Masanori Mizuno
Overlapping between the object and the display device

永田康祐《Translation #1》
水平に置かれたディスプレイが物理世界のルールを上書きする

Text: Masanori Mizuno, Title image: Akihiko Taniguchi

1ピクセルの光の明滅を見せる渡邉朋也の《画像のプロパティ》、高速で色面を切り替えるディスプレイにブラックライトで発光する蛍光塗料が塗られたHouxo Queの《16,777,216 view》シリーズ、光とモノとを融合させた魔術的平面をつくりだすエキソニモの《Body Paint》は絵画のようにディスプレイが壁に垂直に掛けられていた。天井から吊り下げられたiPadのモノとしての薄さがディスプレイ空間の薄さと連動する谷口暁彦の「思い過ごすものたち」の《A.》や「滲み出す板」の《D》、割れたスマートフォンのガラスを木に彫り込んだ須賀悠介の《Empty Horizon》といった彫刻的作品でも、ディスプレイは垂直の状態にあった。しかし、今回考察する永田康祐の《Translation #1》で用いられているふたつのディスプレイは水平に置かれている。ディスプレイが水平になるということは、スマートフォン以前では珍しい出来事だったかもしれないけれど、今では多くの人が水平のディスプレイを覗き込んでいる。このとき、ディスプレイには何か変化が起こっているのであろうか。さらに、《Translation #1》ではふたつのディスプレイに同じ映像が分配されている。映像の分配もまた普段よく見る出来事になったが、複数のディスプレイとそこに表示されている映像は同じ映像というよりは、見えない何かで結ばれた出来事が複数の場所で起こっているといったような感じがないだろうか。今回は永田康祐の《Translation #1》を扱いながら、水平に置かれたディスプレイと映像を分配されたふたつのディスプレイという問題を考えて、モノとディスプレイとの重なりをみていきたい。

モノの配置の記述とディスプレイ内の配置の記述

永田康祐の《Translation #1》には、様々なモノが組み合わされて同じように置かれたふたつのセットがある。モノの組み合わせを下から見ていくと、まずベニアでつくられた箱状の台がある。台の上に厚めの板が置かれており、その上にディスプレイと鏡が置かれている。ディスプレイは表示面を上にして水平に台に対して置かれていて、その上には石膏で型どられた石と模造大理石のプレート、木片、ステンレスでできた何かを挟むような器具が置かれている。さらに黄色から緑へとグラデーションしていく画像をプリントした紙があり、ガラスのビンがその紙をおさえるように置かれ、ビンのなかには人工観葉植物が入れられている。グラデーションの紙はディスプレイの端にかかるように置かれていて、その大半は台の上に垂れ下がっている。そして、台の上の紙をおさえるようにアルミのスプレー缶や模造大理石、ガラスのオブジェや銀色に光る重りのようなものが置かれている。そして、作品として置かれたモノをよく見ると、ふたつのベニアのボックスの木目はよく似ていたり、ふたつのディスプレイのフレームには同じ位置に指紋のような汚れがついていたり、スプレー缶にも同じ位置にくぼみがついていたりする。全く同じように見えるように注意深く置かれたふたつのモノの組み合わせが存在していて、そのなかにふたつのディスプレイが水平に置かれ、画像を表示している。

ディスプレイはその上に置かれた石や大理石、紙にプリントされたグラデーションの画像などを表示している。石の画像を示すウィンドウの上に石が置かれ、大理石の画像を示すウィンドウの上に大理石や木片や何かを挟む器具が置かれている。石は直接、石の画像の上に置かれているのではなく、石と石のウィンドウのあいだには何も表示していない白いウィンドウがある。ガラスのビンがグラデーションの紙をおさえるように、石が白いウィンドウの上に置かれている。もちろん、石は白いウィンドウに直に置かれているわけではなく、ディスプレイのガラスの上に置かれている。紙にプリントされたものと同じグラデーションの画像がデスクトップピクチャとして設定されていて、ディスプレイの最背面に表示されている。グラデーションのデスクトップの前面にはこれまで記述してきたウィンドウ以外にGoogle docsやGoogle Earthのウィンドウが表示され、さらに、ディスプレイの真ん中には等間隔に配置された大理石の板が上から下に垂直に移動していく映像を表示するウィンドウもある。このウィンドウは重なり順から、石のウィンドウの下、Google docsのウィンドウの上に位置していることがわかる。ディスプレイの最前面にあるメニューバーは「Google Earth」がアクティブなウィンドウになっていることを示している。しかし、Google Earthアプリのウィンドウは大理石のウィンドウの下にあり、最前面にはない。ディスプレイの一部を見えなくしているグラデーションの紙をよく見ると、紙が隠している部分にGoogle Earthからの何かしらのメッセージを伝えるウィンドウがでていることに気づく。Google Earthのメッセージのウィンドウが、ディスプレイの最前面にあることになる。そして、《Translation #1》にあるふたつのディスプレイは、このようなウィンドウの配置を全く同じかたちで表示している。

