eightyeight-eightynine / plaktilts – ETERNAL FRESHMAN


東京を中心とする2つのユニット、eightyeight-eightynineとplaktiltsによるスプリットカセットがリリースされた。両者ともインダストリアル、ドローン、そしてノイズなどのタームを用いて紹介されるユニットである。いうまでもなく、これらは昨今ますます加速する作品のリリースの波の中で頻繁に見かける語だ。いまや音楽に限らず、様々な歴史的な遺産はアーカイブ化され、並列化というよりもまるで棚に陳列された参照すべき一つの項目でしかない。たやすく「それっぽさ」を作れる現在においては、一つのジャンルやタームは音楽的な「雰囲気」として、まるで香辛料のように利用される。つまり、これらがかつて語の本来の意味としての「オルタナティブ」であった時はすでに去ったとも言えるのだろう。「ロック」や「パンク」と言った語が先立ったように、様々なターム、ジャンルが後に続く。このようなタームを使って形容される「オルタナティブ」には果たして「代替する」というこの語の意味をどこまで見出すことができるだろうか。

こういったある種のあきらめは確かに筆者の心のどこかにあるけれど、eightyeight-eightynineの音楽にはオルタナティブの姿がちらつくように思う。使い古された閃きとも言えるが、ダブの手法が大きな役割を果たしている。昨今のエクスペリメンタルやレフトフィールドの方法論において、彼らの音楽が近接するだろうテクノの視点からはたとえばLogosのような「ウェイトレス」な方向が模索される。特にノイズを主軸にして注音域から高音域をメインに展開するならば、差異化を図るには低音域でのビートに注目が集まるが、彼らは古典的ともいえる4/4のフォーマットをベースに、ダブの手法を選択する。もちろん、ダブは確かにポストパンクの時代から空間的な広がりを生み出す手段として効果を持っていたし、言うまでもなくテクノの領域ではBasic Channelの存在がすぐに思い出されるだろう。ダブ・テクノだ。しかし、Basic Channelがそのレーベルのリリースラインナップも含めた視点で見ればテクノだけではなくレゲエの更新という趣向もあった他方で、eightyeight-eightynineはあくまでもダブを手法として何か「別のところ」を目指そうとする狙いがある。つまり、ここではテクノではなくポスト・パンクの道が明確に選択されている。冒頭からくり返される笑うようなピアノは、P.I.Lの、つまりJohn Lydonの乾いた笑いであり、Keith Leveneの冷めきったギターを思い起こさせる。感覚が麻痺するほどの長いループとノイズは、熱くマッチョな暴力性ではなくどこまでも冷めている。暗闇の中でも影が存在すると思えるような、暗さと冷たさ、そして少し湿った音が続いていく。

他方でPlaktiltsは異なったアプローチで「オルタナティブ」を描こうとする。2曲が連続して収録されているが、冒頭はアンビエントと形容される音が着実に空間を作っていく。ミドルには高速で鳴るビートがある一方で、ハイとローはゆっくりと存在感を示しながらレイヤーを重ねていく。その流れの中で自然と入っている爆音のノイズはあまりにも美しい。まるでゆっくりと釘を身体に打ち込まれいくように、それまでのそれぞれの音域のバランスが保たれながらノイズを身体に突き刺さっていく。たとえばいわゆるスロウコアのように突然ノイズが飛び込んでくるような飛び道具としてのノイズではない。ただそこにいつのまにかノイズがあり、何かが体に打ち込まれるような感覚をもつ。派手な音楽ではあるが、決して驚かしではなく波のようにノイズが飲み込んでいく。

言葉が機能主義的な考えでは結局のところは個人の内心を運ぶための乗り物でしかないことと、ノイズも同様かもしれない。eightyeight-eightynineとplaktiltsというそれぞれのユニットが今作にどんな思いを込めているのか、音楽からだけではわからない。いや、そもそも理解など求めてもないのだろう。このカセットから聴こえてくるものは反抗でなく、圧倒的な拒絶である。日々の様々な出来事を受け止め、またこなしていきながらもただ老いていくだけの人生を受け止めてしまう我々の存在を拒絶するように、そう「俺はお前ではない」と呟くように、ETERNAL FRESHMANというタイトルすらノイズのように響いてくる。「オルタナティブ」はどこにあるのか、ずっと探している。こんな時代だからこそなのだろうか、拒絶の中にこそ「それ」はあるのもしれない。

