水野勝仁 連載第2回 モノとディスプレイとの重なり

渡邉朋也《画面のプロパティ》
「光の明滅」というディスプレイの原型的性質

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Akihiko Taniguchi

本連載の1回目は 「ディスプレイというメディウム」という節で終わり、「ポストインターネットの作品は既にデータとモノとが入り混じった装置であるディスプレイを媒介」にしていくと書いた。今回は、ポストインターネットにおいてディスプレイをメディウムにしている特性を渡邉朋也の《画面のプロパティ》から探っていく。 この作品はディスプレイという装置が画像を表示するための表示面=スクリーンに敷き詰められたピクセルを拡大して見せるものである。しかし、ピクセルを拡大したのちに私たちが見ることになるのは、明確な矩形としてのピクセルではなく、輪郭が曖昧なRGBの三原色のLEDの明滅でしかない。ディスプレイは輪郭が曖昧な光の明滅をピクセルという単位でソフトウェア的に制御し、画像を表示している。ゆえに《画面のプロパティ》は、ディスプレイの基本的特徴を示す原型的性質がピクセルではなく「光の明滅」にあることを示すのである。そして、データと肉薄するような精密さで制御された光の明滅が、光をモノのように扱わせるようなヒトの認識のバグを引き起こしていく。

ディスプレイのプロパティ

渡邉朋也の《画面のプロパティ》(2014)は、タイトル通り、レティナディスプレイ以後のディスプレイのプロパティを示すものである。渡邉は「スクリーンセーバーが作動するラップトップコンピューターのモニターの中央部1ピクセルを、高精度の光学顕微鏡で拡大し、その運動の様子を大型モニターで表示する動的なグラフィック作品」と説明する1。作品で使われているのは、レティナディスプレイを持つ MacBook Pro である。レティナディスプレイとは、普通に使用しているレベルでは肉眼でピクセルを認識出来ないがゆえに、「レティナ=網膜」という名前を与えられた高精細ディスプレイのことである。レティナディスプレイのピクセルを拡大する《画面のプロパティ》にヒトが見るのは、ピクセルではなく、RGBの光の明滅でしかない。『美術手帖』通巻1000号記念 第15回芸術評論募集で第一席を獲得した論文「画像の問題系 演算性の美学」で、gnckは《画面のプロパティ》を取り上げ、次のように書く。

インターネットリアリティ研究会のメンバーでもある渡邉朋也は、クリエイションギャラリーG8で行われた「光るグラフィック展」において《画面のプロパティ》を発表した。これは、MacBookでスクリーンセーバーを表示し、そのモニタを極限まで接写することで、1ピクセルが実は三つの色のLEDの発光であり、白く見える光が三色の光の混ぜ合わせであることをまざまざと見せつける作品であった。どのように理念的なピクセルを設定しても、モニタは現実にはそのような理念的な矩形をもっていない。逆に言えば、ピクセルとはそもそも理念的な存在でしかありえないことを示す作品である。 しかしその理念は、人間の頭の中にだけにあるのではなく、人間の頭の中と、電子演算処理機の装置の中にある。2

このようにgnckは《画面のプロパティ》を介して、ピクセルが矩形であることが理念でしかないと指摘する。ピクセルが赤青緑(RGB)のLEDの光であり、それらの光を拡大した映像のどこにもきっちりとした矩形を見ることができない。《画面のプロパティ》のディスプレイが見せるのは、角が丸みを帯び、くっきりというよりは、ボワーッとした感じで明滅を繰返している三色のLEDである。ディスプレイには明確な矩形はなく、ただ光の明滅がある。この作品を取り上げる直前まで、gnckの論文はピクセルが矩形であることを画像形式など様々な角度から確定していく。そして、ピクセルが矩形であることからおこる画像やフォントの輪郭のギザギザである「ジャギー」をピクセル表現のひとつの結晶とする。しかし、ピクセル自体を覗き込み拡大する渡邉朋也の作品が矩形として確定すべきピクセルの存在を揺らがせる。

