Nozomu Matsumoto Interview

モノ⇄マルチが行き交う世界と響きあう。  『Climatotherapy』による、文化共同体のデトックスとその可能性。

MASSAGE /
MASSAGE / Interview&Text: Kazunori Toganoki

アーティスト/キュレーターとして活動する松本望睦はこれまで、先鋭的なアーティストを紹介するデジタルのサウンドギャラリー『EBM(T)』や、オンラインとオフラインの領域が共存し合う基盤としてのアートフェスティバル『インフラ』など、新しい視聴覚体験が開かれ、人々に共有される場所や機会を提供してきた。今回〈The Death of Rave〉からリリースされた初のフィジカル作品『Climatotherapy』は、新しい領域にしなやかにインタラクトするそんな彼の姿勢と呼応するかのように、多様な表情と可能性を帯びた、そして蓄積された知覚経験のラベリングから解放された音楽である。また、この作品自体が一つのミディウムのように機能し、「現在」と「未来」が同時に進行する(もしくは「未来」が「現在」を侵食する)かのような、奇妙に捻れた時間軸で生きる私たちの不確かな存在の世界を、極めてリアリスティックに照らし出しているのかもしれない。その「気候療法」が示す意味とはなんなのか、そして音声スピーチの背後にある作品世界について、話を伺った。

Climatotherapy(PDF) 気候療法(PDF)

今回リリースされた『Climatotherapy』は、日本語に訳すと“気候療法”を指し、「日常とは異なった環境下で、疾患の治療や保養を行う療養」という意味を示します。レーベルのリリース文を参照したところ、ノゾムさんは気象病をお持ちだったそうですが、そうしたパーソナルな健康上の問題と今回の作品は何か関わりがあるのでしょうか。

昔から虚弱体質で、生まれつき癇癪持ちでした。ここ10年くらいは偏頭痛と精神疾患があります。そのため、気圧アプリを見て痛み止めや安定剤を調節しています。モチーフとしてはそのことは多少は関わっているかもしれません。ただ今回の作品が指す『気候療法』は実際的な意味とは少し離れていて、精神医学・心理学上で感情・気分が天気・天候へ例えられることを用い、ある時代のあるコミュニティでのメンタリティやモラリティとして気候を扱っています。

今回の作品に胚胎するコンセプトや背景について教えてください。

コンセプトをまとめてみました。

気候療法(climatotherapy)は古気候学(paleoclimatology)を通し、道徳(morality)や精神性・心性(mentality)のソーシャルデトックス(social detox)を目的としている。テーマは、音声、またそれが発される母体を探ること。声(voice)は、身体=body(母体=matrix)に帰属する発音で、逆に楽器(instrument)とは、身体に帰属しない代わりに身体的発声器官の拡張を促す、生理的表現の延長から抜け出す発音である。声・音声が母体を、身体でない楽器として発音される時、共同体のパースペクティブや文化的色相を元にスケーリングされた音楽がどのように私たちをデトックスし、ロマンティックな健康状態を心に持たせるのか。 

また私たちが進化していく際に、適応しないための適応能力を自身に要求することを「積極的な退化」と呼んでいます。この能力にまつわることはいつも作品コンセプトに含まれていて。昨年に”The Mind Has No Firewall”というタイトルの作品で、フレイ効果(耳を通さず脳に直接聴覚信号を送ること)を使用する展示計画がありました。回路図は研究者にいただけたのですが、ある一定以上の時間聞いていると統合失調症になってしまう、音をアルミ製の板などで隔離しないと半径30m圏内の近隣住民にも聞こえてしまうなど、デメリットが多く実現できませんでした。ですが、その時の「心はファイアウォールを持たない」というタイトルの言葉が、今回の『気候療法』の背景には残っています。実験としてCVNの佐久間さんが始めたGrey Matter Archivesでその雛形を作っています。

