前回の《Translation #1》に引き続き、今回も永田康祐の作品《Inbetween》を取り上げる。《Translation #1》では水平に置かれた2台のディスプレイに注目して、ディスプレイが示す映像のZ軸が物理世界のルールを上書きしていくプロセスを考察した。しかし、《Inbetween》と題された4つの作品で使用されている5台のディスプレイのうち、水平に置かれたものは1台しかない。《Inbetween》という4つの作品において、永田はディスプレイの手前にモノを置く。水平に置いたディスプレイにはモノを直接置けたけれど、垂直に設置したディスプレイにモノを重ねるとそこには隙間が生じる。永田はこの隙間を光とモノとの分離と癒着で埋めていき、ディスプレイを含んだひとつの風景を形成しようとしている。この試みはディスプレイという光を放射するモノがもつ効力の範囲を決めるものと考えられるだろう。また、永田は《Inbetween》において、エアーキャップで包んだ状態のディスプレイを展示している。梱包されたディスプレイというのは、まさにモノとディスプレイとが重なった状態にあるといえる。しかし、それは他の3つの《Inbetween》とは異なり、単にモノ化されたディスプレイが展示空間に置かれた状態であって、作品ではないだろうと考える人もいるかもしれない。梱包されたディスプレイは、一体何を示しているのであろうか。

光とモノにおける分離と癒着

永田康祐の個展「Therapist」で展示された《Inbetween》とタイトルをつけられた4つの作品には、すべてディスプレイが使用されている。そして、ディスプレイの前に必ず、モノが配置されている。見る者とディスプレイとのあいだにモノが挿入されることはほとんどない。それはディスプレイに表示される映像を最もよく見せるためには、鑑賞者とディスプレイとのあいだには何もないのが理想の状態だからである。しかし、《Inbetween》では見る者とディスプレイとのあいだに金網とネット、透明や色付きのアクリル板、磨りガラスや観葉植物、エアーキャップといったものが配置されている。金網とネットを除いたモノはすべてディスプレイに表示されている。《Inbetween》では、ディスプレイのなかのモノがディスプレイの手前に置かれている状況がつくられている。永田はこの状況設定についてステイトメントで以下のように記述している。

この展示では、私たちが風景を得るとき常に付随する遮蔽物である、水晶体やレンズによる重なりを取り扱う。光の律動からカメラレンズによって切り出された像は、液晶による冷陰極管の遮蔽によって、もしくは顔料による写真紙の遮蔽によって再現前化される。私たちのイメージの経験は、この三重の遮蔽ーレンズ、液晶ないし顔料、そして水晶体を条件として成立している。

画像素子の前に広がるものの重なりは、ディスプレイないしは写真紙の「向こう側」として、また液晶もしくは顔料と水晶体のあいだのものの重なりは、「こちら側」として認識される。そこにはある種の分離がある。これは、リアルと呼ばれるものとヴァーチャルと呼ばれるものの分離である。しかし、これらの関係はその反転や反復が介在することによってー加工された写真と未加工の写真の違いや、絵画においてオリジナルとその模写の違いがわからなくなることのようにー無効化されることがある。ものの重なりにおける分離が、ある特定の操作によって癒着するのである。この展示が対象とするのは、この分離と癒着である。1

