「X in the Car」 by CVN – CVNは 90年代の Corneliusの後を継げるか

MASSAGE /
MASSAGE / Text: Naohiro Nishikawa

CVNはリスナーとして世界の最新の音楽に追従し、音楽を中心としたカルチャーとそのムードを燃料に自身を常に最新の状態に更新し、タイムリーに作品としてリリースしてきた。

2015年にチェコの〈Baba Vanga〉から 1st EP『Concrete Virus Nu』をカセットでリリースしたのを皮切りに、カナダはモントリオールの〈Dream Disk Lab〉より 2nd EP『現実に戻りなさい(Return to Reality)』を CDで、2016年には1stアルバム『Matters』を USの〈Orange Milk〉からカセットでリリースすると、3rd EP『Unknown Nerves』を UKのネットレーベル〈Flamebait〉(インタビュー記事)よりデジタルで、2ndアルバム『Frost』を東京の〈Solitude Solutions〉よりカセットで、4th EP『Exposure』を UKの〈Where To Now?〉から 12″で。続く2017年にはスペインはバルセロナの〈Angoisse〉より3rdアルバム『XXXII』をCDで、初のシングルカットとなる 7″『Mithril / Trash Eye』を東京の〈CNDMM〉からと、世界各地の今が感じられるレーベルからリリースを重ねてきた。

本作『X in the Car』は、これらのリリースから厳選した曲に、まだアルバムや EPとしてまとまっていない最近の曲を追加したベストアルバムとなっている。オリジナルは小規模な本来の意味でのインディーレーベルからのリリースで廃盤になっているものもあるので、これからCVNを聞いてみようという人の入り口としてはもちろん、CVNをある程度知っている人にとっても、その全貌を知る上で最適の盤となるだろう。

CVNの音楽は、サンプリングを空間に立体的に配置したコラージュやグリッチを基本に、普段リスナーとして聞いているであろうアンビエントやテクノ、ハウスやヒップホップを彼が本来的に持つダークネスと哀しみのフィルタを通して再構築したものと言える。

サンプリングでグリッチというと非音楽的で実験的なものを思い浮かべるし、ミクロな視点では実験的な部分が散見されるのも確かだ。しかし、ひとつの曲として聞くと思いの他ポップで聞きやすいというのも CVNの特徴の一つと言えるだろう。こうしてホステスのような半メジャーな堅気のレーベルから編集盤が出るのも、このポップな部分が大きいのではないかと思う。

こうしたある種のポップさというのは日本人特有のものなのではと思うことがある。〈Orange Milk〉や〈Where To Now?〉は何人かの日本人アーティストをリリースしているが、彼らが感じる日本の良さやオリジナリティーという部分にはこうしたポップさがあるのではないか。

海外の最新の音楽とリンクし自身を更新し続け、リスナーとしてその時々に触れた音をサンプリング等の手法によって自身のフィルターを通してポップな作品として再構築する。こうしてまとめてみると、これは 90年代にCorneliusがやったことではないかということに行き当たる。

もう20年も前になるが当時のCorneliusはそういう存在だった。彼は洋楽インディーの熱心なファンで、Corneliusの前にやっていた The Flipper’s Guitarではネオアコと呼ばれるギターバンドからはじまり、2ndでは映画音楽などを取り入れ国内のマスマーケットで活躍する。3rdでは当時の最新のスタイルであったマンチェスターのロックとダンスの融合をいち早く取り入れた。

その後のソロ名義Corneliusでも、自身の持つメロディーやポップさはそのままに、ヘビーメタルやスクラッチやサンプリング、ラップからドラムンベースまでをも取り込み、絶えずスタイルを更新しながら海外との同時性を維持した。何故、ギターバンドからスタートした彼が自身を更新し続け、ダンスやラップ、ドラムンベースを取り込むことができたか。これは彼がリスナーとして最新のレコードを買い続けたからではないかと思う。

Corneliusの世界との同時性は 1997年にリリースされた 3rdアルバム『Fantasma』が USの〈Matador〉よりリリースされることによりピークを迎える。このリリースにより、これまでは追う立場だった海外のアーティストと同じ土俵に立つことができた。その結果、当時絶頂にいたUNKLEやBeck、The AvalanchesからThe PastelsにBlur。果てはK.D LangやStingまで、海外のインディー、メジャーを問わず数多くのアーティストのリミックスをこなすことになる。