「積極的な退化」という言葉ですが、非常に有効性があり、説得力のある言葉です。環境に適応する能力が過剰に求められている現代の状況において、我々の「心はファイヤーウォールを持たない」がゆえに、適応とともに何でもかんでも受け入れてしまい、結果様々なバグや攻撃を食らって、問題を抱え込んでしまう。むしろ適応しないように働きかける(≒退化)ことで、事物そのものの性質やエネルギーに接近する試み、という意味合いでしょうか?このワードに関して、もう少し解説していただけますか。

現代において、とりわけ技術進歩の中で進化していく環境や、それに囲まれる人間やモノが日々アップデートされる際にアップグレードも施されています。「積極的な退化」というのは、ダウングレードも交えながらアップデートすることです。グレードの変化ということが一体どういう影響を及ぼしたか、または及ぼすのかというのをきちんと知った上でできる判断の選択肢だと思います。
「事物そのものの性質やエネルギーに接近する試み。」という部分は少し訂正があって、全てのモノは振動していて、固有の周波数を持っています。私たちは人間であると同時にモノで、モノであると同時にエネルギーでもあると思います。なので、私たちは心そのものを守る何かを持つのではなく、心のありよう自体を強くする必要があるんです。与えられた変化の選択肢が進化だとしたら、退化することで自分に与える変化の選択肢が退化であるとも言えますね。

少し遡りますが、コンセプトの概要でおっしゃっていた「ロマンティックな」健康という響きがすごくいいなと思いました。具体的にはどのようなイメージなのでしょう?

ロマンティックには「甘美な」というよく使われる意味のほかに、「架空の」という意味があります。ここでのイメージはいわゆるロマン主義のような甘美さや、精神運動でもあります。また、架空の健康状態という、何をさして健康なのかを問いている言葉でもあります。自分自身でもこの言葉自体はまだよく分かっておらず、言語化できていない感覚です。今後大きなテーマになっていく言葉かもしれません。

では作品のテキスト内容についてお聞きしたいのですが、『気候療法』には、ナチスの安楽死政策や、行動心理や社会問題、バイオテクノロジーや生物学、青い鯨事件…など、自然と人間社会両方の視点から様々な現象や問題が取り上げられていますよね。それらは、更新されていくエピステーメーと同じように、価値や倫理が反転する余地のある存在たちのように思いました。まだはっきりと固定化されていない、曖昧で両義的な状態に近いような。それが音と混じりながら複数の層を形成し、複雑な現実世界が提示されています。テキストは[Fibrous:繊維質][Crystalline:結晶質][Vaporous:蒸気質]という三つの章立てに分かれていますが、これらは何を示しているのでしょう。

今回の気候療法で言うと、主にモノ(単一性)⇄マルチ(多様性)が常に価値の崩壊可能性を孕んでいて。その中で、人間である私たちがどう選択してきたかと言うニュース(≒歴史、逸話)を取り上げて、特に虐殺、自殺、戦争を穀物、鉱物、クラウドのあり方に見立て、繊維質精神、結晶質精神、蒸気質精神としています。
虐殺ではT4作戦という安楽死政策が、穀物のようにサイレージに入れられサイロ思考(縦社会思考)になってしまうこと、その弊害。自殺ではVKontakteで2016年に起きた、青い鯨事件での集団自殺までの過程と、鉱物が宝石になる過程とモース硬度、その脆弱性。戦争では、現在の仮想通貨と昔の石貨の経済システムにおける共通性と違い、末路とメルトダウン(心理学的用語としての意味も含め)。例えば、[繊維質]の章ではナノセルロースという物質が出てきます。この物質は食料や衣服、飛行機や車のバンパーになる多様性(マルチ)があります。もしこれが市場独占率である73%を超え、画一化(モノ)した時、そこにウイルスやバグが生じて、私たちの生活に必要な様々な物の供給が途切れてしまいますよね。
よくディストピアやユートピアという言葉が使われますが、これらも結局はモノトピアで。私たちは常にマルチトピアに生きているので、モノな情報をニュースとして鵜呑みにしやすい傾向があります。そのモノポリー、モノカルチャー等についてマルチトピックな言葉で詩が構成されています。

