Vapor Aesthetics #5-6

“Vaporwave Is Dead” 以降の現行Vaporwaveシーンにフォーカスする連載。
上半期のベスト20。

Sute_Aca /
Sute_Aca / Text: Sute_Aca, Title Image: 50civl

YouTubeに転載されたインターネットミーム頌歌『リサフランク420 / 現代のコンピュー 』の動画はじわじわと再生回数を伸ばし、去年の7月24日の早朝8時半頃に1000万回再生を突破。にわかに再興の兆しを匂わせていたVaporwaveは、その辺りから再び大きな盛り上がり見せ始めました。2016年を経て2017年現在。Vaporwaveはよりわたしたちの身近な存在となったように思えます。5万人以上もの生徒数を誇るアメリカの名門大学ニューヨーク大学がウェルカムウィークに際して制作したビデオを観ても分かるように、もはや一種のスタイルとして定着したのではないでしょうか。インターネット下層の吹き溜まりでナードたちに消費されて消えると思われていたVaporwaveは、信じられないことに今や現実世界へと漂い始めているのです。日本でも〈NewMasterpiece〉がVaporwaveのZine『蒸気波要点ガイド』を発刊するなど、国内でも再び脚光を浴びるようになってきました。そんな現行Vaporwaveシーンにおいて、2017年の上半期のおすすめアルバムを20作品ほど選出しました。オールドスクールなスタイルを貫くものもあれば、新たな解釈によって生まれ変わったものまで様々。現在進行系のVaporwaveを知るきっかけになれば嬉しく思います。それでは、どうぞご堪能ください。

  1. 天気予報 – 現在の地域条件

    新興Vaporwaveレーベル〈蒸発音〉からグッドのS1やマカフシキなどの名義でold skoolな作品を発表しているVirtual Polygonによるバーチャル気象観測プロジェクト、天気予報。各地の気象予報に乗せて届けられる深夜のウェザーリポート・ジャム。

  2. Mute Channel – Unseen Finale〈Chilodisc〉

    Dream Catalogue〉や〈Bludhoney Records〉などの活動によりレトロなサイバーパンクからフューチャーリアリスティックなフェイズへと移行したVaporwave、〈H.V.R.F. CENTRAL COMMAND〉や〈ANTIFUR〉を主戦場に、懐古主義的なVaporwaveに徹底抗戦の姿勢を表明したHardvapour。日本人コンポーザーCompetorによるプロジェクトMute Channelの最新作『Unseen Finale』は、某惑星のラストシーンを象ったアートワークのごとく、さらにその先に待ち受ける文明崩壊後の未来像を描き出しているのかも知れません。朽ち果てた人工物は、かつてそこに存在した都市の営みを物語り、今はそこに流れることのないコマーシャルの断片が亡霊となって儚げに漂うような、ディストピア・モールソフトな逸品。本作はVaporwave界の『An Empty Bliss Beyond This World』的な位置づけなのでは。

  3. Zadig The Jasp – プラズマミラー

          文字多重
        キャプテン
     ビデオディスク
       パソコン

  4. Floristic Regions – Vol 2〈Occasionally Tapes〉

    近年、インターネットショッピングの台頭により、全米のショッピングモールのうちおよそ数百もの店舗が経営の悪化により閉店の危機に瀕しているそうです。世界各地から消えつつあるショッピングモールのかつての原風景を描き出したDisconsciousの『Hologram Plaza』を筆頭に、買い物客でにぎわう店内の環境音とそこに流れるミューザックを併存させることでバーチャルなショッピングモールを展開した猫 シ Corp.の『Palm Mall』、식료품groceriesの『슈퍼마켓Yes! We’re Open』、超級市場の『On Sale Now!』、そしてLeisure Centreの『High Fashion』へと引き継がれてきたMallsoftの系譜。Vaporwaveの支流であるMallsoftは、ショッピングモールに香るアンビエンスに独自の美学を見出したタームであると言えます。〈Occasionally Tapes〉からリリースされたFloristic Regionsの『Vol 2』は、そんなMallsoftの安寧に包まれるような作品。

  5. Trademarks & Copyrights – So Hot〈Adhesive Sounds〉

    「私はたった1日だけ、あなたに会いました。そして、もう二度とあなたに会えるか分かりません。しかし、この夏で最も素晴らしかったのは、確かにあなたのことでした。イングリッド、このアルバムをあなたに捧げます。」と語るように、Trademarks & Copyrightsの最新作は、彼が心惹かれたイングリッドという女性に捧げられたアルバム。彼女への募る想いを一言で表したタイトルがニクい『So Hot』なサマー・チューン。

  6. AOTQ – e-muzak

    インターネットミーム・プロデューサーを名乗る新鋭シンセポッププロデューサーAOTQの初のフルレングス。すべてのインターネット利用者のためのヴァーチャル・ラウンジミュージック。

  7. particle dreams – drive carefully〈Gorgeous Lights〉

    夜に息づく都市の営みを嫋やかなスムースジャズと “#late night lo-fi” なるタグを添えて描き出したベッドルームの夢想家たち。なかでも、死夢VANITYや蜃気楼MIRAGEなどの作家勢がシーンに与えた影響は大きく、日没後の都市景観に窓明かりがぽつりぽつりと灯っていくように、夜に想いを馳せる多くのフォロワーを生み出しました。マンハッタン在住の作家particle dreamsもそのうちのひとり。そんな彼の最新作『drive carefully』は、COSMIC CYCLER率いる〈Gorgeous Lights〉よりリリース。80年代中期から90年代にかけて放映された深夜の街を散策するスローテレビプログラム『Night Ride』を彷彿とさせる上質なレイトナイト・ドライビングミュージック。

  8. GenomeTV – ゲノムテレビネットワーク〈Elemental 95〉

    Fuji Grid TVの『Prism Genesis』を源流に、This Program is Brought to You, Bye.による『群馬ハイヌーン』、OSCOBの『チャンネルサーフィン1978​​-​​1984』などマスメディアが発信する音声、なかでもテレビコマーシャルをサンプルソースとして用いる手法は現在でも脈々と流れています。Vaporwaveが手法として形骸化してしまった現在でも、こんなアルバムを熱心に作り続ける作家が存在するのはとても尊いことだと思います。

  9. Windows彡96 – Reflections

     

           (̅_̅_̅_̅(̅_̅_̅_̅_̅_̅_̅_̅_̅̅_̅()ڪے~ ~

  10. 骨架的 – Opal Disc

    もはや説明不要の生ける伝説、骨架的の3年ぶりの最新作が2作同時リリース。今回はその中から2014年録音のアルバム『Opal Disc』を。相も変わらず懐古趣味的なポップミュージックやスムースジャズにスクリューやエフェクトを施すという一貫した作風ですが、7年もこのような音楽を創り続けるのは畏怖の念すら抱いてしまいます。このリリースをきっかけに、約7年もの間「#vaporwave」というタグ付けを頑なに拒んでいた彼がすべてのアルバムにそのタグを冠したことに関しても、この『Opal Disc』は記念碑的なアルバムとなるのではないでしょうか。

  11. 豊平区民TOYOHIRAKUMIN – リフレクション〈New Masterpiece

    「あの”思い出”から1年…彼女の物語はまだまだ続く。」と題された日本人コンポーザー豊平区民TOYOHIRAKUMINの最新作は、前作『メモリーレーン』の続編となる『リフレクション』。彼女の新たな物語を演出するのはVaporwaveファン感涙の総勢20名の豪華リミキサーたち。前作の出来事を20通りの解釈で回想していく本作は『The Music of the Now Age』以来の傑作コンピレーションアルバムだと思いました。

  12. 猫 シ Corp. & Mezzaluna – Black Mesa Research Facility〈Midnight Moon Tapes〉

    ビデオゲーム『Black Mesa』の舞台となる極秘研究施設を題材に、そこに漂う無菌室のような清潔な空気感をMallsoftへと昇華させた『Black Mesa Research Facility』は猫 シ Corp.とMezzalunaによるスプリットアルバム。もともとBeutewaffenやMesektetなどの名義でノイズやインダストリアル、ダークアンビエントシーンでの活動を行っていた異色の経歴を持つ猫 シ Corp.によるAサイドは文句のつけようがないほど素晴らしく、Mallsoft特有の空間の広がりを感じさせるサウンドスケープはもはや神々しさすら感じられます。〈Advanced Materials〉から唯一のリリースを行い、その存在は完全に謎に包まれていたMezzalunaによるBサイドも必聴。

