水野勝仁 連載第8回 モノとディスプレイとの重なり

永田康祐《Inbetween》
ディスプレイ周囲で癒着する光とモノとがつくる曖昧な風景

Masanori Mizuno /
Masanori Mizuno / Text: Masanori Mizuno, Title image: Akihiko Taniguchi

前回の《Translation #1》に引き続き、今回も永田康祐の作品《Inbetween》を取り上げる。《Translation #1》では水平に置かれた2台のディスプレイに注目して、ディスプレイが示す映像のZ軸が物理世界のルールを上書きしていくプロセスを考察した。しかし、《Inbetween》と題された4つの作品で使用されている5台のディスプレイのうち、水平に置かれたものは1台しかない。《Inbetween》という4つの作品において、永田はディスプレイの手前にモノを置く。水平に置いたディスプレイにはモノを直接置けたけれど、垂直に設置したディスプレイにモノを重ねるとそこには隙間が生じる。永田はこの隙間を光とモノとの分離と癒着で埋めていき、ディスプレイを含んだひとつの風景を形成しようとしている。この試みはディスプレイという光を放射するモノがもつ効力の範囲を決めるものと考えられるだろう。また、永田は《Inbetween》において、エアーキャップで包んだ状態のディスプレイを展示している。梱包されたディスプレイというのは、まさにモノとディスプレイとが重なった状態にあるといえる。しかし、それは他の3つの《Inbetween》とは異なり、単にモノ化されたディスプレイが展示空間に置かれた状態であって、作品ではないだろうと考える人もいるかもしれない。梱包されたディスプレイは、一体何を示しているのであろうか。

光とモノにおける分離と癒着

永田康祐の個展「Therapist」で展示された《Inbetween》とタイトルをつけられた4つの作品には、すべてディスプレイが使用されている。そして、ディスプレイの前に必ず、モノが配置されている。見る者とディスプレイとのあいだにモノが挿入されることはほとんどない。それはディスプレイに表示される映像を最もよく見せるためには、鑑賞者とディスプレイとのあいだには何もないのが理想の状態だからである。しかし、《Inbetween》では見る者とディスプレイとのあいだに金網とネット、透明や色付きのアクリル板、磨りガラスや観葉植物、エアーキャップといったものが配置されている。金網とネットを除いたモノはすべてディスプレイに表示されている。《Inbetween》では、ディスプレイのなかのモノがディスプレイの手前に置かれている状況がつくられている。永田はこの状況設定についてステイトメントで以下のように記述している。

この展示では、私たちが風景を得るとき常に付随する遮蔽物である、水晶体やレンズによる重なりを取り扱う。光の律動からカメラレンズによって切り出された像は、液晶による冷陰極管の遮蔽によって、もしくは顔料による写真紙の遮蔽によって再現前化される。私たちのイメージの経験は、この三重の遮蔽ーレンズ、液晶ないし顔料、そして水晶体を条件として成立している。

画像素子の前に広がるものの重なりは、ディスプレイないしは写真紙の「向こう側」として、また液晶もしくは顔料と水晶体のあいだのものの重なりは、「こちら側」として認識される。そこにはある種の分離がある。これは、リアルと呼ばれるものとヴァーチャルと呼ばれるものの分離である。しかし、これらの関係はその反転や反復が介在することによってー加工された写真と未加工の写真の違いや、絵画においてオリジナルとその模写の違いがわからなくなることのようにー無効化されることがある。ものの重なりにおける分離が、ある特定の操作によって癒着するのである。この展示が対象とするのは、この分離と癒着である。1

ステイトメントにおいて、永田はモノの重なりとともに存在した光を遮蔽し、画像素子へと屈折させるレンズ、レンズが遮蔽したかつての光を再現し、モノの重なりを表示するディスプレイ、ディスプレイの光にモノの重なりを見るヒトの眼という3つの遮蔽物をあげている。そして、レンズとディスプレイとが表現するものが「向こう側」という今は存在しないヴァーチャルなものとされ、ディスプレイとヒトの眼とのあいだが「こちら側」というリアルなものとされる。ディスプレイを境界にしてリアルとヴァーチャルとの分離が起こるというところまでは、映像を体験する誰もが感じることである。永田のステイトメントで問題にしたいのは、最後の「ものの重なりにおける分離が、ある特定の操作によって癒着するのである。この展示が対象とするのは、この分離と癒着である」という部分である。ステイトメントは個展全体に対してのものだから、《Inbetween》のみに向けられたものではない。けれど、このテキストにある「分離と癒着」からディスプレイが現在置かれた状況を考えてみることはとても有益だと考えられる。なぜなら、エキソニモ《Body Paint》シリーズをはじめとして、これまでの連載で扱ってきた作品の多くはディスプレイが表示する映像の手前に奇妙なリアリティが発生しており、その要因のひとつとして、ディスプレイが放つ光とモノとの重なり、つまり、永田のいう「癒着」があると考えられるからである。永田はディスプレイ前にモノを置くことで、本来離れていなければならないモノとディスプレイとが癒着してしまう状況を設定する。「癒着」とは、本来接してはいけないモノが接してしまった結果、離れられなくなることである。永田がディスプレイの前に置いたモノはディスプレイの光を完全には遮蔽しないけれど、ディスプレイを鑑賞者に対して最前面という特権的な位置からモノの背面に押しやる。その際に、ディスプレイの映像が示す世界とディスプレイ手前に置かれたモノが属する物理世界との癒着が起こり、あたらしいリアリティを生み出すのではないだろうか。

ディスプレイという板はリアルなモノであるとしても、そこに表示される映像は虚構、あるいはかつてあったものの再現として、ディスプレイのフレームによって閉じ込めている。ディスプレイが表示する映像はリアルな風景の再現であっても、3Dレンダリングされた情景であっても、物理世界との連続性を失った独自の世界となっている。例えば、映像に映っている複数のモノはそれぞれ個別のモノとしてディスプレイのなかに存在しているように見える。しかし、モノとモノとのあいだに手を入れて、映像のモノを物理世界に持ってこられるヒトはいるだろうか。あるいは、ディスプレイが表示するモノのどれかひとつだけを手前や奥にあるモノから引き離すことができるだろうか。そんなことは誰もできない。なぜなら、映像はひとつの平面、ピクセルの集積として光の明滅として構成されているからである。ディスプレイの平面では物理世界で個別の存在であったモノたちは、無数の光の明滅によって構成されるひとつの表面に癒着させられて、個別に存在しているように見えながら、そこから個別に何も取り出せない独自の世界を形成しているといえる。だからこそ、ディスプレイが示す映像は「向こう側」となるのである。対して、ディスプレイの手前の空間では、ヒトがモノを個別に手に取れるからこそ「こちら側」にある。もし、向こう側に手を伸ばせてモノが取ってこられるのであれば、それは物理世界と地続きであると判断されて、「向こう側」とは呼ばれないだろう。