渡邉の《画面のプロパティ》は、ピクセルが三原色の光にすぎないことを見せつける。しかし、明確なかたちをとらない3色の光の発光現象は、コンピュータによって精密に制御されて、ピクセルという理念的矩形に確定された存在として機能している。ディスプレイというハードウェアは揺らめく光を映し続け、コンピュータがソフトウェア的にその発光をピクセルという単位でまとめあげる。そうして、ピクセルという理念的な光のブロックが生じる。ヒト単体ではピクセルは理念的な存在には成り得ない。コンピュータによって光の明滅という現象が厳密にコントロールされるからこそ、ピクセルはピクセルとして理念的に存在するとgnckは考える。だから、彼は光のブロックとしてのピクセルで構成された画像をメディウムとして捉え、その美学を追求するのである。

しかし、画像はディスプレイを支持体=メディウムとするのではないだろうか。油絵においてキャンバスもメディウムであり、その上に載せられる絵の具もまたメディウムと呼ばれるように、ディスプレイが表示する画像もまたメディウムと考えることができるだろう。キャンバスと絵の具はモノとして互いに密着しているけれど、ディスプレイと画像とのあいだにはピクセルがあり、このピクセルがディスプレイと画像とのあいだに断絶をつくっていると考えられる。ディスプレイとピクセルはともに画像を構成するものである。しかし、ディスプレイはRGBのLED自体を制御するハードウェア的側面を多分に持つのに対して、ピクセルはそれらの光を制御するソフトウエアに定義された存在なのである。ここにはハードウェアとソフトウェアという断絶がある。もちろん、ディスプレイもソフトウェアがなければ機能しないし、その逆もまた然りで、それらはあたかもひとつのモノとして機能している。だが、そこにはハードウェアとソフトウェアという断絶があると考えられる。gnckはピクセルというソフトウェア的に定義された単位を理念的な存在とすることによって、ディスプレイの表示面に敷き詰められた夥しい数のRGBのLEDという物理的存在を隠すのである。

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私は逆に、ディスプレイからピクセルという単位を引き剥がして、精密機器としてのディスプレイが制御する光に注目したいのである。ディスプレイはもともとRGBの光の明滅をピクセルという単位で隠していたけれど、今では「レティナ」という名称とともに、ピクセルが見えない状態になっている。それは、画像をモノのように示すことだけではなく、光そのものを鮮明に表示するようになったことも示すのではないだろうか。そこにはディスプレイとコンピュータとに制御されて、ピクセルという単位を超えた光が切り開く、別の次元があるはずである。物理学者のアーサー・ザイエンスは光の謎と神秘を考察した『光と視覚の科学───神話・哲学・芸術と現代科学の融合』で、これまでの物理学とは異なる光についてのあらたな考え方を提供する量子光学を反映させた光の見方を書いている。

私たちが光を基本的な原始的断片に分けようとしても、光は最後まで完全なままで残る。基本的であるとはどういうことかという、私たちの概念そのものが問われている。今まで私たちは、最も小さいということイコール最も基本的であるということと見なしてきた。もしかすると、少なくとも光については、最も基本的な特徴は小ささではなく全体性に見いだされるのかもしれない。一つでありながら多くのものでありうる。粒子でも波でもありうる、一個のものであってその中に宇宙を含むことができる、というその厄介な能力に見いだされるのかもしれない。3

《画面のプロパティ》が示すように、ディスプレイにはピクセルを示す矩形はディスプレイにはない。そこで起こっているのは三原色の光の明滅である。レティナディスプレイのような高精細ディスプレイではピクセル自体はヒトから見えなくなっているけれど、ソフトウェア的に三原色をまとめる理念的な色のブロックとしてピクセルが存在するからこそ画像が構成され、ディスプレイ全体の光の配列が決定される。ヒトにとっては「ない」ものとして認識されるものが、ソフトウェア、ハードウェア的には確実にそこに「ある」ものである。ディスプレイには三原色の明滅や理念的なピクセルというかたちで「ある」と「ない」とがせめぎあっている。それはディスプレイのプロパティは最小単位のピクセルや三原色の光ではなく、「ある」と「ない」であり、その基本的特徴を示す原型的現象が光の明滅にあることを示している。