Leif- Loom Dream


言うまでもないが、音楽は作り手の意図やそこに込めた気持ちからはこぼれていくものだ。ある音がどのように受け止められるかは、個々のリスナーやメディアによるジャンルに落とし込もうという試みによるものだが、音楽の鳴らされる場としてインターネットの影響が強くなり、ジャンルが細分化され、一つの確固たる区分がますます効力を失いつつある現在では当然にリスナーの感じ方に左右される(もちろん、そこで「批評」の形が変わっていくことは言うまでもない)。時々の大小さまざまな音の流行りはある中で、作り手は確固とした「自分らしさ」を打ち出す必要があるのかもしれない。
 ロンドンのレーベル〈Whities〉は上述のような状況の中で、ベースやエクスペリメンタル、そしてテクノといったキーワードではくくられようが、「自分らしさ」をわかりやすく打ち出すことなく、奇妙な存在であり続けてきた。KowtonやAvalon Emerson、そしてMinor ScienceやGiant Swanなど多様なラインナップからも「わかりにくさ」を打ち出すその姿勢を感じることができるだろう。そんなレーベルの最新作の一つが、これまで決して目立つリリースはなかったが着実に支持を得てきたLeifによるLoom Dreamである。アンビエント、そしてニューエイジへの注目が強まる昨今の流れを考慮すれば、Leifの新作は快く迎えられるだろう。しかし、そこは〈Whities〉である。リスナーからの一方的な「定義」をさらりと避けていくような音が迎えてくれる。
  Leifのこれまでの作品は、一言でいえばおとなしく耽美的なものであった。〈UntilMyHeartStops〉からリリースされた前作Taraxacumではエクスペリメンタルな要素はちりばめられているものの、基軸としてのディープハウスはしっかりと聴きとれていた。つまり、クラブ・トラックとしても機能するようなものであった。しかし、今作の基軸は一聴してはわかりにくいかもしれない。全体で34分ほどの短いミニアルバムは17分ずつ、つまりA面とB面にわかれていてそれぞれが1トラックとして聴くことができる。フィールドレコーディングによるものと予想される音が鳴っていく中で、リスナーは「アンビエント」という言葉を持ち込むだろう。しかし、その中でゆっくりとキックが入ってくる。その音はまさしくUKのベースのそれである。もちろん、たとえばRandomerなどUKベースにおけるテクノとトライバルを狂気的に混ぜ合わせたものとは音はまったく異なる。あくまでも自然に、あらゆるバランスが計算されたうえで、アンビエントともベース・ミュージックとも聴くことが可能な、ある種の違和感と気持ちよさが同居している。眠ることも踊ることも許されている。
 音楽がBGMとして流されている場所にいく度に、その音楽の意味や機能について考えてしまう。メッセージを与えるもの、ある種のメタメッセージを与えるものなど様々だろう。癒されてもいい。踊ってもよい。ぼく個人は、Leifの音楽をBGMとして聴くことは難しい。新たに環境を作り出すもの(としてのアンビエント・ミュージック)であっても、何かしらの環境に上手くフィットするように使える便利なものとは思えないからだ。機能性といったリスナーの都合によって容易に消費されず、聴き手の耳を文字通り奪っていく。おとなしい音と思われることもあるかもしれないが、強力なミュータントである。(N)

