水野勝仁 連載第11回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

バルクはサーフェイスからはみ出して「モノもどき」になった🧊

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Haruna Kawai

私は11回目まで連載を書いてきておきながら、今回のテキストを書くときに「バルクとはなんなのだろうか?」と考えてしまった。書けば書くほど、「バルク」が何だかわからなくなってきたのである。ということで、今回とおそらく最終回の次回も「バルクとは何だろうか?」ということを書いていきたい。今回は、連載5回目の「バルクと空白とがつくる練り物がサーフェイスからはみ出していく」を中心に「バルクと空白とがつくる練り物」とは何なのかということを改めて考えていきたい。

モノそのものから離れた独自の仮想的存在としてのバルク

私はモノでもありながら、ほぼイメージとしても扱われる「ディスプレイ」のモノの側面を強く意識した作品を論じた「モノとディスプレイとの重なり」という連載を終えたのち、ヒトとコンピュータとのあいだに現われたインターフェイス以後のモノについて考えたく、この連載を始めた。初回となる第0回を書いたときには、スマートフォンのようにモノの表面=サーフェイスを映像が覆うことで、インターフェイス以後のモノが変化していくのではないかと考えていた。そこで、モノのサーフェイスを覆う映像を透かし見て、その先にあるモノを捉えようと、タイトルは「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」にした。この段階では「バルク」という言葉は出てきていない。

第0回を書いてから第1回を書くまでに『表面と界面の不思議』という本を読んだ。そこに「バルク」という言葉があった。モノのサーフェイスは「仮面」の層と捉えられ、その奥に「バルク」があるとされていた。

表面と内部の違いをとりわけはっきりさせたい時、表面に対して内部を“バルク”と呼び、表面に対する内部の特性をバルク特性と呼んで区別する。バルクとは“全体”という意味である。1

バルクは「全体」ではあるが、モノのすべてではない。モノはバルクとバルクを覆うサーフェイスとで構成される。一つのモノがバルクとサーフェイスという異なる性質をもつことが興味深く、バルクという言葉を連載のキーワードとして使うことにした。その結果、第1回目のタイトルは「サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る 」となっている。考察を進めていくなかで、私はパソコンやスマートフォンのディスプレイが表示する映像の奥だけでなく、その手前の空間もバルクと名付けている。映像というサーフェイスを奥と手前のバルクとそれぞれ連続させて、映像の奥と手前とをそれぞれ一つのモノとして扱おうとしている。

インターフェイス以前のサーフェイスはバルクとのつながりを模様などで外部に示すものであった。しかし、サーフェイスはインターフェイスを介してテクスチャとなって、もう一つのモノや主体と効率的に情報を交換する場を構成するようになった。そして現在、インターフェイスの場から切り出されたバルクを取り囲むサーフェイスは、バルクとの微細な差異を外部に示しつつ、バルクと外部とを取り結ぶものとなっている。そこでサーフェイスを透かし見ると、その奥や手前に広がる空間が操作可能性を内包した一つのバルクとして見えてくるのである。2

ここで私は、インターフェイス以前のサーフェイスがバルクの状態を外に伝えるだけのものであったとすれば、インターフェイス以後のサーフェイスは、バルクの状態を伝えつつ、バルクの操作可能性を示すものになっていると考えている。「インターフェイス以前のサーフェイス」ということで、私は「石」や「木」のようなバルクとサーフェイスとが滑らかに繋がっているものを考えているが、ヒトはやがてモノのサーフェイスをバルクから引き剥がして別のモノのサーフェイスに定着させる写真や映画のフィルムをつくり出した。その後、テレビやビデオのディスプレイをつくり出し、サーフェイスを可変的なものにしていった。しかし、これらにおいては、サーフェイスを操作することでバルクを変化させることはできなかった。ディスプレイのサーフェイスはコンピュータと接続されたときにはじめて、サーフェイスで起きた出来事が内部=バルクの変化を引き起こすものになった。さらに、タッチパネルを備えたスマートフォンというかたちでモノの前面をディスプレイが覆うことになり、モノはサーフェイスを覆う映像を介して、外部にいるヒトの操作を受け付けるようになった。サーフェイスはバルクを外界から遮断するものではなく、その内部と外部の空間をつなぐ存在になっているのである。

