Hideki Umezawa EMS滞在制作レポート

ストックホルムでのスタジオ制作と、その環境の記録。

Text: Hideki Umezawa

電子音響作品のリリースやフィールドワークに基づくインスタレーションの発表、昨年は写真作品で『TOKYO FRONTLINE PHOTO AWARD』のグランプリを受賞するなど、分野横断的な活動を行うアーティスト、梅沢英樹。そんな彼がスウェーデン・ストックホルムにある音楽スタジオ・EMSで先日滞在制作を行ったという。EMSはフランスのIRCAMやINA-GRMと並ぶヨーロッパ電子音楽のメッカでもあり、1964年にラジオ放送局機関として開設、その後1968年に国営のスタジオとして独立してからは、エレクトロ・アコースティック向けの先端的な音楽機材をそろえるスタジオとして知られるほか、コンピューターミュージックの開発や国内外のアーティストの招へいや育成など、多角的な側面から電子音楽の振興を支えてきた。EMSが実施するレジデンス・プログラムに今回参加した梅沢に、スタジオの環境や滞在時の制作について本人に書いてもらった。

6月末から半月ほどストックホルムに滞在して、国営の電子音楽研究施設・Elektronmusikstudion (通称EMS)で制作を行った。このスタジオは海外からのアーティストを中心としたレジデンス・プログラムを行なっていて、場所はSöder Mälarstrandという最寄駅から徒歩で10分程度の、ストックホルム中心街からもさほど離れていない海沿いの通りに位置している。先日RasterからリリースされたLena AnderssonのアルバムタイトルはこのEMSの所在地からとられている。

Editions Mego/Ideologic Organから作品を発表しているMats Lindströmが所長を務め、Posh Isolationなどからの作品で知られるMats Erlandssonや、Vargと共に活動をするDaniel Arayaらがエンジニアとして働いており、彼らも連日スタジオで制作を進めている様子だった。

スタジオは全部で6つに分かれていて、マルチチャンネル作品用に特化した2つのスタジオ、Serge、Buchlaといったモジュラーシンセサイザーを扱うスタジオなど、作家は滞在期間中に各スタジオを自由にブッキングできる。スピーカーシステムにはGenelecが多く採用されていた。Buchlaのモジュラーシステムにはスタジオの上階にあるという巨大なスプリングリバーブが接続されており、現物を見ることは出来なかったが、スタジオを出てすぐの螺旋階段にディケイタイムを調整するノブが設置してある。また併設したライブラリーには、音楽関連の貴重な書籍はもちろん、東京都現代美術館での展示やSuperDeluxeなどでもパフォーマンスをしていた現地作家のChristine Ödlundの図録など、美術に関連する書籍も置いてあった。

システムについては自分が書くよりも、こちらの記事に詳しく記載されているので省かせてもらうが、本当にこれ以上ないというほどの素晴らしい制作環境が整えられている。ストックホルム到着前にヘルシンキのOlli Arniから連絡があり、EMSは地球上で1番好きな場所だと彼は言っていたが、自分を含めた他の多くの作家にとっても、そのように感じられるスタジオであることは間違いない。
ちなみに近年EMSのスタジオで録音/制作された作品としては
Caterina Berbieri『Born Again In The Voltage』 /Francisco Meirino 『The Ruins
/Thomas Ankersmit 『Homage to Dick Raaijmakers』 などがある。

自分はStudio 4のSerge、Studio 6のBuchlaのモジュラーシステムを用いて制作を行ったが、この2つの機材に触れる事が今回の滞在の主な目的の一つだった。Sergeは直感的に操作をすることが出来たが、Buchlaはバナナプラグや独特のシステムに慣れるまでに時間を要した。スタジオのモニター環境が素晴らしいこともあって、時間を追うごとに耳が研ぎ澄まされていくような感覚があり、1日6,7時間ほど続けて制作を行っていた。

相当量の素材を録音する事が出来たが、まずはMads Emil Nielsenが主宰するarbitraryからリリースされる2枚組10インチの音源制作に現在取りかかっている。内容は彼の図形楽譜などを解釈したもので、Jan Jelinekとのスプリットのような形で発表となる予定だ。

知人のMaxwell August Croy (Empire of Signs, ex.Root Strata)がストックホルムに移住しており、現地のシーンや彼が運営するレーベルの今後について向こうで聞くことが出来ればと思ったが、予定が合わず次回の滞在に持ち越しとなった。東京のように毎日どこかしらでイベントが開催されている雰囲気はなかったように思うが、日本でも開催されたEdition Festival for Other MusicIntonalなどのフェスティバル、EMSと同じく国営のFylkingenなど、良質なアーティストやシーンが存在することは明らかだろう。

