このシリーズでは、主にアメリカと日本の現代のアーティスト(あるいはコレクティブ)二組の作品をよく見て、比較、対照していきたい。それぞれの記事はアート、デジタルカルチャー、現代生活に焦点を当てたものになっており、書く内容やその紹介の仕方は、僕の現在進行中のプロジェクトWindow Sessionsの延長となると思う。Tokyo Window Sessionsというタイトルで、僕は2016年9月より、東京のメディアアートとデジタルカルチャーについての調査を開始し、日本とアメリカのかけ橋となるアートコミュニティのウェブサイトやアーカイブを行なっている。

今回は、アメリカ生まれのアーティストAddie Wagenknecht(アディー・ワーゲンクット)と日本人アーティストKS+y2(菅野創やんツー)の作品を比較する。WagenknechtとKS+y2は、本来の意図とは異なる目的で素材(主にハイテク機器)を用いているけれども、それぞれどのように独自の方法で素材を使っているのかということに着目して見ていく。WagenknechtとKS+y2はどちらも、あらゆる素材(ドローン、ロボット、スプレーペイント、3Dプリンティング、身の回りの品など)がもつ用途の範囲を広げ、それらの可能性を大胆に書きかえ、現代アートにおける「流用(アプロプリエーション)」の真の価値を明らかにしている。それは、単にコピーするということを超え、すでに存在しているものから新しい観点を作り出すという領域に入っているのである。

僕たちはハイテク機器の持つ性能を使って遊ぶようなことはあまりない。僕たちが手にしているのは、柔軟でさまざまに使える技術より、むしろ日常的な、ありふれたものである。確かに、僕たちがコンピューターやソーシャルメディアの社会的ルールや規律を曲げてしまうと、混乱して首をかしげる人々もいるだろう。僕はFacebookでとてもアクティブだった時期があったけれど、僕がやったことといえば、ばかげた投稿をしたことだけだった。それはある意味、ゆっくりと何かを探し回っていたということだったのだろう。しかし、ほんとうの意味でその投稿の内容を見て、反応する人々はいなかった。僕は空っぽな空間をうろうろしていた。時間をむだに過ごしていたのだ。けれども、そこからWagenknechtとKS+y2について考えることにつながっていった。彼らはマテリアルの柔軟性に気づいており、デジタルエイジを取り巻く社会的、政治的な事柄について説得力ある解説をするためにその素材を使っているのだ。

アートの世界において、彼らの作品はアーティストが何を作るか、どのように作るかについて再定義するような自由さや可能性を感じさせる。エラーやランダムさで遊び、電子回路板に、金属に、観葉植物にスピリットを吹き込む。ここでのアーティストたちは観察者であり、それが何であるか、何になり得るかを見ているのである。

WAGENKNECHT: BLACK HAWK PAINT

2007年に始まった《Black Hawk Paint》は、Wagenknechtがドローンを操作して作品を制作する、進行中の絵画のシリーズである。ドローンはシンプルな操作と指示によって、アクリル絵の具をまき散らしながら、カンバスに色を塗っていく。このシリーズの初期のバージョンでは黒のアクリル絵の具が使われていたが、ドローンにいくぶん問題が生じた。ドローンの羽と本体がアクリル絵の具の中で動かなくなってしまい、カンバスに斑点や汚れ、回った丸い跡などをつけてしまったのだ。作品のドキュメンタリービデオでは、ドローンが異質なものをなんとかしようともがき、声をあげているのを見ることができる。

最初のシリーズ以降は、Wagenknechtは模造皮紙の上で、色絵の具、火薬などの素材を使用して制作を行なっている。表面をすべるように動き、描くことができて、ドローンは嬉しそうに見える。これらの素材の組み合わせは、気温や日の光によって絵画の見た目を変化させることがある。このシリーズの着色方法はホーリー祭をヒントとしたものでもある。ホーリー祭とは色と愛を祝う祭で、皮肉なことにドローンのもともとの目的とはまったく対極をなすものである。このシリーズでは、作品の多くが縦にディスプレイされており、それによって飛んでいる感じや軽さを表している。これはWagenknechtが彼女の作品で表現している多くの二分法のうちのひとつである。ここでは、作品の繊細さが金属製のドローンの荒っぽさを中和している。

最新のシリーズでは、ねとねとしたアクリル絵の具から解放されたドローンはより楽に飛んでいるように見える。丸い模様や跡などは残っているが、より繊細なタッチがそこにはある。このシリーズのバリエーションはアートの道具としてのドローンの可能性を示している。異なったモデルのドローンや異なった素材によって多くの可能性があり、そのすべてはドローンを、監視や戦争のための道具という、その最初の意図から遠く離れたところへ押し出している。

