Romero Report 1 x 1: 02
Everyday, Today [Kenta Cobayashi] x [Terrell Davis]

日本とアメリカ、2つの視点から表現を比較する。

キュレーターChris Romeroによるシリーズエッセイ第二回。

Text: Chris Romero, Translation: chocolat, Support: Masanori Mizuno

今回のエッセイでは、新進のアーティスト小林健太(デジタルツールを用いて画像処理を施すフォトグラファー)とTerrel Davis(生活を取り巻いている人工的なモノを3Dレンダリングした画像を制作しつつ、幅広い分野にわたって活動するアーティスト)の作品を見ていく。彼らは写真技術や技法を使用して画像にさまざまな効果、編集、操作を施している。小林とDavisは常に動きのある世界をとらえていいて、それは現実的であると同時に、人工的な世界なのである。

現在の肖像を示そうとするコンテンポラリーアートは、しばしば儚いものである。コンテンポラリーアートはデジタルカルチャーの存在を無視できるものである一方で、セルフィー、ミーム、バーチャルリアリティやPhotoshopが描くグラデーションといったものをいち早く取り入れた作品もある。しかし、これらのアプローチは短絡的で偏ったものであるようにも感じられる。しかも、リアルとデジタルといったテーマは人気ではあるが、極端なものが好まれ、ふたつが微妙に混ざり合っている曖昧な部分は見過ごされていることがほとんどである。小林とDavisは現実世界と人工的な世界とのあいだにある領域を探求しており、それはネット接続された僕たちの奇妙な自己をよりよく映し出したものになっている。

東京を拠点とする小林はiPhoneを使用して、日常生活、彼自身や友人たち、身の周りのものを撮影する。撮影した写真のなかで好奇心を刺激するものがあると、小林は写真をフォトプロップスなどのツールで編集する。画像に映るネオンサイン、窓のブラインド、人物といったものに染みやにじみのようなものがつけられたり、それらがつぶされたり、引っぱられたり、ひっかかれたりして、あたらしい次元に突入していく。この染みなどがつくる歪みが日常生活のどこにでもあるありふれた風景を再定義する。編集された画像が、僕たちの生活において言葉で言い表せない側面を示すメタファーとなっていることは間違いないだろう。それは僕たちが見ることはできないが感じているものであり、あわただしい都市を彷徨うなかで感じる目眩や目を離しても心のなかに留まり続けるネオンサインのぼんやりした残像のような存在なのである。小林は映像、zine、VRをベースとした作品の制作も行なっており、現代に生きている私たちの生態系を探求し続けている。

ニューヨークで活動するDavisはインターネットで入手した現実世界のモノを使って、3Dの静物画を制作している。さまざまな文化や地理的境界を超えて集められたモノには、たまごっちのような時代遅れのテクノロジー、ブランドものの香水ボトル、ニューヨークのメトロカード、日本のスナック菓子、綺麗な花束といったものがある。3D編集ソフトによって、モノには新しい色調と彩度を与えられ、鮮やかな光を放つ作品に組み込まれていく。モノのもつ独特の空気を明確にすることで、作品はコンセプトである「もののあはれ」を示すようになる。モノはつかの間の存在であって、生活のなかに現れては消えていくことを、僕たちは知っている。同時に、モノはそれぞれ特徴を持っている。Davisはモノを見えるままに見せるのではなく、編集技術を駆使して、モノの別のあり方を見せる。モノは僕らが望む、あるいは、心のなかに思い描く状態により近いように見えてくるのである。

小林とDavisの作品における類似点は、僕たちが見過ごしがちな周囲のものごとを観察し、作品に取り込んでいることである。いくつかの点で彼らの画像編集方法は、デジタル化された日々の生活でのリアリティをそのまま見せるのではなく、リアリティがどのように見えるのかに対しての解釈を提示している。それはにじんでいたり、輝いていたり、鮮やかでいきいきとしたものである。もちろん、彼らが主題としているものは様々である。小林が人や場所にフォーカスする一方、Davisは過去と現在を同時にもたらすモノとインターネットを作品のリソースとして、それらから派生する哀愁や共感を作品の主題に置いている。主題としているものが対照的であるにもかかわらず、ふたりとも日々の生活や日常的なものの見方を解き明かすことに関心をもっている。小林とDavisは「すべてのもの」を異なったフィルター、あるいは、異なった見方を通して見せるのである。

(left) Kenta Cobayashi, Line, #smudge, 2016. (right) Terrell Davis, Pride 3, 2017.