しかし、なぜ映像は「平面に癒着した世界」という独自な存在様式であるにもかかわらず、「こちら側」と対称をなすように見える「向こう側」として機能できるのであろうか。このことを考えるために、世界をモノの表面の現われと遮蔽の連続と捉え、現われている表面と遮蔽されている表面から乱反射した光の配列にヒトの行為をアフォードする情報が存在すると指摘した生態心理学者のJ・J・ギブソンの絵画に対する考察を引用したい。

絵画を正式に定義すると、次のようになる。絵画とは、「通常の環境の包囲光配列に見出されるのと同種の情報を含んだ、範囲の限られた光配列」を、観察者が、ある観察点において利用できるように処理された面である。この定義は、写真にもカリカチュアにも該当する。カラー写真を撮影してスライドを作るとき、撮影に用いるカメラは、元の光景から発する円錐形の光を遮ることになるが、写真によるカラースライドは、それを撮影したカメラが遮った元の光景の円錐形の光が与えていたのとほとんど同じ、明るさや色のコントラストを、眼に与える。このことも、上記の定義の範囲に含まれる。光の強度やスペクトル組成の関係は、カラースライドと元の光景との2つの光配列の刺激エネルギー同士の間で充分に対応しており、両者の低次の刺激情報は、ほとんど一致する。2

ギブソンの絵画や写真の定義から考えれば、映像も同様に物理世界が示す光の情報と対応関係をもったものといえる。平面であって、そこに手を入れてモノを取り出すことができないとしても、映像は物理世界と対応する光の情報をもっているならば、物理世界と同じように見える。けれど、それは同じように見えるという情報だけであって、触れることができるモノはそこにないのである。永田はこの光の情報を利用して、ある時点における物理世界の光配列の情報に基づく映像を制作する。そこにはもちろん触れ得るモノはなく、かつては触れることができたモノの情報のみが映像に「向こう側」として映っている。そこで、永田は物理世界の光配列を構成していたモノの一部をディスプレイの手前である「こちら側」に配置して情報の二重化を試みる。ここで行われているのは、触れ得ない「向こう側」の一部をモノとして引っ張り出してきてディスプレイの前に置き、モノと映像とを重ねて光の情報を二重化し、映像で示されている触れ得ないモノ自体を「こちら側」に持ってくるという捻じれた手続きである。永田はこの手続きに則って、「向こう側」にある金網やネット、アクリル板、磨りガラス、エアーキャップといったモノをディスプレイ手前の「こちら側」に配置して、映像を構成する光とディスプレイの平面との癒着を解くと同時に、ディスプレイの平面から分離した光をその映像と対応する光配列を生み出したモノに癒着させて、あたらしいリアリティをつくろうとしていると考えられる。

3つの《Inbetween》がつくる風景

まず、ディスプレイにネットと金網とが配置されたフラミンゴが映る映像と、その下には鯉が泳ぐ池を映すディスプレイが水平に置かれて、ネットがかけられている作品を考察してみたい。この作品は本来、映っているはずのものが映像に映っていない。レンズの光学的操作によって、金網はぼかされて光のなかに融けてしまっている。ネットは撮影の際に画面に入らないように撮影されている。ここでは光とモノとが癒着という状態ではなく、金網は同化といえるような状態にされ、ネットは存在を削除された状態に置かれている。永田は自らの選択で、光に同化させた金網や映像から削除したネットを、モノとしてディスプレイ手前の空間に配置して、カメラの周囲に広がっていただろう風景の復元を試みる。作品を見る者の視線はディスプレイ手前に置かれた金網やネットと、映像内のフラミンゴや鯉とを一緒に捉える。映像のなかの光に同化してしまった金網と存在を削除されたネットと、ディスプレイ手前に置かれた金網とネットは同じようで同じではない。なぜなら、ディスプレイは見るためのものであり、その前に金網やネットが掛けられることはないからである。永田が設定した状況において、見る者は金網やネットの存在を消去することはできない。金網やネットはディスプレイと見る者とのあいだに存在し続ける。

かつて永田が構えるカメラの前にあったであろう風景がディスプレイ、金網とネット、見る者の眼という3つの遮蔽が存在する展示室という物理世界内で復元される。しかし、ディスプレイから放射される光が金網やネットの影を消去してモノと映像との境界を曖昧にしていき、それらを癒着させて映像内でも元の風景を復元しようとする。同時に、目の細かいネットはそのエッジでディスプレイの光を三原色に分解し、光と癒着して映像内で元の風景を復元することを拒んでもいる。光とモノとの縄張り争いのなかで、ディスプレイに表示されているフラミンゴと鯉の映像のリアリティが、ディスプレイ手前に配置された金網とネットがつくる平面とその前後の空間に拡張されている。ディスプレイを含んだ金網、ネットがつくりだす隙間空間とフラミンゴや鯉のいる映像の空間とが連続しているかのように見えるのである。そのことを端的に示すのがネットの上に点在する落ち葉である。落ち葉はネットによって上方に引き伸ばされたディスプレイの空間の効力が及ぶのは「ここまでですよ」と確定している。このとき、ディスプレイは金網、ネットと落ち葉とともにひとつの風景をかたちづくっているのである。

