水野勝仁 連載第4回 モノとディスプレイとの重なり

エキソニモの《Body Paint - 46inch/Male/White》《Heavy Body Paint》
モノと光とが融け合う魔術的平面

Text: Masanori Mizuno, Title Image: Akihiko Taniguchi

前回のHouxo Queの《16,777,216 view》 シリーズとEvan Rothの《Dances For Mobile Phones》シリーズに対する考察で、光とモノとデータとの重なりを一度バラバラに解体して、再度、それらが一塊で展開していくような平面をつくりだす。ディスプレイの構成要素を分解し、再度まとめることで、光、モノ、データの重なりにズレが生じて、そこにこれまで意識しなかったような平面が生まれると書いた。そして、このあらたな平面が認識のバグを発生させるとした。

今回は、エキソニモの《Body Paint – 46inch/Male/White》と《Heavy Body Paint》への考察から、認識のバグが起こる平面の形成プロセスを明らかにしていく。ディスプレイは光の明滅を原型的性質とする平面であったけれど、エキソニモの作品は、ディスプレイが放つ光とモノとの関係を一変させて、見る者に強い錯覚=認識のバグを否応無しに発生させる。それゆえに、《Body Paint – 46inch/Male/White》と《Heavy Body Paint》を分析していくと、「モノに擬態する光」という認識のバグを発動させる条件を見出すことになる。ディスプレイは「モノに擬態する光」を伴い、モノとの重なり方を更新して、あらたな状態に変わりつつある。

《Body Paint》が示す錯覚

NTTインターコミュニケーションセンター(ICC)で開催されている「オープン・スペース2016 メディア・コンシャス」展に、エキソニモの《Body Paint – 46inch/Male/White》と《Heavy Body Paint》という同じ手法で制作された2つの作品が展示されている。まずは、《Body Paint – 46inch/Male/White》を考察していきたい。

《Body Paint – 46inch/Male/White》はタイトルが示すように46インチのディスプレイに男のヒトの上半身が映しだされている。しかし、ディスプレイに映し出されるヒトは全身を白色で塗られ、ディスプレイもヒトが表示される領域以外はフレームも含めすべて白で塗られている。このことが《Body Paint – 46inch/Male/White》(以下、《Body Paint》)に、ヒトが実際にそこに存在するかのような特異な質感を与えている。エキソニモは《Body Paint》について次のように書いている。

全身を単色でペイントした人物の映像がLCDディスプレイに映され、その人物以外の部分が同色で直接ディスプレイにペイントされている。映像内の人物と背景にあたる部分が同色にペイントされていることで、見る側の視覚に混乱が起き、絵画とも映像とも判別できない感覚 ― そこに実際の人物が存在するかのような錯覚すら ― を引き起こし、身体とデバイスの境界の不確かさに感覚が揺さぶられる。1

ヒトとディスプレイに同色のペイントを施すことで「実際の人物が存在するかのような錯覚」が生まれる。その錯覚は、普段は画像の支持体であるディスプレイを「キャンバス」のような絵具の支持体として見なして、絵具を塗るという通常は行わない行為をすることからつくられる「認識のバグ」と言えるだろう。ディスプレイにペイントするという行為は、前回取り上げたHouxo Queの《16,777,216view》シリーズと同じである。そして、《16,777,216view》シリーズの考察を通じて、ディスプレイが放つ光と絵具というモノとの組み合わせが「未だ名づけ得ない平面」をつくることを示した。では、エキソニモとQueの作品は同じようなバグを引き起こすのだろうか。Queはインタビューで「同年代に、他にもディスプレイに描いた作家はいましたか?」という問いに、梅沢和木とKen Okiishiを挙げている2。しかし、QueはのちにTwitterで「エキソニモ」も挙げるべきであったとツイートしている3。ここで興味深いのは、このツイートを受けて、エキソニモの千房けん輔が「ウチはディスプレイにペイントしているわけではなくて、Body Paintをしたらディスプレイまで塗らざるをえなくなっただけで、たぶんみんなとは別のベクトルです」4とツイートしたことである。「別のベクトル」という千房の言葉から、エキソニモは《Body Paint》シリーズとQueの《16,777,216view》シリーズとでは異なる認識のバグが生じると考えられる。