タッチパネルを備えたスマートフォンやタブレットにおいて、指でモノのサーフェイスを覆う映像に触れて、その奥にあるコンピュータの論理回路を含んだ内部=バルクを操作することは当たり前になっている。このとき、ヒトはサーフェイスからコンピュータの論理を透し見て、コンピュータは同じサーフェイスからヒトの行為を透し見ている。映像という一つのサーフェイスの両面の奥に拡がるコンピュータの論理とヒトの行為とがそれぞれ操作可能性を示しながら、サーフェイスから連続するバルクとして空間を満たしている。モノのサーフェイスを覆う映像の奥にコンピュータの論理とヒトの行為とが操作可能なバルクとして現われてくる体験によって、ヒトのモノに対する意識が否応なく変化させられていく。このとき、サーフェイスは外界からモノの内部=バルクを遮断するものから、バルクを透かし見ながら操作するものとして扱われるようになっている。

その後の連載2−4回目は、操作可能性を持ったバルクを取り囲むサーフェイスとして映像を捉える試みが行われている。ディスプレイを映像を示す装置ではなく、「クッキー型」のように映像をモノのように切り取り、あらたなバルクとサーフェイスを与える装置として考えてみたり、ディスプレイの厚みに対応するように高さを複数設定したサーフェイスの集積がバルクを形成するとしてみたり、影の消去によってバルクとサーフェイスとの関係を自在に変化させる試みを考察したりした。

今から考えると、ここで重要なのは「クッキー型」になるだろう。連載2回目に山形一生の作品を考察して、私は以下のように書いている。

山形はディスプレイと透明なアクリルを型として使って、3DCG空間を切り取り、オブジェクトだけなく、その空間自体をモノ化していく。3DCGがもつ空洞を充填するかのように、型としてのディスプレイとアクリル板がオブジェクト表面のテクスチャを切り抜いていく。ここには3DCG空間そのものもまた空洞であり、それを示しているディスプレイも空洞ではないかということが示されている。しかし、一つのモノとしてのディスプレイが示すのは空洞ではなく、サーフェイスに囲まれたバルクである。ここでのバルクは一見、サーフェイスに囲まれた何もない空間であるが、それは形を生み出す母型=マトリクスとしてそこにあるのである。そして、サーフェイスに囲まれたバルクという型は、3DCG空間を切り出し、型の空洞に充填していき、一つのモノを形成する。3

私はここでディスプレイを「窓」ではなく「(クッキー)型」として考えて、映像をモノとして扱いたいと考えている。なぜなら、モノのバルクを捨象して、サーフェイスのみを二次元平面に転写したものとして映像を扱うのではなく、モノのバルクを可能な限り保持したものとして映像を捉えたかったからである。インターフェイス以後のサーフェイスとしてモノを覆っている映像の先に操作可能なバルクが透かし見え、そこにはモノのような手触りが生まれているということを示したかった。そして、今回改めて考えた際に「クッキー型」と「型」の前に「クッキー🍪」という言葉を入れたのは、手触りを強調するためでもあるが、連載5回目で考えた「バルクと空白との練り物」という言葉から、型に切り抜かれる「クッキー生地」という存在を思い描いたからである。クッキー型はクッキー生地をあるかたちで切り抜く。クッキー型自体はかたちを切り抜くためのサーフェイスしかもたず、サーフェイスに囲まれた部分は空白になっている。クッキー型では、サーフェイスに囲まれて、通常はバルクとして存在する部分が空白になっていることになる。しかし、クッキー生地に型を押し当て、切り抜いたときには、型の空白は生地によって充填される。この空白が充填されることで、あたらしいバルクとサーフェイスとが生まれるという感覚が、哲学者の入不二基義の「空白」をめぐる議論に結びつくことになり、そこで得られた「「バルクと空白との練り物」が、その後の連載の流れを決定することになったと考えられる。

