5/31
会場:NEORT++ 東京都中央区日本橋馬喰町2-2-14 maruka 3F
Kazuhiro Tanimoto
Kazuhiro Tanimotoは材料研究開発に従事する化学者であり、コンピュータを用いたジェネラティブなオーディオ・ビジュアル表現を行っている。計算機の処理能力を活かしたリアルタイム生成システムの構築を軸に、セル・オートマトンをはじめとするアルゴリズムによる動的な変化や、物質的・社会的な現象にも通じる生成・変形・崩壊のプロセス、さらにそうした計算過程から生まれるコンピュータに固有の表現に関心を持つ。作品はRhizome ArtBaseに収蔵され、Art Blocks Curatedにも選出されている。主な展示歴に、WSA(ニューヨーク)、VA HUB(台北)、NEORT++(東京)、Art Blocks Gallery(マーファ)などがある。また、第21回文化庁メディア芸術祭ではアート部門審査委員会推薦作品に選出された。
Joana Kawahara Lino
ポルトガル系日本人のライター、クリエイティブ・ストラテジストであり、LORE Studioの創設者です。彼女の活動は、キュレーション実践、カルチャー戦略、そしてデジタルアートやWeb3エコシステムに関する批評的執筆にまで及びます。彼女は、Seattle NFT Museumの創設キュレーターを務めたほか、Art BlocksやFoundationでも活動してきました。現在は、LisbonとAthensを拠点に活動しています。
