MASSAGE MONTHLY REVIEW – 3

MASSAGE&ゲストで、3月の音楽リリースをふり返る。

MASSAGE /
MASSAGE / N=Shigeru Nakamura, TN=Noriko Taguchi, C= Chocolat Heartnight, S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, I=Hideto Iida,

Midori Hirano – Mirrors in Mirrors

Midori Hiranoは、ドイツはベルリン在住の音楽家/コンポーザー/プロデューサー。別名義でMimiCofとしても活動している。「Mirrors in Mirrors」は、オーストラリアはメルボルンを拠点とするレーベル〈Daisart〉より、以前本誌のMONTHLY REVIEWで取り上げたNico Niquo (https://themassage.jp/massage-monthly-review-9/)に次ぐ2作目のアルバムとしてリリースされた。これまで、ピアノや弦楽器、声、フィールドワークなど多彩な音と電子音を構造的に作り上げた作品や、MimiCofでは電子音楽を中心とした作品をリリースし、ポスト・モダン、アンビエント、エレクトロニカの新しいかたちを体現している。本作はピアノを中心とし、電子音が光を紡ぎ模様を織りなすアンビエントな世界観が美しい作品。まるで息づかいが聞こえそうなテクスチャーで、力強くもやさしいピアノの旋律と、光のように繊細で時に鋭い電子音や丁寧で美しいシンセサイザーが凛とした音響を作り出す。タイトル「Mirrors in Mirrors」のように、合わせ鏡に映る自分を見た時に覚えた、限定された視覚空間に存在する色や光のプリズムによる奇妙で美しい情景を、新鮮でどこかノスタルジックに描いた作品。(TN)

Local Visions – Onerionaut

2018年3月25日にコンピレーションアルバム『Megadrive』でスタートしたレーベル〈Local VIsions〉。ちょうど1年後の今年3月25日に再びコンピレーションアルバム『Oneironaut』がリリースされた。参加アーティストは17組から21組に増え、これがそのまま昨年1年間のレーベルの広がりを表わしているといえるだろう。これまでに作品をリリースしたアーティストから、これからのリリースを期待させるアーティストまで、その幅はひとつのジャンルには収まらないほどに広い。それでいて、やはり1枚のアルバムとしてのカラーがある。アルバムタイトルの“oneironaut”は「これは夢だと自覚しつつ夢の中を旅する人」を意味する。リアルワールドへとどんどん広がっていきながらも、どこかそれもすべてインターネットという夢の中だとわかっているような〈Local Visions〉がoneironautそのものなのかもしれない。彼らと一緒なら、私たちもoneironautになって夢の中で遊ぶことができる。そして夢と現実は溶け合って、徐々にあいまいになり、その境界線がなくなる……そんな日もそのうちにくるのだろう。(C)

雨田光平、SUGAI KEN – 京極流箏曲 新春譜

「京極流箏曲 新春譜」は、彫刻家/京極流2代目宗家 筝曲者/ハープ奏者の雨田光平が、昭和30年頃に青木繁が描いた神々のイメージを創作源に作曲したもの。本作品は、昭和45年に自主制作LPのために琴、笙、ハープを含めた6名で合奏・歌唱して収録したものと、日本古来の美や伝統芸能・民族芸能を電子音楽に昇華する音楽家SUGAI KENによるリワークが収録されており、大阪のレーベル〈EM Records〉よりリリースされた。かすかな心覚えをたどって聴くと、ハープと箏の音色が生み出す不思議な質感の倍音や、雅楽風の調弦や奏法を超えた古の明るく美しい世界観に心が洗われる。
一方、SUGAI KENのリワークは、暗くうっすら光が入る空間でどんどん物語が展開されていく。静けさ中に広がるけだるいリズム、縦横無尽に走る電子音や和の気配を纏ったフィールドレコーディングの群れたちが現代に「新春譜」を紐解き、聴こえないはずの演者同志の間合いや音の余白を体現している。終盤のモールス信号にはどんな意味が込められているのだろうか。(TN)

Joni Void – Mise En Abyme

モントリオールを拠点とするフランス人ミュージシャンJoni Void。哲学者メルロ・ポンティなどが知覚を主題とした現象学の思考を音的に解釈して、マイクロサンプリングや偶然を用いて試みた作曲を行なっている。音楽を聴くということ自体すでに聴覚的には受身であるのだが、このアルバムを聴くたび印象を忘れていることに気づき、一つの複雑なストーリーに入り混むように聴きなれない音を耳にしている。シュールレアリスムの系譜も色濃いアートワークは音とも親和性を感じる。(I)

