水野勝仁 連載第5回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

バルクと空白とがつくる練り物がサーフェイスからはみ出していく

Masanori Mizuno /
Masanori Mizuno / Text: Masanori Mizuno, Title Image: Haruna Kawai

「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」では、モノや映像という一つの存在にバルクとサーフェイスという二つの異なる性質を見出し考察することで、インターフェイスを経由したモノや映像のあり方を考えてきた。これまでは具体的な作品からバルクとサーフェイスとの関係を論じてきたのだが、今回は哲学者の入不二基義の『あるようにあり、なるようになる』のなかに出てきた「無の厚み」という言葉を手がかりにして考察を進めていきたい。具体的な作品ではないが、入不二の運命論についての哲学書に「空白」をめぐる記述があり、それが今まで考えてきたバルクに近い感触があったからである。この考察を通して、インターフェイス以後のモノや映像において、マテリアルデザインや小鷹研理の《公認候補》のようにバルクがサーフェイスからはみ出てきているような感触の正体を探っていきたい。

サーフェイスに囲まれ、関心の外に置かれるバルク🍩

まずは、この連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」が始まるきっかけとなったモノのバルクとサーフェイスとの関係から改めて考えてみたい。サーフェイスとはモノの最表面のことである。

表面の成分組成のほか、凹凸の度合いを示す粗度、濡れ性、光の反射・吸収特性などが代表的な表面特性である。最表面には電荷の帯電、独特の原子配列の変化、分子の吸着などがおこるせいぜい数原子分の厚みの部分がある。その厚みは気体分子の吸着層でおよそ0.5nm(ナノメートル:mmの100万分の1)、油脂などの汚れ層が5nm、さらに下の酸化膜10nm、加工による変質層が1μmぐらいなど、これは金属の値である。1

「吸着層・汚れ層・酸化膜・加工による変質層」という言葉が示すようにサーフェイスは何かを巻き込まざるを得ない。モノの最表面は何かを巻き込むからこそサーフェイスとなり変質する。そして、そこの先にサーフェイスによって外界から遮断され何も巻き込むことないバルクがある。

表面と内部の違いをとりわけはっきりさせたい時、表面に対して内部を“バルク”と呼び、表面に対する内部の特性をバルク特性と呼んで区別する。バルクとは“全体”という意味である。2

バルクとサーフェイスはそもそも同じモノでありながら、特性が異なるために違う名称が与えられている。サーフェイスがバルクという全体の一部でありながら、異なる性質を持っている。バルクとサーフェイスとは同じモノであり、全体の外側のごく薄い部分が異なる特性を持ち、サーフェイスとなっている。サーフェイスは外界と接触において性質が変化しているが、その内部は外界と接しないがゆえに性質が変化しない。外界との接触においてバルクが変化しなければサーフェイスは存在しないとも言える。また、表面と内部との違いをはっきりさせる必要がないときは、サーフェイスはあってもバルクは存在しないこともある。「全体」でありながら、バルクは消えてしまう。そのとき、そこにはサーフェイスしかない。

“おもて”と“うら”はよく使うことばだが、実際には存在しない2次元平面での仮想的な話。現実世界は3次元。紙もホントは厚みを持つ薄い立体だ。この本のページもはじも拡大すれば、“おもて”と“うら”はつながっていて、表面としては同等である。3

バルクがなくてもサーフェイスはある。サーフェイスは表と裏とをつなげた薄い立体として存在する。ここではサーフェイスがモノを取り囲み「厚み」をつくっているが、通常それは「バルク」と名指されることない、「厚み」も「薄さ」としてないものにされて、「表」や「裏」と名指されながら同じ性質を持つサーフェイスとして扱われる。私は連載の第1回目でバルクとサーフェイスについて、次のように指摘した。

「サーフェイス」と「バルク」という二つの異なる名前が一つにモノに与えられていることに注目したい。「石」や「木」において、サーフェイスとバルクとのあいだには断絶はなく、滑らかにつながっているゆえに、バルクという内部構造がサーフェイスの模様をつくりだしている。しかし、私たちがこれまで「サーフェイス」という語を使うとき、サーフェイスとバルクとのつながりは絶たれていたといえる。写真はバルクなどお構いなしにモノの表面のみを写し取るし、コンピュータ・グラフィックはモデルにモノの表面から切り取ってきたテクスチャを貼り付けている。4

私たちはこれまでことさらにモノのサーフェイスのみを切り取ってきた。それは、モノの最表面が否応なしに外界の気体分子を巻き込んでしまうように、ヒトもそこに魅惑されてきたからであろう。ヒトはモノのサーフェイスのみを見て、サーフェイスで取り囲まれた部分だけをモノと見なし、その厚みを意識の外に追いやってきた。だから、ヒトとコンピュータとのあいだも「厚み」として扱われることなく、Macのファインダーのアイコンが示すように二つのフェイス(顔)が向かい合ったときの「線=インターフェイス」として「厚み」を持たないものにされてきた。「厚み」を形成するバルクは、いつの間にかにサーフェイスに囲まれ、その存在を忘れられている。ヒトはモノに表と裏をつくり、それらをサーフェイスとしてひとつなぎにしてバルクを囲み、表と裏とのあいだに存在する厚みを排除する。バルクはサーフェイスに囲まれた厚みとして関心の外に置かれる。