  13. Psychic LCD – FACADE〈Ailanthus Recordings〉

    Lasership StereoやDiskette Romancesなどの名義でも知られるPsychic LCDによる4年ぶりの新作『FACADE』が〈Ailanthus Recordings〉から。2013年に〈Fortune 500〉からリリースされた前作『Nexxware』で発揮されていた審美性はより研ぎ澄まされ、ヴァーチャル・リアリティ空間に溶け込んでいくようなサウンドスケープが展開されていきます。彼はもともと、Lasership Stereo名義で『Soft Season』『Meet Local Singles』の2作を同レーベルから発表しており、本作『Facade』によって6年ぶりに〈Ailanthus Recordings〉へと復帰を遂げることとなります。……6年も続くVaporwaveレーベルってやばくないですか。

  14. glaciære – water slide

    スウェーデンの作家Stevia Sphereによるプロジェクトglaciæreの2作目『water slide』。清らかな水面にしずくが弾むような繊細なレタッチで描出されるプールサイド・アンビエンス。これからの季節にぴったりなとてもクールなアルバム。

  15. Elite Geographic – Synthetic Environments

    テネシー州の新鋭シンセストElite Geographicのデビューアルバム『Synthetic Environments』は耳当たりの良い超正統派シンセポップに仕上がっています。Vaporwave出身のシンセ使いといえばEyelinerやDonovan Hikaruなどが有名ですが、Elite Geographicもまた彼らのような文脈で語られることになりそう。近く〈Elemental 95〉からのリリースも予定されているそうで、今後の動向が楽しみな作家のひとりです。

  16. Phantom ’97 – Melancholy Moonlight

    オハイオ州のプロデューサーRyan QueenのプロジェクトPhantom ’97による最新作。1999年の秋、とあるゴミ処理場に廃棄されていたeMachines社製コンピューターのハードドライブから、いくつかの音楽ファイルが見つかったという。それらは『Melancholy Moonlight』というフォルダに入っていたそうだが、のちにハードドライブの故障によってファイルは破損。たまたまその音源をカセットテープに残していたそうで、このアルバムはそのリッピングである。という、真偽のほどの分からない設定の作品ですが、往年のスーパーファミコンを彷彿とさせる人懐っこいシンセに乗せて奏でられるメロディがとても楽しい一作。

  17. Club Fantasy – Rainy Night in Hachioji〈Kaiseki Digital〉

    日本とロンドンを股にかけ「Onsen Vapour ♨」な音楽活動を展開するKelmanixによるプロジェクトClub Fantasy。「眠らない大都市、八王子」を主題に物語が展開されていく『Rainy Night in Hachioji』は、シティホテル、早朝の街、雨の降りしきる八王子、京王線などを舞台に、そこに聞こえる街の喧騒や雨音などを大胆なフィールドレコーディングと共に描いた作品となっています。

  18. SAYOHIMEBOU – 卡拉OK♫スターダスト東風〈Business Casual〉

    まるでグリッチにかけたような独創的な言語感覚、ネオン街のような極彩色の輝きを放つ奇抜なアートワーク。鬼才さよひめぼうによる2ndフルアルバム「卡拉OK♫スターダスト東風」はそんな装いに相応しく予測不可能・奇妙奇天烈なサウンドが展開されています。Kool & The Gangの往年の名曲をカバーした #2 “せれぶれーしょん” では、まさかのアーメンブレイクが炸裂し、緩やかなピアノの旋律がアンビエントを燻らせる #3 “HOTEL♥プレタポルテ1987”、MCヘブンズドア&ヘルズエンジェルをフィーチャリングした表題曲 #5 “卡拉OK♫スターダスト東風(feat.MCヘブンズドア&ヘルズエンジェル)”では突如として女性の悲鳴がトリッキーなビートを刻み、#11 “深海スペースデブリ監視ネットワーカー”では深い深海に潜り込んでいくかのように轟くドープなビート。超展開に次ぐ超展開が怒涛の勢いで耳に押し寄せ、やっと掴んだと思ったグルーヴは即座にそこで崩壊し、また新たな地平へと暴走していく……。もはやこんな文章を読むより、再生ボタンを押したほうが早いですね。本当に必聴のアルバムなのでぜひ。

  19. Jerry Galeries – Quartz Plaza〈Batalong Productions〉

    シンガポール在住の作家、Jerry Galeriesの最新作『Quartz Plaza』。 VaporwaveやMallsoftの代名詞でもあるプラザを讃える表題に、古代ギリシャの石柱、ヤシの木、イルカ、フィジーウォーター……。一見するとVaporwaveのテンプレートに則ったアートワークにも見えますが、かき鳴らされているのは、そのサンプルソースとして提示されても違和感がないほどの高純度なポップス。本作は、表題を冠したイントロダクション#1 “Quartz Plaza” から幕を開けます。天気予報のBGMのような飾り気のないフュージョン調の楽曲であるが、終盤、穏やかなプラザの景観は徐々にきらめきを帯び、燦然とミラーボール輝くダンスフロア #2 “In For A Long Night” へと鮮やかにクロスフェードしていきます。夜を彩るネオンサインのように彩色豊かなシンセがスパークし、繰り返される陶酔的なリリック “We are in for a long night for a long night” は週末の華やいだ夜の訪れを祝福するかのような多幸感に満ちていて。場面は一転し、#3 “Wishing Well” では、過ぎ去りし彼女を想い続け、再会を強く願う男の後悔をノスタルジックに描いた静かな夜の抒情詩のような趣。”Quartz Plaza” を舞台に繰り広げられるストーリーはじつに様々。どの楽曲にも往年のソウル・ファンク、AOR、シティポップの旨味をふんだんに盛り込まれており、Jerry自身も日本のシティポップに強く影響を受けたと語っています。”vibes machine from the lost summer of ’85” を自称するJerry Galeriesの奏でるサウンドは、我々を過ぎ去りし80年代の都市風景へと誘ってくれます。

  20. chris††† – social justice whatever

    現行Future Funkubeシーンを代表する〈Business Casual〉を主宰する一方、SNS上では自身の存在すらミームと化し、圧倒的な存在感でVaporwaveシーンに君臨するインターネットミームの権化、chris†††ことJohn Zobeleの最新にして最低のミックステープ『social justice whatever』が自身のBandcampからリリースされました。彼自身も「the worst album ever.」と称すように、その内容は、商業的にヒットを収めた往年の名曲や、著名なインターネットミーム動画をmp3でぶっこ抜き、歪ませ、切り刻み、繋ぐというよりも雑多にぶちまけたかのような――もはや、完膚なきまでにクソを貫いたような様相を呈しています。用いられている楽曲はスクリューによって捻じ曲げられ、原型を留めていません。この時点で元ネタへのリスペクトは皆無ですが、極めつけは、再生されている音楽は、聴いている最中にまるで飽きたとでも言わんばかりに突如としてスキップされ、次の曲、次の曲へとせわしなく転換していきます。アメリカのレコメンドエンジンEcho Nestは、膨大なビッグデータをもとにSpotifyユーザーの視聴傾向を分析したところ、48.6%のリスナーが音楽が終了する前にその音楽をスキップしているという結果を発表しました。カット&ペーストされたEDM楽曲のドロップ部分のみが寄せ集められたジャンクフードのような動画が無数に蓄積するYoutubeチャンネル。おびただしい数の情報が流れ行く濁流のフィードに乗ってWebブラウジングをしていくような不健全さ、それによって生じる多幸感。これは大量消費社会への賛美歌なのか? はたまた鎮魂歌なのか。