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Photo: KIOKU Keizo 撮影:木奥恵三 Photo courtesy: NTT InterCommunication Center [ICC] 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

Body-Paint

では、《Body Paint》シリーズと《16,777,216view》シリーズは、ともにディスプレイに絵具をペイントしておきながら、何が異なるのだろうか。ひとつはディスプレイの存在感であろう。Queは「現実とディスプレイに同等のリアリティーがあるという状態」で、ディスプレイと自分の能力であるペインティングを結びつけようとする5。Queにとってディスプレイへのペイントは「画面を切り替えればディスプレイに映し出されるものが変化するという揺らぎの強さを前にしたときに、ペインティングの価値を再考」するために必要な行為であった6。その結果、ディスプレイが表示可能な16,777,216色を60fpsで表示させて、光を放つ装置としての「ディスプレイ」という存在が最も顕わになった状態で、ペイントという行為がなされる。その結果、モノとディスプレイの光とのあいだに仮想的な平面がバグとして生じる。

対して、エキソニモは、表示されているモチーフを除いてフレームも含めて、ディスプレイを塗り潰してしまう。それは、Queとは対照的で、ディスプレイの存在を消去しようとするような行為である。千房が書くように、《Body Paint》は「ディスプレイ」にペイントしているわけではないのであろう。スマートホンを持ち歩くようになり、インターネットの常時接続するようになったヒトの「身体」を考えてみると、スマートホンへのプッシュ通知が身体を震わせるように、デバイスが身体の一部となっていると言える状況が生まれてきている。そう考えると、情報が提示され、データのやり取りが行われるディスプレイもまた「身体」の一部となる。そのような状況で「Body Paint」を行うとすると、ヒトの身体だけではなく、ディスプレイも「身体」としてペイントされなければならない。ヒトの身体とディスプレイとが地続きになった状態をつくりだすために、エキソニモは「身体」と「ディスプレイ」をともに「Body」としてペイントしている。ヒトとディスプレイは同一色でペイントされ、強制的に同一条件に置かれることで、見る者の認識をハックし、バグを引き起こしている。ディスプレイに映るヒトは描かれた肖像画のような印象を見る者に与えるけれど、実際は映像である。なおかつ、映像とペイントされたディスプレイとの組み合わせによって、ディスプレイの光で描かれるヒトは、そこに実際にいるかのような存在感を示すのである。

肖像画や人形がモノでありながら生きているような感覚を見る者に与えるように、ヒトの似姿を象ったものには不思議な力がある。《Body Paint》もまたヒトというかたちが見る者に錯覚を引き起こしているのであって、ディスプレイにペイントすることはあまり重要ではないと考えることもできるかもしれない。しかし、ヒトという形から錯覚が引き起こされているのであれば、《Body Paint》はリアリスティックにヒトを表現した絵画や彫刻と変わりがなくなってしまう。重要なのは、《Body Paint》を見て、驚く人の多くがそれを肖像画だと思い込んでいた点にある。《Body Paint》はディスプレイといういつでも表示を切り替えられる平面に映されたヒトを、描かれた肖像画だと見る者に認識させてしまう。動かないはずの絵画が、突如、動くからこそ、作品を見る者の多くが驚くのである。では、なぜ、ディスプレイに映る映像を、ヒトをリアルに表現した絵画や彫刻だと思い込んでしまうのだろうか。ここにこそ、ヒトを描いた《Body Paint》だけではなく、絵具のビンを描いた《Heavy Body Paint》で使われたモチーフとディスプレイとを同色で塗るという「Body Paint」という手法が示す認識のバグの秘密がある。

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Photo: KIOKU Keizo 撮影:木奥恵三 Photo courtesy: NTT InterCommunication Center [ICC] 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

《Heavy Body Paint》が示す再帰構造と色の問題

ディスプレイでヒトが表示されている《Body Paint》には「そこにいないはずのものがいる」という奇妙な生々しさを含んだホラー的な怖さがある。だからこそ、《Body Paint》はディスプレイに等身大のヒトを映し出すことで、見る者の認識を効果的に揺さぶる作品になっている。しかし、ヒトがモチーフとなっているがゆえに、ディスプレイにペイントするという行為によって引き起こされる認識のバグの原因を見えにくくしている。対して、《Heavy Body Paint》はディスプレイにペイントするという行為を前面に押し出した作品といえる。そのため、《Heavy Body Paint》を分析することで、ディスプレイが引き起こす認識のバグの要因を突き止められると考えられる。