モノを見るとき、映像を見るとき、さらにはスマートフォンに触れているときにバルクは欠如している。サーフェイスを透かし見るとき、そこに「インターフェイス」というモノや映像とヒトとの「あいだ」は意識されるけれど、モノや映像の「厚み」は無視される。サーフェイスの先につづくバルクへの関心が欠落している。この連載「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスに取り囲まれていつの間にか忘れられた「厚み」に「バルク」と名付けて、モノや映像の厚みを考察しているのだと考えられる。

無の「厚み」🧱

モノや映像にバルクを取り戻すという流れで考えを進めていたときに、入不二基義の『あるようにあり、なるようになる』で次のような文章を読んだ。

このように「空白」の方が、「欠如」よりも、いっそう現実寄りである(かといって現実そのものには属さない)。このことによって、二種類の無のあいだに「厚み」が発生している。つまり、「空白」は「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である。5

入不二はヒトの解釈による解釈的運命論や物理法則による因果的決定論とは異なる運命論として「論理的運命論」を考えるなかで「無の「厚み」」と書く。論理的運命論とは「ある出来事は、起こるか起こらないかのどちらかである」というもので、そこにはヒトの解釈や自然法則が入り込む余地がないものとされる。入不二は論理的運命論の「論理」として使われている「PまたはPではない」(排中律)という論理法則から現実を透かし見ていく。その過程で排中律の「PまたはPではない」には「欠如」と「空白」という二つの無について考察され、最終的には現実が論理からも体験からもはみ出してしまうものであることを指摘する。

入不二の論考は現実と論理との関係を扱いながら「運命」を論じており、本連載で扱っているような現在のイメージについての考察ではない。しかし、私は入不二が書く「二種類の無のあいだに「厚み」が発生している」という言葉の感触から離れられなくなってしまった。現実が論理に巻き込まれながらもそこから溢れ出すというイメージや、そこに至る過程で指摘される「欠如」と「空白」という二つの無に生じる「厚み」というイメージが、極めて、本連載で扱っているインターフェイス以後のモノや映像に近いものを感じたのである。それは「排中律から透かし見えること」や「無の「厚み」」といった運命論を語るために入不二が使う言葉と本連載のタイトルや言葉がシンクロしていると、私が思い込んでいるだけに過ぎないのかもしれない。しかし、入不二の運命論で論じられている論理と現実との関係は、論理回路としてのコンピュータと情報を表出するインターフェイスとの関係と類似するところがあると考えられる。なぜなら、インターフェイスはコンピュータの論理が現実世界にある一定のかたちで示すところだからである。コンピュータ以後の論理と現実とのせめぎ合いの場となっているインターフェイスを考えることは、必然的に入不二の運命論のように論理と現実との関係を扱うことになるはずである。このような経緯で、私は入不二の運命論の言葉を手がかりにして、具体的な作品から離れてインターフェイス以後のイメージ論を考えてみたくなったのである。その試論が今回のテキストである。

まずは、二種類の無である「欠如」と「空白」について、入不二の考えをみていきたい。

「欠如」とは、特定の何か(たとえばP)が無いことであり、完全な無(全く何も無いこと)とは違う。しかも、「関心依存的な無」であって、必ずそれ以外の何か(QやRやS……)によって埋まっているにもかかわらず、あたかも「(Pだけでなく)それらも無い」かのように扱われる。

しかし、「空白」は、そのような「欠如」とは異なる。「欠如」は、「Pではない」の「ではない」という否定と共に出現するのに対して、「空白」は、「PまたはPではない」や「QまたはRまたはSまたは……」の「または」という選言のところに出現する。6

モノはただ一つの存在としてそこにある。しかし、モノの最表面とその内部との性質が異なる場合、内部はバルクと名指されるようになる。すると、一つのモノは最表面たるサーフェイスとその内部のバルクという異なる二つの存在で構成されるようになる。ここで注目したいのは、サーフェイスが常にバルクを覆っているということである。バルクの最表面は外界との接触によって変化してしまいサーフェイスとなっている。バルクが存在することは、すなわち、外界との接触することであるから、そこには必ずサーフェイスが生まれる。そして、サーフェイスばバクルを囲っているから、外界からはサーフェイスの性質しか認識できない。確かに、サーフェイスの先にバルクがあるのだが、それはあたかもないかのように扱われるようになる。サーフェイスに周囲を覆われたバルクは、そこに存在しているにも関わらず、いつも間にかにそこから「欠如」していき、ドーナツの穴のようになっていくのである。しかし、そこには確かにバルクはある。バルクがなければ、サーフェイスはないはずである。ここでバルクはサーフェイスに存在をハックされている。バルクはサーフェイスによって外界から遮断され「あるけどない」という状態におかれ、「関心依存的な無」の状況に置かれていく。

けれど、バルクはサーフェイスと質的差異がなければ存在しないものである。だとすれば、バルクは「空白」として、「QまたはRまたはSまたは……」の「または」の部分に現れると考えた方がいいだろう。サーフェイスでもいいが、サーフェイスでもない宙づりの状態を呼び込むものがバルクと考えられないだろうか。サーフェイスがいつの間にかバルクになるとき、逆にバルクがいつの間にかにサーフェイスになるときに「もうサーフェイスはなく、バルクでもない(どちらでもない)」という空白が現れる。このように考えると、バルク自体は空白ではない。サーフェイスとバルクとのあいだに空白が生じることになる。バルクとサーフェイスとは「バルク|サーフェイス」という密着したかたちで一つのモノや映像を形成しているのではなく、バルクが空白を呼び込み「バルク|空白|サーフェイス」というかたちになっている。そして、この「空白」の部分が自在に変化することで、バルクとサーフェイスとの関係が変化し、バルクは気がつくと実在するようになったり、また消滅したりすると考えられる。モノや映像はその全体のなかに「空白」を抱えることになる。

