水野勝仁 連載第7回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

「モノ」らしさを持つデータとサーフェイスを包含して剥き出しになったバルク

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Haruna Kawai

前回はucnvの「グリッチ」を用いた作品とビデオアーティストの河合政之の『リフレクション—ヴィデオ・アートの実践的美学』とを合わせて考えながら、バルクとサーフェイスとが「波のようなマテリアル」を構成していることを示した。スマートフォン以後、私たちはデータが正確につくる映像を見るだけではなく、タッチパネルを介してデータに触れるようになり、データのフィードバックに介入するようになった。その結果として、〈データと視〉と〈データと触〉という二つのループの重なり合い、互いの領域にはみ出しつつ形成する「波のようなマテリアル」というアナログを模した連続体が形成されるようになったのである。

〈データと視〉と〈データと触〉のフィードバックループ

この〈データと視〉と〈データと触〉という二つのループの重なり合いがつくる「波のようなマテリアル」を考えるために、ucnvの《Volatile》の「光るグラフィックス展2」ヴァージョンとグループ展「フィジークトス」に出品された《U1:Supercritical》を考えてみたい。ucnvは《Volatile》の「光るグラフィックス展2」ヴァージョンと《U1:Supercritical》との関係を次のように考えている。

正常と非正常を併置する手法を昨年から継続して試みているのだけど、光るグラフィック展2の作品がその手法の一つの終着点だとすれば、フィジークトスに出す作品はその手法のオルタナティブな解となると思う。終末世界とパラレルワールドのような関係。1

ucnvがツイートするようにこれら二つの作品を考察することで、「波のようなマテリアル」という映像のサーフェイスから連なるデータのバルクの形態の多様性が見えてくるはずである。そして、バルクとサーフェイスとが形成する形態の異なるあり方は、モノと映像とデータの関係のあたらしいあり方も見せてくれると考えられる。

「波もどき」を形成したバルクが持つ「モノ」らしさ

タッチパネルを全面に用いたスマートフォン以後のヒトとコンピュータとのあいだのインターフェイスでは、デジタルデータが正確にイメージを形成する〈データと視〉とヒトがデータに触れているような感覚を形成する〈データと触〉といつ二つのループが重なり合っている。そして、ヒトの曖昧な触覚と結びついた〈データと触〉がデジタルデータの処理に基づく正確な〈データと視〉のループにねじれをつくりだし、ディスプレイの真っ平らな平面の向こうに「波のようなマテリアル」を生成している。「波のようなマテリアル」は、ヒトにモノではないけれど、モノのようなデータに触れているような感覚を与える。しかし、「波のようなマテリアル」を構成するデータのバルク自体は、通常、インターフェイスを形成するディスプレイ、トラックパッドといったコンピュータ側のサーフェイスと網膜や皮膚といったヒト側のサーフェイスとのあいだで、〈データと視〉と〈データと触〉というかたちでやり取りされているため、触れることも見ることもできない状態に置かれている。コンピュータのサーフェイスとヒトのサーフェイスとが一つのインターフェイスを形成して、そのあいだは限りなく接するように近づくのだが、互いのサーフェイスを超えて、その奥には入り込めない状態になっているのである。

けれど、ucnvの《Volatile》で、正常の映像との対比させられたグリッチが映像が見せる「離散はキャンセルされてピクセルとフレームは引きずられるように溶け出して、およそデジタル=離散らしくない様相2」は、映像のサーフェイスと連続するデータのバルクがそこにあり、映像とデータとがアナログ的に連続する存在を見ているという感覚を見る者に与える。なぜなら、グリッチはサーフェイスを「波」のように唸らせ、データの存在に厚みを持たせてバルクを強調するがゆえに、ヒトがコンピュータのサーフェイスを乗り越えて、その奥のバルクに触れているような感覚になり、サーフェイスにあらたな見え方を与えられるからである。それは、インターフェイスを構成するヒトとコンピュータとの二つのサーフェイスに衝撃を与え、二つの存在を繋いでいくように相互貫入させることである。そして、このサーフェイスの相互貫入によって、ディスプレイの奥に映像とアナログ的に連続するバルクとしてのデータがつくる「波のようなマテリアル」が顕現するのである。

しかし、「光るグラフィックス展2」に展示された《Volatile》は、正常の映像とグリッチの映像とを「記録映像」というフォーマットで一つのサーフェイスにまとめることで、グリッチした映像が示す「波のようなマテリアル」を、一度破棄しているように見える。なぜなら、正常の映像とそのディスプレイ、非正常の映像とそのディスプレイ、さらにそれら二つのディスプレイが掛けられた壁とが一つの映像に置き換えられているからである。「記録映像」というフォーマットがつくる映像のサーフェイスが、その奥にあるデータの塊であるバルクを見る者から遮断している。ucnvは正常の映像とグリッチの映像とを併置することで、サーフェイスの奥にあるバルクの存在を顕示してきたのだが、今回の「光るグラフィックス展2」に展示された《Volatile》では、同じ手法を使いながら、逆に映像をバルクに触れるための経路を遮断するためのサーフェイスとして示しているように見える。ディスプレイに表示されているのは一つの映像でしかなく、その奥にあるバルクは座標データと色データの塊として自らとだけ触れ合っているだけのようである。

ucnvは「記録映像」というフォーマットを使って、私たちをサーフェイスしか見ることができず、バルクに触れることができない状態に置いたのだろうか。いや、一度現れた「波のようなマテリアル」は簡単には消え去らない。「光るグラフィックス展2」に展示された《Volatile》は、見ることも触れることもできないデータが「波のようなマテリアル」を介して、「モノ」らしさ持つようになっていることを示しているのである。

「光るグラフィック展2」でのぼくの作品は、作品がマウントされた壁だ。んで、バーチャルではその壁の存在はリジェクトされている。壁とは…? 3

「展示風景より。谷口暁彦《まちぼうけ》(2019)」のucnv《Volatile》部分の拡大 https://bijutsutecho.com/magazine/review/19609

ucnvが「壁」に言及するように、「光るグラフィックス展2」に展示された「記録映像」フォーマットの《Volatile》は、一つのデータのバルクがそれぞれ正常の映像、グリッチの映像、壁という三つの擬似的なサーフェイスををつくっているけれど、バルクがダイレクトに連続しているのはそれらをまとめた一つの「記録映像」というサーフェイスである。「記録映像」となる前の《Volatile》は、正常の映像、グリッチの映像、壁がそれぞれ個別にバルクとサーフェイスとのダイレクトの繋がりを持っていた。正常の映像とグリッチの映像は、データと映像というかたちで、壁は物質的に文字通りバルクとサーフェイスというかたちである。しかし、「記録映像」フォーマットの《Volatile》は、これらの正常の映像、グリッチの映像、壁が持っていた個別性を融解して、一つの「映像」のサーフェイスと対応する一つのデータのバルクにしてしまう。だから、「光るグラフィック展2」の展示空間を仮想化した谷口暁彦の《まちぼうけ》で示された《Volatile》のように二つの映像のあいだの「壁」を消し去ることはできないはずなのである。さらに、《まちぼうけ》では、「壁」だけでなく、「ディスプレイ」も消去されて、「正常の映像」と「グリッチの映像」が、ヴァーチャルの壁と一体化したように展示されている。このような作品の変換ができるのは、谷口が正常の映像、グリッチの映像、壁をそれぞれディスプレイのフレームに囲まれた三つのバルクとサーフェイスとの組み合わせとして個別に捉えていたからである。しかし、ucnvは「ぼくの作品は、作品がマウントされた壁だ」とツイートするように、壁を個別の存在ではなく、作品そのものだと考えている。このucnvのツイートは「光るグラフィックス展2」に展示された《Volatile》においては、全体と部分という関係は成り立たないことを示している。つまり、それは文字通りのモノの「バルク」と「サーフェイス」のように一つの存在のなかで連続的にデータから映像、映像からデータへと変わってしまうものであり、映像は外界との接触面としてのサーフェイスであり、それはデータというバルクの性質が変化したものなのである。

しかし、例えば「壁」の部分を選択して、そこだけ色を変えられるのだから、「壁」という部分はあると言えると指摘する人はいるだろう。確かにこのアプローチで「壁」という部分があるということは有効であり、サーフェイスの変化がバルクの変化に対応してもいるけれど、そこではバルクとサーフェイスとのアナログ的な連続性が破棄されていて、私たちはサーフェイスと触れ合っているにすぎない状態になっている。対して、「光るグラフィックス展2」に展示された《Volatile》はサーフェイスレベルで操作可能な「記録映像」のように見えながら、グリッチ映像特有の性質を持ち、見る者にサーフェイスにおける操作レベルのデータとの触れ合いを突破させて、その奥に閉じ込められているデータのバルクに直に触れさせるのである。

このグリッチ映像が見る者に与えるバルクに直接触れているような感覚は、私が「光るグラフィックス展2」に展示された《Volatile》を見ているときに、「映像の特定の箇所だけをグリッチさせることは可能なのか」という疑問に変わり、私にひどい異物感を与えた。なぜなら、カメラの前に存在する多様な個別性を一つの映像とデータとの対応に変換してしまう「記録映像」フォーマットに収まっていても、バルクとサーフェイスとのアナログ的な連続性を強調して存在の個別性を強調するグリッチ映像はその個別性を維持しているはずだと、私は思い込んでいたからである。そして、グリッチ映像を扱い続けてきたucnvならきっと映像の特定の箇所だけをグリッチさせることは可能であり、今回の作品のように「記録映像」というフォーマットであったとしても、グリッチの映像と対応するデータだけがバルクのなかで他と異なる塊になっていると考えたのである。ここまで考えたときに、「記録映像」にフォーマットされたグリッチ映像は「およそデジタル=離散らしくない様相」をデジタルビデオカメラで記録した一つの映像であって、グリッチの映像と連続するバルクが記録されているわけではなく、「記録映像」フォーマットでは正常の映像、グリッチの映像、壁とがそれぞれ固有のバルクから切り離されることではじめて、すべてが統合された一つのバルクと一つのサーフェイスの連続体になっていることに気づいたのである。このとき、サーフェイスはバルクを遮断する役割を持つ部分ではなくなり、バルクと連続する全体となると同時に、バルクとサーフェイスとの連続体である「波のようなマテリアル」が顕になり、記録としてのデジタル映像全体が波立ち、作品が映像とデータとに分けることができない一つの「モノ」のような存在になっていると感じられたのである。グリッチ映像という個別のものから作品に感じていた異物感が作品全体へとシフトして、一つの異物として存在するようになったのである。

映像とデータとに分けることができない一つの「モノ」のような存在として「波もどき」が現れる

ここで顕になる「波のようなマテリアル」を形而上学者の加地大介が思考実験で生み出した「波もどき」として再度、考えてみたい。加地は『もの───現代的実体主義の存在論』で、通常はあまり「もの」とは考えられていない現代物理学の素粒子などの微粒子を「もの」として擁護するために「波もどき」という存在をつくりだしている。

このような事情は、次のような「波もどき」の思考実験によって再確認できるかもしれない。ここでの「波」としては、水が媒質の働きをする通常の海の波のようなものを想定したうえで、波のいくつかの山のうち特定の一つの動きに着目することとする。すると、通常の波は、媒質としての海水の移動を伴うことなく、海水の盛り上がり部分がただ移動していくだけなのであるが、波もどきの場合は、どういうわけか、平坦な海水表面上を、通常の波の盛り上がり部分と同じ形をした海水の塊が、その形を維持しながら実際に移動していくと考えよう。

この場合、この波もどきはあきらかに「もの」である。そしてそれが有する運動エネルギーがもたらす効果は、通常の波の特定の盛り上がり部分の運動エネルギーがもたらす効果と本質的に変わるところはないだろう。だとすれば、そのような盛り上がり部分には、状態というよりは、波もどきと同様の「もの」としての資格を認定してやるべきであろう。結局、媒質の機能はエネルギーの伝達にあるのであって、エネルギーが伝達されている限り、媒質そのものが移動していようがいまいが、本質的には変わりないとも言える。そして、G・ペルッツィらが主張しているように、素粒子を初めとする微粒子とは、結局のところエネルギー(と運動量)のパケットであると考えるならば、媒質の有無に関係なく、微粒子は、状態というよりは一種の「もの」であるということのみならず、それらが没個別的であるということも納得できるであろう。4

「波もどき」の思考実験のように「記録映像」としてフォーマットされたサーフェイスの上をグリッチされた映像という塊が一定の範囲だけで実際に移動していると考えてみる。そうするとグリッチの映像を示すサーフェイスの奥にだけ、特定のデータのバルクとしての厚みを持つことになる。そのように考えると、正常の映像や壁の箇所の映像も同じようにデータのバルクとともにあることになる。グリッチの映像は荒れた波のようにバルクが大きく盛り上がった「波もどき」であり、それ以外の正常の映像、そして、壁の映像もまた凪いだ「波もどき」としてそこにある。ディスプレイはデータのバルクから連続する映像のサーフェイスを表示していて「波のようなマテリアル」を形成しており、それは「波もどき」と同様に「モノ」としての資格を認定されるべき存在となっている。しかし、「波もどき」は、微粒子を「モノ」として捉えるための思考実験であるから、ここで個別の「波もどき」を映像とデータとの組み合わせの「パケット」に戻すと、正常の映像、グリッチの映像、壁の映像は一種の「モノ」らしさを認定されて、映像とデータとに分けることができない一つの「モノ」のような存在として「波もどき」が現れる。そして、正常の映像、グリッチの映像、壁の映像といった三つの「波もどき」は互いに隔絶した個別のモノではなく、バルクとサーフェイスの連続体がつくる一つの「波のようなマテリアル」の三つの別の見え方なのである。これら三つの映像は「正常」「非正常」「壁」といった存在の個別性と連続したバルクを消失した状態で、一つのバルクに集約されて別のあり方で「モノ」らしさを付与されている。個別性を失ってもなおモノのように個別のバルクを見る者に想定させて存在し続けるデータは、量子などの微粒子と同様に「モノ」らしさを持っていることを示していると考えられる。

「超臨界流体」となりサーフェイスを包含するバルク

次に、グループ展「フィジークトス」に展示された。《U1:Supercritical》を見てみたい。この作品の説明を兼ねて、小鷹研理のレビューを引用したい。

ucnvの作品では、ストライプ柄の衣装を着た2人の女性がダンスに興じている映像が、左右2体のディスプレイで同時に再生されている。一見してわかることだが、右側のモニターの演者の衣装にのみ激しいハレーションが発生している。両者の画面を注意深く見比べてみると、左の基準となるオリジナルの映像に対して、右の映像には、おそらくは映像再生機器を光学的に介在させたのと同型的な画像劣化の処理が一律に施されており、その作用が縞模様の衣装領域にのみ選択的にハレーションを引き起こしたであろうことが推察される。

さて、こうした対比によりこの作品は、カメラを回す計測者の意図とは独立に鎮座する電子機器そのものの物理的配列を主題化することに成功している、とひとまずはそのように言えるかもしれない。他方で、そうした意味的な理解を越えてなお見るものを否応なく揺さぶるのは、ハレーションの喧騒に対する強烈な異物感と、それに付帯するある種の既視感のほうである。

実際、この異物感はまず隣のオリジナルの映像の中の衣装に飛び火し、さらにはディスプレイをも飛び越え、床に投げ出された(演者が着衣していたものと同じ)ストライプの生地にまで投射される。つまり、ここで掘り起こされているのは、電子機器などを通さなくともあの冷徹な配列に対して潜在的に異物感を抱いていた、我々の視覚系という名の計測器、その器の手触りである。5

ucnv《U1:Supercritical》

ここで小鷹が「我々の視覚系という名の計測器、その器の手触り」という視覚と触覚とを混ぜ合わせた表現をしていることに注目したい。しかも、この言葉はディスプレイを一つのサーフェイスとして起こる〈データと視〉と〈データと触〉のフィードバックループを飛び越して現れる「床に投げ出された(演者が着衣していたものと同じ)ストライプの生地」という実際のマテリアルにも適用されている。ucnvは〈データと視〉と〈データと触〉のフィードバックで生じる「波のようなマテリアル」に「縞模様の布」というモノを掛け合わせるように、縞模様を表示するディスプレイに縞模様の布を掛けている。バルクとサーフェイスとがつくるディスプレイ内の縞模様という「波のようなマテリアル」を、ヒトの視覚系を経由して、ディスプレイ外に引っ張り出しているとも言えるし、その逆を行っているとも考えられる。

小鷹のレビューで考えたいのが、「異物感」がディスプレイのフレームを超えて、非正常の映像から正常の映像へと飛び火し、さらには、映像という存在を飛び越えて、モノとしての布にも投射されるという点である。ucnvは《Volatile》で、正常の映像とグリッチ映像とを併置したけれど、それらのあいだで比較が行われていたとしても、相互にフレームを飛び越えるということはなかった。それは映像のサーフェイスから連続するバルクがディスプレイのフレーム内に留まっている状態にあったからであろう。バルクとサーフェイスとがつくる「波のようなマテリアル」はフレームに寄せては返すを繰り返しながら、フレームを飛び越えることができない状態にあるというのは常識的に考えれば、納得するところである。しかし、《U1:Supercritical》では、そのフレームが飛び越えられてしまっている。

このことを考えるヒントは《U1:Supercritical》というタイトルにある。《U1:Supercritical》というタイトルについて、ucnvは「超臨界状態、たとえば気体でも液体でもあるような状態を示している6」とツイートしている。もう少し詳しく「超臨界状態」について見てみたい。超臨界状態における気体でも液体でもあるようなものは「超臨界流体」と呼ばれる。

超臨界流体は「濃い気体状の溶媒」です。わかったような、わからないような表現ですね。溶媒と言えば液体が通り相場です。広く解釈しても、溶けている固体まででしょう。気体状の溶媒と言われてもしっくりきません。それは「溶媒は物質を溶かすもの」という定義に合わないからです。ここで重要なのが「濃い気体」という点です。凝縮して液体にならないように、加熱しながら気体を圧縮すると、液体に近い大きな密度を持つ「濃い気体」ができます。この「濃い気体」は、私たちの今までの常識とはかなり違った気体です。例えば、液体のように物質を溶解することができます。一方で、本性は気体なので、流動性や浸透性は抜群ですし、表面張力もありません。まるで通常の気体と同じように狭い隙間にも平気で入っていきますし、温度の差があればすぐに対流します。これが固体、液体、気体と並んで、物質の第4の姿と言われている超臨界流体です。7

《U1:Supercritical》では映像とモノ、映像とデータといった異なる状態として存在したものが同時に存在できる「超臨界流体」という「物質の第4の姿」として存在するようになっている。だから、映像の縞模様とモノとしての布の縞模様とが同時に存在していて、フレームを超えて混じり合っているのである。そこではバルクとサーフェイスという連続性もまた別の状態を示すようになる。

超臨界流体のはなし、p.15

さらに温度を上げて、臨界温度239℃の時の写真が(c)です。液体と蒸気の密度が同じになって両方の区別がつかず、完全に混じり合った状態になります。その結果、気液の界面が完全になくなっているのがわかります。この点が臨界点であり、この時の温度を臨界温度、圧力を臨界圧力といいます。8

ucnv《U1:Supercritical》

「超臨界流体」では気体と液体のあいだにある気液界面が消失して、気体と液体とが完全に混じり合っている。ucnvの《U1:Supercritical》では、どのようなインターフェイスが消失しているのであろうか。それは「ディスプレイ」であろう。壁に掛けられたり、スタンドに設置されたディスプレイは「ディスプレイ」として、そのフレームで映像を示し、世界を区切っている。しかし、床に置かれたディスプレイにはストライプの布がかけられていて、フレームによって世界を区切りながらも布によってその一部は隠されている。ディスプレイは「ディスプレイ」であることはやめないが、掛けられた縞模様の布がフレームを無効化するように垂れ下がりながら、ディスプレイの縞模様と布の縞模様が示す視覚データがヒトの網膜というサーフェイスを刺激を与える。このとき、ディスプレイのフレームは布によって無効化され、二つのモノの重なりが強調されている。この縞模様の重なりの強調という圧力において、ディスプレイのサーフェイスと布のサーフェイスとの重なりがつくる一つのインターフェイスは臨界点を突破して、ヒトの網膜というサーフェイスを巻き込む形で消失していき、ディスプレイの縞模様と布の縞模様は別々のままで完全に混じり、ヒトのサーフェイスと相互貫入して、あらたな「異物」をつくりあげるのである。

二つのモノのあいだのインターフェイスがなくなるということは、それぞれのモノのサーフェイスがなくなるということである。それに伴い、臨界点を超えたバルクがサーフェイスを包含して空間を均一に満たすようになる。そこでは「反応物同士や反応物と触媒の間の出合いのチャンスが飛躍的に増えるので、反応速度や収率が急激に増加するといった現象が起こり9」、あたらしいモノがつくられている。このあたらしいモノ=超臨界流体となって混じり合って、サーフェイスを包含した剥き出しのバルクが見る者の視覚に与えられ、「異物」を構成するようになる。そこでは、映像とモノという別々のサーフェイスで遮断されていたバルクがサーフェイスを包含して、異なるバルクが感覚データとして均一に混じり合い「波」というかたちもなくし「空間を満たすマテリアル」となって存在している。そこでは、〈データと視〉と〈データと触〉とが混じり合い互いのサーフェイスを消失し、見ることと触れることが接するインターフェイスも消失して、データを見ることが触れることになり、データに触れることが見ることになるように混じり合っている。サーフェイスを包含して剥き出しとなったバルクが感覚データとして空間を満たすのである。ディスプレイの縞模様と布の縞模様は重なり合い、混じり合い、「超臨界流体」の状態でヒトに伝えられる。そこではバルクがサーフェイスを包含して剥き出しの状態になっているから、映像とモノとのインターフェイスが消失してしまっている。その結果として、視覚データと触覚データとが均一に混じり合っている元来のモノと酷似した「モノ」が存在することになる。しかし、そこにあるのはこれまでのモノではなく、モノと映像とデータとが混じり合ったあたらしい「モノ」となっている。このあたらしい「モノ」は、いわば常識的にはモノとは思えない「超臨界流体」であり、素粒子に「モノ」らしさを認定する「波もどき」を経由した「モノ」であるから、それを体験するヒトに「異物」を与えるのである。

データがモノらしさを持ったから、映像のサーフェイスとデータのバルクとが「波のようなマテリアル」を構成するようになったのであり、そのパラレルワールドとして、映像とデータとが均一に混じり合う「超臨界流体」という状態でバルクがサーフェイスを包含した「空間を満たすマテリアル」が生成されている。このように、ucnvの《Volatile》の「光るグラフィックス展2」ヴァージョンと《U1:Supercritical》は、モノと映像とデータと混ぜ合わせたあたらしい「モノ」が生まれていることを示している。それは、私たちが映像とデータとの連続体を慣れ親しんだ元来のモノのように扱い始めたことを示すのである。

参考文献・URL

  1. https://twitter.com/ucnv/status/1100044092086472704 (2019年7月6日アクセス)
  2. ucnv「二個の者が same space ヲ occupy スル」をめぐって」、https://note.mu/ucnv/n/n58420fc45ee3、2018年(2019年7月6日アクセス)
  3. https://twitter.com/ucnv/status/1106223522785837057(2019年7月6日アクセス)
  4. 加地大介『もの───現代的実体主義の存在論』、春秋社,2018年,300-301頁
  5. 小鷹研理「私たちの計測器、その手触り。小鷹研理評「フィジーク トス」展」、https://bijutsutecho.com/magazine/review/19576、2019年(2019年7月6日アクセス)
  6. https://twitter.com/ucnv/status/1115983882669576192 (2019年7月6日アクセス)
  7. 佐古猛,岡島いづみ『超臨界流体のはなし』、日刊工業新聞者,2006年,7頁
  8. 同上書、16頁
  9. 同上書、86頁

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

Hideki Umezawa EMS滞在制作レポート

ストックホルムでのスタジオ制作と、その環境の記録。

Text: Hideki Umezawa

電子音響作品のリリースやフィールドワークに基づくインスタレーションの発表、昨年は写真作品で『TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD』のグランプリを受賞するなど、分野横断的な活動を行うアーティスト、梅沢英樹。そんな彼がスウェーデン・ストックホルムにある音楽スタジオ・EMSで先日滞在制作を行ったという。EMSはフランスのIRCAMやINA-GRMと並ぶヨーロッパ電子音楽のメッカでもあり、1964年にラジオ放送局機関として開設、その後1968年に国営のスタジオとして独立してからは、エレクトロ・アコースティック向けの先端的な音楽機材をそろえるスタジオとして知られるほか、コンピューターミュージックの開発や国内外のアーティストの招へいや育成など、多角的な側面から電子音楽の振興を支えてきた。EMSが実施するレジデンス・プログラムに今回参加した梅沢に、スタジオの環境や滞在時の制作について本人に書いてもらった。

6月末から半月ほどストックホルムに滞在して、国営の電子音楽研究施設・Elektronmusikstudion (通称EMS)で制作を行った。このスタジオは海外からのアーティストを中心としたレジデンス・プログラムを行なっていて、場所はSöder Mälarstrandという最寄駅から徒歩で10分程度の、ストックホルム中心街からもさほど離れていない海沿いの通りに位置している。先日RasterからリリースされたLena AnderssonのアルバムタイトルはこのEMSの所在地からとられている。

Editions Mego/Ideologic Organから作品を発表しているMats Lindströmが所長を務め、Posh Isolationなどからの作品で知られるMats Erlandssonや、Vargと共に活動をするDaniel Arayaらがエンジニアとして働いており、彼らも連日スタジオで制作を進めている様子だった。

スタジオは全部で6つに分かれていて、マルチチャンネル作品用に特化した2つのスタジオ、Serge、Buchlaといったモジュラーシンセサイザーを扱うスタジオなど、作家は滞在期間中に各スタジオを自由にブッキングできる。スピーカーシステムにはGenelecが多く採用されていた。Buchlaのモジュラーシステムにはスタジオの上階にあるという巨大なスプリングリバーブが接続されており、現物を見ることは出来なかったが、スタジオを出てすぐの螺旋階段にディケイタイムを調整するノブが設置してある。また併設したライブラリーには、音楽関連の貴重な書籍はもちろん、東京都現代美術館での展示やSuperDeluxeなどでもパフォーマンスをしていた現地作家のChristine Ödlundの図録など、美術に関連する書籍も置いてあった。

システムについては自分が書くよりも、こちらの記事に詳しく記載されているので省かせてもらうが、本当にこれ以上ないというほどの素晴らしい制作環境が整えられている。ストックホルム到着前にヘルシンキのOlli Arniから連絡があり、EMSは地球上で1番好きな場所だと彼は言っていたが、自分を含めた他の多くの作家にとっても、そのように感じられるスタジオであることは間違いない。
ちなみに近年EMSのスタジオで録音/制作された作品としては
Caterina Berbieri『Born Again In The Voltage』 /Francisco Meirino 『The Ruins
/Thomas Ankersmit 『Homage to Dick Raaijmakers』 などがある。

自分はStudio 4のSerge、Studio 6のBuchlaのモジュラーシステムを用いて制作を行ったが、この2つの機材に触れる事が今回の滞在の主な目的の一つだった。Sergeは直感的に操作をすることが出来たが、Buchlaはバナナプラグや独特のシステムに慣れるまでに時間を要した。スタジオのモニター環境が素晴らしいこともあって、時間を追うごとに耳が研ぎ澄まされていくような感覚があり、1日6,7時間ほど続けて制作を行っていた。

相当量の素材を録音する事が出来たが、まずはMads Emil Nielsenが主宰するarbitraryからリリースされる2枚組10インチの音源制作に現在取りかかっている。内容は彼の図形楽譜などを解釈したもので、Jan Jelinekとのスプリットのような形で発表となる予定だ。

知人のMaxwell August Croy (Empire of Signs, ex.Root Strata)がストックホルムに移住しており、現地のシーンや彼が運営するレーベルの今後について向こうで聞くことが出来ればと思ったが、予定が合わず次回の滞在に持ち越しとなった。東京のように毎日どこかしらでイベントが開催されている雰囲気はなかったように思うが、日本でも開催されたEdition Festival for Other MusicIntonalなどのフェスティバル、EMSと同じく国営のFylkingenなど、良質なアーティストやシーンが存在することは明らかだろう。

滞在中に訪れたストックホルム近代美術館Moderna Museetでは2019年ヴェネチア・ビエンナーレのアーティスト部門で金獅子賞を受賞したArthur Jafaや、Sharon Hayesの展示が開催されていた。Sharon Hayesの方は、言語を主な要素としたLGBTQアクティビズムを展開し、「声をあげること」 =「サウンドとして空間に生起させること」をポイントに置いたパフォーマンスやインタビューの映像などの作品群が並んでおり、シンプルな方法論ながらも力強い展示だった。こうした動きと関連して、日本でも10月に
SOUND:GENDER:FEMINISM:ACTIVISM – TOKYO –」が開催される予定なので、注目しておきたい。

滞在中の息抜きに、市街地から少し離れたRosendals Trädgårdという自然農法の庭園を何度か訪れた。ここで食事をとったり、開放的な庭でくつろぐのは素晴らしい体験だったので、来訪する際は是非おすすめしたい。ストックホルムと日本では植生の違いはもちろんだが、光の質感の違い、何よりも白夜のようにいつまでも明るい環境には不思議な感覚を覚えた。自身の知覚や身体は環境的なもの/とりまくものに大きな影響を受けている、ということに自覚的にもなれた滞在だった。

梅沢英樹
1986年群馬県生まれ。国内外より電子音楽作品のリリースやインスタレーションの制作、サウンド・パフォーマンスを行う。 これまでの主な受賞にリュック・フェラーリ国際コンクール / プレスク・リヤン賞 2015、Tokyo Frontline Photo Award 2018 Grand Prize。主な展示に「0℃」(blanClass, 2016)、「つまずく石の縁-地域に生まれるアートの現場-」(アーツ前橋, 2018)、「深みへ-日本の美意識を求めて-」(フランス, 2018) など。網守将平、上村洋一との共作アルバム、Andrew PeklerとのSplit アルバムを発表予定。東京藝術大学大学院美術研究科修了。

レジデンスプログラムのアプリケーションに関する詳細などはオフィシャルサイトまで。なお来期プログラムの募集締切は今月末の7/31までとなっている。

https://soundcloud.com/hideki-umezawa

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 6

MASSAGE&ゲストで、6月の音楽リリースをふり返る。

C=Chocolat Heartnight, N=Shigeru Nakamura, TN=Noriko Taguchi, S=Yusuke Shono, T= Kazunori Toganoki

CVN – I.C.