ベスト・トラック。

t e l e p a t h テレパシー能力者 – Agia’s Theme

ベスト・ビデオ

17-03-02 I’m Just a Kid

ベスト・ジャケ

Costanza – Assman

捨てアカ 島根県在住のVaporwaveリスナー

Interview with Ultrafog

身体が奏でる自由なエレクトロニック・ミュージック。
都内で活動する音楽家Ultrafogのこれまでと現在。

MASSAGE /
MASSAGE / Text: Kazunori Toganoki, Photo: Yusaku Arai

水面下で漂う薄白い光の群れを頭上に、粒子状の音たちは波の振動を受けながらそのリズムと融解し、海底へと潜り込んでいく―昨年solitude solutionsからリリースされた、Ultrafogによるカセット作品『Faces, Forgotten』は、そうした深海に誘われるかのようなイメージを彷彿とさせる、瑞々しさに溢れるアンビエント・ミュージックだったが、ジャンルに規定されることのない彼の自由な音楽性は、ライブ・パフォーマンスを一見すれば分かるだろう。テクノやエクスペリメンタルといった強度のある要素を内包しながらも、「踊らせる」ことには偏向せず、モジュラーシンセとエフェクターを操りながら、偶発的に音を紡ぎだしては、異なる感触をもったレイヤーを重ね合わせていく。瞬間的に更新されては姿形が変化していく場で、私たちは適度な緊張感を味わいながら、全方位的に向けられた不確定な電子音の流動と、その発生との遭遇に高揚を覚える。
今月にはスペイン・バルセロナのレーベルangoisseからスプリット作品のリリースもひかえるUltrafogに、インタビューを試みた。

音楽活動をはじめたのはいつ頃からなのでしょうか。現在のUltrafogに至るまでの自身の遍歴を教えてください。
 中学2年の時に所属していたサッカークラブをやめて、近所の友達と適当にバンドを始めたのが最初ですかね。最初は主に90年代の日本のロックを聴いていて、それからソニック・ユースやダイナソーJR、マイ・ブラッディ・バレンタインみたいなオルタナティブ・ロックに夢中になりました。バンドではギターを弾いていました。大きな変化だったのが、大学の時に入ったサークルです。僕は神奈川の海老名市出身で、高校生の時は周りに音楽の話をできる人があまりいなかったんです。おそらく同じような環境で高校時代を過ごした人たちがそこに集まっていて、みんな僕の知らない音楽をたくさん知っていて、その中でバンドを組んでは自分たちで曲を作って、を繰り返す感じでした。そこで過ごした時間は大きかったです。色々なことをやってみたんですが、人と音楽を作ることが自分には向いていないかもしれないと感じるようになって、最終的にDAWを買って一人で音楽を作り始めました。制作を始めた頃はBurialとかAndy Stott、Onepoint Ohtrix Neverとかにハマっていて、本当に漠然としたイメージからのスタートでした。大学を卒業すると、音楽を披露する場所が無くなって、同期だった友人が誘ってくれたのがきっかけでIN HAというイベントを始めました。同じ大学だったMari Sakuraiと、BOMBORIというバンドで当時はギターを弾きながらエレクトロニック・ミュージックを作っていたRaftoを誘って、今はその3人で不定期的に開催しています。僕はスタイルを定まらないままINHAという場所を先に作って、そこで色々な人と出会って影響を受けたり悩んだりして、最近やっと今のスタイルに落ち着きました。

昨年の12月にリリースされた作品『Faces, Forgotten』について聞かせてください。これはあなたにとって初のフィジカルリリースとなりますが、普段のUltrafogのライブ上のスタイルとは異なる、静謐なアンビエント・ミュージックですね。ただテープで聞くと、曲の背後にあるヒスノイズや音粒の粗さがしっかりと意図して曲に組み込まれていて、その相互の響きが非常に面白かったです。作品のコンセプトやイメージのようなものがありましたら教えてください。
 
あのEPは、「記憶」に関する漠然とした感覚のかけらと考察のようなものがテーマとしてありました。人間の記憶は何を残しておくか自分で選択できないし、実際の出来事とは必ずズレが生じると思っています。僕の中にある主観的な「記憶」をもとに、ある特定の場所やある日の出来事とか思ったことから曲のタイトルをつけて、それを音にしようと意識して作りました。どんなに素晴らしいことや悲しいことが起きても、すごく好きな人と出会っても、また新しい出来事や出会いがあって、どんどん忘れていくし、人って都合のいいように解釈していくと思うんです。何か作品を作るって行為はその勝手な超個人的な感覚を形にすることなのかもしれない。だから「忘れる」ということが前提としてあって、人は何かを残そうとするのかなと思いました。サウンド的にはちょうど作る曲がどんどんぼやけた音像のものが多くなってきて、僕が考えていたことにフィットしたような気はしています。

https://solitudesolutions.bandcamp.com/merch/kdk-11-ultrafog-faces-forgotten

モジュラー・システムを用いたライブセットが特徴的ですが、この機材がメインになるのに何かきっかけはあったのでしょうか?また作曲のプロセスやライブのパフォーマンス上で、何か変化はありましたか?
 
2016年の夏ぐらいに、これまで作曲の中心に使っていた機材をDAWから全てハードウェアに乗り換えました。以前は毎回ライブの度に、ループやセットをPC上で準備してライブに臨んでいたんですが、元々ギターを弾いていたというのもあって、自分がループやサンプルを再生するっていう行為にずっと曖昧な違和感を抱いていました。ちょうどその時誘われていたイベントで、その違和感が頂点に達して、急遽持っているシンセとシーケンサーとペダルだけでプレイをしてみたら、自分の中で手応えがあったんです。それで”感覚的に電子音を出せる楽器”が自分には必要だなと思って、モジュラーシンセを導入することにしました。僕はライブにおいては偶発性とか、反射性が欲しいんです。その場で生成された音がやっぱり好きで。

作曲に関してはライブとは違って、だいたいハードウェアにMIDIを流しこんでから、それぞれの要素にDAWで手を加えて、重ねてまとめていきます。ライブのように即興性や偶発性みたいなものを重視していませんし、決まったやり方も特にありません。iPhoneで野外の音を録って使ったりもします。組み立て方の違いはありますが、ハードウェアを使うようになってから共通して変化したことは、自分の音のソースが限定されたところです。ラップトップの中でのソフトシンセやサンプラーを使った制作は、いってみれば無限に選択肢があると思うんです。僕の場合は、出せる音を縛ることで、自由すぎることの束縛から逆に自由になったというか。今のやり方は自分にとってはバランスが良いですね。
 

音楽活動を行ううえで、何か大事にしている姿勢のようなものはありますか?
 
いろんな意味で小さくまとまらないことですかね。記号にならないように。実際、僕はアンビエント作家にもモジュラーシンセ奏者にもなりたくないです。見つかりそうで見つからないものをすごく長いスパンで探すようなイメージで活動しています。海に落としちゃったものを素潜りで探す感じとか。見つけたと思ったら違っていたり。視界が悪い中で真面目にずっと探す。それがUltrafogっていう、なんとなくつけた名前の意味なのかなと今は思っています。それでもちゃんと爪痕と足跡は残せるように。
 
次回作の予定などはあるのでしょうか。

次はm dooというアメリカ・カンザスのアーティストとのスプリットEPが、バルセロナのangoisseというレーベルからカセットで出ます。彼はRyan Leockerという本名名義でStrange RulesやLillerne Tapesからもリリースしていて、今回のレーベルのangoisseでもm doo名義で最新作の『id static』をリリースしています。サウンドクラウドで連絡が来て、一緒にやろうとのことだったのですぐにOKしました。やりとりしていく中で分かったんですが、彼は1221というレーベル、というかコミュニティのオーナーで、僕はその周辺の音楽にはとても影響を受けていました。カンザスのローカルなアーティストたちを中心に、これまで4枚のコンピレーションをリリースしています。NYのアーティストたちも参加しています。umfangとかNick Kleinとかgaul plusとかvia appとかdreamcrusherまで。angoisseのオーナーのDavidと僕はネットで繋がっていて、彼のレーベルで出したいと言ってくれてタイミングよく進んでいきました。 angoisseはバルセロナを拠点にしながらいろんな国のアーティストの作品をリリースしていてすごく挑戦的なレーベルだと思います。日本から少し前にCVNが、僕と同じタイミングでKazumichi Komatsuくんのカセットも出ます。今年は別のレーベルからもう一作出す予定です。