滞在中に訪れたストックホルム近代美術館Moderna Museetでは2019年ヴェネチア・ビエンナーレのアーティスト部門で金獅子賞を受賞したArthur Jafaや、Sharon Hayesの展示が開催されていた。Sharon Hayesの方は、言語を主な要素としたLGBTQアクティビズムを展開し、「声をあげること」 =「サウンドとして空間に生起させること」をポイントに置いたパフォーマンスやインタビューの映像などの作品群が並んでおり、シンプルな方法論ながらも力強い展示だった。こうした動きと関連して、日本でも10月に
SOUND:GENDER:FEMINISM:ACTIVISM – TOKYO –」が開催される予定なので、注目しておきたい。

滞在中の息抜きに、市街地から少し離れたRosendals Trädgårdという自然農法の庭園を何度か訪れた。ここで食事をとったり、開放的な庭でくつろぐのは素晴らしい体験だったので、来訪する際は是非おすすめしたい。ストックホルムと日本では植生の違いはもちろんだが、光の質感の違い、何よりも白夜のようにいつまでも明るい環境には不思議な感覚を覚えた。自身の知覚や身体は環境的なもの/とりまくものに大きな影響を受けている、ということに自覚的にもなれた滞在だった。

梅沢英樹
1986年群馬県生まれ。国内外より電子音楽作品のリリースやインスタレーションの制作、サウンド・パフォーマンスを行う。 これまでの主な受賞にリュック・フェラーリ国際コンクール / プレスク・リヤン賞 2015、Tokyo Frontline Photo Award 2018 Grand Prize。主な展示に「0℃」(blanClass, 2016)、「つまずく石の縁-地域に生まれるアートの現場-」(アーツ前橋, 2018)、「深みへ-日本の美意識を求めて-」(フランス, 2018) など。網守将平、上村洋一との共作アルバム、Andrew PeklerとのSplit アルバムを発表予定。東京藝術大学大学院美術研究科修了。

レジデンスプログラムのアプリケーションに関する詳細などはオフィシャルサイトまで。なお来期プログラムの募集締切は今月末の7/31までとなっている。

https://soundcloud.com/hideki-umezawa

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 6

MASSAGE&ゲストで、6月の音楽リリースをふり返る。

C=Chocolat Heartnight, N=Shigeru Nakamura, TN=Noriko Taguchi, S=Yusuke Shono, T= Kazunori Toganoki

CVN – I.C.

Grey Matter ArchivesのキュレーションやAvyss Magazineの運営者としても知られるCVNの〈Orange Milk〉からとなる新作。ジャケットは「PHENOMENON:RGB」展にも参加したSabrina Rattéであり、NTsKiや、Cemetery、Le Makeup、LSTNGT、ROTTENLAVAなど盟友たちとのコラボレーションを繰り広げた、まさに現行のシーンをアルバムの上に広げたマガジンのような作品となっている。印象的な一曲目のNTsKiをフィーチャーした「成分」はまどろんだアトモスフィアの中を彼女の柔らかな声質が響き渡り、都市的な背景のもとノスタルジックな和やかさと安心感で包み込む。ノイジーでインダストリアルな感触を持つ楽曲からリズミカルに聴くものを揺さぶるダンストラックまで、よりフリーキーにより自由に組み合わされたサウンドで心地よく耳を刺激する。静と動、秩序と無秩序の間で引き起こされてきた駆け引きを紐解きながら、即興のさなかに生み出された解を目撃しているかのような研ぎ澄まされた洗練。音の振動すべてが楽器であるような、録音上の徹底呈した平等性は、デジタルによりもたらされた現代の音の洗練の極地と言ってよいだろう。異質なもの同士の重ね合わせと結合により作られたそれらは、調和を否定することによって逆説的に美しさを生成するという、現代におけるバロック的な美であるといってよいかもしれない。(S)

COEO – Tonic Edits Vol. 6 (The Japan Reworks)

