すべてを肯定する場所

urauny first solo exhibition

インターネット以降の感覚に応答する日本人アーティストuraunyによる初個展。テーマは「コンプレックスとポジティブに向き合う」。

MASSAGE /

ミニマルな色面構成や独特のタイポグラフィを用いた抽象的な作品で知られるuraunyによる初の個展が代官山のギャラリー懐美館で開催された。インターネット以降のヴィジュアル文化に独自に応答する日本では数少ないアーティストのひとりである彼が、今回選んだテーマは「コンプレックスとポジティブに向き合う」。

展示フライヤーでも使用されているような、肉体の歪さをポジティブに捉えたイメージと、同じく性を連想させるオブジェクトで構成されたインスタレーション展示となる。会場には、においやサウンドなどの目に見えない要素も展示の一部として用いられ、実際の空間でしか味わうことのできない体験を作り出した。内容が過激なためか、展示物が一部撤去されるなどのハプニングがあるも、無事乗り越えて展示は終了。クロージングでは、§+§による「液体」の販売も行われた。

facebookの日常の延長のような、風通しのよいインターネットの陰に隠れてつい忘れてしまいそうになるが、そもそもオンラインとは、人々の暗い情念や趣味が所々に島宇宙のように凝り固まった空間だった。かつての掲示板(例えばアメリカのgurochan)のような場所が、そうした一端を担っていたことを忘れてはいけない。今回の展示には、そうしたリアルな日常では出会うことのない裂け目に偶然迷い込んでしまったような、思考停止に似た感覚がある。無思考に欲望を追求した結果としての、意図せず到達してしまった場所。建前として保たれているような美学の枠組みが消え失せた時、その最後に残るのは、消費され尽くして抜け殻のようになってしまったイメージの残骸ではないだろうか。

その抜け殻こそこの資本主義の文化が生み出し、奇形化したイメージの成れの果てである。インターネットはそうしたものすら賞嘆する場所なのだ。

以下は展示に寄せられた宣言文の抜粋である。

「web or life
わたしは世の中の事柄を全て許している。
批判を受ける人間もまた人間であり、正義の相手は理解出来ずとももう一つの正義だからだ。
しかしそれは客観的に見た場合の話であり、あくまで存在を許すという話だ。
わたしにも主観があり、私の中の正義がある。
今回の展示はそんなわたしの中の正義である。
どうか存在を許して欲しい。
批判を受けようとも、わたしも人間だからだ。」

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urauny
http://urauny.tumblr.com

Gallery on Paper / Curated by MASSAGE
Fukin “Therapy”

デザイン誌『アイデア』で誌上展示“Therapy”を開催。

MASSAGE /
MASSAGE / Text: Yusuke Shono, Art Work: Fukin

3月10日発売のデザイン誌『アイデア』の特集「ポスト・インディペンデント・マガジン 雑誌づくりの現在形」にて、雑誌内雑誌企画に参加しました。MASSAGEキュレーションにより、紙上展示 “Therapy”を開催。アーティストFukinくんを迎えての、4ページにわたるイメージを構成しました。アイデアという雑誌の一部を間借りさせてもらえるということだったので、紙面をレンタルスペースとして捉え、勝手に展示を構成してしまおうというアイデアです。と、いうようなことをFukinくんに伝えて出来上がってきたのは、想像もしていなかった方向性の作品でした。

実際のイメージは雑誌を手に取っていただくとして、それをもとにオリジナルの動画(!)をつくってもらうことができたので、こちらに掲載しておきます。今回はデザイン誌での企画ということで、きっとその文脈から見てくれる人が多いのかなと思います。そういった人たちが、どういった感想を持つのか気になるところです。