Meitei – Komachi


アンビエント・ミュージックにおいて「環境」がどのようにとらえられているのかという視点は、その分析における一つの有効な視点である。特定の場所や環境についてその姿を描くようなものであったり,異次元・異空間のような新たな環境を作り、提示するものであったり「環境」をどのようにとらえるかには様々なアプローチがある。広島を拠点とする作家であるMeitei(冥丁)による最新作がリリースされた。彼のアンビエント・ミュージックの作家としてのアプローチ,つまり「環境」を捉える際の彼の視点は日本という「環境」を、過去を参照しながら(つまり時間という縦軸を基礎として)描こうとするものだ。
一聴すれば、それ自体は柔らかなアンビエントと形容されるだろう。音は全体を通して一貫している。プレスリリースにはJ Dillaの名も出ているように、ゆったりとしたタメのあるリズムがループしていく様はビート・ミュージックとして魅力をもち、出たり入ったりをくり返す様々な音や水の音などが聴き手のテンションを高く上げすぎることなく、一定の熱量を保っていく。チルアウトにも最適な、夜のさざなみのような美しさがある。
このような音像はMeiteiが取り上げる今作のテーマと結び付くことでさらに深みをましていく。彼は「失われた日本の空気」に注目したと紹介されているが、これはつまりは既に無くなっているものであり、彼の楽曲は亡失(≒忘失)の感覚を与えるものとして捉えることができよう。Meiteiの音楽が迫ろうとするものは日本のどこからかかき集め、こじつけたような現在進行形の「すごさ」ではない。彼が取り上げるのは本邦において既に失われた何かであり、その中には我々の先祖たちが想像力をもとに描いてきた「怪」や「幻」が含まれる。ここには文明の発達が妖怪の存在を消し去ってしまったと主張した水木しげると同様の、忘失への嘆きがあるようにも思えてくる。明治の文明化以降に様々なものが失われてきた中で、我々はそれを進歩と呼べるのだろうか…という水木の問いは大げさに聞こえるかもしれない。しかし、Meiteiの音楽がメタ・メッセージとして持つ(もしくは機能する)ものは我々のルーツへの視点であり、進歩史観とは無縁である。我々が失いつつ、しかしどこかにその感覚を残しているようなものへの視点が基礎となっている点でアンビエントというよりもフォーク・ミュージックと言ったほうが適切なのかもしれない。
日本という看板を背負わせ、欧米をはじめとした外側への回答のように考えることは日本と海外、つまり内外のどちらの側にもある種の特権的な意味づけをしかねない。海の向こうのきらめく文化に対して、この島国の文化の「すごさ」「独特さ」をアピールすることは安易なナショナリズムにも結び付き得る。マイルドで優しい「日本(的なもの)」を喜ぶポジティブな気持ちで結び付く、ナショナリズムを掻き立てられた者どもをすり抜けるように、失われてしまった幻によって立ち上がってくる「環境」を描いている。あまりにも遠くなり、おぼろげに揺れる蜃気楼のような環境である。

Nkisi – 7 Directions


作品に対峙する際に、その作者のルーツやアイデンティティを丁寧にたどることの必要性は、音楽だけではなくエンターテイメントのフィールドでますます強くなっている。たとえば昨今のブラック・カルチャーへの「関心」と、黒人が主役のヒーローものなどウケないと言われていた過去が嘘のように、そういった作品がアカデミー賞にノミネートされるまでに至ったことの間には確実に関連があるだろう。
しかし、他方で「ブラック」「アフリカ」などの語そのものが十二分にそのルーツや背景を語るものではない。先に挙げた映画でも、アメリカン・アフリカンにとっての大きな経験を描くものであっても、そこで描かれるアフリカの架空の国についてはアフリカへの先入観が大きく作用しているとの批判も時にあったからだ。ある特定の人種や民族の文化的背景を背負ったり迫ることには多大な難しさがある。鑑賞する側も同じような態度で軽々しくそこにルーツを見とることは、大きな誤解を導きかねない。
Nkisiの楽曲が評される際に、彼女の出自であるアフリカ、コンゴ民主共和国への視点が散見される。そのアーティスト名がその地では「魂が宿るもの」であることからも、彼女の自身のルーツへの強い思いが伺えることは明らかだ。しかし彼女の音楽には、ルーツへの視点のみが自身のアイデンティティを音楽に位置づける唯一の方法ではないという意思が示されているように思う。
本作はLee Gambleの主宰する〈UIQ〉からリリースされた。強く印象付けられるのはテクノだ。先に述べたアフリカ的なものは、七曲目のように、たとえばKonono no.1が鳴らすような、ルーツについて記名性を持った音が鳴る。しかし、全体として我々がアフリカを想起するようなわかりやすい音像が提示されるわけではない。これはある種の期待を持って聴くリスナーには残念な展開かもしれない。たとえば一曲目はアンビエントのような包み込むような柔らかさに包まれた後にリズムが複雑に絡むようにキックが入ってくる。二曲目は打って変わり、パーカションの音で始まり、キックの乱打がそこに重なる。後半になると、六曲目では音の間に隙間が作られ、いわゆる「ウェイトレス」な電子音楽も彷彿とさせる。Lee GambleのルーツにJeff Millesのようなテクノがあるように、彼女のルーツにはテクノがあるのだ。
その特に顕著な点を述べれば、彼女の音楽は90年代の、とりわけAphex Twinの影がハッキリと残る当時のテクノの強い影響下にある。彼女は幼い時にコンゴ民主共和国からベルギーに移ったというが、同じ90年代のテクノの流れの中でもガバと言ったハードテクノの影響は本作ではうっすらと伺えるものの、文字通りの弱い残像でしかない。はるかに強いのはAphex Twin、そして〈R&S records〉からリリースされたような当時のヨーロッパテクノの姿である。
「物語る」という行為は音楽においてはその音自体になるだろうが、彼女の出自についてその地理的な変遷を考慮すれば音楽も同じようにさまざな音楽の影響下にあるというべきだ。さらに、本作はコンゴ民主共和国にて大きな影響をもつ学者の宇宙観に影響されたものとも言われる。どこまで僕も含めたリスナーがこの宇宙的な音についていけるのだろうか。文字と異なり、音が語ることは往往にして断片的でありイメージである。そして当たり前のことだが、ルーツとはそんなシンプルなものではない。我々はそんなシンプルな世界、時代に生きてはいない。「魂の宿るもの」であるNkisiのその内側にはあるものは、確かに宇宙なのだろう。

