MASSAGE MONTHLY REVIEW – 10

MASSAGE&ゲストで、10月の音楽リリースをふり返る。

S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, N=Shigeru Nakamura, C= Chocolat Heartnight, I=Hideto Iida

ARS WAS TAKEN – HOLD ON 2 ME

ARS WAS TAKENは、Planet Muなどから良作をリリースし続けていた東ロシアのグループWWWINGSの片割れ。ノイズに溢れた未来主義的な抽象画のようなWWWINGSが作り出してきたサウンドは、活動休止を経てリリースされたこのソロデビューアルバムでさらに押し進められている。思索的なメランコリーと、レイブの高揚の間をぬいながら、カットアップ・コラージュによる切断を繰り返し、予測できない形を作り出していく。乱暴なザッピングの果てに残るのはダーティな質感を持つ電子的ゆらぎをもった手触りの記憶である。それはインターネットの奥に広がる、工業的なデストピアであることは間違いないが、いくぶん叙情的な匂いが加わったそれは、以前より優しい響き含んでいるようにも感じられる。凍えるような寒さを胸に、重く立ち込める分厚い音の雲で全身を深く包み込む癒やしもあるのではないか。多くの曲にゲストを招くのも特色の一つで、参加者はHikawa Yoshitaka、YAYOYANOH、Dasychira、D33J、HDMIRROR、AJ Simonsなど。またアートワークは元相方のGXXOST。(S)

David Wojnarowicz & Ben Neill – ITSOFOMO: In The Shadow of Forward Motion

「再発」というワードにはなぜか妙なエロティシズムを覚える。入手困難な音源のアーカイブ化という文化慈善的な側面はいちど脇に置いて、それは、既存の文脈に包摂されずに逸脱と変容を繰り返していく、なにか巨大な音楽集合体の渦めきにあえて触れ、今までの経験で図らずも重ねてきた、期待やイメージのようなものがその都度容易に覆されていく、といった自身のマゾ的行為が現前化するからなのかもしれない。過去作品の発掘は音楽の分野に限った出来事ではないけれど、創作意欲のまま制作に没頭し、欠片を遺していった音楽家たちが偶然世界中に多く存在し、無数のレーベルがそれをサルベージしてくれるおかげで、現行の作品にはない倒錯的めいた享楽をそこに見出しては、不思議な喜びを味わうことができる(少なくとも自分の場合)。
国内でも海外でもほとんど話題に上っていないのだが、先月LPで再発された『ITSOFOMO-In the Shadow of Forward Motion』も、どのような文脈からもこぼれ落ちてしまうような、得体のしれなさと強度にあふれた作品だった。これは芸術家のデイヴィッド・ヴォイナロヴィチと、作曲家のベン・ネイルのコラボレーションによるパフォーマンス『In the Shadow of Foward Motion』のサウンドトラック集で、1989年にニューヨークのザ・キッチンで初めて上演され、その後何度かアメリカ国内や海外で披露されている。ヴォイナロヴィチは映像や写真、ペインティング、音楽、インスタレーション、パフォーマンスと多岐に及ぶ分野で活躍したアーティストで、過酷な幼少時代と同性愛者としての出自を作品内に取り込んだ作風で知られ、HIIVを発症したのち37歳で生涯を終えるまで、アクティヴィストとしても活動を続けた。今年の夏に、ニューヨークで彼の大規模な回顧展が開かれ、今回の『ITSOFOMO』が約25年ぶりに再び公の場で披露されるという機会があったようだ。
電子処理化された管楽器とパーカッション、ヴォイナロヴィチの唸りにも近い低い声によって読み上げられるテキスト・スピーチ、異なる映像が映し出された4つのヴィデオクリップとスクリーン、数人のダンサー、といった複合的な要素が混交しながら、一定の速度に従ってメディアのアマルガムは加速を続けていく。作品のテーマとなる「アクセレレーション」(≒「速度」)は、思想家のポール・ヴィリリオが唱えた「ドロモロジー」に端を発したもので、前進へと駆り立てる近代資本主義以降の原理と、ヴォイナロヴィチの内省的な感情の言葉が重なりながらフィードバックし、「社会」と「個人」の狭間に生じたエネルギーが、力強い身体的な喚起を促していく。減衰することのない速度に飲み込まれ、はじめは戸惑いを覚えていた私たちもいつのまにか一要素として構成され、狂気じみた前進運動に進んで加担するようになり、やがてその場に留まることを忘れてしまう。その共犯関係をヴォイナロヴィチによって暴かれたのち、なおも流れに身を任せるか、逃れようと踠くのかは、それぞれに委ねられている。(T)

NO喫茶 – NO KISSA

好きなのだけれど理由をうまく説明できないものやことや人というのがある。説明しようとすればするほど、自分の中にある好きの本質から遠ざかっていくような、好きという感情の周りをぐるぐる回っているだけみたいな、そんな感じになる。すぐそこに見えているのに歩けど歩けどたどり着けない目的地だ。また逆に、理由をいくつも説明できるほうがそれを好きな気持ちが疑わしくなってくることもある。“それ”が好きなのではなく、“それ”を覆っていたり、“それ”に付帯していたりするものが好きなだけなのではないか、“それ”の内側が好きなのではなく外側が好きなだけなのではないか、そんなふうに思える。外側といっても見た目が好きとかそういった話ではない。わけもなく好きな見た目はむしろそれ自体が説明のしようのない、かつ、強い理由となり得るだろう。『NO KISSA』を聴いていると、そんなことを考えてしまう。NO喫茶のサウンドにはひかれるが、その理由を説明するのは難しいからだ。それでも、置いてきた記憶のかけらを含んでいそうな空気を持つそのサウンドは心地良い。もっとも、「膨大なレコードライブラリーの中から生み出されるトラック群」ということなので、どこかにノスタルジーのスイッチを押す何かが隠れている可能性もおおいにあるのだが。何にしても、上手く説明できないけれどなんとなく好きだなあというのは、きちんと言語化できるよりも確かで幸せだということもあるのだ。(C)