デザインとかアートとか、そういった文脈以前のもっと取るに足りない感覚、ふとしたときに気づくような、多分次の瞬間にはもう忘れ去ってしまうような、そんな感覚は誰にでもあると思います。日常を生きていると、そういった感覚の突起物のようなものは、なだらかに消えてしまう。そういう非言語的な現象を増幅して、平面でも、立体でも、拡大して標本のように見つけやすくしてくれている。Fukinくんのような、名状しがたい作品についての面白さを言葉にするなら、そういう感じになるのかもしれません。ぜひ、この機会に実物を手に取って見てもらえたら嬉しいです。

『アイデア No.373』誠文堂新光社
国内外の18の雑誌が、4ページを自由に制作、合綴。主張も動機もそれぞれ違うマガジンには、インターネットとは異なるコミュニケーションを志向する姿勢の同時代性がある。カスタムTシャツやオリジナルモバイルケースをつくるように画像をアップロードするだけでZINEをつくることも可能な時代。資金を集め、写真や原稿を依頼し、デザインをして、自ら雑誌を創刊する行為は、それ自体が特別な主張である。

http://www.idea-mag.com/idea_magazine/373/

水野勝仁 連載第0回 モノとディスプレイとの重なり

「ポストインターネット」が設定したクリティカルな状況

Masanori Mizuno /
Masanori Mizuno / Text: Masanori Mizuno, Title Image: Akihiko Taniguchi

「ポストインターネット」とは何を示しているのだろうか。「ポストインターネット」はオンラインとオフラインを等しく考えるあたらしい価値観を示す言葉として、アーティストで美術批評家のマリサ・オルソンが提起したものであった1。しかし、現在では単に「インターネット以後」に起こっていることなら何でも指す言葉となり、アートの世界では少しでもコンピュータやインターネットに関係した作品ならば「ポストインターネット」と呼ばれる状況になっている。「ポストインターネット」はこのままバズワードとして消費されていくのであろうか。

私は「ポストインターネット」はインターネット以後の価値観を示すバズワードではなく、ヒトの進化に関係するクリティカルな状況を設定した言葉だと考えている。「進化」という言葉を持ちだしたけれど、「ポストヒューマン」というもうひとつの「ポスト」を言いたいわけではない。私は「ポストヒューマン」という想像力に一足飛びに移る前に、「ポストインターネット」という状況がヒトの認識にアップデートをかけていると仮定してみたいのである。本連載の目的はこの仮定のもとで、エキソニモ、谷口暁彦、永田康祐、THE COPY TRAVELERS、アーティ・ヴィアーカント(Artie Vierkant)、ジョン・ラフマン(Jon Rafman)、ルーカス・ブレイロック(Lucas Blalock)、レイチェル・デ・ジュード(Rachel De Joode)、トロイカ(Troika)らの作品の考察を行い、ポストインターネットに関連する作品の詳細な記述を残すことにある。今回のテキストは連載の枠組みを示すために書かれたものである。

見ることはもはや信じることではない

アーティ・ヴィアカントがエッセイ「ポストインターネットにおけるイメージオブジェクト」2で指摘しているように、インターネットはモノとディスプレイに映るイメージとの関係に変更を加えた。「ポストインターネット」とカテゴライズされる作家たちは、このモノとイメージとのあいだにおきた変化にいち早く意識的になり作品に反映させていった。その結果として、モノがインターネットに取り込まれて、インターネットを前提としたモノのあり方を示すような作品が多く発表された。それらの作品はディスプレイに示させるイメージと物理世界に存在するモノとの境界に揺さぶりをかけるものであった。そして、モノとディスプレイとが重なりあうところにモアレのような現象が起きて、ディスプレイが示すモノの存在が物理世界のモノのあり方に影響を与えて、ヒトの認識にアップデートを仕掛け始めている。例えば、デジタル以降のモノのあり方を探った『Postdigital Artisans』の「サーフェイス」の章扉には以下のテキストが書かれている。

スクリーン上で果てしなく変形し続ける能力が、日常の私たちのマインドに波及してきた。静的でソリッドである代わりに、オブジェクトはかたちを変え続け、ネットワークで結ばれるようになった。私たちの眼の前でサーフェイスは変形し、見ることはもはや信じることではないのである3