Corneliusの活動でもっとも重要なのはThe Flipper’s Guitar解散後に始めたレコード会社内のレーベル〈Trattoria〉ではないだろうか。初期は自身のアイドル的人気によって、後期は自身の世界での活躍という後ろ盾によって、自身の趣味に傾倒したマニアックな洋楽を日本盤として日本全国の CDショップでいつでも買えるようにした。輸入盤のレコードを買っているコアな洋楽ファンにはそれほど関係はなかったかもしれないが、自身のファンに洋楽インディーに目を向けるきっかけを作り、世界の良い音楽を紹介しリスナーを教育したことは、音楽を中心とした文化の底上げに多大な貢献をしたのではないだろうか。

しかし、4thアルバムの『Point』あたりから少しずつ世界との距離が離れてくる。〈Trattoria〉を止めたのもこの時期だ。これは想像だが、この時期から世界の最新の音楽からヒントを得て創作に活かすというこれまでのやり方を変え、自分の外側よりも、内側にヒントを求め自身のオリジナリティーを追求しようとしたのではないか。もしかしたら、そういった自身から出たオリジナリティー無しには世界ではこれ以上通用しないと悟った意図的な戦略の変更だったのかもしれない。

いずれにせよこれ以降、世界との距離は急速に離れ、更新を止め『Point』で作った世界観を繰り返すようになる。もはや最新の音楽を聞いていないのは明らかだし、過去のレコードもたぶん売ってしまったのだろう。

Corneliusが更新を止めてから16年。世界で活躍し、率先して世界の音楽やカルチャーに目を向ける入り口になるという役割を果たした日本のアーティストがいただろうか。世界で活躍する日本人アーティストや、アーティスト以外の人が入り口になるという例は何人か思いつくし、特定のジャンル例えばヒップホップやハードコアならいるのかもしれない。しかしインディーというこの移り変わりの激しいとりとめのない括りだと残念ながら一人も思いつかない。

その役割に今一番近い存在は誰かと見渡すと規模は違うが、それは CVNではないかと思う。CVNと 90年代のCorneliusの類似性は先にも述べた通りであるし、海外で成功したCorneliusの象徴でもある『Fantasma』をLPでリイシューしたUSの〈Lefse〉は CVNの以前のプロジェクトJesse Ruinsの1stを出していることからも分かるように、両者のポップ性は海外では同じように受け取られている節がある。

また、CVNが去年から始めた内外のアーティストのミックスをアーカイブするプロジェクトGray Matter Archivesは他のメディアでは、なかなか知ることができないこの界隈のアーティストをまとめて知ることができるし、ミックスに気に入った曲があればそのアーティストと曲名を頼りに、どこまでも掘り進むことができる。これは見方を変えれば、全国の CDショップに他のメーカーでは日本盤にできないような洋楽インディーの日本盤を置くことができ、いつでもアクセスすることができるようにした〈Trattoria〉の現代版ということもできるのではないだろうか。

これまでのカセットやレコードをまとめた今回の編集盤のCDを出すこともそうだ。この界隈でカセットやレコードを追いかけて聞いているものにとって、日本限定の編集盤のCDというのは、いまいちピンと来ない。そればかりか下手をするとイメージが落ちることもあるだろう。それでも、これはリスナーの教育であり、音楽とカルチャーに目を向ける入り口という役割を果たすためだと考えれば正しい選択であるように見える。

CVNがこれらのことをどこまで意図的に考えGray Matter Archivesや編集盤のCDのリリースを行っているかは分からない。分からないが結果的に 90年代のCorneliusが担った役割にもっとも近いアーティストであることは間違いないだろう。

西川尚宏
Solitude Solutions主宰。次の主催イベントは『X in the Car』のリリースパーティーも兼ねた 4/21『Gray Matter Archives Showcase』幡ヶ谷Forestlimit。http://forestlimit.com/fl/?p=16465

水野勝仁 連載第0回
サーフェイスから透かし見る👓👀🤳

インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか?

Masanori Mizuno /
Masanori Mizuno / Text: Masanori Mizuno, Title Image: Haruna Kawai

2月に水戸芸術館で行われた「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」でのトークでエキソニモの赤岩やえが「Screenshot」というスライドを提示した。そのスライドでは順に、フルスクリーンかつツールバーを表示しないスクリーンショット、フルスクリーンでツールバーを表示したスクリーンショット、フルスクリーンを解除した状態のスクリーンショット、さらに、フルスクリーンを解除したディスプレイが映るようにカメラで撮影したもの、さらに、パソコンが置かれた状況がわかるように引いて撮影されたものが示された。スライドを見せながら、赤岩は最初はスクリーンショットというとウィンドウのコンテンツの部分だけを撮影したものだと考えいたが、実際にはブラウザのウィンドウを見ているし、さらにはデスクトップのウィンドウの重なりのなかでコンテンツを見ていることに気づいた。さらに言えば、ディスプレイのフレームも視界に入っているとすると、そこを含めて撮影されたものが「スクリーンショット」と呼ばれるべきなのではないかと考えるようになったと、赤岩は言っていた。赤岩が示した「どこまでをスクリーンショットと呼ぶか」という問題は、私たちとコンピュータとの関係を考えるきっかけを与えてくれるように思える。