次に、ディスプレイの前にアクリル板が配置された作品を見てみよう。ディスプレイのフレーム内には3Dモデリングされた部屋が表示されている。そこには白い壁と窓のようなものがあり、黄色と茶色のアクリル板をトロトロに溶かしたかのような布が風に揺れているようにみえる。また、床には段差があり、上の段に立方体の石が置かれ、ここにも透明のアクリルが溶けたような布がかかっている。ディスプレイの手前には、石に掛けられた透明の布がアクリル板となって、まずディスプレイの大半を覆うようなかたちで配置され、その上に、風に揺れるアクリルのような布と同じ黄色と茶色のアクリル板が斜めに配置されている。ディスプレイと3つのアクリルとは少しずつ重なるように設置され、平面の重なり順としては、ディスプレイ、透明、黄色、茶色のアクリル板となっている。しかし、平面の重なりとしてはこの順番なのであるが、真正面から作品を見ると、ディスプレイに表示されている窓のような白い正方形が一番手前に見えるのである。白い正方形が最前面に見えることで、物理空間のなかでのディスプレイと3つのアクリル板によるモノの重なり順とその分離を無効化していくのである。

モノの重なり順を無化するようなディスプレイ内の白い正方形は、どこにあるのだろうか。ディスプレイとアクリル板という平面の重なりで考えると、それは単にディスプレイに映る3Dモデリングされた部屋のなかにあるといえる。しかし、白い正方形を示すディスプレイの光は手前のアクリル板を突き通して、「こちら側」にあるように見える。3Dモデリングされたオブジェクトは計算から生成され、データが直接ピクセルの光となって明滅しているので、カメラのレンズによって否応なく起こる光とモノとの癒着を起こさない。それゆえに、物理世界よりも比較的自由に窓やカーテンのような形態をしたオブジェクトを配置できる。だから、この白い正方形は3D部屋において、どこかに浮いているような物理世界では存在し得ないようなオブジェクトなのかもしれない。しかし、ディスプレイの手前に配置された3つのアクリル板があるために、白い正方形を直接見ることはできない。永田はディスプレイのなかでオブジェクトを重ね合わせて配置して、さらに、ディスプレイ手前の空間に3層のアクリル板という平面的なモノを挿入して、ディスプレイの内側に展開する部屋の情報の一部を外側に配置するかたちで、情報を二重化していく。その結果、ディスプレイの光から生まれる白い正方形がアクリル板に癒着して、ディスプレイの「こちら側」に引っ張り出される。永田はディスプレイの内側に実際に手を入れたわけではないが、3Dモデリングでの画素の適切な配置と3つのアクリル板の挿入によって、物理空間とディスプレイの映像とをつなげたのである。その結果として、ディスプレイがその手前のアクリル板とそのあいだの隙間空間にまで拡張していき、ディスプレイ周囲の空間がひとつの風景として立ち上がり、その最前面に白い正方形が見えるのである。

最後に、ディスプレイの前に磨りガラスを配置して、フレーム内の映像をぼかしている作品を見てみよう。磨りガラス以外にも、液晶ディスプレイのバックライトのように物理空間で蛍光灯が光っていて、ディスプレイの前後に観葉植物がひとつずつ配置されている。蛍光灯の光が、ディスプレイの斜め後ろに置かれた観葉植物に当たり、その影を白い壁に投影している。磨りガラスは映像の一部を多少ぼかしつつ、ディスプレイの後ろの観葉植物の輪郭を大きくぼかしている。磨りガラスの前に置かれた観葉植物は蛍光灯とディスプレイからの放射光に照らされている。ディスプレイに表示されている映像の背景はコンクリートブロックのような壁になっており、物理世界では一番手前に置かれた観葉植物がブロック塀の手前に配置されている。その観葉植物の大半を隠すように磨りガラスがあり、その手前に物理世界ではディスプレイの後ろにある観葉植物が置かれている。ディスプレイの映像と物理世界とでは観葉植物の重なり順が逆になっている。観葉植物は映像と物理世界とでふたつ置かれているが、どちらかひとつは磨りガラスの向こうに置かれることでぼやけた輪郭を示している。ディスプレイのフレーム内に磨りガラスのエッジは確認できるが、ディスプレイ手前に置かれた磨りガラスのために、そのエッジが映像にあるのか、物理世界にあるのかは判然としない。物理世界に置かれた磨りガラスとディスプレイとが重なっている部分は、ディスプレイの光によってそれほど映像がぼけていないため、一見すると磨りガラスがそこにないかのようにも見える。そのため、ディスプレイ手前に置かれた物理的な磨りガラスではなく、映像に置かれた磨りガラスが最前面にあるかのようにも見える。磨りガラスによる半透明の重なりとディスプレイの光によって、どことどこが重なっているのか、あるいは重なっていないのかが不明瞭になっている。

ディスプレイのフレーム内外の磨りガラスがその前後の空間をディスプレイという平面に癒着することを妨げている。映像には磨りガラスを基準にして平面の重なりが生まれ、その前後に置かれた観葉植物の隙間空間を強く意識させて、植物の重なり順が明確になっている。ディスプレイが置かれた物理世界では、ディスプレイと磨りガラスとが一部癒着したように見えているが、その癒着を示す磨りガラスは映像の磨りガラスである。物理世界に置かれた磨りガラスとディスプレイとのあいだには、それほど強い癒着が引き起こされていない。物理世界ではディスプレイ以外の空間のみが磨りガラスによる作用を強く受けているように見える。物理世界の磨りガラスはディスプレイの斜め後ろに置かれた観葉植物をぼかして、ディスプレイとのあいだにある空間を無効化する。そして、磨りガラスという平面にディスプレイと観葉植物とがともに癒着してしまっている。しかし、磨りガラスからはみ出て見える観葉植物の明確な輪郭が、ディスプレイの後方に植物が確かに存在していることを示している。磨りガラスからはみ出て見えるディスプレイの後ろの観葉植物がディスプレイの空間を後方に拡張する。同時に、磨りガラスの手前に置かれたディスプレイの空間を前方に引き伸ばす。ディスプレイを挟み込むように置かれた観葉植物がディスプレイ周囲の空間を確定して、ディスプレイの映像が示す空間をリアルの磨りガラスを基準線にしてひっくり返したような風景が物理空間につくられる。