Grey Matter ArchivesのキュレーションやAvyss Magazineの運営者としても知られるCVNの〈Orange Milk〉からとなる新作。ジャケットは「PHENOMENON:RGB」展にも参加したSabrina Rattéであり、NTsKiや、Cemetery、Le Makeup、LSTNGT、ROTTENLAVAなど盟友たちとのコラボレーションを繰り広げた、まさに現行のシーンをアルバムの上に広げたマガジンのような作品となっている。印象的な一曲目のNTsKiをフィーチャーした「成分」はまどろんだアトモスフィアの中を彼女の柔らかな声質が響き渡り、都市的な背景のもとノスタルジックな和やかさと安心感で包み込む。ノイジーでインダストリアルな感触を持つ楽曲からリズミカルに聴くものを揺さぶるダンストラックまで、よりフリーキーにより自由に組み合わされたサウンドで心地よく耳を刺激する。静と動、秩序と無秩序の間で引き起こされてきた駆け引きを紐解きながら、即興のさなかに生み出された解を目撃しているかのような研ぎ澄まされた洗練。音の振動すべてが楽器であるような、録音上の徹底呈した平等性は、デジタルによりもたらされた現代の音の洗練の極地と言ってよいだろう。異質なもの同士の重ね合わせと結合により作られたそれらは、調和を否定することによって逆説的に美しさを生成するという、現代におけるバロック的な美であるといってよいかもしれない。(S)

COEO – Tonic Edits Vol. 6 (The Japan Reworks)

TOY TONICSからリリースされた、ミュンヘンのユニットCOEOによる80年代のジャパニーズポップのエディット集。レーベルには「トイトニックスは日本が大好き」と書かれている。小さい文字だけれども、このことばがちょっと目をひく。例えば英語なら、「TOY TONICS loves Japan」となるわけで、ロゴなどでよく見かけるフレーズのような印象。それをそのまま日本語にするだけで、シンプル、かつ、ストレートなことばになる。そんなところからも複数の文化が交差するおもしろさを感じずにはいられない。“Japanese Woman”、“Tibetan Dance”、“What’s Going On”は原曲のタイトルがそのままつけられているが、“Girl In The Box〜22時までの君は…”は“Matchbox”に、“とばしてTaxi Man”は“Uber Man”となっているのもおもしろい。ドリンク片手にフロアで踊りたくなるダンストラックへとさらなる進化を遂げたシティポップチューンの全5曲。(C)

S S S S – Walls, Corridors, Baffles

S S S SことSamuel Savenbergは、スイスはルツェルン在住の音楽家であり音楽プロデューサー。「Walls, Corridors, Baffles」は、スイスのルツェルンを拠点とする〈Präsens Editionen〉からリリースされた。〈Präsens Editionen〉は、クラブカルチャーや音楽、アートなど発信しているzweikommasiebenの書籍やアルバムなどを発表している。音楽は概念的で象徴的なものではなく、その具体性が重要だと考え作成したアルバムの表情は全体的にとても暗くて重い。しかし、予定調和のない旋律や冷やかな金属音やノイズ、緻密なリズムが時に交錯し、時に一つに重なり調和すると、エネルギーに満ち溢れた緩急のある音のうねりを生み出す。音のうねりが押し寄せてくるたびに感情の高揚を誘っているように感じる。アルバムを聴き終えると、不思議と耳元を心地よい風がふっと駆け抜けるような感覚に陥る。アルバムのタイトル「Walls, Corridors, Baffles」はフランスの哲学者であるロラン・バルトの一節から引用されている(おそらく「Empire Of Signs」『表徴の帝国』からと思われる)。音楽は聴き手の感じ方次第という考え方も、もしかしたらロラン・バルトの影響があるのかもしれないと考えると、アルバムの聴き方が少し変わるかもしれない。Han Le Hanによる生け花のアートワークもアルバムの暗い表情を美しく表現している。(TN)

Leif- Loom Dream

言うまでもないが、音楽は作り手の意図やそこに込めた気持ちからはこぼれていくものだ。ある音がどのように受け止められるかは、個々のリスナーやメディアによるジャンルに落とし込もうという試みによるものだが、音楽の鳴らされる場としてインターネットの影響が強くなり、ジャンルが細分化され、一つの確固たる区分がますます効力を失いつつある現在では当然にリスナーの感じ方に左右される(もちろん、そこで「批評」の形が変わっていくことは言うまでもない)。時々の大小さまざまな音の流行りはある中で、作り手は確固とした「自分らしさ」を打ち出す必要があるのかもしれない。
 ロンドンのレーベル〈Whities〉は上述のような状況の中で、ベースやエクスペリメンタル、そしてテクノといったキーワードではくくられようが、「自分らしさ」をわかりやすく打ち出すことなく、奇妙な存在であり続けてきた。KowtonやAvalon Emerson、そしてMinor ScienceやGiant Swanなど多様なラインナップからも「わかりにくさ」を打ち出すその姿勢を感じることができるだろう。そんなレーベルの最新作の一つが、これまで決して目立つリリースはなかったが着実に支持を得てきたLeifによるLoom Dreamである。アンビエント、そしてニューエイジへの注目が強まる昨今の流れを考慮すれば、Leifの新作は快く迎えられるだろう。しかし、そこは〈Whities〉である。リスナーからの一方的な「定義」をさらりと避けていくような音が迎えてくれる。
  Leifのこれまでの作品は、一言でいえばおとなしく耽美的なものであった。〈UntilMyHeartStops〉からリリースされた前作Taraxacumではエクスペリメンタルな要素はちりばめられているものの、基軸としてのディープハウスはしっかりと聴きとれていた。つまり、クラブ・トラックとしても機能するようなものであった。しかし、今作の基軸は一聴してはわかりにくいかもしれない。全体で34分ほどの短いミニアルバムは17分ずつ、つまりA面とB面にわかれていてそれぞれが1トラックとして聴くことができる。フィールドレコーディングによるものと予想される音が鳴っていく中で、リスナーは「アンビエント」という言葉を持ち込むだろう。しかし、その中でゆっくりとキックが入ってくる。その音はまさしくUKのベースのそれである。もちろん、たとえばRandomerなどUKベースにおけるテクノとトライバルを狂気的に混ぜ合わせたものとは音はまったく異なる。あくまでも自然に、あらゆるバランスが計算されたうえで、アンビエントともベース・ミュージックとも聴くことが可能な、ある種の違和感と気持ちよさが同居している。眠ることも踊ることも許されている。
 音楽がBGMとして流されている場所にいく度に、その音楽の意味や機能について考えてしまう。メッセージを与えるもの、ある種のメタメッセージを与えるものなど様々だろう。癒されてもいい。踊ってもよい。ぼく個人は、Leifの音楽をBGMとして聴くことは難しい。新たに環境を作り出すもの(としてのアンビエント・ミュージック)であっても、何かしらの環境に上手くフィットするように使える便利なものとは思えないからだ。機能性といったリスナーの都合によって容易に消費されず、聴き手の耳を文字通り奪っていく。おとなしい音と思われることもあるかもしれないが、強力なミュータントである。(N)

Toshiya Tsunoda – Extract From Field Recording Archive

「振動の伝達」を扱ったフィールドレコーディング作品を中心に、音源のリリースやインスタレーションの発表などを行うサウンドアーティスト/美術家の角田俊也。今作は彼の90年代の代表作として知られる「Extract From Field Recording Archive 」シリーズに、未発表の新作音源を追加した5枚組CD。音を波の振動として捉える角田は、振動運動の現象的側面や、音の発生/伝播を生み出す空間との関係性に焦点を当て、港や工業といった豊富な振動現象が観察されやすい場所に注目して長年フィールド録音を続けてきた。振動は彼によっていくつかのパターンに分類されており、例えばシリーズ1作目に収録されている音源は「定常波」と呼ばれる種類のもので、それは複数の音波が反射と干渉を繰り返して、ある特定のエリアで停滞している音のことを指している。どれも音が持続しているという点では共通しているものの、振動源の素材や性質によって、それぞれの音色や周波数、倍音の具合は千差万別で、異なる背景を備えた音たちは、どれもハードコアでミニマルな様相ながら味わい深い響きをなしている。

彼の作品は、一聴してそれだけでは何の音なのかよく分からない。それは人間の可聴域外の音であったり、空気ではなく固体を媒質とした音であったり、つまり日常で私たちが知覚できない、あるいは意識に留まることのない音が主な対象だからであり、録音された音源そのものに、視覚的イメージや追体験性を喚起させる要素は含まれていないからだ。その点でも、一般的なフィールドレコーディング作品にみられるようなサイトスペシフィックな要素は、角田の音作品には表面上からは切り取られてしまっている。それは作品のコンテクスト(録音の場所や状況、振動源、FMシンセのモジュレータのような、振動に影響する外部の振動音など)を理解するというプロセスのなかで立ち上がってくるものなのかもしれない。自分の場合は曲ごとの説明を読み、それぞれの文脈を捉えることでまったく異なる聞こえ方へと変わった。

フィールドレコーディング作品はその形式の性質上、現実世界で生じて録音された音を「聴く」行為とは、つまり一体なにを意味するのか、という疑問を聴き手に問い続ける(作家の意図からも離れて)わけだが、角田の作品からは、音を通した対象物の「自律性」(ハーマンの言葉を借りるなら)、意味作用に絡み取られる前の事物の「存在」そのものが強く感じられる。モーターやエンジンの駆動、配管の内部での共鳴、フェンスの震え、etc…。機能という契約から一時的に逃れて再び現れたそれらには、こちらを誘引するような穏やかならぬ気配とぬくもりが感じ取れるだろう。ものたちの間に交わされている接触や干渉、総じて「起こる」≒「在る」ことを浮かび上がらせるという角田の主題は、音のオントロジーを探る実践でもあるともいえる。

ちなみに、本人が自身の作品や録音について、いくつかまとめて書いてあるのをmixiのコミュニティで見つけた。
どれも面白い内容なので興味のある人はチェックを。(T)

https://mixi.jp/list_bbs.pl?id=715447&type=bbs

絵画への新しい可能性へ向けた探査の試み。櫻井崇史 + 松尾信太郎による展示 “プローブ”


櫻井崇史と松尾信太郎の二人による展示、“プローブ”が国分寺のswitch pointにて5月30日から6月15日の間に開催された。櫻井の作品は3Dモデリングを経てモニターを用いて制作された作品、松尾の作品は独特の質感をもつ塗装を施した極小の欠片を配置した作品からなる。両者とも、絵画への関心をキャンパスというオーセンティックな支持体を経由させずに、そこに存在する感覚の一部を間接的な手段で再現しようという意図が感じられる作品であった。

櫻井の作品は自身で制作した平面的な彫刻とも言うべきオブジェクトを一旦3Dスキャンでデータに変換し、その上にペンイテンィグツールで色を重ねていくという方法で作られている。ただグレイのオブジェクトに置かれた白色は、絵を描くというより、塗るという行為を抽象化したような感覚を帯びている。ブラシの筆致と思しき塗りのエッジにある掠れが微細な三角で出来ているのは、そのオブジェクトの形状によりポリゴンの三角に色が乗ったものと乗っていないものが現れるためである。その現れとブラシのエッジとの類似は偶然の出来事かもしれないが、同時にその行為がペインティングという行為の模倣であることの印として働いている。

私たちはその作品を、もちろんディスプレイで鑑賞するのだが、ギャラリーで絵画をディスプレイを通じて鑑賞するということほど、奇妙な感じのするものはない。ディスプレイという存在が眼の前にあるという事実が、とても強く眼の前に現れてこざるを得ないからである。だからそのことから導かれる結果として、そのアプローチはディスプレイを彫刻的な素材として扱うという方法になる。データによって作り出された画像が、その宿命としてディスプレイを必要とするという実際的な断絶が、ディスプレイの無用な存在感によって顕になる。櫻井は実際にそこに机を配置することで、日常におけるディスプレイの存在との関連性にも言及する。ギャラリーと虚構の間に日常のようなものが差し込まれる。しかしそれは日常の記号のようなものにとどまっている。

このようにして作られた構造を私たちはどのように鑑賞すべきなのだろうか。その記号のような形は、逡巡するかのように絵画と画像の間をさまよい、現実には存在し得ないゲームの背景画像のようにリアルさを剥奪されている。ぽつんと、孤独に宙に浮いている。しかし、私たちは指し示すものと指し示されるものの間にある獏とした空間を、かすかな顕れのようなものとして鑑賞することはできる。来るべきモノを示す予兆のようなのとして。これがプロセスだとしたら、その至りつくべき回答がこの作品により示されているわけではない。だが、そこで作られた余白のような空間は、これまでの絵画の鑑賞の仕方とは異なる可能性へ向けた探査の試みであるということはできるだろう。

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 5

MASSAGE&ゲストで、5月の音楽リリースをふり返る。

C=Chocolat Heartnight, TN=Noriko Taguchi, S=Yusuke Shono, T= Kazunori Toganoki

Rachel Bonch-Bruevich – –>

Rachel Bonch-Breuvich、ソビエト連邦時代のロシアのアウトサイダーピアニスト、コンポーザー。Bandcampのページにある写真に写っているのは、袖なしのワンピースを着て、白い花の咲く庭にたたずむ女性。この人がRachel Bonch-Bruevichなのだろうか。その表情は、微笑んでいるようにも、今にも泣き出しそうにも見える。横にある木にはわずかに赤みを帯びた丸い果実がいくつも熟っている。練習曲のように次々に奏でられるピアノの音の背景には、時折、赤ん坊の声らしきものも聞こえる。しばらくすると音は突然途切れ、まったく脈略のない音が一瞬流れる。そしてまた、なにごともなかったかのようにピアノの音が流れ始める。おそらくテープの重ね録りのためだろう。なんとも雑な録音だ。それにしても、Rachel Bonch-Breuvichとは誰なのか。実在の人物なのか。この重ね録りはどういうことなのか。何もかもが不確かだ。それでも彼女の(おそらく)ピアノの音は響く。晴れた土曜日の午後、どこかの家から流れてくるピアノの音のように。時間は永遠だと思っていたころ、そもそも、そんなことを考えてもいなかったころの甘い感覚が蘇る。危険だ。そんなことをよそに、彼女のエチュードは時を超えて(おそらく)こうして流れている。(C)

Ayankoko – Kia Sao ກ້ຽວສາວ

Ayankoko は、フランス在住の音楽家/作曲家/プロデューサーでありギター奏者でもあるDavid Vilayleckによるソロプロジェクト。「Kia Sao ກ້ຽວສາວ」は、アジア系のアーティストの音楽や文化をハイブリット化するレーベル〈chainabot〉からリリースされた。電子音とラオスの伝統音楽が、穏やかでありながらどこか憂いを秘めた作品。ラオスをルーツに持つAyankoko 。サイケデリックなジャズフィージョン、ノイズ、電子音をラオスの伝統音楽や現地で録音したサンプリングとミックスさせた本作は、ノスタルジックな音響が、明るく穏やかな表情から破壊や絶望、そして希望へと展開していく。自身のルーツであるラオスへの想い、忘れてはならないラオスの歴史、現在もなお続く厳しい状況を色彩豊かな曲調で描いている。自身のルーツへの強い思い、深い歴史を自身の創造に変え明るく優しい世界観で我々を魅せていく。(TN)

KING OF OPUS – I STILL LOVE YOU FEAT. 鶴岡龍

テクノ黎明期より唯一無二の和製エキゾ・ダブへと昇華させてきたユニットKING OF OPUS。本作「I STILL LOVE YOU FEAT. 鶴岡龍」は、2018年にリリースされたアルバム「S.T.」からの7インチ・シングル・カットだ。ダブの浮遊感溢れるリズムに鶴岡龍のトークボックスが立体的に重なり、聴くものを熱帯夜でしっとり汗ばんだ時のような不思議な高揚感へと導く。一方、カップリングのchisha「macha macha」は、エキゾチックな音とシンセがコロコロ笑っているようで、穏やかな曲調がなんともかわいらしい。淡い恋心を歌った歌詞は80年代J-popとも異国の大衆歌謡とも感じられる。心地よい湿度と熱気を帯びた本作。遠く熱い国を想像して聴くのもよいが、敢えて梅雨シーズンに聴いて、幻想的なユートピア感を味わいたい。(TN)

POINTLESS GEOMETRY JAKUB LEMISZEWSKI – 2019

季節のように移ろう日々の感覚の変化に焦点を合わせながら、研ぎますように聴覚を微細に調整し、音を聴くという行為の中にある確からしさの在処を確かめる。ダンスという機能的な行為の中にも、次のステップを生み出すためには、常に未知の感覚へと飛び出していく開かれた跳躍的な態度が必要である。どのようなときも次に来るサウンドは、曖昧に広がる広大な領域から、感覚の照準を定め、触れることができる実態へと突如として形成されたものでなくてはならない。それは未知の創造というよりも、発掘にも似た行為だろう。2017年から2018年にかけてポーランドで録音されたJakub Lemiszewskiによるこの作品は、リズミカルに刻まれた低音の振動と、奇妙でありながら心地よく響くそのサウンドにより、身体あるいは感覚の中にある新たな可能性を探索する。洗練されたといってもよいほど多角的な音響と質感の楽しさが織り交ぜられながら、けして一点に収束しない多様な文脈が交雑したキメラのような異形の音楽電子音を形作っている。身体の奥に眠る未知の感覚を呼び覚ます、可能性としてのダンスミュージック。それは土地の記憶と結びつき、そこにあった歴史を改変しながら、固有の質感を鳴り響かせている。(S)

Sisso – Mateso

高校生のときの自分にとって、音楽の全ての基準は「速さ」にかかっていた。毎日謎にわき出てくるフラストレーションや虚無の感情をもろとも打ち消してくれるハードコアパンクは救世主的な存在で、速度と音量とエネルギーのマキシマムを追求する美学は、参照する見識や価値観を持ち合わせていない当時の自分にとって、極めて単純明快な存在でリアリティーにあふれており、信頼を置いて身を委ねることができた。速さに対してそんな一端のエモい感情を抱いていた自分だったが、ウガンダのNyege Nyege TapesからリリースされたSisso a.k.a モハメド・ハムザ・アレーのデビュー作『Mateso』はかつての自らの感傷を一蹴してくれるくらい、尋常じゃないレベルの速さだった。同レーベルからリリースされ昨年話題を集めた『Sounds of Sisso』は、「Singeli」と呼ばれるタンザニア発祥の新しいダンスミュージックのアーティスト達をフィーチャーしたコンピレーションアルバムだったが、Sissoは若くして(現在25歳)そのシーンを担っている中核人物の一人。Singeli自体はガバやハッピーハードコアに比較されるが、平均BPM200以上の圧倒的なテンポに加え、低音よりも高音を強調して生まれるチープで意味不明なドライブ感と、ローカルな音楽エッセンスを多分に取り入れつつ、それらをハイピッチにして繰り返す催眠的ループ(Carl Stoneを彷彿とさせる?)を掛け合わせたSissoのサウンドは、西欧産のクラブミュージックとは全く異なったリズムと狂気を放っている。これはアフリカという土地固有の時間史観や、鋭敏なリズム感性から由来しているのか、それとも切迫する現実社会への何らかのアンチテーゼを示しているのか…。 その理由が何にせよ、こちらのイマジネーションを差し挟む余地もないほどに、彼の音楽は確かな強度を持って、底抜けの明るさと美しさと速さを呈している。(T)

水野勝仁 連載第6回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

バルクとサーフェイスとを含む「波のようなマテリアル」

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Haruna Kawai

前回は哲学者の入不二基義の『あるようにあり、なるようになる』を参照しながら、「バルクと空白とがつくる独自の厚みを持つ練り物」という概念を探り出した。今回は映像をデータから「破損」させる「グリッチ」を作品に多様するucnvの作品とビデオアーティストの河合政之の『リフレクション—ヴィデオ・アートの実践的美学』とを合わせて考えながら、「空白」という概念ではなく、具体的にアナログの電子映像とデジタルの電子映像のあいだを行き来しながら、バルクとサーフェイスとが「波のようなマテリアル」を構成していることを示したい。

アナログとデジタル、そして、デジタルが模倣するアナログ

ucnvは情報科学芸術大学院大学[IAMAS]で開催された個展「Volatile」の「作品について」で次のように書いている。

本展示では、以前の制作を再構成し、3点の新作として展開する。

図書館入口正面の展示室の2作品では、2018年の制作で用いた、正常なものと破損したものを並置するという手法を引き続き採用する。その手法によって、オプティカルメディアとデジタルメディアを重ねて考察する上では、必ずファイルフォーマットに触れなければならないということを、改めて明らかにするだろう

書棚の間に設置された3ディスプレイでは、2016年の映像習作をインスタレーション化する。上記2作品が、カメラとコンピュータが合流する場としてのファイルフォーマットを前景化しているのとはまた別の意味で、スマートフォンというデバイスもまたカメラとコンピュータが合流する場であるということを示す。

昨年の展示で、ある人から「この作品はどうやって/どこに定着しているのか?」と問われた。そのときうまく答えられなかったその問いがどこかに引っかかったまま、ある。今回の展示タイトルを “Volatile”、すなわち「揮発性」としたことは、その定着、および定着に必要な支持体という対象をめぐる思索と無関係ではない。1

ucnvによるステイトメントを読んだときに、まず「スマートフォン」がカメラとコンピュータとの合流の場になっている点がとても印象的であった。これまでの連載で考察してきた「スマートフォン」が一つのサーフェイスであり、そこから連続してバルクを示すものであって、「画像」にモノの「厚み」を与える存在になっているということに対して、ucnvのステイトメントは一つの回答を明快に示しているように思えたのである。モノと映像とが合流する場としてのディスプレイ、スマートフォンはこれまでに何度も考察してきたので、今回は、ステイトメントでオプティカルメディアとデジタルメディアとが合流する場と呼ばれている「ファイルフォーマット」から、バルクとサーフェイスとの関係を考えていきたい。

スマートフォンというバルクから映像というサーフェイスへという連続的な流れと入れ子になるかたちで、ファイルフォーマットも一つのバルクとして連続的に映像というサーフェイスにつながっていると考えられる。そして、ucnvが用いる「グリッチ」という手法は、ファイルフォーマットというバルクから映像というサーフェイスの流れの連続性を撹乱した結果として、普段は見えづらいバルクがサーフェイスからはみ出して見えている状態なのではないだろうか。このことをまず、ucnvが「正常なものと破損したものを並置するという手法」を用いた個展「二個の者が same space ヲ occupy スル」をめぐって」のステイトメントから考えていきたい。

デジタルデータは、離散によって成立するとされる。映像を例に取れば、連続していた時間はフレームという単位によって分断されて互いに独立した画像として保存され、それぞれの画像もまたカメラのセンサーによって分断された有限個のピクセルとして保存される。そこでは各フレームは前後のフレームとはまったく関係を持たず、個々のピクセルも同様に上下左右のピクセルを与り知ることはない。現実のリニアな時空間が、そのように整数でしか数えられない状態で記録される。これが離散と呼ばれるデジタルデータの特徴である。私たちが液晶モニタで映像を見る時には、必ずそのような離散化された情報を目にしている。

展示は上下のモニタで構成され、上部のモニタでは正常なデータが再生されている。数フレームを数百回繰り返すときには、正しく離散化された状態で、コンマ数秒の断片が正確に繰り返される。逆に言えば、そのような極めて少ない時間が何度も延々と再生されうるのは、デジタルデータが正しく離散化されている証左でもある。一方、下部のモニタは壊れたデータを再生する。壊れたデータが同じく数フレームを数百回繰り返すときには、離散はキャンセルされてピクセルとフレームは引きずられるように溶け出して、およそデジタル=離散らしくない様相を見せはじめる。なぜだろうか。2

「なぜだろうか」とucnvは問いかけ、「こちら側に現実の条理があるとすれば、あちら側にもデジタルデータの条理がある。モニタとは、そのふたつの条理の媒介として存在している。そこには背中合わせになった2つの世界が映し出されている」と、同じステイトメントで回答している。では、現実の条理とデジタルデータの条理とはなんだろうか。壊れたデータ=グリッチが示す「離散はキャンセルされてピクセルとフレームは引きずられるように溶け出し」た様子は、ucnvが「溶け出して」と書くように、デジタルな映像がアナログ的な連続性に基づく質感を示しているように感じられる。そこで、「現実の条理」をアナログ的な連続性と仮定して、グリッチはデジタルでありながらアナログ的質感を示す映像だと考え、ビデオアーティストの河合政之によるアナログの電子映像の考察を参照して、グリッチの特質を考察してみたい。

アナログな電子映像においてはデータを変調することにより画像と音声が一本の合成された正弦波、すなわち波として総合的にデータ化されるのである。したがってこの変調こそはアナログな電子映像の原理なのであり、そこから信号技術的なレヴェルで、電子映像における視聴覚の不可分性が作り出される。技術的原理からして、視覚的変化がまず電荷量の連続的変化として、次いでその同期信号を含む断続的な連なりとしてデータ変換され、一方で聴覚的変化は電荷量の連続的変化へとデータ変換され、さらに両者のデータが変調を通じて統合されることによって作られた、連続的な波としてのデータが、アナログ映像の本質的形態なのである。3

河合は『リフレクション』において、ビデオの電子映像の本質は「ウェーヴ(波)」にあるとして「ウェーヴの連続であるフローという形式をとることは、いかなる意味を持つのであろうか。フローであるとは、電流が一定時間流れ続け、データが流され続ける限りで存在するということである4」と指摘している。

このフローにおける電子映像と映画の存在論的な差異がもっとも明確にあらわれるのは、編集の場面においてである。映画では、画像はフィルム上にすでに発現し物理的に定着されているので、それをあつかえばよい。だが電子映像では、テープを使用したリニアな編集においても、コンピューターを使用したノンリニアな編集においても、少なくとも完全にコントロールされた編集をおこなおうとするなら、まずデータを時間的に画像として発現しなければならない。データそのままではそれは映像として存在しているとはいえないのであって、それが時間をともなってフローとなり、連続的な画像へと変換されて初めて、コントロール可能な対象としてあつかい得るのである。5

映画も映写機を必要とするが、映写機がなくてもフィルムは「映像」をそこに定着させている。しかし、ビデオのようなアナログの電子映像も、コンピュータで処理されたデジタルの電子映像も、ともにデータが再生される装置がなければ、そこには映像はなく、データしかない。データはファイルフォーマットやビデオテープなどの記録媒体といった一塊りのバルクに再生装置が働きかけ、データが波として動き続けているときにだけ、映像としてサーフェイスに示される。

アナログとデジタルの差異は、プロセスにおいてあらわれる。アナログな変調のプロセスとは、とは、ウェーブにおける電荷量変化の連続性、およびフローの時間的連続性を保持したプロセスとして定義することができよう。つまりそれは連続的なデータを連続体のまま工学的に処理するのである。一方デジタルなシミュレーションのプロセスは、ウェーヴとフローの連続性を離散的な数値へと置き換え、その数値をいったんメモリ化し、演算的に処理して、再度連続的なデータへと戻してやるのである。6

アナログとデジタルは、プロセスにおいて「連続性を保持する」か「離散的な数値へ置き換える」かの違いがあるが、デジタルにおいても最終的には連続的なデータに戻される。アナログでもデジタルでもバルクからサーフェイスに至る流れは同じであり、サーフェイスでは連続的なデータとして示される。アナログとデジタルとの違いは、サーフェイスと連続するバルクでのデータの処理の仕方が異なるということだろう。アナログでは、バルクからサーフェイスへと至るプロセスは連続性を保持しているが、デジタルでは離散化され演算処理が入る。河合はこの違いを顕著に示すのが、フィードバック・ループの映像であると指摘し、次のように説明する。

ここで、フィードバック・ループの映像において顕著にあらわれるアナログとデジタルの差を、まずはシグナルとノイズという情報理論的な概念によって説明できるだろう。すなわち、先にも第1章第4節で論じられたように、アナログなモジュレーションにおいては、個々のプロセスにおいて不確定なノイズの混入が不可避である。したがってフィードバックが連続するプロセスの中では、シグナルとノイズはその進行にしたがって漸次的に融合していく。一方、デジタルなシミュレーションにおいては、個々のプロセスがノイズフィルタリングをおこない、その都度データはシグナルへと純化される。したがってそれが再帰的に反復されるフィードバックのプロセスの中では、ノイズフィルタリングの反復によって、シグナルはより不変なものとして際立っていくのである。7

アナログではフィードバックするたびにノイズがシグナルに混入し、次第に融合するとしている。これはバルクとサーフェイスとの連続性が強調されていくプロセスだと言えるだろう。対して、デジタルでは、ノイズは常に除去される存在であり、シグナルが純化していくので、サーフェイスがバルクから独立していくように見える。それゆえに、コンピュータで演算処理されるデジタル映像は、バルクとサーフェイスとの連続性を切断していく側面が強調されたのであった。しかし、私たちはこれまでデジタルの映像を扱った作品におけるサーフェイスを透かし見て、サーフェイスがバルクとの連続性の中にあることを確認してきた。このことが示すのは、デジタルにおいても、河合がアナログの特徴としているノイズとシグナルの融合が起こっているということである。その一つの例として、ucnvが用いるグリッチにおいては、データがシグナルへと純化されるプロセスが無効化され、データはシグナルになれずにノイズのままにされ、アナログ映像のようにシグナルとノイズとが融合したような映像が示されている。

一方、アナログなプロセスは遅延や揺らぎといった不確定性を不可避的に含むことはすでに考察されたとおりである。そのフィードバックは、遅延と揺らぎの反復的回帰、その結果の連続的な逸脱としてあらわれる。したがってアナログなフィードバックは、デジタルとは反対に、環境的諸要因の介入による乱調と統御可能性を原理的な特性とするのである。すなわちそれは、データを〈脱情報〉化するものであるということができるだろう。逆にデジタルなプロセスによっては、そうした乱調と統御不可能性は、乱数などを用いたプログラミングによるシミュレーションという形においてしか、つまり、模倣という形においてしか実現することができない。8

グリッチが示すようにアナログの変調をデジタルは模倣することができる。河合は「模倣という形においてしか実現することができない」とネガティブに考えているが、私はこのことをポジティブに考えてみたい。それはデジタル優位に考える為ではなく、河合が示した「連続的なデータを連続体のまま工学的に処理する」というアナログの特徴を、デジタルが模倣するフェイズに入ったということを示したいのである。デジタルはノイズを除去した純化した離散化を強調してきたと言えるが、タッチパネルを備えたスマートフォンの登場によって画像に触れるようになった私たちは、モノと画像とのあいだに連続性を見るようになってきた。そして、「触れる」という感覚がバルクとサーフェイスという異なる性質を持つながらも連続的な一つの存在としてファイルフォーマットと画像や映像、さらに画像や映像とディスプレイやスマートフォンを扱う要因になっていると考えられる。デジタルはアナログを模倣し、ファイルフォーマットと画像、モノと画像といった明らかに別の存在のあいだに連続性を得ようとしているのである。

〈データと視〉と〈データと触〉とがつくる「波のようなマテリアル」

《Turpentine》のスクリーンショット

ucnvは正常の映像とグリッチした映像とを並置して見せる手法によって、映像が「正常な映像」としてディスプレイに「定着」した状態と、そこから逸脱した状態にある映像の差異を明確に示す。ucnvはIAMASでの個展で展示した《Volatile》と技術的には同じ方法を用いた作品を展示した2012年の個展「Turpentine」で配布されていたハンドアウトで、この逸脱の状態を説明している。

今回用いるのは、ある差分フレームをコピーペーストし何度も繰り返すという動画グリッチの手法である。そのとき、本来の前後のフレームと切り離された結果そこに何が映っていたか判別できなくなり、意図されていなかった映像が生成される。差分が繰り返されることによって、あるピクセルは延々と2ピクセル右に移動し続け延々と青みがかかることになるだろう。そこには、オリジナルの動画に含まれていなかったピクセルの移動と色が出現している。ここでは、シンプルなデータモッシングにあった、元の図像が崩れるといったことさえない。初見ではその映像がグリッチによるものかもわからないだろう。9

オリジナルにはない「ピクセルの移動と色」が示すのはもう一つのオリジナルなのだろうか。正常な動画と並置されたグリッチされた動画を同時に見るとき。オリジナルとグリッチを見ていると同時に、ふたつともオリジナルを見ているとも言えるし、コンピュータ的にはどちらも処理できるデータであって、データの差異はあるけれど、情報としての差異はないのかもしれない。ucnvはファイルフォーマットを分析し、通常は見ることがない画像の構成原理を利用して、グリッチをつくりだす。それは、画像を構成するデータ、そして、再生装置としてのプログラムによる演算処理といった書かれた文字列を読み解くことである。詩人で、アーティストのケネス・ゴールドスミスは『非創造的な書き方』で、絵を描くことにとって写真が大きな影響を与えたように、インターネットが文章を書くことの性質を変えたとしている10。その理由はコンピュータのOSが何百万行のテキストで書かれていたり、画面上の画像や音楽、そしてテキストもまた「言語」で構成されたりしているからである11。ゴールドスミスはインターネットとともにあるテキストを論じるが、そこにはJPEG画像が正常に表示されずに文字化けすることや、シェクスピアの画像を文字列で表示させその文字を操作して画像を変形させるといった画像と文字が表裏一体となった例が数多く示されている。

ドイツのメディア論者、ヴィレム・フルッサーは「写真」におけるカメラと写真家との関係から、「テクノ画像」という概念を用いて、テクストは画像へと翻訳されていくと指摘した。フルッサーは、現在のコンピュータで処理された画像が溢れる前に亡くなってしまったが、「テクノ画像」というテクストと画像とを連続的なつながりのもとで論じる概念は、ゴールドバーグが指摘する文字と画像との関係を先取りするものだったと言える。そして、河合はフルッサーの「テクノ画像」を用いて、データと画像、そして、見ることについて次のように言及している。

フルッサーのいうテクノ画像は、まさにデータのシステムの中心的要素をなしているといえよう。すなわち、あらゆるテクストは、視聴覚的にデータ化されてテクノ画像へと一元的に翻訳され、機能する装置+オペレーターによって扱われることになる。テクノ画像はテクストに取って代わって、そのメディア的な表象の中心的形式をなし、現代社会のシステムを技術的に覆い尽くす。つまりテクストとテクノ画像の関係は、テクノ画像をその表象として介した情報=データのフィードバックに、テクストが呑み込まれているという関係なのである。そこでは、かつての〈読むこと-書くこと〉ではなく、〈見ること-見せること〉がデータ技術と結びつき、データのフィードバック運動はテクストではなく視聴覚性をその支えとしている。この視聴覚性の優位こそは、データの電子化技術によって促進されたもの(に)他ならない。そしてこうしたテクストから視聴覚への中心的表象の移行が、装置と不可分なオペレーターという実存の様態を生み出すのである。

そこで私たちは、そのような〈装置+オペレーター〉複合体を通って流れていく〈データと視〉の複合体を、〈データと視〉と呼ぶことにしたい。そうするならば、フルッサーが提示する図式を、データ=視がフィードバックする状況としてとらえることができる。そしてそのようなデータ=視のフィードバックは、フィードバックという技術的機構そのものの本来的な原理として、自動的に機能する。しかもそのフィードバックは、電子的データ技術と視聴覚という、二つのきわめて高速度なメディアの結びつきに依拠している。したがってデータ=視のフィードバックは、読み書きの呼応に時間を要するテクストとはまったく別次元の、即時的なものである。さらにそうしたフィードバックは、「科学技術の進歩の力学によって駆動され」、その速度や密度、精確性を向上させていくだろう。12

ucnvは〈装置+オペレーター〉複合体の〈オペレーター〉となって、〈装置〉が再生する〈データと視〉を見ながら、〈データ〉部分を〈見ること-見せること〉を構成する映像の一つ奥の段階にある〈読むこと-書くこと〉を構成するプログラムのレベルで分析していく。それは〈データと視〉を構成する〈データ〉の部分を「文字」として離散的に処理し、その結果を〈視〉という映像で確認していることになる。河合が扱うアナログの電子映像では〈データ〉そのものを見ることはできないけれど、デジタルの電子映像では〈データ〉を構成する電子の流れを0と1という数字に変換し、さらに、それらを文字に変換することでヒトが読み書きできる記号として、サーフェイスに表示できる。デジタル映像では、バルクであるファールフォーマットを映像と文字という異なる二つのかたちで同一のサーフェイスに再生させることができる。そのため、離散的な文字の状態でのデータの改変とフィードバックされる映像の関係を確かめながら、ファイルフォーマットに連動する再生装置としてのプログラムを解析できるのである。