「空白」は、「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である。「欠如」が「欠如」として成立するためにも、「空白」が奥(裏)で利用されざるをえない。7

サーフェイスと区別するために採用されたバルクが空白を招き入れるからこそ、サーフェイスは「サーフェイスではない」という欠如とその〈裏〉にバルクを示すことができるようになる。バルクはサーフェイスが欠如するために利用される空白としてそこにある。しかし、それは空白そのものではない。なぜなら、サーフェイスを透して見ると、そこにはバルクが充満しているからである。サーフェイスを透かし見ると、そこにはバルクがあるのだけれど、それは空白としても機能している。それは、バルクと密着した空白だと言えるだろう。

「欠如」は、リング型のドーナツの穴を、ドーナツの生地がない(食べられない)部分と捉えることに相当する。また、その部分を、何かが「ない」場所として捉えるのではなく、ドーナツの象徴としての穴が「ある」場所として捉えることもできる。その両方が可能である(あるいは交代する)場として見なすときに、そこに「空白」が働く。「ある」とも「ない」ともどちらとも言えて、「ある」と「ない」がそこで交代する「どちらでもない場」、それが「空白」である。8

サーフェイスを透かし見るとバルクの「ある/なし」が交代する「どちらでもない場」としての空白と密着したバルクを見ることになる。だから、バルクはサーフェイスにハックされて「ない」ものにもなってしまう。「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスを透かし見ながら、「どちらでもない場」としての空白を介して、モノや映像の厚みを示すバルクをあるものとして確定していく作業をしていると言える。

バルクと空白とがつくる練り物🥨

「無の厚み」からバルクを考えると、「サーフェイスを透かし見る👓👀🤳」は、サーフェイスを透かし見るためにバルクを採用していると考えられる。なぜなら、バルクが空白を招き入れるのであって、空白がなければ、サーフェイスを透かし見ることはできないし、そもそもバルクは「ある」ものでも「ない」ものでもなく、端的に存在しないからである。では、わざわざバルクといって、モノや映像に厚みを見出そうとするのはなぜなのだろうか。それは、モノにはやはり厚みがあるからであり、モノで構成された装置によって表示される映像にも厚みがあるからである。関心の外に置かれるこれらの厚みを取り戻すためには、バルクというサーフェイスと区別される性質が必要なのである。

これまで入不二の「欠如」と「空白」を参照してバルクを考えてきたが、これらとバルクとは決定的に異なる点がある。それはモノや映像には厚み=バルクが現実に存在するという点である。しかし、それでもなおバルクは空白という現実に存在しないものとともに考える必要がある。なぜなら、なぜ「無」が「厚み」と結びつくのかということを考えると、そこには確かにそこに存在するにも関わらず忘却されてしまうバルクが絡んでくると考えられるからである。

現実には「欠如」や「空白」は存在しない。しかし、だからといって、「欠如」や「空白」は、単なる空想や偏見の産物というわけではない。「欠如」や「空白」は、(現実の側ではなく)私たちの言語や論理の側が持ち込むものであるという意味では、主観的なものである。しかし、だからといって、私たちの思いのままになる主観的な観念というわけではない。むしろ、「欠如」や「空白」は、それなしには思考さえできないだろう。思考の可能性の条件として、「欠如」や「空白」は客観性を持つ。ここでは、単純に主観的/客観的に二分しても意味がない。両極性(私たちの言語・論理の側と現実自体の側)の間には、様々な観点や程度で主観的/客観的という区別を無数に引くことができるだろう。9

「バルク」は言語や論理の側が持ち込むのでなく、モノの特性のちがいとしてサーフェイスから連続していくモノの内部にある客観的なものである。しかし、バルクはサーフェイスとは異なり「バルク」と名指されなければ存在しなくなってしまう。モノの最表面と内部との特性の違いを示すときにだけに「バルク」という言葉は採用され、モノのなかにバルクが存在するようになる。バルクは客観的でもあり、論理・言語に属するものでもある。そのため、バルクという語を採用すると、サーフェイスに裏が生まれ、厚みが否応なしに生まれることになる。バルクがなければ、サーフェイスには裏がない。サーフェイスはいつ間にかにモノの表から裏へと滑らかにつながり、一つのモノとなっているからである。この意味ではサーフェイスは裏を持たず、文字通りに「最表面」でしかない。バルクという言葉とともに空白がモノのなかに入り込んできて、サーフェイス自体に裏が生まれるのである。

それでは、「空白」はどうだろうか。「空白」は「欠如」よりも、私たちの関心への依存度が小さい。というのも、たとえ私たちがどんな関心や欲望を持つとしても、「AからBへの交代」や「AでもBでもない」等の二者を宙づりにする観念を持つ限りは、「空白」を呼び込まざるをえないからである。「空白」は、「欠如」のようには関心依存的な無ではない。その意味において、「空白」の方が、「欠如」よりもいっそう「客観的(絶対的)」である。しかし、だからと言って、「空白」は、物理的な事実のように存在しているわけではない。あくまで「空白」は、私たちの論理・言語に属するのであって、現実自体の側にあるわけではない。10