N1L – CONTENT METASTASIS #2

ヴィジュアル&サウンドアーティストのMartins Rokisのプロジェクト、N1Lのミックステープの第二弾。波のように打ち寄せる混沌としたハーモニクスにより、想像力を刺激する未視感にあふれた世界像が描き出される豪快な電子音響作品。ダンスミュージックのスタイルを基底に敷きながら、その奥でさまざまな文脈が交接させられていく。そのレフトフィールドな感性が描く世界観は未来的だが、どこか叙情的な暖かみもたたえている。さまざまに織りなされる多様なサウンドはゆらぎやランダムネスによってより抽象的な形をなし、さらにその複雑性の中に自らを溶解させて、より自然の形に近くなっていく。そのテクスチャーへの複雑性の追求は、近年のモードと言っても良いだろう。都市文化の混沌とした人工の中に生成するその複雑性は、わたしたちにとって住心地の良いヴァーチャルな自然である。そこには 野性的でプリミティブなレイブによる高揚も、潜在的に胸に響く直感的で肉体的な快楽も、心休まる静けさすら存在している。(S)

竹間淳 – Les Archives

以前RVNG Intl.のオーナーのマットが来日していた時、今度サブレーベルから日本のレアなアヴァンギャルド作品を再発するよと彼から話を聞き、それから約1年半リリースを心待ちにしていた作品。
アラブ古典音楽の演奏家として現在活動し、ボンバーマンなど数々のサウンドトラックを手掛けた作曲家としても知られる竹間淳が1984年にソロ名義で発表したLP『Divertimento』。この『Divertimento』の収録曲に新たに3曲を追加し、アートワークを再編したリワーク作品『Les Archives』が〈Freedom To Spend〉からリリースされた。デジタルアーカイブ化が隅々まで浸透した現在でも、得体の知れない作品をサルヴェージしてくるここのレーベルの姿勢と野心には毎度感服させられるが、これまでのカタログのなかでおそらく最も知名度が低く(ネット上の情報の寡少さから察するに、オリジナル盤の存在はこれまでほぼ共有されてなかったはず) 、また音楽性としても異端な作品だと思う。ビートの機械的な反復とポリメトリックなフレーズを軸に、ポップスやフュージョン、ニューウェーブやインダストリアル、プロトテクノといった様々なジャンルを技巧的に組み直した、クロスオーバーな様式を一見装いつつ、同時にそれぞれの音に対して付随する情感やイメージがまるで疎外されているというか、妙に矛盾した響きが全体に通底している。それは例えるなら、大音量で鳴り響いているが「激しく」はないメタルミュージック、あるいは静謐な音色だが「静けさ」が立ち込めていないアンビエントミュージックのようで、「〜的」な恣意の意味作用が無効化された音がそのまま即物化し、その都度コンテクストが独自で生み出されていくようなもの、といったらよいか。海外メディアのインタビューを通して、彼女は自らの作品を「絶対音楽」と形容していて、それは近代の標題音楽に対するアンチテーゼ、つまり記号の還元化を拒み、音の形式や秩序そのものが存在定義を成す音楽を意味するのだが、いくばくかの時間が経過した現代において、フォーマリズムから端を発した彼女の音楽は、もはやそのような二元論的な対立を軽々と跳躍してしまいフラグメンタルな形を増強させ、肯非の入り混じったフェティッシュな戯れと誘惑を成しているように聴こえてくる。そのいびつな「遊戯性」に関しては、収録2曲目のタイトルが示す「Pataphysique」(パタフィジック)という、詩人のアルフレッド・ジャリが作り上げた造語とその概念にも大いに通じているのだが、それに関しては、オリジナル盤に同封されているライナーノーツの素晴らしい解説を一部抜粋してここに載せておく。
「ジャリが、この素敵な造語をもって、とりすました「形而上学」なるものを嘲笑したように、竹間淳も、音楽の分野での、頑迷なアカデミズムと軽薄なポピュラー・ミュージックという両極ファシズムの恐るべき支配を、研ぎ澄まされた聖なる悪意を持って、徹底的に茶化しているのだ。(中略)このモダン・ミュージックのジャリは、自分の音楽だけにどっぷりと浸り込んでいるのでなく、透徹したイロニーというスタンスをもって、音の「PHYSIQUE」を超えていく。(中略)あたかも蝶のような「パタ」の姿勢、つまり「PHYSIQUE」の強固なクロチュールからほんの心持ち身をずらすことで、彼女は幾重にも張り巡らされた罠の中から逃れさっているのだ。」
(ちなみに今回『Les Archives』の文を担当したのはアーティストのナタリア・パンツァー。彼女の丁寧な言葉遣いもとても素敵で、こういう自由なセレクションも含めて良いレーベルだな..としみじみ思ってしまった)(T)