河合はアナログの電子映像が〈データと視〉のフィードバックによって、「脱情報化」していくものだと考えた。「脱情報化」のプロセスでは、〈データと視〉のフィードバックのたびに、サーフェイスでの映像とバルクでのデータそのものとが連続したものとしてあらたに書き換えられていた。しかし、ucnvはノイズを除去してシグナルへと純化してくデジタル映像のフィードバックにおいて、ファイルフォーマットというバルクにあたかも「手」を突っ込んで〈データ〉にダイレクトに触れるように無効化し、ノイズとシグナルとを融合していくことでバルクとサーフェイスと連続的なものとしていく。それは、デジタル映像が持つ正確な制御を利用して、アナログ映像が「脱情報化」していくプロセスを模倣して、離散的なピクセルをモノのように溶かしていると言えるだろう。

もはやここに一般的な映像表現は無い。そこに提示されているのは、差分フレームの特性でしかない。デジタル映像を構成する 要素のひとつがそこに表出しているだけだ。たとえるなら、油彩に使われるテレピン油がよく燃えるという事実を、それを燃やして見せることによって提示しているのと同じことだ。13

ucnvはデータを正確にコントロールしてシグナルとノイズと融合させ、「油彩に使われるテレピン油がよく燃えるという事実を、それを燃やして見せること」を、ディスプレイに表示したり、「揮発性」という物質の特性を作品に与えたりしている、これらが示しているのは、ucnvはデータをコントロール可能で、触れることができる「マテリアル」として考えているからであろう。そのマテリアルはバルクとサーフェイスとの連続性のもとでフィードバックのたびにあらたに書き換えられるアナログ的な特性を持ったグリッチの映像をつくりだす。

そこで、このデータに触れる感覚とも言えるものを〈データと触〉と名付け、河合が『リフレクション』で提示する〈データと視〉に接合させる形で考えてみたい。〈データと触〉とは、デジタル技術によって正確さを増す〈データと視〉と対をなすもので、より正確にデータに触れることが目指されている。しかし、「触れる」は「見る」とは異なり、連続的に対象に接触することが求められるため、アナログ的な連続性が前提となっている。しかし、タッチパネル以前はキーボードという離散的な装置によって、〈データと触〉のフィードバックがヒトとコンピュータとの複合体で行われていたため、〈データと触〉のアナログ的側面は然程問題にならなかった。しかし、アナログ的な連続性を持つ〈データと触〉がタッチパネルとともにインターフェイスに導入されたことで、インターフェイスにおける〈データと視〉と〈データと触〉のフィードバックは、河合が求める「脱情報化」を、デジタル映像のサーフェイスとその奥にあるファイルフォーマットのバルクにもたらすようになったのではないだろうか。そしてその帰結として、デジタルで離散化している〈データと視〉と〈データと触〉とが接合されて、あたかも連続体のような「マテリアル」が生じる可能性が生まれたと考えられないだろうか。

〈データと視〉と〈データと触〉の状況を明確にするために、インターフェイス研究者のマイケル・ワイバーグが、2018年の著書『インタラクションのマテリアリティ[The Materiality of interaction]』で提案したあたらしいインターフェイス設計のモデル「マテリアル中心アプローチ」を参考にしたい。ワイバーグはインタラクションのマテリアリティを構成する二つの要素を「使用のプロセス[processes of use]」と「コンピューティングのプロセス[processes of computing]」とに分ける。そして、彼はそれらをインタラクションのスレッド(使用)[threads of interaction (use) ]とコンピューティングのスレッド(処理)[threads of computing (processing)]と呼ぶ。インタラクションのマテリアリティはノンリニアモデルのインタラクションであって、ヒトとコンピュータという二つの存在がどのように関係していくかではなく、インタラクション自体に注目するものだと考え、次のモデルを提示する。14

インタラクションのマテリアリティ

ワイバーグはインタラクションのスレッドとコンピューティングのスレッドとの二つのループのなかで、「インタラクションの形態とマテリアリティ」が常に変化しているとし、ヒトやコンピュータという存在が変化するのではなく、インタラクション自体が変化していくと考えている。ここで注目したいのが、インタラクションのスレッドとコンピューティングのスレッドとのあいだで生じるインタラクションが、「マテリアル」だと考えられている点である。ワイバーグはソフトウェアのデジタル・マテリアルとハードウェアのフィジカル・マテリアル、さらには、電波などの非物質的マテリアルなどを区別なく扱い、そこから生じるインタラクション自体も「マテリアル」だとしていく。インタラクションのスレッドとコンピューティングのスレッドの二つのループにおいては、ヒトもコンピュータもインタラクションというマテリアルの部分に過ぎない。あらゆるマテリアルがインタラクションという別のマテリアルを構成するために循環している。

インタラクションのマテリアルはインタラクションのスレッドとコンピューティングのスレッドを受け止めつつ、常に変化していくことを示すかのように、ギザギザの形状をしている。ここで河合のアナログ映像の本質を「波」と指摘していたのを思い返してみると、インタラクションのスレッドとコンピューティングのスレッドがつくるギザギザのインタラクションのマテリアルは、ビデオ映像が視覚情報と聴覚情報を一つの波に統合していくようにかたちでヒトの行為とコンピュータの演算処理とがまとめられたものと言えるだろう。インタラクションのスレッドとコンピューティングのスレッドとが統合された「波」は、ヒトとコンピュータ、さらにはそれらを取り巻くあらゆるマテリアルを取り込みながら、デジタルでありながらもアナログのような連続的変化を伴うインタラクションが一つのマテリアルを形成していることを示しているのである。

ここで、〈データと視〉と〈データと触〉を、ワイバーグのモデルに当てはめて考えてみたい。通常は、〈データと視〉はコンピューティングのスレッド、〈データと触〉はインタラクションのスレッドに対応していると言えるだろう。〈データと視〉と〈データと視〉とはループしながら、一つのマテリアルをつくる。普段は、その中でノイズが除去されて、純粋なマテリアルがつくられていく。それは波がないサーフェイスだと言えるだろう。しかし、グリッチでは〈データと触〉がコンピューティングのスレッドの中に「手」を突っ込むようなかたちで、データに触れていく。その結果として、マテリアルがつくる歪み=波ができる。そして、波ができるとそこにはサーフェイスから連続するかたちのバルクが現れる。もともとサーフェイスはバルクとともにあったのだが、波がない状態では、サーフェイスしか見えなかった。それは、Illustratorで「線」が黒、「塗り」が「グレー」の直線を描くと、そこに黒い直線だけが描かれる状態に似ている。直線に対して「パスの変形」を行い「ギザギザ」をつけると、そこではじめて「塗り」のグレーが現れる。この「塗り」の部分がバルクに相当する。バルクとサーフェイスとが構成する「波」が「インタラクションのマテリアル」なのである。

〈データと視〉と〈データと触〉のフィードバックループ

記録デバイスの処理によって一旦離散化した情報は、コンピュータの中で、デジタルデータの条理によって現実とはまた別の連続性を強制されている。たとえば、「このピクセル情報とこのピクセル情報は同値であるので、2個のものをひとつとしてより少ない情報量で保存する」というように。このとき、コンピュータの中には、現実世界のリニアさとは全く別のリニアさが発生していると言いうる。フレームは前後のフレームを参照したその差分のみを保存し、ピクセルは他のピクセルたちと結合状態となる。これが圧縮である。下部のモニタが溶け出しているのはそのためであり、グリッチとはそのように、離散の向こうで行われたデジタルデータの条理を暴き出すのである。

こちら側に現実の条理があるとすれば、あちら側にもデジタルデータの条理がある。モニタとは、そのふたつの条理の媒介として存在している。そこには背中合わせになった2つの世界が映し出されている。15

河合はビデオアートの分析から、「アナログなデータの逸脱へと向かうフィードバック、そしてそこにあらわれる脱情報化への眼差し」を求めるが、ucnvの作品はデジタル化したデータを再度「アナログ」のように扱っている。それは、〈データと視〉のフィードバックにタッチパネル以後に顕著に現れてきた〈データと触〉のフィードバックを入れ込んで、多重化したフィードバックを受け止め続ける波状のマテリアルをつくることである。「現実の条理」と「デジタルデータの条理」というふたつの条理は、普段は密着して一つのサーフェイスに収まっていているように見える。しかし、データに正確に触れ続けることで、サーフェイスがノイズを巻き込んで歪んでいき、「現実の条理」と「デジタルデータの条理」とが互いの領域にはみ出していき「波」が生まれる。それは、デジタルで離散化している〈データと視〉と〈データと触〉とが互いの領域にはみ出しつつ形成する「波のようなマテリアル」というアナログを模した連続体なのである。そして、「波のようなマテリアル」では、歪みのない平面では見えなくなっていたサーフェイスとその奥にあるバルクとの連続性が現れるのである。

ucnvが個展「二個の者が same space ヲ occupy スル」や個展「Volatile」で示す正常の映像とグリッチの映像の並置は、〈データと視〉と〈データと触〉とのあいだにつくられる「波のようなマテリアル」の二つの状態を示していると言える。正常な映像は、見るヒトのためにノイズが除去された凪いだ状態であり、グリッチは〈データと視〉と〈データと触〉が互いにはみ出し出して荒れた状態なのである.それらは別々の何かに見えるほどに異なる映像になっているけれど、「波のようなマテリアル」を構成しているバルクとサーフェイスとの連続体が示す別の状態なのである。

次回は、〈データと視〉と〈データと触〉のループからバルクとサーフェイスとの連続体がつくる「波のようなマテリアル」の可能性を考えるために、引き続き、ucnvの《Volatile》の「光るグラフィックス展2」ヴァージョンとグループ展「フィジークトス」に出品された《U1:Supercritical》を考えていきたい。

参考文献・URL

  1. ucnv個展「Volatile」、https://www.iamas.ac.jp/activity/ucnv-volatile/、2019年(2019年5月12日アクセス)
  2. ucnv「二個の者が same space ヲ occupy スル」をめぐって」、https://note.mu/ucnv/n/n58420fc45ee3、2018年(2019年5月12日アクセス)
  3. 河合政之『リフレクション───ヴィデオ・アートの実践的美学』、水声社、2018年、31頁
  4. 同上書、33頁
  5. 同上書、34頁
  6. 同上書、38頁
  7. 同上書、81頁
  8. 同上書、91頁
  9. ucnv「Turpentine」、https://ucnv.org/turpentine/turpentine.pdf、2014年(2019年5月12日アクセス)
  10. Kenneth Goldsmith, Uncreative Writing, Columbia University Press, 2011, p.11.
  11. Ibid., p.16
  12. 河合、97-98頁
  13. ucnv「Turpentine」
  14. Mikael Wiberg, The Materiality of Interaction: Notes on the Materials of Interaction Design、 MIT Press, 2018, Kindle Edition, Chapter 6
  15. ucnv「二個の者が same space ヲ occupy スル」をめぐって」

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 4

MASSAGE&ゲストで、4月の音楽リリースをふり返る。

S=Yusuke Shono, C=Chocolat Heartnight, TN=Noriko Taguchi

AH, DOCKA MORPHER – RAFT OF TRASH

Raft of Trashは、環境との対話による自然のリズムとサウンドシステムにインスパイアされた活動を行う、Thom Isom、Andrew PM Hunt、JC LeisureによるMIDIコラボレーションプロジェクト。都市開発シミュレーションゲームであるシムシティ3000で使用されているサウンドトラックを使用して、即興的に絶えず変化するライブのMIDIデータを生成する。前作「Grouw」で即興的に作り出された、4つの「ゾーン」(楽曲)は、今作の5つのゾーンに引き継がれそのユートピア的なニュアンスを奏でている。非生命の存在がささやきあうような響きは人工的なそれではなく、どこまでも有機的。身を委ねたくなるソフトな電子音の流れが心地よいランダムネスの中に溶けて、複雑な対話を重ねながら入り組んだ模様を次々と紡いでいく。人間中心的な視線から解放された自由を獲得したその響きは、どこまでも広がっていく生命的なディテールを持っている。テクノロジーから自然へというグラデーションを描きながら、人間の不在の可能性を描き出したこのアルバムはまた、エコロジーへの意識を高めるツールとして音を使用することについての進行中の対話のための実験でもある。すべての収入はプラスチック汚染の分析と調査の活動を行っている非営利団体5 Gyresに寄付されるとのこと。(S)

SOUNDWALK COLLECTIVE – WHAT WE LEAVE BEHIND / JEAN​-​LUC GODARD ARCHIVES

例えば、混雑しない程度に人がいるカフェテリア、決まった順路などなく人々が歩き回ったり座ったりしている美術館。適度にざわついていて、みんなそれぞれのことをやっていて、誰もこちらのことなど気にもとめていない。そういった場所では遠慮なく存在していられると感じる。お互いの存在を意識の端に置きつつも、特にそれに対して何かする必要もない。ただ同じ時間に同じ場所に存在しているという事実がそこにあるだけだ。『WHAT WE LEAVE BEHIND / JEAN​-​LUC GODARD ARCHIVES』を聴いていると、そんなざわめきの中に入ることができる。ひどく疲れていたり、気分が沈んでいたりして、聴きたい音楽もない。そんなときも、この「色を持った音」は雑踏のように私たちを包んで、放っておいてくれるだろう。(C)

wai wai music resort – WWMR 1

wai wai music resort。ワイ ワイ ミュージック リゾート。そのサウンドがどんなものなのか、この名前からうまく想像できないかもしれない(少なくとも私はそうだった。そして、それは彼らの狙いどおりなのかもしれないとも思う)。アルバム『WWMR 1』のアートワークは白地の真ん中に刺繍で描かれた海と木々。南国にも見えるし、日本のどこかにも見える。空の色は日暮れのような、明け方のような。音を聴いてみると、リゾート感あるポップサウンドながら、ほど良く温度は低め。ビル街の天気雨、常時接続でない電子メールのやり取り、夜の車の中で聴くFMラジオ。そこには、ぼんやりとした輪かくを探りながら旅という非日常に寄せる期待と日常にまぎれたリゾートが静かに広がっている。(C)

Future Proof : 面向異日 – in city stone

〈Future Proof : 面向異日〉ことLars Berryは、カナダ出身で台湾在住のアーティスト。同名のレーベルを主宰し、別名義Colour Domesとしても楽曲を発表している。「in city stone」は、台湾を拠点に活動するレーベル〈swivelized sounds〉よりリリースされた。また、アルバムの2曲目「iandu」は、ドイツはベルリンのレーベル〈NO DISK〉のインスタグラムにて映像3部作品として公開されている。映像は、Ferox Neutrino (Radiant Silver Labs)とColour Domesによるもの。連続的に細かく配置された電子音に艶やかな残響音、金属音、ノイズ、人の声が折り重なり、静けさの中にどこか人の気配が残り、アンビエントな景色が広がる。このアルバムを深く聴くと、音のマイクロカルチャーが見えてくる。フラクタル図形の一つの海岸線のように、細部を見ようと近づけば近づくほど複雑で同じ形状が続いている。空虚な巨大企業のビルを見上げながらヘッドホンで聴きたくなる音だ。アルバムのタイトル「in city stone」はまさに都市を構成するものだ。有機化合物は含まれていない。トラックはおそらくグループリスニングには向いていない。人目につかず物思いにふけるのがいい。またトラックは手術後、誤って患者の体内に取り残された医療機器を追求している。患者は異質な医療機器が体内に残存する状態で、金属探知機を避けて歩き回るしかできないのだ。廃墟や建物、体内に残された医療器具のように、使用されずそのまま放置され朽ちて崩壊していく虚しさやその過程の奇妙な光景を描いているのかと深く考えたくなるが、この映像を見て彼の母が言った「何か気になるわね…。」が正解なのかもしれない。(TN)

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 3

MASSAGE&ゲストで、3月の音楽リリースをふり返る。

N=Shigeru Nakamura, TN=Noriko Taguchi, C= Chocolat Heartnight, S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, I=Hideto Iida,

Midori Hirano – Mirrors in Mirrors

Midori Hiranoは、ドイツはベルリン在住の音楽家/コンポーザー/プロデューサー。別名義でMimiCofとしても活動している。「Mirrors in Mirrors」は、オーストラリアはメルボルンを拠点とするレーベル〈Daisart〉より、以前本誌のMONTHLY REVIEWで取り上げたNico Niquo (https://themassage.jp/massage-monthly-review-9/)に次ぐ2作目のアルバムとしてリリースされた。これまで、ピアノや弦楽器、声、フィールドワークなど多彩な音と電子音を構造的に作り上げた作品や、MimiCofでは電子音楽を中心とした作品をリリースし、ポスト・モダン、アンビエント、エレクトロニカの新しいかたちを体現している。本作はピアノを中心とし、電子音が光を紡ぎ模様を織りなすアンビエントな世界観が美しい作品。まるで息づかいが聞こえそうなテクスチャーで、力強くもやさしいピアノの旋律と、光のように繊細で時に鋭い電子音や丁寧で美しいシンセサイザーが凛とした音響を作り出す。タイトル「Mirrors in Mirrors」のように、合わせ鏡に映る自分を見た時に覚えた、限定された視覚空間に存在する色や光のプリズムによる奇妙で美しい情景を、新鮮でどこかノスタルジックに描いた作品。(TN)

Local Visions – Onerionaut

2018年3月25日にコンピレーションアルバム『Megadrive』でスタートしたレーベル〈Local VIsions〉。ちょうど1年後の今年3月25日に再びコンピレーションアルバム『Oneironaut』がリリースされた。参加アーティストは17組から21組に増え、これがそのまま昨年1年間のレーベルの広がりを表わしているといえるだろう。これまでに作品をリリースしたアーティストから、これからのリリースを期待させるアーティストまで、その幅はひとつのジャンルには収まらないほどに広い。それでいて、やはり1枚のアルバムとしてのカラーがある。アルバムタイトルの“oneironaut”は「これは夢だと自覚しつつ夢の中を旅する人」を意味する。リアルワールドへとどんどん広がっていきながらも、どこかそれもすべてインターネットという夢の中だとわかっているような〈Local Visions〉がoneironautそのものなのかもしれない。彼らと一緒なら、私たちもoneironautになって夢の中で遊ぶことができる。そして夢と現実は溶け合って、徐々にあいまいになり、その境界線がなくなる……そんな日もそのうちにくるのだろう。(C)

雨田光平、SUGAI KEN – 京極流箏曲 新春譜

「京極流箏曲 新春譜」は、彫刻家/京極流2代目宗家 筝曲者/ハープ奏者の雨田光平が、昭和30年頃に青木繁が描いた神々のイメージを創作源に作曲したもの。本作品は、昭和45年に自主制作LPのために琴、笙、ハープを含めた6名で合奏・歌唱して収録したものと、日本古来の美や伝統芸能・民族芸能を電子音楽に昇華する音楽家SUGAI KENによるリワークが収録されており、大阪のレーベル〈EM Records〉よりリリースされた。かすかな心覚えをたどって聴くと、ハープと箏の音色が生み出す不思議な質感の倍音や、雅楽風の調弦や奏法を超えた古の明るく美しい世界観に心が洗われる。
一方、SUGAI KENのリワークは、暗くうっすら光が入る空間でどんどん物語が展開されていく。静けさ中に広がるけだるいリズム、縦横無尽に走る電子音や和の気配を纏ったフィールドレコーディングの群れたちが現代に「新春譜」を紐解き、聴こえないはずの演者同志の間合いや音の余白を体現している。終盤のモールス信号にはどんな意味が込められているのだろうか。(TN)

Joni Void – Mise En Abyme

モントリオールを拠点とするフランス人ミュージシャンJoni Void。哲学者メルロ・ポンティなどが知覚を主題とした現象学の思考を音的に解釈して、マイクロサンプリングや偶然を用いて試みた作曲を行なっている。音楽を聴くということ自体すでに聴覚的には受身であるのだが、このアルバムを聴くたび印象を忘れていることに気づき、一つの複雑なストーリーに入り混むように聴きなれない音を耳にしている。シュールレアリスムの系譜も色濃いアートワークは音とも親和性を感じる。(I)

N1L – CONTENT METASTASIS #2

ヴィジュアル&サウンドアーティストのMartins Rokisのプロジェクト、N1Lのミックステープの第二弾。波のように打ち寄せる混沌としたハーモニクスにより、想像力を刺激する未視感にあふれた世界像が描き出される豪快な電子音響作品。ダンスミュージックのスタイルを基底に敷きながら、その奥でさまざまな文脈が交接させられていく。そのレフトフィールドな感性が描く世界観は未来的だが、どこか叙情的な暖かみもたたえている。さまざまに織りなされる多様なサウンドはゆらぎやランダムネスによってより抽象的な形をなし、さらにその複雑性の中に自らを溶解させて、より自然の形に近くなっていく。そのテクスチャーへの複雑性の追求は、近年のモードと言っても良いだろう。都市文化の混沌とした人工の中に生成するその複雑性は、わたしたちにとって住心地の良いヴァーチャルな自然である。そこには 野性的でプリミティブなレイブによる高揚も、潜在的に胸に響く直感的で肉体的な快楽も、心休まる静けさすら存在している。(S)

竹間淳 – Les Archives

以前RVNG Intl.のオーナーのマットが来日していた時、今度サブレーベルから日本のレアなアヴァンギャルド作品を再発するよと彼から話を聞き、それから約1年半リリースを心待ちにしていた作品。
アラブ古典音楽の演奏家として現在活動し、ボンバーマンなど数々のサウンドトラックを手掛けた作曲家としても知られる竹間淳が1984年にソロ名義で発表したLP『Divertimento』。この『Divertimento』の収録曲に新たに3曲を追加し、アートワークを再編したリワーク作品『Les Archives』が〈Freedom To Spend〉からリリースされた。デジタルアーカイブ化が隅々まで浸透した現在でも、得体の知れない作品をサルヴェージしてくるここのレーベルの姿勢と野心には毎度感服させられるが、これまでのカタログのなかでおそらく最も知名度が低く(ネット上の情報の寡少さから察するに、オリジナル盤の存在はこれまでほぼ共有されてなかったはず) 、また音楽性としても異端な作品だと思う。ビートの機械的な反復とポリメトリックなフレーズを軸に、ポップスやフュージョン、ニューウェーブやインダストリアル、プロトテクノといった様々なジャンルを技巧的に組み直した、クロスオーバーな様式を一見装いつつ、同時にそれぞれの音に対して付随する情感やイメージがまるで疎外されているというか、妙に矛盾した響きが全体に通底している。それは例えるなら、大音量で鳴り響いているが「激しく」はないメタルミュージック、あるいは静謐な音色だが「静けさ」が立ち込めていないアンビエントミュージックのようで、「〜的」な恣意の意味作用が無効化された音がそのまま即物化し、その都度コンテクストが独自で生み出されていくようなもの、といったらよいか。海外メディアのインタビューを通して、彼女は自らの作品を「絶対音楽」と形容していて、それは近代の標題音楽に対するアンチテーゼ、つまり記号の還元化を拒み、音の形式や秩序そのものが存在定義を成す音楽を意味するのだが、いくばくかの時間が経過した現代において、フォーマリズムから端を発した彼女の音楽は、もはやそのような二元論的な対立を軽々と跳躍してしまいフラグメンタルな形を増強させ、肯非の入り混じったフェティッシュな戯れと誘惑を成しているように聴こえてくる。そのいびつな「遊戯性」に関しては、収録2曲目のタイトルが示す「Pataphysique」(パタフィジック)という、詩人のアルフレッド・ジャリが作り上げた造語とその概念にも大いに通じているのだが、それに関しては、オリジナル盤に同封されているライナーノーツの素晴らしい解説を一部抜粋してここに載せておく。
「ジャリが、この素敵な造語をもって、とりすました「形而上学」なるものを嘲笑したように、竹間淳も、音楽の分野での、頑迷なアカデミズムと軽薄なポピュラー・ミュージックという両極ファシズムの恐るべき支配を、研ぎ澄まされた聖なる悪意を持って、徹底的に茶化しているのだ。(中略)このモダン・ミュージックのジャリは、自分の音楽だけにどっぷりと浸り込んでいるのでなく、透徹したイロニーというスタンスをもって、音の「PHYSIQUE」を超えていく。(中略)あたかも蝶のような「パタ」の姿勢、つまり「PHYSIQUE」の強固なクロチュールからほんの心持ち身をずらすことで、彼女は幾重にも張り巡らされた罠の中から逃れさっているのだ。」
(ちなみに今回『Les Archives』の文を担当したのはアーティストのナタリア・パンツァー。彼女の丁寧な言葉遣いもとても素敵で、こういう自由なセレクションも含めて良いレーベルだな..としみじみ思ってしまった)(T)

Meitei – Komachi

アンビエント・ミュージックにおいて「環境」がどのようにとらえられているのかという視点は、その分析における一つの有効な視点である。特定の場所や環境についてその姿を描くようなものであったり,異次元・異空間のような新たな環境を作り、提示するものであったり「環境」をどのようにとらえるかには様々なアプローチがある。広島を拠点とする作家であるMeitei(冥丁)による最新作がリリースされた。彼のアンビエント・ミュージックの作家としてのアプローチ,つまり「環境」を捉える際の彼の視点は日本という「環境」を、過去を参照しながら(つまり時間という縦軸を基礎として)描こうとするものだ。
一聴すれば、それ自体は柔らかなアンビエントと形容されるだろう。音は全体を通して一貫している。プレスリリースにはJ Dillaの名も出ているように、ゆったりとしたタメのあるリズムがループしていく様はビート・ミュージックとして魅力をもち、出たり入ったりをくり返す様々な音や水の音などが聴き手のテンションを高く上げすぎることなく、一定の熱量を保っていく。チルアウトにも最適な、夜のさざなみのような美しさがある。
このような音像はMeiteiが取り上げる今作のテーマと結び付くことでさらに深みをましていく。彼は「失われた日本の空気」に注目したと紹介されているが、これはつまりは既に無くなっているものであり、彼の楽曲は亡失(≒忘失)の感覚を与えるものとして捉えることができよう。Meiteiの音楽が迫ろうとするものは日本のどこからかかき集め、こじつけたような現在進行形の「すごさ」ではない。彼が取り上げるのは本邦において既に失われた何かであり、その中には我々の先祖たちが想像力をもとに描いてきた「怪」や「幻」が含まれる。ここには文明の発達が妖怪の存在を消し去ってしまったと主張した水木しげると同様の、忘失への嘆きがあるようにも思えてくる。明治の文明化以降に様々なものが失われてきた中で、我々はそれを進歩と呼べるのだろうか…という水木の問いは大げさに聞こえるかもしれない。しかし、Meiteiの音楽がメタ・メッセージとして持つ(もしくは機能する)ものは我々のルーツへの視点であり、進歩史観とは無縁である。我々が失いつつ、しかしどこかにその感覚を残しているようなものへの視点が基礎となっている点でアンビエントというよりもフォーク・ミュージックと言ったほうが適切なのかもしれない。
日本という看板を背負わせ、欧米をはじめとした外側への回答のように考えることは日本と海外、つまり内外のどちらの側にもある種の特権的な意味づけをしかねない。海の向こうのきらめく文化に対して、この島国の文化の「すごさ」「独特さ」をアピールすることは安易なナショナリズムにも結び付き得る。マイルドで優しい「日本(的なもの)」を喜ぶポジティブな気持ちで結び付く、ナショナリズムを掻き立てられた者どもをすり抜けるように、失われてしまった幻によって立ち上がってくる「環境」を描いている。あまりにも遠くなり、おぼろげに揺れる蜃気楼のような環境である。(N)

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 2

MASSAGE&ゲストで、2月の音楽リリースをふり返る。

T=Kazunori Toganoki, C= Chocolat Heartnight, S=Yusuke Shono

SAM ASHLEY & WERNER DURAND – I’d Rather Be Lucky Than Good

数年前にジョン・C・リリーの本を読んだのがきっかけで、興味本位でアイソレーションタンクを体験しに行ったことがある。場所はたしか白金台の普通のマンションの一室で、自分より先に予約をしていた連れから、担当の人の眼の瞳孔が終始開いているのが恐ろしくて、説明を受けたところで適当な理由をつけて帰ってしまいました、と連絡があったので、若干の警戒心を抱きつつ施設を訪れたのだが、その瞳孔の開いた人がLSDについて熱く語る以外は特に何もなく、2時間ばかりタンクを堪能した。外部からの刺激が完全にシャットアウトされた状況で、高濃度の塩水に浸かって何もせず体を浮かべるのだが、期待していたような深い瞑想状態に突入したり、スピってありがたい声が聞こえてくることは最後まで起きず、ただ肉体の表面と塩水の境界線が曖昧になってきたころから変化が生じはじめ、心臓音や呼吸の鼻音や、聞いたことのない内臓の動く音が徐々に増幅されて聞こえるようになり、内側の身体活動の様子が音でライブ中継されているみたいだった。あとは時間が進むのが異常に遅く感じるせいか、時間の流れが対象化されていったのも覚えている。タンクで体験できる内容は人によって千差万別らしいが、個人的には、身体にくっついた意識をそこから剥がして何が起きるのかをモニターする、ひとつの臨床実験みたいだった。
アメリカの作曲家/サウンドアーティストのサム・アシュリーは、ヴォーカリストとしてロバート・アシュリーのオペラ作品に長年にわたって参加し、またその他のLovely Music周辺の実験音楽家達と様々なコラボレーションを重ねてきた経歴を持ちながら、生涯にわたって独自のシャーマニズムを追求し続けてきた神秘主義者でもあり、ソロ活動では自身の思想や見識を反映させたユニークな音響作品を発表してきた。彼に関する文献がネット上ではほぼ見当たらないため、その思想の詳細を伺うことはできないのだが、ルクレシア・ダルトとの興味深い対談インタビューによると、アシュリーは、幻覚や催眠状態、シンクロニシティといった人間の身体に生じるトランス現象を知覚拡張の手がかりとして重要視する一方で、古典的な宗教的信仰の価値観やそれにまつわるイメージ(光や神からの啓示など)をすべて否定している。到達不可能なエリアをあらかじめ設定し、そこに位置する絶対的な他者を崇拝することは、自らの超越の可能性を放棄し、単なる自己満足的な行為に留まってしまう。代替者としての絶対的存在を据え置くのではなく、自身が主体となる以外に外部との関係を更新することはできない、とリアリスティックかつラディカルな視点から神秘的な現象を現代的に捉え直し、その姿勢を表現行為上で実践してきた。
〈Unseen Worlds〉からリリースされた、サム・アシュリーとウァーナー・ドゥーランド共作によるスポークンワード作品『I’d Rather Be Lucky Than Good』でアシュリーは、ドゥーランドによる民族音とドローンを織り交ぜた不穏なサウンドを背景に、世界中の不可思議な物語や寓話を紡いでいく。マニフェスト・デスティニーやカニバリズム、架空の生物に遭遇した人物の話など、大小様々な歴史上の悲劇や出来事を、時間と空間を超えて自在に結び合せ、人間という種に本来備わる脆弱性、脆弱であるがゆえに余地として残された超越世界の可能性を、音とともに浮かび上がらせる。その言葉には、変性状態に似たアンビエンスが立ち込めている。眠りながらにして目覚めているような催眠的な気配のなか、しかしアシュリーの言葉はあるひとつの明瞭なメッセージを私たちに暗示している、「この世界が存在するためには、関係を形成しようとする私達の意思と指向性がなくてはならない」と。
ちなみにジャケットデザインを手がけたのはベルリン在住のSam Lubicz。ここ最近のアートワークは、病理めいたコラージュに拍車がかかっていて最高です。
(T)

Gimgigam – The Trip

まだ寒い2月にリリースされたGimgigamの『The Trip』は、ジャケットのイメージそのままのサウンドに暖かい季節が待ちどおしくなるアルバム。1曲ごとに少しずつ曲の持つ空気は変化し、さまざまな国のリゾート地を訪れる贅沢な旅をしているようにも感じられるので、実際にこれからのシーズンの旅行に携えていって、車窓から眺める景色や歩きながら目に入るものを観ながら楽しむのもいいし、あるいは、ジャケットのイラストそのままにホテルの部屋やプールサイドで聴くのも最高だろう。けれど、あえて日常の中で聴くのが一番いい気もする。今いる場所からトリップしてしまえるだけでなく、きっと時間までタイムスリップして、不思議におもしろい感覚を味わえるのではないかと思うから。(C)