TOY TONICSからリリースされた、ミュンヘンのユニットCOEOによる80年代のジャパニーズポップのエディット集。レーベルには「トイトニックスは日本が大好き」と書かれている。小さい文字だけれども、このことばがちょっと目をひく。例えば英語なら、「TOY TONICS loves Japan」となるわけで、ロゴなどでよく見かけるフレーズのような印象。それをそのまま日本語にするだけで、シンプル、かつ、ストレートなことばになる。そんなところからも複数の文化が交差するおもしろさを感じずにはいられない。“Japanese Woman”、“Tibetan Dance”、“What’s Going On”は原曲のタイトルがそのままつけられているが、“Girl In The Box〜22時までの君は…”は“Matchbox”に、“とばしてTaxi Man”は“Uber Man”となっているのもおもしろい。ドリンク片手にフロアで踊りたくなるダンストラックへとさらなる進化を遂げたシティポップチューンの全5曲。(C)

S S S S – Walls, Corridors, Baffles

S S S SことSamuel Savenbergは、スイスはルツェルン在住の音楽家であり音楽プロデューサー。「Walls, Corridors, Baffles」は、スイスのルツェルンを拠点とする〈Präsens Editionen〉からリリースされた。〈Präsens Editionen〉は、クラブカルチャーや音楽、アートなど発信しているzweikommasiebenの書籍やアルバムなどを発表している。音楽は概念的で象徴的なものではなく、その具体性が重要だと考え作成したアルバムの表情は全体的にとても暗くて重い。しかし、予定調和のない旋律や冷やかな金属音やノイズ、緻密なリズムが時に交錯し、時に一つに重なり調和すると、エネルギーに満ち溢れた緩急のある音のうねりを生み出す。音のうねりが押し寄せてくるたびに感情の高揚を誘っているように感じる。アルバムを聴き終えると、不思議と耳元を心地よい風がふっと駆け抜けるような感覚に陥る。アルバムのタイトル「Walls, Corridors, Baffles」はフランスの哲学者であるロラン・バルトの一節から引用されている(おそらく「Empire Of Signs」『表徴の帝国』からと思われる)。音楽は聴き手の感じ方次第という考え方も、もしかしたらロラン・バルトの影響があるのかもしれないと考えると、アルバムの聴き方が少し変わるかもしれない。Han Le Hanによる生け花のアートワークもアルバムの暗い表情を美しく表現している。(TN)

Leif- Loom Dream

言うまでもないが、音楽は作り手の意図やそこに込めた気持ちからはこぼれていくものだ。ある音がどのように受け止められるかは、個々のリスナーやメディアによるジャンルに落とし込もうという試みによるものだが、音楽の鳴らされる場としてインターネットの影響が強くなり、ジャンルが細分化され、一つの確固たる区分がますます効力を失いつつある現在では当然にリスナーの感じ方に左右される(もちろん、そこで「批評」の形が変わっていくことは言うまでもない)。時々の大小さまざまな音の流行りはある中で、作り手は確固とした「自分らしさ」を打ち出す必要があるのかもしれない。
 ロンドンのレーベル〈Whities〉は上述のような状況の中で、ベースやエクスペリメンタル、そしてテクノといったキーワードではくくられようが、「自分らしさ」をわかりやすく打ち出すことなく、奇妙な存在であり続けてきた。KowtonやAvalon Emerson、そしてMinor ScienceやGiant Swanなど多様なラインナップからも「わかりにくさ」を打ち出すその姿勢を感じることができるだろう。そんなレーベルの最新作の一つが、これまで決して目立つリリースはなかったが着実に支持を得てきたLeifによるLoom Dreamである。アンビエント、そしてニューエイジへの注目が強まる昨今の流れを考慮すれば、Leifの新作は快く迎えられるだろう。しかし、そこは〈Whities〉である。リスナーからの一方的な「定義」をさらりと避けていくような音が迎えてくれる。
  Leifのこれまでの作品は、一言でいえばおとなしく耽美的なものであった。〈UntilMyHeartStops〉からリリースされた前作Taraxacumではエクスペリメンタルな要素はちりばめられているものの、基軸としてのディープハウスはしっかりと聴きとれていた。つまり、クラブ・トラックとしても機能するようなものであった。しかし、今作の基軸は一聴してはわかりにくいかもしれない。全体で34分ほどの短いミニアルバムは17分ずつ、つまりA面とB面にわかれていてそれぞれが1トラックとして聴くことができる。フィールドレコーディングによるものと予想される音が鳴っていく中で、リスナーは「アンビエント」という言葉を持ち込むだろう。しかし、その中でゆっくりとキックが入ってくる。その音はまさしくUKのベースのそれである。もちろん、たとえばRandomerなどUKベースにおけるテクノとトライバルを狂気的に混ぜ合わせたものとは音はまったく異なる。あくまでも自然に、あらゆるバランスが計算されたうえで、アンビエントともベース・ミュージックとも聴くことが可能な、ある種の違和感と気持ちよさが同居している。眠ることも踊ることも許されている。
 音楽がBGMとして流されている場所にいく度に、その音楽の意味や機能について考えてしまう。メッセージを与えるもの、ある種のメタメッセージを与えるものなど様々だろう。癒されてもいい。踊ってもよい。ぼく個人は、Leifの音楽をBGMとして聴くことは難しい。新たに環境を作り出すもの(としてのアンビエント・ミュージック)であっても、何かしらの環境に上手くフィットするように使える便利なものとは思えないからだ。機能性といったリスナーの都合によって容易に消費されず、聴き手の耳を文字通り奪っていく。おとなしい音と思われることもあるかもしれないが、強力なミュータントである。(N)