モノの配置の記述とディスプレイ内の配置の記述に違いはあるだろうか。「前面」「背面」という記述は、ディスプレイに特有のものであろう。ディスプレイ特有の「薄っぺらい空間」のなかで重なり合うウィンドウを記述するには、平面的な奥行きを示す「前面」「背面」という言葉は有効であろう。ディスプレイという物理世界に置かれる装置自体もディスプレイ内のウィンドウと同じように平面的であるけれど、それは板の前面にあるとは記述されずに、板の「上」にあると記述される。このような記述の違いが起こるのは、モノが置かれる物理世界は3D空間のx、 y、 z軸が絶対的な設定であるのに対して、ディスプレイではz軸があるようでないような曖昧な設定になっているからではないだろうか。

映像メディア研究者のアン・フリードバーグは『ヴァーチャル・ウィンドウ――アルベルティからマイクロソフトまで』で、「オーバーラップするウィンドウは、ほんのわずかに窓の隠喩を変えた。ウィンドウを積み重ねることができるようになって以来、表面的な窓ガラスは今や奥行きをもち、重力を無視するようになったのである」と指摘している1。レオン・バッティスタ アルベルティが絵画論で絵画の隠喩として「窓」を用いていらい、隠喩としてのウィンドウはそれ自体が世界を覗き見るフレームであったために積み重なるということはなかった。窓のメタファーを適用されてきた絵画、映画、テレビにおいて、フレーム内に描かれた世界には3D空間のx、 y、 z軸があったとしても、フレーム内の平面が個別の世界であったために、その平面世界が積み重なることは設定されていなかった。しかし、コンピュータと組み合わせられたディスプレイにウィンドウ(W)、アイコン(I)、マウス(M)、プルダウンメニュー(P)から構成される「WIMPインターフェイス」という設定が与えられたときに、絵画で世界を見渡す隠喩として機能していたウィンドウがデータを見るためのフレームとして採用されるとともに、ウィンドウ自体が積み重なる設定を付与された。平面を積み上げるという用途のために最低限の奥行きがディスプレイ内の空間に設定されて、ウィンドウが形成する平面が次々に重なり合うようになった。そして、重なり合うウィンドウは、フリードバーグが「重力を無視するようになった」と呼ぶように、ドラッグされて縦横無尽にディスプレイ平面を動き、クリックひとつでウィンドウの重なりがつくる奥行きを手前に奥へと移動した。ディスプレイ外のモノとは異なり、ディスプレイ内のウィンドウは重力から逃れている。けれど、そこには重なり合いのたびに生じる最低限の奥行きしかない。そのために、ディスプレイ内には平面しか存在できず、平面がただ積み重なるのみである。ディスプレイ内においては物理空間で絶対的なz軸は、ウィンドウという平面の「重なり」が現れるときにのみ現れるものである。ディスプレイ内では「重なり」が先にあり、その後にz軸があるものとして仮定される。このz軸の扱いの曖昧さが、モノの配置の記述とディスプレイ内の配置の記述に違いがでてくるのである。