「モノトピア」とは、「単一性が崇められる世界」のようなニュアンスでしょうか。逆説してモノ化に向かう現代の傾向と、それに伴う「価値の崩壊」に対し、言語における発話と意味の自由な横断によって、ノゾムさんがおっしゃる「モノ→マルチ」への多義化とその回復が試みられていると感じました。

マルチトピアは元々James Ferraroの『Multitopia』という作品からきています。
モノトピアの解釈の一つとして「単一性が崇められる世界」はあると思います。マインドセットはモノ ⇄マルチやプライベート⇄パブリック等、行ったり来たりして形成されていきます。
あと、これは今回のテキスト内容にもかかってくるのですが、逸話が作話になった時、というのはいつも興味深くて。歴史は最初から定められているわけじゃなくて、大小問わず、どんなニュースが歴史になるかならないかは誰にも分からない。例えば、私たちは日常の生活でボディソープではなく石鹸を使う時があると思います。石鹸はもともとサポー(Sapo)の丘という、ローマ近郊にあった石鹸(Soap)の誤った語源とされる土地で、「神に供える習慣のために動物の肉を焼き、滴り落ちた脂肪と薪の灰の混合物に雨が降り、アルカリによる油脂の鹸化(Saponification)が自然発生して石鹸が発見される」という逸話(=神話)を持ちます。でも、サポーの丘があったとされる証拠はなく、架空の土地だとされています。ただ、私たちは石鹸というモノを知っているし、この言葉を使いますよね。この逸話を真実・事実だと信じることが作話になった瞬間で、その時、石鹸は人の手が少し加わって自然生成された超自然素材(Hyper natural material)という風に感じられます。そして同時に、言葉にもマテリアリズムがあると言えます。

作話という無意識のプロセスが、自然物を変容させるという現象は面白いですね。フィクションという行為のなかに、物体そのものに命を宿らせてしまうかのような側面が潜在することに気がつきました。インスタレーション制作などを通して、視覚や触覚にも鋭敏な感性を持ち合わせていると思いますが、何か物質に対してのこだわりやフェティシズム、個人的な信仰みたいなものはありますか?

物質だと最近フィルムバルーンに興味があります。サウンドアートのアーカイブの本を最近読んだ時に、ベルナルド・バシェ&フランソワ・バシェが制作した、ギターのボディが青いフィルムバルーンでできた『Folding and Inflatable Guitar』を知ったんです。元々、ピエール・ユイグの共同制作者でもあるフィリップ・パレーノの『My Room Is Another Fish Bowl』が好きだったこともあって、興味が再燃しました。
フェティシズムに関しては、自分の制作物とは真逆の、触覚性の高い作品にとても魅力を感じます。例えば中園孔二くんのペインティング群には網膜を直接触られてるような不快感も同時に感じますし、フロリアン・ヘッカーの「Acid in the Style of David Tudor」には頭の中に粘着質なサウンドを入れられているような不快感を感じます。不快を超えた動的な触覚性に羨ましさを覚えますね。脳で感じる以上に、第二の脳である腸でも感じることのできる作品というか。感覚が空間とマージする瞬間を提示してくれた貴重な瞬間だったと自覚しています。
最初の気象病、偏頭痛の話に戻るのですが、自分は本当にひどい偏頭痛持ちで、血管が切れてしまって入院したり、しょっちゅう病院に救急搬送されていました。偏頭痛には予兆があって、最初に視界に盲点があることが分かり、次に液晶の傷のようなものが視界に映り出し、最後には痛みが来てブラックアウトしてしまう症状がありました。同時に吐き気もするので薬すら飲み込めず、肌もブヨブヨした何かのような自分のものではない感覚で、匂いも麻痺してしまって。その中で唯一残るのが聴覚なんです。なので、どうしても自分にとって最後の感覚が聴覚という気がしています。死に最も近い時の唯一の感覚。どの感覚器官でも同じようなことを感じている人がいて、そういった人のクリエイションからはとてもインスピレーションと不快感、共感を覚えます。そしてそこにフェティッシュ(=呪物)を感じます。