Toshiya Tsunoda – Extract From Field Recording Archive

「振動の伝達」を扱ったフィールドレコーディング作品を中心に、音源のリリースやインスタレーションの発表などを行うサウンドアーティスト/美術家の角田俊也。今作は彼の90年代の代表作として知られる「Extract From Field Recording Archive 」シリーズに、未発表の新作音源を追加した5枚組CD。音を波の振動として捉える角田は、振動運動の現象的側面や、音の発生/伝播を生み出す空間との関係性に焦点を当て、港や工業といった豊富な振動現象が観察されやすい場所に注目して長年フィールド録音を続けてきた。振動は彼によっていくつかのパターンに分類されており、例えばシリーズ1作目に収録されている音源は「定常波」と呼ばれる種類のもので、それは複数の音波が反射と干渉を繰り返して、ある特定のエリアで停滞している音のことを指している。どれも音が持続しているという点では共通しているものの、振動源の素材や性質によって、それぞれの音色や周波数、倍音の具合は千差万別で、異なる背景を備えた音たちは、どれもハードコアでミニマルな様相ながら味わい深い響きをなしている。

彼の作品は、一聴してそれだけでは何の音なのかよく分からない。それは人間の可聴域外の音であったり、空気ではなく固体を媒質とした音であったり、つまり日常で私たちが知覚できない、あるいは意識に留まることのない音が主な対象だからであり、録音された音源そのものに、視覚的イメージや追体験性を喚起させる要素は含まれていないからだ。その点でも、一般的なフィールドレコーディング作品にみられるようなサイトスペシフィックな要素は、角田の音作品には表面上からは切り取られてしまっている。それは作品のコンテクスト(録音の場所や状況、振動源、FMシンセのモジュレータのような、振動に影響する外部の振動音など)を理解するというプロセスのなかで立ち上がってくるものなのかもしれない。自分の場合は曲ごとの説明を読み、それぞれの文脈を捉えることでまったく異なる聞こえ方へと変わった。

フィールドレコーディング作品はその形式の性質上、現実世界で生じて録音された音を「聴く」行為とは、つまり一体なにを意味するのか、という疑問を聴き手に問い続ける(作家の意図からも離れて)わけだが、角田の作品からは、音を通した対象物の「自律性」(ハーマンの言葉を借りるなら)、意味作用に絡み取られる前の事物の「存在」そのものが強く感じられる。モーターやエンジンの駆動、配管の内部での共鳴、フェンスの震え、etc…。機能という契約から一時的に逃れて再び現れたそれらには、こちらを誘引するような穏やかならぬ気配とぬくもりが感じ取れるだろう。ものたちの間に交わされている接触や干渉、総じて「起こる」≒「在る」ことを浮かび上がらせるという角田の主題は、音のオントロジーを探る実践でもあるともいえる。

ちなみに、本人が自身の作品や録音について、いくつかまとめて書いてあるのをmixiのコミュニティで見つけた。
どれも面白い内容なので興味のある人はチェックを。(T)

https://mixi.jp/list_bbs.pl?id=715447&type=bbs

alpha_rats / coeur_netによる展示、「Celestial Reactors」がCORNER PRINTING KGにて開催


ベルリンを拠点に活動するヴィジュアルアーティスト、alpha_rats(アルファラット)、coeur_net(ケールネット)による展示が中野にあるCORNER PRINTING KGにて行われている。デベロッパーでもあるalpha_ratsは、ビデオゲームやデジタルメディアを扱う新しいアーティストの作品を集めたアンソロジー “Spektrum Crush zine” を運営する傍ら、ゲームエンジンを用いたアートや実験的なVR体験を生み出してきた。また、coeur_netはシンクタンクDigital Poetry Labを運営しながら、デジタル環境、および拡張されたデジタルアイデンティティの詩的な可能性を探求している。今回の展示も、現代におけるアイデンティティと自己最適化をコンセプトに、彼らが作り出してきたサイファイな世界観を構成したものとなる。