《Heavy Body Paint》では「Heavy Body」という文字がプリントされたラベルが貼られた絵具のビンがディスプレイに映しだされている。ビンの色は黄色、白、青と3色あり、《Body Paint》と同様にそれぞれの色でビンが映しだされる場所を除いたディスプレイ全体が塗られている。 ヒトをモチーフにした《Body Paint》に対して、絵具のビンが表示された《Heavy Body Paint》には怖さはなく、どこかコミカルな要素がある。それは「Heavy Body」と名付けられながらも、そこに表示されているのがヒトではなくビンであるというダジャレ的な要素もあるかもしれない。あるいは、動くはずのないビンが動いていることに由来するかもしれない。しかも、そのビンは「重い身体」というラベルが貼られているにもかかわらず、小刻みに軽快に揺れていたりもする。

当たり前だが、ヒトと異なりモノはそれ自体が動くことはない。けれど、《Heavy Body Paint》で表示されているビンは動いているように見える。《Heavy Body Paint》が展示されている「オープン・スペース2016 メディア・コンシャス」展の作品説明には、次のように書かれている。

《Heavy Body Paint》(2016)では、絵具のボトルが、[《Body Paint》と]同様のやり方で提示されています。それは、先の作品と同様に、認識のゆらぎをもたらしますが、そこには人物は映っていません。しかし、手持ちカメラで撮影された、手ぶれを伴う映像によって、そこに撮影者という人間の存在を感じさせるとともに、「見ている」ということを考えさせます。7

作品説明にあるように「撮影者」というディスプレイのフレームの外にいるヒトの存在が、ビンに動きを与えていることは確かであろう。しかし、ビンが小刻みに動いていることを、撮影者という存在に帰してしまっていいのであろうか。2009年からエキソニモは連作「ゴットは、存在する。」を制作している。このシリーズは「標準的なインターフェイスやデバイス、インターネットの中に潜む神秘性をあぶり出すことをテーマにした」ものである8。連作のひとつ《祈》は、通常はヒトがひとつのマウスで操作するカーソルを、ふたつのマウスの重ね合わせで動かした作品である。《祈》が端的に示すように「ゴットは、存在する。」では、インターフェイスからヒトが排除されて、モノがコンピュータを「操作」している。「ゴットは、存在する。」の延長に《Heavy Body Paint》があるとすると、この作品もまた《祈》のようにヒトとモノとのあいだに大したちがいがないことを示していると考えられる。だとすると、ビンの動きは撮影者の手ぶれに帰するものではなくなり、ヒトという存在を消去して、モノ自体に起こるひとつの現象として見る必要がでてくる。

《祈》では動作の主体だと考えられるヒトを消去して、モノの組み合わせが情報を生み出し、それがディスプレイ上のカーソルを動かした。《Heavy Body Paint》のモチーフであるビンは単体で動くことはないし、どう組み合わせたところで、コンピュータの何かを動かすわけではない。しかし、ヒトによって撮影され、ディスプレイに映され、「Body Paint」を施された絵具のビンは、自律的に動いているような感じを見る者に与える。それは、ディスプレイを塗り潰すという手法によって、ビンに動きを与えている手ぶれを引き起こしている撮影者の存在感が消去されるからである。《Heavy Body Paint》でも《Body Paint》と同様に「撮影者」というヒトがディスプレイとともに塗り潰される。「撮影者」というヒトの存在をペイントによって消去することで、ビンはヒトの生命を譲り受けたかのように、勝手に揺れ動く。

絵具のビンが動きはしないことは、誰もが知っている。しかし、ディスプレイにペイントされた《Heavy Body Paint》が示すビンは、それ自体が動いているような感じを見る者に与える。それは錯覚でしかない。けれど、「ゴットは、存在する。」からのエキソニモの作品の流れを考えると、《Heavy Body Paint》にはアニミズム的感性が現れているといえる。 《Body Paint》が「身体とデバイスの境界の不確かさ」をヒトの側から示した作品だとすると、《Heavy Body Paint》はディスプレイのフレームの外に位置するヒトの存在を塗り潰してしまうことで、あたかも生命が宿っているかのような存在としてビンを見せ、モノの側からヒトとモノとの境界の不確かさを示した作品だと考えることができるだろう。