データに肉薄する光の明滅 と認識のバグ

「光の明滅」というディスプレイのプロパティを示す原型的現象を考えるために、ピクセルを主題に据えた「ピクセルアウト」展を企画したたかくらかずきがまとめた「メディウム・スペシフィシティを巡って」での、梅沢和木のツイートを参照したい4。このtogetterは、アーティストの梅沢和木の「小林健太個展「#photo」、相変わらずかっこよかったが、ブラウザで見る方が良い問題がここでも発生していて…」というツイートからはじまり、この後、梅沢、たかくら、山内祥太、小林健太の4人が「データ」を表示させる最適なメディウムは何かということが議論された。そのなかで梅沢が次のようなツイートをしている。

梅ラボ @umelabo 2016-03-21 23:28:12 @takakurakazuki モニターが良いというよりデータなのが良いということなのでは。そしてデータは「ない」ので良い。印刷された時点で「ある」ので印刷の精度、紙との相性や空間の見せ方などに良さの伸びしろが限定されるので、面白くない。まあこれブーメランなんですけどね。

梅ラボ @umelabo 2016-03-21 23:31:48 @takakurakazuki データが表示されているモニターは「動く」「操作できる」「光る」といった良さがあるけどそれはあくまで付随的なものだと思う。存在しない数字の羅列であるデータが何らかの装置を挟むことで知覚できるということが重要。

梅ラボ @umelabo 2016-03-21 23:36:54デジタルは「ない」から重要で、印刷物などの「ある」ものは紙との相性や空間の美的見せ方に行くしかなくなるのでデータの本質から離れる。美術に寄る。モニタやブラウザは光ったり操作出来たりするのでデータの良さに近い。しかし、それも最適解ではないと思う。ぶっちゃけまだわからん。

梅沢が言うようにディスプレイが「光る」ということは、データを表示する際の付随的な現象なのかもしれない。しかし、梅沢が「ない」と考えているデータがコンピュータで処理されるオン/オフの集積の果てに現れる存在だと考えると、ディスプレイのプロパティが光の明滅という原型的現象にあるからこそデータのオン/オフを光のオン/オフに置き換えることができる。その結果、ディスプレイという装置はデータに肉薄し、ヒトが見えるかたちでデータを現すと考えられる。それゆえに、ディスプレイは存在の不確かなデータを具現化できるメディウムなのである。

ディスプレイはデータを画像として具現化するだけでなく、高精細なレティナディスプレイに表示された画像はあたかもモノのようにも見えるようになっている。しかし、それは銀塩写真のように物理世界を物理的に写しとったわけではなく、そこにあるのは物理世界の光をコンピュータの演算を介してデータに変換し、そのデータを再度、光の明滅に戻したものである。《画面のプロパティ》を構成する4つのディスプレイのうち、MacBook Proのレティナディスプレイにはコンピュータ内部で生成された映像が映っているが、それ以外はレンズで捉えた外部の映像の光を再びディスプレイの光に変換している。そして、その3つのディスプレイは全ピクセルを明滅させて、肉眼では認識できないレティナディスプレイの1ピクセルを拡大することで見えてくる赤青緑3色の光の明滅を映し出している。LEDで埋められたディスプレイというモノは確かにあるけれど、そこに表示されるものは光の明滅という現象であり、「光の明滅」はモノとしてはない。データのオン/オフの集積とともに、ディスプレイ上のピクセルを構成する夥しい数のRGBのLEDもオン/オフを繰り返す。データはディスプレイの光の明滅として物理世界に現れる。もちろん、演算処理も物理現象を利用したものであるが、それをヒトは見ることができない。いや、ヒトに見せることを前提としていないと言ったほうがいいかもしれない。コンピュータのよる演算の結果はピクセルというソフトウェア的に最小の単位で処理され、ディスプレイの最小単位である三原色の明滅として物理現象化される。しかし、ヒトはその最小単位そのものを認識するのではなく、ディスプレイの原型的現象である光の明滅の配列がつくりあげる全体性を見ているのである。