最近のお気に入りのアルバムなどありましたら、いくつか教えてください。

Various ‎– bblisss
M. Geddes Gengras ‎– Interior Architecture
CAN – SOUNDTRACKS
Mud Honey – Superfuzz Bigmuff
Autechere – Amber
Tim Hecker – Harmony in Ultraviolet

です。

ultrafog: https://soundcloud.com/ultrafog

水野勝仁 連載第10回 モノとディスプレイとの重なり

谷口暁彦《夜だけど日食》と《透明感》@「超・いま・ここ」
ディスプレイを軸に畳み込まれ、重なり合う複数の空間

Masanori Mizuno /
Masanori Mizuno / Text: Masanori Mizuno, Title image: Akihiko Taniguchi

今回は、谷口暁彦の個展「超・いま・ここ」から《夜だけど日食》と《透明感》を取り上げる。《夜だけど日食》は、ディスプレイのモノとしての側面を強く意識させる作品である。対して、《透明感》は映像の表示にプロジェクターが使われていて、ディスプレイがモノではなく、イメージとして考えられている。このふたつの作品、及び、個展の際に配布されたリーフレットとの対話を通して、10年間継続して「ディスプレイ」を扱ってきた谷口が示す「ディスプレイの現在地」を探っていきたい。

モノとしてのディスプレイ/スキンとしてのディスプレイ

2007年から2017年の10年間の作品を「ディスプレイ」を軸にまとめ直した個展「超・いま・ここ」で、谷口は自作の解説と自らの活動をまとめたテキストを書いている。活動を考察したテキストの最後に、谷口は次の文章を書いている。

この10年間の作品を、時間と空間と「ディスプレイ」の問題として振り返ってみた。こうして見えてきたのは、なんらかの計算処理によって、リアルタイムに生成されるものは当然ながら、過去の出来事すらも「現在」として生起してしまう場としての「ディスプレイ」という存在だ。そして、その「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった、ということなのかもしれない。1

谷口は自身の活動を的確にまとめている。しかし、私はこの文章を読んだ際に「その「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった」という一文にひっかかりを覚えた。なぜなら、この一文のなかで、ディスプレイの状態がモノからイメージへと遷移しているからである。谷口はディスプレイと物理世界との連動を扱った作品を数多く制作している。けれど、彼はディスプレイを実際に「折り曲げたり、くしゃくしゃに変形し」たりはしていない。この部分は2015年の展示「スキンケア」で発表された《透明感》を念頭に置いて書かれている。そして、《透明感》はディスプレイを用いずにプロジェクターで映像を投影する作品であって、この作品で折り曲げられ、くしゃくしゃになったの「モノとしてのディスプレイ」ではなく、「イメージとしてのディスプレイ」だと考えられる。

立体物を3Dスキャンによって記録すると、表面のテクスチャデータと形態のメッシュデータに分解され保存される。3Dデータはあくまでも表面と形態いう表象しか記録できないため、どんなに正確に記録された3Dデータでも、現実に存在する物体とは違い、中身は空っぽとなる。西洋の幽霊 (ghost) が、しばしば中身の無い布だけの存在として描かれるように、3Dデータも皮膚だけの幽霊のように存在している。この作品では、そんな幽霊の皮膚を3つの方法でお手入れ(スキンケア)した。2

《透明感》は3Dスキャンによる表面のテクスチャデータと形態のメッシュデータとの関係を扱ったものであり、谷口はそれを「皮膚だけの幽霊」のようだと指摘している。「モノとしてのディスプレイ」を中身が空のモノとして「皮膚だけの幽霊」と見なせば、谷口はディスプレイを折り曲げたり、くしゃくしゃにしたりすることもできるだろう。《透明感》でディスプレイはモノからイメージになったと指摘したが、それは厳密に言えば、ディスプレイのモノの側面が抜け落ちて、表と裏とが一体化した「スキン」になったのである。谷口はモノではなくイメージ化したディスプレイを個別に扱うために、「イメージとしてのディスプレイ」を「スキン」という形態に限定する。確かに、《透明感》は「超・いま・ここ」に出品された他の作品と比較すると、ディスプレイではなくプロジェクターで映像を表示しているという点で異質な作品である。ディスプレイからプロジェクターの使用と谷口のテキストから、《透明感》で、谷口は「モノとしてのディスプレイ」を扱うのを止めて、ディスプレイをイメージ化して映像に送り返し、裏表が一体化した「スキンとしてのディスプレイ」を扱いはじめたと考えてみたい。

では、もし《透明感》が谷口のディスプレイをイメージとして扱うひとつの転換点だったすれば、谷口がディスプレイをモノとして扱う転換点はどこになったのか、それは「ディスプレイの中に表示される映像と、その外側にある現実の物理的な空間を様々な方法で関係付けることを模索したインスタレーションのシリーズ」である「置き方」からである。谷口は「置き方」シリーズを制作していくなかで、「現実の空間に配置された、ある厚みのあるオブジェクトとしてディスプレイを扱わなければならないという問題が見えてきた」と書いている。この問題は連作「思い過ごすものたち」へ引き継がれていく。しかし、今回、《透明感》が示す「皮膚だけの幽霊」としてのディスプレイと対比させたいのは、「置き方」シリーズのひとつでもあり、「幽霊をつくること」という課題に対して制作された《夜だけど日食》である。

とてつもなく地味な作品なのだけれど、そこで起きている出来事については結構気に入っている。まったく同じ仕組みで動作する過去の映像と、現在の実物が、その仕組みゆえに互いに影響しあうように動いてしまう。3

谷口が《夜だけど日食》について端的に書くように、この作品を含む「置き方」から「思い過ごすものたち」の流れは、物理世界に置かれた「厚みのあるオブジェクトとして」のディスプレイを軸にモノとイメージとが重なり合った領域に出来事が現れる作品になっている。特に、《夜だけど日食》では、ディスプレイを軸にして手前と奥のふたつに空間が分けられ、それぞれが「過去」と「現在」とを「モノ」と「映像」という異なる状態で示し、それらが重なり合って、そこに「幽霊」が現われたような不可思議な出来事が起こる。

このように考えてみると、谷口は10年間のほとんどを《夜だけど日食》をはじめとする作品で、モノとイメージとが重なる領域で現れる「幽霊」を「モノとしてのディスプレイ」とともに物理世界に引っ張り出していたといえるだろう。対して、《透明感》はモノとイメージとを重ね合わせて出来事を起こすところまでは《夜だけど日食》と同じ方法を使いつつ、プロジェクターによってその出来事を表示することで、「皮膚だけの幽霊」と化した「スキンとしてのディスプレイ」を提示しているのではないだろうか。このふたつの仮定のもと、《夜だけど日食》と《透明感》の個別の考察をしていきたい。

ディスプレイが可視化するふたつの空間の重なり合い

小さなディスプレイには、音に反応して明滅する電球の映像が映し出されている。電球は、音に反応してon/offを行う回路によって制御されていて、作者の鼻歌に反応して明滅する。その様子を映像として記録し、小さなディスプレイで再生している。このディスプレイの背後には、映像に記録されたものと同じ電球が配置され、映像の中に記録された作者の鼻歌に反応して明滅する。結果、ディスプレイの中の電球と、その背後にある実物の電球も同じタイミングで明滅することになる。またそれは、ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしているかのようにも見える。4

谷口の作品解説からわかるように、《夜だけど日食》(2008−2010)はディスプレイ内の電球の明滅が音をトリガーにして、ディスプレイ背後に設置された電球と同期するというシンプルな構造の作品である。ふたつの電球の明滅が同期すると、「ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしているかのようにも見える」ので、ディスプレイの内と外とがつながったような感じを受ける。「内」と「外」というのは少し異なるかもしれない。「内/外」と全方位的につながるというよりも、ディスプレイの表示面とディスプレイの裏側という限定的な重なりが生じているという感じを受ける。しかし、ここで起きているのは、実際には過去の映像と現在の実物とが放つ異なる光を同一のもの見なして、時制の歪みが生じるという複雑な出来事である。