リアルとヴァーチャルとが入れ替わり続ける風景

3つの《Inbetween》において、ディスプレイは最前面という特権性を喪失し、周囲に位置する金網、ネット、磨りガラス、色付きのアクリル板といった前面の平面に対して、最背面に映像が位置することになる。それでもなお、ディスプレイの光はガラス面を透過し、金網を通り抜け、アクリル板や磨りガラスを透過していき、映像を物理空間に放射している。これらの平面を光が通り抜けることで、光にそれらの平面がもつ情報が付与されていき、映像のリアリティがディスプレイのフレームを超えてその周囲にまで拡張される。このとき、ディスプレイのフレームが無効化されるわけではない。ディスプレイはその存在を確かに示しつつ、物理世界と映像との境界を明確に示している。けれど、ディスプレイの前に設置された金網、ネット、磨りガラス、色付きのアクリル板が、映像がもつ光の情報を二重化し、曖昧にしていく。それは、ディスプレイに表示されている映像とモノとの癒着が解かれて、その平面性が曖昧になっていくことを意味する。その結果、ディスプレイの前にあるモノが映像を取り込み、癒着していき、あらたな平面をつくる。ディスプレイが表示する映像がディスプレイの周囲に拡張していき、光とモノとの関係が多義的になって、ひとつの風景を形成していくのである。その際に、ディスプレイ手前で映像のようにみえるものがモノなのか、それともモノと癒着した光なのかを一意に決めることは難しい。「こちら側」にあるリアルなモノとしての情報と「向こう側」にあるヴァーチャルな情報という2種類の情報を持つような曖昧な風景になっているからである。この曖昧な風景は、ふたりの向かい合うヒトの横顔にも見えれば、白い壺にも見える「ルビンの壺」の反転図形のようなものである。ギブソンは反転図形に対して、「眼に達する光に含まれる情報に、相容れない2種類の絵画情報《pictorial information》があり、抽出する情報を観察者が一方から他方へと変える時、知覚は変化する。ある縁における奥行きを特定する情報(つまり、何が何を隠しているのかを示す情報)は、互いに異なり逆方向に広がる2つの奥行きを特定するように、入念に準備されている3」と指摘している。永田の3つの《Inbetween》も「ルビンの壺」のように、リアルとヴァーチャルとを特定する互いに異なる2つの情報を見る者に提供しているといえる。作品にリアルな「こちら側」を見るのか、ヴァーチャルな「向こう側」を見るのかを一意に決めることができない状況をつくるために、永田はディスプレイの手前にモノを配置して、映像を構成する光の情報を二重化しているのである。それは、ディスプレイの平面で癒着していた光とモノとを解きほぐし、ディスプレイ手前に配置したモノが構成するあらたな平面に癒着させて、それがリアルなモノなのか、光と癒着したヴァーチャルなモノなのかを決めることができない曖昧な状態をつくることである。そのとき、ディスプレイが表示する映像の光はカメラで撮影された際に癒着したモノとの関係を清算し、その手前にあるモノの平面とあらたに癒着していきながら、リアルとヴァーチャルとが常に入れ替わる風景を周囲に配置されたモノとともに形成しているのである。

完全に「こちら側」にありながら「向こう側」を示し続ける奇妙なディスプレイ

これまでの3つの《Inbetween》のディスプレイと異なるのが、4つ目の《Inbetween》におけるエアーキャップに包まれたディスプレイである。エアーキャップに包まれたディスプレイが映すのは、エアーキャップに包まれたカメラが撮影した映像である。言ってみれば、現在のディスプレイの状態をそのままフレーム内に表示しした映像になっている。そして、ディスプレイの映像全体を物理世界のモノが遮蔽しているものはこの作品だけである。エアーキャップは半透明であるから、ディスプレイの映像を見ることはできるが、全体を覆うエアーキャップのために映像は全体的にぼやけていて、説明を受けなければ、それが何を示しているかはわからない。また、このディスプレイだけが垂直にも、水平にも設置されずに、壁に立てかけるように木の上に置かれている。水平という重力を受け容れる体勢でもなく、垂直といった重力と対峙する体勢でもなく、重力のなかにディスプレイが単に置かれている。

3つの《Inbetween》はディスプレイ内外の光とモノとの重なりのなかで、映像の光とモノとの「分離と癒着」という手法であらたな風景をつくっていた。しかし、梱包されたディスプレイが放つ光はエアーキャップと癒着することができずに、エアーキャップとともにディスプレイそれ自体に癒着していく。このディスプレイはモノであることから脱しようと映像を表示しているけれど、それもまたそれ自体の現状を自己言及的に示すのみとなっている。梱包されたディスプレイには「向こう側」への逃げ場がない。しかし、平面が光り続けることによって、「向こう側」が存在する可能性を示唆しているのである。4つ目の《Inbetween》のディスプレイは確かに映像を示すために発光して「向こう側」が存在する可能性を示してはいるけれども、全体を覆うエアーキャップと映像で示されるエアーキャップとによって「向こう側」に至る回路を完全に削除されて「こちら側」の存在になっている。3つの《Inbetween》が映像のなかのモノを「分離と癒着」によって「こちら側」に引っ張り出す試みだとすれば、この《Inbetween》は同じ手法を用いて、ディスプレイ自体を完全に「こちら側」に引っ張り出そうとしたものになっている。その結果、エアーキャップで包まれたディスプレイは、最前面という映像を示すための特権的な位置に近い状態にありながらヴァーチャルな「向こう側」を明確に示すことなく、手前を覆うモノとの関係のなかで、リアルとヴァーチャルとが常に入れ替わるようなあらたな風景をつくることもなく、徹底的にモノ化されたリアルな存在として物理世界という風景の一部として置かれることになった。にもかかわらず、それはフレーム内の平面を光らせて、ひっそりと「向こう側」の可能性を示し続けている奇妙な存在となっているのである。

参考文献
1. 永田康祐、個展「Therapist」ステイトメント、https://docs.google.com/document/d/1odVQymCVrn9BX3Ndsxr9FSYJB6lK8ZQ68o5Ye-EEmOY/edit (2017/02/16アクセス)
2. J.J.ギブソン「絵画において利用できる情報」、『直接知覚論の根拠』、境敦史・河野哲也訳、勁草書房、2004年、pp.244-255
3. 同上書、p.251

写真提供: 永田康祐

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

シンセサイザー+バイク=? LOOK MUM NO COMPUTERが作り出す改造楽器と偏愛的実験的シンセサウンド

MASSAGE /

エレクトロミュージックが好きな方なら大量の配線を抜き差しし、ツマミをグイグイと回して変則的な電子音を作り出すアーティストの動画を一度は見たことがあるのではないでしょうか。それは電子音をいちから制作できるモジュラーシンセというシンセサイザーの一種なのですが、一旦その説明は置いておきます。今回はそんなモジュラーシンセサイザーを自作し、パフォーマンスをインターネットで拡散しているLOOK MUM NO COMPUTERというアーティストについてご紹介したいと思います。

