iPhoneやiBookの形状をガラス素材で制作した「GlassPhone」「GlassBook」。ルーターやハードディスクの表面に謎めいたテキストをプリントした作品群。それらは単体のアート作品として制作されると同時に、日常に置かれた写真作品として記録される。画像へと変換された彫刻作品は、ネットという特有の空間において流通することで、その存在を非アートの領域へと溶け込ませる。その変換は、彫刻に伴う「重さ」を消し去ろうとするかのようだ。テクノロジーが作り出すさまざまなイメージ群と、それが及ぼす影響。それらを反映させ、また解体しようとする。イメージと彫刻の関係性の戯れに身を委ねるかのような、そんな彼の独自の制作スタイルを探ってみた。

あなたのバックグラウンドを教えてもらえますか。

ドイツに住んでいて、ドレスデンのアートアカデミーでファインアートや彫刻を学んだんだ。アートは僕がやれる唯一のことだし、やりたいと思っているただひとつのことだね。と言っても、スタジオに毎日行く必要はないけど……でも、日々アート制作については意識的であろうとしているよ。プライベートと作品づくりの間には、境界がないんだ。それはつまり、スタジオと呼ばれている場所に身を置いて、キャンバスや彫刻の前でアイデアをひねったり発想するという、椅子に座ったステレオタイプなスタイルではないということ。僕自身や僕の作品で重要なのは、地域や地形に制限されず、できるだけ自由にフレキシブルであることなんだ。陳腐に聞こえるかもしれないけど、僕個人にとってそれが気分の良いことだね。たとえば、作品を作り展示するという行為についてグローバルに活動するのは簡単になっていると思うし。

Web上の作品からの想像ですが、2008年の作品「TheNewromanzer」から比べると、それ以降はコンピューターの文化を意識した作品になっているように思えます。こうした方向性のきっかけはありますか。

それ以降も、数多くの作品を制作してきたけど……そうだな、2011年の「Cut」という作品がきっかけと言えるかな。作品展示の前にかなりの量のコレクションを集める必要があって、つまり彫刻はとにかく広いスペースが必要なんだ。なぜ、僕が自分の制作の比重をインターネットに移すようになったかという理由のひとつは、さっき言ったことがそうで。それに、A地点からB地点まで重たい物体を引きずって、嫌になるほど積み重ねあげていく作業にうんざりしたんだ。最終的に彫刻作品をスタジオの壁へ立てかける前に、インターネット上のどこかへ保管したり、どこか特別に保管する場所を設ければいいと考えたんだよ。それとは別に、インターネットの膨大なポテンシャルは、自分の作品の保管場所や展示スペースになるし、作品のインスピレーションの源泉にもなるって発見したんだ。もともと、僕は子供向けのSF映画やコンピューターゲームにハマってきたし、それ以降は自作のエレクトリックミュージックの方が、絵画のような山々や神聖な建造物、美術館の展示物より好きだったということもあるね。

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「GlassPhone」や「GlassBook」はモチーフとして、私たちの身近になったテクノロジーを象徴する二つのもの、スマートフォンやノートパソコンを強く連想させる立体作品ですが、このモチーフを選んだ理由はコンピューター文化への興味を反映しているのでしょうか。

そう、もちろん! スマートフォンなどのデバイスは、僕をエキサイトさせてくれるよ。そして、僕の制作活動を変えてきたし、今も変えているツールなんだ。コンテンポラリーのアーティストとして、このデジタルなコスモスを絶対に無視することはできないね。この現実世界に僕は生活し制作を行っている。その中で、自分の仕事や作品のパートとして「デジタルカルチャー(デバイスやインターネット、Tumblr、Tinder等)」を扱っているという感じだな。

「GlassPhone」や「GlassBook」の素材はガラスですが、実際のiPhoneにも表面にガラスが用いられていますよね。あなたはガラスに素材としての魅力を感じますか。あるいは、単にコンピューターの非物質性に関する比喩でしょうか。

そう、「GlassBook」を作るよりも前から、素材としてのガラスには長いこと惹かれてきたんだ。美的な観点からも、ガラスはとても美しい素材だし。また、ガラスとコンピューターとの関連性の明確な理由としては、その透明性や物質感の無い物体の中で、複雑な事物やコンテンツが結びつけられている点が挙げられるね。また、僕はあまりに大量な情報やシェアするデータ量の膨大さにうんざりしていたんだ。それで、空白に満たされていて何も無い、同時に僕達の世界をそのまま見せてくれるオブジェを作りたいと考えたんだよ。コンピューターは尽きることのない可能性を持ち運べるものだけど、それを使う人がいなければ、空っぽな存在だ。そう、コンピューターそれ自体では何もできないわけで。でも、すでに存在しているものでもある。僕は複雑で多機能なツールであるということと透明性があって存在感もあるということに制作のアイデアを得たんだよ。

僕はあまりに大量な情報やシェアするデータ量の膨大さにうんざりしていたんだ。それで、空白に満たされていて何も無い、同時に僕達の世界をそのまま見せてくれるオブジェを作りたいと考えたんだよ。コンピューターは尽きることのない可能性を持ち運べるものだけど、それを使う人がいなければ、空っぽな存在だ。

「TXT on Devices」は「TXT work/Pro Work」とつながりのある作品ですね。使用されているテキストは同じに見えますが「TXT work/Pro Work」が「TXT on Devices」という作品に発展したと考えてよいのでしょうか。

そうだね。テキストは、所々同じものだよ。テキストの制作を始めたばかりの頃は、たとえば詩のようにテキストそれ自体が作品だと思っていたし、なんと言うか、完全に独立した表現メディアだと考えていたんだ。