Meitei – Komachi

アンビエント・ミュージックにおいて「環境」がどのようにとらえられているのかという視点は、その分析における一つの有効な視点である。特定の場所や環境についてその姿を描くようなものであったり,異次元・異空間のような新たな環境を作り、提示するものであったり「環境」をどのようにとらえるかには様々なアプローチがある。広島を拠点とする作家であるMeitei(冥丁)による最新作がリリースされた。彼のアンビエント・ミュージックの作家としてのアプローチ,つまり「環境」を捉える際の彼の視点は日本という「環境」を、過去を参照しながら(つまり時間という縦軸を基礎として)描こうとするものだ。
一聴すれば、それ自体は柔らかなアンビエントと形容されるだろう。音は全体を通して一貫している。プレスリリースにはJ Dillaの名も出ているように、ゆったりとしたタメのあるリズムがループしていく様はビート・ミュージックとして魅力をもち、出たり入ったりをくり返す様々な音や水の音などが聴き手のテンションを高く上げすぎることなく、一定の熱量を保っていく。チルアウトにも最適な、夜のさざなみのような美しさがある。
このような音像はMeiteiが取り上げる今作のテーマと結び付くことでさらに深みをましていく。彼は「失われた日本の空気」に注目したと紹介されているが、これはつまりは既に無くなっているものであり、彼の楽曲は亡失(≒忘失)の感覚を与えるものとして捉えることができよう。Meiteiの音楽が迫ろうとするものは日本のどこからかかき集め、こじつけたような現在進行形の「すごさ」ではない。彼が取り上げるのは本邦において既に失われた何かであり、その中には我々の先祖たちが想像力をもとに描いてきた「怪」や「幻」が含まれる。ここには文明の発達が妖怪の存在を消し去ってしまったと主張した水木しげると同様の、忘失への嘆きがあるようにも思えてくる。明治の文明化以降に様々なものが失われてきた中で、我々はそれを進歩と呼べるのだろうか…という水木の問いは大げさに聞こえるかもしれない。しかし、Meiteiの音楽がメタ・メッセージとして持つ(もしくは機能する)ものは我々のルーツへの視点であり、進歩史観とは無縁である。我々が失いつつ、しかしどこかにその感覚を残しているようなものへの視点が基礎となっている点でアンビエントというよりもフォーク・ミュージックと言ったほうが適切なのかもしれない。
日本という看板を背負わせ、欧米をはじめとした外側への回答のように考えることは日本と海外、つまり内外のどちらの側にもある種の特権的な意味づけをしかねない。海の向こうのきらめく文化に対して、この島国の文化の「すごさ」「独特さ」をアピールすることは安易なナショナリズムにも結び付き得る。マイルドで優しい「日本(的なもの)」を喜ぶポジティブな気持ちで結び付く、ナショナリズムを掻き立てられた者どもをすり抜けるように、失われてしまった幻によって立ち上がってくる「環境」を描いている。あまりにも遠くなり、おぼろげに揺れる蜃気楼のような環境である。(N)