空白がサーフェイスからバルクへの交代を可能にする。「空白」は論理・言語に属するものであって、バルクは現実自体の側にある。確かにそこにある厚みに空白という論理・言語に属するものが練りこまれていきバルクとなる。空白もまたバルクというモノの厚みを練りこまれることで、モノ的な存在になっていく。サーフェイスに囲まれて関心の外に置かれていたモノの厚みにバルクという言葉が与えられると同時に、空白がそこに巻き込まれていく。だから、空白は厚みを持ってしまう。バルクが呼び込む空白はバルクとサーフェイスとのあいだで機能するインターフェイスではなく、この二つの異なる性質が同一のモノのなかで切り替わるために呼び込まざる得ないものである。モノのなかには客観的なバルクと論理・言語に属した空白とによってできた独特な厚みを持つ練り物があると考えられる。モノや映像は論理・言語でしか考えられない空白とその厚みとしてのバルクからつくられる独特な練り物を抱えることで、はじめて極薄の厚みをサーフェイスを持つことができる。しかし、その極薄のサーフェイスは練り物を外界から遮断するものであり、バルクを私たちの関心の外に置いてしまうため、モノや映像の厚みはないことにされてしまう。

このように「空白」の方が、「欠如」よりも、いっそう現実寄りである(かといって現実そのものには属さない)。このことによって、二種類の無のあいだに「厚み」が発生している。つまり、「空白」は「欠如」のさらに〈奥〉あるいは〈裏〉に控えている無である。

「欠如」と「空白」のあいだの「厚み」に加えて、「空白」は、独自の「厚み」も発生させる。それは、「空白」の非存在(現実には空白は存在しないこと)をめぐって生じる。11

サーフェイスに囲まれたバルクは関心の欠如からその存在が忘却されるものになっているけれど、それはバルクが「欠如の〈裏〉に控えている無」として空白と絡み合っているからである。バルクと空白は絡み合いながら、バルクは空白に物的厚みを、空白はバルクに論理・言語的に厚みを互いに練りこんでいき、その存在を確かなものとしていく。バルクは空白を呼び込み、「バルク|空白|サーフェイス」という図式をつくるのだが、すぐにバルクと空白とが絡み合い、互いに練りこまれて、モノでもありながら論理・言語に属するような練り物が生まれる。このバルクと空白とが練り物となることで、バルクはサーフェイスの〈裏〉に控える無となると同時に、〈裏〉を得たサーフェイスもまた極薄の独特な厚みを持つことになるのである。このときのサーフェイスは、マルセル・デュシャンが「アンフラマンス」と呼ぶものに近いだろう。デュシャンの「アフラマンス」に関するメモを訳した岩佐鉄男は、この言葉に関して次のように書いている。

ここでとりあえず《極薄》と訳した語は、もちろんデュシャンの造語で、「下部、下方」の意をあらわす接頭辞 infra- と「薄い」という形容詞 mince とを合成してつくられている。したがって語の直接的な意味としては、「薄さの限界を下まわる薄さ、人間の知覚閾を超えた薄さ」ということになるだろう。この意味を的確に言いあらわす日本語をうまく思いつかないので、この訳稿では《極薄》という語をあてているが、たんに「極めて薄い」というのではなく、ちょうど赤外線 infrarouge が赤の限界を超えた色──色としては知覚できない色──であるのと同じように、《inframince》は薄いという知覚さえ失われる極限での薄さであることに留意していただきたい。12

アンフラマンスは、岩佐が「知覚さえ失われる」と書くように理念的な存在である。そこには〈裏〉も〈表〉 もないであろう。しかし、サーフェイスはアンフラマンスのような極限の薄さをもつものだが、それは空白とバルクとの練り物という半実在的で半理念的な存在と重なり合って、〈裏〉を持つことではじめて生じる。サーフェイスもバルクと同様に半実在的で半理念的な存在なのである。アンフラマンスが理念的な存在だとすれば、バルクとサーフェイスとは空白と絡み合いながら、ともに何かしらの手段で知覚できる厚みを成立させる半実在的で半理念的という存在ということができるだろう。

モノと映像とがそれぞれ単体でバルクを囲っていったときには、そこには極薄のサーフェイスだけがアンフラマンスのように理念的に存在するかのように扱われ、バルクはないものとされていた。そのため、これまで理念的なアンフラマンスの存在については多くの考察がなされてきた。対して、この連載は、サーフェイス、バルクと空白がつくる練り物という存在の組み合わせで、モノや映像の独自の厚みを改めて考えてきたと言えるだろう。なぜなら、インターフェイスを経由したモノと映像とは一つの複合体として扱われるようになり、モノと映像とが互いに抱えてきたバルクがモノと映像のそれぞれのサーフェイスとの境界で改めて空白を取り込んで、サーフェイスからはみ出し始めたと考えられるからである。そして、iPhoneが発表された2007年前後では、一つのインターフェイスを形成するモノと映像とでバルクのはみ出しが起こっていたけれど、現在(2019年)では、インターフェイスを構成しない単体のモノと映像においても、バルクがサーフェイスからはみ出しつつあるように感じられる。

最後に、サーフェイスを超えて存在を主張するようになったきているバルクと空白とがつくる練り物の独自の厚みを考えて、この論考を終わりにしたい。そのヒントもまた、入不二の空白についての思考にある。

観念論側から、実在論側へとはみ出るものが一つある。それは、空白についての「思考」である。「空白は経験することができない」とは、経験の範囲内に登場しないものとして、「空白」を思考できているから言えることである。この「思考」自体は、見たり聞いたり等の「経験」からは、はみ出さざるをえない。そうでないと、「空白」もまた「思考=経験できる」ものになって、「空白」は経験可能な存在になってしまう。それゆえ、「空白についての思考」は、観念論的な「経験」の範囲からはみ出して、実在論的側へと接近する。