ステイトメントにおいて、永田はモノの重なりとともに存在した光を遮蔽し、画像素子へと屈折させるレンズ、レンズが遮蔽したかつての光を再現し、モノの重なりを表示するディスプレイ、ディスプレイの光にモノの重なりを見るヒトの眼という3つの遮蔽物をあげている。そして、レンズとディスプレイとが表現するものが「向こう側」という今は存在しないヴァーチャルなものとされ、ディスプレイとヒトの眼とのあいだが「こちら側」というリアルなものとされる。ディスプレイを境界にしてリアルとヴァーチャルとの分離が起こるというところまでは、映像を体験する誰もが感じることである。永田のステイトメントで問題にしたいのは、最後の「ものの重なりにおける分離が、ある特定の操作によって癒着するのである。この展示が対象とするのは、この分離と癒着である」という部分である。ステイトメントは個展全体に対してのものだから、《Inbetween》のみに向けられたものではない。けれど、このテキストにある「分離と癒着」からディスプレイが現在置かれた状況を考えてみることはとても有益だと考えられる。なぜなら、エキソニモ《Body Paint》シリーズをはじめとして、これまでの連載で扱ってきた作品の多くはディスプレイが表示する映像の手前に奇妙なリアリティが発生しており、その要因のひとつとして、ディスプレイが放つ光とモノとの重なり、つまり、永田のいう「癒着」があると考えられるからである。永田はディスプレイ前にモノを置くことで、本来離れていなければならないモノとディスプレイとが癒着してしまう状況を設定する。「癒着」とは、本来接してはいけないモノが接してしまった結果、離れられなくなることである。永田がディスプレイの前に置いたモノはディスプレイの光を完全には遮蔽しないけれど、ディスプレイを鑑賞者に対して最前面という特権的な位置からモノの背面に押しやる。その際に、ディスプレイの映像が示す世界とディスプレイ手前に置かれたモノが属する物理世界との癒着が起こり、あたらしいリアリティを生み出すのではないだろうか。

ディスプレイという板はリアルなモノであるとしても、そこに表示される映像は虚構、あるいはかつてあったものの再現として、ディスプレイのフレームによって閉じ込めている。ディスプレイが表示する映像はリアルな風景の再現であっても、3Dレンダリングされた情景であっても、物理世界との連続性を失った独自の世界となっている。例えば、映像に映っている複数のモノはそれぞれ個別のモノとしてディスプレイのなかに存在しているように見える。しかし、モノとモノとのあいだに手を入れて、映像のモノを物理世界に持ってこられるヒトはいるだろうか。あるいは、ディスプレイが表示するモノのどれかひとつだけを手前や奥にあるモノから引き離すことができるだろうか。そんなことは誰もできない。なぜなら、映像はひとつの平面、ピクセルの集積として光の明滅として構成されているからである。ディスプレイの平面では物理世界で個別の存在であったモノたちは、無数の光の明滅によって構成されるひとつの表面に癒着させられて、個別に存在しているように見えながら、そこから個別に何も取り出せない独自の世界を形成しているといえる。だからこそ、ディスプレイが示す映像は「向こう側」となるのである。対して、ディスプレイの手前の空間では、ヒトがモノを個別に手に取れるからこそ「こちら側」にある。もし、向こう側に手を伸ばせてモノが取ってこられるのであれば、それは物理世界と地続きであると判断されて、「向こう側」とは呼ばれないだろう。

しかし、なぜ映像は「平面に癒着した世界」という独自な存在様式であるにもかかわらず、「こちら側」と対称をなすように見える「向こう側」として機能できるのであろうか。このことを考えるために、世界をモノの表面の現われと遮蔽の連続と捉え、現われている表面と遮蔽されている表面から乱反射した光の配列にヒトの行為をアフォードする情報が存在すると指摘した生態心理学者のJ・J・ギブソンの絵画に対する考察を引用したい。

絵画を正式に定義すると、次のようになる。絵画とは、「通常の環境の包囲光配列に見出されるのと同種の情報を含んだ、範囲の限られた光配列」を、観察者が、ある観察点において利用できるように処理された面である。この定義は、写真にもカリカチュアにも該当する。カラー写真を撮影してスライドを作るとき、撮影に用いるカメラは、元の光景から発する円錐形の光を遮ることになるが、写真によるカラースライドは、それを撮影したカメラが遮った元の光景の円錐形の光が与えていたのとほとんど同じ、明るさや色のコントラストを、眼に与える。このことも、上記の定義の範囲に含まれる。光の強度やスペクトル組成の関係は、カラースライドと元の光景との2つの光配列の刺激エネルギー同士の間で充分に対応しており、両者の低次の刺激情報は、ほとんど一致する。2