最後に残った感覚が聴覚というのは生理作用によるのか、それとも意識の働きかけからなのか、どちらにしてもそれが音にシンパシーを感じる大きな要因となっていそうですね。

死に近いっていうのは多分、五感が麻痺状態になって第六感に頼るような出来事だと思っています。催眠状態に恐怖がついてきたような感じなのかもしれません。

今作を含め、音を具現化していくにあたっての、制作のプロセスを教えていただきますでしょうか。ノゾムさんの場合、まず明確なコンセプトが先行して、それを形に落とし込めていく作業という順序があるようにみえます。

初めから明確なコンセプトがあるようで、意外とないかもしれません。
まだ想像言語でしかないもので作り上げることで抽象化し、そこから自然言語に置き換えて自身で気づくといった方がしっくりきますね。まずは色んな本やウェブページから気にいった単語を見つけて、メモしてたらとんでもない量になっていて、それを繋げながら整理していく、お掃除みたいな感覚です。
音楽制作は大体ショッピングから始まります。音楽制作で個人的に最も重要なのはヴォリュームとタイミングですが、購入時に大事なのはハーモニーの美しさなので。どんな音色を使うか、吟味してエフェクトやMIDIを買います。インスタレーション制作で何を使うか想像している時と同じで、この時間が一番重要だと思います。音素材はEastWestZERO-G、他にCymatics8Dioの製品を買うことが多いです。DAWはAbleton Liveで、ソフトウェアサンプラーのKontaktに買ったソフト達を入れて音を出します。あとはPureDataと、ごくたまにSuperColliderやMATLABを使います。こっちはちょっとしたエフェクトをプログラムで作りたい時とか、高音質の音素材を作りたい時用ですかね。
プロセスは、ほとんど覚えていないんです。例えば、フィールドレコーディングをMIDI化したりとか、何百曲か作ってそれを素材にしてさらに組み合わせていく、というのを繰り返すとかはあるんですが、部分部分しか記憶にないですね。テキストも音楽も交互に・相互に形が出来ていくので、構成するってよりは組成されてきたって感覚が強いかな。ショッピング⇄クリーニングで作品が組成されてく感覚です。

Pre-Olympic“の時からすでにその一端を覗かせていましたが、壮大なオーケストラを思わせるストリングスのアンサンブルと、音声合成によるスピーチという奇妙な組み合わせのアイデアはどのようにして思いついたのでしょう。有機的なものと無機的なものが協創しあって、単純な感情に落とし込められないような音が響いているように感じられます。

冒頭のコンセプトの要約部分でも触れましたが、もともと音声、それが発される母体を探ることをテーマとしていて。声は、身体(母体)に帰属する発音ですよね。逆に楽器とは、身体に帰属しない代わりに身体的発声器官の拡張を促す、 生理的表現の延長から抜け出す発音。その声が楽器だった場合どうなるんだろう、というのがアイデアの核です。以前MASSAGEでもインタビューを受けていたNile Koettingのメゾンエルメスでの展示の音声を制作した時に、ナイルのアイデアとしてテキストスピーチにパンクのリリックを朗読させるというものがありました。その時にIVONAというWeb上で書いた文字をmp3で保存できるサービスを使っていて。エルメスでの展示後にそのウェブサイトを見てみたらAmazonに買収されてAmazon Pollyという名前に変わっていました。

音声合成ソフトって、現段階ではまだ実用的なレべルで使用されることに留まっていて、そこではメッセージの伝達が主で、どのように伝えるかは問題とされていないから、声の肌理や響きのようなものは、みんなある程度了承した上で無視できている。ただ感情や思考を「表現する」という、もう一段階レベルが上がった時、無視できていた部分が外在化して、そこに別の現象が生じてきます。それが経験し、蓄積してきた感情を洗い流すという、今回の『気候療法』の「デトックス」効果にも繋がりそうです。コンセプトを一旦抜きに考えて、自動音声自体の響き方はお好きですか?

