MASSAGE MONTHLY REVIEW – 1

MASSAGE&ゲストで、1月の音楽リリースをふり返る。

S=Yusuke Shono, T=Kazunori Toganoki, N=Shigeru Nakamura, C= Chocolat Heartnight

Ragnar Grippe – Symphonic Songs

70年代中期から現在にいたるまで精力的に活動を続けてきたスウェーデン出身の電子音楽家、ラグナー・グリッペの1980年の貴重な未発表音源集が〈Dais records〉より2枚組のLPでリリース。アートワークを手がけるのはAscetic Houseの主宰者でもあるJS Aurelius。クラシック音楽の演奏者としてのキャリアを若くして諦めたラグナーは、当時彼にとっては未知の領域であった電子音楽を追求するために、フランスのGroupe de Recherches Musicale(GRM)で本格的に作曲を学び、その後大学での研究を続けながら、実験音楽の分野で着実に才能を開眼させていく。この『Symphonic Songs』はコンテンポラリー・ダンスの振付師であるスーザン・バージュからの依頼を受け、彼女の新作公演の劇伴のために用意された作品。音楽史に名を残した77年の怪デビュー作『Sand』が、もともと交流のあったリュック・フェラーリが個人運営するALMスタジオで録音されたのに対し、今作はミュージックコンクレート/エレクトロアコースティック界ではGRMやIRCAMと肩を並べて知られる、ラグナーにとっては馴染みの深い地元ストックホルムのElektronmusikstudion(EMS)で録音された。ブックラシンセイザーやマルチトラックレコーダーをはじめ、潤沢な機材が揃ったEMSスタジオの環境のおかげで、前作には見られない新たな挑戦が色々試みられている。「Sand」のコンクレートかつミニマルなテクスチャー(前述したスタジオでの機材の制約が翻って、こういう独自の音楽性が編み出されたのか)は消失し、今作では異なるレイヤー同士を重ね合わせながら、ブックラによるサウンド実験を心ゆくまで楽しんでいる。全体で80分を超える長尺で、劇場面に沿った音のパートがどんどん繋がれていくという構成のため、特に一貫したテーマ性は見られないのだが、電子変調された男女の声音や突発的な金属音の挿入が緊張感を持続させながら、ぬめりを帯びた音の弛緩と収縮が繰り返され、独特の飽和した感覚がなんとも居心地良い。ちなみに実験度全開のこの作品の翌年に発表された『Lost Secrets』では一転して鮮やかなニューウェーブ色のバンドサウンドを披露していて、現在の視点からは全く不可解な、クロスオーバーともいえないこういう音楽性の脈絡のなさは、ある種テクノロジーがジャンルを先行していた時代の特権性を示すものでもあって面白い。(T)

Xosar – The Possessor Possesses Nothing

アラブ首長国連邦のレーベル〈Bedouin Records〉から、絡まりあったドラゴンのカバーアートが印象的な、XOSARことSheela Rahmanによる4年ぶりのリリース。実際にサイキックパワーを持っている家族のいる環境で育った彼女が、超常現象や異世界への関心を自身の創造性へと昇華させたインダストリアルテクノの質感を持つテクノミュージック。深みを潜水していくかのような未来的なその想像力は、音楽を作ることを自己療法と考える彼女の創作コンセプトに由来する。錬金術、クンダリーニヨガ、フラクタル、DNAの構造、黄金比、バイオフィードバック、準結晶などといったあらゆるアイデアを研究し、そして最終的には自分自身の受容へと至る。その神秘への探求は、自己を暴いていく過程であり、創造とその行為は深くつながっている。その探求は聴くものを時間と空間を超越する恍惚の旅へと導く。(S)

Tavishi – মশ্তিষ্কের কণ্ঠশ্বর | Voices in my head

サイエンティスト、ミュージシャン、そしてヴィジュアルアーティストでもあるTavishi(Sarmistha Talukdar)は、自身の研究をデータをサウンドスケープへと変換する実践を行っている。伝統的な文化を持つベンガルから来たクイア女性という出自を持つ彼女は、自己の中間的状態の分裂を聴衆との音楽体験により合一し、カタルシスや癒やしの感覚へと昇華することを試みる。この最新作は、アジアをテーマにし活動するプラットフォーム/コレクティブ〈chainabot〉からリリースされた作品。癌細胞がストレスの多い状態で生き残るために自分自身を食べるオートファジーと呼ばれる過程について彼女が発表した研究データを作られた“I eat myself alive”は、アミノ酸配列を音に変換し、分子信号のフローチャートに沿って配置することにより作られた。また、“Satyameva Jayate”はサウンドのループとフィールドレコーディングにより「取り残された人々の歴史」を表現し、その最終的な勝利を願って作られたトラックである。抽象的かつインテリジェントなそのサウンドスケープは、インドの伝統的な調律とエクスペリメンタルな音響の間を行き来しながら、持続音や不協和音、また親密さと拒絶の間を横断する。そこにはしなやかさとダイナミズム、そして組み尽くすことのできない豊穣さが宿っている。(S)