Yolabmi – To Nocturnal Fellows

Yolabmiは東京在住のインダストリアルやダブといった楽曲のリリースやライブ、またコラージュなどのヴィジュアルワークも手がけるコンポーザー。「To Nocturnal Fellows」は、ロシアを拠点に活動するArthur Kovaløvの主宰レーベル〈Perfect Aesthetics〉からリリースされた、抽象的なアンビエント的な感触を持つ作品。ダブステップのような硬質で荒れたテクスチャーを持ったその音響の、延々と続く崩落を眺るような催眠的な心地よさが、破壊と再生を縫うように絶妙なバランスで続いていく。退廃的なロマンティシズム、そして未来というより旅の途中に撮られた個人的な1枚の写真、あるいは荒涼とした見知らぬ国で撮影されたモノクロ映画のような、独特の寂しさを持つ作品。暗く孤独な奥に横たわる、その深くゆったりとした共鳴の世界に身を沈めたい。(S)

山形一生 連載 第0回 水色のぷにぷに

ポストインターネットアート

Text: Issei Yamagata, Title image: Inoue

全5回を予定とする本連載は、「ポストインターネットアート」と呼ばれる芸術作品を考察していくものである。第0回となる本稿では、「ポストインターネットアート」を論じるにあたって、その名前に付随する「ポストインターネット」という概念について検証を行う。そして「ポストインターネットアート」が、いかにしてインターネットと関連しているのかを論じる。

続く第1回では、「展示記録」について考察する。ここでは、発表された展覧会や芸術作品を写真によって記録することや、ウェブ上に公開すること、図録となることなどが論点となる。というのも、筆者は「展示記録」というものが「ポストインターネットアート」を理解するための重要な手立てになると考えているからだ。

第2回以降では、それまでの議論を引き継ぎながら、アートブログ、作品画像の流通、スクリーンでの作品鑑賞などの諸問題から「ポストインターネットアート」を考察する。それら要素が私たちと芸術にどのような影響を与え、「ポストインターネットアート」と呼ばれるに至った芸術作品を生んだのかを論じ、第5回をもって連載を終えるものとする。

はじめに

「ポストインターネット」という概念は芸術だけでなく、ビジネスやファッション、音楽などのひろい分野で用いられ、それぞれの文脈において様々な意味が付加されてきた。こうした用語の乱用は、「ポストインターネット」という概念の利用に対する忌避感を与えるのみならず、インターネット世代、デジタルネイティブなどの世代区分と同様、特定の世代に共有された空気感のような曖昧な意味で用いられることもあった。そのような状態は、一部の批評家やキュレーター、アーティストたちの、この概念に対する辟易にもつながっている1。それは、この概念の持つ意味が曖昧にも関わらず、漠然と意味が共有されたかのような錯覚を生み出していることに起因すると考えられる。

筆者もまた、「ポストインターネット」という概念そのものの有用性を無批判に支持するわけではないにせよ、忌避感が先立ち漠然と議論が避けられているように思われる昨今の状況については残念に思う。たしかに「ポストインターネット」という概念は、バズワードとして広範に用いられたことよって、様々な誤解や議論のすれ違いの原因になっているという点で多くの問題を抱えているのは事実だが、この問題が直接「ポストインターネットアート」と関連付けられる芸術作品自体の問題へと直結すると考えるのは早計だろう。後に記述するが、そこには名称とカテゴライズに伴う問題が横たわっている。すなわち、「ポストインターネットアート」が、その着想において「ポストインターネット時代のアート」という意味であったとしても、実際に「ポストインターネットアート」と呼ばれるような個々の作品は、「ポストインターネット」状況から直接的に説明できるものではないということだ。(さらにいえば、もし「ポストインターネットアート」がそのような意味で用いられているとすれば、現在生み出されている芸術作品はすべからく「ポストインターネットアート」だということになってしまう。)

先に断っておけば、本連載は、「ポストインターネット」自体について検討するものでは決してない。そうではなく、2000年代後半から現在に至るまで発表され続けている「ポストインターネットアート」と呼ばれる芸術作品を対象に、その傾向や問題についてを考察していくものである。願わくば、単なる流行遅れの言説として排除したり、世代論として秘教化するのでもなく、「ポストインターネットアート」をめぐる議論が開かれたものになればと考えている。当連載が目指すものはそこにあり、その一助となることを願っている。

1. ライター、翻訳家、キュレーターであるブライアン・ドロイトクールは「ポストインターネットアート」という概念にしばしば強い拒否感を示しており、以下のように論じている。「ほとんどの人にとって「ポストインターネット」と大声で言うことは恥ずかしいことだろう。しかし、現代の美術において書かれる言葉の大半はそれであり、「ポストインターネット」は、人々がそれを言い続けるほど効率的なアートの仕事をしており、〔人々は〕困惑している。(…)人々がそれを気に入っていようが、嫌であろうが、無関心であろうが、今日の「ポストインターネット」が何を意味しているかを知っているようでありながら、十分にそれを説明をすることはできない」(Brian Droitcour「The Perils of Post-InternetArt」 [2019年3月にアクセス]) 並びに、「ポストインターネットアート」が語られる際、論者によっては「ニューメディアアート」として記述される場合もある。

芸術理論でもなく、メディア論でもない「ポストインターネット」

「ポストインターネット」という概念の利用は2008年前後からみられ2、その当時は批評家でありアーティストでもあるマリサ・オルソン3と、アートライターのジーン・マクヒュー4を除いて、多くの人々はこの概念を扱ってはいなかった。しかし現在では多くの展覧会や論考においてこの概念を利用した発表が行われるようになっている5。この「ポストインターネット」という概念は、2008年にオルソンのインタビュー6で初めて使用され、「人々はもはやオンライン/オフラインの区別をしな」いで、「〔メディアの存在を〕意識をせず〔グーグルで画像検索し、そのまま流用するように〕インターネットを扱うようになった」と彼女は指摘する。しかしオルソンはこの概念の定義や意味をしばしば拡張して用いており、2011年以降においては「インターネット〔の登場〕以降」という広漠な定義で用いている7

一方でマクヒューは、彼が執筆するブログ8のタイトルとして「ポストインターネット」の議論を引き継ぎながら、「インターネットがプログラマーやハッカーなどの領域になることをやめ、コンピュータに関する特別な関心や知識がない人々の日常生活の不可分となったとき、インターネットは変化した」9と論じている。

  1. 2. 初出の年号に関しては文献ごとに揺れがある。マクヒューの「Post Internet」(Gene McHugh「Post Internet」LINK Editions,2011年)では2007~9年にオルソンが扱い始めたと記述があるが、オルソンが「ポストインターネット」と発したことで有名なブログの記事そのものは2008年となっている。また、ブライアン・ドロイトクールは2009~2010年に当概念を発見し、その当時においてもオルソンとマクヒュー以外の人物は使ってはいなかったと記述している。本稿ではオルソンのインタビュー記事の発表に従って2008年からと記述する。並びに、日本国内では2014年にMassageとideaが特集を行い、2015年に美術手帖が大きく扱った。国外では、GoogleTrendsによると芸術カテゴリにおいて2011年8月ごろから検索がみられるようになり、2014年以降から連続的なものとなっている(googletrendsにて、地域をすべての国、芸術カテゴリ、「Postinternet」「Post-Internet」で検索)。日本では検索結果の顕著なグラフが現れておらず判断がしにくいが、芸術関連よりもネットワーク関連技術の記事の中で先に多く用いられたことがわかる(googletrendsにて、地域を日本、芸術カテゴリ、「ポストインターネット」で検索)。
  2. 3. Marisa Olson:1977年ドイツ生まれ。美術批評家、アーティスト。2006年に複数のアーティストが運営するコミュニティブログである《Nasty Nets》の設立初期メンバーとして知られる。
  3. 4. Gene McHugh:アートライター、アーティスト。ブルックリンを拠点とし、ArtforumやRhizomeなどに寄稿。
  4. 5. 『Art Post Internet』,2014年3月1日〜5月11日,ユーレンス現代美術センター セントラルギャラリー,北京,中華人民共和国
  5. 6. We Make Money not Art「Interview with Marisa Olson」 [2019年3月にアクセス]
  6. 7. オルソンは「ポストインターネット」を、インターネットを使用して作られた芸術、そしてネット上の検索という行為も制作として考えられるといった内容を述べている。(Gene Mchugh「Post Internet」LINK Editions,2011年)
    しかし、今の時代においてインターネットを用いないほうが稀であるため、技術の使用状況によって区分することは難しいだろう。彫刻家であれ、ペインターであれ、今日では誰もがインターネットを使用している。
    また、日本国内で行われたポストインターネットの議論に関しては、2012年に行われたICCでの座談会「『ポストインターネット』を考える(β)」(ICC「座談会「『ポストインターネット』を考える(β)」」 [2019年3月にアクセス] )ならびに美術手帖2015年6月号内の特集内にある水野勝仁の記述が詳しい。水野は定義の変化を以下のように論じる。「わずか3年のあいだにポストインターネットが強調していたネットとリアルの区別はもはや意識されることすらなくなり、インターネット以降の表現(が普及した状態)に対するラベルとしてポストインターネットが使われる状況になったのである」(水野勝仁「ポストインターネット用語20」『美術手帖2015年6月号 vol.67』美術出版社,2015年) ここで水野が論じた、ポストインターネットが使われる「状況」とは、哲学者であるLouis Doulasによる論考が参考となる(Louis Doulas,「Within Post Internet Part i 」,2011 [2019年3月にアクセス] )。
  7. 8. アンディ・ウォーホル財団の助成を得て1年に渡って執筆されている。
  8. 9. マクヒューのこの定義を参照する場合、「ポストインターネット」という概念の発足は、概念そのものが生まれた2008年からではなく、インターネットの一般化が大きく進んだ2000年代初頭頃からともいえるだろう。美術家の永田康祐は、ヴォルフガング・シュテーレの作品を論じた際、アレクサンダー・R・ギャロウェイが論述したインターネットに関する芸術を2つのフェーズにわけるという主張を引用しながら、「ポストインターネットアート」の発端を、2001年のテロ事件から見ることができるだろうと論じている。 (永田康祐「写真可能なものの政治性」『パンのパン03 たくさんの写真についての論特集号』パンのパン,2018年)

以上が黎明期における「ポストインターネット」という概念の扱われ方であり、研究や論考において言及される際には、この二者の考え方が始点となっている。そして、これらの論に共通することは、その指摘がインターネット自体の変化に関するものでもなければ、それが芸術にたいして直接的に及ぼす影響についてでもなく、インターネットによって変化せしめられた、ごく一般的な生活や社会のありかたに関するものであるということだ。すなわち、「ポストインターネット」にかかわる議論とは、芸術理論ではまったくない。さらにいえば技術論的なメディア論ですらない。ここで模索されているのは、インターネットを契機とした個別の文化における変容と文化分析に留まっている。

劇場としてのインターネット

筆者は、オルソンやマクヒューらによるこうした概念の利用を、芸術をはじめとする諸文化へ接続して用いることは困難と考えている。だが、今ではインターネットが電気や水道などの公共サービスと立場を共にし、意識せずとも使われるようになったという彼らの指摘は受け入れるべきだろう。この「ポストインターネット」という概念は2014年から世界的に現代美術の領域で利用され始め、近年では、World Wide Webを契機として1989年から現在(展覧会発表時においては2018年2月)までのインターネットに関する芸術作品を基軸とする展覧会10や、ミレニアル世代と呼ばれるインターネットと共に成長した人々と、その社会に何がもたらされたかを検証する展覧会11などの試みがされており、インターネットを歴史化するような試みが行われている。このような時代区分は議論の範囲を明確にする機能を果たす一方で、特定の世代による受容にその考察が集中したり、議論が特定の時代に収束する可能性を孕む。ここでは、ある世代のみに内面化された事象として語るのではなく、インターネットが私たちにどのようなことを与え、そして変化させたのかを考えたい。

  1. 10. 『Art in the Age of the Internet, 1989 to Today』,2018年2月7日〜5月20日,ボストン現代美術館,ボストン,アメリカ合衆国
  2. 11. 『I Was Rised On The Internet』,2018年6月23日〜10月14日,シカゴ現代美術館,シカゴ,アメリカ合衆国
  3. 12. 「ポストインターネット」が示そうとしたことは、こうしたインターネットの拡大による、ひとつの極点と考えることは出来るだろう。

インターネットは私たちのまわりにある様々なものを模倣し、インターネット空間へとインストールすることで、あえて誇張して言えば、世界になろうとしてきたといえるだろう12。かつてインターネットは、現実とは別にあるもう一つの世界としてサイバースペースとも呼ばれ、人々の没入の対象として存在していた。アカウントを作り、名前を付け、検索をし、お気に入りの画像をデスクトップ背景に設定して、フォルダ分けして、ゴミ箱に捨てて、投稿して、フレンドをみつけて、メッセージを送って、絵を描いて、アドレスを取得して、ホームに戻る。これら全ての活動は、現実の私たちの生活とはなかば切り離された仮想的なものとして行われていた。こうした活動がそれでもなお、リアリティをもって私たちに体験されているのは、インターネットの諸機能が私たちの活動に関連する隠喩として実装されているからに他ならない。これらの機能は、アンテナや電子回路、プログラム、各国の大規模なサーバー群、太平洋を横断する海底ケーブルなどの物理的な要素によって実現される一方で、画面上においては、アドレス、デスクトップ、ゴミ箱といったイメージを媒介として表現される13。そして、私たちはそれらが私たちの世界におけるアドレス(住所)やゴミ箱とは決して同一でないことに気づいていながらも、スクリーンに表示されるままのイメージを積極的に信じている14。私たちは、スクリーンの背後で行われることに関心を寄せることはなく、インターフェイスやイメージを、そのまま受け止め続ける。私たちとインターネットの関係は、そのような二重の態度で硬く結ばれてきたといえる。インターネットに関する議論においてしばしば挙げられるスクリーンやIoTの遍在化は、このような態度を自覚しないままに展開させる。このようなユビキタスなメディアは、私たちに絶えずなにかを見せ続けながら、同時に別のものを見えなくさせている。

Trevor Paglen,《NSA-Tapped Undersea Cables, North Pacific Ocean》,c-print,2016年

展示空間としてのインターネット

90年代から2000年代初頭におけるこうしたインターネットに関する議論は、インターネットと私たちの関係を明瞭に示したものだろう。サイバースペース独立宣言15からも理解できるように、かつてインターネットは現実世界とは隔離されたもう一つの仮想的な世界として扱われていた。そして、こうしたインターネットという世界を新たな芸術表現の場として利用したのが「ネットアート16」と呼ばれる芸術作品である。

  1. 13. ブレンダ・ローレル「劇場としてのコンピュータ」トッパン,1992年
  2. 14. 東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2」河出書房新社,2011年
  3. 15. 1996年2月、当時アメリカで成立することとなったインターネットの通信品位法に対し、アメリカの詩人であるジョン・ペリー・バーロウが当法案に反対すべく発表したもの。サイバースペース(インターネット)は現実とは独立した空間であり、統治されることなく自由な空間であるべきとした。

fig.1 – Olia Lialina《My Boyfriend Came Back from the War》ウェブサイト,1996年

fig.2 – ALEXEI SHULGIN《FORM ART》ウェブサイト,1997年

「ネットアート」のいくつかの作品において、スクリーン上のインターフェイスが作品を組織する主要素として扱われることがある。「ネットアート」を論じる際の代表的な作品であるオリア・リアリナの《My Boyfriend Came Back from the War 17[fig.1]は、ハイパーテキスト、白黒のビットマップ画像、そしてウェブブラウザのフレームといったHTMLの基本要素によって構成されている。画像やテキストに設定されたリンクをモンタージュのように扱いながら、フレームが画面を分割し物語が展開される。また、アレクセイ・シュルギンの《FORM ART》[fig.2]では、ボタンやチェックボックス、スクロールバーなどのウェブブラウザ上で操作されるインターフェイスによって画面が構成されている。この二者は、ユーザーがウェブサイトを閲覧する際、マウスカーソルによって操作可能なインターフェイスとして認識しているフレームやボタンといったものを、作品のイメージや主軸を担うものとして扱うことが共通している。

他にもブラウザ上でレンダリングされた画面と、その裏で働いているソースコードを利用したもの18や、(当時における)ウェブサイトの読み込み速度を表現の根幹とする作品19なども発表されている。先述した私たちのスクリーンとの関わりに対して、ここではスクリーンの背後で行われているものを顕在化する試みが行われているといえるだろう。「ネットアート」は90年代後半になるにつれ画像が多く用いられるようになり、後に映像やFlashを基盤とする作品も出始め、2000年代にはBBSやブログを作品とするものが現れるようになった。そして、これら「ネットアート」と呼ばれる作品の大半は、かつての私たちとインターネットの関係と同様に、現実空間と半ば隔離されて表現が行われてきたといえる20。「ネットアート」において、ウェブサイトは、表現の媒体として用いられ、鑑賞者自身のインターネット環境において鑑賞されることを前提に発表されている。ネットアートの議論において、ロシアインターネットアートシーン21におけるアーティストの地域性や、冷笑的な態度やミームの利用といった文化的傾向について指摘されることがしばしばであるが、まず根幹となることは、作品がウェブサイトに依拠して発表され、ブラウザを通じて経験されるということである。

  1. 16. 「ネットアート」と「インターネットアート」は同義のものであり、文献ごとに表記揺れがある。本連載ではRhizome.orgに従って「ネットアート」を使用していく。
  2. 17. 当作品は後に他のアーティストたちから多くのオマージュを生み出した。それらの多くはフレーム構造を利用したものが多いが、ガスリー・ロナガンの《My Burger Came Back From The War》はもはやタイトル以外に類似を見いだせないなど、ネットアートにおける一つの指標として今でも扱われている。(Guthrie Lonergan《My Burger Came Back From The War》website,2012年)
  3. 18. JODI《http://wwwwwwwww.jodi.org/》website,1995年
  4. 19. JODI《AUTONOMATIC RAIN》website,1995年
  5. 20. 「ネットアート」と現実世界の影響と関係における議論は、etoyの《Toywar》(1999)やLYNN HERSHMAN LEESONによる《THE DOLLIE CLONE SERIES》(1995-1998)、そしてTSUNAMII.NETの《ALPHA3.4》(2002)が挙げられるだろう。これらは現実の株価に影響を与えるものや、webカメラを通して現実の風景を窃視するもの、インターネットと現実の距離の関連などを問題に扱っている。
  6. 21. 1990年代半ば当時のロシアでは、商業や出版業界におけるアートシーンに反発的だったアーティストにとって、インターネットは有効な表現手段として用いられていた。本稿でも記載したオリア・リアリナを筆頭に、ロシア前衛映画を制作する若いアーティストたちの活動と相まって、「ネットアート」はロシアで独自の発展が起きていた。 (Rachel Greene「Internet Art」Thames & Hudson,2004年)

なにかをインターネットと呼ぶこと

「ネットアート」と「ポストインターネットアート」は、名称も相まって、地続きに発展した芸術活動であると議論されることがある。キュレーターのローレン・コーネル22は、「ポストインターネットアート」とは「ネットアート」という巨人の肩に乗りながら、その実践をギャラリー文化へと奪還するものであるという指摘をしている23

  1. 22. Lauren Cornell:1978年生まれ、キュレーター。ニューミュージアムのキュレーションやRhizome.orgの編集に関わる。
  2. 23. Karen Archey and Robin Peckham「Art Post-Internet」Ullens Center for Contemporary Art in Beijing,2014年

たしかに「ポストインターネットアート」と呼ばれる作品やアーティストは、「ネットアート」で行われたいくつかの実践と共鳴する部分はあるかもしれない。しかし、「ポストインターネットアート」を「ネットアート」と地続きに関連して論じることは些か早計だろう。それは「ポストインターネットアート」は決して「ネットアート」のように、インターネットおよびウェブサイトの特性を条件として制作しているわけでもなければ、ネット空間固有のものとして独立する作品の形態でもないからだ。むしろ「ポストインターネットアート」はヴァーチャル空間やインターネットスペシフィックといった要素は撤退し、現実と双方向に位置するような実践を行っている。それ故、従来の芸術表現である絵画や彫刻、写真およびインスタレーションといった形式で制作され、ホワイトキューブで発表することが標準となっている。あえていうならば、「ポストインターネットアート」は従来の芸術表現や現代美術の実践に近接し、ふつうに作品を制作して発表するようになったのだ、といえるだろう。
 
それ故、「ポストインターネットアート」とされる芸術を一括りに論じることは困難を極めている。冒頭で述べたように、「ポストインターネットアート」がインターネット以降の社会状況や技術によって生まれた作品であることは事実だろう。それら作品をインターネットという用語によって包み込むこと自体は可能であるが、そのパッケージは今では何の意味も成さない。インターネットは私たちの活動の大部分に関連するものであり24、インターネット自体を基軸として何かを論じることは茫漠な議論を招く危うさがある。私たちがインターネットを主題とした時、その議論の中心は街中に点在するディスプレイやスマートフォン、JPEG画像やスクリーン上のインターフェイス、TwitterやInstagramなどのSNS、AmazonやAlibabaなどであり、それらは確かにインターネットと大きく関連しているが、インターネットそのものではない。現在のインターネットは私たちの世界を覆う一つのレイヤーとなっている25

以上の状況から「ポストインターネット」やインターネットを主題とする展覧会では、インターネットが誘起した問題を複数に分類し考察する試みが行われた。流通、言語、企業的美学、インフラ、パフォーマンス、監視、ヴァーチャル、新しい身体、などが例として挙げられている26。北京で行われた「Art Post Internet」という展覧会では、カーチャ・ノヴィツコワ27やティムール・シーキン28といったアーティストは「ポストヒューマンボディ」として分類され、ジョーダン・ウルフソン29やサイモン・デニー30は「ブランディングと企業の美学」に分類される。たしかに、それら分類から考察することも可能であるが、アーティストたちは社会状況や技術の実践に呼応して複数の問題を横断的に扱っている。そのため、一重に括ることは早計であり、しかしインターネットを用いるにはあまりに網羅的になってしまうという問題が「ポストインターネットアート」を論じる際の懸念として横たわっている。

  1. 24. e-flux journal「The Internet Does Not Exist」Sternberg Press,2015年
  2. 25. アーティストのヒト・シュタイエルは以下のように述べている 「(・・・)インターネットはこれまで以上に力を増しています。それは活気だけでなく、これまでのどの時点よりも多くの人々の想像力、注意力、生産性を十分に引き出しています。これまでにおいて、より多くの人々がウェブに依存し、埋め込まれ、監視され、そして搾取されたことはなかったでしょう。それは圧倒的で、目まぐるしく、すぐの代替はありません。インターネットはまず間違いなく死んでいないでしょう。それはむしろオールアウトとなった。より正確には、オールオーバーだ。(・・・)インターネットはどこにもありません。ネットワークが指数関数的に増えているように見える今日でも、多くの人々はインターネットへのアクセス権を持たなかったり、まったく使用していません。それにも関わらず、インターネットは別の方向へと拡大しています。それはオフラインへ移行し始めました。(・・・)周りを見てください、街全体がYouTube CADチュートリアルのふりをしているように、頬骨はエアブラシで磨かれています。」(Hito Steyerl「Too Much World : Is the Internet Dead?」『The Internet Does Not Exist』Sternberg Press,2015年)
  3. 26. 2014年、北京のユーレンス現代美術センターで行われた『Art Post Internet』では7つのサブテーマを設けている。distribution、language、the posthuman body、radical identification、branding and corporate aesthetics、painting and gesture、infrastructureである。並びに2018年にボストンICAで行われた『Art in the Age of the Internet, 1989 to Today』では5つ設定されており、Network and circulation、Hybrid Body、Virtual Worlds、States of surveillance、perfoming the self となる。
  4. 27. Katja Novitskova:エストニア生まれのアーティスト。インターネット上で流通する動物の画像や企業イメージを利用したフォトスカルプチャー作品である《Approximation》シリーズで知られる。
  5. 28. Timur Si-Qin:ベルリンを拠点に活動するアーティスト。商業的な画像の利用や、原始人の化石を3Dプリントした彫刻で作られた《Premier Machine Funerary》シリーズで知られる。
  6. 29. Jordan Wolfson:アメリカ生まれのアーティスト。女性型ヒューマノイドの作品である《Female Figure》、Alfred E. Neuman、Howdy Doodyといったアメリカのポップキャラクターを彷彿させる彫刻が機械によって幾度となく引き摺り回される《MANIC / LOVE》で知られる。
  7. 30. Simon Denny:ニュージーランド生まれのアーティスト。エドワード・スノーデンによって告発されたNSAの監視プログラムを契機とした作品《Modded Server Rack Display with Hack Change 》で知られる。

次回に寄せて

「ポストインターネット」が前提とするインターネットによる人々への影響は確かにあるだろう。しかし、その変化が全てインターネットが独自にもたらした劇的な出来事ではない。時にオールドメディアとして語られるビデオや印刷技術等もまた同時代的な知覚の在り方に変容を与えた。このような文化の変動そのものを定量化することは困難だが、これらの変化をしばしば芸術は受け止めてきたといえる。ポップアートやビデオアートなど、ある技術の革新はときに芸術作品を個別の領域へと誘う。後世にすれば、その個別性は作品の変化を理解する為の一時的な区分として役立ち、そして美術館およびコレクターに対するマーケットを開くためのパッケージとしての機能を果たしてもいる。しかし、その区分は条件を茫漠なままにカプセル化することも事実であり、場合によって、一過性の価値やトレンドとしてのみ乱用されることもある。そして「ポストインターネットアート」は、まさに茫漠なカプセルになりつつあり、それは付随する「インターネット」という用語が、現在では単一的に意味を指し示すことが出来ないことに起因していると考えられる。それ故、本連載はインターネットそのものを注視して対象を論述することはない。インターネットといった網羅的となる議論は採用せず、「展示記録」という視点に立つことで「ポストインターネットアート」を論じる。それらの政治性や問題を経由することは、インターネット自体を通じて論じるよりも理解を導く手立てになると考えているからだ。言葉を変えれば、本連載が論じるものは「展示記録時代の芸術」ともいえるだろう31

「ポストインターネットアート」を論じるにあたって、名に付随するインターネットを無視して議論を行うことは出来ず、第0回となる本稿は些か遠回りとなってしまったことをお詫び申し上げたい。続く第1回では、改めて「展示記録」に関する議論から「ポストインターネットアート」を考察する。

31. 「ポストインターネット」という概念の有効性の不確かさをここまで扱ったが、これは直接「ポストインターネットアート」という芸術を否定したいわけではない。私たちが感受している「ポストインターネットアート」とされる芸術は確かにあるだろう。しかし、そう呼ぶに相応しい名称が現在見当たらない為、本連載では引き続きこれらの作品を「ポストインターネットアート」と呼んでいく。

参考文献一覧

外国語文献
David A. Ross (Foreword)「010101: Art in Technological Times」San Francisco Museum, 2001年
Rachel Greene「Internet Art」Thames & Hudson, 2004年
Gene McHugh「Post Internet」LINK Editions, 2011年
Karen Archey and Robin Peckham「Art Post-Internet」Ullens Center for Contemporary Art in Beijing, 2014年
Simon Denny「The Personal Effects of Kim Dotcom」Walther Konig, 2014年
e-flux journal「The Internet Does Not Exist」Sternberg Press, 2015年
Lauren Cornell「Mass Effect: Art and the Internet in the Twenty-First Century (Critical Anthologies in Art and Culture)」The MIT Press, 2015年
Lauren Cornell, Ryan Trecartin「Surround Audience: New Museum Triennial 2015」Skira Rizzoli, 2015年
Melanie Bühler「No Internet, No Art – A Lunch Bytes Anthology」Onomatopee 102, 2015年
Agata Cieslak 「Pre-, during-, post-: Art and the Internet」Module: CP6010 Course: BA (hons) Fine Art The Cass Dissertation, 2015年
DIS「9. Berlin Biennale fuer Zeitgenoessische Kunst: The Present in Drag」Gestalten; Bilingual, 2016年
Omar Kholeif「Electronic Superhighway: From Experiments in Art and Technology to Art after the Internet」Whitechapel Gallery, 2016年
Omar Kholeif「I Was Raised on the Internet」Prestel, 2018年
Omar Kholeif「Goodbye, World!: Looking at Art in the Digital Age」Sternberg Press, 2018年
Omar Kholeif「You Are Here – Art After the Internet」Home and Space, 2018年
Eva Raspini「Art in the Age of the Internet, 1989 to Today」Yale University Press, 2018年
Living Content「Katja Novitskova and Timur Si-Qin in Conversation」『Living Content, issue 8』Living Content, 2018年

日本語文献
ブレンダ・ローレル「劇場としてのコンピュータ」トッパン,1992年
東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+ 東浩紀アーカイブス2」河出書房新社,2011年
大森俊克「コンテンポラリー・ファインアート 同時代としての美術」美術出版社,2014年
髙岡謙太郎、ばるぼら「idea 2014年 09月号」誠文堂新光社; 隔月刊版,2014年
マッサージ編集部(Yusuke Shono, Kentaro Takaoka, Kanako Matsuya, Natsumi Fujita)「MASSAGE 9」MASSAGE,2014年
庄野祐輔「MASSAGE 10」MASSAGE,2015年
水野勝仁「ポストインターネット用語20」『美術手帖2015年6月号 vol.67』美術出版社,2015年
福尾匠「眼がスクリーンになるとき」フィルムアート社,2018年
永田康祐「写真可能なものの政治性」『パンのパン03 たくさんの写真についての論特集号』パンのパン,2018年
水野勝仁「ポストインターネットにおいて,否応なしに重なり合っていく世界」甲南女子大学研究紀要第 54 号 ,2018年

インターネット文献
Ian Wallace「What Is Post-Internet Art? Understanding the Revolutionary New Art Movement」 [2019年3月にアクセス]
Rhizome.org「NET ART ANTHOLOGY」[2019年3月にアクセス]
https://www.artspace.com/magazine/interviews_features/trend_report/post_internet_art-52138 [2019年3月にアクセス]
Brian Droitcour「The Perils of Post-InternetArt」[2019年3月にアクセス]
Brian Droitcour「Why I Hate Post-Internet Art」 [2019年3月にアクセス]
We Make Money not Art「Interview with Marisa Olson」 [2019年3月にアクセス]
ICC「座談会「『ポストインターネット』を考える(β)」 」[2019年3月にアクセス]
Louis Doulas「Within Post Internet Part i」[2019年3月にアクセス]
Gary Zhexi Zhang「Post-Internet Art: You’ll Know It When You See It」 [2019年3月にアクセス]

水野勝仁 連載第5回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

バルクと空白とがつくる練り物がサーフェイスからはみ出していく

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Haruna Kawai

「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」では、モノや映像という一つの存在にバルクとサーフェイスという二つの異なる性質を見出し考察することで、インターフェイスを経由したモノや映像のあり方を考えてきた。これまでは具体的な作品からバルクとサーフェイスとの関係を論じてきたのだが、今回は哲学者の入不二基義の『あるようにあり、なるようになる』のなかに出てきた「無の厚み」という言葉を手がかりにして考察を進めていきたい。具体的な作品ではないが、入不二の運命論についての哲学書に「空白」をめぐる記述があり、それが今まで考えてきたバルクに近い感触があったからである。この考察を通して、インターフェイス以後のモノや映像において、マテリアルデザインや小鷹研理の《公認候補》のようにバルクがサーフェイスからはみ出てきているような感触の正体を探っていきたい。

サーフェイスに囲まれ、関心の外に置かれるバルク🍩

まずは、この連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」が始まるきっかけとなったモノのバルクとサーフェイスとの関係から改めて考えてみたい。サーフェイスとはモノの最表面のことである。

表面の成分組成のほか、凹凸の度合いを示す粗度、濡れ性、光の反射・吸収特性などが代表的な表面特性である。最表面には電荷の帯電、独特の原子配列の変化、分子の吸着などがおこるせいぜい数原子分の厚みの部分がある。その厚みは気体分子の吸着層でおよそ0.5nm(ナノメートル:mmの100万分の1)、油脂などの汚れ層が5nm、さらに下の酸化膜10nm、加工による変質層が1μmぐらいなど、これは金属の値である。1

「吸着層・汚れ層・酸化膜・加工による変質層」という言葉が示すようにサーフェイスは何かを巻き込まざるを得ない。モノの最表面は何かを巻き込むからこそサーフェイスとなり変質する。そして、そこの先にサーフェイスによって外界から遮断され何も巻き込むことないバルクがある。

表面と内部の違いをとりわけはっきりさせたい時、表面に対して内部を“バルク”と呼び、表面に対する内部の特性をバルク特性と呼んで区別する。バルクとは“全体”という意味である。2

バルクとサーフェイスはそもそも同じモノでありながら、特性が異なるために違う名称が与えられている。サーフェイスがバルクという全体の一部でありながら、異なる性質を持っている。バルクとサーフェイスとは同じモノであり、全体の外側のごく薄い部分が異なる特性を持ち、サーフェイスとなっている。サーフェイスは外界と接触において性質が変化しているが、その内部は外界と接しないがゆえに性質が変化しない。外界との接触においてバルクが変化しなければサーフェイスは存在しないとも言える。また、表面と内部との違いをはっきりさせる必要がないときは、サーフェイスはあってもバルクは存在しないこともある。「全体」でありながら、バルクは消えてしまう。そのとき、そこにはサーフェイスしかない。