連載5回目の「バルクと空白とがつくる練り物がサーフェイスからはみ出していく」は、入不二の『あるようにあり、なるようになる』のなかに出てきた「無の厚み」という言葉を手掛かりにして、バルクは確かにモノのなかにあるけれど「無」としても考えるといいのではないかと考察を進めた。そして、私はそれまでの連載をまとめて次のように書いている。

モノを見るとき、映像を見るとき、さらにはスマートフォンに触れているときにバルクは欠如している。サーフェイスを透かし見るとき、そこに「インターフェイス」というモノや映像とヒトとの「あいだ」は意識されるけれど、モノや映像の「厚み」は無視される。サーフェイスの先につづくバルクへの関心が欠落している。この連載「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスに取り囲まれていつの間にか忘れられた「厚み」に「バルク」と名付けて、モノや映像の厚みを考察しているのだと考えられる。4

これを書いたときの私は「サーフェイスから透かし見る」と言って、クッキー型の空白部分を見ようとしていたのだろう。型を見るとき、型をつくるサーフェイスとそのなかに現われている空白を一緒に見て、型で切り取られるクッキーのかたちを想像していると思っている。しかし、実際にクッキー型を見ているとき、私たちの意識はかたちを形成するサーフェイスに向かっていて、空白は意識されない。さらに、サーフェイスに囲まれた空白に厚みがあること自体を意識することはほとんどない。

5回目を書いたときは入不二の『あるようにあり、なるようになる』を参照したのだが、今回は最新作の『現実性の問題』から「空白」の考察を引用してみたい。

(或る項と別の項のあいだでの「交代」や「選択・確定」には、(「欠如」とは異なる)仮想的な「空白(瞬間)」が入り込まざるをえない。それは、「交代」や「選択・確定」が差異化を前提とするからである。複数の項のあいだの差異と、その「あいだ(空白)」という仮構が言語によって立ち上がらないかぎり、「交代」や「選択・確定」は成立しない。5

AからBへと交代するときには、「AにもBにも束縛されないニュートラルな「空白の場」「交代の瞬間」が仮構され」なければならない。AからBへと突然変わるのではなく、Aが一度なくなり「空白」が生じて、そこにBが現われることで「交代」は成立する。仮想される「空白」によって「交代」が生じる。では、クッキー型はどうか。クッキー型の空白部分をクッキー生地が「欠如」している状態と捉えることもできるだろう。しかし、クッキー型がもつ空白はクッキー生地がないという「欠如」を示すものではない。クッキー型の空白はクッキー生地に押し当てられた瞬間に空白ではなくなり、あるかたちを「確定」させるからである。クッキー型では空白が仮想的存在ではなく、クッキー型を構成するサーフェイスに依存してはいるが確かに存在している。その空白にクッキー生地が充填されたとき、空白は一つのかたちをなす。クッキー型の空白があるから、クッキー生地からかたちが現われることができる。クッキー型はクッキー生地とセットとなって、空白とかたちとを交代、選択、確定していくモノだと考えることができる。

しかし、もともとインターフェイス以前のモノにおけるバルクとサーフェイスであっても、バルクとサーフェイスとが交代する空白は存在していたはずである。なぜなら、空白が存在しなければ、一つのモノのなかでバルクとサーフェイスという異なる名称が交代することは不可能だからである。少し長くなるが、連載5回目のテキストをここで引用したい。