大好きですね笑。今回大量にMIDIや音声合成ソフトを購入しましたが、最近ではラップや、ダンスホールレゲエの声だけフレーズ集もあって、とても色々な可能性を感じています。

あと単純に、自動音声って人間の発音より抑揚がないから聞いていて居心地が良く、リラクゼーション効果があるとも思えたんです。

とっても同意です。多分、不気味の谷現象の声バージョンなんじゃないかと勝手に推測しています。

フレイ効果を用いた実践が興味深いこともあって聞いてみるのですが、道徳の貧困化がエスカレートしている現状において、音を聴くという能動的な姿勢と、聴覚自体に潜在する力は、今でも大きな可能性が眠っていると個人的に思っています。美術と音楽の分野をまたいで活動されるノゾムさんは、聴覚が形成する感性の可能性について、何か考えていることはありますか。

聴覚が形成する感性の可能性としては、正直分からないです笑。けど、音にはソナーやエコーロケーションのように探知・探査が出来る機能もあるので、詩的または物理的な探知・探査という役割を超えて、聴覚が他の感覚や空間とマージしてしまうことが普及すると面白いですね。その時、音楽取締法違反が出来るでしょうね。

Boomkatが運営しているThe Death of Raveから今回リリースされたのは、どのような成り行きがあったのでしょうか。

まずこの作品が出来た時、身の回りの大切な人や、その制作に関わってくれた人たちだけに送っていました。そうしたらTCFのラーズが、The Death of RaveのボスでBoomkatのA&RであるConor Thomasを紹介してくれて、すぐに意気投合してリリースする流れになりました。ラーズにはいつも助けられていて、友達だけど少し上のお兄ちゃん、あるいはお父さんみたいな感じがします。今回彼がきっかけで全て繋がっていった縁なので、まずは彼にすごく感謝をしています。それから、Jamse Ferraroから「曲が良かった」という旨の返事が来ていて。彼のokが無かったらリリースすること自体やめていたと思います。

これまで、自分の制作活動においてどのような音楽や美術から影響を受けてきましたか。

もちろん影響はあらゆるものからですが、一番は相棒?友達?兄弟?家族?でもあるナイル・ケティングです。国内外にも影響を受けたアーティストはたくさんいます。あとは稲田禎洋くんと、亡くなってしまったけど、中園孔二くん。身近に世界で活躍するようなセンスを持った人がいたことがとてもラッキーでした。

最後に、今後のリリースや展示の予定があれば教えてください。

9月中に急遽、オーストラリアのLongform Editionsというレーベルから20分以上の作品をリリースする予定です。それから10月の後半からパリで制作をして、11月の14〜18日にイギリスのSomerset Houseで開催されるフェスティバルに出演予定です。規模が大きく、有名なアーティストも何組も出演が予定されています。演奏はメインステージでライブかスクリーニングをするのが一つあります。展示も一つあって、ナイルにパフォーマティヴ・インスタレーションを依頼し、僕もそこでインスタレーションの一部として静物化する予定です。お近くの方は是非お越しください。

Nozomu Matsumoto
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アートの魂はどこに宿るか。エキソニモとYCAM共同企画「メディアアートの輪廻転生」について

MASSAGE /
MASSAGE / Text: Yusuke Shono

エキソニモとYCAM共同企画による「メディアアートの輪廻転生」を見に、山口に行ってきました。東京から新幹線に乗って6時間、山々に囲まれた平地をとにかく歩いてYCAMへ向かいました。

YCAMの入口に入ってすぐ目に留まる、芝生で作られた巨大な山形のオブジェが今回のメインの展示物。その内部に収められているのは、アーティストたちがすでに「死んだ」と考える自らの作品です。富士山のような形をした山は、メディアアートの亡骸を収めた古墳をイメージして作られているようです。