ピクセルで形成されたモノの支持平面

《Translation #1》でのディスプレイの役割は映像表示装置であると同時に、石などが置かれる台でもある。ディスプレイが台として機能するのは、ディスプレイが垂直ではなく水平に置かれているからである。水平に置かれたディスプレイの表示面にある透明なガラスはモノとしての存在を消して、映像を見せると同時に、ガラスの板として石や紙、ビンや模造大理石などを支える支持平面となっている。永田はディスプレイを垂直ではなく、水平に置くことで、重なるウィンドウを示すディスプレイを「デスクトップ=机の上」として物理的に機能させて、モノの関係のなかに組み込んでいる。「ディスプレイ」というz軸が曖昧に設定されている装置が、水平に置かれることで強制的に絶対的なz軸の3D空間に組み込まれているため、ディスプレイにモノを置くという行為が可能になっている。このことを明示するために、永田はディスプレイ内にフルスクリーンの映像や画像やテキストではなく、「デスクトップ」と「ウィンドウ」との重なりというGUI環境でのデフォルトとなった状況を表示しているのである。GUIのデフォルト画面を水平に置いたディスプレイに表示させることで、永田が「デスクトップ」という語が示す水平性をディスプレイ内の画像の関係性に持ち込む。しかし、それはGUI環境のディスプレイ内にもともと存在していた「デスクトップ」という水平面に「ウィンドウ」という垂直面が配置されるという捻れを顕在化させることを意味している。フリードバーグは次のように指摘する。

それでは、スクリーンの空間のいくつかの「ウィンドウ」をナビゲートするコンピュータ・ユーザーについて考えてみよう。コンピュータ・スクリーンの混喩において、コンピュータ・ユーザーはスクリーンに対して比喩的に複数的な空間的関係に置かれている。各「ウィンドウ」は、互いの「ウィンドウ」の前面(窓を通して見るように垂直のスクリーンを覗き込む場合)または上部(垂直のスクリーンが重力を無視して90度回転し、上から見られるような角度でスクリーンを覗き込む場合)に重ねられる。「ページ」なのかそれとも「ウィンドウ」なのか、混喩には流動的な位置の転換が含意されている。ユーザーは水平な(デスクトップの)眺めと垂直の(ウィンドウの)眺めを行き来しているのである。デスクトップという隠喩は背景と前景の層[レイヤー]を含意しているが、それらは上から見られるものである。2

「デスクトップ」と「ウィンドウ」というメタファーを採用したディスプレイは、水平面と垂直面とが入り交じった状態をユーザに示し続けていた。そして、フリードバーグの著書のタイトルが示すようにこれまでは明らかに「ウィンドウ」の比喩の方が優勢であった。絵画の流れからディスプレイも物理的に垂直に置かれたため、ウィンドウの方がデスクトップよりも物理世界との整合性が取れていたからである。それゆえにウィンドウの移動を示すために「前面」「背面」や「手前」や「奥」と言う奥行きの表現が使われた。しかし、ウィンドウはデスクトップという水平面に置かれたものとして設定されている。ならば、それらは本来「机の上」にあるものであり、「上」「下」といった表現でその位置関係を言えるものである。実際、ウィンドウに対しては奥行きの表現と上下の位置関係の表現とが入り混じった状態で使われている。それは、デスクトップの水平性と積み重なるウィンドウとの関係性のなかで、物理世界で紙の順番を入れ替えるように、クリックでウィンドウの重なり順を変化させるという行為は定義されたけれど、この段階ではディスプレイ内のz軸は明確に設定されていなかったからである。

フリードバーグの水平のデスクトップと垂直のウィンドウという関係性は、ディスプレイが垂直に固定されていたときにのみ有効だとも言える。スマートフォンが一般化した現在では、ディスプレイ自体が流動的にその位置を変えるようになっている。メディアアーティストの藤幡正樹は次のようにディスプレイの自由度について述べている。

これまでのディスプレイは、人間が起きた姿勢で見るように、スクリーン面が地面に対して垂直であった。だから、人間の視線とスクリーン(ディスプレイ)の位置関係は、映画において、座席が動かないことと画面サイズが巨大であるために、ほぼ一意に決まっていたと言えるだろう。またテレビにおいては、画面が映画に比べて小さいうえに、人がその周りを動き回るので、見る人が首をかしげない限り、Roll方向の動きはない。つまり、横から見るとか上から見るとかいう二軸(Yaw と Pitch)方向しかなかった。しかし、携帯電話のディスプレイにおいては、まず位置情報として三つの自由度(X、 Y、 Z)があり、回転軸にも3つの自由度がある。さらに、使い手の視点との関係性でも三軸(Yaw、 Pitch、 Roll)の自由度があることになる。3

