これまではディスプレイが常に光を明滅させている状態を考察してきた。しかし、電源がオフのとき、つまり、光の明滅面が機能していないとき、ディスプレイはディスプレイなのだろうか、それとも、単なる黒い平面をもつモノなのだろうか。そもそも、私たちは「ディスプレイ」のみを見ているのだろうか。iPhoneやiPadのディスプレイは、どこまでがディスプレイで、どこからがiPhoneでiPadなのだろうか。ノートパソコンのディスプレイはどうだろうか。もちろん、それらは分解すれば「ディスプレイ」をモノとして取り出せるだろう。しかし、それらはあくまでもモノとしてのディスプレイであって、「ディスプレイ」そのものではない。「ディスプレイ」そのものをモノとディスプレイとの重なりから抽出することは可能なのだろうか。今回は、須賀悠介の作品《Empty Horizon》という木製のディスプレイを通して、「ディスプレイ」そのものを切り出してみたい。
どこがディスプレイなのか?
須賀悠介のスマートフォンの割れたディスプレイを木彫で表現した作品《Empty Horizon》を見て、最初に気になったのは、スマートフォン前面のディスプレイ以外の部分、iPhoneで言えばホームボタンやフロントカメラなどは排除されていることであった。確かに、ホームボタンなどのところはディスプレイではないから、当たり前である。しかし、「ディスプレイが割れた」というとき、実際に割れているのはスマートフォンの保護ガラスであって、それはホームボタンやフロントカメラの周囲を覆っているモノである。だから、「割れたディスプレイ」というとき、それは単にスマートフォンの前面の保護ガラスが割れるのであって、ディスプレイの光の明滅面が割れるということではない。保護ガラスが割れるだけだから、スマートフォンにおける光の明滅面は機能している。しかし、多くの人は保護ガラスの割れを「ディスプレイの割れ」だと思う。恐らく、須賀はこのような問題を回避するために、光が明滅する部分のヒビのみを彫ることにしたのだろう。そうすることによって、ヒビはより光の明滅面に密着することになり、ディスプレイの上に位置して、スマートフォン前面全体を覆っていた保護ガラスがディスプレイの一部となる。須賀はスマートフォンからディスプレイのみを切り取るために、光の明滅面の上のヒビ割れたガラスだけを木の板に彫り、それ以外を捨象する。それにともない、スマートフォンというモノからガラス面と光の明滅面とが結合された薄い膜のような平面がスパッと切り取られたかたちで、木の板に表現されるのである。その際、ヒトはガラス面にはモノとして厚みを感じるとしても、光の明滅という現象が起こる平面にモノとしての厚みを感じるのだろうか。
木製のディスプレイ
スマートフォンの画面が割れるとディスプレイがモノ化し、立体化する。光の明滅面は平面であり続けるけれど、ガラス面は立体化するため、割れる前までは一体化していたガラス面と光の明滅面とが分離する。割れたガラスは平面には戻れない。平面に戻れないスマートフォンの割れたディスプレイを木に彫り込んだレリーフである《Empty Horizon》は、木であることを覆い隠すように黒く塗られた表面は周囲の光を反射はするけれど、木製のレリーフが自ら光ることはない。「光の明滅」という原型的性質を失ったディスプレイは、もはやディスプレイでないといえるかもしれない。けれど、ディスプレイを保護するガラスのヒビの形状を彫り込まれた板状の木がディスプレイに擬態しているようにみえるのも事実である。このどっちつかずの状態は、ディスプレイが単にモノなのでもなく、モノと光の明滅という現象のふたつの層から構成される存在であることを示している。
ディスプレイはモノとして存在しているが、それは電源を入れた瞬間に光を明滅しはじめ、常に変化する平面に変わる。電源を落とすとディスプレイはモノとして存在しはじめるけれど、それはディスプレイの原型的性質を消失したモノである。原型的性質を消失したとしても、それは「かつてディスプレイであったもの」となるわけではなく、ディスプレイでありつづけ、電源がONになればディスプレイとして機能するようになる。電源がOFFになっているディスプレイの平面は一度モノに回収されているようにみえる。しかし、実際は電源が切られて黒い平面になったディスプレイは、光の明滅によって変化する平面でもなく、モノの平面でもなく、ただの黒い平面なのかもしれない。光の明滅という機能を一時的にも失った平面は、何も表示しない黒い平面というモノとしても、現象としてもヒトの注意を引きつけない存在になっている。モノと光の明滅という現象とが重なり合う平面は黒い平面のなかにのみ込まれてしまい、「ディスプレイ」がテレビやスマートフォンというモノに融け込んでしまうのである。