ギブソンの絵画や写真の定義から考えれば、映像も同様に物理世界が示す光の情報と対応関係をもったものといえる。平面であって、そこに手を入れてモノを取り出すことができないとしても、映像は物理世界と対応する光の情報をもっているならば、物理世界と同じように見える。けれど、それは同じように見えるという情報だけであって、触れることができるモノはそこにないのである。永田はこの光の情報を利用して、ある時点における物理世界の光配列の情報に基づく映像を制作する。そこにはもちろん触れ得るモノはなく、かつては触れることができたモノの情報のみが映像に「向こう側」として映っている。そこで、永田は物理世界の光配列を構成していたモノの一部をディスプレイの手前である「こちら側」に配置して情報の二重化を試みる。ここで行われているのは、触れ得ない「向こう側」の一部をモノとして引っ張り出してきてディスプレイの前に置き、モノと映像とを重ねて光の情報を二重化し、映像で示されている触れ得ないモノ自体を「こちら側」に持ってくるという捻じれた手続きである。永田はこの手続きに則って、「向こう側」にある金網やネット、アクリル板、磨りガラス、エアーキャップといったモノをディスプレイ手前の「こちら側」に配置して、映像を構成する光とディスプレイの平面との癒着を解くと同時に、ディスプレイの平面から分離した光をその映像と対応する光配列を生み出したモノに癒着させて、あたらしいリアリティをつくろうとしていると考えられる。

3つの《Inbetween》がつくる風景

まず、ディスプレイにネットと金網とが配置されたフラミンゴが映る映像と、その下には鯉が泳ぐ池を映すディスプレイが水平に置かれて、ネットがかけられている作品を考察してみたい。この作品は本来、映っているはずのものが映像に映っていない。レンズの光学的操作によって、金網はぼかされて光のなかに融けてしまっている。ネットは撮影の際に画面に入らないように撮影されている。ここでは光とモノとが癒着という状態ではなく、金網は同化といえるような状態にされ、ネットは存在を削除された状態に置かれている。永田は自らの選択で、光に同化させた金網や映像から削除したネットを、モノとしてディスプレイ手前の空間に配置して、カメラの周囲に広がっていただろう風景の復元を試みる。作品を見る者の視線はディスプレイ手前に置かれた金網やネットと、映像内のフラミンゴや鯉とを一緒に捉える。映像のなかの光に同化してしまった金網と存在を削除されたネットと、ディスプレイ手前に置かれた金網とネットは同じようで同じではない。なぜなら、ディスプレイは見るためのものであり、その前に金網やネットが掛けられることはないからである。永田が設定した状況において、見る者は金網やネットの存在を消去することはできない。金網やネットはディスプレイと見る者とのあいだに存在し続ける。

かつて永田が構えるカメラの前にあったであろう風景がディスプレイ、金網とネット、見る者の眼という3つの遮蔽が存在する展示室という物理世界内で復元される。しかし、ディスプレイから放射される光が金網やネットの影を消去してモノと映像との境界を曖昧にしていき、それらを癒着させて映像内でも元の風景を復元しようとする。同時に、目の細かいネットはそのエッジでディスプレイの光を三原色に分解し、光と癒着して映像内で元の風景を復元することを拒んでもいる。光とモノとの縄張り争いのなかで、ディスプレイに表示されているフラミンゴと鯉の映像のリアリティが、ディスプレイ手前に配置された金網とネットがつくる平面とその前後の空間に拡張されている。ディスプレイを含んだ金網、ネットがつくりだす隙間空間とフラミンゴや鯉のいる映像の空間とが連続しているかのように見えるのである。そのことを端的に示すのがネットの上に点在する落ち葉である。落ち葉はネットによって上方に引き伸ばされたディスプレイの空間の効力が及ぶのは「ここまでですよ」と確定している。このとき、ディスプレイは金網、ネットと落ち葉とともにひとつの風景をかたちづくっているのである。