フルスクリーンかつツールバーを表示しないスクリーンショット、フルスクリーンでツールバーを表示したスクリーンショット、フルスクリーンを解除した状態のスクリーンショットまではハードウェアは介在しない。フルスクリーンを解除するとウィンドウの重なりが生まれて、画面に奥行きが生まれる。画面が「向こう側」に引っ込んでいくような感じがある。そして、ここまでのスクリーンショットにはハードウェアは写り込まない。「スクリーンショット」という名が示すようにどこかに撮影するカメラがあるとすると、カメラのレンズはディスプレイの向こう側にあり、こちら側に向けられていると考えられる。ここまでは、ディスプレイ手前には自分がいるような感じがある。私がそれらを操作できるような感じがある。

スクリーンショットが画面内で撮影されたときにコンピュータを操作する私がいると想定されていた場所で、誰かが実際にディスプレイを撮影するとき、勝手に想定される私と撮影した誰かが重ね合わされる。そして、私が弾き出されて、インターフェイスは前にあるのだが操作できない状態になる。インターフェイスから弾き出された私とディスプレイとのあいだに、あらたなサーフェイスを伴った空間ができる。ディスプレイ手前に現れた空間は可変的であり、私とディスプレイ上のイメージとをつなぐソフトウェア的な結びつきを引き離しながら、私そのものを含んで拡大していく。多くの場合、その拡大は部屋の壁という別のハードなサーフェイスで区切られることで終わる。ディスプレイの向こうの空間も壁というサーフェイスで終わる。ディスプレイがインターフェイスから離脱して、サーフェイスという別の状態で空間に存在している。しかし、それは距離を詰めればすぐにインターフェイスに戻る。

一度ソフトウェアから引き離されて、室内の一つのサーフェイスとなった画面からフルスクリーンかつツールバーを表示しないスクリーンショットへと遡って見ていくと、コンテンツのピクセルの集合のみが表示されたスクリーンショットもまた、操作可能性を消失したサーフェイスとして見れてくる。ディスプレイ、キーボード、マウスやトラックパッドといったハードウェアとのつながりを削除された純粋な画像として、ソフトなサーフェイスとなっている。引いた位置からハードウェアとともに撮影された「スクリーンショット」とコンテンツのみのスクリーンショットはともに、インターフェイスを構成するソフトウェアとハードウェアとの割合が崩れることによって、インターフェイス的な操作可能性を示さないサーフェイスとなっているといえる。

インターフェイスはソフトウェアが示す柔軟性を失い、ハードウェア的なサーフェイスとなったり、ハードウェア的な確かさを失いソフトウェア的なサーフェイスとなったりして、私との関係を失っていく。それでは、インターフェイスはいつからサーフェイスになるのか? コンピュータと向かい合っているときは、それはインターフェイスである。しかし、ノートブックのパソコンを開いたまま、遠ざかっていくと、いつしか、それが単なるサーフェイスになっていく。いや、いつまでもインターフェイスであることには変わりがない。しかし、それがコントロールできないような距離になったり、スクリーンショットになったりするときに、それは突如、サーフェイスになるのではないか。インターフェイスからサーフェイスへ、ここには私たちとコンピュータという「ハードウェアとソフトウェアとが一体化したあらたなモノ」との関係をアップデートするような何かがあると思う。

インターフェイスを経由した後のサーフェイスを追求していこうというのが、この連載の目標となるのだろう。それは、きっとクレメント・グリーンバーグが提起した絵画の二次元的な平面をアップデートするようなかたちで、ヒトとコンピュータとのインターフェイスを経由して現れつつあるサーフェイスを考えるものになると思われる。ヒトとコンピュータとのあいだでサーフェイスは一度インターフェイスとなり、表と裏とその透き間から成り立つ複雑なものとなった。この複雑さを考察したのが「モノとディスプレイとの重なり」であり、エクリでの連載「インターフェイスを読む」だったと言える。次は、インターフェイスが示す「表と裏とその透き間」という三つの要素をまとめて、シンプルに一つのサーフェイスとして見てみたいと思っている。表と裏という二つのサーフェイスとそのあいだの透き間という三つの要素を一つのサーフェイスとして扱って考えてみること。そこから何が見えてくるのか。「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」では、三つの存在からなるインターフェイスと一つのサーフェイスとのあいだを行き来しながら、アートに限定されることなくいろいろと考えていきたい。

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。