Bruce – Sonder Somatic


ブリストルを拠点とするBruceのフルアルバムが自身の初リリース元である〈Hessle Audio〉から届けられた。この現在のイギリス、そして世界のクラブ・ミュージックをリードする3人の目利きから成るレーベルからリリースされたこと、そしてBruceは他にも〈Dunos Ytivil〉、 〈Hemlock〉や〈idlehands〉、また〈Timedance〉からもリリースを重ねていることから、これらに馴染みのある人々には彼の音楽が想像できるだろう。ダブステップを起点にテクノやエクリペリメンタルな方面へ触手を伸ばし、広がり続けるポスト・ダブステップの流れを代表するようなレーベル勢であり、そのいずれからも引く手あまたの存在であるのがこのBruceである。Bruceの名を見たら、そこに未来があると言っても過言ではない。彼の音楽は常に未来を向いている。

Bruceの音楽はそのパーツのそれぞれがまるで細胞のように組織され、機能している。曲によって多様なリズムが採用され、キックが鳴らすリズムはフロアでの鳴りが意識されたものである。その一方で、中高音域には様々なメロディが飛び交う。全体としてはポスト・タブステップの流れにおけるテクノへの傾倒が見られる中、そこにはデトロイト・テクノまで遡って想起させるような荒さも備えたエネルギッシュな音に加え、たとえば(他のレビューですでに触れられていたが)Monolakeのような硬いダブ・テクノを連想されるような音も聞こえてくる。さらにノイズや急なビートの変化など様々な音響的なしかけも綿密に設計されている。先に述べたような「未来的」という表現がふさわしいような、歪んだ叫び声やノイズが全体を塗り替えていく。ブレイクの入り方や極端に音数が少なくなる展開、そしてBPMの異なる楽曲たちがスムーズにノイズなどで繋がれていく様は美しく、冷たい。

Bruceの音楽はクラブでどのように鳴り響くのだろう。冷たく、時に全てを引き裂くような叫び声やノイズが入る彼の音楽は、フロアがある種のコミュニティであるとすればそこに亀裂を入れるような機能をもつのかもしれない。このアルバムの狙いは「フロアで、少しの間その周囲の環境から人々を引き離しながら、彼らが自分が誰だかわからなくさせるという変形をもたらす生々しい感覚」を描くこととされている。また、アルバムのタイトルは『Sonder Somatic』という。前者はThe Dictionary of Obscure Sorrowsによれば「通り過ぎていく人々も自分と同じように鮮やかで複雑な人生を歩んでいることに気づく感覚」であり、後者は細胞の意味をもつ。彼のもつアルバムの狙いとタイトルを合わせれば、クラブというコミュニティにおける細胞である一人ひとりに向けられた音楽であることは明らかであろう。それは躍らせるという機能性だけを持ったものではない、美しく冷たい未来の音楽であるが。