デジタル/インターネット以後のモノはディスプレイ上だけでなく、物理世界においてもそのかたちを変え続けるものとなりつつあるというのはまだ言い過ぎだとしても、ヒトはモノをそのように認識し始めている。その前提としてディスプレイが高精細化して「レティナ=網膜」という名前が与えられた状況がある。ディスプレイに表示されているのは「モノ」ではなく「イメージ」だろうと言われるかもしれない。確かにディスプレイに映るものは「イメージ」と呼ばれてきた。しかし、ヒトの網膜がディスプレイに映るイメージを「モノ」としても認識するような状況が、もうひとつの「網膜」としてのレティナディスプレイによって明確に設定されつつある。高精細ディスプレイの登場によって、イメージはイメージでなくなり、モノはモノではなくなりつつある。

そうは言っても、モノはモノとしてソリッドな状態で物理世界に存在していて、パラメータを操作することでそのかたちや見え方を変えられるディスプレイ上のモノとは全く異なる条件下にある。けれど、物理世界とディスプレイとがそれぞれモノに与える条件は徐々に相互浸透していき、モノはいずれ今までの意味でのモノではなくなっていく。その途上でモノとディスプレイとの重なりが生まれ、ヒトのマインドが「見ることはもはや信じることではない」という状態に再設定されているのが、ポストインターネット的な状況と言えるだろう。「見ることはもはや信じることではない」ということはデジタルイメージにおいては特に目新しものでもないけれど、コンピュータやインターネットはこの状況をモノにまで拡張することで、ヒトの認識にアップデートをかけ始めている。インターネットで世界が変わり、モノがモノでなくなっていくならば、ヒトの認識も変わらなければならないのである。

次回は作品を考察していく準備として、インタラクション研究者の渡邊恵太の『融けるデザイン』で提示される「データの具現化」という現象と美術批評家のgnckの「画像の問題系 演算性の美学」で示される「理念的なピクセル」という設定から、ポストインターネットにおけるモノとディスプレイの重なりを考えていく予定である。

参考文献・URL
1. Regine Debate, Interview with Marisa Olson, We Make Money not Art, 2008 (2016.2.20 アクセス)
2. Artie Vierkant, The Image Object Post Internet, 2010 (2016.2.20 アクセス)[アーティ・ヴィアーカント「ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト」美術手帖 2015年6月号,美術出版社]
3. Jonathan Openshaw, Postdigital Artisans: Craftsmanship with a New Aesthetic in Fashion, Art, Design and Architecture, Frame Pub, 2015, p.111

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

機材拝見 食品まつり
a.k.a foodman
後編

食品まつりさんインタビュー後編。ジュークとの出会いから、
日本ジュークシーンの形成、その独特のジューク観まで。

MASSAGE /
MASSAGE / Text: Yusuke Shono, Photo: Ryosuke Kikuchi, Assist: Noriko Taguchi

手法を変化させ続けることにより、フレッシュなままに音を作り続ける。そんな食品まつりの制作観は、このフリーフォームなインタビュー会話にも表われていた。どこまでも身軽で、多分目に入るものをすべて吸収してしまうような貪欲性、たぶんそこに形を与えるためのセンス。それらがフラットに彼の中で結びついて、これまで聴いたことのなかったようなオリジナルな楽曲を生み出し続ける。だからそれはいろいろなものに似ているけれど、そのどれとも違うものになっている。そんな彼の制作環境について聞いたインタビュー前編に続き、ここでは少し時間を巻き戻して、名古屋在住時のジュークとの出会いから始めたいと思う。インタビュー後編は、彼の制作のルーツであるジューク観について聞いていく。

名古屋出身だそうですが、どうして横浜に住むことにしたんですか?
Dommuneで「ジューク解体新書」を見たことがきっかけで、ジュークを作りたいと思ったんです。最初はSNS上で、Booty TuneやLEF!!! CREW!!!の人たちと繋がって。それがきっかけで、名古屋以外にも住んでみたいって思うようになって。横浜ならLEF!!! CREW!!!のメンバーやPAISLEY PARKSいるし、行ってみようかなと。来てよかったです。皆さんバイブスが高いっつうか。