次に、ディスプレイの前にアクリル板が配置された作品を見てみよう。ディスプレイのフレーム内には3Dモデリングされた部屋が表示されている。そこには白い壁と窓のようなものがあり、黄色と茶色のアクリル板をトロトロに溶かしたかのような布が風に揺れているようにみえる。また、床には段差があり、上の段に立方体の石が置かれ、ここにも透明のアクリルが溶けたような布がかかっている。ディスプレイの手前には、石に掛けられた透明の布がアクリル板となって、まずディスプレイの大半を覆うようなかたちで配置され、その上に、風に揺れるアクリルのような布と同じ黄色と茶色のアクリル板が斜めに配置されている。ディスプレイと3つのアクリルとは少しずつ重なるように設置され、平面の重なり順としては、ディスプレイ、透明、黄色、茶色のアクリル板となっている。しかし、平面の重なりとしてはこの順番なのであるが、真正面から作品を見ると、ディスプレイに表示されている窓のような白い正方形が一番手前に見えるのである。白い正方形が最前面に見えることで、物理空間のなかでのディスプレイと3つのアクリル板によるモノの重なり順とその分離を無効化していくのである。

モノの重なり順を無化するようなディスプレイ内の白い正方形は、どこにあるのだろうか。ディスプレイとアクリル板という平面の重なりで考えると、それは単にディスプレイに映る3Dモデリングされた部屋のなかにあるといえる。しかし、白い正方形を示すディスプレイの光は手前のアクリル板を突き通して、「こちら側」にあるように見える。3Dモデリングされたオブジェクトは計算から生成され、データが直接ピクセルの光となって明滅しているので、カメラのレンズによって否応なく起こる光とモノとの癒着を起こさない。それゆえに、物理世界よりも比較的自由に窓やカーテンのような形態をしたオブジェクトを配置できる。だから、この白い正方形は3D部屋において、どこかに浮いているような物理世界では存在し得ないようなオブジェクトなのかもしれない。しかし、ディスプレイの手前に配置された3つのアクリル板があるために、白い正方形を直接見ることはできない。永田はディスプレイのなかでオブジェクトを重ね合わせて配置して、さらに、ディスプレイ手前の空間に3層のアクリル板という平面的なモノを挿入して、ディスプレイの内側に展開する部屋の情報の一部を外側に配置するかたちで、情報を二重化していく。その結果、ディスプレイの光から生まれる白い正方形がアクリル板に癒着して、ディスプレイの「こちら側」に引っ張り出される。永田はディスプレイの内側に実際に手を入れたわけではないが、3Dモデリングでの画素の適切な配置と3つのアクリル板の挿入によって、物理空間とディスプレイの映像とをつなげたのである。その結果として、ディスプレイがその手前のアクリル板とそのあいだの隙間空間にまで拡張していき、ディスプレイ周囲の空間がひとつの風景として立ち上がり、その最前面に白い正方形が見えるのである。

最後に、ディスプレイの前に磨りガラスを配置して、フレーム内の映像をぼかしている作品を見てみよう。磨りガラス以外にも、液晶ディスプレイのバックライトのように物理空間で蛍光灯が光っていて、ディスプレイの前後に観葉植物がひとつずつ配置されている。蛍光灯の光が、ディスプレイの斜め後ろに置かれた観葉植物に当たり、その影を白い壁に投影している。磨りガラスは映像の一部を多少ぼかしつつ、ディスプレイの後ろの観葉植物の輪郭を大きくぼかしている。磨りガラスの前に置かれた観葉植物は蛍光灯とディスプレイからの放射光に照らされている。ディスプレイに表示されている映像の背景はコンクリートブロックのような壁になっており、物理世界では一番手前に置かれた観葉植物がブロック塀の手前に配置されている。その観葉植物の大半を隠すように磨りガラスがあり、その手前に物理世界ではディスプレイの後ろにある観葉植物が置かれている。ディスプレイの映像と物理世界とでは観葉植物の重なり順が逆になっている。観葉植物は映像と物理世界とでふたつ置かれているが、どちらかひとつは磨りガラスの向こうに置かれることでぼやけた輪郭を示している。ディスプレイのフレーム内に磨りガラスのエッジは確認できるが、ディスプレイ手前に置かれた磨りガラスのために、そのエッジが映像にあるのか、物理世界にあるのかは判然としない。物理世界に置かれた磨りガラスとディスプレイとが重なっている部分は、ディスプレイの光によってそれほど映像がぼけていないため、一見すると磨りガラスがそこにないかのようにも見える。そのため、ディスプレイ手前に置かれた物理的な磨りガラスではなく、映像に置かれた磨りガラスが最前面にあるかのようにも見える。磨りガラスによる半透明の重なりとディスプレイの光によって、どことどこが重なっているのか、あるいは重なっていないのかが不明瞭になっている。