もちろん、「空白」は実在せず、「空白」として思考されるのみである。その意味では、すなわち「空白」の存在はそれについての思考から切り離せないという意味では、「空白」は観念論的である。にもかかわらず、その「空白=思考」は、観念論的な「経験」や「認識」の範囲内には収まりきらずに、実在論的側へと向かってはみ出す、その意味での「思考」は、「経験」ではないし「認識」を超え出ている。

観念論側からすると実在論寄りに見えるその「思考」は、実在論側からすると、むしろ逆に観念論側に一歩接近したものに見える。というのも、現実は端的なベタであって、「空白」をいったん思考したうえで、それを無いものとするという「思考の手順」自体が余計なものだからである。つまり、二重否定的な肯定(充実)は、端的な肯定(充実)から、「否定」の思考の分だけはみ出してしまう。実在論的にベタな現実は、そのような「思考」からも無縁なのである。こうして、空白についての「思考」は、実在論側からも、余計なものとしてはみ出し、観念論側へと接近する。

空白についての「思考」は、どちら側から見てもあっち側へとはみ出すという独特な〈中間〉性を帯びている。この〈中間〉性は、「欠如」が私たちの観点や水準に応じて主観的でもあり客観的でもあるという相対性(変動幅)とは違う。むしろ、その「思考」のポジションは、絶対的に中間的である。この〈中間〉性が、「空白の非存在」をめぐる独自の「厚み」を発生させている。13

モノのバルクは「実在論的にベタな現実」として存在するが、これまでは余分なものとして思考や認識のフレームの外に置かれてきた。映像のバルクは空白と同じように観念的なものとされて、「アンフラマンス」が示すようにその厚みは忘却されてきた。しかし、インターフェイスを形成するモノと映像は互いに絡み合って複合的存在になっていき、次第にモノのバルクが映像のサーフェイスの向こうにはみ出し、映像に厚みをあたえるようになった。それは同時に、忘却されてきた映像のバルクがモノの方へはみ出してきたことを意味する。モノと映像との複合体は、互いのバルクが互いのサーフェイスからはみ出ることで生まれるのである。このバルクのサーフェイスからのはみ出しは、空白が「観念論」と「実在論」とのあいだでどちらへもはみ出していくように、空白を練り込んだバルクが独自の厚みをもつことから可能になっている。そして、モノや映像に招き入れられた空白はバルクによって全体に包含され、その存在がバルクに練りこまれていく。そして、サーフェイスを透して、バルクに練り込まれた空白が現実の側にはみ出てくるのである。バルクと空白からつくられる練り物は、二つの存在のあいだにインターフェイスと呼ばれる「境界線」を引くものではなく、一つの領域からはみ出てもう一つの領域に入り込んでしまう独特な中間性を帯び、複数の存在を巻き込んで、くっつけてしまう「糊」のように機能する。モノや映像を「厚み」という観点から考察するためにバルクを導入すると同時に、バルクと空白とがつくる独自の厚みを持つ練り物が周囲を覆う極薄のサーフェイスからはみ出し、別の何かを巻き込み、くっついていく様子を観察していかなければ、インターフェイスを経由したモノと映像を考えることは難しいのである。

参考文献・URL

  1. 丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司『表面と界面の不思議』、工業調査会、1995年、p.11
  2. 同上書、p.11
  3. 同上書、p.19
  4. 水野勝仁「連載第1回 サーフェイスから透かし見る👓👀🤳:サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る」2018年、https://themassage.jp/throughsurface01/(最終アクセス:2019/2/10)
  5. 入不二基義『あるようにあり、なるようになる』、講談社、2015年、kindle版、位置No.748/5706
  6. 同上書、位置No.696/5706
  7. 同上書、位置No.722/5706
  8. 同上書、位置No.731/5706
  9. 同上書、位置No.737/5706
  10. 同上書、位置No.749/5706
  11. 同上書、位置No.755/5706
  12. マルセル・デュシャン「極薄(アンフラマンス)」岩佐鉄男訳、ユリイカ 15(10)、1983年、pp.68-69
  13. 同上書、位置No.767/5706

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

MASSAGE MONTHLY REVIEW – 1

MASSAGE&ゲストで、1月の音楽リリースをふり返る。

MASSAGE /
MASSAGE / S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, N=Shigeru Nakamura, C= Chocolat Heartnight