Dommuneの「ジューク解体新書」は2011年でしたよね。トラックは、そこからつくりはじめた?
ずっと音楽は好きなんですけど、ま、ちょっとつくってみよっと思って。それまでは制作はしていたんですけど、表立ったリリースをしたことがなくって。録音して、それがどんどんたまっていくだけ。それでジュークをつくって、アップしていたら、反応が返って来るようになったんです。思い起こせば、2012年のジュークのSNSの盛り上がりが結構やばかった。北海道にジュークをつくっているやつがいるよとか、広島にひとりいるらしいじゃんとか。なんか捜索みたいになって。

それでジュークを作っていたトラックメイカー同士が繋がっていったと。
それでみんな繋がっていった。今の日本のジュークシーンは完全にSNSですね。ずっと音楽やってて、あるジャンルがはじまる瞬間みたいなものってなかなか体験できない。その音楽が根付く瞬間に出会えてるっていうことに、ものすごく興奮した。こんな経験って音楽やっててできると思わなかった。そこにみんな熱いものを感じたんでしょうね。

そのSNSからジュークのコンピが出来上がるわけですが、その経緯はどんなかんじだったんでしょうか。
「Bangs & Works」っていうジュークのコンピがあったんですけど、CRZKNYさんや、Booty Tuneの秋岡さんが、ツイッター上でその日本版が作れたらいいねっていうような会話になって。そこからメンバーを募集していって。募集したら結構な人数が集まりました。40人くらい。バックグラウンドも色々な人達がジュークやばいって思って、それぞれ思うジュークをつくった。それがまた楽しくて。

なるほど。
それで日本のジュークって、自分の解釈で勝手にやっちゃってるから、不思議なものになってる。結果的に本場のジュークとは違うかたちになってるのが、おもしろい。Rolling Stones誌にも日本のジューク/フットワークが取り上げられたんですけど、そういう部分を面白がってくれているのかなって。

最初のアルバムのリリースは、2012年の〈Orange Milk〉からですよね。
あれもサウンドクラウド経由で連絡が来て。ジュークっぽい曲をいくつか上げてたんだけど、レーベルのKeith Rankinってやつが、これリリースしようよってメッセージが来て。ジュークじゃないんだけど、ジューク的なものが確実にあるよねって。それが、外国の人に伝わったってのが嬉しかった。ジュークじゃないんだけど、感覚的なジューク。

そのリリースを経由して、海外の人にも知られていくという流れですか?
それがTiny Mix Tapesで紹介されて。それからちょくちょく声かけてもらって、リリースするような感じになりました。たぶんあの頃、フットワークのダンスミュージックじゃない方のおもしろさを、注目してた人がいたんでしょうね。リスニングとしてのフットワークというか。そこから結構聴いてもらえるようになって。〈Orange Milk〉のSeth Grahamは日本語を結構しゃべれるんですよ。元々関西にいたらしくて。それでやりとりができた。

これまで作った音楽はずっと温めていたけれども、ジュークと出会ったことで、やっと外の人たちに聴いてもらえる形になったんですね。
それまでは、全然反応がなかった。ジューク聴いた時に、それまで自分がつくっていた音楽に考え方が似ているものを感じて、親近感がわいたんです。ジュークだったら、俺も何か表現できるかもっていう。それまでは、ちゃんとしている音楽への劣等感があった。でも、ジュークを聞いた時に、ちゃんとしなくていいんだってわかったんです。実際はちゃんと考えてつくってるんですけど、わりと感覚だけで作ってもいい。そこからジャンルも関係なしにやればいいって。そういうやり方でも、ジュークとして聴いてもらえるのが嬉しかったんです。