モノはただ一つの存在としてそこにある。しかし、モノの最表面とその内部との性質が異なる場合、内部はバルクと名指されるようになる。すると、一つのモノは最表面たるサーフェイスとその内部のバルクという異なる二つの存在で構成されるようになる。ここで注目したいのは、サーフェイスが常にバルクを覆っているということである。バルクの最表面は外界との接触によって変化してしまいサーフェイスとなっている。バルクが存在することは、すなわち、外界との接触することであるから、そこには必ずサーフェイスが生まれる。そして、サーフェイスはバルクバクルを囲っているから、外界からはサーフェイスの性質しか認識できない。確かに、サーフェイスの先にバルクがあるのだが、それはあたかもないかのように扱われるようになる。サーフェイスに周囲を覆われたバルクは、そこに存在しているにも関わらず、いつも間にかにそこから「欠如」していき、ドーナツの穴のようになっていくのである。しかし、そこには確かにバルクはある。バルクがなければ、サーフェイスはないはずである。ここでバルクはサーフェイスに存在をハックされている。バルクはサーフェイスによって外界から遮断され「あるけどない」という状態におかれ、「関心依存的な無」の状況に置かれていく。

けれど、バルクはサーフェイスと質的差異がなければ存在しないものである。だとすれば、バルクは「空白」として、「QまたはRまたはSまたは……」の「または」の部分に現れると考えた方がいいだろう。サーフェイスでもいいが、サーフェイスでもない宙づりの状態を呼び込むものがバルクと考えられないだろうか。サーフェイスがいつの間にかバルクになるとき、逆にバルクがいつの間にかにサーフェイスになるときに「もうサーフェイスはなく、バルクでもない(どちらでもない)」という空白が現れる。このように考えると、バルク自体は空白ではない。サーフェイスとバルクとのあいだに空白が生じることになる。バルクとサーフェイスとは「バルク|サーフェイス」という密着したかたちで一つのモノや映像を形成しているのではなく、バルクが空白を呼び込み「バルク|空白|サーフェイス」というかたちになっている。そして、この「空白」の部分が自在に変化することで、バルクとサーフェイスとの関係が変化し、バルクは気がつくと実在するようになったり、また消滅したりすると考えられる。モノや映像はその全体のなかに「空白」を抱えることになる。6

モノが外界と混じる部分はサーフェイスとなり、外界との交わりが徐々に終わり、やがてモノ単体のバルクになる。モノにおいてサーフェイスからバルクの変化は連続的で、明確にどこで切り替わるというところはない。しかし、一つのモノのなかに確かにバルクとサーフェイスとがあり、これらはどこかで切り替わる。一つのモノを「バルクまたはサーフェイス」という二つの言葉で考え始めると、空白が言語的にモノのなかに入り込み、バルクとサーフェイスとの交代を可能にする。バルクという言葉をモノの説明に導入したときに、モノには空白が入り込む。しかし、インターフェイス以前のモノでは空白がヒトの行為とコンピュータの論理をバルクに巻き込まない状態にあり、ヒトの行為はモノのサーフェイスまでにしか届かなかった。

色鉛筆とApple Pencilとの比較を一つの例として、インターフェイス以前・以後のモノを考えてみたい。私たちが色鉛筆を使うとき、「赤または緑または青または……」という様々な色鉛筆から希望の色を選ぶ。このとき、ヒトの意識において「赤または緑または青または……」における「または」のところで、赤が一瞬消え、空白が現われ、緑が現われ、次の「または」で、緑が一瞬消え、空白が現われ、青が現われて言葉と色の交代が起こっている。同時に行為のレベルにおける「または」の部分では、色鉛筆というモノの「交代」や「選択・確定」が起こっている。その際、「または」は実どの色鉛筆にも触れていないという行為の対象の空白を伴っているけれど、色鉛筆の持ち替え行為にのなかに生じる何も触れていないという空白の体験を意識することはない。色鉛筆というインターフェイス以前のモノにおいては、空白と結びついたモノのバルクは体験に現れないまま、言語と現象のレベルで「交代」や「選択・確定」が起こることになる。だから、インターフェイス以前のモノを体験するヒトの意識からは、モノに空白が入り込んでいることもその厚みを示すバルクも締め出されていたのである。対して、インターフェイス以後のモノであるApple Pencilにおいては、色を切り替える「または」という空白においても、Apple Pencilというモノに触れていることになる。Apple Pencilはディスプレイを介してヒトの行為とコンピュータの論理とを結びつけ、色鉛筆が示していた言語と現象レベルの色の「交代」や「選択・確定」の奥に透し見えていた「または」という空白を「白い鉛筆のようなもの」という厚みを持ったバルクとして具現化したモノなのである。そして、ヒトはこれまでの鉛筆と同じような輪郭と厚みを与えられた「白い鉛筆のようなもの」に触れながら、ディスプレイ上でこれまでにないかたちで色の「交代」や「選択・確定」を体験をするようになっている。