Ragnar Grippe – Symphonic Songs

70年代中期から現在にいたるまで精力的に活動を続けてきたスウェーデン出身の電子音楽家、ラグナー・グリッペの1980年の貴重な未発表音源集が〈Dais records〉より2枚組のLPでリリース。アートワークを手がけるのはAscetic Houseの主宰者でもあるJS Aurelius。クラシック音楽の演奏者としてのキャリアを若くして諦めたラグナーは、当時彼にとっては未知の領域であった電子音楽を追求するために、フランスのGroupe de Recherches Musicale(GRM)で本格的に作曲を学び、その後大学での研究を続けながら、実験音楽の分野で着実に才能を開眼させていく。この『Symphonic Songs』はコンテンポラリー・ダンスの振付師であるスーザン・バージュからの依頼を受け、彼女の新作公演の劇伴のために用意された作品。音楽史に名を残した77年の怪デビュー作『Sand』が、もともと交流のあったリュック・フェラーリが個人運営するALMスタジオで録音されたのに対し、今作はミュージックコンクレート/エレクトロアコースティック界ではGRMやIRCAMと肩を並べて知られる、ラグナーにとっては馴染みの深い地元ストックホルムのElektronmusikstudion(EMS)で録音された。ブックラシンセイザーやマルチトラックレコーダーをはじめ、潤沢な機材が揃ったEMSスタジオの環境のおかげで、前作には見られない新たな挑戦が色々試みられている。「Sand」のコンクレートかつミニマルなテクスチャー(前述したスタジオでの機材の制約が翻って、こういう独自の音楽性が編み出されたのか)は消失し、今作では異なるレイヤー同士を重ね合わせながら、ブックラによるサウンド実験を心ゆくまで楽しんでいる。全体で80分を超える長尺で、劇場面に沿った音のパートがどんどん繋がれていくという構成のため、特に一貫したテーマ性は見られないのだが、電子変調された男女の声音や突発的な金属音の挿入が緊張感を持続させながら、ぬめりを帯びた音の弛緩と収縮が繰り返され、独特の飽和した感覚がなんとも居心地良い。ちなみに実験度全開のこの作品の翌年に発表された『Lost Secrets』では一転して鮮やかなニューウェーブ色のバンドサウンドを披露していて、現在の視点からは全く不可解な、クロスオーバーともいえないこういう音楽性の脈絡のなさは、ある種テクノロジーがジャンルを先行していた時代の特権性を示すものでもあって面白い。(T)

Xosar – The Possessor Possesses Nothing

アラブ首長国連邦のレーベル〈Bedouin Records〉から、絡まりあったドラゴンのカバーアートが印象的な、XOSARことSheela Rahmanによる4年ぶりのリリース。実際にサイキックパワーを持っている家族のいる環境で育った彼女が、超常現象や異世界への関心を自身の創造性へと昇華させたインダストリアルテクノの質感を持つテクノミュージック。深みを潜水していくかのような未来的なその想像力は、音楽を作ることを自己療法と考える彼女の創作コンセプトに由来する。錬金術、クンダリーニヨガ、フラクタル、DNAの構造、黄金比、バイオフィードバック、準結晶などといったあらゆるアイデアを研究し、そして最終的には自分自身の受容へと至る。その神秘への探求は、自己を暴いていく過程であり、創造とその行為は深くつながっている。その探求は聴くものを時間と空間を超越する恍惚の旅へと導く。(S)

Tavishi – মশ্তিষ্কের কণ্ঠশ্বর | Voices in my head

サイエンティスト、ミュージシャン、そしてヴィジュアルアーティストでもあるTavishi(Sarmistha Talukdar)は、自身の研究をデータをサウンドスケープへと変換する実践を行っている。伝統的な文化を持つベンガルから来たクイア女性という出自を持つ彼女は、自己の中間的状態の分裂を聴衆との音楽体験により合一し、カタルシスや癒やしの感覚へと昇華することを試みる。この最新作は、アジアをテーマにし活動するプラットフォーム/コレクティブ〈chainabot〉からリリースされた作品。癌細胞がストレスの多い状態で生き残るために自分自身を食べるオートファジーと呼ばれる過程について彼女が発表した研究データを作られた“I eat myself alive”は、アミノ酸配列を音に変換し、分子信号のフローチャートに沿って配置することにより作られた。また、“Satyameva Jayate”はサウンドのループとフィールドレコーディングにより「取り残された人々の歴史」を表現し、その最終的な勝利を願って作られたトラックである。抽象的かつインテリジェントなそのサウンドスケープは、インドの伝統的な調律とエクスペリメンタルな音響の間を行き来しながら、持続音や不協和音、また親密さと拒絶の間を横断する。そこにはしなやかさとダイナミズム、そして組み尽くすことのできない豊穣さが宿っている。(S)