しかし、《Heavy Body Paint》にアニミズム的感性を見出すのであれば、ディスプレイに表示されるモチーフはモノであればなんでもいいのではないだろうか。いや、《Heavy Body Paint》のモチーフは、そこに描かれている絵具のビンでなければならない。なぜなら、「Heavy Body」と記された絵具のビンをモチーフとすることで、作品に再帰構造が与えられるからである。「Heavy Body」という文字は《Body Paint》からの作品の継続性を示しながら、ビンに記されたものと同じ文言がタイトルにも使われたり、映像で示されるビンのなかの絵具でディスプレイがペイントされたりという再帰構造が絵具のビンを起点として生じてくる。それゆえに、《Heavy Body Paint》のビンは《Body Paint》のヒトのように「Body Paint」される必要がないどころか、「Body Paint」してはいけないのである。けれど、ビンはところどころペイントされている。それは意図的なペイントではないかもしれないが、ビンには絵具が付いている。そして、このビンについた映像の絵具とディスプレイにペイントされた絵具とが、ときに同一の平面に存在するかのような感覚を引き起こす。そのとき、映像の絵具とモノの絵具が同一のものとして認識される。この認識はディスプレイにペイントされた絵具が、映像で示されているビンのなかの絵具であったということを、見る者が意識することから生じると考えられる。つまり、「Heavy Body」と記された絵具のビンをモチーフとすることで、絵具を巡る再帰構造が作品に導入され、映像で示されるビンやそこに付着する絵具が、ディスプレイに塗られた絵具と同じようなモノとして感じられるのである。

そして、《Heavy Body Paint》の再帰構造においては、《Body Paint》のときには単にヒトとディスプレイとを同一条件にする役割を担うとされていた「色」が大きな意味をもつことになってくる。なぜなら、ディスプレイが放つRGBの三原色がつくる光の色とモノに由来する色とが全く異なる色のあり方になっているからである。《Heavy Body Paint》はRGBとCMYKを同一平面で扱おうとしている。メディアアーティストの藤幡正樹はコンピュータによる色の操作の可能性をまとめた『カラー・アズ・コンセプト』のなかで、コンピュータによる色の価値観の変化を次のように書く。

コンピューターが扱う光の3原色によって、色彩の価値観が解放されたといってもいいでしょう。どの色もその物質性から自由になって、高いから使われないとか、安いからなおざりに扱われるということがなくなりました。ところが、この光の3原色は、従来から私たちが扱ってきた絵具の3原色とは、極端に異なった振る舞いをします。光の3原色のルールでは、赤色と緑色が混ざり合うと黄色ができるのですが、これは特に昔から色彩について慣れ親しんでいる人にとっては、ほとんど理解ができない世界です。さらに、実際には「色を混ぜる」ということが、コンピューターの上ではありえません。残念ですが、絵具同士がとろとろ次第に混ざっていく「あの感覚」が、コンピューターの上にはないのです。ここに大きな意識上のギャップがあります。絵具からコンピューターへ至る変化、物質から概念への移行によるギャップなのです。9 

エキソニモの《Heavy Body Paint》は同一の絵具の一部が映像に映り、一部がディスプレイに塗られている。これは絵具の一部が光で示され、一部がモノであることを意味する。光の色は物質の色のように混ざることはないと藤幡が指摘するのと同じように、通常、光の色はモノの色とも混ざることはない。なぜなら、このふたつの色のあいだには概念と物質という超えがたいギャップが存在しているからである。しかし、《Heavy Body Paint》においては一瞬、光の色とモノの色とが交じり合い、同一のものだと感じられる。それはモノの色と光の色とのあいだにあるギャップが、一瞬、埋まってしまった結果として起こるものだと考えられる。《Heavy Body Paint》が示す再帰構造において、ディスプレイが示す物質から概念へ移行した色が、再び、物資へと強制的に移行させられるような事象が起こり、それに伴い、光の色とモノの色とのギャップが埋められる。絵具のビンをモチーフにした《Heavy Body Paint》は、「Heavy Body」と記されたビンを起点に絵具を巡る再帰構造を作品に取り入れ、モノから解放された概念化した色=光を、再び、モノに具現化する流れを明示するのである。