Apple Pencilを例とするようなインターフェイス以後のモノと向き合うヒトは、「赤または緑または青または……」のような言語を操るような概念的操作をしているのでもなく、鉛筆のようなモノに対して操作を行っているのでもなく、最終的にはディスプレイ上の二次元平面のイメージに対して操作をするようになった。しかし、二次元平面のイメージに対する操作は、言語を操るような感覚を保持しつつ、モノに対する行為をしているような感覚を持つものであった。インターフェイスを介して、ディスプレイのサーフェイスで行われる操作がコンピュータの論理回路=バルクに変更を加えていくなかで、ヒトはイメージをモノのように体験するようになった。ディスプレイという自在に変化するクッキー型とヒトの行為とコンピュータの論理とがつくるクッキー生地とのセットがつくられ、空白ゆえに自在に変化していくクッキー型がクッキー生地に押し当てられ、そのかたちを切り抜くように行為と論理とがディスプレイ上で交代、選択、確定されていくなかで、行為と論理とを結びつける「クッキー🍪」のようなモノの手触りを持ったイメージが次々と形成されていく体験の流れをつくり出した。インターフェイス以後のモノにおいて、バルクとサーフェイスとの交代を可能にする空白は言語のレベルではなく、ヒトの行為とコンピュータの論理とが絡み合う体験のレベルで現れるようになったのである。

空白がサーフェイスからバルクへの交代を可能にする。「空白」は論理・言語に属するものであって、バルクは現実自体の側にある。確かにそこにある厚みに空白という論理・言語に属するものが練りこまれていきバルクとなる。空白もまたバルクというモノの厚みを練りこまれることで、モノ的な存在になっていく。サーフェイスに囲まれて関心の外に置かれていたモノの厚みにバルクという言葉が与えられると同時に、空白がそこに巻き込まれていく。だから、空白は厚みを持ってしまう。バルクが呼び込む空白はバルクとサーフェイスとのあいだで機能するインターフェイスではなく、この二つの異なる性質が同一のモノのなかで切り替わるために呼び込まざる得ないものである。モノのなかには客観的なバルクと論理・言語に属した空白とによってできた独特な厚みを持つ練り物があると考えられる。モノや映像は論理・言語でしか考えられない空白とその厚みとしてのバルクからつくられる独特な練り物を抱えることで、はじめて極薄のサーフェイスを持つことができる。しかし、その極薄のサーフェイスは練り物を外界から遮断するものであり、バルクを私たちの関心の外に置いてしまうため、モノや映像の厚みはないことにされてしまう。7

私はここでヒトの意識がサーフェイスによってバルクから遮断されると同時に、言語的な空白とモノとして存在するバルクとが互いに練り込まれて、一つの練り物となっていくと考えている。引用した部分を改めて読んでみると、私は「練り物」という言葉を使って、バルクと空白との結合物という仮想的存在をクッキー生地のような独特な厚みを持ったモノ的な存在として扱い、手触りを持った体験レベルでバルクとサーフェイスとの交代を捉えはじめていると言える。私はインターフェイス以後のサーフェイス、特にスマートフォン以後のモノにおいて、映像のサーフェイスとモノのバルクとが言葉だけではなく、ヒトの行為・意識とコンピュータの論理とを巻き込みながら、体験レベルでバルクとサーフェイスとが交代してしまうような事態が起こっていることを示したかったのである。