Nkisi – 7 Directions

作品に対峙する際に、その作者のルーツやアイデンティティを丁寧にたどることの必要性は、音楽だけではなくエンターテイメントのフィールドでますます強くなっている。たとえば昨今のブラック・カルチャーへの「関心」と、黒人が主役のヒーローものなどウケないと言われていた過去が嘘のように、そういった作品がアカデミー賞にノミネートされるまでに至ったことの間には確実に関連があるだろう。
しかし、他方で「ブラック」「アフリカ」などの語そのものが十二分にそのルーツや背景を語るものではない。先に挙げた映画でも、アメリカン・アフリカンにとっての大きな経験を描くものであっても、そこで描かれるアフリカの架空の国についてはアフリカへの先入観が大きく作用しているとの批判も時にあったからだ。ある特定の人種や民族の文化的背景を背負ったり迫ることには多大な難しさがある。鑑賞する側も同じような態度で軽々しくそこにルーツを見とることは、大きな誤解を導きかねない。
Nkisiの楽曲が評される際に、彼女の出自であるアフリカ、コンゴ民主共和国への視点が散見される。そのアーティスト名がその地では「魂が宿るもの」であることからも、彼女の自身のルーツへの強い思いが伺えることは明らかだ。しかし彼女の音楽には、ルーツへの視点のみが自身のアイデンティティを音楽に位置づける唯一の方法ではないという意思が示されているように思う。
本作はLee Gambleの主宰する〈UIQ〉からリリースされた。強く印象付けられるのはテクノだ。先に述べたアフリカ的なものは、七曲目のように、たとえばKonono no.1が鳴らすような、ルーツについて記名性を持った音が鳴る。しかし、全体として我々がアフリカを想起するようなわかりやすい音像が提示されるわけではない。これはある種の期待を持って聴くリスナーには残念な展開かもしれない。たとえば一曲目はアンビエントのような包み込むような柔らかさに包まれた後にリズムが複雑に絡むようにキックが入ってくる。二曲目は打って変わり、パーカションの音で始まり、キックの乱打がそこに重なる。後半になると、六曲目では音の間に隙間が作られ、いわゆる「ウェイトレス」な電子音楽も彷彿とさせる。Lee GambleのルーツにJeff Millesのようなテクノがあるように、彼女のルーツにはテクノがあるのだ。
その特に顕著な点を述べれば、彼女の音楽は90年代の、とりわけAphex Twinの影がハッキリと残る当時のテクノの強い影響下にある。彼女は幼い時にコンゴ民主共和国からベルギーに移ったというが、同じ90年代のテクノの流れの中でもガバと言ったハードテクノの影響は本作ではうっすらと伺えるものの、文字通りの弱い残像でしかない。はるかに強いのはAphex Twin、そして〈R&S records〉からリリースされたような当時のヨーロッパテクノの姿である。
「物語る」という行為は音楽においてはその音自体になるだろうが、彼女の出自についてその地理的な変遷を考慮すれば音楽も同じようにさまざな音楽の影響下にあるというべきだ。さらに、本作はコンゴ民主共和国にて大きな影響をもつ学者の宇宙観に影響されたものとも言われる。どこまで僕も含めたリスナーがこの宇宙的な音についていけるのだろうか。文字と異なり、音が語ることは往往にして断片的でありイメージである。そして当たり前のことだが、ルーツとはそんなシンプルなものではない。我々はそんなシンプルな世界、時代に生きてはいない。「魂の宿るもの」であるNkisiのその内側にはあるものは、確かに宇宙なのだろう。(N)

feather shuttles forever – 図上のシーサイドタウン

小確幸と呼ばれるものについてよく考える。大きな期待をせず、過度な刺激を求めず、目の前にある小さいけれど確かなものを喜び、楽しみ、そこに幸福を感じられたら、と。feather shuttles foreverの「図上のシーサイドタウン」には小確幸がある。サボテンの鉢を抱えてドイツ車に乗ったり、くらい遊びをしたり、ボルシチを食べたり、時には、スタンプばかりのメッセージなら夜は9時に寝ると静かに怒ったり(船出が早いのは漁村だからだろうか。そんなことを想像するのも楽しい)、そして、「失踪しませんか?」と誘ってみたり。ほどよい脱力感と浮かれ具合と風通しの良さ。このアルバムを聴いていると、自分もそんな日常を過ごす人になれたみたいに錯覚できる。それも、小さいけれど幸せなことなのかもしれない。(C)

ALTZ.P – La toue

2000年初頭の大阪のアンダーグラウンドシーンの空気とも連動する唯一無二の作品を作り出してきたALTZの久々のリリースである「La tone」は、色褪せることのない爽やかな驚きを感じられる快作だ。真っ黒なビートはいつもどおりファニーな面持ちを持ち、その優しさに溢れた個性を響かせている。ストイックでミニマルでありながら、いつでも奔放な自由さを宿したビート。弾け出したい心を抑えるかのように、抑えられたそのリズムの中にあるストイシズムは逆に情熱的ともいえる。その熱気は、鮮やかに身体性と結びついて、聴くものの心をその原始の炎で焼き焦がす。フルバンドとなったその演奏は、楽器と楽器は有機的に結合し合い、鮮烈なその色彩を眼の前に大きく広げていく。よりスケール感を増したその世界観で、ここではない世界へと接続するユートピアを出現させる。(S)

New Scenarioがビデオとサウンド、テキストが織り重なる重層的な作品“Cameron Nichole is Chloë Sevigny is Bruce Nauman”を公開。

MASSAGE /

オンラインキュレーションにより作品を発表するプラットフォームNew Scenarioの新作は、ビデオとサウンド、テキストが重層的に織り重ねられたブラウザ上で鑑賞される作品。映像は、アメリカの現代美術家Bruce Naumanが1968年に制作したフィルム「Playing A Note on the Violin While I Walk Around the Studio」の再制作として作られたもので、そのオリジナルは、Bruce Naumanが倍音による「ビート」が生じるように一つの音階をゆっくりとシフトさせながら、スタジオ内を移動し続けるというパフォーマンスである。

再制作とはいえ、New Scenarioの映像は多くの点でオリジナルと異なっている。女性奏者はまず、モーションキャプチャー用と思わしきグリーンのドットを身につけており、スタジオではなく夕暮れの都市を背景に歩き回りながらバイオリンを演奏する。演奏されるバイオリンのサウンドも、エレクトロニックな響きを持つものに置き換えられている。このように、時代を隔てて作られた2つの作品の間には、様々な次元からのズレが入り込む。ふたつの作品の間にあるズレ、そして映像にも実際の楽器と音の間にある作品内におけるズレという、二重のズレがそこに忍び込んでいる。

そこにレイヤーのように重ねられるのが、映像から引き出された8つの物語である。サイトをスクロールダウンすることにより現れるテキストは、この再制作された映像をもとに、8人の著者が何の追加の情報もなしに執筆したもの。それぞれの執筆者は、互いに同じ映像が送られていることは知らされていなかったという。