KS+y2: SENSELESS DRAWING BOT

《Senseless Drawing Bot》[SDB]は2011年に始まった進行中のシリーズで、機械と人間の関係性を反映している。《SDB》には、肖像画、線画、子どもやほかのアーティストとのコラボレーションといった多くのバリエーションがある。《SDB》は、現代アートにおける作者という概念、機械の自律性、グラフィティアートの定義に触れている。このシリーズで、KS+y2は垂直面に絵を描いたり、線を引いたりするカスタムデザインのロボットを製作しており、ロボットは電車の駅や美術館、その他さまざまな公共の場所でその作業を行なう。

ロボットはスケートボードの上に置かれ、壁にスプレーを吹きかけながら右へ左へと動き、作品独特の反復作業を生み出している。ロボットが動いて行動するのを見ることは、作品が最終的にどうなるかを見るのと同じくらい大切である。振り子のような動きでロボットがその1本の腕を激しくふり回す様子は、人間のグラフィティアーティストの腕の動きとそっくりそのままであるようにに感じる。それでも、ロボットの多くの要素は人間の手とはまったく違っている。作品のタイトルで明らかなように、ロボットには意図がない。ロボットは作品を完成させるための特定のモチベーションを持っていないし、自分の名前を書いているわけでもなければ、政治的な声明を書いているわけでもない。ただ壁に何かを書いているだけなのである。僕たち人間の行動は常に、それに付随するある種のモチベーションや決定する過程を持っているため、この無作為さは人がまねしようとしてもできないものだ。

《SDB》はカスタムメイドなので、このエッセイで論じているその他の流用されたものや素材と同じではない。けれども、KS+y2は絵画を制作する自由な感覚や自律性を意図のないロボットにゆだねている。彼らはロボットがやることに割り込まず、《SDB》が人間の介入から自由な状態で存在することを許しているのだ。広い意味で、機械の目的が再定義されている。しかし、より具体的にいうと、《SDB》はグラフィティアートの本質や現代アートにおける作者という概念を再考しているのである。

グラフィティとは、絵画を通して場所を取り込んだり、主張をしたりするものである。建物に落書きすることによって、グラフィティアーティストは印をつけて建物の表面を自分の作品として流用することになる。《SDB》では、KS+y2はロボットにグラフィティアーティストがアイデンティティを記す行為をまかせて、作品の作者であることを引き渡している。これらの側面は、現代のグラフィティアーティストたちが作品を制作するために公的機関に入り始めていることを考えると興味深い。それは、グラフィティアートが示すもともとのアイデンティティとは正反対だからである。例えば、Banksyの作品を美術館や収蔵品の中で見ることは、彼のほんとうのグラフィティアーティストとしての真正性を取り去ってしまうと主張する人々もいる。それに比べると、《SDB》はアイデンティティの印がどこにあるのかは気にしておらず、表面にタギングすることだけに興味を持っているのである。芸術機関の壁の内側で作品がこれまでどおり制作されている一方で、《SDB》という機械が描くやり方が、実際のグラフィティアーティストのスピリットの中に存在しているはずの方法を見つけていると言うことができるだろう。

WAGENKNECHT: OPTIMIZATION OF PARENTING, PART 2

近ごろ、個人的な目標やキャリアのゴールを探求しながら子育てに挑戦することを論じる記事が盛り上がりを見せている。まずTinderやその他の出会い系アプリに刺激された新しい出会い系カルチャーについての盛り上がりがあり、そこからの良いフォローアップが生まれるという流れである。ニュースは実際のリアリティからは遅れてはいるが、それでもなおアメリカや日本のような国のミレニアル世代には関係している問題である。子どもを持つプレッシャーや多くの役割や責任に対してプレッシャーを社会からかけられている女性にとっては、状況は特に厳しい。Wagenknechtはこれらの問題に《Optimization of Parenting, Part 2》(子育ての最適化 パート2)で取り組んでいる。《Optimization of Parenting, Part 2》では、カスタムされたソフトウエアとロボットアームを使って、赤ん坊が泣いたり、目を冷ましたりするのに反応し、デバイスがゆりかごを前へうしろへと揺らすのである。

Wagenknechtはある種の社会的問題や不安の解決方法を作り出している。多くの責任に加えて、フルタイムの親でいなければならないという母親たちに対する期待や彼女たちが払わなければならない犠牲に、この作品は立ち向かっている。機械の腕の適用に関してだが、これらの機械は通常、大量生産やある種の製造の役割のために使用されるものである。僕はこの作品を見ていると、やんツーのソロエキシビション《Example》を思い出す。そこでは、スーツケース、台座、おもちゃの車などの日常品が可動性を与えられ、異なった役割を果たしている。《Optimization of Parenting, Part 2》と《Examples》のどちらも、ロボット工学やソフトウエアが日常生活におけるものの見方をどのように変えることができるかを理解することへの興味を表現しているようである。