入り口の前面には、CDプレイヤーやMD、iPod、ICレコーダーなど懐かしさを感じるさまざまな音声メディアが並べられています。鑑賞者はそのメディアから一つを選び、解説を聞きながら作品を見て回ることができます。照明の落とされた内部の空間には、8つの作品が並べられており、アーティストによる解説によって、それらが死んだとされる理由が明らかにされていきます。

死の原因はそれはもうほんとうに様々。物にも生き物のような死がある、と見るならば、人間と同じようにメディアアートにも当然いろいろな形の死があります。それはメディアアートでなくても、そうなのです。芸術に永遠の命があるように思いがちだけれども、案外そうじゃなかったりする。さまざまな死因を眺めながら、メディアアート作品も自分たちの営みと近い存在なのだと思うと、ちょっとエモーショナルな気分に襲われました。

もちろんメディアアートを黎明期から支えてきたアーティストたちによる出展なのだから、その死はメディアアートそのものの生と死を描き出しているはずです。けれども、こうして過去に作られた作品を裏側から眺めるという行為は、作家の個人的な感情に近づく性質を持っているもののように感じられました。

展示の序文には、エキソニモによる印象的なエピソードが掲げられています。

NYのギャラリーでメディアアート作品を展示した時、ギャラリーのディレクターからこんなことを聞かれた。「もし作品が売れた後、壊れたらどうする?」「壊れたら直しますよ」即答すると彼は笑ってこう返してきた「いや、君たちがいなくなった後の話だよ」

このやりとりを機に、彼らは「アートの寿命」についてもっと真剣に考えるようになったといいます。メディア環境の変化が激しくなった今、メディアアートに関心を持ってきた人々の間でそのような問題点が多く取り沙汰されるようになってきた、ということなのかもしれません。その問いを言い換えるとすれば、次のようなものになると思います。

「アートに魂があるとしたら、それはどこにあるのか」

アートが死を迎えることは、かならずしもその形を失うということを意味するのではありません。「形」が作品の肉体だとしたら、その死は、アートの魂が消滅することなのです。そう考えると、その答えにはさまざまなヴァリエーションがあるはずです。それどころか、作り手の数だけ異なる考えがあるほうが自然でしょう。そう思うと、今回の展示の本体は、実は、アーティストたちへのインタビュー、そして周囲に飾られた無数の声であるというように思えてきました。

インタビュー映像の中で、藤幡正樹はメディアアーティストにおいては、作品と観客の間にある体験が重要であると述べています。また、森脇裕之は反芸術という前衛芸術の意思を受け継ぐメディアアートが、美術館のなかで生き延びること自体に葛藤を感じると言っていました。また衝撃的だったのは今は絵本作家に転身している岩井俊雄が、自分たちは当時デジタルの永遠性に酔っていて、単に企業の作り出したキャッチフレーズに騙されていたのではないか、と発言していたことでした。

いまやアーティストではなく企業体が大規模な作品を展開し、会場に列をなすほどメディアアートは人々の間に身近な存在になっています。けれどそんな現代において、メディアアートの第一人者たちがその死や寿命について語ってる。それが指し示す意味に実際、重い心持ちになったのも事実です。作品と同じようにジャンルにも寿命があります。むしろその寿命は作品の命より短い。ジャンルは明確に社会的な役割を担わされているからです。そんなメディアアートにある現在の意識を、顕在化させたのがエキソニモによるこの展示でした。またこの展示そのものが、象徴的にではありますが、メディアアートというジャンルの死を宣告してもいる。そう感じる展示であり、またこの展示そのものがそうしたメッセージを孕んだ作品である、と感じました。

メディアアートの輪廻転生
https://www.ycam.jp/events/2018/reincarnation-of-media-art/
開催日時:2018年7月21日(土)〜10月28日(日)10:00〜18:00