映像の電球とモノの電球の明滅の同期というシンブルの構造から、時制が歪むような複雑な出来事が生じている。その理由を作品の制作方法から考えていきたい。

「置き方」でも同様の方法で、かつディスプレイ外の、現実の空間へと関係が作用していくことを考えていた。だから、音に反応してモーターを動かしたり、扇風機などの機器の電源をon/offする回路だけを先に制作した。つまり何らかの入力を受け取り、別の動きに変換して出力するインターフェイスだけ用意しておいて、あとは実際に入力と出力のバリエーションを即興的に試して決定するというプロセスで制作していったのだ。5

谷口は《夜だけど日食》を含んだ「置き方」シリーズの制作方法をこのように書く。「同様の方法」というのは、「置き方」シリーズの前に制作された《inter image》で試みられた、ルールのみを固定し、そこに収まる要素(《inter image》の場合は映像)の自由に選択可能にするといったものである。この方法に則って、「置き方」シリーズもルールとなる「インターフェイスだけを先に制作した」という点に注目したい。谷口は「置き方」シリーズで入力と出力とをつなぐ変換規則となるインターフェイスだけを先につくり、後に即興的に入力と出力を接続している。通常は、入力と出力というふたつの存在が先にあって、そのあいだをつなぐインターフェイスが求められるのに対して、谷口はまずインターフェイスをつくる。「インターフェイス」というふたつの存在のあいだが先につくられるのである。そして、インターフェイスが入力と出力とにつながれると出来事が現れる。そこで現れた興味深い出来事のひとつが《夜だけど日食》が示す「ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしている」という出来事である。実際にはディスプレイの裏側にある電球の光とディスプレイに表示されている電球の光とを同一視しているのだとしても、作品を正面から見る者の多くに対して「ディスプレイの電球の光が背後に漏れだす」という出来事が成立しまう。その出来事は、実際にはディスプレイの裏側にある電球の光とディスプレイに表示されている電球の光とが重なり合ったものである。

ふたつの電球の光の重なりはディスプレイというモノが光を放つと同時に、光を遮るから起こる。物理世界にモノとしての電球があり、ディスプレイに映像としての電球が表示されている。それらはディスプレイという平面を軸として分けられたふたつの空間にある。モノの電球の手前にディスプレイがあるため、見る者はディスプレイに表示されている映像の電球は見えるけれど、モノの電球はディスプレイに遮られて見えない状態にある。その状態で、映像の電球が光るとモノの電球も光る。このとき、映像の電球の光は後ろに漏れることはない。なぜなら、ディスプレイの構造上、映像の光は前方へ放たれるからである。しかし、《夜だけど日食》ではディスプレイの裏側にモノとして電球があり、その光の明滅が映像の電球の光の明滅と同期しているがゆえに、通常は裏側に回り込むことがない光が裏側に周り込んだように見えてしまう。そこでは、映像の電球とモノの電球というふたつの光がモノとしてのディスプレイによって遮蔽されながらも、互いに重なり合って、絡み合ってしまっている。そこで、ディスプレイが分断したふたつの空間が示す過去と現在とが「光」でつながり、時制の歪みが生じるのである。

入力と出力とのあいだにインターフェイスがあると考えるとき、たいてい、それは平面的な図で描かれる。だから文字でも「入力→インターフェイス→出力」と記すことができる。そのとき、視点は情報の流れを俯瞰できる位置に固定されている。《夜だけど日食》において「光が漏れだしている」状態を見ているとき、作品を見る者はディスプレイを正面のある一点から見ている。そこから見えるのはふたつの電球の光だけであって、ディスプレイの裏側に空間があることはわかるけれど、その空間の状況を確認することはできない。ディスプレイの裏側の状況を知るには視点を移動する必要がある。視点をディスプレイの裏側が見えるように回り込ませると、そこにはモノとしてのディスプレイが視線を遮っていたために見えなかった、もうひとつの電球が見える。当たり前ではあるが、ディスプレイの前方と後方の空間はひとつの物理空間でつながっているから、見る者の視点の移動は可能なのである。ヴァーチャルカメラのようにiPod touchの脇から背後へと視点を移動して、はじめて、見る者は《夜だけど日食》がディスプレイの表面に映る電球とディスプレイの背後の電球とが音をトリガーとして、光の明滅を同期させているのを見て、不思議な出来事の仕組みを理解する。しかし、ここではふたつの電球の明滅が同期しているだけであって、ディスプレイの表面とディスプレイの裏側とがぴったりと重ね合わされて、同一の存在になっているわけではない。映像の電球とモノとしてのディスプレイ、モノの電球とのあいだには物理的にも、時制的にも隙間がある。視点の移動によって見えるようになる隙間が、先につくられたインターフェイスによってつくられたものである。インターフェイスがつくる隙間が空間をふたつに分割することで、ふたつの電球が重なり合っているのである。

《夜だけど日食》では、インターフェイスと結びつけられたディスプレイを基準として手前と奥にふたつの空間があり、ふたつの空間にある電球は光の明滅の同期によって重なり合い、視点はその周りの物理空間を移動できるようになっている。ディスプレイの表面は平面上のイメージを表示している。同時に、モノとしてのディスプレイは、物理空間に一定の厚みをもって置かれているがゆえに、見る者にその裏側の空間を見せる。ディスプレイの裏側はディスプレイがないと存在しない空間であり、ディスプレイとセットで生じる空間である。けれど、通常は単なるニュートラルな物理空間として処理されている。《夜だけど日食》におけるディスプレイの裏側は、インターフェイスに接続されたディスプレイとともに現れるため、周囲の物理空間とは異なる個別化した裏側の空間となっている。なぜなら、裏側の空間にある電球は先につくられていたインターフェイスのルールによって、ディスプレイの表面の映像と同期するからである。しかし同時に、ディスプレイ裏側の空間は作品の周りの空間を視点が自由に移動することで発見されるため、ヒトとディスプレイとを取り囲む物理空間の一部でもある。制御するルールのスケールが、ディスプレイの裏側の空間はインターフェイスであり、ディスプレイ周囲の空間は物理法則とで異なってはいるけれど、これらふたつの空間は併置可能となっている。なぜなら、ディスプレイ裏側に生じる個別空間は、ニュートラルな物理空間にインターフェイスの特性を与えて、物理空間を複数化したものだからである。物理空間はインターフェイスという「隙間」によって、複数化していく。そして、谷口はインターフェイスの接続先にディスプレイを選択して、ふたつの空間の併置を可視化してしまう。ディスプレイは異なるふたつの空間の接続だけではなく、空間の重なりから現れる「幽霊」を可視化してしまう。インターフェイスが物理空間に隙間をつくり、物理空間を複数化して、それらをつないでいく。そして、インターフェイスに接続されたディスプレイがふたつの空間をつなぐ軸となって、ディスプレイに表示されている電球の光と裏側に置かれた電球の光とを重ね合わせていくため、時制が歪んでいくような不思議な出来事が起こるのである。

プロジェクターが畳み込む「スキンとしてのディスプレイ」

《透明感》は2015年の展示「スキンケア」で発表されたものだが、その際には真っ黒な背景に3Dモデルが回転していた。今回の「超・いま・ここ」に展示された《透明感》は、テクスチャデータを展開した画像の手前に3Dモデルが配置されるアップデートが行われている。

谷口は同様のアップデートを「思い過ごすものたち」(2013、2014)と「滲み出る板」(2015)でiPadを用いた作品《A.》と《D》とのあいだで行なっている。《A.》と《D》では、天井から吊るされたiPadがサーキュレータからの風を受けて、ゆらゆらと揺れている。《A.》のiPadには真っ黒い空間に3Dモデルの箱ティシュが置かれ、ティシュが風に揺れている様子が表示されている。《D》のiPadには背面カメラが捉えた物理世界の映像にカーテンがつけられた窓の3Dモデルが重ね合わされ、カーテンが風に揺れている様子が表示されている。連載の5回目「モノとディスプレイとが重なり合う平面」で、私は《A.》からアップデートされた《D》から、ディスプレイが表示する映像と物理世界に置かれたディスプレイのモノとしての側面との関係を考察した。そして、映像とディスプレイとのあいだに起こる「二次元と三次元との交錯」が、モノとしてのディスプレイを軸にさらに交錯して、「乱層のディスプレイ」という状態をつくることことを示した。「乱層のディスプレイ」はモノとしての厚みをもって揺れ続けるiPadとディスプレイに張り付いた平面の映像とを同時に提示し、見る者にモノとイメージとの重なり合い意識させる体験をつくりだす。6