ヒトの身体の延長としてディスプレイを塗ることから始まったエキソニモの「Body Paint」は、《Heavy Body Paint》が示すように、色を巡る再帰構造をディスプレイに持ち込むことで、モチーフと同一色でモチーフの表示部分以外のディスプレイを塗り潰す手法となりヒト以外のモノへも適用可能となった。それはヒトとデバイスの境界だけでなく、デバイス同士、モノ同士の境界も曖昧になってきていることを示しているのかもしれない。モチーフがヒトであろうと、ビンであろうと「Body Paint」は、映像で示されるモチーフと塗りつぶされたディスプレイのあいだで、光の色とモノの色とが混ざり合う事象を発生させる。そして、見る者に「実際のモノが存在するかのような錯覚」=認識のバグを引き起こすと考えられる。

モノに擬態する光

エキソニモの《Body Paint》と《Heavy Body Paint》を見たときには、 前回考察した Houxo Que や Evan Roth の作品とは異なり、ガラスが全く意識されない。ガラスが意識されないのはもとより、ディスプレイそのものがその存在をひっそりと隠している。ディスプレイが消失しているといったほうがいいのかもしれない。ある程度遠くからみると、ヒトや絵具のビンというモチーフが中心に描かれている「絵画」のように見える。しかし、近づいて、作品を見ると「絵画」のように見えたものの支持体がディスプレイであるということがわかる。ディスプレイがヒトや絵具のビンの像を形成する光を放ち、そのガラス面とフレームにまで絵具が塗られている。絵具というモノがひとつ平面をつくり、ペイントされていない領域からは光が放たれている。

《Body Paint》と《Heavy Body Paint》では、ピクセルの支持体として機能しているディスプレイそのものが絵具の支持体となっている。ディスプレイはピクセルの支持体として存在しているが、そのことは普段ほとんど意識されない。ディスプレイは画像の表示面をもち、それを保護するためのガラスの平面をもっている。そして、ガラスの平面は樹脂製のフレームで囲まれている。フレームがガラスの平面に保護された画像表示面である光る平面を他の空間から明確に区切る。このフレームがヒトの注意を光る画像のみに集中させて、ディスプレイというモノの存在を消失させる。しかし、エキソニモはディスプレイのフレームを含めてペイントしてしまい、モノとしてのディスプレイと画像の表示面としてのディスプレイの区分けを曖昧にする。エキソニモの作品においては、通常はガラスを透過して見る者に放射される光はヒトとビンの輪郭に沿って塗られた絵具で遮断されるため、光はヒトと絵具のビンだけを表す。

光とモノとがヒトやビンのシルエットに沿って確固とした境界をつくると同時に、常に揺れ動いているヒトとビンとがこの境界を曖昧にする。この明確であると同時に曖昧な境界は、光とモノとのちがいを強調するのではなく、逆に、そのちがいを曖昧にして、ディスプレイの光をディスプレイに塗られた絵具と同一平面に押し出す。そして、光と絵具とが交じり合いながらひとつの平面をつくり、ディスプレイのガラスを消失させる。それゆえに、そこに「絵画」のような存在が現れる。それはヒトとビンを構成する光とその周囲の絵具というモノとが融け合おうとしているからである。ヒトとビンというモチーフは明確に示されるが、それらを構成する光と周囲の絵具というマテリアルのレベルが互いに融け出して、ひとつの平面をつくりだす。

光と絵具とが形成するひとつの平面において、光は絵具のようになって、「光でもあり絵具でもある」というキメラ的状態になっているように見える。しかし、実際には光が絵具になることはない。あくまでも、光と絵具というモノが混ざったように見えるだけである。では、なぜ混ざるはずがない光とモノとが混ざるのか。それは、光と絵具とが形成する平面において、光が絵具というモノに擬態するからである。「擬態」というと単に別のモノの様子に似せるカモフラージュの意味を思い浮かべるかもしれない。しかし、フランスの哲学者、ロジェ・カイヨワは「擬態」を「魔術使いが自分で自分に罠をかけるという、至上の形態のまじない」として定義する10。なぜなら、カイヨワは、昆虫の擬態が敵から身を隠すためのカモフラージュではなく、最終的な目的が「周囲の環境への同化」であるために、擬態が昆虫の形態を決定していたと考えているからである11。《Body Paint》と《Heavy Body Paint》のディスプレイ上で起こっている光の擬態は、単にモノを真似ているのではなく、カイヨワが指摘するように、光が周囲のモノである絵具と同化して、その形態を変えていると考えられる。擬態は形態変化というひとつの魔術であり、エキソニモは「Body Paint」という手法で、光をモノへと擬態させる。