ジャンルと出会ったことでジャンルレスになったっていうのは、面白いですね。
ジュークからメッセージをくらったじゃないですけど、そこからより一層やろうっていう気持ちになった。ジュークじゃない曲もあるんですけど、個人的にはジュークの発想が自分の中にある。

自由度が高い音楽とはいえ、一方で、ジュークっていうジャンルを成り立たせている要素もあるわけですよね。それについてはどう思いますか?
例えばダンスミュージックだと、だいたいどのジャンルでもフォーマットがありますよね。テクノの4つ打ちとか。ジュークって、キックの置き方とか、スネアの置き方とか、一応こういうサウンドみたいな枠組み。ただジュークは、その許容範囲が広い。本来ならこう来てこう来るだろうというのが、来なかったりする。パターンがない。あと、弾き語りとかでもジュークを感じる時がありますし。
 俺、最初にジューク聴いた時に思ったのが、初めて機材を買って音を出して、自分が作った音だって感動するじゃないですか。その時の感じがそのまま残ってるなって。ある程度やっていくと洗練されがちなんですけど、洗練されていない状態のまま高みに上っていってる。ダンスミュージックというより、宅録遊びのような楽しさ。自由な感じというか。ジュークはシカゴのものだけど、そういうふうに各自が過大解釈してもいいっていう気がしてて。

実際、シカゴからの反応ってあったりするんですか?
シカゴの人って、俺らは俺らみたいな感じがあるから。たぶんあまり他の国のジュークをそこまで聴かないんじゃないかな。自分たちで勝手にやばくなって行っているイメージがある。だから逆に、そういう人の反応は聴きたいですよね。RP Booなんかが、自分がリリースした曲をいいっていってくれたらしいんですけど。どうなんだろう。自分が作ったものを、シカゴの人達も取り入れてみようみたいになったらいいなとか思いますね。ライバル心ではないですけど、そういう気持ちはありますね。だから俺、シカゴのジュークはあんま聴いてないです。

えっ、ほんとですか。
聴かないことでリスペクトするというか。同じことをやっちゃいかんなって。逆に、インタビューとかには影響を受けます。

ジュークにも踊るっていう機能性の部分があるじゃないですか。ダンスミュージックなので。やっぱりその機能性の部分は意識しませんか?
確かにダンスのことは、たまに考えるんですよね。頭の中をぐちゃぐちゃとするイメージ。脳のしわとしわをこうフットワークのイメージにからませるというか。あと、作りながら指で踊りを真似してやったりとか。この音で踊ったらどうなるんだろうなって。
 でも、踊れる踊れないっていうことについては、昔から疑問に思ってて。何をもって踊れると言ってるんだろうって思う時がある。踊ろうと思えば、無音でも踊れる。たとえば低音がまったくない音で、踊りに行ったらやばいみたいな感じ。実際に、そういう経験ありますよ。ポクポクポクって音だけで踊ったら、いけないことをしている感じがして。こんなことしていいのかなって(笑)。

おもしろいですね。食品さんのジュークを聴いた時の衝撃は、低音があまりないっていう部分でした。
それは嬉しいですね。最初に一番食らったジュークは、ラシャドの「Reverb」だったんですけど、たまたまノートPCで聴いていたので低音がぜんぜん聞こえなかった。聴こえた音にすごく共感したんですが、そんときはジュークで低音がどうとか高速ビートがどうってのに反応したわけではなくて、そことは違う部分に反応してた。音の並び方というか。音楽の聴こえ方って、それぞれ違うはずで、みんな同じ聴こえ方してるはずないだろうと。俺は俺でこういう聴こえ方してるんだから、それはそれでいいんじゃないかって。

食品さんの音楽性って、なかなか一言で伝えるのが難しいんですが、今日もお話ししていて、奥にルーツが何本かあるのかなという気がしました。
すぐ影響を受けるタイプなんです。いろんなことを、バラバラにやっちゃってた。それがジュークでまとまったみたいな。ジュークが方程式みたいに。すべてがジュークで説明できたみたいな。そういう感じがあるかもしれない。

