インターネットの裂け目のような空間から、アートの新しい鉱脈を発掘し続けるアーティストJon Rafman。その彼がStedelijk Museumで個展「I HAVE TEN THOUSAND COMPOUND EYES AND EACH IS NAMED SUFFERING」が開催されているというので、見に行ってきました。
今開催中のビエンナーレでは彫刻作品がいろいろ出品されているようですが、こちらは映像と映像を用いたインスタレーションがメインのようでした。Jon Rafmanの作品といえば、よく9-eyes(http://9-eyes.com)が引き合いに出されますが、Oneohtrix Point Neverのビデオクリップで彼のことを知ったという人も多いと思います。今回の展示もそのOPNの作品がバッチリフィーチャーされています。
これらの作品群で映像クリエイターとしての彼は、新しい映像言語として、これまで用いられてこなかったデジタルメディアが生み出してきたさまざまな素材を用いています。たとえばアーケードゲーム、ヴァーチャルリアリティ、日本のアニメ、ネット掲示板、そしてさまざまなマイナーなフェティシズム。それらは、これまでは光の当たることのなかった、特殊なコミュ二ティで育まれて孤立した文脈でした。
インタネット以降の世界とは、突如としてそうしたものに出会うようになってしまった世界であるともいえます。外部から突如そうしたイメージと出会わされたとき、わたしたちはそれをきっと奇妙に思ったり、気持ち悪く思ったりするかもしれません。しかしそれは進化の形が私たちと隔たっているだけの、単に入り組んだ形の欲望の姿であるだけなのです。その形が欲望を作り出すのか、その欲望が形を作り出すのかそれはわかりませんが。
Jon Rafmanがそうした独特のフェティシズムやオブセッションのようなものを素材として用いる際に、どのような姿勢を持っているかは少しわかりにくい部分があります。けれども、そこに固有の文化的価値を認めていることは確かでしょう。Rhizomeに掲載された彼のコラム「Codes of Honor」によると、彼は2009のほとんどをアーケードの暗がりでそのほとんどをの時間を過ごし、その強烈な達成感と束の間の名声を知り、ゲーム特有の悲劇的な要素を知ったと述べています。
今回の展示で、一つ目の部屋で人々が目にすることになるのが、コラムと同タイトルの作品「Codes of Honor」です。鑑賞者は小さな箱型の空間でこの映像を鑑賞します。乗り込むタイプのアーケードゲームの体験をイメージしていることは間違いないと思います。今回のインスタレーションはこのように、体験を映像だけでなく実際にフィジカルな形で作り出しているのが大きなポイントでした。
この作品はさまざまなゲームやそれに関連する映像のコラージュ、ローポリゴンなオリジナル?のイメージ、そしてモノローグで構成されているのですが、どこか物悲しさのようなものを感じます。エドワード・ホッパーがもし現代にアーケードに集うゲーマーを描いたら、このようなイメージになるのかもしれません。
http://codesofhonor.com
そのボックスの背後には「erysichthon」という神話をモチーフにした映像と、ブランコが空間にぶら下がっています。エリュシクトーンが登場する神話はとてもえげつなくて、神聖な樫の巨木を切り倒した罰によりけして癒えない飢えを与えられるのです。そして最終的には激しい飢えにより自分自身さえ食らってしまうという内容です。今回のタイトル「「I HAVE TEN THOUSAND COMPOUND EYES AND EACH IS NAMED SUFFERING」はこの映像から取られたものだそうです。
そこから読み取れるのは、彼がこの神話で語ろうとしているのが、私たちのこの無限に増幅されたこの視覚のパワーがもたらす苦しみについての物語であるということです。 その悲劇は、寓話ですが、どこか喜劇のような部分もあります。人間の愚かさと、その愚かであることへの愛のもののようなものを僕はそこに感じるのです。彼が「Codes of Honor」で語った、伝説的なゲーマーたちの達成したものと、その儚さの物語にも通じるものがある気がしませんか。
このモチーフはビエンナーレに出品されている拡張していっているようなので、もしそちらの作品を追跡してもっと掘り下げた報告ができたらと思っています。
ふたつ目の部屋の作品については明日時間があったらまとめてみたいと思います。