《夜だけど日食》の考察から《D》における「乱層のディスプレイ」を改めて考えてみる。カメラを持つ「iPad」というインターフェイスと接続したディスプレイが示す個別空間と周囲の物理空間とが、ディスプレイに表示される3Dモデルの窓とカーテンを軸にして入れ替わり続けている。この出来事を揺れ続けるiPadというモノを介して見る、というのが「乱層のディスプレイ」体験となるだろう。ここではカメラで切り取られた物理空間の映像に3Dモデルの窓とカーテンが重ねられていることで、iPadとともに揺れ続ける物理空間を示す映像がディスプレイの揺れとともに、iPadの厚みをもった個別空間へと変換され続ける。

ディスプレイというモノを軸とした「乱層のディスプレイ」の体験を、プロジェクターからスクリーンに投影される映像を軸として表現したものが「スキンケア」の《透明感》だと、私は考えている。ディスプレイを用いない作品である《透明感》に対して、谷口は次のように書く。

この作品を、なおもまだディスプレイの問題として考えるならば、この作品で前提とされているのは、平面状のディスプレイのことではないのかもしれない。この「透明感」におけるディスプレイは、3Dデータのポリゴンによって作られる凸凹とした表面のことではないだろうか。その凸凹に対してテクスチャーデータの画像が貼り付けられていくわけだが、テクスチャーデータの画像は、折り紙のように、離散的で複雑な変換規則に基づいて3次元的に変形し、貼り付けられていく。この時、時間と空間は、3Dデータ表面の起伏を基準にして、前後/隣接関係が離散化した状態で張り付き、リアルタイムな入力に対し、逐次の計算が行われることで表示され、現在を演じる。そもそもディスプレイ(display)の語源は、畳まれたものを広げる(dis-plicare)という意味だ。ならば、3Dスキャンで生成された3Dデータの表面を、織り込まれたディスプレイと見做すのもあながち間違えた方向でもないだろう。7

谷口はプロジェクターを使った《透明感》を説明する際に、「この作品を、なおもまだディスプレイの問題として考えるならば」と、「ディスプレイ」にこだわり続け、その概念を拡張している。私は谷口による「ディスプレイ」の拡張を擁護したい。なぜなら、谷口は10年間、継続して「モノとしてのディスプレイ」を考察し、作品制作を行ってきたのであり、その結果として、谷口は「モノとしてのディスプレイ」を拡張し、3Dモデルのテクスチャとの関係づけた「スキンとしてのディスプレイ」というあたらしいディスプレイ概念をつくろうとしていると考えられるからである。そして、「モノとしてのディスプレイ」を「スキンとしてのディスプレイ」へと拡張できるとすれば、「二次元と三次元との交錯」を内包した「乱層のディスプレイ」を、イメージに送り返すことができると、私は考えている。なぜなら、谷口が示した「ディスプレイ」の語源である「畳まれたものを広げる(dis-plicare)」という意味は、ディスプレイがもともと幾つかの層に畳まれた状態にあったことを示すからである。語源の意味を示すように、3Dモデルのテクスチャから考えられた「折りたたまれたディスプレイ」という状態においては、ディスプレイはもともと平面ではなく「折り紙」のように「二次元と三次元との交錯」のなかにあり、さらに、それらは「前後/隣接関係が離散化した状態」にある。これらのことから、「乱層」の度合いは、「モノとしてのディスプレイ」よりも「スキンとしてのディスプレイ」の方が強いと考えられる。谷口は「モノとしてのディスプレイ」から「スキンとしてのディスプレイ」へと移行し、畳み込まれた乱層状態のディスプレイを扱うことで、より原理的にディスプレイの可能性を追求しようとしている。

しかし、「ディスプレイ」を3Dモデルのテクスチャデータと結びつけて考えているのであれば、《透明感》は「モノとしてのディスプレイ」を使ってもよかったのではないだろうか。つまり、《透明感》で問題としたいのは、3Dモデルのテクスチャデータに「ディスプレイ」という言葉を付与していることではなく、「折りたたまれたディスプレイ」や「織り込まれたディスプレイ」という言葉をつくってまで「ディスプレイ」にこだわって考察している《透明感》において、谷口はなぜディスプレイではなくプロジェクターを使ってスクリーンに映像を投影したのかということである。

まずは《透明感》の概要を谷口の説明から確かめるところからはじめたい。

テーブルの上に置かれたお菓子を3Dスキャナーで記録すると、形態を記録したメッシュデータと、表面の柄を記録したテクスチャデータに分かれて保存される。通常はコンピューターの中でメッシュデータにテクスチャデータを貼り付けて表示するが、この作品ではテクスチャデータを大きくプリントアウトして壁に掛け、それをカメラで撮影し、リアルタイムにメッシュデータに貼り付けて表示している。壁にプロジェクションされたCGは、一見すると何の変哲も無い3Dデータのように見えるが、鑑賞者が壁に掛けられたテクスチャデータの前に立つと、鑑賞者自身がテクスチャデータとなり、お菓子の3Dデータに貼り付けられ表示される。メッシュデータと、テクスチャデータの間に現実の空間が挟み込まれる。8

メッシュデータに貼り付けられるテクスチャデータは様々な視点から撮影された画像の集積である。つまり、見る者の視点は限定されるが、映像で回転する3Dモデルは物理空間を移動して得た視点の集まりとしてそこに表示されているのである。なおかつ、3Dモデルは視点の移動の結果を見せつけるように自転している。《透明感》2015では、回転する3Dモデルの背景が真っ黒であったため、3Dモデルは物理空間とは異なる空間に置かれていたといえる。カメラとプリントされたテクスチャデータとのあいだに見る者が入ると、見る者はあらたなテクスチャとして3Dモデルのある空間へと飛ばされた。《透明感》2017では、3Dモデルはテクスチャマップのプリントがある物理空間に重ねられている。それはどこか別の空間にあるのではなく、モデルを構成するテクスチャマップとその手前に存在する物理空間と同一の空間で回転するようになっている。見る者がカメラの前に入ると、3Dモデルのテクスチャとなることに変わりはないが、それは物理空間と重ねられた3Dモデルに張り付けられるため、3Dモデルがある別の空間に飛ばされるという感覚がなくなっている。

《透明感》2017では、ヒトは別の空間に飛ばされるわけではない。ヒトは画像とカメラとのあいだにある物理空間にいながら、テクスチャ化されて3Dモデルの空間に介入する。しかし、《透明感》2015でも、ヒトは画像とカメラとのあいだにある物理空間にいながら、テクスチャ化されて3Dモデルの空間に介入している。この介入を可能にしているのが、カメラとテクスチャマップのプリントとのあいだの何もない空間である。谷口は「メッシュデータと、テクスチャデータの間に現実の空間が挟み込まれる」ようなプログラムを書くことで、何もない空虚な空間をインターフェイスとともにある隙間に変更し、個別空間へと変える。プログラムによって個別空間ができ、カメラとテクスチャマップのプリントとが設置されて、これらのあいだで出来事が形成される。その個別空間はヒトをテクスチャにして、3Dモデル空間へと飛ばす。しかし、《透明感》2017では、物理空間と3Dモデル空間とが映像のなかで重なられて表示されているため、作品を体験するヒトが今、どこにいるのかが映像で確認できるようになっている。アップデートされた《透明感》によって、ヒトと3Dモデルと物理空間とが映像ですべて重なり合うようになったのである。