曲ごとに全部コンセプトが違うのに、バラバラな印象は全然ないです。
それはありがたいですね。飽き性ってのがあるんですよね。1曲つくってる途中で飽きたら次の曲つくってみたいな。同じジャンルをつくるのは苦手なのかもしれない(笑)。

食品まつり aka foodman
2012年にOrange Milkよりデビューした、横浜在住の日本の電子音楽作家。シカゴ生まれのダンスミュージック、ジューク/フットワークに刺激を受け、作品を作り続けている。 https://soundcloud.com/shokuhin-maturi

Dirt on Tape Vol.02

カセットテープコレクターDirty Dirtがマンスリーでお送りする、連載第二回。
カセットテープに関するあれやこれやをご紹介します。

Dirty Dirt /
Dirty Dirt / Text: Dirty Dirt, Title Logo: ancco

前回は、UKで現行のカセットテープの流れを引っ張っている〈Where To Now?〉についてかかせていただきましたが、今回はUSです。あちらは現行なシーンとは関係なく、エクスペリメンタル、インディ、パンクなどさまざまなジャンルで数は減っても地下では出され続けてはいたので、現行のシーンとの線引きはすこしむずかしいけれど、いまの流れにつながって、引っ張るレーベルのことを。

USでは〈Orange Milk Records〉がずっとすばらしい。2011年発足、当時Tiny Mix Tapesでライターとしても活躍していたGiant ClawのKeith “Kawaii” Rankin、そのKeithとのCream Juiceというユニットでも活動するSeth Grahamのレーベルで、Giant Clawがおととしに人気なので、知っているかたもおおいのでは。でも、ここはカセットテープがずっとすばらしいんです。はじめはSean McCannHobo Cubesなど、当時のエクスペリメンタルなものをだすレーベルとおなじならびというイメージがありました。といっても、ドローンやサイケデリックなシンセのというよりもすこしひねくれてはいましたが。カセットテープを中心に自身のレコードなどもときおりリリースしながら、2013年。

なんといってもカセットテープといえばな、〈Tabs Out〉。その月よかったカセットテープを流すポッドキャストに、購読者のみへの限定なカセットリリース、そして2015年の1年のあいだにきいた現行のカセットテープは1000本を越えていてと、世界一な現行カセットテープの情報量とカセット愛がつまったところなんですが、そこの2013年年末リストでCream Juiceが1位に選ばれ、おなじ年にリリースされた食品まつりもおなじくカセット界隈各メディアにとりあげられていてと、そこからこのレーベルの勢いがついた気がします。

2014年にはGiant Clawによる “DARK WEB” が日本盤もでるほどの人気に。その印象がつよいので、どうしてもインターネット的なという並びで語られがちだけれども、Keith本人は新作からもわかるように根っからのシンセシストだし、Sethは立体音響コラージュとアンビエントで、あたらしい音楽への探究心を反映しながら、彼らのポップミュージックへの愛、そのバランスが絶妙なリリース群で。

2015年は主宰のふたりそれぞれのソロ作品にくわえて、食品まつり aka FOODMANのこれまでのおいしいところが選び抜かれた “COULDWORK”、ライターでもあるオーストラリアの立体音響ニューエイジからネオンまたたくシンセにビートにといまな音楽をこれでもかとうまく整理し完璧にしあげたNico Niquo、本人自体も熱心なカセットテープコレクターであるドイツのニューエイジ作家Gora Sou、ヴェイパーの蒸気を振り切るかのような熱いディスコミュージックTendencies、変異ジューク/フットワーク女子Machine Girlなど、国もジャンルもさまざまだけれど、どれも実験性とポップな要素を併せ持っていて、主宰者たちの意志がみえるところがよいです。

Bandcampのならびをみると、統一感があり、SethとKeithがそのほとんどを手がけていて。こういうのもたのしいところで。最近ではもうすぐリリースな〈DFA〉からのGuerilla Tossのアートワークなどほかのレーベルのアートワークも担当していたりと、Keithはそちらでも活動の幅を広げています。おなじころに活動していたUSのレーベルがリリース数を減らしてきたり休んでしまったりするなか、彼らは休まず、軽快にリリースしてゆくさまと、どんどんと更新してゆくかんじはすばらしいです。