バルクと空白からつくられる練り物は、二つの存在のあいだにインターフェイスと呼ばれる「境界線」を引くものではなく、一つの領域からはみ出てもう一つの領域に入り込んでしまう独特な中間性を帯び、複数の存在を巻き込んで、くっつけてしまう「糊」のように機能する。モノや映像を「厚み」という観点から考察するためにバルクを導入すると同時に、バルクと空白とがつくる独自の厚みを持つ練り物が周囲を覆う極薄のサーフェイスからはみ出し、別の何かを巻き込み、くっついていく様子を観察していかなければ、インターフェイスを経由したモノと映像を考えることは難しいのである。8

5回目の結論は、バルクは空白とともに伸び縮み可能な独自な厚みを持つ練り物となっている。今回の論考で考えると、バルクと空白との練り物はクッキー生地となって、クッキー型の空白を充填し、サーフェイスからはみ出すようになったと言えるだろう。サーフェイスの先・奥に透かし見られていたバルクは、モノそのものから離れた独自の仮想的存在として捉えられるようになり、サーフェイスからはみ出してきた。ここで改めて、インターフェイスに向かい合う体験を考えると、スマートフォン以前は、サーフェイスを透かし見て、その先・奥にあるバルクをマウスやトラックパッドを介して間接的に体験するものであったけれど、スマートフォン以後、いつの間にかサーフェイスを超えてこちらにはみ出してきた空白とバルクとの練り物をダイレクトに体験するものになっているのである。

型からはみ出す練り物がヒトの意識に「モノもどき」を立ち上げる

この体験は、モノが現象学的分析でいう射映構造をはみ出していくことなのではないだろうか、と私は考えている。現象学者の田口は現象学的分析で物のモノの現われについて次のように書いている。

まずは「物」(Ding)について考えてみたい。日常において、端的に直接的な確かさを示そうとするとき、われわれはしばしば「物」に訴える。物は端的に、直接的=無媒介的に存在しているように見える。だが、現象学的分析は、そのような物そのものが、必然的に「射映」(Abschattung)と呼ばれる変化する多様性においてしか現われえないことを示した。物の全面が一挙に、静止した全体として現われることはありえない。物はいつもある一面においてしか現出しない。たとえば、箱を回転させると、上面、側面、下面などが次々に現われる。しかし、それらすべてが同時に現われることはない。また、上面と側面が一緒に見えることはあるが、上面と下面が一緒に見えることはない。一面的現出が次々に展開するなかで、それぞれの物は、ある規則的な構造を示す。この連続的に展開する現出の規則的構造こそが、そこに「物」と言いうるような何ものかを現出させるのである。つまり、「物そのもの」は、そのつど変動する多様性に媒介されることによってしか現出しえない。「物」とは、むしろこの「媒介」の多様な局面が、一つの明確な構造を形づくるという出来事それ自体を指すと言ってもよい。このような媒介なしに、われわれが「物そのもの」に直接出会うということは、思考不可能な事態なのである。9

ここで注目したいのは、「上面、側面、下面などが次々に現われる」という規則的な構造がモノを示すということである。田口が示す現象学的分析においては、モノはサーフェイスが規則的に現われるなかで、一つのモノとして現われてくる。スマートフォン以後のモノが示すバルクと空白との練り物は、規則的な構造とともに現われるサーフェイスからはみ出してしまう。これまでのモノがサーフェイスの現われに閉じ込められていたとすると、スマートフォン以後の映像のサーフェイスに囲まれたモノは、これまでのモノと同様にサーフェイスを示しつつも、その体験において、サーフェイスの奥にあるバルクがはみ出し、上面と下面とが一緒に見えてしまうようなことが起こってしまっていると考えられる。バルクと空白との練り物は、サーフェイスの規則的な現われからはみ出てきて、サーフェイスによって生じる「変動する多様性に媒介」とは別のかたちでモノを体験する状況をつくりだしていると考えられる。それは「物そのもの」との直接出会いではないが、サーフェイスからはみ出してきたバルクと空白との練り物に仮想的に直接体験するということである。