“おもて”と“うら”はよく使うことばだが、実際には存在しない2次元平面での仮想的な話。現実世界は3次元。紙もホントは厚みを持つ薄い立体だ。この本のページもはじも拡大すれば、“おもて”と“うら”はつながっていて、表面としては同等である。3

バルクがなくてもサーフェイスはある。サーフェイスは表と裏とをつなげた薄い立体として存在する。ここではサーフェイスがモノを取り囲み「厚み」をつくっているが、通常それは「バルク」と名指されることない、「厚み」も「薄さ」としてないものにされて、「表」や「裏」と名指されながら同じ性質を持つサーフェイスとして扱われる。私は連載の第1回目でバルクとサーフェイスについて、次のように指摘した。

「サーフェイス」と「バルク」という二つの異なる名前が一つにモノに与えられていることに注目したい。「石」や「木」において、サーフェイスとバルクとのあいだには断絶はなく、滑らかにつながっているゆえに、バルクという内部構造がサーフェイスの模様をつくりだしている。しかし、私たちがこれまで「サーフェイス」という語を使うとき、サーフェイスとバルクとのつながりは絶たれていたといえる。写真はバルクなどお構いなしにモノの表面のみを写し取るし、コンピュータ・グラフィックはモデルにモノの表面から切り取ってきたテクスチャを貼り付けている。4

私たちはこれまでことさらにモノのサーフェイスのみを切り取ってきた。それは、モノの最表面が否応なしに外界の気体分子を巻き込んでしまうように、ヒトもそこに魅惑されてきたからであろう。ヒトはモノのサーフェイスのみを見て、サーフェイスで取り囲まれた部分だけをモノと見なし、その厚みを意識の外に追いやってきた。だから、ヒトとコンピュータとのあいだも「厚み」として扱われることなく、Macのファインダーのアイコンが示すように二つのフェイス(顔)が向かい合ったときの「線=インターフェイス」として「厚み」を持たないものにされてきた。「厚み」を形成するバルクは、いつの間にかにサーフェイスに囲まれ、その存在を忘れられている。ヒトはモノに表と裏をつくり、それらをサーフェイスとしてひとつなぎにしてバルクを囲み、表と裏とのあいだに存在する厚みを排除する。バルクはサーフェイスに囲まれた厚みとして関心の外に置かれる。

モノを見るとき、映像を見るとき、さらにはスマートフォンに触れているときにバルクは欠如している。サーフェイスを透かし見るとき、そこに「インターフェイス」というモノや映像とヒトとの「あいだ」は意識されるけれど、モノや映像の「厚み」は無視される。サーフェイスの先につづくバルクへの関心が欠落している。この連載「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスに取り囲まれていつの間にか忘れられた「厚み」に「バルク」と名付けて、モノや映像の厚みを考察しているのだと考えられる。

無の「厚み」🧱

モノや映像にバルクを取り戻すという流れで考えを進めていたときに、入不二基義の『あるようにあり、なるようになる』で次のような文章を読んだ。

このように「空白」の方が、「欠如」よりも、いっそう現実寄りである(かといって現実そのものには属さない)。このことによって、二種類の無のあいだに「厚み」が発生している。つまり、「空白」は「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である。5

入不二はヒトの解釈による解釈的運命論や物理法則による因果的決定論とは異なる運命論として「論理的運命論」を考えるなかで「無の「厚み」」と書く。論理的運命論とは「ある出来事は、起こるか起こらないかのどちらかである」というもので、そこにはヒトの解釈や自然法則が入り込む余地がないものとされる。入不二は論理的運命論の「論理」として使われている「PまたはPではない」(排中律)という論理法則から現実を透かし見ていく。その過程で排中律の「PまたはPではない」には「欠如」と「空白」という二つの無について考察され、最終的には現実が論理からも体験からもはみ出してしまうものであることを指摘する。

入不二の論考は現実と論理との関係を扱いながら「運命」を論じており、本連載で扱っているような現在のイメージについての考察ではない。しかし、私は入不二が書く「二種類の無のあいだに「厚み」が発生している」という言葉の感触から離れられなくなってしまった。現実が論理に巻き込まれながらもそこから溢れ出すというイメージや、そこに至る過程で指摘される「欠如」と「空白」という二つの無に生じる「厚み」というイメージが、極めて、本連載で扱っているインターフェイス以後のモノや映像に近いものを感じたのである。それは「排中律から透かし見えること」や「無の「厚み」」といった運命論を語るために入不二が使う言葉と本連載のタイトルや言葉がシンクロしていると、私が思い込んでいるだけに過ぎないのかもしれない。しかし、入不二の運命論で論じられている論理と現実との関係は、論理回路としてのコンピュータと情報を表出するインターフェイスとの関係と類似するところがあると考えられる。なぜなら、インターフェイスはコンピュータの論理が現実世界にある一定のかたちで示すところだからである。コンピュータ以後の論理と現実とのせめぎ合いの場となっているインターフェイスを考えることは、必然的に入不二の運命論のように論理と現実との関係を扱うことになるはずである。このような経緯で、私は入不二の運命論の言葉を手がかりにして、具体的な作品から離れてインターフェイス以後のイメージ論を考えてみたくなったのである。その試論が今回のテキストである。

まずは、二種類の無である「欠如」と「空白」について、入不二の考えをみていきたい。

「欠如」とは、特定の何か(たとえばP)が無いことであり、完全な無(全く何も無いこと)とは違う。しかも、「関心依存的な無」であって、必ずそれ以外の何か(QやRやS……)によって埋まっているにもかかわらず、あたかも「(Pだけでなく)それらも無い」かのように扱われる。

しかし、「空白」は、そのような「欠如」とは異なる。「欠如」は、「Pではない」の「ではない」という否定と共に出現するのに対して、「空白」は、「PまたはPではない」や「QまたはRまたはSまたは……」の「または」という選言のところに出現する。6

モノはただ一つの存在としてそこにある。しかし、モノの最表面とその内部との性質が異なる場合、内部はバルクと名指されるようになる。すると、一つのモノは最表面たるサーフェイスとその内部のバルクという異なる二つの存在で構成されるようになる。ここで注目したいのは、サーフェイスが常にバルクを覆っているということである。バルクの最表面は外界との接触によって変化してしまいサーフェイスとなっている。バルクが存在することは、すなわち、外界との接触することであるから、そこには必ずサーフェイスが生まれる。そして、サーフェイスばバクルを囲っているから、外界からはサーフェイスの性質しか認識できない。確かに、サーフェイスの先にバルクがあるのだが、それはあたかもないかのように扱われるようになる。サーフェイスに周囲を覆われたバルクは、そこに存在しているにも関わらず、いつも間にかにそこから「欠如」していき、ドーナツの穴のようになっていくのである。しかし、そこには確かにバルクはある。バルクがなければ、サーフェイスはないはずである。ここでバルクはサーフェイスに存在をハックされている。バルクはサーフェイスによって外界から遮断され「あるけどない」という状態におかれ、「関心依存的な無」の状況に置かれていく。

けれど、バルクはサーフェイスと質的差異がなければ存在しないものである。だとすれば、バルクは「空白」として、「QまたはRまたはSまたは……」の「または」の部分に現れると考えた方がいいだろう。サーフェイスでもいいが、サーフェイスでもない宙づりの状態を呼び込むものがバルクと考えられないだろうか。サーフェイスがいつの間にかバルクになるとき、逆にバルクがいつの間にかにサーフェイスになるときに「もうサーフェイスはなく、バルクでもない(どちらでもない)」という空白が現れる。このように考えると、バルク自体は空白ではない。サーフェイスとバルクとのあいだに空白が生じることになる。バルクとサーフェイスとは「バルク|サーフェイス」という密着したかたちで一つのモノや映像を形成しているのではなく、バルクが空白を呼び込み「バルク|空白|サーフェイス」というかたちになっている。そして、この「空白」の部分が自在に変化することで、バルクとサーフェイスとの関係が変化し、バルクは気がつくと実在するようになったり、また消滅したりすると考えられる。モノや映像はその全体のなかに「空白」を抱えることになる。

「空白」は、「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である。「欠如」が「欠如」として成立するためにも、「空白」が奥(裏)で利用されざるをえない。7

サーフェイスと区別するために採用されたバルクが空白を招き入れるからこそ、サーフェイスは「サーフェイスではない」という欠如とその〈裏〉にバルクを示すことができるようになる。バルクはサーフェイスが欠如するために利用される空白としてそこにある。しかし、それは空白そのものではない。なぜなら、サーフェイスを透して見ると、そこにはバルクが充満しているからである。サーフェイスを透かし見ると、そこにはバルクがあるのだけれど、それは空白としても機能している。それは、バルクと密着した空白だと言えるだろう。

「欠如」は、リング型のドーナツの穴を、ドーナツの生地がない(食べられない)部分と捉えることに相当する。また、その部分を、何かが「ない」場所として捉えるのではなく、ドーナツの象徴としての穴が「ある」場所として捉えることもできる。その両方が可能である(あるいは交代する)場として見なすときに、そこに「空白」が働く。「ある」とも「ない」ともどちらとも言えて、「ある」と「ない」がそこで交代する「どちらでもない場」、それが「空白」である。8

サーフェイスを透かし見るとバルクの「ある/なし」が交代する「どちらでもない場」としての空白と密着したバルクを見ることになる。だから、バルクはサーフェイスにハックされて「ない」ものにもなってしまう。「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスを透かし見ながら、「どちらでもない場」としての空白を介して、モノや映像の厚みを示すバルクをあるものとして確定していく作業をしていると言える。

バルクと空白とがつくる練り物🥨

「無の厚み」からバルクを考えると、「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスを透かし見るためにバルクを採用していると考えられる。なぜなら、バルクが空白を招き入れるのであって、空白がなければ、サーフェイスを透かし見ることはできないし、そもそもバルクは「ある」ものでも「ない」ものでもなく、端的に存在しないからである。では、わざわざバルクといって、モノや映像に厚みを見出そうとするのはなぜなのだろうか。それは、モノにはやはり厚みがあるからであり、モノで構成された装置によって表示される映像にも厚みがあるからである。関心の外に置かれるこれらの厚みを取り戻すためには、バルクというサーフェイスと区別される性質が必要なのである。

これまで入不二の「欠如」と「空白」を参照してバルクを考えてきたが、これらとバルクとは決定的に異なる点がある。それはモノや映像には厚み=バルクが現実に存在するという点である。しかし、それでもなおバルクは空白という現実に存在しないものとともに考える必要がある。なぜなら、なぜ「無」が「厚み」と結びつくのかということを考えると、そこには確かにそこに存在するにも関わらず忘却されてしまうバルクが絡んでくると考えられるからである。

現実には「欠如」や「空白」は存在しない。しかし、だからといって、「欠如」や「空白」は、単なる空想や偏見の産物というわけではない。「欠如」や「空白」は、(現実の側ではなく)私たちの言語や論理の側が持ち込むものであるという意味では、主観的なものである。しかし、だからといって、私たちの思いのままになる主観的な観念というわけではない。むしろ、「欠如」や「空白」は、それなしには思考さえできないだろう。思考の可能性の条件として、「欠如」や「空白」は客観性を持つ。ここでは、単純に主観的/客観的に二分しても意味がない。両極性(私たちの言語・論理の側と現実自体の側)の間には、様々な観点や程度で主観的/客観的という区別を無数に引くことができるだろう。9

「バルク」は言語や論理の側が持ち込むのでなく、モノの特性のちがいとしてサーフェイスから連続していくモノの内部にある客観的なものである。しかし、バルクはサーフェイスとは異なり「バルク」と名指されなければ存在しなくなってしまう。モノの最表面と内部との特性の違いを示すときにだけに「バルク」という言葉は採用され、モノのなかにバルクが存在するようになる。バルクは客観的でもあり、論理・言語に属するものでもある。そのため、バルクという語を採用すると、サーフェイスに裏が生まれ、厚みが否応なしに生まれることになる。バルクがなければ、サーフェイスには裏がない。サーフェイスはいつ間にかにモノの表から裏へと滑らかにつながり、一つのモノとなっているからである。この意味ではサーフェイスは裏を持たず、文字通りに「最表面」でしかない。バルクという言葉とともに空白がモノのなかに入り込んできて、サーフェイス自体に裏が生まれるのである。

それでは、「空白」はどうだろうか。「空白」は「欠如」よりも、私たちの関心への依存度が小さい。というのも、たとえ私たちがどんな関心や欲望を持つとしても、「AからBへの交代」や「AでもBでもない」等の二者を宙づりにする観念を持つ限りは、「空白」を呼び込まざるをえないからである。「空白」は、「欠如」のようには関心依存的な無ではない。その意味において、「空白」の方が、「欠如」よりもいっそう「客観的(絶対的)」である。しかし、だからと言って、「空白」は、物理的な事実のように存在しているわけではない。あくまで「空白」は、私たちの論理・言語に属するのであって、現実自体の側にあるわけではない。10

空白がサーフェイスからバルクへの交代を可能にする。「空白」は論理・言語に属するものであって、バルクは現実自体の側にある。確かにそこにある厚みに空白という論理・言語に属するものが練りこまれていきバルクとなる。空白もまたバルクというモノの厚みを練りこまれることで、モノ的な存在になっていく。サーフェイスに囲まれて関心の外に置かれていたモノの厚みにバルクという言葉が与えられると同時に、空白がそこに巻き込まれていく。だから、空白は厚みを持ってしまう。バルクが呼び込む空白はバルクとサーフェイスとのあいだで機能するインターフェイスではなく、この二つの異なる性質が同一のモノのなかで切り替わるために呼び込まざる得ないものである。モノのなかには客観的なバルクと論理・言語に属した空白とによってできた独特な厚みを持つ練り物があると考えられる。モノや映像は論理・言語でしか考えられない空白とその厚みとしてのバルクからつくられる独特な練り物を抱えることで、はじめて極薄の厚みをサーフェイスを持つことができる。しかし、その極薄のサーフェイスは練り物を外界から遮断するものであり、バルクを私たちの関心の外に置いてしまうため、モノや映像の厚みはないことにされてしまう。

このように「空白」の方が、「欠如」よりも、いっそう現実寄りである(かといって現実そのものには属さない)。このことによって、二種類の無のあいだに「厚み」が発生している。つまり、「空白」は「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である。

「欠如」と「空白」のあいだの「厚み」に加えて、「空白」は、独自の「厚み」も発生させる。それは、「空白」の非存在(現実には空白は存在しないこと)をめぐって生じる。11

サーフェイスに囲まれたバルクは関心の欠如からその存在が忘却されるものになっているけれど、それはバルクが「欠如の〈裏〉に控えている無」として空白と絡み合っているからである。バルクと空白は絡み合いながら、バルクは空白に物的厚みを、空白はバルクに論理・言語的に厚みを互いに練りこんでいき、その存在を確かなものとしていく。バルクは空白を呼び込み、「バルク|空白|サーフェイス」という図式をつくるのだが、すぐにバルクと空白とが絡み合い、互いに練りこまれて、モノでもありながら論理・言語に属するような練り物が生まれる。このバルクと空白とが練り物となることで、バルクはサーフェイスの〈裏〉に控える無となると同時に、〈裏〉を得たサーフェイスもまた極薄の独特な厚みを持つことになるのである。このときのサーフェイスは、マルセル・デュシャンが「アンフラマンス」と呼ぶものに近いだろう。デュシャンの「アフラマンス」に関するメモを訳した岩佐鉄男は、この言葉に関して次のように書いている。

ここでとりあえず《極薄》と訳した語は、もちろんデュシャンの造語で、「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 infra- と「薄い」という形容詞 mince とを合成してつくられている。したがって語の直接的な意味としては、「薄さの限界を下まわる薄さ、人間の知覚閾を超えた薄さ」ということになるだろう。この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線 infrarouge が赤の限界を超えた色──色としては知覚できない色──であるのと同じように、《inframince》は薄いという知覚さえ失われる極限での薄さであることに留意していただきたい。12

アンフラマンスは、岩佐が「知覚さえ失われる」と書くように理念的な存在である。そこには〈裏〉も〈表〉 もないであろう。しかし、サーフェイスはアンフラマンスのような極限の薄さをもつものだが、それは空白とバルクとの練り物という半実在的で半理念的な存在と重なり合って、〈裏〉を持つことではじめて生じる。サーフェイスもバルクと同様に半実在的で半理念的な存在なのである。アンフラマンスが理念的な存在だとすれば、バルクとサーフェイスとは空白と絡み合いながら、ともに何かしらの手段で知覚できる厚みを成立させる半実在的で半理念的という存在ということができるだろう。

モノと映像とがそれぞれ単体でバルクを囲っていったときには、そこには極薄のサーフェイスだけがアンフラマンスのように理念的に存在するかのように扱われ、バルクはないものとされていた。そのため、これまで理念的なアンフラマンスの存在については多くの考察がなされてきた。対して、この連載は、サーフェイス、バルクと空白がつくる練り物という存在の組み合わせで、モノや映像の独自の厚みを改めて考えてきたと言えるだろう。なぜなら、インターフェイスを経由したモノと映像とは一つの複合体として扱われるようになり、モノと映像とが互いに抱えてきたバルクがモノと映像のそれぞれのサーフェイスとの境界で改めて空白を取り込んで、サーフェイスからはみ出し始めたと考えられるからである。そして、iPhoneが発表された2007年前後では、一つのインターフェイスを形成するモノと映像とでバルクのはみ出しが起こっていたけれど、現在(2019年)では、インターフェイスを構成しない単体のモノと映像においても、バルクがサーフェイスからはみ出しつつあるように感じられる。

最後に、サーフェイスを超えて存在を主張するようになったきているバルクと空白とがつくる練り物の独自の厚みを考えて、この論考を終わりにしたい。そのヒントもまた、入不二の空白についての思考にある。

観念論側から、実在論側へとはみ出るものが一つある。それは、空白についての「思考」である。「空白は経験することができない」とは、経験の範囲内に登場しないものとして、「空白」を思考できているから言えることである。この「思考」自体は、見たり聞いたり等の「経験」からは、はみ出さざるをえない。そうでないと、「空白」もまた「思考=経験できる」ものになって、「空白」は経験可能な存在になってしまう。それゆえ、「空白についての思考」は、観念論的な「経験」の範囲からはみ出して、実在論的側へと接近する。

もちろん、「空白」は実在せず、「空白」として思考されるのみである。その意味では、すなわち「空白」の存在はそれについての思考から切り離せないという意味では、「空白」は観念論的である。にもかかわらず、その「空白=思考」は、観念論的な「経験」や「認識」の範囲内には収まりきらずに、実在論的側へと向かってはみ出す、その意味での「思考」は、「経験」ではないし「認識」を超え出ている。

観念論側からすると実在論寄りに見えるその「思考」は、実在論側からすると、むしろ逆に観念論側に一歩接近したものに見える。というのも、現実は端的なベタであって、「空白」をいったん思考したうえで、それを無いものとするという「思考の手順」自体が余計なものだからである。つまり、二重否定的な肯定(充実)は、端的な肯定(充実)から、「否定」の思考の分だけはみ出してしまう。実在論的にベタな現実は、そのような「思考」からも無縁なのである。こうして、空白についての「思考」は、実在論側からも、余計なものとしてはみ出し、観念論側へと接近する。

空白についての「思考」は、どちら側から見てもあっち側へとはみ出すという独特な〈中間〉性を帯びている。この〈中間〉性は、「欠如」が私たちの観点や水準に応じて主観的でもあり客観的でもあるという相対性(変動幅)とは違う。むしろ、その「思考」のポジションは、絶対的に中間的である。この〈中間〉性が、「空白の非存在」をめぐる独自の「厚み」を発生させている。13

モノのバルクは「実在論的にベタな現実」として存在するが、これまでは余分なものとして思考や認識のフレームの外に置かれてきた。映像のバルクは空白と同じように観念的なものとされて、「アンフラマンス」が示すようにその厚みは忘却されてきた。しかし、インターフェイスを形成するモノと映像は互いに絡み合って複合的存在になっていき、次第にモノのバルクが映像のサーフェイスの向こうにはみ出し、映像に厚みをあたえるようになった。それは同時に、忘却されてきた映像のバルクがモノの方へはみ出してきたことを意味する。モノと映像との複合体は、互いのバルクが互いのサーフェイスからはみ出ることで生まれるのである。このバルクのサーフェイスからのはみ出しは、空白が「観念論」と「実在論」とのあいだでどちらへもはみ出していくように、空白を練り込んだバルクが独自の厚みをもつことから可能になっている。そして、モノや映像に招き入れられた空白はバルクによって全体に包含され、その存在がバルクに練りこまれていく。そして、サーフェイスを透して、バルクに練り込まれた空白が現実の側にはみ出てくるのである。バルクと空白からつくられる練り物は、二つの存在のあいだにインターフェイスと呼ばれる「境界線」を引くものではなく、一つの領域からはみ出てもう一つの領域に入り込んでしまう独特な中間性を帯び、複数の存在を巻き込んで、くっつけてしまう「糊」のように機能する。モノや映像を「厚み」という観点から考察するためにバルクを導入すると同時に、バルクと空白とがつくる独自の厚みを持つ練り物が周囲を覆う極薄のサーフェイスからはみ出し、別の何かを巻き込み、くっついていく様子を観察していかなければ、インターフェイスを経由したモノと映像を考えることは難しいのである。

参考文献・URL

  1. 丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司『表面と界面の不思議』、工業調査会、1995年、p.11
  2. 同上書、p.11
  3. 同上書、p.19
  4. 水野勝仁「連載第1回 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳:サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る」2018年、https://themassage.jp/throughsurface01/(最終アクセス:2019/2/10)
  5. 入不二基義『あるようにあり、なるようになる』、講談社、2015年、kindle版、位置No.748/5706
  6. 同上書、位置No.696/5706
  7. 同上書、位置No.722/5706
  8. 同上書、位置No.731/5706
  9. 同上書、位置No.737/5706
  10. 同上書、位置No.749/5706
  11. 同上書、位置No.755/5706
  12. マルセル・デュシャン「極薄(アンフラマンス)」岩佐鉄男訳、ユリイカ 15(10)、1983年、pp.68-69
  13. 同上書、位置No.767/5706

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 1

MASSAGE&ゲストで、1月の音楽リリースをふり返る。

S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, N=Shigeru Nakamura, C= Chocolat Heartnight

Ragnar Grippe – Symphonic Songs

70年代中期から現在にいたるまで精力的に活動を続けてきたスウェーデン出身の電子音楽家、ラグナー・グリッペの1980年の貴重な未発表音源集が〈Dais records〉より2枚組のLPでリリース。アートワークを手がけるのはAscetic Houseの主宰者でもあるJS Aurelius。クラシック音楽の演奏者としてのキャリアを若くして諦めたラグナーは、当時彼にとっては未知の領域であった電子音楽を追求するために、フランスのGroupe de Recherches Musicale(GRM)で本格的に作曲を学び、その後大学での研究を続けながら、実験音楽の分野で着実に才能を開眼させていく。この『Symphonic Songs』はコンテンポラリー・ダンスの振付師であるスーザン・バージュからの依頼を受け、彼女の新作公演の劇伴のために用意された作品。音楽史に名を残した77年の怪デビュー作『Sand』が、もともと交流のあったリュック・フェラーリが個人運営するALMスタジオで録音されたのに対し、今作はミュージックコンクレート/エレクトロアコースティック界ではGRMやIRCAMと肩を並べて知られる、ラグナーにとっては馴染みの深い地元ストックホルムのElektronmusikstudion(EMS)で録音された。ブックラシンセイザーやマルチトラックレコーダーをはじめ、潤沢な機材が揃ったEMSスタジオの環境のおかげで、前作には見られない新たな挑戦が色々試みられている。「Sand」のコンクレートかつミニマルなテクスチャー(前述したスタジオでの機材の制約が翻って、こういう独自の音楽性が編み出されたのか)は消失し、今作では異なるレイヤー同士を重ね合わせながら、ブックラによるサウンド実験を心ゆくまで楽しんでいる。全体で80分を超える長尺で、劇場面に沿った音のパートがどんどん繋がれていくという構成のため、特に一貫したテーマ性は見られないのだが、電子変調された男女の声音や突発的な金属音の挿入が緊張感を持続させながら、ぬめりを帯びた音の弛緩と収縮が繰り返され、独特の飽和した感覚がなんとも居心地良い。ちなみに実験度全開のこの作品の翌年に発表された『Lost Secrets』では一転して鮮やかなニューウェーブ色のバンドサウンドを披露していて、現在の視点からは全く不可解な、クロスオーバーともいえないこういう音楽性の脈絡のなさは、ある種テクノロジーがジャンルを先行していた時代の特権性を示すものでもあって面白い。(T)

Xosar – The Possessor Possesses Nothing

アラブ首長国連邦のレーベル〈Bedouin Records〉から、絡まりあったドラゴンのカバーアートが印象的な、XOSARことSheela Rahmanによる4年ぶりのリリース。実際にサイキックパワーを持っている家族のいる環境で育った彼女が、超常現象や異世界への関心を自身の創造性へと昇華させたインダストリアルテクノの質感を持つテクノミュージック。深みを潜水していくかのような未来的なその想像力は、音楽を作ることを自己療法と考える彼女の創作コンセプトに由来する。錬金術、クンダリーニヨガ、フラクタル、DNAの構造、黄金比、バイオフィードバック、準結晶などといったあらゆるアイデアを研究し、そして最終的には自分自身の受容へと至る。その神秘への探求は、自己を暴いていく過程であり、創造とその行為は深くつながっている。その探求は聴くものを時間と空間を超越する恍惚の旅へと導く。(S)

Tavishi – মশ্তিষ্কের কণ্ঠশ্বর | Voices in my head

サイエンティスト、ミュージシャン、そしてヴィジュアルアーティストでもあるTavishi(Sarmistha Talukdar)は、自身の研究をデータをサウンドスケープへと変換する実践を行っている。伝統的な文化を持つベンガルから来たクイア女性という出自を持つ彼女は、自己の中間的状態の分裂を聴衆との音楽体験により合一し、カタルシスや癒やしの感覚へと昇華することを試みる。この最新作は、アジアをテーマにし活動するプラットフォーム/コレクティブ〈chainabot〉からリリースされた作品。癌細胞がストレスの多い状態で生き残るために自分自身を食べるオートファジーと呼ばれる過程について彼女が発表した研究データを作られた“I eat myself alive”は、アミノ酸配列を音に変換し、分子信号のフローチャートに沿って配置することにより作られた。また、“Satyameva Jayate”はサウンドのループとフィールドレコーディングにより「取り残された人々の歴史」を表現し、その最終的な勝利を願って作られたトラックである。抽象的かつインテリジェントなそのサウンドスケープは、インドの伝統的な調律とエクスペリメンタルな音響の間を行き来しながら、持続音や不協和音、また親密さと拒絶の間を横断する。そこにはしなやかさとダイナミズム、そして組み尽くすことのできない豊穣さが宿っている。(S)

Nkisi – 7 Directions

作品に対峙する際に、その作者のルーツやアイデンティティを丁寧にたどることの必要性は、音楽だけではなくエンターテイメントのフィールドでますます強くなっている。たとえば昨今のブラック・カルチャーへの「関心」と、黒人が主役のヒーローものなどウケないと言われていた過去が嘘のように、そういった作品がアカデミー賞にノミネートされるまでに至ったことの間には確実に関連があるだろう。
しかし、他方で「ブラック」「アフリカ」などの語そのものが十二分にそのルーツや背景を語るものではない。先に挙げた映画でも、アメリカン・アフリカンにとっての大きな経験を描くものであっても、そこで描かれるアフリカの架空の国についてはアフリカへの先入観が大きく作用しているとの批判も時にあったからだ。ある特定の人種や民族の文化的背景を背負ったり迫ることには多大な難しさがある。鑑賞する側も同じような態度で軽々しくそこにルーツを見とることは、大きな誤解を導きかねない。
Nkisiの楽曲が評される際に、彼女の出自であるアフリカ、コンゴ民主共和国への視点が散見される。そのアーティスト名がその地では「魂が宿るもの」であることからも、彼女の自身のルーツへの強い思いが伺えることは明らかだ。しかし彼女の音楽には、ルーツへの視点のみが自身のアイデンティティを音楽に位置づける唯一の方法ではないという意思が示されているように思う。
本作はLee Gambleの主宰する〈UIQ〉からリリースされた。強く印象付けられるのはテクノだ。先に述べたアフリカ的なものは、七曲目のように、たとえばKonono no.1が鳴らすような、ルーツについて記名性を持った音が鳴る。しかし、全体として我々がアフリカを想起するようなわかりやすい音像が提示されるわけではない。これはある種の期待を持って聴くリスナーには残念な展開かもしれない。たとえば一曲目はアンビエントのような包み込むような柔らかさに包まれた後にリズムが複雑に絡むようにキックが入ってくる。二曲目は打って変わり、パーカションの音で始まり、キックの乱打がそこに重なる。後半になると、六曲目では音の間に隙間が作られ、いわゆる「ウェイトレス」な電子音楽も彷彿とさせる。Lee GambleのルーツにJeff Millesのようなテクノがあるように、彼女のルーツにはテクノがあるのだ。
その特に顕著な点を述べれば、彼女の音楽は90年代の、とりわけAphex Twinの影がハッキリと残る当時のテクノの強い影響下にある。彼女は幼い時にコンゴ民主共和国からベルギーに移ったというが、同じ90年代のテクノの流れの中でもガバと言ったハードテクノの影響は本作ではうっすらと伺えるものの、文字通りの弱い残像でしかない。はるかに強いのはAphex Twin、そして〈R&S records〉からリリースされたような当時のヨーロッパテクノの姿である。
「物語る」という行為は音楽においてはその音自体になるだろうが、彼女の出自についてその地理的な変遷を考慮すれば音楽も同じようにさまざな音楽の影響下にあるというべきだ。さらに、本作はコンゴ民主共和国にて大きな影響をもつ学者の宇宙観に影響されたものとも言われる。どこまで僕も含めたリスナーがこの宇宙的な音についていけるのだろうか。文字と異なり、音が語ることは往往にして断片的でありイメージである。そして当たり前のことだが、ルーツとはそんなシンプルなものではない。我々はそんなシンプルな世界、時代に生きてはいない。「魂の宿るもの」であるNkisiのその内側にはあるものは、確かに宇宙なのだろう。(N)

feather shuttles forever – 図上のシーサイドタウン

小確幸と呼ばれるものについてよく考える。大きな期待をせず、過度な刺激を求めず、目の前にある小さいけれど確かなものを喜び、楽しみ、そこに幸福を感じられたら、と。feather shuttles foreverの「図上のシーサイドタウン」には小確幸がある。サボテンの鉢を抱えてドイツ車に乗ったり、くらい遊びをしたり、ボルシチを食べたり、時には、スタンプばかりのメッセージなら夜は9時に寝ると静かに怒ったり(船出が早いのは漁村だからだろうか。そんなことを想像するのも楽しい)、そして、「失踪しませんか?」と誘ってみたり。ほどよい脱力感と浮かれ具合と風通しの良さ。このアルバムを聴いていると、自分もそんな日常を過ごす人になれたみたいに錯覚できる。それも、小さいけれど幸せなことなのかもしれない。(C)

ALTZ.P – La toue

2000年初頭の大阪のアンダーグラウンドシーンの空気とも連動する唯一無二の作品を作り出してきたALTZの久々のリリースである「La tone」は、色褪せることのない爽やかな驚きを感じられる快作だ。真っ黒なビートはいつもどおりファニーな面持ちを持ち、その優しさに溢れた個性を響かせている。ストイックでミニマルでありながら、いつでも奔放な自由さを宿したビート。弾け出したい心を抑えるかのように、抑えられたそのリズムの中にあるストイシズムは逆に情熱的ともいえる。その熱気は、鮮やかに身体性と結びついて、聴くものの心をその原始の炎で焼き焦がす。フルバンドとなったその演奏は、楽器と楽器は有機的に結合し合い、鮮烈なその色彩を眼の前に大きく広げていく。よりスケール感を増したその世界観で、ここではない世界へと接続するユートピアを出現させる。(S)

Lauren Boyle講義レポート

学びの未来を提示する「DIS ART」が向き合う現代のディストピア

Text: Yusuke Shono

ウェブの深層に生きる人々の空想が、ときにフィジカルな世界も巻き込んで世界に影響を与えていく様を描き出した木澤佐登志による「ダークウェブ・アンダーグラウンド」は、ネットの集合無意識の底辺から生み出された妄想や陰謀論、そして思想が人々を虜にし、またそれらが作り出すさまざまな幻影が容易に真実として受け入れられてしまうという、現実において真実の力(あるいはフィクションの力)が無効化してしまうという絶望的な現代の姿を、鋭くダイナミックな視点で映し出した。

