水野勝仁 連載第5回 モノとディスプレイとの重なり

谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」
iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Akihiko Taniguchi

前回はエキソニモの「Body Paint」シリーズを取り上げて、ディスプレイを絵具の支持体として用いることで、その表面で光がモノに擬態する魔術的平面が生まれていることを示した。今回はスマートフォンやタブレットといった表面一面をディスプレイが占めるモノを取り上げてみたい。スマートフォンやタブレットはモノとディスプレイとがもともと重なりあって、ひとつのデバイスとして機能している。そのモノとディスプレイとの重なりに、エキソニモの「Body Paint」シリーズが示す魔術的平面のような特異な平面は存在しているのであろうか。

谷口暁彦はスマートフォンやタブレットを用いた「思い過ごすものたち」(2013〜)と「滲み出る板」(2015)という作品を制作している。「思い過ごすものたち」は《A.》と題され、「滲み出る板」では《D》と題された作品で、iPadはともに天井から吊られて、ユラユラしながら映像を表示している。ディスプレイがユラユラと空間に吊らされている状態は、これまで本連載が扱ってきた作品になかったことである。エキソニモの「Body Paint」シリーズ、Houxo Queの《16,777,216 view》 シリーズがともに壁にディスプレイを絵画のように設置した作品だったのに対して、谷口の《A.》と《D》はディスプレイを彫刻的に扱った作品と言える。それゆえに、これまではディスプレイを正面から見ていたのに対して、側面や背面などディスプレイをひとつのモノとして構成する要素が問題となるのである。「思い過ごすものたち」と「滲み出る板」は連作の作品であるから、本来はそれぞれ連作内において作品の連関を読みとるべきものであろう。しかし、「モノとディスプレイと重なり」を追ってきたこの連載ではiPadを用いた《A.》と《D》のみを考察して、ディスプレイが表示する映像と物理世界に置かれたディスプレイのモノとしての側面との関係をみていきたい。

ディスプレイと物理世界との間違った接続

谷口はHouxo Queとの対談「ディスプレイの内/外は接続可能か?」で「iPadやiPhoneの画面の中と外をどのようにつなぐかを考えて、最初に制作したのが「A.」という作品です」と述べている。そして、次のように《A.》の説明を続ける。

3DCGのティッシュペーパーが風でたなびいている15秒くらいの映像を、天井から吊るしたiPadでループ再生しています。そばに扇風機があって、その風があたるとiPadが揺れ、画面に映るティッシュペーパーもたなびいているように見えるというものです。画面の中のティッシュの映像は、風とは無関係にただループ再生されていることは見ればすぐわかる。iPadそのものを揺らすことは間違えた接続なのだけれど、それによって風が画面の中に入っていくように感じられてしまう。こうした、本来はフィクションとして閉じている画面の中の映像を、いかに画面の外の世界と接続し、関係させるかということがこれまでも僕の作品の共通の問題としてありました。1

《A.》で画面の外と中とを接続するために扇風機の風をiPadに当て、ディスプレイに表示されているティッシュペーパーと物理世界とが接続された感じを生じさせるのであれば、iPadを天井から吊るさなくてもいいのではないだろうか。iPadを壁に設置して、そこに扇風機の風を当てたとしても、多くのヒトはディスプレイの内と外とをつなげてしまうと考えられる。しかし、谷口はiPadを天井から吊らして、揺らす。その理由は、谷口がタブレットやスマートフォンについて、「画面が薄い板状で、触って操作できるということは、向こう側を覗く窓(Windows)から、いまここにある物質っぽさを強く感じさせます2」と言っているところに見いだせるだろう。ディスプレイを「窓」として捉えるならば、iPadを絵画のように壁に設置するだろうが、谷口は「コンピュータを一枚の板として彫刻の素材に使うことができるんじゃないか3」と考え、iPadのモノとしての側面を強調するために、iPadを天井から吊り下げる。天井から吊り下げられたiPadは「間違えた」方法でディスプレイの内と外とを接続する。