「仮想的に直接体験する」というのは、バルクと空白との練り物がサーフェイスが切り出されて一定のかたちを示す際に、かたちからはみ出した部分が、制御できない体験としてモノとしてヒトの意識に現われるということである。スマートフォンを触れているときには、客観的にはガラス面を触れているだけであっても、主観的には別の体験として現われることがある。例えば、私はiPhoneのホーム画面でフリックを行って、アイコン全体を左右に移動させることにいまだに不思議な感覚を抱いている。これは客観的にはガラス面に触れているだけだが、その客観的行為と連動するサーフェイスの映像の変化は、私にはいまだに言葉にならない別の体験として与えられている。この体験に言葉を与えようとすると、連載4回目で取り上げた小鷹研理が主宰する小鷹研究室がつくり出した錯覚の一つ「質量ゼロのガムテープを転がす」にある「質量ゼロ」という言葉になるだろう。2020年11月に開催された「注文の多い「からだの錯覚」の研究室展」で、私も参加したトークでフリックの感覚を話したのだが、その後、小鷹が「質量ゼロのガムテープを転がす」と絡めて、次のようにツイートしていた。

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小鷹研究室は鏡を使って錯覚をつくり出しているが、スマートフォンでの感覚はサーフェイスの映像とヒトの行為とコンピュータの論理とが絡み合って「質量ゼロ」というモノとしてあり得ない現れをつくり出している。スマートフォンは前面にガラスをもち、アルミやスレンレスによって周囲を囲まれているサーフェイスが規則的に現れるなかで一つのモノとして現われてくるものであるが、ヒトの行為とコンピュータの論理とが練り合わせたバルクが映像のサーフェイスから「質量ゼロ」という規則的な現われから逸脱したモノの現われを立ち上げて、これまでにない別の体験をつくっている。この別の体験による感触が「サーフェイスからはみ出してきたバルクと空白との練り物」がつくるあたらしいモノなのである。ディスプレイというサーフェイスがつくるクッキー型が、空白とその奥に位置するバルクとから形成された練り物をある一定のかたちに切り出しつつ、一部の練り物はそのかたちからはみ出していく。そのはみ出しは、インターフェイス以前のモノのあり方にはおさまらない部分である。そして、型からはみ出した練り物は、ディスプレイのこちら側のヒトの意識のなかにあたらしいモノを立ち上げていくのである。

このようにインターフェイス以後のモノにおいては、ヒトの意識に現われるモノのあり方を変化させている。モノは客観的には目の前にあるのだが、映像とモノとの組み合わせやコンピュータによって正確に制御されたモノによって、目の前のモノはヒトの意識のなかで全く異なるモノとして体験されるようになってきている。このモノの現われの変化を考える際に、先に引用した田口の「媒介論的現象学」での次の記述は大きな示唆を与えてくれる。

「現われ」は、「主観的か客観的か」という二者択一的な問いには馴染まない。むしろ「現われ」とは、それ自体が「媒介」そのものであると考えられる。主観的なものと客観的なものとがまずあって、しかるのちにそれらが関係するようになるわけではない。「現われる」ということがまずあって、その「現われる」という事態のなかに、ほかならぬ客観的な物が姿を現わすと同時に、それを体験する働きも含まれているのである。「現われる」というただ一つの事態のなかに、主観と客観は最初から相互に媒介された仕方で見出される。「現出」(Erscheinen)というただ一つの媒介的事態の構造契機として、はじめて主観的なものと客観的なものとが、互いに対する差異を通じて固有のあり方を獲得する。11

