水野勝仁 連載第0回 モノとディスプレイとの重なり

「ポストインターネット」が設定したクリティカルな状況

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Akihiko Taniguchi

「ポストインターネット」とは何を示しているのだろうか。「ポストインターネット」はオンラインとオフラインを等しく考えるあたらしい価値観を示す言葉として、アーティストで美術批評家のマリサ・オルソンが提起したものであった1。しかし、現在では単に「インターネット以後」に起こっていることなら何でも指す言葉となり、アートの世界では少しでもコンピュータやインターネットに関係した作品ならば「ポストインターネット」と呼ばれる状況になっている。「ポストインターネット」はこのままバズワードとして消費されていくのであろうか。

私は「ポストインターネット」はインターネット以後の価値観を示すバズワードではなく、ヒトの進化に関係するクリティカルな状況を設定した言葉だと考えている。「進化」という言葉を持ちだしたけれど、「ポストヒューマン」というもうひとつの「ポスト」を言いたいわけではない。私は「ポストヒューマン」という想像力に一足飛びに移る前に、「ポストインターネット」という状況がヒトの認識にアップデートをかけていると仮定してみたいのである。本連載の目的はこの仮定のもとで、エキソニモ、谷口暁彦、永田康祐、THE COPY TRAVELERS、アーティ・ヴィアーカント(Artie Vierkant)、ジョン・ラフマン(Jon Rafman)、ルーカス・ブレイロック(Lucas Blalock)、レイチェル・デ・ジュード(Rachel De Joode)、トロイカ(Troika)らの作品の考察を行い、ポストインターネットに関連する作品の詳細な記述を残すことにある。今回のテキストは連載の枠組みを示すために書かれたものである。

見ることはもはや信じることではない

アーティ・ヴィアカントがエッセイ「ポストインターネットにおけるイメージオブジェクト」2で指摘しているように、インターネットはモノとディスプレイに映るイメージとの関係に変更を加えた。「ポストインターネット」とカテゴライズされる作家たちは、このモノとイメージとのあいだにおきた変化にいち早く意識的になり作品に反映させていった。その結果として、モノがインターネットに取り込まれて、インターネットを前提としたモノのあり方を示すような作品が多く発表された。それらの作品はディスプレイに示させるイメージと物理世界に存在するモノとの境界に揺さぶりをかけるものであった。そして、モノとディスプレイとが重なりあうところにモアレのような現象が起きて、ディスプレイが示すモノの存在が物理世界のモノのあり方に影響を与えて、ヒトの認識にアップデートを仕掛け始めている。例えば、デジタル以降のモノのあり方を探った『Postdigital Artisans』の「サーフェイス」の章扉には以下のテキストが書かれている。

スクリーン上で果てしなく変形し続ける能力が、日常の私たちのマインドに波及してきた。静的でソリッドである代わりに、オブジェクトはかたちを変え続け、ネットワークで結ばれるようになった。私たちの眼の前でサーフェイスは変形し、見ることはもはや信じることではないのである3

デジタル/インターネット以後のモノはディスプレイ上だけでなく、物理世界においてもそのかたちを変え続けるものとなりつつあるというのはまだ言い過ぎだとしても、ヒトはモノをそのように認識し始めている。その前提としてディスプレイが高精細化して「レティナ=網膜」という名前が与えられた状況がある。ディスプレイに表示されているのは「モノ」ではなく「イメージ」だろうと言われるかもしれない。確かにディスプレイに映るものは「イメージ」と呼ばれてきた。しかし、ヒトの網膜がディスプレイに映るイメージを「モノ」としても認識するような状況が、もうひとつの「網膜」としてのレティナディスプレイによって明確に設定されつつある。高精細ディスプレイの登場によって、イメージはイメージでなくなり、モノはモノではなくなりつつある。

そうは言っても、モノはモノとしてソリッドな状態で物理世界に存在していて、パラメータを操作することでそのかたちや見え方を変えられるディスプレイ上のモノとは全く異なる条件下にある。けれど、物理世界とディスプレイとがそれぞれモノに与える条件は徐々に相互浸透していき、モノはいずれ今までの意味でのモノではなくなっていく。その途上でモノとディスプレイとの重なりが生まれ、ヒトのマインドが「見ることはもはや信じることではない」という状態に再設定されているのが、ポストインターネット的な状況と言えるだろう。「見ることはもはや信じることではない」ということはデジタルイメージにおいては特に目新しものでもないけれど、コンピュータやインターネットはこの状況をモノにまで拡張することで、ヒトの認識にアップデートをかけ始めている。インターネットで世界が変わり、モノがモノでなくなっていくならば、ヒトの認識も変わらなければならないのである。

次回は作品を考察していく準備として、インタラクション研究者の渡邊恵太の『融けるデザイン』で提示される「データの具現化」という現象と美術批評家のgnckの「画像の問題系 演算性の美学」で示される「理念的なピクセル」という設定から、ポストインターネットにおけるモノとディスプレイの重なりを考えていく予定である。

参考文献・URL
1. Regine Debate, Interview with Marisa Olson, We Make Money not Art, 2008 (2016.2.20 アクセス)
2. Artie Vierkant, The Image Object Post Internet, 2010 (2016.2.20 アクセス)[アーティ・ヴィアーカント「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト」美術手帖 2015年6月号,美術出版社]
3. Jonathan Openshaw, Postdigital Artisans: Craftsmanship with a New Aesthetic in Fashion, Art, Design and Architecture, Frame Pub, 2015, p.111

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。