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 2

MASSAGE&ゲストで、2月の音楽リリースをふり返る。

MASSAGE /
MASSAGE / T=Kazunori Toganoki, C= Chocolat Heartnight, S=Yusuke Shono

SAM ASHLEY & WERNER DURAND – I’d Rather Be Lucky Than Good

数年前にジョン・C・リリーの本を読んだのがきっかけで、興味本位でアイソレーションタンクを体験しに行ったことがある。場所はたしか白金台の普通のマンションの一室で、自分より先に予約をしていた連れから、担当の人の眼の瞳孔が終始開いているのが恐ろしくて、説明を受けたところで適当な理由をつけて帰ってしまいました、と連絡があったので、若干の警戒心を抱きつつ施設を訪れたのだが、その瞳孔の開いた人がLSDについて熱く語る以外は特に何もなく、2時間ばかりタンクを堪能した。外部からの刺激が完全にシャットアウトされた状況で、高濃度の塩水に浸かって何もせず体を浮かべるのだが、期待していたような深い瞑想状態に突入したり、スピってありがたい声が聞こえてくることは最後まで起きず、ただ肉体の表面と塩水の境界線が曖昧になってきたころから変化が生じはじめ、心臓音や呼吸の鼻音や、聞いたことのない内臓の動く音が徐々に増幅されて聞こえるようになり、内側の身体活動の様子が音でライブ中継されているみたいだった。あとは時間が進むのが異常に遅く感じるせいか、時間の流れが対象化されていったのも覚えている。タンクで体験できる内容は人によって千差万別らしいが、個人的には、身体にくっついた意識をそこから剥がして何が起きるのかをモニターする、ひとつの臨床実験みたいだった。
アメリカの作曲家/サウンドアーティストのサム・アシュリーは、ヴォーカリストとしてロバート・アシュリーのオペラ作品に長年にわたって参加し、またその他のLovely Music周辺の実験音楽家達と様々なコラボレーションを重ねてきた経歴を持ちながら、生涯にわたって独自のシャーマニズムを追求し続けてきた神秘主義者でもあり、ソロ活動では自身の思想や見識を反映させたユニークな音響作品を発表してきた。彼に関する文献がネット上ではほぼ見当たらないため、その思想の詳細を伺うことはできないのだが、ルクレシア・ダルトとの興味深い対談インタビューによると、アシュリーは、幻覚や催眠状態、シンクロニシティといった人間の身体に生じるトランス現象を知覚拡張の手がかりとして重要視する一方で、古典的な宗教的信仰の価値観やそれにまつわるイメージ(光や神からの啓示など)をすべて否定している。到達不可能なエリアをあらかじめ設定し、そこに位置する絶対的な他者を崇拝することは、自らの超越の可能性を放棄し、単なる自己満足的な行為に留まってしまう。代替者としての絶対的存在を据え置くのではなく、自身が主体となる以外に外部との関係を更新することはできない、とリアリスティックかつラディカルな視点から神秘的な現象を現代的に捉え直し、その姿勢を表現行為上で実践してきた。
〈Unseen Worlds〉からリリースされた、サム・アシュリーとウァーナー・ドゥーランド共作によるスポークンワード作品『I’d Rather Be Lucky Than Good』でアシュリーは、ドゥーランドによる民族音とドローンを織り交ぜた不穏なサウンドを背景に、世界中の不可思議な物語や寓話を紡いでいく。マニフェスト・デスティニーやカニバリズム、架空の生物に遭遇した人物の話など、大小様々な歴史上の悲劇や出来事を、時間と空間を超えて自在に結び合せ、人間という種に本来備わる脆弱性、脆弱であるがゆえに余地として残された超越世界の可能性を、音とともに浮かび上がらせる。その言葉には、変性状態に似たアンビエンスが立ち込めている。眠りながらにして目覚めているような催眠的な気配のなか、しかしアシュリーの言葉はあるひとつの明瞭なメッセージを私たちに暗示している、「この世界が存在するためには、関係を形成しようとする私達の意思と指向性がなくてはならない」と。
ちなみにジャケットデザインを手がけたのはベルリン在住のSam Lubicz。ここ最近のアートワークは、病理めいたコラージュに拍車がかかっていて最高です。
(T)

Gimgigam – The Trip

まだ寒い2月にリリースされたGimgigamの『The Trip』は、ジャケットのイメージそのままのサウンドに暖かい季節が待ちどおしくなるアルバム。1曲ごとに少しずつ曲の持つ空気は変化し、さまざまな国のリゾート地を訪れる贅沢な旅をしているようにも感じられるので、実際にこれからのシーズンの旅行に携えていって、車窓から眺める景色や歩きながら目に入るものを観ながら楽しむのもいいし、あるいは、ジャケットのイラストそのままにホテルの部屋やプールサイドで聴くのも最高だろう。けれど、あえて日常の中で聴くのが一番いい気もする。今いる場所からトリップしてしまえるだけでなく、きっと時間までタイムスリップして、不思議におもしろい感覚を味わえるのではないかと思うから。(C)

Yolabmi – To Nocturnal Fellows

Yolabmiは東京在住のインダストリアルやダブといった楽曲のリリースやライブ、またコラージュなどのヴィジュアルワークも手がけるコンポーザー。「To Nocturnal Fellows」は、ロシアを拠点に活動するArthur Kovaløvの主宰レーベル〈Perfect Aesthetics〉からリリースされた、抽象的なアンビエント的な感触を持つ作品。ダブステップのような硬質で荒れたテクスチャーを持ったその音響の、延々と続く崩落を眺るような催眠的な心地よさが、破壊と再生を縫うように絶妙なバランスで続いていく。退廃的なロマンティシズム、そして未来というより旅の途中に撮られた個人的な1枚の写真、あるいは荒涼とした見知らぬ国で撮影されたモノクロ映画のような、独特の寂しさを持つ作品。暗く孤独な奥に横たわる、その深くゆったりとした共鳴の世界に身を沈めたい。(S)