ヒトとコンピュータとが向かい合うインターフェイスでは、主観的とも客観的とも言えるような体験が生じるようになってる。それは、インターフェイスを体験するということが、空白という架空=主観的存在とバルクとという客観的存在との練り物を見て、聞いて、触れることになっているからである。この練り物はクッキー生地のようにディスプレイというクッキー型で一定のかたちに切り取られつつも、少しづつ型をはみ出していく。型をはみ出してきた練り物があらたな現われとなって、モノとコンピュータの論理とヒトの体験とを媒介し、ヒトの意識に「質量ゼロの超弩級の球体」のようなモノを立ち上げ、体験させるのである。

サーフェイスの型から切り出される際に、そこからはみ出てくるバルクと空白との練り物がモノの客観、コンピュータの論理、ヒトの主観とを媒介して、ヒトの意識に立ち上げるモノを「モノもどき」と呼んでみたい。「モノもどき」とは、哲学者の加地大介が「物もどき」と呼んでいるものを参照している。加地は虹や鏡像を「物もどき」と呼び、つぎのように説明している。

一定程度に客観的で実体的でありながら非物体的であるようなものを「物もどき」と呼ぶことにしよう。物もどきの例としては、他にも穴や境界のような日常的対象が考えられるが、力場や素粒子のような科学的対象も一種の物もどきと言えるかもしれない。12

インターフェイス以後のモノは映像やデータという「客観的で実体的でありながら非物体的であるようなもの」との結びつきを強めていくなかで、それらにダイレクトに触れているような感触や質感をヒトの意識に与える「モノもどき」として現われるようになった。この「モノもどき」は「物もどき」とは異なり、客観的にはスマートフォンなどのインターフェイスとして実体的に存在していながら、その体験から立ち上がる現われが非物体的な、ヒトの意識のなかにしか現われてこない錯覚に近いものになっている。「モノもどき」はこれまでにない感覚で錯覚のように感じるが、そこにある体験は確かにそこにあり、その体験は否定できない強さをもつものである。ヒトとコンピュータとのインターフェイスはスマートフォンにたどり着き、映像がモノのサーフェイスを覆っていった。そして、映像に触れているだけだったのが、そこにモノそのものを求めるようになり、次第にその奥にあるバルクがサーフェイスがつくる型からはみ出してきた。このとき、バルクはモノだけでなく言語的な存在である空白を練り込まれた練り物になっている。そして、ディスプレイから切り出された一定のかたちからはみ出した練り物は、モノとコンピュータの論理とヒトの体験とを媒介し、ヒトの意識に「モノもどき」を立ち上げるのである。

参考文献・URL

  1. 丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司『表面と界面の不思議』、工業調査会 、1995年、p.11
  2. 水野勝仁「連載第1回 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳 サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る」、https://themassage.jp/archives/9491、2018年(2021/01/05最終アクセス)
  3. 水野勝仁「連載第2回 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳 3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス」、https://themassage.jp/archives/9674、2018年(2021/01/05最終アクセス)
  4. 水野勝仁「連載第5回 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳 バルクと空白とがつくる練り物とがサーフェイスからはみ出していく」、https://themassage.jp/archives/10941、2019年(2021/01/05最終アクセス)
  5. 入不二基義『現実性の問題』、筑摩書房、2020年、p. 336
  6. バルクと空白とがつくる練り物とがサーフェイスからはみ出していく
  7. 同上テキスト
  8. 同上テキスト
  9. 田口茂「媒介論的現象学の構想」、Heidegger-Forum vol.9 2015、http://heideggerforum.main.jp/ej9data/taguchi.pdf(2021/01/05最終アクセス)
  10. 小鷹研理のツイート、https://twitter.com/kenrikodaka/status/1334245137384235010(2021/01/05最終アクセス)
  11. 田口、2015
  12. 加地大介「虹と鏡像の存在論」、松田毅(編集)『部分と全体の哲学──歴史と現在』、春秋社、2014年、p. 198

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。