先日、東京藝術大学上野キャンパスで行われた、Lauren Boyleの特別講義も、まさにそうした現実を反映した内容だった。Lauren Boyleが最初7人の仲間と立ち上げ(その後4人での活動となる)、さまざまなコンテンツを世に送り届けてきたDIS Magazineは、ここに来て大きな転換点を迎えた。DIS Magazineは事実上の閉鎖となり、DIS ARTと名前を変えて映像コンテンツをサブスクリプションで視聴できるサービスへと変化したのである。今回の講義では少なくとも彼女たちの現在の問題意識と、その活動を作り出してきた基盤となる考え方を理解することができた。これまでインタビューなどが困難だった経緯もあり、この講義は私にとってもとても貴重なものであった。

DIS Magazineの始まりは、2010年に遡る。

立ち上げからすぐにDIS MagazineはNYだけでなく、国際的なアーティストたちのハブになりました。特にテクノロジーに関心のあるアーティスト、あるいはネットワーク化する世界の中でどのように生きるかというテーマを持つ人々が集まる場になったのです

例えば、2012年に行われたDIS IMAGEというプロジェクトは、24日間、アーティストを呼んでスタジオで写真を撮影し、個人や商業目的でダウンロードできるオンライン上のイメージのライブラリを作ることを目指したプロジェクトだった。また、2014年には、アーティストたちが制作したプロダクトを購入できるDIS OWNというプロジェクトもオンラインに公開。こうした一連のプロジェクトには、オンラインマガジンの編集という枠を超えて、プラットフォームを作るという明白な意識が貫かれていた。

DIS Magazineもプラットフォームの一つです。さまざまな人たちを巻き込んでさまざまなことをする、そうするとそれがアートかどうかも不明瞭になっていく。その意味では、わたしたちはアート界のアウトサイダーとして活動しているといえます

DIS Magazineが活発に活動していた当時は、オンラインの文化が最も華やかであった時期に当たる。ポストインターネットという概念が議論を呼び、またオンライン上ならではの実験を行うjoggingなどのアートコレクティブもいくつか点在していた。彼女たちはそうした動きと連動しながら、コマーシャリズムやファッションと言った消費文化、現代の流行といったものに含まれる洗練やその背後にある欲望に焦点を当て、わたしたちの生きる現代においてどのような美学が存在しているのかをさまざまなプロジェクトやキュレーション、そして自らの作品を通じて示してきた。

そして、2016年にはベルリン・ビエンナーレのキュレーションに抜擢される。彼女たちにとってそれは最も大きな展覧会のプロジェクトであり、それはまた彼女たちが行ってきたこれまでの実践の集大成となる展示となった。その模様は何回かに分けてこのサイトでもレポートしたが、その試みにより、世界中に影響を与えてきたDIS Magazineというプロジェクトは一旦一つの区切りを迎えることとなる。

ベルリン・ビエンナーレのキュレーションが終わり、見回してみると世の中がすごく変わっていました。アメリカでは選挙でトランプ大統領が選ばれて、すべてがひっくり返ってしまった。そんな世の中でアーティストとして活動することはすごく難しい、あるいはその意味があるのだろうかと思ってしまうような状況でした

2011年、ニューヨークではウォール街に代表される富の集中に反対するオキュパイ運動が発生する。そして、2017年から全米に広がったME TOO運動と、DISが拠点を置くNYでも政治的なアクションが連綿と続いていきた。しかし、消費文化が作り出すさまざまな行動様式を作品に融合するという彼女たちがキュレートしてきた作品からは、そうした運動との連動性はそこまで感じなかったようにも思う。

数学者でもあり、情報理論の研究者でもあるMichel Serresはその著書『Thumbelina』で、親指を持って世界にアクセスするそういう世代のことを小さな親指世代と呼んでいます。彼は小さな親指世代が、自分の小さな親指で全てを操作できる能力を持つだけでなく、例えばこの世代による空間や時間の捉え方がもうすでに以前と完全に異なっているだろうと推測しています。そこで疑問が生まれるわけです。親指でタイプしてスクリーンをどんどんスワイプしていって、人間の頭では処理しきれないようなネット上の情報の海から知識を得ることができるこの時代に、そもそも脳みそが必要なのかと

小さな親指世代がもたらす現代の問題は、物事を判断するための知性の様式が変化したことである。具体的に言えば、フェイクニュースやフィルターバブルといった状況の到来により、思考すること、そしてそれを元に判断し、行動するというこれまでの人々の物事を判断する方法ががらりと変わってしまったのである。たとえそれがどんなに荒唐無稽な事実であっても、人々は容易に信じ込むということが明白な事実となった。一つ一つは小さな変化かもしれないが、その積み重なりにより世界はその姿を大きく変えつつある。そんな状況を無力に受け止めるのではなく、そこから何かを形成できるような向き合い方が必要だと、彼女は言う。

こういった前提条件を考えると、知識体系を発展させ、共有していく方法、あるいは戦略を見直す必要があるのは明らかです。特に、フェイクニュースやフィルターバブルといった背景を前に、教育の政治参加も、そして知識処理もより大きなスケールで、より長いビジョン、そしてより高い感性をもって、問いと向き合わなければならない

DIS Magazineの代わりに「エデュテイメント」というテーマを掲げて立ち上げられた現代の複雑な状況に対する「問い」を示すための作品を発表するプラットフォームが、DIS ARTである。この複雑な時代においてどのように自分自身をトレーニングしていくかということを考え、社会や政治、そして経済における複雑さに目を向け、向き合うということ。言うなれば教育による知性の復権を目指しているのである。

しかし、教育やエンターテイメントといった言葉から連想してしまうと、彼女たちの実践を捉え損なってしまうような気もする。アートという領域そのものがエデュテイメントという概念を包含しているからである。そもそも、ヴィジュアルアートは複雑性を単純化しないで理解する方法でもあり、その意味ではDIS ARTもDIS Magazineの実践の延長に位置するものであると私は思う。

日本語でもディスるといった表現をすることがあるように、「DIS」というネーミングには「反対」するというニュアンスもある。その言葉は、この時代の変化とともに矛先をもっと明確なものへと変えつつある、ということなのかもしれない。

最後に、この講義で紹介されたDIS ARTのコンテンツの一つである、Jacob Hurwitz GoodmanとDaniel Kellerによる30分のショートフィルムの抜粋で、タヒチで行われた最初のSeasteadersと呼ばれるテクノユートピア主義者たちの会議を収録したという映像についても触れておきたい。

映像では、ピーター・ティールから資金援助を受けて2008年にPatri Friedmanが立ち上げたテクノフューチャリストのグループThe Seasteading Instituteが映し出される。非効果的で重苦しいマジョリティによる支配から抜け出すために、彼らが提案するのはミクロな政府が複数浮いている自由主義的な未来だった。オープン市場で政府を選んだり、気候変動さえもハッキングできる。憲法ではなく、自由にバージョンアップすることができるソフトウェアのような法律が存在する、そんな未来社会である。

西洋の新自由主義はグローバリゼーションという言葉をカモフラージュとして都合よく使ってきました。今、力を増しているテクノロジー業界の権力者たちも同じです。この世代には、声を上げる権利よりも出る権利、すべての人が投票する権利よりも出ていくという権利のほうが重要なのではないかという考え方、「Exit Over Voice」を主張する傾向があります。すでにあるものを改良するよりも新しい構造を作りたい、既存の組織でキャリアを積むよりもスタートアップを作りたい。あるいは新しい国を作りたい、そうした傾向です。Seasteadersと呼ばれる自由主義者たちはガバナンスに競争原理を持ち込もうとしています。小さな政府が企業のように機能するそういった世界です

実際に彼らは、タヒチ沖に特別経済地域を設けて、そこに最初の浮島を作る計画を実現するため、フランス領ポリネシア政府と交渉を始める。結論から言えば、この計画は頓挫してしまうのだが、今、次なる社会像を作ろうと模索しているのがピーター・ティールをはじめとした新反動主義者たちであるというのが、非常に気になる点である。ちなみに、リバタリアンたちの近代国家から「脱出」しようというこの動きは、冒頭で触れた「ダークウェブ・アンダーグラウンド」の「既存のシステムからの脱出」という章にも描かれている。

わたしたちが思い描いてきた、民主主義が善であるという建前が明確に崩れ始めた現代、そうした風景の中でどのような姿勢で生きるべきなのか。それは3.11を経て、急激に歴史を巻き戻すかのように右傾化してしまったここ日本においても全く他人事ではない。そして残念なことに、日本においては、こうした現実に向き合おうという表現はまだあまり現れていないように思う。

これらの作品はわたしたちの観客へのある提案です。未来に求められるのは念入りに研ぎ澄まされた観察力だけではなく理解をするスキルです。DIS ARTの目的というのは解決に向けたコミュニティを育てること。その中心にあるのは、社会的政治的そして経済的な構造がどのように作用しているのか、それを再考して、今、支配的なナラティブの外側に生成的な青写真を描きたいという、そういう思いであり、願いです。私たちは極めて重要な問題に関して、情報を提供し、インスピレーションを与え、人々を動かしていきたいと思っています

http://dis.art

CUBE | VIRTUAL NATIVES – SCULPTURE

デジタル環境と現実世界の境界にある可能性を探求する、 Manuel RoßnerとNina Röhrsによるヴァーチャルギャラリー。


これまでもいくつも積み重ねられてきたヴァーチャルギャラリーの試みは、現在のデジタルテクノロジーを用いた表現がわたしたちの現実世界との境界で持ちうる可能性の検証であっただけでなく、キュレーションという行為を一つの表現としてアップデートするための探求でもあった。そんな試みを形にしてきた、仮想のインターネットアートプラットフォームであるFloatギャラリーを創設・キュレートするアーティストのManuel Roßnerが、今度は美術館とタッグを組み新しいプロジェクトを開始した。「CUBE」と名付けられたそのプロジェクトは、ギャラリストのNina Röhrsとともに1年をかけて共同開発されたもので、本日(1/16)よりRoehrs&Boetschにてお披露目となる。

Roehrs&Boetschは、2016年に新しい形の展示作品について積極的に議論し開発することを目的に設立された、スイスで初めてデジタルアートの探求と社会への影響にフォーカスしたアートギャラリー。今回の「Cube」は、新技術の1つであるバーチャルリアリティとその他の未開拓なテクノロジーの可能性を追求する新たな表現を探求する場として、開発されたプラットフォームである。鑑賞者は、VRゴーグルを使用し、ガイドツアーに導かれて仮想ギャラリービルに入る。「Cube」には5つのフロアが存在しており、コントローラを用いてそれぞれのギャラリースペースを移動することができるようになっている。「Cube」は外側から見ると、5つのフロアを表現した立方体をつなぐ有機的な構造を持つ彫刻的な建造物になっていて、その形状のデザインは「ホワイトキューブ」の伝統的な概念を思い起こさせる。架空の展示室である「CUBE」はデジタル世界に存在しているものの、実際にはコンピュータとVRメガネという物理的インフラストラクチャに結び付けられている。さらに、そのデバイスは、Roehrs&Boetschの敷地内にしか存在しない。実際にスイスの展示会場でしか、体験することのできない展示方式となっている。

展示内容は、現実の世界での手続きでデジタルの現実がどのように作り出されるのかという問題に焦点を当てた、VR彫刻のシリーズ‘Bodypaint’や、ランダム関数を実行することによって常に色と質感を変えていくデジタル彫刻、3D絵画、仮想キネティック彫刻などになる予定。アーキテクチャデザインはManuel Roßner自身が手掛けている。

参加アーティスト:Banz&Bowinkel、Martina Menegon、Chiara Passa、Manuel Rossner、Theo Triantafyllidis
Opening: 16 January 2019 | 6 – 9 pm | Bachstrasse 9, 8038 Zürich

水野勝仁 連載第4回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

影のマスキングがバクルとサーフェイスとを引き剥がす

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Haruna Kawai

小鷹研理の《公認候補》には複数のディスプレイが存在している。水平に置かれた大型ディスプレイの上に2台のスマートフォンと2台のタブレットが置かれている。大型ディスプレイは上に置かれたスマートフォンを映像として示している。さらに、タブレットとスマートフォン自体もスマートフォンを表示している。また、複数のディスプレイはスマートフォンを表示するだけでなく、そこにヒトの手や腕も表示している。手に握られたスマートフォンが映っているものもあれば、腕とマスキングテープが映っているものもある。

今回は小鷹の《公認候補》の分析を通して、前回のマテリアルデザインが示したディスプレイの向こう側にサーフェイスの組み合わせによってバルクを発生させる設計とは逆の状況を考えたい。それは、ディスプレイが特定の条件でこちら側の物理世界を切り取ると、バルクの位置付けが曖昧な空間が生まれ、バルクから剥がれた「理念的サーフェイス」が現れるということである。

物理世界では生じ得ないバルクをもたない「理念的サーフェイス」の出現

大型ディスプレイの中央下の部分にスマートフォンが2台表示されている、上のスマートフォンにはスマートフォンを握る右手が映されていて、その下のスマートフォンは手につながる腕の部分とマスキングテープが映されている。そして、このスマートフォンが上のスマートフォンに表示されている右手に握られている。さらに、この2台のスマートフォンの下に木目のレイヤーが表示されていて、その左端に2台のスマートフォンがディスプレイの上に置かれている。この2台のスマートフォンも右手を示す2台のスマートフォンと同じ配置で上のものにはスマートフォンを握る左手が表示され、下には腕とマスキングテープが表示されている。ここでも右手と同様に、下に位置するスマートフォンが左手に握られている。

ここで《公認候補》を横から見てみると、中央のレイヤーの左端にディスプレイの上に置かれた2台のスマートフォンは高さが異なっていることがわかる。しかし、その高さの違いは上から見ると消えているように見える。そもそも、2台のスマートフォンは大型ディスプレイに直に置かれたようになっている。それは、大型ディスプレイが光源となって、下から光が照射されているからだと考えられる。大型ディスプレイからの光によって、その上に置かれた2台のスマートフォンは影を失い、光るサーフェイスの一部のようになり、それらはモノであることをやめて、映像となったかのように見えるのである。そして、複数のディスプレイには文字通りモノであることをやめたスマートフォンが映っている。しかし、映像で表示されているスマートフォンには影があり、さらに、手に握られることで厚みが与えられ、映像でありながら、モノであることを強調しているようである。モノとしての2台のスマートフォンと2台のタブレットは影を失うとともに高さが曖昧になり、同時に、映像としての複数のスマートフォンはモノとして存在感を強調しながら、そのディスプレイに映る映像はモノとしての大型ディスプレイ、スマートフォン、タブレットが表示する映像とともにひとつのサーフェイスをつくりあげているように見える。

前回取り上げたマテリアルデザインはディスプレイの向こう側の空間の高度を精密に測定・設定し、「影」の表象を有効活用することで、モノのように扱えるような環境をつくった。その結果として、バラバラのサーフェイスの重なりがある一定の高さを示すバルクを生み出し。その高さのなかに位置するサーフェイスには「厚み=バルク」が与えられたのであった。

マテリアルデザインを構成するバラバラの高度をもつ複数のサーフェイス自体は、バルクをもつことがない理念的な存在である。しかし、それらを俯瞰して、統合していくときには、バラバラの複数のサーフェイスを含んだバルクが生まれるといえるだろう。これまでは、サーフェイスに隙間なく囲まれ、その中身をバルクと呼んできたけれど、マテリアルデザインがつくる仮想の空間では、サーフェイスはバラバラでありながらも、統合されているということも可能になっている。マテリアルデザインは、世界視線と普遍視線というふたつの視線を入れ換えながら、バラバラになったサーフェイスは異なる高さで配置されつつ、一定の高さのなかに収まりひとつの地質=バルクを形成し、あらたなモノとして機能して、私たちがマテリアルと感じられる領域を拡張しているのである。1

マテリアルデザインがディスプレイの「向こう側」に、仮想的なバルクを持つバラバラなサーフェイスから構成されるあらたなマテリアルをつくりだしたとすれば、《公認候補》はディスプレイの「こちら側」にバルクを持つことのない「理念的サーフェイス」というあらたな存在を生みだしたように見える。その結果、中央の2台のスマートフォンだけでなく、左右に1台ずつ置かれた2台のタブレットも含めた複数のサーフェイスがモノと映像という区分けを超えて、ひとつの「理念的サーフェイス」に集約されていき、モノと映像との区別がなくなっていっているのではないだろうか。

《公認候補》で生じている「理念的サーフェイス」は、写真評論家の清水穣がモネの《睡蓮》に見出した「見える」けれど「存在しない」レイヤーに近いものであろう。

映像性とは、画像が透明な面(鏡面、水面)の上にあるという感覚のことである。絵画における映像性は、モネ晩年の「睡蓮」連作のテーマでもあった。流れるようなタッチで描かれた水の反映の上へ、異物=睡蓮を描き加えると、それまで見えていなかった透明な平面=レイヤーが露出する。全ての可視像の基底面であるレイヤーは、睡蓮の付加によって「見える」ようになるが「存在しない」。2

大型ディスプレイが示す映像の上に、さらに複数のディスプレイという「異物」を置いてみる。すると、大型ディスプレイの映像とスマートフォン、タブレットというモノとの「異物」同士の高さの違いではなく、ディスプレイの映像がつくるレイヤー=「理念的サーフェイス」が現れる。そして、「理念的サーフェイス」は「存在しない」にも関わらず、映像とモノとのあいだのちがいを吸収する存在として、見る者に認識される。モネの《睡蓮》というディスプレイのこちら側の風景を描いた例以外で「理念的サーフェイス」を示すならば、ディスプレイの向こう側のマテリアルデザインが扱うピクセルのサーフェイスをディスプレイのこちら側に持ってきたのが「理念的サーフェイス」と言えるだろう。しかし、マテリアルデザインのピクセルのサーフェイスは元来「厚み」を持たない光のサーフェイスに「厚み」、この連載に即して言い換えれば、サーフェイスから連続する一つ全体としてのバルクが明確に与えて映像をモノのように扱えるようにしているのだが、物理世界の「理念的サーフェイス」はバルクが曖昧な状態に置かれていて、モノが映像のようになる点が異なる。なぜなら、ディスプレイの向こう側のマテリアルデザインは理念的に高さを設定することで、サーフェイスにバルクを与えたけれど、《公認候補》は物理世界とモノが必然的に持っている高さとバルクを俯瞰視点から見るときに限り、高さとバルクの存在を曖昧にして、ディスプレイのこちら側に「理念的サーフェイス」を出現させているからである。

モネの《睡蓮》というディスプレイのこちら側の風景を描いた例以外で「理念的サーフェイス」を示すならば、ディスプレイの向こう側のマテリアルデザインが扱うピクセルのサーフェイスをディスプレイのこちら側に持ってきたのが「理念的サーフェイス」と言えるだろう。しかし、マテリアルデザインのピクセルのサーフェイスは元来「厚み」を持たない光のサーフェイスに「厚み」、この連載に即して言い換えれば、サーフェイスから連続するひとつの全体としてのバルクを明確に与えて、映像をモノのように扱えるようにしているのだが、物理世界の「理念的サーフェイス」はバルクが曖昧な状態に置かれていて、モノが映像のようになる点が異なる。マテリアルデザインはディスプレイの向こう側に高さを理念的に設定することで、サーフェイスにバルクを与えたけれど、《公認候補》は物理世界とモノが必然的に持っている高さとバルクを俯瞰視点から見るときに限り、ディスプレイのこちら側の高さとバルクとを曖昧にして「理念的サーフェイス」を出現させていると考えられる。

連載の第1回、第2回で考察したように、ディスプレイはこちらと向こうとを分ける垂直なサーフェイスであり、ディスプレイは向こう側の空間をバルクとして切り出すものであると同時に、ディスプレイに連関するこちら側の空間もまたバルクとなっている。だとすれば、《公認候補》ではディスプレイを水平に置くことで、ディスプレイの上の空間をマテリアルデザインと同じく自由に設定可能な高度を持ったバルクとして切り出していると言えるだろう。ここでもう一度、モネの《睡蓮》に戻って考えてみたい。キャラ・画像・インターネット研究を行うgnckは、モネの《睡蓮》で水面を描くストロークの向きに着目している。通常、水面は横ストロークを用いた白波で描かれているが、モネは縦ストロークを用いて水面を描く。

ではモネは《睡蓮》の縦ストロークで何を表そうとしているのか。それは、水鏡に跳ね返っていく「視線の動き」ではないだろうか。また山本悠に図解してもらおう。図の通り、水面で跳ね返った視線は、その先(二次元の画面中では上方向)に跳ね返り、水鏡に映る木や空を捉えることになる。この視線の方向性が縦の方向性を持っているのだ。
この視線の方向性によって見えてくるものは、横のストロークの白波に表現された水面と何が違っているのか? それは、水鏡が「水面」と「水に映る像」という二重の焦点を持っているということだ。横のストロークで描かれる水面は、光の「色」を反映することはあれど、像を結ぶことはない。波の無い「水鏡」にだけ、像が写っているのだ。3

モネは縦ストロークを使い「水面」と「水に映る像」の両方を描いたとするgnckは、同じ原理をピクセルにも応用している。ピクセルはあらゆる像を表示する基底面であり、像でもある。ここで注目したいのは、縦スクロールに基づいて、視線の方向性も縦になるということである。清水の考察と合わせて考えると、モネの《睡蓮》は、睡蓮を描くことで基底面である水面を「見える」状態にしたのであり、その際に縦ストロークが視線を縦方向に移動させて、水面の上にある木や空を像として「見える」状態にしている。

では、《公認候補》ではどうであろうか。ピクセルには筆のストロークのような方向性はないが、小鷹は複数のディスプレを垂直ではなく水平に置くことによって、ピクセルが放つ光の向きを変えたと言える。水平ではなく、垂直に放たれる光はモネの縦のストロークが示すように「水鏡」となって「光」を放射すると同時に、「像」を示すものとして機能する。ディスプレイは垂直に設置されたときも「光」を放射し、「像」を示しているけれど、そのとき「光」は「像」を結ぶだけに使われている。しかし、水平に置かれたディスプレイはモノとして台として機能し、そして、その上に置かれたモノの影を消去するという「像」とは関係ない「光」単体として機能するのである。gnckはモネのストロークの向きの違いによって、モネの《睡蓮》がつくる「理念的サーフェイス」での光の反射と光による結像の光が引き起こす機能の二重化を論じたが、ディスプレイを通常の垂直方向ではなく水平方向に置き、光を垂直に放つことは、光の放射と光による結像という機能の二重化に加えて、「照明」というもうひとつの光の機能が付け加わるのである。上からの「照明」は地面に影をつくるが、下からの「照明」は影を空間に投射することになり、結果として地面に生まれるはずだった影が消える。影を消去する下からの照明とモノとしてのディスプレイが示す台としての機能が合わさって、《公認候補》は水平に置かれたディスプレイの上の空間を、マテリアルデザインと同様に高さを自由に設定できるバルクとして切り出している。ただし、この場合はモノに照明を当て影を消去して、モノに伴う高さが全て「0」にする方向で設定されているのである。しかし、この高さは横から見るとたちまち現れる。実際には高さとモノのバルクはあり、垂直方向の光による照明効果によって、空間の高さとバルクとが曖昧な状態に置かれているだけだからである。この照明のもと俯瞰視点で《公認候補》を見ると、バルクを持たない「理念的サーフェイス」が切り出されるのである。小鷹は複数のディスプレイを水平方向に重ね合わせ、さらに、垂直に放たれる光の環境でモノと映像とを混在させて重ね合わせることで、俯瞰視点で見たときだけであるが、マテリアルデザインとは逆にバルクを持たない「理念的サーフェイス」をディスプレイのこちら側につくりだすことに成功していると言える。

「光源反転空間」がつくる「〈公認〉の乱立」による曖昧さ

前項ではモネの《睡蓮》をめぐる言説を参照にしつつ、小鷹の《公認候補》において。見えているが、存在しない「理念的サーフェイス」が出現していることを示した。この項では小鷹自身による作品説明から考察をはじめたい。

メディアアートの批評性に関わる問題の一つとして、現実と人工物を上手く配合することによって、ときに現実の側の虚構性が見事に炙り出されてしまう、その局面に対して強い関心を持っている。そのようにしてフラット化した複合世界において、そこに住まう種々多様な住人たちは、そのときどきの正当性の覇権を巡る争いに意図せずして巻き込まれることになるだろう。こうした正当性を付与する〈公認〉の選定基準において、「オリジナルである」が、もはや大きな意味を為さないであろうことは想像に難くないし、そうした事態からの帰結として、拮抗する複数の住人たちのそれぞれによって主張された、複数の両立しない正当性が、しかし矛盾なく成立してしまったような「〈公認〉の乱立」のような状態が常態化することもまた可能であろう。と、そのような観点を踏まえるとき、本作のような装置がつくりだす風景の渦中に身を晒すことを通して、自らの内に宿る新たな正当性の構成原理(それは、おそらく神経科学的な起源を持つに違いない)について省察してみることには、少なからず批評的な意義があると考える。4

小鷹が「フラット化した複合世界」と呼ぶものが「理念的サーフェイス」に現れていると考えられるだろう。そこでは、モノと映像とが互いの正当性を主張する「〈公認〉の乱立」という状態が生まれていると言える。その結果、バルクをもたない「理念的サーフェイス」をディスプレイの「こちら側」に生み出し、ヒトにその存在を認識させるようになっている。だとすれば、このときにヒトの認識で生じている「新たな正当性の構成原理」とはどのようなものなのであろうか。小鷹と金澤綾香の研究「影に引き寄せられる手」から、その構成原理を考えていきたい。この考察から、水平に置かれたディスプレイが放つ光によって切り出された空間ではバルクの位置付けが曖昧になるがゆえに、バルクとサーフェイスとが分離可能になるということが示されるだろう。それはディスプレイの向こう側の構成原理がディスプレイのこちら側の物理世界にスルスルと入り込んでくることを意味するのである。

「影に引き寄せられる手」は光源が下にあるということで、手の影が上のスクリーンに投影されて、体験者は手の位置が影に引き寄せられて上に上がっているように感じるという実験である。私はこの実験を体験したのだが、身体というモノが影という映像に引き寄せされていき、自分の身体が騙されるこの感覚は興味深いものであった。身体をモノとして認識すると同時に、映像、見た目としても認識している。そして、モノよりも映像に引き寄せられて認識してしまう。

身体と影の空間的関係。右のように、光源を底面とする装置を用いることで、錯覚のための基底的な要件(手と影との近接性・手の不可視化)が満足される/「影に引き寄せられる手 – 「からだ」はどのように自覚されるのか」より

「影に引き寄せられる手」は、(写真から分かるように)底面から設置された光源が手を照射し、その影が手を上から覆い隠すスクリーンに投影されることによってはじめて生じる。おなじみの(太陽の光がアスファルト面にはき出す)足元から長く伸びた身体の黒い影は、そのような心理的な誘引力を持たない。だから、「影に引き寄せられる手」は、ありふれた自然現象を、極めてありふれていないかたちで使用することによって、初めて見出されることになった。それでは、なぜ、小鷹研究室は、そのような世界が反転しているような”まわりくどい”光源空間を、わざわざこしらえることになったのか。5

《公認候補》でも、サーフェイスがモノよりも映像に引き寄せられて、集約されていっているように見える。けれど、《公認候補》は「影」が消失しているという点で、影が重要な役割を果たす「影に引き寄せられる手」とは異なるし、そもそも錯覚の主である身体が消失している。鑑賞者は作品を見ることしかできない。また、影が消えているといっても、自分の影ではなくデバイスの影なので自分とは関係がない。けれど、自分のものではなくても影が消えるという体験そのものは奇妙なものである。この世界にはどこかしらに影があり、私たちは常に影を見てきた。地面などに投影される影と自分との関係を常に見ている。だから、マテリアルデザインは影を強く意識した。しかし、それは上からの光であり、こちら側からディスプレイを透して向こう側へ光が入り込んでいるような状況である。だから、マテリアルデザインは影を使って、こちら側の世界のように向こう側の世界を構築することができている。反対に、《公認候補》ではディスプレイが放つ下からの光によって、その上に置かれたスマートフォンやタブレットがつくる影が消されている。影がないから、モノと世界との関係が失われるように見えるけれど、影が完全に失われたわけではなく、デバイスが表示する映像には影が残っている。だから、映像に映るモノの方が、より強いモノとしての存在感を示すようになっている。ディスプレイによる下からの光が、「まわりくどい」光源空間を切り出し、そこでは影が示す映像とモノとの関係が曖昧になっている。

この「光源反転空間」は、金澤綾香の卒業研究において「影が自分の身体そのものと錯覚される」ために必要な光源環境を考えるなかで、半ば必然的に導き出されていった。「物理的な手をマスクする」という操作は、その物理的な手とは異なる手のイメージに身体所有感を投射するうえで基底的な条件を構成する(人は「二本の片手」という状態を受け入れることができない)。そして、この種の条件を満たすような手と影の空間的関係を考えるとき、「光源反転空間」の発想がひねり出されるのは時間の問題である。この意味で、「影に引き寄せられる手」は、1998年に“発見”されたラバーハンド・イリュージョンの中で、半ば予告されていたと考えるべきなのである。6

「影に引き寄せられる手」では、身体がマスキングされて、下からの光源によって影が身体をマスキングするスクリーンに投影されている。身体がマスキングされることによって、モノとしての身体と映像としての身体=影との間にズレが生まれて、身体が影に引き寄せされる。そして、身体がふたつあるはずはないという判断のもと、モノよりもよく見えている影が優先される。ここで重要なのは、下からの光源による「光源反転空間」とバルクを持つモノとして身体のマスキングを合わせると、身体を「影」という「理念的サーフェイス」に分離できてしまうということである。つまり、「影に引き寄せられる手」は光源を下にすることで、バルクとしての身体の位置が曖昧になる空間をつくりだし、バルクとサーフェイスとが分離可能な状態にしているのである。

《公認候補》では、身体ではなく「影」がマスキングされている。影がマスキングされた結果、物理的な高さにズレが生じて、物理的高さが映像に吸収されていくのである。《公認候補》では、横から見たらそれぞれ異なる高さをもつ複数のサーフェイスが基底のサーフェイスとなっている大型ディスプレイからの光で「光源反転空間」をつくり。モノの影が消失した「フラット化した複合世界」をつくりあげている。マテリアルデザインが影を利用してピクセルをモノのように扱う環境をつくったとすれば、《公認候補》は影を消去することで、モノと映像とが矛盾なくひとつのサーフェイスとして構成してしまう「〈公認〉の乱立」のような状態になっている。このときスマートフォンやタブレットのモノとしてのサーフェイスとバルクが分離して、バルクの存在が曖昧になり、サーフェイスだけが「理念的サーフェイス」に集約されていき、ピクセルのパターンを構成するようになる。このとき影もまたピクセルのパターンとしてのみ存在するようになる。ピクセル以外の影が消失し、ピクセルのパターンとしての影がピクセルの集合としてのスマートフォンとそれを握る手に物質感を付与するのである。《公認候補》はマテリアルデザインとは逆にモノの影を消去してひとつの光のサーフェイスをつくるが、同時にマテリアルデザインと同様にパターンとしての影を活用してディスプレイのなかにモノとしての存在感を強めたスマートフォンとそれを握る手を表示している。

私たちはインターフェイスを介して、テクスチャを簡単に操作しながら、モノの見え方のみを変えることに慣れていった。それはバルクとサーフェイスとからなるモノを変形させるのとは異なる感覚を生み出した。そして、そのあらたな感覚が蓄積していった結果、テクスチャというバルクから切り離されたサーフェイスを操作することが「モノ」を操作するようなリアリティを持ち始めるようになったのではないだろうか。7

連載の1回目で考察したように私たちはディスプレイの向こう側では、コンピュータを介してバルクから分離したサーフェイスを「テクスチャ」として自在に操作するようになっていた。ディスプレイの向こう側でバルクとサーフェイスとを分離して、サーフェイスを自在に操る感覚がある程度蓄積したときに、ディスプレイのこちら側でもバルクからサーフェイスを分離することが可能だと感じられたのではないだろうか。この分離可能性を身体に基づいて、ディスプレイのこちら側に実装したものが小鷹研究室が発見した「影に引き寄せられる手」だと考えられる。バルクとサーフェイスとを明確に分離して、操作できるディスプレイの向こう側に比べると、こちら側ではまだ曖昧な状態でしかバルクとサーフェイスとを分離できない。しかし、それはコンピュータとともにあるディスプレイの向こう側の世界の構成原理を、ディスプレイのこちら側に実装していく足がかりになるもののになるだろう。そして、「影に引き寄せられる手」が発見した原理の応用例が、複数のディスプレイが照らし出す光が影をマスキングしてバルクの存在感を曖昧にする空間をつくり、モノと映像とを区別なく統合していく「理念的サーフェイス」を出現させる《公認候補》だと考えられる。

映像を「モノ」に、モノを「映像」にラベルを張り替える

《公認候補》の左上の部分を分析をしていきたい、スマートフォンと手とが上下にズレているものがある。手のズレはあまり気にならないが、スマートフォンのフチがスパッと上下にズレている。このズレているスマートフォンと手とは物理的にズレているわけではなく、映像のサーフェイスが右から2/3のところで上下にズレている。このズレはディスプレイとタブレットの映像を跨いで起こっている。そのため、大型ディスプレイとタブレットとのあいだには物理的な高さの違いがある。しかも、大型ディスプレイに映る映像は映像であること強調するかのように小刻みに左右に揺れている。けれど、大型ディスプレイとタブレットに表示されている映像は映像のズレと物理的な高さがあるにも関わらず、ディスプレイが切り出す光源反転空間にあるためにひとつの「理念的サーフェイス」となっている。だから、「スマートフォンを握る手」にあるズレは、モノと映像との違いを跨ぐピクセルのパターンとしての「理念的サーフェイス」における「断層」として示されるのである。