ディスプレイのフレーム内外の磨りガラスがその前後の空間をディスプレイという平面に癒着することを妨げている。映像には磨りガラスを基準にして平面の重なりが生まれ、その前後に置かれた観葉植物の隙間空間を強く意識させて、植物の重なり順が明確になっている。ディスプレイが置かれた物理世界では、ディスプレイと磨りガラスとが一部癒着したように見えているが、その癒着を示す磨りガラスは映像の磨りガラスである。物理世界に置かれた磨りガラスとディスプレイとのあいだには、それほど強い癒着が引き起こされていない。物理世界ではディスプレイ以外の空間のみが磨りガラスによる作用を強く受けているように見える。物理世界の磨りガラスはディスプレイの斜め後ろに置かれた観葉植物をぼかして、ディスプレイとのあいだにある空間を無効化する。そして、磨りガラスという平面にディスプレイと観葉植物とがともに癒着してしまっている。しかし、磨りガラスからはみ出て見える観葉植物の明確な輪郭が、ディスプレイの後方に植物が確かに存在していることを示している。磨りガラスからはみ出て見えるディスプレイの後ろの観葉植物がディスプレイの空間を後方に拡張する。同時に、磨りガラスの手前に置かれたディスプレイの空間を前方に引き伸ばす。ディスプレイを挟み込むように置かれた観葉植物がディスプレイ周囲の空間を確定して、ディスプレイの映像が示す空間をリアルの磨りガラスを基準線にしてひっくり返したような風景が物理空間につくられる。

リアルとヴァーチャルとが入れ替わり続ける風景

3つの《Inbetween》において、ディスプレイは最前面という特権性を喪失し、周囲に位置する金網、ネット、磨りガラス、色付きのアクリル板といった前面の平面に対して、最背面に映像が位置することになる。それでもなお、ディスプレイの光はガラス面を透過し、金網を通り抜け、アクリル板や磨りガラスを透過していき、映像を物理空間に放射している。これらの平面を光が通り抜けることで、光にそれらの平面がもつ情報が付与されていき、映像のリアリティがディスプレイのフレームを超えてその周囲にまで拡張される。このとき、ディスプレイのフレームが無効化されるわけではない。ディスプレイはその存在を確かに示しつつ、物理世界と映像との境界を明確に示している。けれど、ディスプレイの前に設置された金網、ネット、磨りガラス、色付きのアクリル板が、映像がもつ光の情報を二重化し、曖昧にしていく。それは、ディスプレイに表示されている映像とモノとの癒着が解かれて、その平面性が曖昧になっていくことを意味する。その結果、ディスプレイの前にあるモノが映像を取り込み、癒着していき、あらたな平面をつくる。ディスプレイが表示する映像がディスプレイの周囲に拡張していき、光とモノとの関係が多義的になって、ひとつの風景を形成していくのである。その際に、ディスプレイ手前で映像のようにみえるものがモノなのか、それともモノと癒着した光なのかを一意に決めることは難しい。「こちら側」にあるリアルなモノとしての情報と「向こう側」にあるヴァーチャルな情報という2種類の情報を持つような曖昧な風景になっているからである。この曖昧な風景は、ふたりの向かい合うヒトの横顔にも見えれば、白い壺にも見える「ルビンの壺」の反転図形のようなものである。ギブソンは反転図形に対して、「眼に達する光に含まれる情報に、相容れない2種類の絵画情報《pictorial information》があり、抽出する情報を観察者が一方から他方へと変える時、知覚は変化する。ある縁における奥行きを特定する情報(つまり、何が何を隠しているのかを示す情報)は、互いに異なり逆方向に広がる2つの奥行きを特定するように、入念に準備されている3」と指摘している。永田の3つの《Inbetween》も「ルビンの壺」のように、リアルとヴァーチャルとを特定する互いに異なる2つの情報を見る者に提供しているといえる。作品にリアルな「こちら側」を見るのか、ヴァーチャルな「向こう側」を見るのかを一意に決めることができない状況をつくるために、永田はディスプレイの手前にモノを配置して、映像を構成する光の情報を二重化しているのである。それは、ディスプレイの平面で癒着していた光とモノとを解きほぐし、ディスプレイ手前に配置したモノが構成するあらたな平面に癒着させて、それがリアルなモノなのか、光と癒着したヴァーチャルなモノなのかを決めることができない曖昧な状態をつくることである。そのとき、ディスプレイが表示する映像の光はカメラで撮影された際に癒着したモノとの関係を清算し、その手前にあるモノの平面とあらたに癒着していきながら、リアルとヴァーチャルとが常に入れ替わる風景を周囲に配置されたモノとともに形成しているのである。