僕はテキストについて絵画やモチーフのようだと考えていて、自分のアート制作の実践として試みていたんだよ。もともと制作したテキストは、キャンバスにプリントしていて……さらにほかの文脈のレイヤーを加えるために、コンピューター等のデバイスにテキストをプリントしたというわけだね。

書かれているテキストの制作方法についてですが、このテキストはコラージュでしょうか。あるいは、詩のように完全な創作物として書かれたのでしょうか。

テキストは、僕が描いた絵なんだ。作家が文章を書くようにね。本来のやり方とは全く異なった方法ではあるけれど、僕にとってはナチュラルなことだよ。人がテキストを目にした時は、いつも何らかの情報だと感じてしまう。言葉の並びを内容のあるものとして扱う……それを止めることはできない。その事態が僕を魅了するんだ。もし今、あなたが不可解で大量な情報を目にしたとしたら、抽象的な、アブストラクトな感覚を抱くと思う。僕のテキストでは、何か良くないことの予兆のような、疲労感というか脱力感のようなものをクリエイトしたいんだ。


アラビア語や中国語を使うことにはどういう意図があるのでしょうか。文字を読めなくするということを意図しているのですか。

そう。英語以外の言語を使っているのはそこに意図がある。なぜ、英語にこだわる必要があるんだろうね。当然、言語やコミュニケーションにはたくさんの側面があるし。あるテキストを理解できないということは、その言葉をしゃべれない、または内容が分からないということだよね。僕にとって、分からない、理解できないということはエキサイティングな瞬間なんだ。まさに、興奮する瞬間だよ。もし、理解不能な事柄が無くなったとしたら、ものすごく退屈で仕方ないだろうね。

プールに沈んだルーターの作品は、非アートのイメージがアートと受け取られる可能性がある今の状況と関係しているのでしょうか。

夏に僕はけっこう水泳をしていて、その時にスイミングプールの中で何かをやりたいなってアイデアを思いついたんだ。それが水の中のWi-Fiルーターで、僕にとって意味を感じられるものだった。ルーターには、これまでとは違うテキストもプリントしてね。誰かがプールの底にあるルーターにプリントされたテキストを読んで、意味が分からなかったり、判読できなかったりするんじゃないかなって。まあ、結局はとんでもなく現実離れした考えだったけどね。水中のWi-Fiルーターというシチュエーションは、ネット上で話題が広がったし良い写真になったよ。意図通りだね。このピクチャーの普及の仕方や見方については、アートの文脈に限定されたものではないし、文脈の中にあるか、もしくはその外にあるという作品。そう、僕にとって様々な境界はもはや妥当なものではなくなっているし、どんどん境界はぼやけていっているんだ。

あなたのTumblr上では展示の写真ではなく、様々なシチュエーションで撮影された画像が上がっていますね。実際、Tumblrでも「GlassPhone」や「GlassBook」の拡散された画像をたくさん見ました。あなたの彫刻作品はイメージとして受容されることを意識していますか。

まず言わなくちゃいけないのは、「GlassBook」や「GlassPhone」は現実の生活の中でこそ、素晴らしく見えるってことなんだ。写真を使って彫刻を作るというタスクから、自分を引き離すものだね。つまり、これらのガラスの彫刻はテーマ的にも、美的な意味でも、完全に彫刻の使われ方の記録こそが展示そのものになるってことなんだよ。そう、プロダクトの広告に似ているね。彫刻の全体的なコンセプト(彫刻というのは、アーティストによって制作されたアーティスティックな人工物という意味)は、重要な役割を担っているよね。その彫刻がどこに属しているのか。プライベートな台座か、美術館の室内なのか、パブリックスペースにあるべきか、どこかの広場なのか。彫刻はどんな風に扱われているのか、彫刻とアイテムの境界はどこにあるのかが大事なポイントだと思う。僕の作品の写真では、作品の利便性や実用的な彫刻であるということを人に喚起させていると思う。

このピクチャーの普及の仕方や見方については、アートの文脈に限定されたものではないし、文脈の中にあるか、もしくはその外にあるという作品。そう、僕にとって様々な境界はもはや妥当なものではなくなっているし、どんどん境界はぼやけていっているんだ。

興味のあるアーティストや作品がありましたら教えてください。アート以外の物でも構いません。

アートに限っていえば、とても良いと思うのはごくわずかだね。僕は、それ自体が何かよく分からないという時に興味を抱くのだと思う。ある振る舞いのプレハブみたいなパターンやステレオタイプには、死ぬほど退屈している。僕はアーティストが、彼ら自身のやり方でその人生を通じて「描く」ことを続けていたら敬服するんだと思う。良いアートというのは、何かを欲しがるべきではないとも思っている。アートは常に人工的な側面を持つものだし、祝福を与えたり、ののしりの言葉になるような性質を持つものだって考えているよ。

今後の制作の予定を教えてください。

僕がアートを学んだドレスデンには、ドイツ衛生学博物館があって、解剖された人体モデルが1930年代から展示されているんだ。ちょうど人間と同じサイズのガラス製のモデルがあってね。その「Glass Woman」の透明なボディーの下には、すべての臓器が見えるようにできている。次は、「Glass Woman」のリメイクに制作時間を割く予定だよ。

Tilman Hornig プロフィール
ドイツのドレスデンにあるアートアカデミーでファインアートや彫刻を専攻。ガラス素材でスマートフォンやノートPCの形態をオブジェにした「GlassPhone」「GlassBook」などが代表作。作品を通じてリアルとネットとの連関に、違和感や親和性という矛盾を表現する一連の活動を行っている。