ここでもうひとつ「擬態」について引用したい。美術批評家のロザリンド・クラウスはカイヨワの擬態論を受けて、次のように記している。

動物のカムフラージュは動物の生命を救いはしない、とカイヨワはいう。カムフラージュは視覚領域の出来事だが、動物の捕獲は臭いを媒介として行われるからだ。擬態は適応行動ではない。そうではなく、それは「空間」の呼びかけに対する特異に心理的な応答なのだ。内側と外側の境界、即ち、図と地の境界の維持の失敗なのだ。それは、自己の全体の輪郭を、自己保持をゆるめることであり、ドゥニ・オリエのいうように「主観性の縮小」の一例だ。自身の環境に乗り移られるように、身体は崩壊し、溶解し、周囲の空間の写しを作り出す。写しを作り出すのはまさにこの乗り移りなのであり、それは実際、図を消すことなのである。地の上の地。12

クラウスの擬態論における図と地の話から、もう一度、エキソニモの《Body Paint》と《Heavy Body Paint》とを見ていきたい。ディスプレイのガラスに塗られた絵具によって、このふたつの作品のディスプレイは「光の明滅」という原型的性質を一度剥ぎ取られる。その結果、作品は「絵画」のようにみえる。それはいわば「図」を構成する光が崩壊し、ディスプレイのガラス面を絵具で塗りつぶした「地」に溶解して、周囲に平面に同化してしまったことを意味する。光が示すヒトやビンという図は輪郭を絵具という地に取り囲まれることで、その境界を明確にするのではなく、「図と地の境界の維持」に失敗する。なぜなら、常に揺れ動く映像の光が、絵具がつくる平面との境界にゆらぎをもたらしているからである。そして、映像という図から発する光は輪郭を取り囲む絵具という地に擬態し、絵具とモノに擬態した光とが「地の上の地」を形成する。ここでの「図」と「地」とは、ディスプレイの光が描くヒトやビンのモチーフとその周囲の絵具で塗りつぶされた平面のことではなく、モチーフを描く「光」と平面を塗り潰す絵具という「モノ」というマテリアルレベルのことを言っている。光がモノへと形態変化を遂げるような魔術的な平面がマテリアルレベルでつくられている。

しかし同時に、光は光としてヒトとビンを示し続け、モノと光とが交じり合った平面から浮き出てくる像を形づくる。この時の光は単なる光ではなく、一度、モノに擬態した光として、ヒトとビンの像を形成する。それゆえに、その像は映像の光でありながらも、あたかもヒトやビン自体がそこに存在するかのように見えるのである。 《Body Paint》と《Heavy Body Paint》では、ヒトやビンが際立ってみえることが重要なのではない。一度は周囲の絵具に擬態して「地の上の地」を形成した光が、モノに擬態した状態で再度、光とモノとが混合したあらたな平面の上に図を描くことが重要なのである。クラウスの擬態論はアンフォルメルを目指し、明確なかたち、区分をなくしていくことを意図していたけれど、エキソニモの「Body Paint」がつくりだす光の擬態はマテリアルの境界を崩し、魔術的平面をつくるけれど、その上に描かれる図は保たれるのである。