谷口は《透明感》でプロジェクターを採用して、カメラと画像とのあいだだけではなく、プロジェクターとスクリーンにも介入できるようにした。カメラとプロジェクターどちらの前に立っても、物理空間にいるヒトは3Dモデルが置かれた空間に介入することができる。プロジェクターとスクリーンのあいだにはプログラムは設定されていないが、物理法則が設定されている。プロジェクターの光をヒトが遮ると3Dモデル空間に影が投影され、介入が起こるのである。プロジェクターは映像の手前に物理法則で制御された個別空間をつくるのである。ここで重要なのは、ディスプレイはヒトが直接介入できる空間をつくれないということである。ディスプレイと接続されたカメラと画像とのあいだにはヒトは介入できるけれど、プロジェクターのスクリーンとのあいだに介入して映像に影を投げかけるようなことはできない。「モノとしてのディスプレイ」は、モノとしてフレーム内の映像を取り囲むがゆえに、そこに示されるディスプレイ内空間およびディスプレイ周囲に発生する個別空間がなによりも優位になってしまうのである。そこで、谷口はディスプレイではなくプロジェクターを使うことで、映像という面で重なり合っている複数の空間そのものに見る者の意識を向けさせる。つまり、谷口はプロジェクターを用いて、「スキンとしてのディスプレイ」という複数の空間が重なり合う面をつくるのである。プロジェクターを用いた《透明感》では、カメラとテクスチャマップとのあいだ、プロジェクターとスクリーンとのあいだにはスケールは異なるけれど、プログラムと物理法則というルールがある。「スキンとしてのディスプレイ」はふたつの異なるルールを呑み込み、ヒト、物理空間、3Dモデル空間を優劣なく畳み込んでいく面をつくっているのである。

《透明感》2017では、視点が回り込める物理空間のなかで3Dスキャンされたモノが3D空間に置かれて、物理空間とテクスチャマップに重ね合わされる。テクスチャデータとモデルデータとが重なり合うだけではなく、そこに物理空間も重なり合わされている。それらはカメラとテクスチャマップのプリントとのあいだ、そして、プロジェクターとスクリーンとのあいだの物理法則で制御された空間を軸として、物理空間と個別空間と3Dモデル空間とが重ね合わされる。その重ね合わせを可能にするのが離散的で、折り曲げたり、くしゃくしゃしたりできる「スキンとしてのディスプレイ」である。つまり、谷口の「折りたたまれたディスプレイ」とは、もはやモノである必要はなく、プログラムや物理法則といった明晰なルールに基づいて、3Dモデル空間と物理空間とが折り畳まれていき、重ね合わされたひとつの面を指すのである。インターフェイスと接続された「モノとしてのディスプレイ」が物理空間に個別空間をつくるのだとすれば、「スキンとしてのディスプレイ」はプログラムによって空虚な空間を個別空間につくり変えて、個別空間、物理空間、3Dモデル空間といった複数の空間が重なり合う面として機能している。「スキンとしてのディスプレイ」は厚みをもつことはないけれど、複数の空間が畳み込まれて重なり合っていく面なのである。

モノとディスプレイとイメージとを畳み込んで重ね合わせる

今回取り上げた谷口の《夜だけど日食》と《透明感》は、個展のタイトル「超・いま・ここ」が示すように、谷口が考える「ディスプレイの現在地」を示す作品であった。《夜だけど日食》はディスプレイというモノを軸として「ディスプレイの裏側」をディスプレイの表面に重ね合わせて、モノとディスプレイとイメージとの重ね合わせを示している。それは、谷口が「これまで」の10年間追求してきたモノとしてのディスプレイの物理世界に置かれている状態を端的に表している作品といえる。対して、《透明感》はモノとディスプレイとイメージとの重なりを映像で示した作品だと考えられるだろう。テクスチャデータが示すイメージのレベルで「ディスプレイの裏側」をディスプレイの表面に重ねて、プロジェクターから投影される映像で表現する。それは谷口にとってモノとディスプレイとイメージとの重なりの「これから」の展開を表している。だから、個展のタイトルには「いま・ここ」の前に「超」がつき、「ディスプレイの現在地」が超えられていくことが示されているのである。

ここで一度、谷口の「超・いま・ここ」が示したように、本連載もまた始点と現在地を確かめておきたい。本連載は次のような私の直観から始まっている。

プロジェクターからの光を受けるスクリーンはディスプレイと同じ、イメージの支持体である。けれど、スクリーンはディスプレイよりも「イメージ」そのものという感じがある。スクリーンはイメージと一体化している。スクリーンはモノであるけれど、モノである感じがほとんどない。そして、薄型ディスプレイもイメージと一体化して扱われるようになっている。けれど、そこでやはりイメージを提示しつつもモノであることを強調することで、イメージの支持体としてのディスプレイが物理世界との関係のなかで、あらたな見え方をするのではないか。私にはそのような直観があった。

そこで、私は「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルで連載を始めた。連載をはじめる前に書いた概要を読み返すと、私はモノがデータと結びつき従来のモノではなくなっていくとする渡邊恵太の『融けるデザイン』と、ピクセルが認識できなないほど小さくなってモノのように鮮明なイメージを表示可能なレティナディスプレイのことを念頭に起きながら。次のように書いていた、

ディスプレイの内外でモノがモノとしての境界を失いつつある。その結果として、ディスプレイとモノとの境界が重なりあうところにモアレのような動的な現象が起きている。ディスプレイにあるモノの存在が、物理世界のモノのあり方に影響を与える。9

ここで私が考えていたのは、イメージがモノのように見えるのであれば、ディスプレイという支持体とその表面に表示されるイメージを「モノ」というカテゴリーで括ってしまっていいのではないかということである。そこからさらに、「モノ」というカテゴリーでモノとディスプレイとを重なれば、モノとディスプレイとイメージとがひとつの括りのなかで重なり合うことが可能となる。けれど、モノとディスプレイとイメージとは平面上で接しているのではなく、それぞれが垂直的に重なり合っているため、非接触の状態にある。その状態を俯瞰的な視点から見るとすべてが重なり合ったように見え、まずは俯瞰的な固定視点からディスプレイを用いた作品から現れる現象や出来事を観察し、徐々に視点を移動させて、それらの重なり合いの隙間を考察してきた。その結果が、これまで書いてきた「モノとディスプレイとの重なり」のテキストである。

そして、谷口の「超・いま・ここ」は、この連載で私が示した「ディスプレイの現在地」を超えていくように要求する。

「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった。10

私が最初に読んだ時にひっかかりを感じたこの一文には、谷口のディスプレイに対する感覚の「これまで」と「これから」と畳み込まれている。それゆえに、「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルの本連載にあらたな視点でディスプレイを見ることを要求している。それは、「モノとしてのディスプレイ」だけではなく、これまでの考察で得た「モノとしてのディスプレイ」の特性を考慮しながら、さらに「イメージとしてのディスプレイ」の可能性を追求していかなければならない、ということである。これまでは視点を移動させながら「モノとしてのディスプレイ」がつくるモノとディスプレイとの重なり合いの隙間を考察してきたけれど、これからは、その隙間を一度畳み込むことで見えてくる、あらたな重なり合いを考察する必要がでてきた。幾ら畳んだとしても、そこには隙間は存在し続けるだろう。けれど、隙間はより小さく、薄くなっていくはずである。このようにして「モノとしてのディスプレイ」だけではなく、「イメージとしてディスプレイ」も考察していきたい。そして、「イメージとしてのディスプレイ」の可能性のひとつが、ディスプレイを複数の空間、様々な要素が重なり合うように畳み込まれた面として機能する「スキンとしてのディスプレイ」なのである。

参考文献
1. 谷口暁彦「超・いま・ここ」、個展で配布されたリーフレット、2017
2. 同上
3. 同上
4. 同上
5. 同上
6. 水野勝仁 連載・モノとディスプレイとの重なり 第5回「iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」について」MASSAGE、https://themassage.jp/monotodisplay05/、2016年9月8日公開
7. 谷口暁彦「超・いま・ここ」
8. 同上
9. 水野勝仁「00_タイトル、概要、トピック案」
https://docs.google.com/document/d/1dzJjzZhkgmFiHxOro1vjg9lRWf5Iyyk0qh50sqLny3w/edit?usp=sharing 最終編集日:2016年2月8日
10. 谷口暁彦「超・いま・ここ」

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

Interview with Theo Triantafyllidis

ゲームからシュミレーション、彫刻まで。
人間とテクノロジーの対話が作り出す、新鮮な親しい関係性

MASSAGE /
MASSAGE / Text: Yusuke Shono, Translation: Noriko Taguchi, mika, Jan Wolf, Goh Hirose

彼がInternet flushと呼ぶ、スクリーンを流れる大量の情報を断続的に摂取し続けるライフスタイルが作り出す見方から、コンピュータグラフィクスやゲームのテクノロジーを用た観客の新しい応答性を探る幅広い作品を作り出すロサンゼルス在住のアーティスト、Theo Triantafyllidis。観客をアーティスト自身への体内へと導くVR作品や、オブジェクトがヴィジュアルによるギャグを無限に生成し続けるシミュレーション絵画作品など、荒唐無稽なアイデアが表現される一方で、そのスタイルはポップでどこかユーモラスな感触を湛えている。ゲームの文化や新しいテクノロジーと伝統的な芸術の領域が融合されたその作品には、人間とテクノロジーの間に奇妙で、新鮮な対話が生み出される可能性がさまざまな形で表現されている。Eva Papamargaritiとの新作、「Obscene Creatures、Resilient Terrains」を発表中の彼に話を聞いた。

いろいろな国で暮らしているようですが、あなたの歴史について教えていただけますか?