Szun Waves – New Hymn To Freedom


Luke Abbottと彼との共作で存在感をアピールしたサックス奏者のJack Willie、そしてPVTのメンバーであるドラマーのLaurence Pikeの3人から構成されるのがSzun Wavesである。Luke Abbottの音楽を知るリスナーは彼の音楽がクラウト・ロックを想起させることを頭に置いて欲しい。そこには、ClusterやHarmoniaなどから続く流れが、また彼がいくつもリリースを重ねてきた〈Border Community〉においてそのカタログが示すような「インテリジェンス」がキーワードとして上ってくるだろう。Abbottの音は多くの曲で前面に出ることはなく一定の位置に留まって基調となる空気を作り、確かに先述したClusterなど偉大なるエレクトロニック・ミュージックの形が生き続けているように感じられる。しかし、決して頭でっかちな音楽ではない。録音が即興演奏かどうかは定かではないが、Willieのサックスが泳ぐように、Pikeのドラムは緩急入り混じりながら川の流れを作っていく。Abbottの作る空気の中で軽やかに踊るように、二つの楽器が決してそれぞれの音域の中でケンカすることなく、美しく絡み合っていく。
この作品をどのように言い表すことができるだろうか。なるほど、他のいくつかのレビューでDon Cherryの””Brown Rice””などが参照されてジャズの視点から語られているように、この作品は複合的な視点から評され得る厚みがある。しかし、聴いている時には彼らのバックグラウンドを意識させるような記名性は強くない。そしてジャズ、エレクトロニカ、そしてエクスペリメンタルやクラウト・ロックというキーワードもこの音楽を捉える際には十分ではないように思う。サックスの音が入っていれば、そしてドラムが即興的な音を立てていれば「ジャズ」だと判断する人も、またAbbottが全体の空気を作る中で、エクスペリメンタルと呼ぶ人もいるかもしれないがそんな考えも包むような開かれた空間を作るような音楽だろう。リリース元のレーベルである〈LEAF〉は、即興演奏におけるリスナーと演奏者の間のギャップを埋める、リスナーを音の中に引き込む音楽であるとのコメントしている。この作品はそれゆえ「アンビエント」の一つとして位置付けることができるかもしれない(私はSun Electricによる20年ほど前にリリースされた傑作のライブ盤を思い出した)。しかし、この「アンビエント」性は音が作り出す雰囲気にとどまらない。その独特のオープンな感覚はCANをも連想させるような、つまり様々な音楽が想起されるようなものなのである。さらに、全体の音色からはBoards of Canadaを思い出すリスナーも多いだろう。アナログとデジタルのどちらの音も絡み合い、柔らかいサイケデリアを描いていく。
実力のあるプレイヤーが集まったバンドではあるが、このレコードでは「誰」が演奏しているのかは問題ではない。そこで鳴っている音が全体としてどんな経験をリスナーに与えるのか。演奏の瞬間を切り取ったもの、もしくは個々に録音された音を重ねたものであれ、録音物としてパッケージングされたものには「死」のイメージが付きまとうかもしれない。しかし、このレコードに入っているものは生きている。それ以外の言葉が見つからない。

Various Artists – Never a Land without People


本作のタイトルは、“A land without a people for a people without a land”(土地をもたない人々のための、人々のいない土地)からの引用だろう。これは現在に至るまで様々な場面で引用されるフレーズであり、「シオニズム」(ユダヤ人によるイスラエル復興を目指す運動)の文脈で用いられてきた。このフレーズを引用しつつ、その頭にNEVERという否定の語を配している。ここに、その土地に住んでいたパレスチナ人の存在を広め、売上を募金することで彼らをサポートしようとするキュレーターのJaclyn Kendallの強い意志があらわれている。また音楽は社会においてどんな力を持ちうるのかと、改めて考えさせられる。本作は30名のアーティストから提供された楽曲を収録している。たとえば〈L.I.E.S〉や〈Desire〉からリリースを重ねてきたS. Englishをはじめとしたロウなテクノ/ハウスが取り上げられる中、白眉と言えるのはObject Blueの神経症的でありながら、揺れるリズムが4/4のリズムを脱構築するトラックだろう。参加アーティストはいずれもカセットテープのリリースを主にするような、アンダーグラウンドでフレッシュな面々だが,そのバラエティとクオリティには舌を巻く。彼らの楽曲を音そのものとして楽しむならば、ロウでインダストリアルな、昨今のテクノ/ハウスの流れを押さえたものだといえる。しかし、音楽は言うまでもなく音の組み合わせたもの以上の「何か」である。ダンス・ミュージックがマイノリティを包摂する機能を持つ文化であれば、それはパレスチナやイスラエルに暮らす人々に対してどのような意味を持つことができるのか。音楽が力であるとすれば、その力を連帯につなげるために受け手に求められるのは享楽だけでは不十分だ。このアルバムはそんな消費を許さない力強さがある。ヒリヒリとした空気で満たされているし、その空気こそがある種の連帯を示しているのかもしれない。音楽に政治を持ち込むな?そんな享楽はここでは許されていない。