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スマートフォンやタブレットという薄い板状のコンピュータの登場によって、ディスプレイを「窓」ではなく、「モノ」として使用することが「誤用」とは言い切れなくなっている状況になっている。ディスプレイは「見る」ための装置であったけれど、タッチパネルを備えたスマートフォンやタブレットの登場によって、ディスプレイは「触れる」対象となったために、そのモノ性が強調されるようになった。さらに、ディスプレイはヒトの手に持たれることで、モノとしての側面を強調するようになった。映画のスクリーンやテレビの画面は見る者に対して垂直に置かれているのに対して、スマートフォンやタブレットはヒトの持ち方で見る角度を自由に変更可能である。それゆえに、側面や背面などディスプレイをひとつのモノとして構成する要素が視界に入るのである。このようなディスプレイの変化のなかで、谷口はiPadやiPhoneをひとつのモノと見なして、彫刻の素材として用いる。だから、「思い過ごすものたち」で使用されているiPadやiPhoneは、額縁のなかの絵画や映画のスクリーンのように見るための存在として物理世界から半ば独立した平面的な状態に置かれることはない。それらは彫刻のように物理世界のなかに置かれ、物理法則が作用するモノとして扱われることになる。

《A.》でモノとして吊り下げられているiPadは風に当たると揺れる。そして、そのディスプレイに表示されているティッシュペーパーも揺れている。ふたつは扇風機からの風によって揺れているように見える。しかし、ディスプレイ自体の揺れとそこに映されたたなびくティッシュペーパーとを結びつけてしまうのは間違った接続なのである。iPadが物理世界の情報を取得する加速度センサーなど各種センサーをもっていることが、この間違った接続をもっともらしく見せていることに貢献しているとしても、そのセンサーは機能していないため、iPadは物理世界に対する情報を取得することはない。ここで起こっているように見えるのは、物理現象である風が物理世界から切り離されているはずのディスプレイの世界にも作用するという奇妙な現象なのである。

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ここで《A.》におけるディスプレイとその外の物理世界との間違った接続を考えるために、「箱ティッシュはどこにあるのか?」という問いを立ててみたい。箱ティッシュは真っ黒な3DCG空間のなかに置かれていると言えるし、iPadのディスプレイのピクセルを構成する光の明滅によって現われている平面にあるとも言える。フィクションとして3DCG空間があり、それを具現化するためのディスプレイの光の明滅による平面がある。そのどちらに3DCGの箱ティッシュはあるのだろうか。ここでコンピュータグラフィックスを初期のころから作品のメディウムとして用いているメディアアーティストの藤幡正樹のテキストを引用してみたい。

ルールにしたがってタイプされた数字や記号が結果として画像を作りだしてしまうということは、はっきり言って信じられないことだ。が、これを繰り返していくうちにコンピュータ内にストックされた記号が記号としてしか取り出せないことに苛立ち始めた。記号は三次元の形態を意味しているにも関わらず出力される画像は二次元でしかない。特に初期のコンピュータ・グラフィクス映像がやたらと物体の周りを回り込む様に動くのは、動きというもうひとつの次元、時間の次元を画像に付け加えることによってなんとか三次元をみせようということにほかならない。4

藤幡のテキストから考えると、三次元的形態としてモデリングされた箱ティッシュは、その三次元性を保ちながら、二次元の画像としてディスプレイに表示されているといえる。その際に箱ティッシュのみではなく、その周囲の3DCG空間も二次元化される。箱ティッシュは三次元でありながら、ディスプレイに二次元の画像として表示され、しかも、その三次元性を示す「モノの回り込む様な動き」も失っている。このように考えると、ティッシュペーパーは映像として扇風機の風とは関係なくたなびいているけれど、箱ティッシュも含めた3DCG空間自体がディスプレイとともに扇風機の風に揺れているのである。言い換えれば、「モノの回り込む様な動き」の代わりに、扇風機で揺れている動くiPadが「動きというもうひとつの次元」をディスプレイに付け加えて、そこに表示されている風にたなびくティッシュペーパーを取り巻く空間自体に三次元性を再び与えているのである。

ティッシュペーパーは扇風機の風と連動しているかのように動いているけれど無関係であり、それが置かれた3DCG空間はディスプレイに平面的に表示されながら、扇風機からの風を受け揺れているディスプレイとともに揺れている。だとすれば、ティッシュペーパーは扇風機の風の影響を受けていて、3DCG空間がその支持体であるディスプレイとともに揺れていることになる。そのとき、揺れているのはディスプレイでしかないのに、見る人はその物理的な揺れを映像のティッシュペーパーの揺れと連動させて見てしまう。そして、物理的な揺れとティッシュの揺れの連動が扇風機の風を3DCG空間に吹き込むのである。それは間違った接続でしかないのだけれど、その間違いの延長で、ディスプレイに表示されている映像に物理的揺れというかたちで「動きというもうひとつの次元」を与える。つまり、iPadの物理的な揺れが3DCG空間でオブジェクトを三次元的に見せる動きの操作に擬態して、ディスプレイに表示されている映像全体に三次元性を与えるのである。

