SAM ASHLEY & WERNER DURAND – I’d Rather Be Lucky Than Good

数年前にジョン・C・リリーの本を読んだのがきっかけで、興味本位でアイソレーションタンクを体験しに行ったことがある。場所はたしか白金台の普通のマンションの一室で、自分より先に予約をしていた連れから、担当の人の眼の瞳孔が終始開いているのが恐ろしくて、説明を受けたところで適当な理由をつけて帰ってしまいました、と連絡があったので、若干の警戒心を抱きつつ施設を訪れたのだが、その瞳孔の開いた人がLSDについて熱く語る以外は特に何もなく、2時間ばかりタンクを堪能した。外部からの刺激が完全にシャットアウトされた状況で、高濃度の塩水に浸かって何もせず体を浮かべるのだが、期待していたような深い瞑想状態に突入したり、スピってありがたい声が聞こえてくることは最後まで起きず、ただ肉体の表面と塩水の境界線が曖昧になってきたころから変化が生じはじめ、心臓音や呼吸の鼻音や、聞いたことのない内臓の動く音が徐々に増幅されて聞こえるようになり、内側の身体活動の様子が音でライブ中継されているみたいだった。あとは時間が進むのが異常に遅く感じるせいか、時間の流れが対象化されていったのも覚えている。タンクで体験できる内容は人によって千差万別らしいが、個人的には、身体にくっついた意識をそこから剥がして何が起きるのかをモニターする、ひとつの臨床実験みたいだった。
アメリカの作曲家/サウンドアーティストのサム・アシュリーは、ヴォーカリストとしてロバート・アシュリーのオペラ作品に長年にわたって参加し、またその他のLovely Music周辺の実験音楽家達と様々なコラボレーションを重ねてきた経歴を持ちながら、生涯にわたって独自のシャーマニズムを追求し続けてきた神秘主義者でもあり、ソロ活動では自身の思想や見識を反映させたユニークな音響作品を発表してきた。彼に関する文献がネット上ではほぼ見当たらないため、その思想の詳細を伺うことはできないのだが、ルクレシア・ダルトとの興味深い対談インタビューによると、アシュリーは、幻覚や催眠状態、シンクロニシティといった人間の身体に生じるトランス現象を知覚拡張の手がかりとして重要視する一方で、古典的な宗教的信仰の価値観やそれにまつわるイメージ(光や神からの啓示など)をすべて否定している。到達不可能なエリアをあらかじめ設定し、そこに位置する絶対的な他者を崇拝することは、自らの超越の可能性を放棄し、単なる自己満足的な行為に留まってしまう。代替者としての絶対的存在を据え置くのではなく、自身が主体となる以外に外部との関係を更新することはできない、とリアリスティックかつラディカルな視点から神秘的な現象を現代的に捉え直し、その姿勢を表現行為上で実践してきた。
〈Unseen Worlds〉からリリースされた、サム・アシュリーとウァーナー・ドゥーランド共作によるスポークンワード作品『I’d Rather Be Lucky Than Good』でアシュリーは、ドゥーランドによる民族音とドローンを織り交ぜた不穏なサウンドを背景に、世界中の不可思議な物語や寓話を紡いでいく。マニフェスト・デスティニーやカニバリズム、架空の生物に遭遇した人物の話など、大小様々な歴史上の悲劇や出来事を、時間と空間を超えて自在に結び合せ、人間という種に本来備わる脆弱性、脆弱であるがゆえに余地として残された超越世界の可能性を、音とともに浮かび上がらせる。その言葉には、変性状態に似たアンビエンスが立ち込めている。眠りながらにして目覚めているような催眠的な気配のなか、しかしアシュリーの言葉はあるひとつの明瞭なメッセージを私たちに暗示している、「この世界が存在するためには、関係を形成しようとする私達の意思と指向性がなくてはならない」と。
ちなみにジャケットデザインを手がけたのはベルリン在住のSam Lubicz。ここ最近のアートワークは、病理めいたコラージュに拍車がかかっていて最高です。