しかし、ディスプレイと一体化しているかのようなガラスが割れると、「ディスプレイ」がモノとして剥き出しな状態で常に存在するようになる。電源が点いていようが、消えていようが、割れて立体化したディスプレイがモノとしてそこにあり続ける。割れたガラスがディスプレイを黒い平面に回収させずに、モノとして立体化したディスプレイの状態を剥き出しにする。だが、それはディスプレイの光が無い状態での話である。光が明滅しているディスプレイでは、ガラスが割れることで、ガラスというモノがつくる平面と光の明滅という現象がつくる平面というふたつの平面に分離される。同時に、光の明滅という現象はガラスが割れてもこれまで通りに起こり、ガラス面もこれまでと同様にその光を透過させ、ヒビに光が入り込みガラス面と光の明滅とが同化していくのである。
だが、木製のディスプレイは決して光りはしないがゆえに、ヒビに光が同化することはない。だからこそ、須賀は木の表面を黒く塗り潰し、光の明滅面をモノに最も近い状態である黒い平面にして、ディスプレイを構成するガラスと光の明滅面とを徹底的にモノとして彫り出すのである。光の明滅という現象は彫り出せるものではないけれど、ディスプレイがモノに同化した平面、言い換えれば、光の明滅が無の状態ならば、光の明滅面をガラスのヒビと同化したかたちで彫ることができる。それゆえに、《Empty Horizon》では、本来のディスプレイでは分離しているモノとしての平面と光の明滅面とが同一平面に存在するようになる。須賀は《Empty Horizon》で、ヒビ割れたガラスというモノと本来は彫るという行為が不可能な光の明滅という現象とを同一の平面に置いて彫り出そうとしているのである。
「ディスプレイ」を「一様な厚みをもつ面の層」として切り出す
須賀の作品はガラス面というモノの平面と黒い平面としてモノ化された明滅面とが、木に彫り込まれたヒビを介して同一平面に存在するようになっている。このことが強く意識されるのは、作品を見る視点を作品の横に移動したときである。正面から見ると黒く塗り潰された平面はモノというよりは、光の明滅を模したように外界を反射して像を表示している。けれど、作品を斜め横からみると、そこにはディスプレイアームにマウントされた木製ディスプレイのエッジが一定の厚さを持って示される。それは彫られた木の物理的なモノとしての厚さであるけれど、そこにガラスというモノの平面と光の明滅面とが結合したディスプレイそのものの厚みがとても薄いことを感じさせるのである。《Empty Horizon》が示すディスプレイの厚みを作品制作に用いられている「レリーフ」という手法から分析していきたい。19世紀ドイツの彫刻家であるアードルフ・フォン・ヒルデブラントは『造形芸術における形の問題』で、レリーフは三次元の物理世界を二次元に落とし込むひとつの手法で有効であることを、ヒルデブラントは次のように書く。
芸術家には、複雑な三次元の表象を、まとまりのある像の表象に変えるという課題が与えられている。わたしたちが前の章で見てきたのは、芸術家は、この課題を解決しようと思えば、対象の面としての作用と包括的な奥行表象とを対置することに、しだいに全力を集中せざるをえなくなるということだった。この両者をうまく対置することができれば、芸術家は、単純明快な容量の表象、つまり、奥行方向へと続く展開の出発点となる、一枚の面の表象を手に入れることができる。この表象方式をわかりやすくするには、ガラス板を二枚平行に立てて、その間にそれと平行に人体をはさみ、人体のいちばん外側の点がガラスに触れるようにしたところを考えるとよい。このとき、この人体が要求するのは、奥行の厚みがどこもすべて等しい、ひとつの空間だ。ここで人体は、同じ厚みの奥行のなかに手足を配置することで、この空間の存在を物語ることにある。こうして、ガラスを通して前から見れば、この人体は、見分けやすい対象の像として、一様な厚みをもつ面の層のなかでまとまって見える。 1
須賀は無色透明で存在しているガラスがその姿をあらわすひとつの形態であるヒビ割れた状態をレリーフとして模すことによって、ディスプレイを表現する。それはディスプレイを保護するガラスを立体化することで、光の明滅面とのあいだに「一様な厚みをもつ面の層」という平行空間をつくることを意味する。そこはヒルデブラントが平行に立てられたガラス板のあいだに立つ「人体が要求するのは、奥行の厚みがどこもすべて等しい、ひとつの空間」と呼ぶような、2枚の平行する板のあいだに押し込められたすべての存在が一様の厚さでスッパリと切り取られてしまう空間である。ディスプレイはガラス面と光の明滅面とがつくる平行空間であって、そこではすべての存在の厚みが一定の薄さに切り出された状態で存在しているはずなのである。