僕はギリシアのアテネ出身で、アテネ工科大学で建築学を卒業した。在学中、実験的な建築と面白い空間条件を作り出す可能性に興味を持ったんだ。卒業して北京に移り、建築家として働いたよ。 当時、インターネット上でアートを作っているコミュニティーのアーティストたちと出会って、そこから少しずつ制作を始めた。その時に、プロの建築家として向かないと気づいて、アーティストになることにしたんだ。北京でいくつかの作品展をした後、ロサンゼルスに移り、やりたいことを学ぶための最高の場所だと思ってカリフォルニア大学ロサンゼルス校のDesign Media Arts MFAで勉強したんだ。昨年の夏卒業して、現在もロサンゼルスに拠点を置いている。

建築の考え方は現在の作品に影響していますか?

もちろんアーティストとしてすごく影響を受けているし、基礎になってる。しばらくの間、建築家としての合理的で構造化された方法を避けようとしていたんだけど、最近、VRで作成する時に学んだ建築に関することがとても有用なことに気がついたんだ。VRでの作業の重要な部分は、没入型の環境と面白い空間体験を作り出すこと。そして、これが一番楽しい部分なんだ。

How to Everything, 2016
Theo Triantafyllidis
Screen piece, custom software, live simulation.
HD Projector, gaming PC

「How To Everything」はライブシュミレーション作品とのことですが、どのようなアルゴリズムで作られているのでしょうか?

それはナンセンスを作るためのアルゴリズムなんだ。空っぽの場面をつくって、いくつかのオブジェクトを住まわせ、その物体を構成に整列させようとして、それで物体の動きを繰り返し実行するんだ。次の場面へ移動する時、いくつかのオブジェは破壊されて、新しい物体が導入される。よく観客は映画の場面のカットと同じように、場面場面の繋がりを描こうとするけれど、繋がりは必ずしもあるとは限らない。それは永遠に生成されるハウツー基礎ビデオみたいなものだ。

この作品ではヴァニタス(寓意的な静物画)というキーワードが挙げられています。あなたはこの作品によって絵画の歴史とデジタルな表現を繋げようとしているのでしょうか?

特にデジタルアーティストたちには、アートの魅力的な歴史はインスピレーションの大元になっていると分かったんだ。芸術が歴史の中でどのように社会で特定の機能を果たしていたか、そしてどのようにこれが歴史と技術の発展に関わってきたのか興味を持っている。絵画の歴史については、絵画や物の二次元性のなかで知覚される表面の概念に興味がある。僕にとって2次元の方は難しくて、3次元と彫刻形式での制作の方がすごく作業がしやすいんだ。スクリーン上の表面は絵画にとてもよく似ていて、これは僕がこの作品で探求していたテーマの1つだよ。3次元を2次元に感じるものに圧縮しようとして、空間を表面に圧縮しようとした。もし、”How to Everything” とヴァニタスの関係について興味があるなら、ここに詳細があるよ。

実際の彫刻なども作っていますが、デジタルのときと制作の姿勢は変わりますか?

デジタルと物体との境界線を繰り返しシームレスにする作業が本当に好きなんだ。僕の最近の作品で“Mountain”というのがあるんだけど、その中で3Dスキャンされたセラミックの物体をゲームエンジンに入れた。ゲームエンジンからもらったアイデアをセラミックの物体に付け加えた。だから僕にとってそれは、フィジカルな物とデジタルな物の間で続いている対話なんだ。その2つが衝突して、合体する瞬間が好き。最近、スタジオを構えようとしていて、作業台や大きな道具などを揃えようとしていたんだけど、Vive VRヘッドセットを揃えてスタジオはほぼ空っぽの空間にしたから、 結局のところこれは“デジタルな空間”だね。


World Atlas, 2016
Theo Triantafyllidis
Found objects, acrylic paint, metal pins
Dimensions: 60×60″

Serving Suggestion, 2014
Theo Triantafyllidis
ceramics, mixed media casts, table, dinnerware

アートとゲームという2つの領域にまたがった作品を作ることに、どのような可能性を感じますか?

ビデオゲームはアーティストがほとんど探究してない比較的新しいメディアだけど、とても刺激的な分野だ。初期の頃の作品では、ゲーム部分を観客ための一種の引っ掛け(罠)として使っていた。いくつかゲーム要素がある時に、人々が時間をかけて探求し、細部までよく見ていることに気がついたんだ。彼らは何度も何度もゲームをしてハマってやめられなくなてっるのに、アートギャラリーの中では作品を数秒間見て、そのギャラリーから出て行ってしまうという具合だった。今はゲームにもっと面白いことがあるとわかっているから、近い将来より複雑なゲームを開発することに興味を持ってる。Adult Swimから依頼されて、”Gecko Redemption“というオンラインマルチプレイヤーブラウザゲームを友人のAlex Rickettと一緒にリリースしたばかりだよ。ペトペト動き回るヤモリで、口から物を出したり、レーザーを撃ったり、なんにでも登ったりすることが出来たりする対戦型のスポーツゲーム。僕の“ちゃんとした”ゲームといえる最初の作品なんだ。

DiMoDaのために作られたあなたの新しい作品、Self Portrait (Interior)も体験しました。今回はどうして「自分自身」を素材として扱ったのでしょうか?

より多くの人々を関連する表現手段として自分自身を使ったんだ。自画像のフォーマットはアーティストがキャンバスとして自分の考えや疑問を世界に伝えることを可能にするため、芸術ではごく一般的なツール。VRの自画像を作ることは、観客との距離をさらに近づけてくれるから探検する価値があるように思えたんだ。このプロジェクトで一番面白かったのは、人が遊んでる風景を撮影した投稿した映像を目にしたこと。それを公開した数日後(ちょうどそれをitch.ioに投稿した)、どういう訳かユーチューバーの取り上げられたんだ。 この映像に本当に驚いちゃったよ。 この作品は、まさにとてもパーソナルなものだったので、人々がオンラインで遊んで、コメントを書いているのを見た時には、僕は実際に僕たちがメタカンバーセーション(メタ会話)をしているように思ったよ。

Self Portrait (Interior), 2016
Theo Triantafyllidis
virtual reality experience
VR Headset, software, gaming PC

インターネットとアートについてのテクスト「internet flush」もとても興味深かったです。あなた自身はインターネットの中毒ですか? またインターネットの文化から作品へのフィードバックされているものはありますか?

そう。あのテキストで説明している “internet flush” という感覚は、多くの作業の原動力なんだ。芸術作品を刺激するこのインターネットの流れのサイクルは、その流れにフィードバックされるよりも、今ではアーティストたちや評論家たちによって広く探求されてる。近頃は、僕はデドックスする段階へ進んでいる。今、いくつかの新しい作品に取り組んでいる最中だよ。”Obscene Creatures、Resilient Terrains“展のための新しいライブシミュレーション作品、スクロールランドスケープを、ロンドンのAssembly PointでEva Papamargaritiといっしょに行ってる。また、ドイツのNRW Forumでは、VRグループ展の“Unreal” では、新しいVR作品を展示してて、ある人がヘッドセットを取ると、VRを過剰摂取している砂漠のシーンという設定なんだ。僕はVRにハマってしまったみたいだよ。

Theo Triantafyllidis
http://slimetech.org