ディスプレイは光の明滅という現象とコンピュータによる演算とが組み合わせられるフレームであり、光の揺らめきと整然さとが同時に成立することで、データが具現化される場である。さらに、光の明滅がヒトの認識から切り離されたレベルで厳密かつ精密に制御されているからこそ、ディスプレイはヒトの認識のフレームワークを構成する物理世界から離れた画像を表示することができる。画像の自由さはディスプレイの厳密さと精密さから生まれている。ディスプレイは登場した時から厳密であり、精密な装置であったからこそ、コンピュータと結びついた。そして、精密さの精度がレティナディスプレイでヒトの認識の閾値を超えてしまった。データを具現化するディスプレイには、理念的な単位として整然と整列するピクセルを具現化するコンピュータによる演算とそれに付随するタイミングコントローラなどのチップやピクセルの混信を防ぐ有機パッシベーションなどによってハードウェア的に精密に制御された物理的な光の揺らめきがある5。光の明滅というディスプレイの原型的現象が圧倒的な精密さで制御され、その精度がヒトの認識を超えていった。その結果、光の明滅の配列がつくりあげる全体性がディスプレイ自体をデータと密着した存在として認識するようにヒトに圧力をかけ、光をモノのように扱うような認識のバグを引き起こすようになっている。

現在、ヒトはディスプレイという光を明滅させる装置を見続けるようになっている。しかし、プラトンの洞窟の例を出すまでもなく、太陽などの光源が放つ光それ自体を見続けるということは失明などのヒトの認識にとって重大なバグを引き起こすものであった。だとすれば、ディスプレイという光源を見続けるという行為そのものがヒトの認識に不具合を引き起こす可能性があるといえる。けれど、その光を見続けることから生じるバグが、光をモノのように扱うようにヒトの認識をアップデートしていき、世界の見え方を一変させる要因になるとも考えられるのである。そのひとつの例が、《画面のプロパティ》が示すピクセルという理念的存在とそれを構成する三原色をモノの存在を確認するように光学顕微鏡で拡大して見るという行為なのである。渡邉は、MacBook Pro、顕微鏡付きデジタルカメラ、デジタルビデオカメラというディスプレイとカメラとの連なりによって、光学顕微鏡で光そのものを拡大して見るという状況をつくりあげる。そして、光をモノのように観察した結果、ヒトが普段見ることがないディスプレイの原型的現象である光の明滅が示されたのである。

次回は、光が明滅するディスプレイに直接ペイントしていくHouxo Queの「16,777,216view」シリーズの作品と、紫外線や赤外線も感知できるパラノーマルカメラでスマートフォンのディスプレイとそれを操作するヒトの指を撮影したEvan Rothの「Dances for Mobile Phones」シリーズの作品を取り上げて、ディスプレイによる光の明滅とヒトの認識のバグについて考察していく予定である。

参考文献・URL
1. 渡邉朋也《画面のプロパティ》(2014)http://watanabetomoya.com/work/display-properties/ (2016.5.15 アクセス)
2. gnck「画像の問題系 演算性の美学」美術出版社、2014年、
http://www.bijutsu.co.jp/bt/img/GH1_gnck.pdf(2016.5.15 アクセス)
3. アーサー・ザイエンス『光と視覚の科学───神話・哲学・芸術と現代科学の融合』林大訳、白揚社、1997年、p.349
4. たかくらかずき「メディウム・スペシフィシティを巡って」http://togetter.com/li/952935(2016.5.15 アクセス)
5. Apple「iMac:ピクセル一つひとつまで、磨き上げた傑作です。
http://www.apple.com/jp/imac/design/(2016.5.15 アクセス)

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。