26歳の彼はイギリス在住で、Zibraというバンドでボーカルをしながら、シンセサイザーを自作して演奏し、そのプロセスをYoutubeで公開しています。今までもシンセサイザーの演奏動画は「弾いてみた」系のキーワードと共に公開されてきましたが、彼が特殊なのはシンセをまったく異なる領域のマシンと組み合わせている点です。

その例のひとつがシンセバイク。そう自転車です。彼は自転車のハンドルやトップチューブにモジュラーシンセを搭載、車輪にも手を加え速度によってテンポが変化するように改造しました。

SYNTH BIKE 2.0 SYNTHESISER LOOK MUM NO COMPUTER

シンセバイクの解説動画:Synth Bike – In Depth

1999年に発売され、日本でも爆発的な流行になったファービーも彼の手によればコンテンポラリーノイズマシーンに早変わり。(動画前半が解説、後半が演奏)

How to sync a circuit bent furby to a synth video

モジュラーシンセのドラムパターンに合わせて悲鳴のようなノイズを発するファービー。魔改造されたファービーの姿が少し衝撃的ですが、既存のオブジェクトの破壊によって新しい音楽が再構築されています。

また、彼はシンセサイザーと生ドラムの即興演奏動画も公開しています。モジュラーシンセと生ドラムのライブセットは、リアルタイムに変化する複雑なモジュラーシンセの音の波と重厚なリアルドラムサウンドによって私たちを楽しませてくれます。

Look Mum No Computer LIVE Modular Synth And Drums

彼のようにシンセサイザーやおもちゃの回線を自分で改造することを「Circuit Bent」と呼びます。Youtubeだと約8年前から数多くの魔改造レトロトイのCicuit bent動画を確認することができます。とくに彼が面白いのは冒頭にも述べたように、自転車やダーツボード、ソーラーパネルといったほかのマシンとシンセサイザーを融合し、改造のプロセスを公開している部分だと思います。

DARTBOARD SYNTH – PLAYING MUSIC WITH A DARTS?
(最終的に手でダーツボードを押していますが、そこはご愛敬)

モジュラーシンセを配線位置から設計して制作するギークな彼ですが、Zibraというバンドではキャッチーで明るいシンセサウンドを作り出しています。

Zibra – Wasted Days (Official Video)

LOOK MUM NO COMPUTERのYoutubeチャネル登録数は約4400(2017年2月18日)。実験的で偏愛的で時にトラッシュな彼の活動を通じてエレクトロミュージックの面白さと奥深さをぜひ感じてみてください。

LOOK MUM NO COMPUTER
Youtube https://www.youtube.com/channel/UCafxR2HWJRmMfSdyZXvZMTw
Facebook https://www.facebook.com/LOOKMUMNOCOMPUTER/?hc_ref=PAGES_TIMELINE

(Text: 小松塚悠太)

プラハの〈Genot Centre〉より、Dane Lawのアンビエント・ハウス作品「r.bit」を体感するフライトゲームが公開

MASSAGE /

アルゴリズムを用いた手法でエレクトロニック・ミュージックを制作してきたプロデューサーDane Lawの、アンビエント・ハウス作品がプラハのレーベル〈Genot Centre〉よりリリースされ、続いてアルバムの世界観に呼応したゲームがフリーDLで公開されました。

ゲームの世界観から感じられるのは、スピリチュアルな宇宙の探索、生命とテクノロジーの関係、古典的な「人工知能」といった90年代に流行したテーマ群。いまVRの登場で息を吹き返しつつありますが、それらは当時多くの人々が夢見ていたコンセプトにほかなりません。実は今回のプロジェクトは、実際に90年台に活躍したUKクラブミュージック界の重鎮であるWilliam Orbitの商業的なアンビエント・テクノからインスパイアされたものだそうです。

リバイバルをコンセプトにした作品とはいえ、現代的な感覚を通過したその音響は今も不思議と新鮮に響きます。クラブミュージック的な没入感と覚めたような感覚がレイヤーのように重なり、シンプルな構造の中にも奥行きを感じられる作品になっています。

楽曲があえてコンサバティブな世界を作り出している一方で、ゲームの重力のない新しい空間を作り出そうという態度は対照的です。ユーザーはこの惑星のシステムを模した上も下もなく、始まりも終わりもない箱庭的な環境を探索していかなくてはなりません。シフトキーを押すと前進(これがわからず、最初ちょっと苦戦しました)。最初は無音ですが、あることをすると「r.bit」の楽曲が次第に聴けるようになっていきます。

開発はReaper Death Seal Corporation。Mac、Windowsで動作可能。さらにOculus riftとも互換性があるとのこと。是非試してみてくださいね。

Dane Law, “r.bit”
https://genot.bandcamp.com/album/r-bit
Gameのダウンロードは以下。
http://genot.cz/rbitgame.htm

The new horizon of online curation:
Interview with Manuel Roßner

ヴァーチャルギャラリーcermâからFloat galleryへ。
オンラインからアートと社会の関係の更新を探求する、Manuel Roßnerの新たな試み。

MASSAGE /
MASSAGE / Interview & Text: nukeme, Translation: Natsumi Fujita, chocolat, Goh Hirose

最初期のヴァーチャルギャラリーの一つとして2012年から2015年まで活動してきた“cermâ”が、名称をFloat galleryとして以来、はじめてとなる展示“Ultralight Beam”が公開された。
cermâのキュレーションでは、“What we call painting(私たちが絵画と呼ぶもの)”、”Act Natural(自然な行為)”など、オンライン空間での可能性を意欲的に模索してきた彼に、これまでの活動や、これからの社会との関わり方など、様々なトピックについてインタビューを行った。
オンラインギャラリーとは、どのような空間なのだろうか?
物質性が無くなることで、そもそも近年希薄になった「絵画」や「彫刻」といったジャンルの区別はさらに希薄になり、結局のところ、アーティスト本人が「どういう考えで制作しているのか」という、コンセプトだけが残る。
この空間では、絵画も彫刻も、ディスプレイの上で、質感を持った光になる。
この不思議な空間と、そこに在る作品を、これから何と呼ぶべきだろうか?