Le Makeup – Matra

Wasabi Tapesのリリースから注目され『電影少女』の劇伴を手がけるなど、丹念に着実に成長の道を歩んでいるLe Makeupの、汎アジアを標榜するコレクティブ〈Eternal Dragonz〉からのリリース。叙情性と力強さを合わせ持つオリジナルなトラックを作り出してきた彼が、全編自身のボーカルをフィーチャーした作品となっている。人は人の声に否応なしに惹かれるものだけど、しかし誰しもがそうなのだから、普遍性は簡単に安直にもなり得る。だからこそこの作品のような、研ぎ澄まされた曖昧さが欲しくなる。言葉は物語を作り出すが、同時に解体もする。積み木のように、さまざまな形を作り出す夢と同じようなその余韻が、はっきりとした形をなす前にまた新たな動きを作り出す。繋がり合う言葉と、風のような軽やかに積み重ねられた意味がただただ吹き抜けていく、小気味よさに溢れた作品。(S)

Bruce – Sonder Somatic

ブリストルを拠点とするBruceのフルアルバムが自身の初リリース元である〈Hessle Audio〉から届けられた。この現在のイギリス、そして世界のクラブ・ミュージックをリードする3人の目利きから成るレーベルからリリースされたこと、そしてBruceは他にも〈Dunos Ytivil〉、 〈Hemlock〉や〈idlehands〉、また〈Timedance〉からもリリースを重ねていることから、これらに馴染みのある人々には彼の音楽が想像できるだろう。ダブステップを起点にテクノやエクリペリメンタルな方面へ触手を伸ばし、広がり続けるポスト・ダブステップの流れを代表するようなレーベル勢であり、そのいずれからも引く手あまたの存在であるのがこのBruceである。Bruceの名を見たら、そこに未来があると言っても過言ではない。彼の音楽は常に未来を向いている。

Bruceの音楽はそのパーツのそれぞれがまるで細胞のように組織され、機能している。曲によって多様なリズムが採用され、キックが鳴らすリズムはフロアでの鳴りが意識されたものである。その一方で、中高音域には様々なメロディが飛び交う。全体としてはポスト・タブステップの流れにおけるテクノへの傾倒が見られる中、そこにはデトロイト・テクノまで遡って想起させるような荒さも備えたエネルギッシュな音に加え、たとえば(他のレビューですでに触れられていたが)Monolakeのような硬いダブ・テクノを連想されるような音も聞こえてくる。さらにノイズや急なビートの変化など様々な音響的なしかけも綿密に設計されている。先に述べたような「未来的」という表現がふさわしいような、歪んだ叫び声やノイズが全体を塗り替えていく。ブレイクの入り方や極端に音数が少なくなる展開、そしてBPMの異なる楽曲たちがスムーズにノイズなどで繋がれていく様は美しく、冷たい。

Bruceの音楽はクラブでどのように鳴り響くのだろう。冷たく、時に全てを引き裂くような叫び声やノイズが入る彼の音楽は、フロアがある種のコミュニティであるとすればそこに亀裂を入れるような機能をもつのかもしれない。このアルバムの狙いは「フロアで、少しの間その周囲の環境から人々を引き離しながら、彼らが自分が誰だかわからなくさせるという変形をもたらす生々しい感覚」を描くこととされている。また、アルバムのタイトルは『Sonder Somatic』という。前者はThe Dictionary of Obscure Sorrowsによれば「通り過ぎていく人々も自分と同じように鮮やかで複雑な人生を歩んでいることに気づく感覚」であり、後者は細胞の意味をもつ。彼のもつアルバムの狙いとタイトルを合わせれば、クラブというコミュニティにおける細胞である一人ひとりに向けられた音楽であることは明らかであろう。それは躍らせるという機能性だけを持ったものではない、美しく冷たい未来の音楽であるが。(N)

Nils Berg Cinemascope – The Missing Piece

2018年10月神保町にある光明寺で行われた”お寺の音楽会 誰そ彼”では、スウェーデンのゴセンバーグ出身のジャズトリオNils Berg Cinemascopeがメインアクトだった。その前日に青森県でいくつかライブし、その内容は伝統的な三味線ホールでの三味線奏者とのコラボレーション、舞踏家と森の中でコラボレーションしていた。ここまではまあ珍しくはないジャズミュージシャンの活動ぶり。しかし彼らのスタイルが一味違うのは、それ過去のライブを映像に残し、次のライブで投影して過去の音と合わせて演奏するという点。楽器はドラム、サックス、フルート、シンセサイザー、ベース、コントラバス。映像の音と合わせれば単純にダブルベースやダブルドラムスになる。それでも彼らは、どのタイミングでどんな音が鳴るか把握しているため絶妙な音数で流れていく。またこのライブでは舞踏家の福士正一氏が参加しており、映像を投影したスクリーンを掻き分け背面から登場する。目にした光景から、音の響きに対しても虚と実を不思議と考えさせられた。バンド名に”Cinemascope”が入るのもこのライブで理解した。普段のライブでは撮り貯めた演奏映像を流し、その音に合わせて演奏するスタイル。世界中を旅しては各地域の民俗音楽を取り入れた彼らの音楽が楽しみだ。(I)