そしてことしの2月にはKeithとおなじくライター出身なDJWWWWと、JESSE RUINSのSakuma NobuyukiのソロCVNをいっしょにっていう日本のかっこいいところをなぜ知ってるのかっていうかんじのリリース。Sethのほうがむかし日本に住んでいたことの影響もあるんでしょうか、Keithともどもな日本への愛。そろそろ日本へきてください!

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2月にきいたカセットテープのなかで、いくつかよかったものを。

Angels USA “XILF:STIKKLEMUZICK” (Hundebiss)
https://angelsusa.bandcamp.com/album/xilf-stikklemuzick

Esra PadgettはChicklette(きょねんのカセットはわたしのなかベスト1でした)として、Mark IosifecuはFarewell My Concubineとして、おたがいソロ活動をはじめてもう解散かとおもっていたら、ひさびさの復活です。ラジオのショーという体裁で、おたがいに声色かえながら朗読、トツゼンすぎる歪んだギター、変異電子音の飛び交いに、また朗読なやりとりが。あまりにぐだぐだで、A面で止めてしまおうとおもうも、B面になると慣れてきたのか、たのしくなってきてしまいます。誰かしらがふざけて録音したカセットテープを拾ってきいてしまったかんじで最高です。

Micromelancolié “Low Cakes” (Speaker Footage)
http://speakerfootage.bandcamp.com/album/low-cakes

デンマークのアンビエントを主にだしているPhineryがはじめた姉妹レーベル〈Speaker Footage〉。きょねんからことしにかけてかなりの本数を出していて、その人選もよいんですが、Micromelancoliéはアンビエントなイメージのひとだったんですが、いつのまにやらフットワークに、スクリューにコラージュなかんじに変化していました。さらにNico NiquoRKSS、Ovis Aurumといまのカセット界隈でおもしろいひとがリミックスで参加していて、そちら側もかなりたのしいです。

Ekin Fil “Heavy” (No Kings)
http://nokings.bandcamp.com/album/heavy

イスタンブールのEkin Üzeltüzenciによるドローンフォーク。けっこう活動も長く、Grouperっぽいっていってしまえば説明がついてしまうんですが、その靄の濃さ、声とギターとノイズのバランスが年々深くなっていってます。No KingsのJカードのリゾグラフ印刷がカセットレーベルのなかでいっとうといってもよいくらいにうつくしいので、ここのはぜひひとつもので買ってみてはとおもいます。

Ariisk “Mode Bionic” Nostilevo
http://nostilevo.bandcamp.com/album/mode-bionics

現行ノイズを代表するLAのレーベルから、Rolan VegaによるAriisk。暗闇のなかミニマルに響くシンセと、このレーベルにぴったりながびがびに腐食したヴォーカル。Instagramなど、アートワークもサイバーなかんじがあって、かっこいいです。ライブではゴス感あふれる女子も参加しているようです。

Ondness “Quase Driven” (Segrave)
http://seagrave.bandcamp.com/album/quase-driven

Where To Now?〉がUKレーベルの表の顔なら裏側はSeagraveな印象で、そこからリスボンのOndnessがリリース。フィールドレコーディングやサンプリングに電子音が沈殿してゆくアンビエントな印象でしたが、フィールドレコーディングの重なりの靄が濃ゆく、その靄をコラージュのような電子音が悪夢的にかきまわしてて、かなり攻めてきています。このひとはたくさんなレーベルから多作なのでことしもたのしみです。

Dirty Dirt
現行のカセットテープコレクター。2015年は450本購入。カセットテープに関するブログ、zine、雑誌への寄稿、たまにカセットDJなど、現行のカセットテープのことならなんでも。 http://dirtydirt2.blogspot.jp