エキソニモは、これまで引き剥がすことも付け足すこともできないとされたディスプレイの光の平面に絵具をペイントすることで、モノとモノに擬態した光とが交じり合った「地の上の地」をつくる。一見すると、エキソニモの作品は「図=光=モチーフ」と「地=モノ=絵具」の対比によって、光をモノのように見せているように見える。しかし、それはモチーフのレベルではなく、マテリアルレベルで光とモノとを重ね合わせているのである。エキソニモが 《Body Paint》と《Heavy Body Paint》で用いた「Body Paint」という手法がディスプレイにあらたに実装したのは、モノとモノに擬態した光とが重なり合い、キメラ的なマテリアルとなって混じり合った平面自体なのである。このあらたな平面ではモノに擬態したあらたなマテリアルである光が、これまでの絵画やディスプレイに映る映像における図のように機能している。だから、「Body Paint」を見る者は、これまでのディスプレイ体験から得た感覚とあらたな魔術的な平面が引き起こす感覚を同時に感じることになる。そして、あらたな感覚を受け容れるために、従来の感覚とのすり合わせが行われる。その結果、「実際のヒトやモノが存在するかのような錯覚」をつくりだしてしまう。しかし、そこにあるのはモノではなく、ディスプレイでこれまで試されたことがなかった光とモノとの重ね合わせであり、その結果生じた、光がモノに擬態し、光とモノとが互いが融け合った魔術的マテリアルが展開する平面なのである。

ディスプレイの魔術的状態と認識のバグ

ディスプレイは光の明滅を原型的性質とする平面であった。けれど、エキソニモがディスプレイにペイントしたように、ディスプレイを光とモノとが融合可能な支持体にしてしまうことで、そこに光がモノに擬態する平面が生まれる。それは、光がモノに擬態して、モノと交じり合って形成された「地の上の地」である。そして、「地の上の地」はさらに融合して光とモノとが融合していく魔術的なマテリアルを展開する平面となる。そして、その平面に描かれた「図」が、ヒトの注意を引き込んで認識のバグを引き起こし、光とモノとを同一の存在として認識させる。つまり、ディスプレイが引き起こす認識のバグとは、光とモノという異なる形態が融け合う平面という条件のもとで、ヒトの認識が否応なしに光とモノとを同一視してしまうことなのである。しかし、実際にはそれはバグではない。なぜなら、ディスプレイでは光とモノとが融け合う魔術的な状態が徐々につくられてきているからである。ディスプレイで起こりつつある魔術的な状態への遷移を「認識のバグ」というのは、モノに擬態する光などディスプレイが示すあらたな状態が、これまでのディスプレイ体験と著しくズレているからなのである。

しかし、光という融通無碍な存在は、モノにだけ擬態するわけではないだろう。光はデータにも擬態して、「地の上の地」をつくりだし、それらが融合したあらたな魔術的な平面をディスプレイにつくり、そこにあらたな図を描いていると考えられる。次回は、光とモノとが融け合った平面だけではなく、光とデータとの融け合った平面の形成の可能性を探るために、ディスプレイの「薄い板」という型状自体を作品に意識的に取り入れた谷口暁彦の連作「思い過ごすものたち」や「滲み出る板」を考察し、記述していきたい。

参考文献・URL
1. エキソニモ、Body Paint (series)、http://exonemo.com/works/bodypaint/?ja (2016.7.25 アクセス)
2. Featured Interviews_Houxo Que」、“QUOTATION” Worldwide Creative Journal no.22、2015年、p.116
3. Houxo Que(@ QueHouxo)のツイート、 https://twitter.com/QueHouxo/status/670218641321758720(2016.7.25 アクセス)
4. エキソニモ・千房けん輔(@1000b)のツイート、https://twitter.com/1000b/status/670431002838368256(2016.7.25 アクセス)
5. 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」、美術手帖 2015年6月号、美術出版社、p.86
6. 同上書、p.83
7. NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]「オープン・スペース 2016 メディア・コンシャス」展、《Body Paint – 46inch/Male/White》及び《Heavy Body Paint》の作品解説、http://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/heavy-body-paint/(2016.7.25 アクセス)
8. エキソニモ、「ゴットは、存在する。」 (series)、http://exonemo.com/works/spiritualcomputing/?ja (2016.7.25 アクセス)
9. 藤幡正樹『カラー・アズ・コンセプト デジタル時代の色彩論』、美術出版社, 1977、p.7
10. ロジェ・カイヨワ『神話と人間』、久米博訳、 せりか書房、1975、p.113
11. 同上書、pp.113-114
12. ロザリンド・クラウス「視覚的無意識」小俣出美・鈴木真理子・田崎英明訳、『モダニズムのハード・コア―現代美術批評の地平』kindle版、太田出版、2015、Location 4948

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。