どのようにして“cermâ”を始めたのか、教えてもらえますか?

10年くらい前、15歳とかそれぐらいの時、3Dソフトで“カウンターストライク”っていうゲームとかそういうもののためのマップを作ってたんだけど、使い方はかなり限られていたから、「このスペースで何か他のことができないかな?」っていつも考えてたんだ。建築とか、映画とか、あとプランニングみたいなものにも使うことができるけど、でもやっぱりフィジカルな製作に関連したものになってしまう。それでそこでギャラリーをやることを考え始めた。その時が2012年で、時期的にも良かったね。その頃にはアーティストたちも3Dで作品をどんどん作り始めていたから、プロジェクトを始めることに決めたんだ。。

3Dソフトウエアはどうやって覚えたんですか?

ほとんど独学で。かなり若い時、15歳とかで始めたから、単にやってみたかったっていうか、できるかなって思っただけっていうか。でも今でもまだ勉強中。ソフトウエアの開発者の人たちがどれだけツールをフィジカルな世界に近いものに作っているかっていうことにはびっくりさせられるよ。

“cermâ”はゼロからひとりで?

そうだね、全部。正確にはアート作品以外は、だけど。最初の3つのエキジビジョンを行なったスペースはただ楽しむためだった。名前は“cermâ”から“Float gallery”に変えたんだよ。

“cermâ”と“Float gallery”ではどんなふうに違うんですか?

コンセプトは同じ。だけど、キャパを全部使っていないような気がしてたんだ。レギュラーのエキシビジョンはなかった、というか、そのための時間もあんまりなくて。でも今はもっとギャラリーにエネルギーを注ぎたいと思ってる。サイトのコンテンツをできるだけたくさんの言語に翻訳することも始めたし。それから、長く続けていくために必要だと思ったから、スポンサーも探してる。みんながアートを買ったりできる商業的なギャラリーをやることも考えてたってこと。今のところ、そのアイデアは採用されてないけど。

素晴らしいですね。“cermâ”に参加しているメンバーを紹介してもらえますか?

最初のショウでは自分自身をキュレートして、その次のは“SPAMM”、Thomas CheneseauとSystaimeを招待した。次の作品では、また自分でキュレーターをやるよ。それと同時に、今年の後半に上海のキュレーターと一緒に中国でショウをすることも考えてる。エキシビジョンに世界中からアクセスできるっていうことは違った文化に気持ちを切り替える良い方法だよ。

“SPAMM”のようなプロジェクトは90年代のネットアートに影響を受けているように思います。あなたには好きな90年代のアーティストはいますか?

“cermâ”を作っていた時は、むしろMarcel Broodthaersみたいなアーティストに興味があった。彼はほんとうにおもしろいと思う。60年代の後半に“Musée d’Art Moderne, Départment des Aigles”っていうのを作った人。

それはどんなアートなんですか?

現代アートの条件を反映させる実験なんだ。現代アートの美術館“Department for Eagle(現代鷲美術館)”に彼は力を入れてた。鷲はドイツ連邦共和国のシンボルで、例えば、ゴールドバーにも刻印されてる。だから、彼のコレクションの一部になった。その後、“Départment des Aigles”は破産を宣言して、彼はコレクションを売却した。もちろん金はとても価値があるものだけど、それは「芸術作品だから」じゃなくて、「金っていう素材だから」だったんだよね。もうひとつ彼が作ったのは、ベルギーのビーチでの作品。それは彼の美術館のフロアマップで、引き潮の間に作られた。彼はその写真を撮ったんだよ。海水がきたら、すべてが消えてしまう、彼が撮った写真以外は。オンラインエキシビジョンの場合、画像はあるけど、でもその場所は実際には存在していない。その場所は決して存在はしなかったっていうこと。そこに何か関連があると思ったんだ。

キュレーションはどのようにして始めたのですか? また、それはなぜですか?

最初のエキシビジョンは、“What we call painting(私たちが絵画と呼ぶもの)”っていうタイトルだったんだけど、「“私たち”は誰なのか?」と問いかける一方で、もう一方では「絵画とは何なのか?」という問いかけだった。その時、絵画に対してデジタルのアプローチをしているアーティストを探してて、Jeremy RotsztainとJeremy BaileyとAndreas Nicholas Fischerを見つけた。彼らはみんな絵画のアイデアに関連した、ある種おもしろいやり方をしていて。だから彼らを招待したんだ。「やあ、これどう思う? 何か出したいものはある?」って(メールで)聞いたら、彼らはイエスって言ってくれた。ほんとにわくわくしたよ!

あなたがやっているのはインターネットギャラリーですが、なぜ絵画を最初のテーマとして選んだのですか? 絵画といえばたいてい実際の絵のことで、バーチャルギャラリーと実際の絵というのは、ある意味反対のコンセプトのように思えますが。

その頃は、ふつうの芸術作品にもっと関連づけたかったんだと思う。それとホワイトキューブ(美術作品の展示空間)を使いたかったし。オンラインギャラリーではヴァーチャルになんでも使えるのにね。でも新しいやり方とアートの世界にすでにあるものの関連性っていうことに興味があったんだ。

絵画は一般的なもので、人々はそれを芸術と呼びますが、絵画は芸術の世界で最も一般的だということでしょうか?

そうだね、タイトルは「これが意味するものを行為にまで拡張できるだろうか?」と問いかけてもいたんだ、Jeremy Baileyと彼のブラシで。ブラシじゃないね、マウストラッキングだけど。「やあ、美しいキャンバスを作ったよ。すごい。もうブラシを洗ったりする必要はないんだ。消すたびに、また新しいものを作り出すことができる」って。昔からあるような絵画とはまったく違う。絵画を壊したら、永遠にはなり得ないよね。「見てよ、毎回何か新しく作り出せるんだ」みたいな。おもしろいよ。このテクノロジーのスタイルを頭の中に入れて古風なギャラリーに行ってみたら、すごく違うと思うね。そのギャップとそれをどうやってイメージするかっていうことに僕は興味があったのかもしれない。

タイトルの“What we call painting(私たちが絵画と呼ぶもの)”はある意味、チャレンジだと思うのですが、なぜチャレンジするのでしょう? あるいは、あなたのチャレンジとはどういったものなのでしょうか?