《Optimization of Parenting》で、赤ん坊の世話をするためにロボットアームを使用することは皮肉ではあるが、ものすごく妥当である。人々が機械に取って代わられている。それでもまだ僕たちは人が仕事や子育てを行なうことに大きな期待をする(どちらもフルタイムの仕事としてである)。そう考えると、Wagenknechtは社会的な基準や性別による規範に立ち向かうためにロボットアームを使用したのだと考えられる。

KS+y2: Asemic Languages

《Asemic Languages》(形骸化する言語)は、機械が人工知能を使って、10人の国際的な芸術家から手書き文字の動きや形を学ぶという作品である。機械はそれぞれの文字の形とパターンを学習し、新しい形状を作っていく。機械はあたかも何か文字を書こうとしているように見えるが、実際に描いているのはただの線だ。これはある意味、欺かれているような気持ちになる。それは、機械とは何かの目的を果たすものだと僕たちは思っているからである。

書く形状から意味を取りのぞくことで、機械はことばやコミュニケーションというものに対する私たちの予想を反映することを可能にする。人が新しいことばを学ぶ時、それらを覚えるために視覚的な方法を用いる。例えば、日本語を習っている非日本語圏の生徒たちの多くは、「ツ」の形状をスマイリーフェイスだと思うという。文字や記号を見た時に、心の中にイメージを浮かべることは人間の特性である。しかしながら、時とともに、そこから進んで、文章を形成することに注目するようになる。また、年齢を重ねると、最初の言語体験がどんなものだったかを覚えているのが難しくなってくる。《Asemic Languages》はそれを受け入れ、新しい好奇心の感覚を持って見ることができる新たな視覚的形状を作るのである。

WAGENKNECHT: LIBERATOR VASES

リベレーターガン(3Dプリント銃)はAddie Wagenknechtの作品にくり返し登場するモチーフである。真っ白いカンバスにシューティングしたり、シャンデリアを構成したりしており、最近では花びんのシリーズを制作するために使われている。リベレーターは2013年にリリースされたオープンソースの3Dプリントが可能な拳銃だ。何千回もダウンロードされたのち、合衆国政府は48時間以内にインターネットからそれを消そうとしたが、今でもまだその痕跡を消すことはできていない。

Wagenknechtが物質を本来とは違う用途で使う時、それはまるで何かが開かれたかのようであり、閉じ込められた感情や気持ちを外に出すことが許される。不安、ユーモア、気まずさ、希望、くだらなさ、自信、自己不信、すべてが作品からあふれ出てくる。《Liberator Vases》はユーモラスである一方で、そこにはダークな側面もある。テクノロジーは危険な意図で使うことができるということを僕たちは忘れがちだ。《Liberator Vases》はその用途を反転させることで、それを語る。このシリーズでは、リベレーターガンはありふれた日常的なものに形を変えている。自ら動くことはないものにされ、その用途は郊外の家庭で花を活けることに変えられている。

通常、拳銃はパワーや暴力を意味するものである。ここでは、いくつかのリベレーターは花びんの形状を作るために、それぞれからみあい、積み重ねられている。その見た目はPhotoshopのコピースタンプツールを思い起こさせる。もともとの拳銃の堂々とした性質は消され、花びんという工芸品になっている。工芸品として、3Dプリントの武器は簡単に暴力にも室内装飾にも使うことができるのだということをこの花びんは表現している。

KS+y2: AVATARS

KS+y2の一番最近の作品は、エキシビション《Avatars》である。そこでは、フィジカルなスペースとヴァーチャルなスペースの両方を再定義している。[DATES]からYCAM(山口情報芸術センター)で行なわれており、世界中の誰でもインターネットを通して遠隔操作できるものが16個、アートスペースに設置されている。ロボット工学のデザインや動きはどこかユーモラスなものを感じさせる。鉢植えの植物、ルンバ(Wagenknechtも使用しているものである)などが、ウェブカメラやマイクや動くための車輪といった部品を組み込まれ、本来とは違う用途に使用されている。それらは動き、コミュニケーションを取ることができるものになっている。―インターネットの住人から、山口のそれらモノたちへの交流や会話が可能となっているのである。

インスタレーション内には多くの二元性がある。物体と人間、室内と屋外、バーチャルとリアル、生物と無生物、家庭と公共がそこに含まれる。人工知能と人間の知能ということもまた思い浮かぶだろう。作品はマジックミラーのように機能する。オンラインで機械を操作するということは、(インターネット上で)見る人はYCAMとそこにいる訪問者を見ることができるということである。しかし、彼らの視界は限られていて、実際にその場でコントロールするのと同じようにその物体を見ることはできない。一方で、YCAMの訪問者にはその動いている物体を誰が操作しているのかはわからない。彼らは単に機械が奇妙に動いているのを見るだけだ。インスタレーションでは電話でコミュニケートすることも可能だが、話しているのが誰なのかはわからないし、そもそも同じ言語を話す人ではないかもしれないのである。エキシビション自体とそれを行なっているYCAMは、文化や地域の境界線を超えて人々がコミュニケートし、アートを通して交流することを可能にしている。それは、アートインスタレーションという概念において大きな一歩である。