しかしテキストを読むためには、鑑賞者は映像をテキストによって隠さなければならない。執筆者が各々独自の視点を編んだ、互いに響き合うテキストによって映像は覆われることになる。映像が隠されたとき、視覚的にはただウィンドウ内にデザインされた文字のみが現前している。背後に映像があることにより、そのテキストは浮遊してるように感じられる。その文字は、パフォーマンスを解説するキャプションとして映像の側に所属するのと同時に、またそれを表示するためのブラウザにも所属しているからである。こちら側でもあり、あちらの側でもあるそのテキストの背後で、ただ奇妙な響きを持つバイオリンのサウンドだけが奏者の存在を示すかのように、終わることのない演奏を続けている。

newscenario.net

「イン・ア・ゲームスケープ ヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我」

ゲームの可能性を検証する、2人のキュレーターによる展示の試み

MASSAGE /

土居伸彰と谷口暁彦の共同キュレーションによる展示、「イン・ア・ゲームスケープ ヴィデオ・ゲームの風景,リアリティ,物語,自我」が現在開催されている。ゲームに関する展覧会は過去にいくつか開催されているものの、アートの側からゲームの可能性を問う展示として、この規模のものは初となるのではないだろうか。さまざまな方向からゲームの可能性を実践する作品が世界各地で多く誕生している中で、ようやく日本でもまとまった作品を見ることができるという喜びは、とても大きい。

「イン・ア・ゲームスケープ」展の最大の特徴は、異なった視点を持つ2人のキュレーションであるという点だろう。2つのテーマが並走するという前例のない挑戦的な展示である。2人が持つ視点のズレや重なりは、そのまま今のこの領域の可能性をも代表している。表立って批判されているように、2人の視線は明確なだけに、異なる機会でそれぞれが企画すれば、より際立った形でそれぞれの可能性を伝える展示が成立したかもしれない。だが、それでは今回の展示が持つ奥行きは生まれなかっただろう。むしろ私はその差異の衝突と重なりにこそ、今回の展示において重要な点が存在しているように感じた。このテキストでは、駆け足にはなるがその点について確認しておきたい。

まず、土居伸彰によるキュレーションは、自身の専門であるアニメーションの領域から見たゲームの可能性の提示ということになるだろう。近年のインディゲームの興隆は、かつてのアートアニメーションの持っていたような、「個人的」な体験を普遍的な作品性へと拡張する回路を作り出す可能性を拓いた。特に、アニメーションからゲームという接続で、近年で鮮烈な印象を残したのは、David Oreillyの《Mountain》や《Everything》といった作品である。

David Oreillyのゲームにおいては、アニメーション作品からの断絶も特徴的である。彼が破壊的なナラティブで紡いできたポエジーは、ゲームにおいては世界の創造に立ち会っているかのような神秘の感覚に置き換わっている。その変化は、アニメーションが直線的な時間性を追体験するメディアであるのに対して、ゲームが多元的な空間や時間の特性を持っていることによって生み出されているように感じる。

一方で、谷口暁彦のキュレーションはメディアアートの側からのビデオゲームへの回答ともいえるものである。より具体的にいえば、環境としてのゲームを利用した作品群ということになろう。それは、ネットアートがネット上を表現の場としながら、単にそれを空間的に利用するだけでなく、あたかもインターネット自体を拡張するかのようにその可能性を伸ばしていった様子にも類似している。彼の視点が、ひとつの歴史を辿るような印象をあたえるのはそこにも理由があるかもしれない。

彼のキュレーションの中心をなすのは、イップ・ユック゠ユーの《プラスチック・ガーデン》や、ジョナタン・ヴィネルによる《マルタンは咆哮する》などからなる、ゲームからインタラクションを廃したマシニマ作品である。彼はマシニマという一見狭く思えるテーマを、時代を超えて展開することにより、クリアにその可能性の広がりを描き出している。特に、若い世代のマシニマ作品は、ゲームの中での個人的な体験が滲み出している、という点に特徴があるように思われる。ゲームが作り出す環境によって、私たちのゲームの中で過ごす時間は所与のものとなり、日常の一部となっていく。そしてそこで起こる出来事は、現実と同じような意味を持つようになり、記憶に刻みつけられていく。それとは対照的に、《Parallel I–IV》でHarun Farockiはゲームへのもっと無垢な視線を投げかける。そこにはゴダールのシネマのような、メディアが映し出す世界そのものに対しての存在論的な問いかけが存在している。

しかし2人のキュレーションが見せた、ゲームそのものの作品性へと向かうベクトル、そしてゲームを出発点とし、そこから別種の作品を生み出そうとする2つのベクトルの間には断絶も見られる。異なる文化風土から来たそれらはやはり交わってはいないが、その奥にはどちらも同時代的な視線から切り取られた個人的な風景が横たわっている。この地点こそ、異なる場所を出自とする土居伸彰と谷口暁彦のキュレーションが交差している場所といえるだろう。

そして、最後にもう一点付け加えておきたいのは、両者ともにゲームという領域の外側からアプローチされたものである、ということである。そこに導入されている外部性こそ、産業としてのゲームとは異なる可能性をこの領域に拓くのに必要な要素のように私には思われる。領域の枷から解き放たれることによってのみ、メディアそのものの可能性を探求し、開拓することができる。そしてその試みは、盤石なるわたしたちの生きる世界が構成する時間や空間の概念と自由に遊びながら、これからもそれらを更新していくだろう。

会期:2018年12月15日(土)—2019年3月10日(日)
会場:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC] ギャラリーA
開館時間:午前11時—午後6時(入館は閉館の30分前まで)
http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2018/in-a-gamescape/