アートの世界の文化的な技術を、社会に焦点を合わせた新しい科学技術にまで拡張してみたんだ。みんな携帯電話ばっかり見ているけど、2012年のギャラリーで見ていたのはほとんどがキャンバスだったし、ギャラリーでは今もそう。もちろん、それはギャラリーのやり方で、フィジカルな絵は絶対にすたれてない。だけど、それと同時に、僕と、僕と一緒に製作しているアーティストたちにとっては、作品にデジタルツールを使うことがより自然だし、それをサポートする構造もあるべきだと思う。

新しい展示、“Ultralight Beam”について教えてください。そのアイデアはどこから来たのでしょう?

“Ultralight Beam”はホワイトキューブに対するある種のアンチテーゼで、美学。ソフトウエアエンジニアリングに基づいた考えで、クラッシックなギャラリーにアプローチしたんだ。だから、作品をひとつひとつ分離させる真っ白な壁の代わりに、強烈な色がそこにあって、その色でそれぞれ異なった要素を区別できる。それに加えて、クロムの柱があって、光のビームをより追いやすくなってる。そこには反射した壁からの色がはっきり写っているからね。最終的には、このコンセプトをまた別の場所にまで拡張したんだ、多摩芸術大学の伊東豊雄が設計した図書館にちょっと似たようなスペースに。あの図書館を訪れた時はほんとうに印象的だと思ったよ。

いろいろな空間が繋がれているのが興味深いですね。なぜ今回はホワイトキューブの空間ではなく、さまざまな場所を選んだのでしょう?

違った文脈の施設からもたらされる、こういった要素の力とそれが互いに干渉しないところを見たかったんだ。ホワイトキューブに関連したスペースに対する技術的なアプローチはもちろんだけど、プライベートなリビングルームやロココ様式のお城でも。ちょっとWi-Fiみたいかな、そこを越えるのに壁や歴史は関係ない。一方で、コピペができて、ある特定のスペースに合うかどうかを見ることができるのは、メディアの特殊性でもある。

あなたのギャラリーそのものがすでにアートだと思います。単にスペース、あるいはギャラリーだというだけでなく、アートプロジェクトのようですね。

そう、確かに僕もそういう考えで始めたんだ。「このスペースはなんだろう?」みたいなアーティスティックなアプローチで。商業的な意図や技術的な意図はなかったんだよ。

キュレーションをすることにおいて、物理的なギャラリーでやることとオンラインギャラリーをやることに違いはありますか?

もちろん、絶対にある。オンラインの作品をやるには、まずは場所は関係ないし、“(作品を)吊り下げる”のと“インストールする”のではまったく違うものがある。発送はしなくていいけど、映画の特殊効果を作るのにも似た製作過程を行なう必要はあるね。

ギャラリーだけでなく、オンラインでキュレーションを行なうというのはより可能性があると思います。キュレーティングはアート作品を集めること、編集すること、コンセプトとアーティストとしての心がまえを持ってステートメントを書くことを意味しますね。

そう、コンセプト的な部分は同じような感じだね。例えば、アート作品やトピックの選び方とか、どうやってそれぞれのピースを関連づけるかとかは、フィジカルなスペースと同じくらいだいじ。最終的には、テキストもとても重要になるんだ。テキストがあると、そのエキシビジョンをさらにまた別の意味にも解釈できるからね。

キュレーションとして、ほかにも何かオンラインでできると思うことはありますか?

アイデアはいくつかあって、次のステップにいくのが楽しみなんだ。準備ができたら、知らせるよ。

まだ誰もやったことがないようなことですか?

そう、たくさんあるよ。たくさんできる。ふつうは展示を作れないようなスペースで。これまでは存在しなかった新しいスペース、物理的には作れなかったようなものでさえある。

オンラインギャラリーは実際のスペースよりも有利な点が多くありますね。24時間いつでもアクセスできて、簡単に新たな部屋を作れて、継続して維持することができる、それに、運営するコストもかかりませんし。あなたはリアルのギャラリーよりオンラインギャラリーの良いところは何だと思いますか? 

色んな場所のたくさんの人たちに届けられること。ほんとうにいいと思う。もちろん、それを見るデバイスは必要だけど、たくさんの人がもう持ってるし、それに、エキシビジョンを見るために飛行機に乗る必要もないしね。もっとショウにアクセスしやすくするために、今サイトをたくさんの言語に翻訳しているところ。上海に行った時、中国人のアーティストに過去のショウの画像を見せたんだ。彼はすぐわかってくれたよ。3年とかそれぐらい前にもうそれを見てたからね。僕は予算があんまりない状態で始めたから、もしフィジカルの世界でやってたら、僕の作品を見てくれる人はもっとずいぶん少なかっただろうね。リアルの世界でも、例えば、ギャラリー地区で広いスペースを借りられたりすればいいんだろうけど。お金があったら、印象に残るような作品とかカタログとか作ることができる。それと同時に、インターネットはエンドレスで、ウェブ上のスペースは手頃な値段で入手できる。でもヒエラルキーはやっぱりあるけど。たぶんGoogleランキングがかなりだいじだね。それから、知覚に特定の性質がある。VRヘッドセットをつけていたら、加法的な色(中間色)のスペースにいることになる。基本的にどの表面も鮮やかで、それはフィジカルな場所では自然ではないことで。Mark Rothkoはどうやって結びつけたんだろうって思うよ。

さまざまなことがあいまいで、境界がないかのようになってきていて、何がアートなのか、何が(アートとしての)写真なのか、わからなくなっています。例えば、私たちがオンラインアートを購入する時、それはバーチャルなものですが、人々はそれにお金を払います。そういったことからも、アートの世界は過去の世界とは違ってきています。特に、インターネットアートは売るのが難しいですし、アーティストは長く続けていけるようなアートを作らなければなりません。この社会で生きて、仕事をしていくために、どのようにしていけばよいと思いますか? アーティストは日常的には別の仕事をする、あるいは、アルバイト的にアーティストをやっていかなければならないのでしょうか? 収益化すること、つまり、お金を作って、アート作品を継続的なものとするには、どのようにしていけばよいのでしょう? どう思いますか?