藤幡が指摘するように、縦横無尽に空間内で回転しつづけるスマートフォンのディスプレイにおいては、ディスプレイは垂直である必要はなく、それにともなって、ウィンドウという垂直性を示すメタファーがデスクトップよりも有効である理由はなくなっているのである。この流れのなかで、永田はウィンドウの垂直性ではなくデスクトップの水平性をディスプレイに与えようとする。それは垂直のスクリーンを「重力を無視して90度回転」させるというような大それたことではなく、単にディスプレイは水平に置けるということでしかない。永田はディスプレイを水平において、デスクトップを文字どおり「机の上」として使い、そこにモノを置いていく。ここで興味深い問題がでてくる。それは、ディスプレイは簡単にその位置を変えることができるようになったけれど、ウィンドウやデスクトップをディスプレイ内で180度回転させることを禁止するGoogleのマテリアルデザインのようなデザインのガイドラインができたことである。Googleのデザイン担当ヴァイスプレジデントであるマティアス・デュアルテは、マテリアルデザインについて次のように述べている。

マテリアルデザインは「私たちの考えをひとつにしました」と、Duarteは言う。さらに、「それは完全な制約となっているのです」と認めている。これらの制約は、デザインの決定をより容易にし、一貫性のあるものにしていると、彼は言う。例えば、カードをひっくり返して裏を見るというアイデアがあるとします。マテリアルデザインの世界では、それは機能しえない不正行為なのです。もしソフトウェアがこれらのデバイスのなかに実在するような物質的なものだとしたら、スマートフォンの内部にはカードを裏返すような空間はないのです。だから、Googleはその行為自体を許可しないのです。4

ソフトウェア的には可能なことでも、そのソフトウェアが機能するハードウェアの厚みから考えると、そこに充分な空間がないとされる。ソフトウェアをスマートフォン内部の空間に実在するものと考えることは、物理法則に縛られないソフトウェアの自由さに対して大きな制約であるけれど、ディスプレイ内にひとつの世界をつくり上げることに大きく寄与している。マテリアルデザインがこのように考えるのは、ディスプレイ内の環境におけるz軸を明確に定義しているからである。

マテリアル環境とは3D空間、つまりすべてのオブジェクトがx、 y、 z軸の方向を持つ空間です。z軸は表示されている平面に対して垂直に配置された軸であり、z軸の正の値が閲覧者に向かって伸びています。マテリアルのシートはそれぞれz軸に沿って1点の位置を占め、標準で1dpの厚さを持つようになっています。 ウェブ上では、z軸はレイヤリングに使用され、遠近感の表現には使用されません。3Dの世界は、y軸の操作によってエミュレートされます。5

ディスプレイの上に置かれた石やビンや模造観葉植物は、物理世界にあるものであり、そこではz軸方向に充分な空間が与えられている。けれど、ディスプレイに示された石や模造大理石にはz軸方向に充分な空間が与えられているようには感じられない。それらは立体的に見えるけれども、ディスプレイという平面に押し込められている感じが拭えない。この感覚をマテリアルデザインは明確に「マテリアルのシートはそれぞれz軸に沿って1点の位置を占め、標準で1dpの厚さを持つ」と定義している。マテリアルデザインではピクセルは単なる光の明滅ではなく、「厚みのある物理的な存在(マテリアル)6」と解釈されている。この解釈のもとで、ディスプレイが示す「デスクトップ」を考えると、その平面はz軸方向に1dpの厚さを持つ空間であり、それは「薄っぺらい空間」でしかない。「影を使うことで、マテリアル間の相対的な高度(z軸上の位置)を自然な形で表現でき」るため、影を描くことでいくらでも平面的なウィンドウは重なるかもしれないけれど、マテリアルデザインがカードの回転を禁止するように、そこにはウィンドウが回転できるような充分な空間はz軸方向にはないのである。マテリアルデザインでは、z軸が明確に定義されているけれど、それは「影」でエミュレートされているだけだからである。

マテリアルデザインは重なるウィンドウとデスクトップメタファーがディスプレイ内に曖昧なまま持ち込んだZ軸という概念を明確に定義するとともに、z軸の表現として「影」の役割を強調している。それは物理世界のルールを強く意識させることである。マテリアルデザインは物理世界でできることを、ソフトウェアとディスプレイの世界に適用していく。それゆえに強い制約が働き、ピクセルでできたウィンドウやデスクトップをディスプレイの「薄っぺらい空間」では回転させることができなくなる。しかし、永田はデスクトップを「机の上」として機能させるために、ディスプレイ自体を回転させる。ディスプレイは物理世界のルールに従うので、それは垂直から水平に回転させることができる。ディスプレイが回転しても、ウィンドウが垂直で、デスクトップが水平であることは変わらない。ここには物理世界のルールは適用されずに、ソフトウェア世界のルールが適応されるからである。けれど、マテリアルデザインのようなディスプレイ外の物理世界のルールを意識した強い制約と一貫性をもった世界がディスプレイ内につくられたのであれば、ディスプレイの置き方がディスプレイ内に強く影響を与えるということもまた起こるはずである。