Wen – EPHEM:ERA


Wenはこれまで〈Keysound〉や〈Tempa〉などからリリースを重ねてきた。2012年頃にはBeneathやVisonistといった面々と並べて語られ、そして2015年頃にMumdanceやLogos、そしてRinse FMにて番組を共にホストする盟友Parrisなどのユニークなアーティストとともに、ダブステップやグライムという力強い音楽を、その重量への批評的視点から進化させ(彼らはサブジャンルとしてのWeightlessの立役者である)、またジャンルを横断することでその地平を切り開いてきた。本作はそんな若いパイオニアの2作目のフル・アルバムである。しかし、常に新しいものが求められる消費社会である今日では、音楽においてジャンルを横断することだけで称賛されることはない。特にアルバムというフォーマットでは、そのテーマやビジョンが重要だろう。プレスリリースによれば、現代社会における儚さ、消費サイクルへの応答として本作が位置付けられているという。このコンセプトから、EPHEM:ERAというephemera(「はかなさ」)という語がera(「時代」)という部分を強調するようにタイトルとして置かれているその意味は容易に理解されよう。すべてがとてつもないスピードで消費される現代社会において、語られるべきテーマの一つがインターネットであることに異論はないだろう。それぞれのトラックは綿密に構成されつつも、それぞれの尺は全体的に短いものが多い。全体で38分というアルバムはあっという間に終わってしまう。楽曲の多くは基礎となるフレーズをくりかえしながら、しかしDJユースというには短か過ぎる長さで楽曲は次へとつながっていく。また、本作はイタリアの建築家であり、素材やその土地の歴史などに敬意を払った作風で知られるCarlo Scarpaからもインスパイアされている。ジャンルを横断しつつも、それが130ほどのBPMにむかって楽曲が組み立てられていく。クライマックスに向かうにしたがってよりグライム寄りのアプローチが増えていくが、柔らかく伸びのある高音域と、タイトな中・低音域がどちらも同じレベルで主張しつつ、美しい一つの音楽を構成する。すべての音が必要なところにあるその音の配置からは、建築を学んだWenらしいアプローチを感じることができる。クラブであれどこであれ、彼の楽曲はその美しさを失うことはない。現代社会へのまなざしと抵抗はその緻密な構造の基礎であり、耽美さを生み出している。

Jay Glass Dubs – Plegnic


アテネを拠点とするDimitris Papadatosによる、既発のリリースをまとめた編集盤である。彼自身がその名前で示しているように、一言で表すならばダブの作品である。しかし、これはあなたが聴いたことのないダブかもしれない。
「ダブ」とは音楽のジャンルであり、音を処理する手法でもある。JGDの作品は、主にその後者に寄っているものだ。1曲目のTemple Dubを聴くと驚くのは、リズムが3拍子である点でレゲエとは異なる構造を持っているところだ。その音の質感もレゲエよりも、耽美的でゴシックなものである。音の質感から想起されるものはたとえばDead Can Danceのような圧倒的に日陰の、そして暗闇のもつ美しさを描く世界であり、ザラザラとした触感、そして硬い音はポスト・パンク的ともいえる。しかし、音楽的な構造を理解しながらも耳をゆだねているうちにそこで鳴っているものは一言で「ダブ」だと感じるようなものだ。ダブ処理だけでこのように音がなるのだろうかと驚かされる。アルバムは3曲目で曲がり角にぶつかる。ダブ処理された音として目立つのはスネアぐらいのもので、硬く暗い音で幕を開けならがもゆっくりと柔らかいエレクトロニカへと移っていく。しかし、4曲目からは明るく、レゲエに寄ったダブの世界へと移り、ラストの5曲目Fealess Dubは1曲目と同じ3拍子に戻る。音の質感は決して派手な音はなく、チープな部分もある。音質の点ではTapesなど様々に広がるダブの世界とも繋がるように思える。
全体を通して改めて形容するならば、まるで埃まみれのDead Can Danceのアルバムを倉庫から引っ張り出してダビングしたテープを再生したような作品であり、レゲエのファンからは見向きもされないかもしれない。しかし手法を小手先だけの音色のために使うような安いものではなく、過去を引き離すような独創性がある。それは様々な種類の音をそれぞれダブ処理し、ゴシックな流れの中でまとめ上げる彼の手法がなすものである。1970年代に生まれたポスト・パンクは21世紀になってもリバイバルを経て、息が長いのかもしくは死んだまま動かされているのかわからない状況と言えるかもしれない。Jay Glass Dubsをポスト・パンクの系譜に連なるものと言えるのならば、単なるリバイバルではないのだ。装飾ではなく、手法としてのダブによるラディカルな「ダブ」なのである。レゲエとポスト・パンクの邂逅は何十年も前にあったわけだが、その徹底的にラディカルである姿勢は確かにポスト・パンクのそれに近いかもしれない。