インターネットの初期のことを考えると、情報やアクセスを民主化するためにみんなたくさんの希望をそこに詰めていたんだなと思う。30年ぐらい経って、議論は大きく変わった。多くのお金が関わってきているし、情報を広げる可能性は状況によっては物議を醸し出すみたいだし。それはまた別の話だけど。僕が一番驚いているのは、公的機関がどれほどあやふやなインターネットの使い方をしているのかっていうことなんだ。すごく良い例もいくつかあるけど、オンラインのショウの素晴らしい可能性を無視してしまいながら、自分たちの壁に固執してる。それで、残念なことに、そこでは収益化が絶対に重要な役割を担ってるんだ。物理的なものを提供しないようすることも、限定的な方法で人々が作品を集めないようにさせてる。それが今日のアートの世界で知られてるような、ありえない価格のもとなんだ。こういった注目やスタイルや裕福な人々を拒絶することは、美術館の決定をする多くの人にとってはおそらく難しいと思う。トラッキングのソフトウエアで数を数える代わりに、リアルの人々に会って、彼らを頼ることも、きっとより満足度が高いだろうね。もちろん進歩もするし、人々は現代の自然な生活状況を反映した作品を製作するだろうけど。でも、どうしようもない。収益化の問題は特にアートの世界だけのことじゃないんだ。音楽業界や映画業界はもっとずっと長い間それを扱い続けてる。科学技術の発展にともなって、制作会社やサービス産業も自分たちのモデルについて考え直す必要があるよ。これから15年で40~60パーセントの仕事は機械がやるようになるっていうことが研究で言われてる。だから、デジタルアーティストの収入問題は社会全体で問われている問題のほんの一部分なんだ。可能性のある答えとしてはベーシックインカムかな……

スイスのような小さな国にはいい考えですね。

もちろん、スイスは特別な状況で、同じ状況の国はないだろうけど。大きなテクノロジー企業は世界中にあるから、彼らは経済をも変えていて、国際企業はこれまでのどの時代でもより重要になってる。

素晴らしいアイデアですけどね。

たしかに、まだたくさんの問題があるし、どうやって実際に実施するかについてさまざまな考え方もある。仕事や多くの心配事から解放するために、ある人の人生において重要な役割を果たしている給与が支払われる仕事をどうやって移行するんだろう? みんなただぶらぶらしていたくないよね? オートメーションに対する拒絶的なアプローチから生産的なアプローチに変えていくことは魅力的であるのと同時に、僕は避けられないことのように思う。日本ではどうだと思う?

オートメーションはいいのですが、今はオートメーションやそういうものを考え出した人たちだけがとても裕福になっています、IT関連の人たちのような。そして、そういった産業に携わっていない人たちは貧しい。貧困の差が広がっているんです。テクノロジーが発展してオートメーションが進んできても、その利益を得られる人は限られています。ですから、ベーシックインカムは良い考えかもしれないですね。

そうだね、僕がホテルを予約したら、その価格の大部分はオランダやカリフォルニアの会社にいくし、情報を検索したり、友だちに(メールを)書いたりしても同じ。多くのサービスがどんどんそういう方法で行なわれているけど、それは誰にとっても輝かしい未来のモデルだとは僕は思わない。他の人たちと一緒に働きながら、僕たちのフィールドで、この議論に直接的に意見を言うプロジェクトに取り組んでいるところなんだ。もうすぐリリースされるから、また知らせるよ!

Manuel Roßner
http://www.manuelrossner.de/

“Ultralight beam” is now online on www.float.gallery and at 1822-Forum, Fahrgasse 9, 60311 Frankfurt/M., Germany until February 25, 2017

Nile Koetting “Sustainable Hours”

アーティストNile Koettingが提唱するAmazon時代のレディメイド。
無機的なものの調和が作り出す、人なき世界の気配。

MASSAGE /
MASSAGE / Text: Yusuke Shono, Photograph: Yoshihiro Inada

Nile Koettingは「無機的なもの」を「身体」と水平線上に見る視点から映像・インスタレーション・サウンドアート・パフォーマンスなどの分野で活動する、神奈川生まれでベルリン在住のアーティスト。その彼が銀座のメゾンエルメスで開催中の異色の3名のアーティストが名を連ねる「曖昧な関係」展にてインスタレーション「Sustainable Hours」を公開した。

展示空間に並べられているのは、無線LAN、ダイソンの加湿器、スピーカー、時計といった現代的な製品たち。それらが各々の時間軸で稼働し、空間に見えない影響を与えていく。展示物はAmazonで購入したというまさに現代のレディメイドであり、今風にデザインされたプロダクツは発光するLEDを備え付けられ、高度な資本主義が削り出した現代彫刻といった雰囲気を醸し出している。レタッチされた広告写真を思わせる漂白された空間の中で、個性的な機械たちが発生させる光、音、香りが一日を通して変化し、環境そのものが全体として音楽のような有機的な体験を作り出す。持続した緊張を破るように、時折、電子的に合成された音声がさまざまな年代のパンクバンドの歌詞を朗読していく。

この展示の特徴は、展示物たちを稼働させているエネルギーが自然光から採取され、蓄電池から機械群へと供給されている点だろう。展示空間の中で完結するように設計された閉じたエコシステムの中で、無機的な存在は製造主の意図から解放され生命のような気配を獲得する。同時にそれは人間なしで機械たちが労働を続けるバイオスフィアのような、荒涼とした光景のようにも思える。

何もないことに美を見出す、すなわち無の肯定がパンクカルチャーの特性なのだとしたら、Nile Koettingが共鳴するパンクの空虚は人間が不在であるという点がとても独特だ。わたしたちは非人間的なものに美しさを感じることができるが、けして自分自身は身体を捨てることのできないという矛盾を抱えている。だから人間なき後のモノとモノの関係の調和は、とても奇妙な感覚を呼び覚ます。テクノロジーは人間を超えていくだろうという予感。そこに自分がいないことの孤独感、自立した子供の自立を味わうのに似た喜び。そしてそれらのアンビバレンス。

Nile Koetting
http://nileshaw.org

「曖昧な関係」展
会場:銀座メゾンエルメス フォーラム
住所:東京都中央区銀座5-4-1 8階
会期: 12月21日~17年2月26日
時間:11:00~20:00(日曜日は19:00まで、入場は閉館の30分前まで)
入場無料
http://www.maisonhermes.jp/ginza/