完全に「こちら側」にありながら「向こう側」を示し続ける奇妙なディスプレイ

これまでの3つの《Inbetween》のディスプレイと異なるのが、4つ目の《Inbetween》におけるエアーキャップに包まれたディスプレイである。エアーキャップに包まれたディスプレイが映すのは、エアーキャップに包まれたカメラが撮影した映像である。言ってみれば、現在のディスプレイの状態をそのままフレーム内に表示しした映像になっている。そして、ディスプレイの映像全体を物理世界のモノが遮蔽しているものはこの作品だけである。エアーキャップは半透明であるから、ディスプレイの映像を見ることはできるが、全体を覆うエアーキャップのために映像は全体的にぼやけていて、説明を受けなければ、それが何を示しているかはわからない。また、このディスプレイだけが垂直にも、水平にも設置されずに、壁に立てかけるように木の上に置かれている。水平という重力を受け容れる体勢でもなく、垂直といった重力と対峙する体勢でもなく、重力のなかにディスプレイが単に置かれている。

3つの《Inbetween》はディスプレイ内外の光とモノとの重なりのなかで、映像の光とモノとの「分離と癒着」という手法であらたな風景をつくっていた。しかし、梱包されたディスプレイが放つ光はエアーキャップと癒着することができずに、エアーキャップとともにディスプレイそれ自体に癒着していく。このディスプレイはモノであることから脱しようと映像を表示しているけれど、それもまたそれ自体の現状を自己言及的に示すのみとなっている。梱包されたディスプレイには「向こう側」への逃げ場がない。しかし、平面が光り続けることによって、「向こう側」が存在する可能性を示唆しているのである。4つ目の《Inbetween》のディスプレイは確かに映像を示すために発光して「向こう側」が存在する可能性を示してはいるけれども、全体を覆うエアーキャップと映像で示されるエアーキャップとによって「向こう側」に至る回路を完全に削除されて「こちら側」の存在になっている。3つの《Inbetween》が映像のなかのモノを「分離と癒着」によって「こちら側」に引っ張り出す試みだとすれば、この《Inbetween》は同じ手法を用いて、ディスプレイ自体を完全に「こちら側」に引っ張り出そうとしたものになっている。その結果、エアーキャップで包まれたディスプレイは、最前面という映像を示すための特権的な位置に近い状態にありながらヴァーチャルな「向こう側」を明確に示すことなく、手前を覆うモノとの関係のなかで、リアルとヴァーチャルとが常に入れ替わるようなあらたな風景をつくることもなく、徹底的にモノ化されたリアルな存在として物理世界という風景の一部として置かれることになった。にもかかわらず、それはフレーム内の平面を光らせて、ひっそりと「向こう側」の可能性を示し続けている奇妙な存在となっているのである。

参考文献
1. 永田康祐、個展「Therapist」ステイトメント、https://docs.google.com/document/d/1odVQymCVrn9BX3Ndsxr9FSYJB6lK8ZQ68o5Ye-EEmOY/edit (2017/02/16アクセス)
2. J.J.ギブソン「絵画において利用できる情報」、『直接知覚論の根拠』、境敦史・河野哲也訳、勁草書房、2004年、pp.244-255
3. 同上書、p.251

写真提供: 永田康祐

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。