3DCG空間における「モノの回り込む様な動き」を擬態するiPadが箱ティッシュのティッシュペーパーを揺らすことで、3DCG空間に扇風機の風を接続して、ディスプレイがもつ二次元という制約から箱ティッシュを解放している。けれど、それは錯覚にすぎない。すべてはiPadのディスプレイという平面で起きていることである。錯覚だとしても、一度そのように思い過ごしてしまうことは、「風」によってiPadが揺れ続けることで、物理世界とディスプレイという二次元の平面に表示されざるを得ない3DCG空間とを「三次元」というフレームでつなぐ環境が構築されたことを意味する。それがたとえ錯覚で思い過ごしだとしても、物理空間と3DCG空間というふたつの世界が接続されたという意識経験は確かに見る人に起こったのである。

二次元と三次元との交錯

「滲み出す板」の《D》は「思い過ごすものたち」の《A.》とは何が異なるのだろうか。まずは、谷口の作品説明からみていきたい。

天井からiPadが吊るされていて、扇風機の風で揺れている。iPadには、カーテンのついた窓枠のCGの映像が映し出されていて、 カーテンが風で揺らめいている。その窓枠の背景には、iPadの背面のカメラで撮影している現実の空間の風景が映し出されていて、 iPadが揺れる動きによってその風景も揺れ動く。しかし、窓枠のCGの映像はそれとは無関係に中央に映し出されている。5

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《D》が《A.》と異なる点は3つである。ひとつ目は表示されているオブジェクトが「カーテンのついた窓枠」であること。ふたつ目は、窓枠の背景が真っ暗ではなく「iPadの背面のカメラで撮影している現実の空間の風景が映し出されてい」ること。最後は作品自体の違いではなく、作品説明後半の「空間」についての以下の記述である。

この時、iPadの中に映る現実の風景は、iPadを透明な窓のように作用させ、奥行きのある空間性を持つが、CGの窓枠はむしろ、 iPad自体の厚みと対応する、板状の薄っぺらい空間に貼り付いたように見える。5

谷口はここで「iPad自体の厚み」に注目している。《D》と同じように《A.》のiPadももちろんモノとして厚みをもつものであったが、そのことには言及されていない。《D》のiPadは厚みをもつモノとして意識的に扱われていることで、《A.》よりも彫刻的要素が強く扱われている。同時に、それは絵画のように向こう側を示す「窓」としても機能している。この彫刻と絵画とのあいだに、もうひとつの3DCGの窓枠とカーテンが示されている《D》は《A.》よりも複雑な構造を示している。

まずは《A.》の手法を引き継いでいるところからみていきたい。《D》のiPadもまた《A.》と同様に扇風機の風を受けて揺れており、3DCGの窓枠につけられたカーテンも揺れている。《D》のカーテンは《A.》のティッシュと同じように物理世界と3DCG空間とを接続する役割を担っている。しかし、《D》のもうひとつのオブジェクトである窓枠は、箱ティッシュとは異なり枠の向こうにあるものを見せるという機能をもつがゆえに、その枠からみえる視点=パースペクティブを見る者に与えるのである。そして、3DCGの窓枠はiPadの背面カメラという「窓」とは異なる視点を与えられている。それゆえに、《D》のiPadのディスプレイには、真っ黒な3DCG空間に置かれた箱ティッシュを捉えるパースのみを示していた《A.》とは異なり、背面カメラと3DCGモデルの窓枠が示すふたつのパースが混在した平面が展開していることになる。

《D》では《A.》とは異なりiPadが具体的な厚みを持ったものとして扱われている。iPadは平面的であるが、厚さをもたない概念的な平面ではない。しかし、ディスプレイを正面から見ている際には、iPadは「平面」である。しかし、それを風で揺らすことで、iPadは様々な角度を見る者に見せる。そこに具体的な厚みが生じる。ただし、具体的な厚みといっても、それは「薄さ」と対応するような「平面的」と形容することを許容する厚みである。もちろん《A.》のiPadにも平面的な厚みを見ることはできる。しかし、その厚みがディスプレイのなかに示されている映像と関係を持つことはない。《A.》のiPadは単に風に揺れるモノであればいいのであって、具体的な厚みは映像との関係では捨象されている。それゆえに、3DCG空間そのものがディスプレイとともに揺れるのであり、いかなる角度においても、ティッシュペーパーは3DCG空間にあり続けるのである。