さらには、映像としての指が映像としてのスマートフォンを鈍く下に押しやっているように見えてくる。それは、2018年9月に開催された展覧会「拡張する知覚」で、《公認候補》とともに展示されていた《ボディジェクト指向 #1》が示したような身体のモノ化のように、映像内のスマートフォンをあたかもモノのように指が押し下げているように見える。《ボディジェクト指向 #1》は水平に置かれた大型ディスプレイの真中の両面の鏡が置かれおり、鏡を切断面として片面に左手が机の上の右手の指を動かす映像、もうひとつの面に右手がネギやゴボウなどの棒状の野菜を動かす映像が流れている。鏡が中央にあるため、指を動かす映像も野菜も動かす映像も面対称になっている。作品を見るとすぐに、自分の身体の一部である指が野菜などの単なるモノのように感じられるという奇妙な感覚に襲われる。

身体と言ってみたところで、何よりもまずそれはオブジェクトのことであり、そのオブジェクトの上に「body」という名の、なにやら特別なラベルが貼られているだけなのだ、と考えてみる(それは、認知科学的の世界では「身体所有感」と呼ばれるような感覚的対象である)。そうであるならば、僕たちは誰であれ、その「body」ラベルを首尾よく剥がすことさえできれば、「オブジェクトとしての身体」にアクセすることができるだろう。しかし、簡単な実験をしてみることで誰でもすぐにわかることだが、この「body」という名のラベルは、なかなかの厄介者で、どのような接着剤をもってしても叶わないような強力な吸着力で、オブジェクトにべったりと張り付いていてしまっている。そのようなかたちで、僕たちの身体は、周囲の物体に溢れた風景から隔離され、身体の牢獄の中で、身体という特別な役回りを演じ続けることを強いられるのだ。本作は、そのような原理的な分離不可能性を宿命づけられた「bodiject=オブジェクトとしての身体」へとアクセスするための、一つの体験装置として(結果として)試作さ(せら)れたものである。8

小鷹が書くように「body」というラベルを剥がされたモノとしての身体に触れているように見えるからこそ、《ボディジェクト指向 #1》を見る者は自らの身体の奥底から気持ち悪さを感じるのであろう。画家であり、評論家でもある古谷利裕は次のようにこの感覚を記している。

シンプルに、誰でもが一目見ればわかるし、逆に、一目見てわからなければ、多分どんなに説明されてもわからない。今まで自分でも気づいていなかったからだのどこかの「敏感な場所」に、前触れなくふっと触れられて、おおっとなる感じ。じぶんのからだにこんな場所があったのかと新たに気づくというような感じ。9

《ボディジェクト指向 #1》は身体とモノとの「原理的な分離不可能性」を解き、身体が「モノ」であることをシンプルに提示してくる。小鷹はこの作品で、モノとして触れられる身体とそれに触れる身体とのあいだに生じるひとつの「断層」を明快に示していると考えられる。この「断層」もとで、「指」は身体でもなく、映像でもなく、誰もが持っているが普段は触れることがないモノでしかない。「指」は「身体」というラベルを剥がされていると同時に、「映像」というラベルも剥がされている。それは映像であって映像でなく、身体であって身体ではなく、単なるモノであることが示されているために、見る者はとても奇妙な感覚を覚えるのである。

《公認候補》でも、下からの光によって曖昧になったディスプレイとタブレットとの物理的な高さの違いよりも、「スマートフォンを握る手」という影を持つ映像の方が物理的な存在となっている。ここでは、「光源反転空間」に置かれたタブレットというモノに「映像」というラベルを貼り付け、大型ディスプレイとタブレットに映る映像の方に「モノ」というラベルを貼り付けている。小鷹は《ボディジェクト指向 #1》で身体から「body」というラベルの引き離しに成功し、《公認候補》では「モノ」と「映像」とのラベルの張替えに成功していると言える。身体と「body」ほどの強固な結ぶ付きではないけれど、モノと映像とはともに固有のラベルを持っている。その固有のラベルを「光源反転空間」と俯瞰視点という条件のもとで影をマスキングして、バルクの存在感を曖昧にし、「理念的サーフェイス」のもとでモノを「映像」に、映像を「モノ」に張り替えてしまう。これらはラベルの張替えだけで、実際のところは、映像は映像であり、モノはモノのままである。けれど、水平に置かれた複数のディスプレイが切り出す「理念的サーフェイス」と「光源反転空間」のなかでバルクの存在が曖昧になり、それぞれに張り付いたラベルがめくれ、そして、はがれて、張り替え可能になっている。ラベルの張替えによってモノが「映像」になり、映像が「モノ」となっているからこそ、映像が示す「断層」が物理的な現象のように生々しく迫ってくるのである。

最後に《公認候補》の右側の部分を分析をしたい。ここでは、中央、左の要素にさらにマスキングテープと透明なアクリルのオブジェクトが追加されている。大型ディスプレイの上に置かれた黄色いマスキングテープは下からの光によって影をマスキングされた状態で、複数のスマートフォンが置かれたレイヤーの上にある。そして、影を失ったマスキングテープは、タブレットに表示される複数のスマートフォンの映像には登場しない。影を失ったマスキンテープは映像に登場しない。映像の撮影の段階ではなかったマスキングテープが、同じ映像を構成するレイヤーの上に置かれている。一瞬、マスキングテープは映像なのではないかと思うけれど、それはディスプレイに置かれたモノである。それが置かれているレイヤーは左右にスライドするけれど、マスキングテープは全く動くことない。透明なアクリルのオブジェクトは映像に「断層」をつくっている。映像としての「断層」はないが、モノによって断層がつくられている。

大型ディスプレイの上につくられる理念的サーフェイスに全ての要素が集約されていくのを防ぐかのように、マスキングテープと透明アクリルのオブジェクトは存在している。《公認候補》では、この二つのオブジェクトにのみかろうじてバルクが存在する状態になっている。小鷹は身体から「body」のラベルを剥がすようにバルクからサーフェイスを引き離していくと同時に、ラベルを張り替えられることがない「モノとしてのモノ」を映像の上に置いている。それらは「光源反転空間」に置いて、影の消失の影響を受けないように設定されている。マスキングテープはスライドする映像との関係でモノであることが強調され、アクリルのオブジェクトは透明な存在として内部に映像/照明の光を透過して屈折させることでモノのラベルを保ち続けている。小鷹はなぜこのふたつのモノだけ理念的サーフェイスに組み込まず、「モノ」から「映像」へのラベルの張替えをしなかったのだろうか。マスキングテープと透明なアクリルのオブジェクトのふたつのモノのラベルをただ引き剥がそうと試みたのかもしれない。モノのラベルを引き剥がされたモノはモノでもないが、映像でもない。けれど、モノにもなれるし、映像にもなれる。小鷹はこのふたつのモノを使って、ディスプレイのこちら側でディスプレイの向こう側のようにバルクとサーフェイスとの関係を自在に変化できる存在が可能となる条件を探っているのかもしれない。《公認候補》は少なくともそのひとつの条件が、水平に置かれたディスプレイが切り取る「光源反転空間」での「影」の操作にあることを示しているのである。

ここまで水平に置かれた大型ディスプレイを俯瞰視点で見た際に生じるバルクが曖昧になる「光源反転空間」と「理念的サーフェイス」について考察してきた。《公認候補》は、大型ディスプレイが切り出す空間自体をひとつのサーフェイスにしてしまう仕掛けがある。それが、大型ディスプレイを映し出すように壁に設置された3枚の鏡である。3枚の鏡がつくるサーフェイスには、大型ディスプレイとその上に置かれたスマートフォン、タブレットが切り出す「光源反転空間」と「理念的サーフェイス」とが押し込められている。そのとき不思議なのが、複数の様相を示すバルクを持つ空間がひとつのサーフェイスに押し込められるにも関わらず、歪みが生じないことである。今回は鏡について考察することはできないが。連載のどこか鏡については考察したいと考えている。

参考文献・URL

  1. 水野勝仁「連載第3回 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳:インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか?」2018年、https://themassage.jp/throughsurface03/(最終アクセス:2018/12/19)
  2. 清水穣「凍らない音楽——幻の「はっぱとはらっぱ」展のために」『プルモラン——単数にして複数の存在』、現代思潮社、2011年、p.194-195
  3. gnck「モネと水鏡」『パンのパン03——たくさんの写真についての論特集号』、パンのパン、2018年、p.6
  4. 小鷹研理「《公認候補》作品説明」『拡張する知覚 展示作品配置図」、2018年
  5. 小鷹研理「小鷹研究室の各位各論身体論」、2017年、p.25、 http://www.kenrikodaka.com/project/index.html(最終アクセス:2018/12/19)
  6. 同上PDF、 p.25
  7. 水野勝仁「連載第1回 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳:サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る」2018年、https://themassage.jp/throughsurface01/(最終アクセス:2018/12/19)
  8. 小鷹研理「《ボディジェクト指向 #1》作品説明」『拡張する知覚 展示作品配置図」、2018年
  9. 古谷利裕「偽日記@はてな 2018-10-05」http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20181005(最終アクセス:2018/12/19)

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

50 Japanese track maker / musician 2018

日本の豊穣な地下シーンを50組のアーティストと楽曲で振り返る。

S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, C=Chocolat Heartnight

2016年から数えてこれで3回目となる日本のミュージシャンを取り上げた年間ベストです。この3年で、メディアでの活動量は落ちてしまいましたが、その間にも新しい作品が次々と生み出されてきました。最近は、追いつくのは無理でもささやかながらなにかしかの役に立ちたい、という思いで月間のレビューという形を採用しています。さて、2018年の音楽シーンはどうだったでしょうか? 長年変化し続ける音楽の現場を見続けてきて、これだけは真実であると言えます。どんなに停滞しているように見える時代でも、その背後で素晴らしい作品が生み出され続けている。それはこの宇宙の存在と同じように、当たり前の事実でしょう。けれども、真実が無数に存在しうる虚無的な世界が広がっている現代において、ただ存在するだけでこれほど美しい事実もほかにないように思います。

とにかく、多様な傑作が今年も実りました。世界のレーベルから多くの日本人が続々と作品をリリースしていて、まだそれほど頻繁ではありませんが実際にライブを見る機会にも恵まれました。たとえ日本のシーンがどれほど縮小しても、世界中のフリークたちが血眼でまだ名付けられていないその音に込められた価値を探し続けている限り、必ずどこかにその居場所が見つかるはずです。いちリスナーとしてわたしたちはそのようにして発見された新しい価値をただメディアの上で伝えることしかできませんが、その価値を伝えるうえで何かの役に立っているなら嬉しく思います。それでは今年の50です。例年のように順位が付けられないので、アルファベット順に並べてみました。

7FO – 竜のぬけがら Ryu no Nukegara

〈RVNG〉からも作品をリリースする大阪を拠点に活動する音楽家7FOの新作。ダブ処理が施された音響に、幸福感をたたえたゆるやかな電子音が交錯する、どこか朗らかで温かみのある不思議なサウンドが凍えた心を溶かす。細野晴臣が作り出した実験のような、乾いたスピリチュアリティと洗練されたピュアなマインドが、変化に富んだ音響の中を満ちわたっている。異世界へのファンタスティックな旅路を見せる、心地のよい全5曲。(S)

ALMA – Tearful Lagoon

この曲を聞いていて、突然「国道20号線」という映画のことを思い出した。国道という普通の風景に横たわる若者たちの生き様の生々しさは、鋭く心をえぐられるものがあった。このハリボテのような現実からの出口のなさ、というかそもそも出口などないという現実を前に、わたしたちはこの生身の体を燃料に生きるほかない。そうやって自分を失いながら、次第に老いながら、感覚を鈍磨させながら、希望を引き換えに生き延びていく。この非現実的でヒリヒリとした刹那の儚さを持つ音楽は、そんな現実を燃やしたあとの夢の残り香ような切なさを響かせている。(S)

アルプ – アルプの音楽会 音の顔と性格

木下美紗都と石塚周太による音楽プロジェクトの、2016年に横浜のSTスポットで行われた公演『アルプの音楽会 音の顔と性格』の記録音源。音楽サイトのototoyよりハイレゾ・フォーマットで配信されている。「ふだんはなかなか聞こえるようにはならない音や考え」を可視/聴化し、「そのように聞こえるという形をまさにその形にしている条件や状態」である、音の「たくさんの顔」を探るという説明が付属のブックレットに記されているが、ここではまず音が現象として成立するための様々な「動詞」(叩く、触れる、撫でる、擦れる、揺れる、反響する、弾ける、etc)が、音と等価なレベルで現前化している。物理法則という人間の干渉不可能なルールに基づきながらも、音はひとつの動きで驚くほど表情を変えては、一箇所に留まることはできない。そうしたアンビバレントな特性を熟知しつつ操作しながら、今作で彼らは身体と音の接点を生み出そうとしているように思う。残念ながら公演には足を運べなかったので、生の空間がどんなものであったか体験できなかったのが悔しい。音源には公演のダイジェスト映像が付いてきます。(T)

https://ototoy.jp/_/default/p/118745

Bleed boi – 糞の平和

今年見たイベントの中ではSUBURBAN MUSÏKが主催したCapitalizmが、異端の表現を束ねながらも二人の世界観を爆発させていたのが鮮烈に印象に残っている。覚悟して注文したのだけど案の定届かず、本人からイベントの際に売ってもらったEvian Volvikの新名義Bleed boiによる作品。歪みきったエクストリームな音像に抒情性も垣間見えるとても美しい作品だが、それ以前にいつも音にまだ見ぬ感覚を求めていて、新しい人たちが新しい未来を形作っているのを見ると、変わらない真実を目撃しているような気持ちになる。この向こう見ずな加速感はそのような傍若無人な若さによってのみ引き出されるのだろう。いつも前のめりで、ぶっ飛んでいて、ちょっと儚さもある。そんな存在を美しいと思って眺めてしまう。(S)

charite – In a Trash Bag

北海道在住の大学生と思しきトラックメーカー、シャリテによるセカンドアルバム。壮大なSF映画のサウンドトラックのようなスケール感で描かれたミニマル電子音響。洗練と成熟を極めたそんなサウンドを新しい世代がナチュラルに作り出している、という事実に驚きを隠せない。スモッグのような朝靄のような霧がかった世界で鳴らされる音の響きはすべてが耳に心地よく、ゆっくりとした時間感覚の中で次第にその輪郭を現していく。どこか遠くの景色を眺めているようなゆったりとした時間感覚があり、行くあてもなく現れたフューチャリスティックな音響がその存在を響かせながら消えていく。どこか孤独な感触を持つ音響が特徴的な作品。(S)

Constellation Botsu – susan balmar

島根から東京に居を移したConstellation Botsuによる、〈Psalmus Diuersae〉から出たばかりの作品。タイトルがsusan balmarってイカれてる。フラットになるまで咀嚼されたノイズ音響が連打される、まるで狂気の放出のようなノイジーなエネルギーを無方向に放射し続ける5曲。音楽を無になるまで摩耗させたかのようなその荒唐無稽な作風は健在。カバーアートワークは星川あさこ。(S)

http://psalm.us/botsu.html

DJ Exilevevo – Pure Trance (Mixtape)

ゴダール映画のカットアップのように、さまざまな音が次々に飛び出してくる。ポップで、美しくて、少し恐ろしい。その一見めちゃくちゃに思える音の洪水が新鮮な刺激を生み、それが心地良さに変わる。そして、私たちの日常もこんなふうなのかもしれないとふと気づく。キラキラとした時間もあれば、おどろおどろしい感情が渦巻くときもある(外には出さなくても)。ぼんやりと安らかな気持ちになる時間もあるだろう。自分の目線の外側に出て、そこからそんな日常を見たら、きれいに編集された映画とは違って、起こるできごとには脈略がなく、バラバラで、混沌としているに違いない。そういう日々を私たちは生き抜いている。それだけでもほめられるに値すると思ってもいいのかもしれない……と、内緒話のようなささやきに耳をくすぐられながら思う。「こんにちは。あなたは僕にとって100パーセントの女の子なんですよ」(C)

Elemental 95 – WEB / そ の 意 味 で

海外でのTumblrやMTVなどに続いて、日本でも、ゲームや広告、インターネット界隈で、また、インターネットの外で、これまでvaporwaveを知らなかった人々がvaporwaveに触れる機会が増えた2018年。そんな2018年が始まったばかりの1月に、日本のseaketaのキュレーションによって制作されたコンピレーションアルバム。ゲームをしたりテレビを観たりして過ごした80年代から90年代の幸福な記憶に思いをはせてジェネレーターたちが作ったのが初期のvaporwaveだとすれば、その頃のvaporwaveに思いをはせて作られたこのアルバムは、vaporwaveがある意味一周したということを表しているのかもしれない。そして、そんな入れ子のような、合わせ鏡のような状況、それもまたvaporwaveなのだろうと思う。(C)

emamouse – Closing Dog’s Gate

emamouseによる〈Psalmus diuersae〉からの久々のリリース。Bandcampにインタビューが掲載されたり海外からの注目度が高まっているものの、唯一無二の世界観をマイペースに生み続ける彼女のめくるめく不思議の国に安心して身を浸すことのできる3曲。不安や希望のようなかすかな感情が、おとぎ話のような複雑さの中に入り交じる。その奇妙なサウンドから溢れ出てくる生命感が放つ、暗い躍動がほのかに眩しく、そのお話しの終わりには、どこか切ない感情だけが残される。(S)

http://psalm.us/closingdogsgate.html

feather shuttles forever – 提案 (feat. Tenma Tenma, kyooo, hikaru yamada, 入江陽, SNJO, 西海マリ) & 提案 (feat. Tenma Tenma, kyooo, hikaru yamada, 入江陽, SNJO, 西海マリ) 折りたたみedit

「失踪しませんか?」というフレーズで始まる(なんというインパクト!)、キャッチーで疾走感のある1曲。“提案”の5ヶ月ほどのちにリリースされた“提案 折りたたみedit”がまたとても奇妙で楽しい。hikaru yamadaは、“折りたたみedit”とは「1番(左ch:Tenma Tenma, kyooo)と2番(右ch:SNJO, 西海マリ, 入江陽)を同時に聴けるようにしたものです。左右で失踪するので頭おかしくなれます。あと後半はインストになっているのでみんなで歌ってそれぞれの“提案”を完成させてください」と解説している。それぞれが好き勝手に、かつ、気分良く歌っているかのように左右から聞こえてくる歌声がちょっとしたカオスを作り出す。しかもそれがまったく不快ではなく、むしろ心地良い。なぜそんなふうに感じるのだろうか……と考えているうちにこのカオスの中で失踪してしまう。こんな気持ち良く誰かと失踪してみたい、と思う。(C)

Foodman – Moriyama

マンスリーでは「ARU OTOKO NO DENSETSU」を取り上げたのだけど、個人的には〈Palto Flats〉からリリースされたこちらも押したい。「ARU OTOKO NO DENSETSU」がさまざまな試みを詰め込んだ実験作だとしたら、「Moriyama」は包容力で聴く者を包み込む安心感をまとった聴き心地のある作品。もちろんほかの何者でもないいつものぶっ飛んだ食品まつり節であるのだが、そのスタイルはより洗練度を増して、その独自性を確固たる領域として出現させている。ファンタジックな架空性を纏っていたテクスチャーの現代味やリズムのなかにある歴史性がリアルさを獲得して、わたしたちの持っていた音楽の概念を上書きするような、普遍的な確からしさを獲得したかのような。何時も常に軽やかで、ミニマルな要素にも、森の生態系のような複雑性や彩りが広がっている。彼の音楽性の持つその豊かさの中には、いつでも明るい未来を感じることができる。(S)

H.Takahashi – Low Power

アンビエントの持つ現代的な可能性を更新し続ける特異な音楽家H.Takahashiによる、〈White Paddy Mountain〉からの新作。控えめな感触を持った電子音響がミニマルな世界を構築する本作のタイトルは「Low Power」。都市文化の持つハイテンションなエネルギーにかき消されがちな、低層にあるさまざまな豊かな感覚を掘り起こすかのような、プリミティブな感覚に触れるラディカルな優しさに満ちた作品。箱庭的ともいえるその小さな空間の価値を、稀有なバランス感覚によって浮かび上がらせている。(S)

Hajime Iida – Rubber Band EP

レーベル・HIHATから今年11月にリリースされた『Rubber Band EP』。曲名には数字が並ぶのみというシンプルさに加えて、Hajime Iidaに関しては鳥取の日本人ハウスミュージックプロデューサーであるということ以外はアーティスト情報がない(この感じは2017年にMartine RecordsからリリースされたOtenba Kidにも近いものがある。Otenba KidはHajime Iida以上にまったく情報がないが。奇しくもどちらも“ちょうど良い塩梅のハウスミュージック”)。リリース作品のページにはアーティストのSNSのリンクがあるのが当たり前となっている今、手にした作品のみで判断することがあるというのはある意味嬉しいことでもある。そして、そのことにどこかほっとしている自分もいる。音はソリッドな感じのものから軽やかなものまでどれも気持ち良く踊れるものばかり。購入した人だけが楽しめるしかけもあるので、ぜひ所有して楽しんでもらいたいと思う。(C)

Hitoshi Kojima – Clouds

O.N.Oが主催するレーベル〈STRUCT〉からのリリースなどで注目される宇都宮を拠点に活動するトラックメイカー。弾むように打ち鳴らされる変則的で硬質なビートに、荒れた質感に包まれたインダストリアルな電子音響が絡み合い、荒涼とした迷宮のような入り組んだ世界を描き出す。歌詞を聴き取ることができないが、その歪んだボーカルワークも際立っている。抑制された緊張がどこまでも心地よい、いつか大音響で聴いてみたい作品。(S)

Jigga – lillllill

ほとんどインフォが見つからず、謎のオブラートに包まれた(がゆえに一層そそられる)日本人プロデューサーのJigga(≒「自我」)による、今をときめくサウジアラビアのBedouin RecordsよりリリースされたEP。グライムやベース、テクノ、インダストリアル、といった様々なダンスミュージックのサウンドをエクストリームに突きつめつつ、核となるアジア大陸のサウンドを大胆にコラージュして折衷せしめた、異様な官能性と神秘性が脈打つ音響作品。メタリックなエフェクトを呈したボーカルのワンフレーズが反復しながら、威圧的なビートのパターンが徐々に変化していく“Nitya”の破壊力と陶酔感たるや。トライブなどという土着の形容を悠に振り切って、超次元で音と音がメルトしていく、トランスナショナルなエクスペリメンタル。(T)

Kazumichi Komatsu – I Didn’t Do It Nobody Saw Me Do It There’s No Way You Can Prove Anything

2018年の1月1日にリリースされた作品だが、最後の曲を除いて2013年に作られたもの。5年も前となると随分前に感じるが、まったく古びてはいない。どこか遠い世界に迷い込んだような寂しさと情緒、感情の奥をくすぐられるような儚さと奇妙さを持つメロディがい響きわたり、ゆっくりとくぐもった視界の先に抽象的なビートが姿が現しては消える。内省的といってもよい繊細な作りをしているけれど、もうすでに揺るがない世界観を獲得している。ラテンアメリカ文学のような幻想性を持つ印象的な作品。(S)

Koeosaeme – Float

こちらもマンスリーでも取り上げた作品。東京を拠点とするryu yoshizawaのプロジェクトkoeosaemeの〈angoisse〉からリリースされた作品。カットアップコラージュのように音の断片が抽象的なイメージを描く、明朗さに貫かれた作品。ぶつかり合う音の要素は強いコントラストを放ち、常に新鮮な面白さと驚きに貫かれたパターンを描き出す。フラットかつ乾いたエレクトロニックな音の断片が、具体音と混ぜ合わされる。高度に洗練された職人芸のような構成で、箱庭のような繊細な美しい世界観を浮かび上がらせている。(S)

kyomdarak – 月の光と幻想

岐阜県のポストブラックメタルバンド、虚無堕落の通算9作目のフルアルバム。BGMのように背後で鳴り響くリズミカルなドラム、重金属のように重厚なギターの轟音がエコーのように深く沈み込み、ドローン・アンビエントのようなさざなみで聴くものを包み込む。終末の向こう側に来てしまったかのような、崩壊した世界が見せる耽美的な美しさ。その暗さへの安堵に意識を溶解させたくなる。(S)

Le Makeup – Matra

マンスリーでも紹介した、大阪を拠点に活動するLe Makeupの6曲入りのEP。汎アジアを掲げ活動するコレクティブ〈Eternal Dragonz〉より。何よりも印象的なのは彼の甘い響きを持つボーカルだろう。エレクトロニックで複雑なテクスチャーを持つトラックに、ささやくように歌われるのは、どこか切なさを感じる詩の世界。そのヒリヒリとした青さを放つ情景は、Instagramによって切り取られた日常のような、見知らぬ人々の感情を眺めているような感触がある。さまざまな感情がかつては存在したことを示す淡々とした記録のように、残されたそれはまるで物質のような存在感を放つ。失われた過去の時間という記憶が持つ感傷とその美しさが、結晶のように閉じ込められた作品。(S)

Local Visions – Megadrive

今年3月にスタートしたばかりにもかかわらず、すでに上質な作品を数多くリリースしている日本発信のレーベル・Local Visions。その第1弾『Megadrive』は華やかな幕開けにふさわしいコンピレーションアルバム。さまざまなアーティストのそれぞれの色があるトラックが並ぶものの、単純なアソートではなくレーベルとしてのカラーできちんとパッケージングされているのは、主宰の捨てアカウントによるところが大きいのではないだろうか。17曲目の“Megadrive”はアルバムの最後の曲でありながら、トレイラーのような空気を漂わせている。これからLocal Visionsはどこへ向かっていくのか……という期待を写し出しているようにも思える。「部屋の窓から、都市を眺めているような雰囲気」というのはこの曲についての捨てアカ氏のことばだが、きっと、窓から見えているのはLocal Visionsの未来だろう。(C)

Metome – Dialect

大阪を拠点に活動する音楽家Takahiro Uchiboriのソロプロジェクトの、3作目となるアルバム。丹念に描かれたソウルフルな11枚の風景画。空間を保ちながら飛翔し、けして着地を踏み外さない研ぎ澄まされたビート、ハンドクラップから断片的なボーカルまで、すべてがパズルのように有り得べき場所に収まり響き合う。その完成度は凍えるように硬質で、音そのものが孤独を描くようだ。ほかには誰もたどり着けなかったエレクトロニックの極北を行く、洗練された楽曲が鳴り響く。(S)

メトロノリ – works ’14-’18 ペール Metoronori メトロノリ

Orange Milk Records〉よりメトロノリの作品選。儚くささやくような彼女の聴き取ることのできない抽象的なボーカルに、触れたら壊れてしまいそうな繊細で構築された音響が織物のように組み込まれ、張り詰めた美しさを響かせる。どこまでもなにも出来事が起こらない、終わりのない夢を見ているような感覚が持続していく。ただそこに音が存在することが許されるような、ポップを超えて胸に響く作品。(S)

NEW MANUKE – iPAD, LICK FINGER AND SWIPE, GRANDSON GETS ANGRY

栗原ペダル、荒木優光、DISTESTの三人から成るエクペリメンタル・ジャンクバンドの新作テープ。短いスパンで執拗に反復されるサンプリング音、並べるというよりはぶち撒けるような勢いのコラージュ感覚、強弱の境界がつかないビートとぽんぽん浮遊する電子音、と周辺全体を徹底的に散らかしながらも、後半にかけて突如踊らせにまとめ上げてくるところが憎い。テープの音圧との相性も抜群で、暴力的かつ粗雑なサウンドに一層拍車がかかる。基礎を熟知した人間のスカムは凄いとどこかで聞いたことがあったが(漫才だったかもしれない)、計算された破壊と方法で構築されたサウンドごった煮は、どこよりも美麗で強烈な輝きと悪臭を放っている。石塚俊による、銀の箔で刻印されたクレジットとタイトルのデザインも完璧。B面には小松千倫によるミックスが収録。(T)

Nothto – Addiction

Wasabi Tapes〉からのリリースはちょっと意外だったのだけど、中身を聴いてみて納得。ホワイトノイズとまでは行かないが、まるで自然音のような異様な音像、とても自然に次の場所へと展開していくより引き伸ばされた奇妙なゆらぎは、自然のゆったりとした時間の流れを都市のビルの合間から垣間見ているような気持ちになる。その情景は、そこにあるのにけして近づくことのできない光景のように、わたしたちの窮屈な日常にピッタリとはまり込む。(S)

Nozomu Matsumoto – Climatotherapy

MASSAGEのインタビューでも取り上げた、The Death of RaveからリリースされたNozomu MatsumotoによるファーストLP。作品に派生する様々なコンセプトについてはこちらを読んでいただきたいが、個人的に初めは、内部がぽっくりと空洞化しているかのような、何か不気味な印象を作品に覚えていた自分が、何十回と再生を繰り返すうちに、いつの間にかそこに情緒に近いエモーションを抱いていたことが驚きだった。ヒューマンとノンヒューマンの境界線を、自らの適応が拭い去っていくかのような体験というか。絶対的なアイデンティティとして機能する自らの身体性が、外部世界に委託、流出することが実現化されつつある今、感覚は希薄になるのではなく、無限に複合化していく。他者と共有された対象をわが身のものとして受肉し、これまでと同じようにそこに感覚を覚え感情を宿らせようと、我々は確かに望んでいる。モノとマルチが往還しながら更新される現代と、その数歩先のハイパーリアルな近未来を、流転するテクスチャーと圧倒的なスケールで描いた、エポックメイキングな傑作。(T)

NTsKi – 真夏のラビリンス

今年は数作のシングルをセルフリリースしたNTsKiの作品から、夏の楽曲。レゲエビートに載せて独特の甘くドリーミーなボーカルを響かせる、夏らしい一曲になっている。どのシングルも良かったけれど、この曲はゆったりとしたリズムと日本語の歌詞の響き合いが印象に残った。古びた写真にかすかに残る切ない記憶のような、ちょっぴり切ないメロディに心を締め付けられる。(S)

Orangeade – Broccoli is Here

12月26日発売、かけ込み2018年リリースとなったこの作品。メンバーの佐藤望より「音楽性を大幅に刷新」というどことなく不安にさせるようなコメントが出ていたが、なんのことはない、確かな完成度と心地良さ、そこは前作『Orangeade』と変わらず。しかし、英語詞、ニュークラッシックあるいはアンビエントの趣きのインストゥルメンタル、予想を裏切り続けるように1曲の中でどんどん変化していくメロディ……と確かにシティ感の強い前作とは異なったさまざまな試みが行なわれている。彼らとともに新しいアドベンチャーを楽しむような心踊る1枚。年末ぎりぎりの発売日はあえて年間ベストに入らないようにしようとする意図なのか……と思うのは考えすぎだろうか。こちらは、Orangeadeのショップからの直接通販分は完売ながら、CDショップなどでまだ購入できるもよう。(C)

https://shop.orangeade.love/items/15786776

Orangeade – Orangeade

リリース前のストリーミングやSNSでの視聴はなく、通販でCDを購入するというのがこの作品を聴く唯一の手段だった(のちに7インチレコードが全国流通盤としてリリースされている)。しかし、これがデビュー作品となるOrangeadeとしての音はどこにもない。ほぼジャケ買いということになる。しばらくして届いたCDを再生したときには思わずガッツポーズ、くらいの気持ちだった。潔いほどに良質のポップス、そのサウンドはどこか太陽の匂いがする。どう考えても初めて聴く音楽なのに、よく知っている懐かしい人やもの、あるいは場所のようでもあり、不思議な安心感と心地良さ、そして高揚感がある。そんな作品を選ばないわけにはいかないのでこうして書いているものの、今すぐに聴いてもらえないのが残念に思う。でも、なんらかの機会があったらぜひ聴いてもらいたいので、ここにこうして書いておくことにする。(これを書き終わった日に、アルバム『Broccoli is Here』のリリースがアナウンスされた。メンバーの佐藤望によると「前作から音楽性を大幅に刷新」とのこと)(C)

http://orangeade.love

パソコン音楽クラブ – DREAM WALK

この作品のリリースも白昼夢みたいだった熱海でのイベントも、もうずいぶん前のような気がするけれど、実際はまだほんの半年ほどしか経っていない。彼らの足取りはずいぶんとしっかりとしたものになってきていると思う。しかしだからといって、ちょっと何かこれまでの型のようなものにはめようとすると、とたんにゆるっとすり抜けてしまう。誰かにとって価値のないものもほかの誰かにとってはプレシャスなものになるように、それまで誰も気にとめていなかったものやむしろ嘲笑の対象だったようなものも新しいもの、なんだかとても気になるものとして彼らは見せてくれる。しかも、構えたり気負ったりすることなく、なんとはなしといったふうにそれをやってみせる。きっとこれからも、気軽に楽しく音楽を作るクラブのそんなふたりに、私たちは癒され、そして、踊らされるのだろう。(C)