ディスプレイの置き方を強い制約とするようなインターフェイスデザインはディスプレイの向きに合わせて画像が回転することがあるくらいで、マテリアルデザインのような決定的なディスプレイ内のデザインはでてきていない状況である。しかし、Microsoftがディスプレイの傾きを自在に変更できるSurface Studioとともに発売したSurface Dialは、PixelSenseと名付けられたディスプレイが水平に近い角度に傾けられ、そこに置いて使用することを前提としている点で、ディスプレイの置き方から派生したインターフェイスと考えられる。PixelSenseが水平に傾けられると、その表面にSurface Dialが置かれて、ピクセルとモノとが直接インタラクションしているかのような状況が生じるようになる。水平のディスプレイ表示面に物理的なモノが直接置かれるというインタラクションによって、ディスプレイ内のピクセルがつくる表示面がモノとの接地面となって、ソフトウェアと物理世界とがより密接に触れ合いはじめるのである。

永田の《Translation #1》はGoogleのマテリアルデザインとMicrosoftのSurface Dialが示すようなディスプレイのあらたなあり方を示している。そのあらたなあり方を顕著に示すのが、ディスプレイの上に直接置かれている白い石や模造大理石はガラスとの接地面にある影が消失し、まるでディスプレイの最前面に配置されているように見える箇所である。ディスプレイが水平に置かれることで、「ウィンドウ」という向こう側を見る垂直面の存在よりも、「デスクトップ」という水平面の存在が強くなり、ウィンドウが示す影によって生じるディスプレイ内のz軸方向の空間と物理空間のz軸と融けあい、ひとつのz軸として実在性が強調される。その結果として、デスクトップが「厚みを持ったピクセル」というあらたなマテリアルから成立している支持平面として機能し始める。だから、《Translation #1》ではディスプレイのガラス面にモノが置かれているのではなく、Surface Dialのようにピクセルという接地面にモノが直接置かれているのである。Houxo Cueやエキソニモは絵具という物理的なマテリアルでガラス面を上書きしたけれど、永田の作品ではz軸を設定されたピクセルというソフトウェアとディスプレイのルールでガラス面を上書きして、ピクセル自体をモノの支持平面にしてしまうようなことがおこっている。ディスプレイに表示されるウィンドウは影を示して、ディスプレイ内のz軸が実在していることを示すけれど、ディスプレイの光はその上に置かれた石やビンなどの影を消し、物理世界のz軸とディスプレイ内のz軸とを融合させてひとつにしてしまうことで、見る者に奇妙な感覚を与えるようになっているのである。

ふたつのディスプレイをつなぐ幽霊チャンネル

ディスプレイとその周囲のモノとの関係だけでも充分に複雑さを示しているところに、永田はもうひとつの同じ構成のモノの組み合わせを置く。このふたつのモノのセットの意味を、ふたつのディスプレイの関係から考えてみたい。ディスプレイ内のピクセルが放つ光はモノの制約から逃れているけれど、モノに影響を与える。GUI環境のディスプレイはデスクトップというかたちでモノのあり方を模しているけれど、それはモノになりきることがない光がモノの制約から逃れている平面である。しかし、エキソニモの《Body Paint》シリーズが示した光によるモノの擬態のように、ディスプレイがひとつだけだとディスプレイ内のピクセルはモノ化してしまう傾向がある。しかし、永田はディスプレイを複数用いることで、ディスプレイ内のピクセルが放つ光をモノ化せずに扱おうとしている。モノの集合のなかに置かれたひとつのディスプレイの光はあらたなマテリアルとなりモノの接地面になっている。けれど、ふたつのモノの集合のなかにそれぞれ置かれたふたつのディスプレイが放つピクセルの光はモノ化を免れて、光独自のルールを見せている。それは矛盾している感じであるが、矛盾を含みながらモノとディスプレイとの関係を探っているのが、永田の《Translation #1》なのである。再び、マテリアルデザインを先導するデュアルテの言葉を引用したい。