しかし《D》では、平面的な厚みを見せる3DCGの窓枠が示すパースと揺れるiPadが示すモノとしてのディスプレイのパースが重なったときに、見る者はiPadの具体的な厚さとその平面的な薄さを同時に見ることになる。そして、そこに谷口が作品説明の後半で「空間」について書いている「iPad自体の厚みと対応する、板状の薄っぺらい空間に貼り付いたように見える」状態が生まれる。そのとき、窓枠の向こうに映されていた物理世界もまた板状の薄っぺらい空間に貼り付く。そこでは世界は覗き見る対象ではなくなり、角度的に見づらいけれど、そこに存在することは否定出来ない板状の薄っぺらい空間になっている。ここにはiPadの具体的な厚さとディスプレイとがつくりだす独自の状態が生まれている。板状の薄っぺらい空間の幅は最大でiPadの厚みをもつと同時に、それはiPadのディスプレイの光の明滅という厚さを持たない二次元の平面でもある。つまり、3DCGの窓枠とiPadが異なるパースで互いに示していた物理世界は、最大でiPadというモノの厚み、最小でディスプレイの光の明滅というほとんど厚みを持たない現象のあいだに生じる二次元と三次元とが交錯する特異な状態に置かれるのである。

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乱層のディスプレイ

しかし、「二次元と三次元との交錯」はもともとコンピュータに接続されたディスプレイが示していたものであったともいえる。デザイナーの戸田ツトムは、次のように書いている。

コンピュータはひとつのディスプレイ上に、概念的な平面とゴミ箱が置かれた街角のような空間を同時に混在させる。空間性不要のウィンドウでもスクロールツールによって全体の平面内をなぜか文字列がパンする。同様に「平面」上でウィンドウが重なり、後ろに回り、別ウィンドウの上を通過したり…。平面に存在し得ない状況の様々である。「絶対の平面・空間に置かれた平面・深さと線遠近法的な性格をある程度もった平面」、これら言わば乱層するデスクトップを、ユーザーはそれほどのストレスや戸惑いを感じることなく受容し得た。これは驚くべきことではなかったか? 6

谷口の《A.》《D》は、いわば戸田が「乱層のデスクトップ」と呼ぶ体験を、ディスプレイを基点にして反転させた作品だと考えられる。そして、「乱層のデスクトップ」をディスプレイというモノを用いて、物理世界に引っ張り出してきているのが、谷口の作品であり、この連載でこれまで扱ってきたエキソニモの「Body Paint」シリーズ、Houxo Queの《16,777,216 view》 シリーズだと考えられる。これらの作品はすべてディスプレイの光の明滅という原形質的性質とモノとしての性質を組み合わせて、あらたな平面をつくりだしている。私たちはディスプレイを覗きこみ続けて、そこに表示されていた奇妙な平面を見続けて、その感覚を蓄積していった。それはモノとしては体験できないものであった。しかし、ディスプレイ自体が薄くなり、また、タブレットやスマートフォンというあたらしい装置の登場によって、「乱層のデスクトップ」的体験をディスプレイというモノを経由して、物理世界で体験可能になっている。そして、Houxo Que、エキソニモ、谷口の作品は「乱層のデスクトップ」にモノという側面を付け加えて、光のうえに浮遊するようなモノ、モノに擬態する光、モノの厚みと光の薄さとの交錯といった「乱層のディスプレイ」とでも言える体験をつくりだし、ヒトが慣れ親しんできたモノと物理世界に揺さぶりをかけているのである。

参考文献
1. 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」,美術手帖 2015年6月号,美術出版社,P.87
2. 同上書,p.87
3. 藤幡正樹「四次元からの投影物」,『アートとコンピュータ ─ 新しい美術の射程』,慶應義塾大学出版会,1999年,p.120
4. 谷口暁彦「滲み出る板 / board ooze out 2015」,http://okikata.org/☃/shimideruita/(2016.8.30 アクセス)
5. 同上URL
6. 戸田ツトム『電子思考へ…―デジタルデザイン、迷想の机上』,日本経済新聞社,2001年,pp.20-21

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。