展示は、VRによる体験やポスターやジンなど多角的に彼らの世界観を展開した内容。現代社会に広がるネットワークの比喩でもある、蜘蛛が作り出すウェブや複雑に絡み合った蟻の巣といったモチーフが登場し、VR装置を用いて鑑賞者はそのサイファイな世界を、ハンドサインを用いながら進み鑑賞していく。抽象的で幻想的なその空間はいくつかのステージに分かれており、そのバーチャルギャラリーを移動するという体験そのものが物語性として立ち上がってくるようになっている。また、同じ世界をモチーフに描かれたグラフィックと詩からなるジンで、その世界観をより深く味わうことも可能だ。

また、彼らは「光」という要素を、エネルギー、情報、そしてパフォーマンスの比喩として使っているという。ときにカオティックでときにフューチャリスティックなそのヴィジュアルと比喩や詩、そしてテクノロジーを用いながら現代、あるいは未来に課題となる事象を取り扱う。彼らの作品はイメージと言葉を用いて現在と未来が接合する点を問い直す、それそのものが詩であるような試みといえるだろう。

2019.06.29 [sat] – 07.15 [mon]
13:00-20:00 Closed: wed
https://www.kg-cornerprinting.com/celestialreactors

絵画への新しい可能性へ向けた探査の試み。櫻井崇史 + 松尾信太郎による展示 “プローブ”


櫻井崇史と松尾信太郎の二人による展示、“プローブ”が国分寺のswitch pointにて5月30日から6月15日の間に開催された。櫻井の作品は3Dモデリングを経てモニターを用いて制作された作品、松尾の作品は独特の質感をもつ塗装を施した極小の欠片を配置した作品からなる。両者とも、絵画への関心をキャンパスというオーセンティックな支持体を経由させずに、そこに存在する感覚の一部を間接的な手段で再現しようという意図が感じられる作品であった。

櫻井の作品は自身で制作した平面的な彫刻とも言うべきオブジェクトを一旦3Dスキャンでデータに変換し、その上にペンイテンィグツールで色を重ねていくという方法で作られている。ただグレイのオブジェクトに置かれた白色は、絵を描くというより、塗るという行為を抽象化したような感覚を帯びている。ブラシの筆致と思しき塗りのエッジにある掠れが微細な三角で出来ているのは、そのオブジェクトの形状によりポリゴンの三角に色が乗ったものと乗っていないものが現れるためである。その現れとブラシのエッジとの類似は偶然の出来事かもしれないが、同時にその行為がペインティングという行為の模倣であることの印として働いている。

私たちはその作品を、もちろんディスプレイで鑑賞するのだが、ギャラリーで絵画をディスプレイを通じて鑑賞するということほど、奇妙な感じのするものはない。ディスプレイという存在が眼の前にあるという事実が、とても強く眼の前に現れてこざるを得ないからである。だからそのことから導かれる結果として、そのアプローチはディスプレイを彫刻的な素材として扱うという方法になる。データによって作り出された画像が、その宿命としてディスプレイを必要とするという実際的な断絶が、ディスプレイの無用な存在感によって顕になる。櫻井は実際にそこに机を配置することで、日常におけるディスプレイの存在との関連性にも言及する。ギャラリーと虚構の間に日常のようなものが差し込まれる。しかしそれは日常の記号のようなものにとどまっている。

このようにして作られた構造を私たちはどのように鑑賞すべきなのだろうか。その記号のような形は、逡巡するかのように絵画と画像の間をさまよい、現実には存在し得ないゲームの背景画像のようにリアルさを剥奪されている。ぽつんと、孤独に宙に浮いている。しかし、私たちは指し示すものと指し示されるものの間にある獏とした空間を、かすかな顕れのようなものとして鑑賞することはできる。来るべきモノを示す予兆のようなのとして。これがプロセスだとしたら、その至りつくべき回答がこの作品により示されているわけではない。だが、そこで作られた余白のような空間は、これまでの絵画の鑑賞の仕方とは異なる可能性へ向けた探査の試みであるということはできるだろう。