撮影:古屋和臣 写真提供:山口情報芸術センター[YCAM]

作品は印象的で、ニューヨーク、アメリカやヨーロッパの施設だけがアートやデジタルカルチャーの新しい手法に出会うための場所ではないということに気づかされる。現代アートやデジタルカルチャーというものについて、各国のアーティストはどんな話題に興味があるのだろうかということを考えさせられる。プロジェクトは、Reddit上でのインターネットユーザーとYCAMのスタッフの間でのやり取りにまで発展した。こういったことが起こるのはまれで、現代アートにできることという意味では、作品が何百万ドルで売れること以上にとても期待を持てることであるだろう。同様の追記としては、Wagenknechtの作品《Anonymous》もまた、美術館がどのようにして空間を壊すかということについて思い起こさせるものである。

アートにおけるテレプレゼンスについて同じような論議をするインスピレーションを《Avatars》がほかのアーティストや団体に与えたとしても、僕が驚くことはあまりないだろう。ヴァーチャル、あるいは、ヴァーチャルスペースに入ることに関連したアートをたくさん見てきているが、僕たちが物理的な存在であるということをあまり軽視するべきではないと思う。というのも、単純に3Dの世界に入る以上に、アートとテクノロジーを関連づける別の方法があるからである。それに関しては、ごくふつうの日常品を使用するKS+y2やプロジェクトを行なっているYCAMは公共のスペースとヴァーチャルスペースを再定義しており、アート団体がデジタルワールドの声をよりよく伝えていく、そして、それに順応していくといったことを実際にやって見せているのである。

What is, what could be.

僕は最近、日本語の文章をGoogle翻訳に書き込んでみた。

「でも、あめりかにみししぴはたいやきがありません」

Googleは僕が書いたことを英語に翻訳できなかった。代わりにこういう文章を作った。

「But, there are no faults in the sunlight.(でも、にっこうにはけってんはありません)」

僕はそれまでも翻訳ミスの画像を撮っていたが、この文章は特に素晴らしかった。Googleが失敗した時、僕は怒ったりはしない。むしろ、不完全や誤解が存在しうる、その瞬間を楽しんでいる。僕が「木は良いにおいがする」と言ったのに対して、Googleが「木はやおいにおいがする」と主張した時のことを思い出す。こういったユーモラスでやっかいな瞬間があっても、僕はGoogleに「パーフェクト」であってほしいと思ったことはない。予測不可能な結果は興味深い状況を作り上げる。科学技術やデバイスやアプリケーションは、単純に正しいか間違っているか、動いているか壊れているかで見るべきではないのだということを、WagenknechtとKS+y2は僕に信じさせてくれる。

彼らの作品をよく見ていると、ふたつのポイントについて考えさせられる。ひとつは、私たちを取り囲む機械や素材はさまざまであるということだ。それらがすることになっていること、あるいは、それらにエラーがあるということなど、機械や素材に対する僕たちの予想は、単に僕たち自身の投影に過ぎないのである。この考え方は何にでもそうだというわけではないが、この方法を世の中の他のものに当てはめることはできる。ふたつめは、僕たちは物体をあるがままに受け入れるより、むしろ遊んだり、壊したりするべきだということだ。これはある種、ハッカーマニフェストのように聞こえるかもしれない。しかし,ここで言いたいのは、物体のもともとの意図にしがみつくよりも、その可能性がある用途にもっと使っていこうということである。WagenknechtとKS+y2は、実用的であったり、理にかなっていたりすることに焦点を合わせる代わりに、適応や不完全の美を見ることができているのだ。

クリス・ロメロ
現代アートとデジタルカルチャーに関心を持つキュレーター、ライター、アーティスト。キュレーション、アーカイビング、ビデオ、写真、イラストの要素をさまざまな領域にわたるプロジェクトに取り入れている。そして、何がアートであり、何がアートではないのかといった厳密な概念を壊すコラボレーション的な活動を行なっている。新進のアーティストとの取り組みや、一風変わった、これまでにはないプロジェクトの製作、文化的、地理的な交流の開拓などに特に関心が高い。今後のプロジェクトには、国立近現代美術館でのソウルの若手研究者育成活用事業の促進、プロビデンス市のロードアイランドカレッジでのエキシビションForever Foeneverの開催、そして、the Wrong Biennaleのためのオンラインエキシビションのキュレーションなどが含まれる。

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