Nkisi – 7 Directions

作品に対峙する際に、その作者のルーツやアイデンティティを丁寧にたどることの必要性は、音楽だけではなくエンターテイメントのフィールドでますます強くなっている。たとえば昨今のブラック・カルチャーへの「関心」と、黒人が主役のヒーローものなどウケないと言われていた過去が嘘のように、そういった作品がアカデミー賞にノミネートされるまでに至ったことの間には確実に関連があるだろう。
しかし、他方で「ブラック」「アフリカ」などの語そのものが十二分にそのルーツや背景を語るものではない。先に挙げた映画でも、アメリカン・アフリカンにとっての大きな経験を描くものであっても、そこで描かれるアフリカの架空の国についてはアフリカへの先入観が大きく作用しているとの批判も時にあったからだ。ある特定の人種や民族の文化的背景を背負ったり迫ることには多大な難しさがある。鑑賞する側も同じような態度で軽々しくそこにルーツを見とることは、大きな誤解を導きかねない。
Nkisiの楽曲が評される際に、彼女の出自であるアフリカ、コンゴ民主共和国への視点が散見される。そのアーティスト名がその地では「魂が宿るもの」であることからも、彼女の自身のルーツへの強い思いが伺えることは明らかだ。しかし彼女の音楽には、ルーツへの視点のみが自身のアイデンティティを音楽に位置づける唯一の方法ではないという意思が示されているように思う。
本作はLee Gambleの主宰する〈UIQ〉からリリースされた。強く印象付けられるのはテクノだ。先に述べたアフリカ的なものは、七曲目のように、たとえばKonono no.1が鳴らすような、ルーツについて記名性を持った音が鳴る。しかし、全体として我々がアフリカを想起するようなわかりやすい音像が提示されるわけではない。これはある種の期待を持って聴くリスナーには残念な展開かもしれない。たとえば一曲目はアンビエントのような包み込むような柔らかさに包まれた後にリズムが複雑に絡むようにキックが入ってくる。二曲目は打って変わり、パーカションの音で始まり、キックの乱打がそこに重なる。後半になると、六曲目では音の間に隙間が作られ、いわゆる「ウェイトレス」な電子音楽も彷彿とさせる。Lee GambleのルーツにJeff Millesのようなテクノがあるように、彼女のルーツにはテクノがあるのだ。
その特に顕著な点を述べれば、彼女の音楽は90年代の、とりわけAphex Twinの影がハッキリと残る当時のテクノの強い影響下にある。彼女は幼い時にコンゴ民主共和国からベルギーに移ったというが、同じ90年代のテクノの流れの中でもガバと言ったハードテクノの影響は本作ではうっすらと伺えるものの、文字通りの弱い残像でしかない。はるかに強いのはAphex Twin、そして〈R&S records〉からリリースされたような当時のヨーロッパテクノの姿である。
「物語る」という行為は音楽においてはその音自体になるだろうが、彼女の出自についてその地理的な変遷を考慮すれば音楽も同じようにさまざな音楽の影響下にあるというべきだ。さらに、本作はコンゴ民主共和国にて大きな影響をもつ学者の宇宙観に影響されたものとも言われる。どこまで僕も含めたリスナーがこの宇宙的な音についていけるのだろうか。文字と異なり、音が語ることは往往にして断片的でありイメージである。そして当たり前のことだが、ルーツとはそんなシンプルなものではない。我々はそんなシンプルな世界、時代に生きてはいない。「魂の宿るもの」であるNkisiのその内側にはあるものは、確かに宇宙なのだろう。(N)

feather shuttles forever – 図上のシーサイドタウン

小確幸と呼ばれるものについてよく考える。大きな期待をせず、過度な刺激を求めず、目の前にある小さいけれど確かなものを喜び、楽しみ、そこに幸福を感じられたら、と。feather shuttles foreverの「図上のシーサイドタウン」には小確幸がある。サボテンの鉢を抱えてドイツ車に乗ったり、くらい遊びをしたり、ボルシチを食べたり、時には、スタンプばかりのメッセージなら夜は9時に寝ると静かに怒ったり(船出が早いのは漁村だからだろうか。そんなことを想像するのも楽しい)、そして、「失踪しませんか?」と誘ってみたり。ほどよい脱力感と浮かれ具合と風通しの良さ。このアルバムを聴いていると、自分もそんな日常を過ごす人になれたみたいに錯覚できる。それも、小さいけれど幸せなことなのかもしれない。(C)

ALTZ.P – La toue

2000年初頭の大阪のアンダーグラウンドシーンの空気とも連動する唯一無二の作品を作り出してきたALTZの久々のリリースである「La tone」は、色褪せることのない爽やかな驚きを感じられる快作だ。真っ黒なビートはいつもどおりファニーな面持ちを持ち、その優しさに溢れた個性を響かせている。ストイックでミニマルでありながら、いつでも奔放な自由さを宿したビート。弾け出したい心を抑えるかのように、抑えられたそのリズムの中にあるストイシズムは逆に情熱的ともいえる。その熱気は、鮮やかに身体性と結びついて、聴くものの心をその原始の炎で焼き焦がす。フルバンドとなったその演奏は、楽器と楽器は有機的に結合し合い、鮮烈なその色彩を眼の前に大きく広げていく。よりスケール感を増したその世界観で、ここではない世界へと接続するユートピアを出現させる。(S)