>Actress x London Contemporary Orchestra – LAEGOS


本作はLondon Contemporary Orchestra とのセッションを基礎とするもので、その試みは2016年に始まる。クラシカルな楽器と同時にビニールのレジ袋なども楽器として採用しつつ、Actressの鳴らす不穏なノイズとともにさまざまな表情を見せる。Actressは古典と現代という時代の軸において対置される要素(楽器)を組み合わせて、未来を目指す音楽的な実験を行いながら-興味深いことに-オーケストラのメンバーとセッションを行ったロンドンのBarbicanという文化施設の設計図も参考にしている。Barbicanはコンクリートの打ちっぱなしが印象的な、合理主義に貫かれたブルータリズムの流れにある建築物である。コンクリートのように、Actressの音楽はいつも冷たい。しかし、その音像は暗闇の中で揺れ動くカーテンのようで、その風景がどこから来たのか、そしてどこへ聴き手を導くのかは不明瞭である。断片的に分析すればそこにはテクノやハウス、ヒップホップの姿が見えてくる。しかし、その肩を叩いても表情まで確認することはできない。幾重にも重ねられた生地のような音楽ともいえるだろうか。そのインダストリアルな感触はモダニズムと結びつくものだが、本作での音楽的実験によりさらに増幅された「(カーテンのように動く人間の心の)ゆれ」のような不確実性こそ、合理主義とは切り離された「何か」であり、だからこそ聴き手を揺さぶってくれる。冷たくて果てのない建物の中で。

A.A.L (Against All Logic) – 2012-2017


Nicolas Jaarがその名義で2枚の独創的なアルバムをリリースしている他方、〈Wolf+Lamb Music〉などからエディット集などのよりフロア向けのハウス・ミュージックのリリースを重ねてきたことは特にDJにはよく知られていると思う。そんな彼が突然、別名義のA.A.L (Against All Logic)で製作した2012年から2017年までの作品をコンパイルしたアルバムをリリースした。本アルバムの楽曲どれもがハウス・ミュージックやソウル、そしてファンクの要素を詰め込んだ(繋げた)ような上質のエディットではあるが、1曲の数分の中で生のミックスが行われているような音の差し引きや展開を楽しむことができる。またグルーヴが颯爽でありつつも奇妙に繋げられたようなポイントもあり,まるでターンデーブルの上でのレコードが滑った時のようなノイズのようにも聴こえる。躍らせることだけを考えた(リ)エディットものとは異なるオリジナリティを授ける大きな効果を持っている。単なる音の抜き差しではなく、奇妙でありあたかも計算されていないようなどこか生々しい感触がある。突然のリリースかつ別名義とあっては、Nicholas Jaarの作品ということに気づかれずに埋もれてしまう可能性もあるが、躍らせるための論理に対抗するような奇妙かつ生々しい感触を与えられる面白さを聞きのがしては勿体ないだろう。「考えずに踊れ」というメッセージではなく、「こんな音楽であれば踊らせられるだろう」といった安いロジックへの生々しくもエレガントな反抗である。別の論理がここにある。