パソコン音楽クラブ – CONDOMINIUM. ー Atrium Plants EP

パソコン音楽クラブのside Bともいえるリリース。Martine Recordsからのリリース『PARK CITY』や全国流通盤の『DREAM WALK』などのようなサウンドだけを聴いて彼らのライブに行くと、こういった音に驚くこともあるかもしれない。このシームレスなチャンネル切り替えを何食わぬ顔でやってしまうところがパソコン音楽クラブの良さであり、どこまでいってもつかみどころのない感じがする恐ろしさでもある。ただ、エレクトリックなダンスミュージックでありながら、どこかまろやかさがある音はやはり彼らならでは。長時間踊って少し疲れた身体でも安心して身を任せられそうな音に、もしかしたら、どこかに優しさのようなものがひっそりと織り込まれているのかもしれない、などと思う。もっとも、彼ら自身はそれには気がついていないのだろうけれども。(C)

Photon Poetry – 風の王国

Dark Jinjaを主催するsoujによる、新しい名義Photon Poetryによるリリース作品。荒廃した都市の持つ廃墟的な美しさが迷宮のように複雑に織りなされ、コラージュのように浮かび上がる。その先端性たるが故に劣化も早い世界のエレクトロニックのシーンにあって、久しぶりに耳を更新される感覚を覚えた。前衛的なグライムや抽象的なインダストリアルといった現代のモードを手中にしながらも、アジア的でもあり、独特の叙情性とファンタジックな空想性もあり、数少ない楽曲の中に多様な今の先端が詰め込まれている。(S)

Rafto – Island

日本のレーベル〈Solitude Solutions〉より、初のフィジカルリリース。Islandをテーマに抽象的な世界を描いた8つの楽曲からなる。シャワーのように降り注ぐそのサウンドはこなれていて、持続する一貫した世界を作り出している。描かれるその世界は基本的にモノクロームだが、その硬質さの奥にどこかリラックスしたムードも漂う。自然のような超然とした佇まいに、光の波長のような眩しさを持つ音響が響き渡る。hakkeによるジャケットワークもマッチしていてよい。(S)

釈迦坊主 – HEISEI

ホストの体験からゲームから影響まで、その濃い経歴をニコニコ動画、YouTubeを通じて発信してきた彼が、トラックメイキングからマスタリングまでセルフプロデュースしたという作品。スペーシーでゴシックなトラップビートに載せたそのライミングは、まったく力みのない姿勢のまま変則的なリズムを自由自在に乗りこなす。流れるように紡ぎ出されるそのリリックは、赤裸々だがなぜだかとても爽やかな響きを持つ。その特異な存在はきっとこのシーンの次の領域を切り拓くにちがいない。そんな刺激的な予感に満ちた作品。(S)

shotahirama / former_airline – 結論ライツ

久保正樹によるソロ・プロジェクトformer_airlineとニューヨーク出身の音楽家、shotahiramaによるレーベル〈SIGNALDADA〉からのスプリット作品。shotahiramaサイドはエレクトロニクスとノイズが粘土のように変幻自在に形を変え交錯するトリッキーなサウンドコラージュ、former_airlineサイドはな螺旋のようなパターンを響かせながら上昇を描くダビーで催眠的なミニマルビート。ショーケース的にそれぞれの特性をシンクロさせた良作。(S)

SUGAI KEN – tele-n-tech-da

既存の郷土芸能/伝統を脱構築し、新しい日本の情景を打ち立てる屈指のハードコア電子音楽家Sugai Ken。昨年のRVNG Intl.からの『UkabazUmorezu』で一気にその名を国内外に知らしめたが、今年はYerevan Tapesより『岩石考 -yOrUkOrU』と、今作の『てれんてくだ – tele-n-tech-da』の二本をリリース。架空のラジオドラマのように作り上げたという言葉通り、前作の研ぎ澄まされたミニマルな音響とは対照に、今作ではより奔放かつ雑味を帯びたサウンド・コラージュが繰り広げられる。見立てられたそれぞれの由来が何なのかは知識不足のため不明だが、狂気と恐怖、高揚の入り混じった感覚が全体にひりついている。個人的には、今年のMUTEKで見たマルチチャンネルでの演奏にぶちのめされたのも印象に大きい。怒涛のディグ精神とフレキシブルなセンスをもってミュージック・コンクレートを鮮やかに更新する、ブリリアントな一枚。(T)

suwakazuya – a first question and big yes

とめどなく溢れ出る命のように喜びに満ちた音楽。瞬間瞬間に音のイメージが、色鮮やかに変転し続け、踊りを踊るようにさまざまな形を描いていく。言語化を拒むように掴んでは転げていくその抽象的な形態は難解というよりも、未だ名付けられぬものが持つ純粋さと、喜びに満ちあふれているように感じる。わたしたちはそれを音楽と呼んでもよいのだし、たぶんそう呼ばなくともよいのだ。ただ泡のように次々と生まれ出ては消える心地よい驚きが続けばよいのだから。(S)

TAKAHIRO MUKAÏ- Cognitive Dystopia

大阪を拠点に活動するTAKAHIRO MUKAÏの〈ERR REC〉からとなる、独特の歪を見せるノイジーな感触を持つミニマルミュージック。輪郭のぼやけた音のテクスチャーに、柔らかなリズムが波のように寄せては返すうねりを重ねていく。8ミリフィルムのモンタージュのような抽象的かつ柔らかな音像で脳をかき回し、跳ねるように躍動するリズムの持つ優しい狂気で聴くものを包み込む作品。(S)

takao – STEALTH

マンスリーでも取り上げたけれど、その後めでたく〈EM RECORDS〉からリリースされたtakaoによる作品。カテゴライズするとしたらもちろんアンビエント・ニューエイジということになるのだろうけど、室内楽的な作品にしてはその存在感はあまりに苛烈だ。アコースティックな響きに垣間見える柔らかい優しさに満ちたエレクトロニックなテクスチャー、その調和が幸福なユートピア像を浮かび上がらせる。レトロスペクティブともいえる不可侵の気分が支配する現代において、そんな時代性とは全く無関係に、叙情性やスピリチュアリティの代わりとなる今を示す。そこに接続するその先を示してくれた作品。(S)

滝沢朋恵 – amphora

シンガーソングライターの滝沢朋恵による、3枚目のフルアルバムがHEADZよりリリース。様々な分野でその名を広げている滝沢だが、今作でもやはり実験的な試みをナチュラルに仕掛けながら、奇妙な温度を保ったその歌声を響かせている。オリジナルと虚像をくるくる回転しながら軌道はどんどん奥深く遠ざかり、離れるにしたがって照射された光はその輝度を増していく。薄い膜のその先で輪郭をぼやかしながら、こちら側の感覚を掬い取ってはなぞり、呼びかけてくれるかのような、不思議な距離と親密さを感じる作品。(T)

Toiret Status – Toiret Statue

山口で活動するToiret Statusによる、〈PLUS100 Records〉からの作品。知らないならばとにかく何が何でも聴いてもらいたいアーティストの一人。そのグルーヴは更新されており、独自のフリーキーさを保ちながらもより身体性を獲得していっているように思う。そこで獲得されるのは踊れる身体というだけでなく、あらたな身体感覚にほかならない。だけど、このような唯一無二のスタイルを持つ作家において進化とは何かという問題ほど難しい問題もほかにない。比べるべき尺度がほかにまったくないからだ。無重力に放り出されるかのような、甘美なめくるめく転回。ここにあるその自由の感覚は、オンライン以降に切り開かれた感覚の解放の最も良質な結実ともいえるだろう。(S)

TOYOMU – TOYOMU

カニエウェストの新作アルバムPabroを聴かずに架空のアルバムとして構成してしまった作品で話題になったTOYOMUのデビュー作品となるアルバム。京都に古くから伝わるわらべうたをテーマにしたMABOROSHIをはじめ、ファニーかつ才能のスケールの大きさを感じる作品が並ぶ。題材から想像される幻想的でノスタルジックな光景とはまた異なり、ユーモラスでありながらも奇妙に乾いた不思議な世界観が広がっている。(S)

Tsudio Studio – Port Island

「架空の神戸」というのがこのアルバムのテーマを伝えることば。まずそのことばにひかれて、期待をして、それから、そこに少しの不安が混ざってきた。なにごとにも過度な期待はしない、いつしかそんなくせがついてしまっていても、期待と違っていたらやっぱり悲しい。でも、不安は必要なかった。ほんとうに「不況も震災も悲惨な事件なんて無かった都合の良いお洒落と恋の」キラキラした神戸そのものだった。そこには柔らかく光を放つようなことばがのせられている(歌詞はSoundCloudで読むことができる)。苦しみや悲しみさえもまぶしい日常の一部。そういう架空の世界だから、このアルバムを聴くと幸せな気持ちになれるのだろう。そう思っていた。けれど、それは少し違っていた、いや、違ってきた。「架空の神戸」がくれた幸福感は架空ではなく、確かにここにある。そして、そんな「架空の神戸」へと連れていってくれた彼は、次はどんなところへ私たちを連れていってくれるのだろう? そう思えることもまた幸せなのだから。(C)

Ultrafog – How Those Fires Burned That Are No Longer’

Kouhei FukuzumiことUltrafogによるアメリカのレーベル〈Motion Ward〉からのヴァイナル作品。凛とした緊張感を纏った分厚い音響のテクスチャーが、聴覚の世界を非現実的な幻想により覆い尽くす。ミニマルで現代的なアンビエント作品だが、身を委ねられるような心地よさというより、ゆらぎを持った荘厳な響きの中に身を晒しているような感覚がある。硬質だが彩り豊な音に包まれるダイナミズムを感じることのできる作品。(S)

UNKNOWN ME – astronauts

日記のような日常世界の感覚から始まった前作、前前作から、タイトル通り「宇宙」をテーマにしたという本作は、日常から空想的な果ての世界へと至る旅の物語として聴くことができる。サウンドトラックのように描かれたその楽曲には、記憶の彼方に触れるような心やさしく穏やかな光景が広がり、その奥には微かな既視感がずっと響き続けている。この感覚はノスタルジーという現代に顕著なモードである。文化的に洗練された逃避行を続けながら、日常から音の生命を汲み出し続けるという試み。小庭的な作品だが、そこには私的な空間に穿たれた穴から世界を眺めているような展望が広がっている。(S)

Utsuro Spark – Static Electricity

なんともみずみずしく、きらきらした、どこか時間を巻き戻したような空気のあるサウンド。わかりやすい記号的なものを使わず、時代の空気を含ませることに成功している。それが制作者の意図するところかどうかは私にはわからないが、ここは成功と言いたい。その良さは、音程は安定していながらも、どこか未成熟な部分を感じさせるボーカルによるところも大きい。マスに向けて作られ、その目的にじゅうぶんに応え得るポピュラーソング的な前向きさと輝きがある(もちろん良い意味で)。特に1曲目の“ネオン”は、人知れず眠っていた旧作が発掘されて何かのCMソングに使われているのだと言われれば、ふつうに納得してしまいそうだ(個人的には冬季限定ビールなどがぴったりだと思う)。とはいえ、懐かしい匂いがするだけではなく、どこか少し先の未来を見ているような気持ちにさせられるところもある。これは、過去、現在、未来をつなぐサウンドといえるのかもしれない。(C)

V.A. – Sound Journal: Do​-​Nothing

Masahiro TakahashiとEunice Lukが運営するSlow Editionsより、「何もしたくない時に聴く音楽」をコンセプトに6人のアーティストの楽曲を収録したコンピレーション作品。夕方の犬(u ・ェ・)、H. TAKAHASHI、Hegira Moya、Takao、 Endurance、Lieven Martensといった国内外の音楽家が参加し、それぞれの異なった発想を巡らした楽曲たちを楽しむことができる。 消費文明とインターネットという産物の普及は人々を常に稼働へと駆り立てたが、生活の余白のようなものはいつでも現実で不意に訪れる。その時間はなんだがもどかしくて、そわそわするが、漠然と満たされていて窮屈な感じはしない。「何もしたくない」は、身体の片隅にインプットされた人間営為の残骸でもあり、音楽はそういう、よく分からない身体感覚をよく分からないなりに体現するものとして存在する一面があるのかもしれない。もちろん各楽曲自体も素晴らしいが、なにより作業用BGMみたいな効用音楽が横溢している今、「何もしたくない」状態に自身の想いを馳せながら聴きたい作品。(T)

VaVa – Virtual

ビートメーカーとして活動してきたVaVaによるEP。ゲームなどのディスプレイの向こうにあるバーチャルな文化への愛を赤裸々にラップした作品。ハスリングする日常を描いたり、セルフボーストを決めてみせるHIPHOPもよいけれど、オタクっぽい歌詞内容が逆に新鮮。ジャケットがカセットを模したものだったり、Vaporwave的な感触もあるけれど、それより同時代の文化を自然と歌にしたという佇まいが感じとれる。もちろんラップにおいて素直さは価値だけれど、その率直さがふとした瞬間に心に刺さる良品。(S)

woopheadclrms – vs o​.​t​.​O​.​g​.​I

愛知県在住のトラックメイカーwoopheadclrmsによる〈Genot Centre〉からの作品。カットアップコラージュによるこのような抽象表現的なサウンドが、これほどポップに昇華されたことはなかったのではないか。見たことのないほどの豊かさと驚きが、その響きのなかに満ちわたる。シーンをつなぎ合わせることにより物語が生み出される映画のように、さまざまな色彩やテクスチャーを持つ音の組み合わせが、切り貼りされて非言語的な物語を紡いでいく。それはオンラインの片隅で集合無意識が生み出した非人間的な美学だ。感情とか理解などといった地平を超えて、ただシンプルに美しさと出会えるという幸せ。これまで見たことがない、その奇妙で驚くべき光景をただただずっと眺めていたい。(S)

Yoshimi – Japanese Ghosts III

PYRAMIDS〉レーベルからリリースされた、Japanese Ghostsシリーズの3作目。日本という風土が持つ霊性を音により具体化するこの連作は、伝統が未来的なヴィジョンをも形作れることを証明した。ゴーストとは幽霊でもあり、存在しない何者かの痕跡を捉えるための言葉でもある。存在と存在の間にあるその非存在は、音が作り出す響きのように豊かな色彩を持つ。あらゆるものが生命のような固有の響きを持つとしたら? 不安以上に、そんな楽しみに満ちた世界はほかにはない。不確定性原理のようなパラドキシカルなその曖昧さは、オンライン以降を生きるわたしたちのリアルにこそふさわしいだろう。(S)

+you & space x – with u

Sim Forartや〈Wasabi Tapes〉を主催するKenji Yamamotoの名義のひとつ+youとspace xによる作品。space xはイーロン・マスクに刺激を受けてのKenji Yamamotoによるネーミング。断片的な音のコラージュによって作られるその世界像はとても明朗なヴィジョンを紡ぎ出す。そこには、まだ見ぬ世界へのノスタルジーやフューチャリスティックな幻想性など、ありとあらゆる豊かな感覚を感じ取ることができる。ジャケットのアートワークにも現れているように、このザッピングによって織りなされる名状しがたい感情は、現代のメディア環境が作り出した知覚がもたらす新しい感覚を示しているようにも思える。(S)

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 10

MASSAGE&ゲストで、10月の音楽リリースをふり返る。

S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, N=Shigeru Nakamura, C= Chocolat Heartnight, I=Hideto Iida

ARS WAS TAKEN – HOLD ON 2 ME

ARS WAS TAKENは、Planet Muなどから良作をリリースし続けていた東ロシアのグループWWWINGSの片割れ。ノイズに溢れた未来主義的な抽象画のようなWWWINGSが作り出してきたサウンドは、活動休止を経てリリースされたこのソロデビューアルバムでさらに押し進められている。思索的なメランコリーと、レイブの高揚の間をぬいながら、カットアップ・コラージュによる切断を繰り返し、予測できない形を作り出していく。乱暴なザッピングの果てに残るのはダーティな質感を持つ電子的ゆらぎをもった手触りの記憶である。それはインターネットの奥に広がる、工業的なデストピアであることは間違いないが、いくぶん叙情的な匂いが加わったそれは、以前より優しい響き含んでいるようにも感じられる。凍えるような寒さを胸に、重く立ち込める分厚い音の雲で全身を深く包み込む癒やしもあるのではないか。多くの曲にゲストを招くのも特色の一つで、参加者はHikawa Yoshitaka、YAYOYANOH、Dasychira、D33J、HDMIRROR、AJ Simonsなど。またアートワークは元相方のGXXOST。(S)

David Wojnarowicz & Ben Neill – ITSOFOMO: In The Shadow of Forward Motion

「再発」というワードにはなぜか妙なエロティシズムを覚える。入手困難な音源のアーカイブ化という文化慈善的な側面はいちど脇に置いて、それは、既存の文脈に包摂されずに逸脱と変容を繰り返していく、なにか巨大な音楽集合体の渦めきにあえて触れ、今までの経験で図らずも重ねてきた、期待やイメージのようなものがその都度容易に覆されていく、といった自身のマゾ的行為が現前化するからなのかもしれない。過去作品の発掘は音楽の分野に限った出来事ではないけれど、創作意欲のまま制作に没頭し、欠片を遺していった音楽家たちが偶然世界中に多く存在し、無数のレーベルがそれをサルベージしてくれるおかげで、現行の作品にはない倒錯的めいた享楽をそこに見出しては、不思議な喜びを味わうことができる(少なくとも自分の場合)。
国内でも海外でもほとんど話題に上っていないのだが、先月LPで再発された『ITSOFOMO-In the Shadow of Forward Motion』も、どのような文脈からもこぼれ落ちてしまうような、得体のしれなさと強度にあふれた作品だった。これは芸術家のデイヴィッド・ヴォイナロヴィチと、作曲家のベン・ネイルのコラボレーションによるパフォーマンス『In the Shadow of Foward Motion』のサウンドトラック集で、1989年にニューヨークのザ・キッチンで初めて上演され、その後何度かアメリカ国内や海外で披露されている。ヴォイナロヴィチは映像や写真、ペインティング、音楽、インスタレーション、パフォーマンスと多岐に及ぶ分野で活躍したアーティストで、過酷な幼少時代と同性愛者としての出自を作品内に取り込んだ作風で知られ、HIIVを発症したのち37歳で生涯を終えるまで、アクティヴィストとしても活動を続けた。今年の夏に、ニューヨークで彼の大規模な回顧展が開かれ、今回の『ITSOFOMO』が約25年ぶりに再び公の場で披露されるという機会があったようだ。
電子処理化された管楽器とパーカッション、ヴォイナロヴィチの唸りにも近い低い声によって読み上げられるテキスト・スピーチ、異なる映像が映し出された4つのヴィデオクリップとスクリーン、数人のダンサー、といった複合的な要素が混交しながら、一定の速度に従ってメディアのアマルガムは加速を続けていく。作品のテーマとなる「アクセレレーション」(≒「速度」)は、思想家のポール・ヴィリリオが唱えた「ドロモロジー」に端を発したもので、前進へと駆り立てる近代資本主義以降の原理と、ヴォイナロヴィチの内省的な感情の言葉が重なりながらフィードバックし、「社会」と「個人」の狭間に生じたエネルギーが、力強い身体的な喚起を促していく。減衰することのない速度に飲み込まれ、はじめは戸惑いを覚えていた私たちもいつのまにか一要素として構成され、狂気じみた前進運動に進んで加担するようになり、やがてその場に留まることを忘れてしまう。その共犯関係をヴォイナロヴィチによって暴かれたのち、なおも流れに身を任せるか、逃れようと踠くのかは、それぞれに委ねられている。(T)

NO喫茶 – NO KISSA

好きなのだけれど理由をうまく説明できないものやことや人というのがある。説明しようとすればするほど、自分の中にある好きの本質から遠ざかっていくような、好きという感情の周りをぐるぐる回っているだけみたいな、そんな感じになる。すぐそこに見えているのに歩けど歩けどたどり着けない目的地だ。また逆に、理由をいくつも説明できるほうがそれを好きな気持ちが疑わしくなってくることもある。“それ”が好きなのではなく、“それ”を覆っていたり、“それ”に付帯していたりするものが好きなだけなのではないか、“それ”の内側が好きなのではなく外側が好きなだけなのではないか、そんなふうに思える。外側といっても見た目が好きとかそういった話ではない。わけもなく好きな見た目はむしろそれ自体が説明のしようのない、かつ、強い理由となり得るだろう。『NO KISSA』を聴いていると、そんなことを考えてしまう。NO喫茶のサウンドにはひかれるが、その理由を説明するのは難しいからだ。それでも、置いてきた記憶のかけらを含んでいそうな空気を持つそのサウンドは心地良い。もっとも、「膨大なレコードライブラリーの中から生み出されるトラック群」ということなので、どこかにノスタルジーのスイッチを押す何かが隠れている可能性もおおいにあるのだが。何にしても、上手く説明できないけれどなんとなく好きだなあというのは、きちんと言語化できるよりも確かで幸せだということもあるのだ。(C)

Le Makeup – Matra

Wasabi Tapesのリリースから注目され『電影少女』の劇伴を手がけるなど、丹念に着実に成長の道を歩んでいるLe Makeupの、汎アジアを標榜するコレクティブ〈Eternal Dragonz〉からのリリース。叙情性と力強さを合わせ持つオリジナルなトラックを作り出してきた彼が、全編自身のボーカルをフィーチャーした作品となっている。人は人の声に否応なしに惹かれるものだけど、しかし誰しもがそうなのだから、普遍性は簡単に安直にもなり得る。だからこそこの作品のような、研ぎ澄まされた曖昧さが欲しくなる。言葉は物語を作り出すが、同時に解体もする。積み木のように、さまざまな形を作り出す夢と同じようなその余韻が、はっきりとした形をなす前にまた新たな動きを作り出す。繋がり合う言葉と、風のような軽やかに積み重ねられた意味がただただ吹き抜けていく、小気味よさに溢れた作品。(S)

Bruce – Sonder Somatic

ブリストルを拠点とするBruceのフルアルバムが自身の初リリース元である〈Hessle Audio〉から届けられた。この現在のイギリス、そして世界のクラブ・ミュージックをリードする3人の目利きから成るレーベルからリリースされたこと、そしてBruceは他にも〈Dunos Ytivil〉、 〈Hemlock〉や〈idlehands〉、また〈Timedance〉からもリリースを重ねていることから、これらに馴染みのある人々には彼の音楽が想像できるだろう。ダブステップを起点にテクノやエクリペリメンタルな方面へ触手を伸ばし、広がり続けるポスト・ダブステップの流れを代表するようなレーベル勢であり、そのいずれからも引く手あまたの存在であるのがこのBruceである。Bruceの名を見たら、そこに未来があると言っても過言ではない。彼の音楽は常に未来を向いている。

Bruceの音楽はそのパーツのそれぞれがまるで細胞のように組織され、機能している。曲によって多様なリズムが採用され、キックが鳴らすリズムはフロアでの鳴りが意識されたものである。その一方で、中高音域には様々なメロディが飛び交う。全体としてはポスト・タブステップの流れにおけるテクノへの傾倒が見られる中、そこにはデトロイト・テクノまで遡って想起させるような荒さも備えたエネルギッシュな音に加え、たとえば(他のレビューですでに触れられていたが)Monolakeのような硬いダブ・テクノを連想されるような音も聞こえてくる。さらにノイズや急なビートの変化など様々な音響的なしかけも綿密に設計されている。先に述べたような「未来的」という表現がふさわしいような、歪んだ叫び声やノイズが全体を塗り替えていく。ブレイクの入り方や極端に音数が少なくなる展開、そしてBPMの異なる楽曲たちがスムーズにノイズなどで繋がれていく様は美しく、冷たい。

Bruceの音楽はクラブでどのように鳴り響くのだろう。冷たく、時に全てを引き裂くような叫び声やノイズが入る彼の音楽は、フロアがある種のコミュニティであるとすればそこに亀裂を入れるような機能をもつのかもしれない。このアルバムの狙いは「フロアで、少しの間その周囲の環境から人々を引き離しながら、彼らが自分が誰だかわからなくさせるという変形をもたらす生々しい感覚」を描くこととされている。また、アルバムのタイトルは『Sonder Somatic』という。前者はThe Dictionary of Obscure Sorrowsによれば「通り過ぎていく人々も自分と同じように鮮やかで複雑な人生を歩んでいることに気づく感覚」であり、後者は細胞の意味をもつ。彼のもつアルバムの狙いとタイトルを合わせれば、クラブというコミュニティにおける細胞である一人ひとりに向けられた音楽であることは明らかであろう。それは躍らせるという機能性だけを持ったものではない、美しく冷たい未来の音楽であるが。(N)

Nils Berg Cinemascope – The Missing Piece

2018年10月神保町にある光明寺で行われた”お寺の音楽会 誰そ彼”では、スウェーデンのゴセンバーグ出身のジャズトリオNils Berg Cinemascopeがメインアクトだった。その前日に青森県でいくつかライブし、その内容は伝統的な三味線ホールでの三味線奏者とのコラボレーション、舞踏家と森の中でコラボレーションしていた。ここまではまあ珍しくはないジャズミュージシャンの活動ぶり。しかし彼らのスタイルが一味違うのは、それ過去のライブを映像に残し、次のライブで投影して過去の音と合わせて演奏するという点。楽器はドラム、サックス、フルート、シンセサイザー、ベース、コントラバス。映像の音と合わせれば単純にダブルベースやダブルドラムスになる。それでも彼らは、どのタイミングでどんな音が鳴るか把握しているため絶妙な音数で流れていく。またこのライブでは舞踏家の福士正一氏が参加しており、映像を投影したスクリーンを掻き分け背面から登場する。目にした光景から、音の響きに対しても虚と実を不思議と考えさせられた。バンド名に”Cinemascope”が入るのもこのライブで理解した。普段のライブでは撮り貯めた演奏映像を流し、その音に合わせて演奏するスタイル。世界中を旅しては各地域の民俗音楽を取り入れた彼らの音楽が楽しみだ。(I)

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 9

MASSAGE&ゲストで、9月の音楽リリースをふり返る。

S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, N=Shigeru Nakamura, C= Chocolat Heartnight

食品まつり – ARU OTOKO NO DENSETSU

Sun Arawのレーベル〈Sun Ark/Drag City〉からリリースされた食品まつりのアルバム。JUKEをルーツとしながらも、既成のフォーマットに囚われない隙間の多いスカスカしたリズムやエレクトロニックでカラフルな音色は、極めて自由奔放なフリーキーさを持ちながら、その佇まいにはいつも不思議な普通さが宿っている。アルバムを聴き進めるに従い、サイケデリックな独特の風情を持つ音の感触はまろやかになり、匿名の心地よさのなかに溶けていく。既視感も未視感も、陳腐さも前衛も、ノスタルジーも未来への憧憬もすべてを独特の懐の深さで包み込んでしまう。この奇妙で予想のつかない音の動きの奥には、日常にあるユートピアが広がっている。めちゃくちゃひねくれているのに、こんなストレートな楽しさに貫かれた音楽はほかにはない。(S)

Nico Niquo – Timeless

Orange Milk〉主宰のSeth Grahamのツアーに帯同し、日本のオーディエンスをその特異なアンビエント空間で包み込んだNico Niquo。友人のju caとCorinがスタートさせた新しいレーベル〈Daisart〉から発売された、彼の作曲とアンビエントミュージックの進化について書かれた書籍付きの新作レコードである。フィーチャーされているサックスは幼馴染だというJared Backerによるもの。ECMレコードなどのジャズに影響を受けたという楽曲は、ジャズの手法をアンビエントミュージックの文脈から昇華したような、ユニークな内容。鉱石のように硬質で、繊細な緊張感のある響きに貫かれている。眩しいほど澄んだ厳かな美を作り出している音の佇まいは、この世のどこからも隔絶された世界をくっきりと浮かび上がらせる。そこに流れる特異な時間感覚の持つ圧倒的な贅沢さは、おそらく現代のアンビエントミュージックの最良の成果といえるだろう。その作品の背景は、AVYSSマガジンによるNico Niquoインタビューで詳しく知ることができる。(S)

🐴 – Garden City

何かを好きになる時、その理由が比較的明確にわかることもあれば、なんだかわからないけど好きだと思うこともある。たまたま聴いた10分にも満たないこの作品は明らかに後者だ。好きというほどにもはっきりしていなくて、なんとなく気になるとでも言ったほうがいいかもしれない。けれど、初めて聴いた時は手を止めて最後まで聴いてしまったし、その後もついつい再生ボタンを押してしまう。そこにあるのは、誰も知っている人がいない雑踏に身を置くような心地良さ、それでいて暑かったり寒かったり風に吹かれたり雨に濡れたりすることもない安心感、意味とか別に考えなくてもいいのかもしれないという安堵感。「あともう少しここにいたら、立ち上がっていくことにしよう。ずっとここに座ってはいられない」 そう言われているみたいに音はとうとつに切れた。(C)

Jay Glass Dubs – Plegnic

アテネを拠点とするDimitris Papadatosによる、既発のリリースをまとめた編集盤である。彼自身がその名前で示しているように、一言で表すならばダブの作品である。しかし、これはあなたが聴いたことのないダブかもしれない。
「ダブ」とは音楽のジャンルであり、音を処理する手法でもある。JGDの作品は、主にその後者に寄っているものだ。1曲目のTemple Dubを聴くと驚くのは、リズムが3拍子である点でレゲエとは異なる構造を持っているところだ。その音の質感もレゲエよりも、耽美的でゴシックなものである。音の質感から想起されるものはたとえばDead Can Danceのような圧倒的に日陰の、そして暗闇のもつ美しさを描く世界であり、ザラザラとした触感、そして硬い音はポスト・パンク的ともいえる。しかし、音楽的な構造を理解しながらも耳をゆだねているうちにそこで鳴っているものは一言で「ダブ」だと感じるようなものだ。ダブ処理だけでこのように音がなるのだろうかと驚かされる。アルバムは3曲目で曲がり角にぶつかる。ダブ処理された音として目立つのはスネアぐらいのもので、硬く暗い音で幕を開けならがもゆっくりと柔らかいエレクトロニカへと移っていく。しかし、4曲目からは明るく、レゲエに寄ったダブの世界へと移り、ラストの5曲目Fealess Dubは1曲目と同じ3拍子に戻る。音の質感は決して派手な音はなく、チープな部分もある。音質の点ではTapesなど様々に広がるダブの世界とも繋がるように思える。
全体を通して改めて形容するならば、まるで埃まみれのDead Can Danceのアルバムを倉庫から引っ張り出してダビングしたテープを再生したような作品であり、レゲエのファンからは見向きもされないかもしれない。しかし手法を小手先だけの音色のために使うような安いものではなく、過去を引き離すような独創性がある。それは様々な種類の音をそれぞれダブ処理し、ゴシックな流れの中でまとめ上げる彼の手法がなすものである。1970年代に生まれたポスト・パンクは21世紀になってもリバイバルを経て、息が長いのかもしくは死んだまま動かされているのかわからない状況と言えるかもしれない。Jay Glass Dubsをポスト・パンクの系譜に連なるものと言えるのならば、単なるリバイバルではないのだ。装飾ではなく、手法としてのダブによるラディカルな「ダブ」なのである。レゲエとポスト・パンクの邂逅は何十年も前にあったわけだが、その徹底的にラディカルである姿勢は確かにポスト・パンクのそれに近いかもしれない。(N)

Sean McCann – Saccharine Scores

Sean McCannの新作『Saccharine Scores』が、自身が運営するレーベルRecitalよりリリース。
ストックホルムのアート施設フィルキンゲンで演奏された表題曲のライブ音源ほか、新/既存の全4曲が収録されています。
またCDに付随するブックレットには、それぞれの曲にまつわるリーディングテキストやスコア、本人による解説やイラスト、演奏写真などがたっぷり掲載されており、彼のコンポジションをより深く知ることができる内容です。
約26分の長さから成る新曲『Saccharine Scores』は、実験音楽家John Chantlerが主催するフェスティバルでのパフォーマンスのために作曲されたもので、管楽器やコントラバス、ピアノなどのパートを含む10人の演奏者によってテキストのリーディングと楽器の演奏が行われながら、両者が混合していくという構成です。全体を統一する定まったリズムはなく、プレイヤーが与えられたテキストをそれぞれが好きなタイミングで読みあげ、次に楽器の演奏に移行し、またテキストの読みあげに戻る、という流れを繰り返し、その比重がテキストから演奏へと徐々に変移していくように指示されています。
休止や空間的な余白を強調しつつ、非常にゆったりとした速度で描かれる各々の音のラインは、抽象と具体の狭間を行きかうようにして鮮やかな色彩を帯び、そしてその色彩はまた次の色彩へとって代わられていきます。そんな様々な色が混濁しながら形成される全体のハーモニクスは、束ねられた「持続」を稼働として、絶えず変化を続け、また偶発的な生成を続けていきます。「動く」ことによってはからずも「結ばれていく」、そんな状態としての美しさが、この曲には意図されずに現れていると思います。レコーディング音源版もぜひ出してほしい。(T)