しかし、光の明滅面は三次元の奥行きをつくる画像を表示するがゆえに、そこには奥行きが生じているように見える。光の明滅面を現象として扱っている限りは、ヒビ割れたガラスという半立体的な平面を前面としても、背面に物理空間を模した画像がひろがるため、ガラス面が物理世界と画像とをつなげるインターフェイスとして機能してしまう。それゆえに、ここにはディスプレイがつくる「一様な厚みをもつ面の層」を見ることは難しい。けれど、光の明滅面を黒く塗り潰して明滅が無の状態にしてしまえば、奥行きを示す画像が消失し、ひとつの平面となる。そして、その無の明滅面をヒビ割れたガラスというモノの平面と重ねると、そのあいだにディスプレイそのものを抽出したような平行空間がある一定の厚みをもったモノとして出現する。
ガラスと無の明滅面との重なりという意味ではスマートフォンの電源がオフのときのディスプレイは割れていなくても、一定程度モノに融け込んでいるものである。だから、スマートフォンのディスプレイはモノのように持ち歩け、正面だけでなく、あらゆる角度から見ることが出来る。しかし、スマートフォンの場合は、ディスプレイがモノに融け込んでいるがゆえに、たとえガラスが割れている場合でも、どんな角度から見ても、ディスプレイそのものをスマートフォンから抽出することは難しい。しかし、ヒビ割れたガラスとともに光の明滅の無の状態のみを彫り出した《Empty Horizon》を少し斜め横から見ると、そこにはヒビ割れと同一平面にある黒く塗り潰された平面の存在が強調され、光の明滅面という普段はその厚みを知ることができない平面が現れ、モノの平面と平行空間をつくり、「一様な厚みをもつ面の層」を示すのである。
木に彫られたガラスのヒビというモノと、モノと同化された無の状態の光の明滅面とが組み合わされて、普段は明確に区別することができないモノとディスプレイとの重なりから「ディスプレイ」のみが「一様な厚みをもつ面の層」をもつモノとして抽出される。《Empty Horizon》という木彫りの割れたディスプレイは、ディスプレイに関して光の明滅という原型的性質も含めて徹底的にモノ化することで、「ディスプレイ」という存在をガラス面と光の明滅面とを結合した「一様な厚みをもつ面の層」として切り出し、その厚みを抽出して、木のエッジが示す薄さとそこからひろがる平面に擬態させているのである。
この木のエッジの物理的なモノとしての厚さとそこからひろがる平面が「一様な厚みをもつ面の層」を切り出すと同時に、ディスプレイ特有の二次元平面と三次元空間、モノとイメージとが交錯する特異な状態である「薄っぺらい空間」をつくりだしている。「薄っぺらい空間」は、ディスプレイがモノとして厚みをもちながら、その原型的性質が厚さをもたない光の明滅であることから生じるものである。前回取り上げた谷口暁彦の作品「滲み出る板《D》」は「薄い板」としてのiPadのディスプレイが「薄っぺらい空間」を示したけれど、須賀の《Empty Horizon》はモノとディスプレイとの重なりによって、「薄っぺらい空間」をつくるわけではない。谷口の作品は、斜めから見た時のiPadのモノとしての厚さとそのディスプレイにうつる3DCGの窓枠が示す厚さをもたない平面とのあいだに「薄っぺらい空間」を表示させたけれど、《Empty Horizon》が示すのは、ともにモノとして彫り出されたガラス面と光の明滅面とが結合したディスプレイそのものの厚みである。実際にはそれは木の厚みにすぎないものが、理念的なディスプレイの厚みへと擬態するのである。それは「理念的」であるがゆえに、実際は厚さを示さないマルセル・デュシャンの「アンフラマンス」のような極薄の印象を見る者に与えるのである。須賀は「ディスプレイ」という装置のモノとしての側面を木彫りのレリーフという手法で前面にだし、木の表面そのものに光の明滅という現象面をもモノとして彫り出すことで「薄っぺらい空間」を木のエッジの薄さとそこからひろがるヒビ割れた黒い平面に出現させるのである。
参考文献
1. アードルフ・フォン・ヒルデブラント『造形芸術における形の問題』、加藤哲弘訳、中央公論美術出版、1993年、pp.55-56
水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。