僕らはリアルな物理を使うとはいってますが、リアル世界をコピーしようとは考えていません。ただ、脳や心にとって自然なものを作ろうとしているだけです。ソフトウェアの可能性を開いて、変化のある本当にマジカルな体験を作っていく、僕らはそんなラインの上でダンスしようとしています。7

永田はディスプレイ内のピクセルのモノ化とそれと相反する光としての性質を示し、ソフトウェア世界の可能性を示そうとしている。だからこそ、ディスプレイを用いた《Translation #1》は、ディスプレイなしで構成された《Translation #2》よりもマジカルな体験を見る者に与えるのである。《Translation #1》は《Translation #2》に比べると、モノの置き方も特徴的である。《Translation #2》が回転台に載せられたモノの位置がズレているにもかかわらず、ひとつの台の上に平行移動でコピペされたようにふたつのモノの組み合わせが並んでいるのに対して、《Translation #1》は同じ配置のふたつのモノはふたつの台とその上に配置されたモノが、あたかも異なる見え方になるように設置されている。しかし、その異なる見え方のなかで、ディスプレイ内の表示は寸分違わずに表示されている。あたかもハメコミ合成されたかのようにふたつのディスプレイ内に表示される同一の映像が、ふたつのモノの組み合わせがモノではなく光に基づいた同一ルールのもとにあることを示すマジカルな体験の土台を形成している。コピペされるように同一のモノが氾濫するということは、大量生産の時代にはよくあることである。しかし、《Translation #1》でふたつのディスプレイが示す同一の表示は、モノの大量生産とは異なるソフトウェアが切り開くあらたな体験を見るものに与えているようにみえる。このあらたな体験を哲学者の戸田山和久が「幽霊チャンネル」と呼ばれるものを説明する際に、ひとつのコンピュータに接続されたふたつのディスプレイを例として用いていることから考えてみたい。

Translation #2

因果連鎖は情報の流れの必要条件ですらない。二股因果と呼ばれるケースがある。たとえば、コンピュータAがそれぞれ別室にあるモニタBとモニタCを制御して同じ画像を映しているとしよう。AはBで起こることとCで起こることそれぞれの原因だが、BとCには直接の因果関係はない。しかし、この場合でも、Bで起きたことを知ることによってCがどうなっているかを知ることができる。Bにリンゴが映っていたら、Cのにもリンゴが映っている条件付き確率は1だ。この場合、BとCの間には通信路のようなものがあり、情報の流れがあると言ってよいだろう。こういうとき、BとCには「幽霊チャンネル」(ghost channel)があると言う。ホラー専門のケーブルテレビ局みたいだけど。8

戸田山の例と同じように永田の作品でふたつのディスプレイに映っている映像はひとつのコンピュータが処理したデータが分岐したものであるから、同じ映像である。ディスプレイの個体差があるから、モノのレベルでデータの見え方は極々僅かにちがいがでてきているのだろうけれど、データとしては同じものである。同じ映像がそこに映っているけれど、そこには直接の因果関係がないとされる。ふたつのディスプレイのあいだには幽霊チャンネルがある。では、ディスプレイ以外にモノには「幽霊チャンネル」が成立するのであろうか。一般的にモノの関係においては、恐らく幽霊チャンネルは存在しないだろう。なぜなら、モノの変化は同時には起きないからである。片方に汚れを意図的につけたとして、それと同じように、もうひとつにも注意深く汚れをつけるということを行わなければならない。物理世界にあるモノに対して、同じ出来事が同時に起こることはほとんどない。しかし、映像を分配した複数のディスプレイのあいだではそのようなことが常に起こる。モノの組み合わせのなかにディスプレイを用いるということは、ふたつのディスプレイが示す幽霊チャンネルのような関係を組み合わせたモノにまで適用させようとする意図が、永田にあったと考えられる。

情報の流れがあるためには、出来事同士が、「あれが起きているならこれも起きている」という仕方で互いに結びついている必要がある。そのような結びつきがあるために、二つの出来事がじかに因果関係でつながる必要はない。二股因果が下支えしている幽霊チャンネルであってもよい。しかし、次のことは言える。幸いなことに、われわれの住む世界では、出来事が因果の鎖で結ばれていて、その結果としてさまざまな「あれが起きているならこれも起きている」関係で出来事同士が結ばれている。だから、情報が流れる世界になっている。そういう仕方で、因果が情報の流れを支えていると言えるだろう。9

私たちの世界は「因果が情報の流れを支えている」けれど、幽霊チャンネルがつなぐ関係があってもよい。分岐したディスプレイは「幽霊チャンネル」でつながっているため、出来事が同時に起こる。ふたつのディスプレイのうちでどちらが基準ということはない。ディスプレイが同じものであればなおさら、どちらが主ということはない。ユーザが見ている方が主と言えるかもしれないけれど、それはたいしたことではない。ひとつのディスプレイで何かが起きたときには、もうひとつのディスプレイでも同じことが起きているように見える。しかし、ここでは「同じ」ことが起きていると考えるのは間違えであって、ただ単にそれぞれのディスプレイにその出来事が起きているのである。幽霊チャンネルでつながったふたつでのディスプレイとともにあるモノは、ふたつのディスプレイが示す関係から逃れられなくなる。モノを足したり、引いたりする時に、幽霊チャンネルでつながれた関係がでてくる。Aのモノと同じようにBのモノが注意深く置かれるのではなく、それらはともにAとして置かれたモノとして見えてくるのである。このときのAには、因果関係でモノとモノとが結ばれた物理世界とは異なるルールが適用されている。《Translation #1》はソフトウェアとディスプレイとがつくる「幽霊チャンネル」というルールをモノにまで適用させているのである。永田はディスプレイを含んだふたつのモノの組み合わせを置くことによって、ソフトウェアとディスプレイによるルールが物理世界のルールを上書きする状態をつくっているのである。

物理世界のルールを上書きして生まれるマジカルな体験

マテリアルの表面と輪郭は、現実世界に基づく視覚的な手がかりとなります。人間にとってなじみのある感覚を取り入れることで、ユーザーはどのように操作すればよいのかがすぐわかるのです。さらにマテリアルの柔軟性は、人間と物(マテリアル)との関係において、物理的法則を破ることなく現実世界とは違った可能性を生み出します。10

永田の《Translation #1》はGoogleのマテリアルデザインのようなクリーンさで、ヒトとディスプレイとの関係において「物理的法則を破ることなく現実世界とは違った可能性を生み出し」ている。谷口やエキソニモが物理世界のモノをベースにしてモノとディスプレイとを重ねているとすれば、永田はソフトウェアとディスプレイのピクセルが放つ光からつくられるあらたなマテリアルをベースにモノとディスプレイとの重ね合わせを行なっているといえる。そこにはマテリアルデザインと同じように物理世界を模しながらも、そのコピーではない独自の原理に基づいて物理世界をディスプレイ内に組み込もうという意思がある。物理法則は物理世界で基本的なものであるけれど、ソフトウェアとディスプレイとの組み合わせによって絶対的なものではなくなった。《Translation #1》は物理世界のルールがソフトウェアに制御されたディスプレイの光がつくる「厚みを持ったピクセル」というルールによって上書き可能であることを示す。永田はソフトウェアとディスプレイとが制御するピクセルというマテリアルを物理世界と融合させて、物理世界のなかにありながらもその基本的なルールを上書きし、見る者の脳や心に自然でありかつマジカルな体験をつくるのである。

参考文献・URL
1. アン・フリードバーグ『ヴァーチャル・ウィンドウ――アルベルティからマイクロソフトまで』、井原慶一郎、宗洋訳、産業図書、2012年、p.318
2. 同上書、pp.328-329
3. 藤幡正樹『不完全な現実』、NTT出版、2009年、p.223
4. Dieter Bohn、 Material world: how Google discovered what software is made of、 2014 http://www.theverge.com/2014/6/27/5849272/material-world-how-google-discovered-what-software-is-made-of(2016.12.7 アクセス)
5. Google「マテリアル デザインのガイドライン(日本語版)」2016、https://material.google.com/jp/(2016.11.27 アクセス)
6. 深津貴之「マテリアデザインとその可能性」『UI GRAPHICS -世界の成功事例から学ぶ、スマホ以降のインターフェイスデザイン』、BNN新社、2015年、p.31
7. Gizmodo「マテリアル・デザインって何? Androidデザイン責任者にインタヴュー」、2014 http://www.gizmodo.jp/2014/07/_android.html (2016.12.7 アクセス)
8. 戸田山和久『哲学入門』、筑摩書房、2014年、pp.188-189
9. 同上書、p.191
10. Google「マテリアル デザインのガイドライン(日本語版)」

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。