スナップ写真と染み

小林とDavisの作品制作には、ふたつのポイントがある。1つ目は、現実世界にあるものを捉えるスナップ写真という点である。2つ目は、スナップ写真を独特で異質なものにする染みのようなものである。日常的な写真は彼らの作品とは異なっている。撮影と編集は誰でも行なうことができるが、僕たちは画像にクリエイティビティの欠如を見続けている。だから、屋上で過ごすリッチな人々、東京スカイツリー、ニューヨークの薄っぺらな食べ物といった画像が何百枚も存在しているのだ。幾度となく、これらのイメージにはおなじみのフィルターがかけられ、編集されて、何か意味のあるものを見ているような気分を作りだしている。それらの画像はすぐに目の前から消え去り、デジタルというエーテルのなかに格納されていく。このありふれた日常の画像は過度に思わせぶりで、現実味がなく、落ち着きがない広告の画像と混じり合って表示されている。このように、僕たちが日常生活で生み出す画像と見ている画像は、ありふれた現実と手の届かない幻想との間で引き裂かれているのである。小林とDavisは、これらふたつの極端なもののあいだの領域を前面に出すように画像と日常生活にアプローチする。そこでは、僕たちのリアルの生活とデジタルの生活が並行して進行している。彼らが観測し、編集する風景は躍動感や活力があるように見えたり、目を引いたりするかもしれない。しかし、それはいつものモノや場所、散らかった机の上や公園に座っている友人などの画像である。日常はあらたな目的を与えられる。小林とDavisはつかみどころのなく、超高速で人々が互いにつながれていく社会をとらえている一方で、スローな部分や個人の場所がもつ親密さをまだ社会は含んでいるのだということもはっきりと示しているのだ。

僕たちの現在そのものをスナップ写真でとらえることは難しい。僕たちは、ステータス通知と新しいテクノロジーをとりつかれたように気にしながら、高速で未来へと移動している。しかし同時に、インターネットは過去と現在のどちらをも保存する。Davisの画像の構成方法はこのことを示している。彼の作品では、過去のモノと現在のモノとが混ざっている。モノに境界はない。高価な水差しがマライア・キャリーのCDの隣に置かれ、ノキアの旧型の携帯電話がフラワーアレンジメントのなかに置いてある。モノたちは動かないが、光を発しており、また、光を反射している。それらは儚げであり、同時に、時間のなかに閉じ込められているようでもある。美術史的な観点から静物画に関して述べると、Davisが作り出す作品の構成方法は僕たちの現代生活の様子と一致していると言える。その構成は、まるで僕たちが自分の机を見ているかのように上から見下ろす眺めであることが多い。自分に向けて輝きを放っている好きなものに囲まれたなかで、カギを探したり、携帯電話でメールやメッセージに返信しようとしたりしている瞬間を示しているである。

小林の写真についての考え方は、これまでの決まったやり方にしばられないものだ。主にiPhoneを使うことによって、彼が撮影できるものに限界が生まれる。iPhoneではフラッシュ、ズーム、持ち方が限られてくるからである。しかし、iPhoneを使うことは写真に新しい可能性をもたらす。パーソナルなデバイスを使って写真を撮ることで、予測できない瞬間を撮ったりすることができる。例えば、渋谷の交差点の写真は何百万枚も存在しているが、もっとずっとダイナミックでエモーショナルなシーンを作るために、小林は画像を編集する。指先ツールは撮影しただけではとらえることのできない、画像の性質を引き出すメソッドとなる。小林は写真を撮るという一連の動きのなかでヴィジョンを見ており、そのヴィジョンが可能になる方法を考えている。起こったままにそのものをとらえることには意義がある。しかし、編集のプロセスを通すことは、出来事に付随する感情をとらえるということなのである。指先ツールがつくる染みやにじみは、僕たちが画像を見て直接思い出すことはできないが、記憶として感じることができる部分を表現するのである。


Terrell Davis, Pride 4, 2017. Kenta Cobayashi, City (Kuala Lumpur), #smudge, 2015.

物質世界に生きる

Davisはモノを記録することでモノの記憶をつくり出す。一方で、小林は瞬間をとらえ、それがはかなく消え去るものであることを示す。しかし、どちらのアーティストもモノや人や風景をとらえることと編集することを通して、デジタル時代が発する感覚や空気を明確に描き出している。コンテンポラリーアートにおいて、ここに彼らの作品の重要性がある。小林とDavisは日々の出来事、モノ、日常の行動、場所、人々といったものを現在の名残り、あるいは、現在の人々が行なったことの結果であるかのように見ている。彼らの作品はモノ、こと、そして、僕たちが見過ごしがちな生活のなかで起こる相互作用を示す作品なのである。小林がクアランプールをとらえて画像にするとき、デジタル化されたメガロポリスの流れや携帯電話でメッセージのやり取りとする群衆ひとりひとりの動きが示されているのだ。Davisにとって現在をとらえることは、つかの間の儚さをとらえることであり、その作品はノスタルジックな感情や儚さを示しているである。時代遅れとなったテクノロジーが彼の画像のなかで復活する。しかし、それらは生花やスナック菓子といった傷みやすいもののなかに置かれている。皮肉なことに、Davisはこうした画像を、モノたちの魂を永遠に保存するインターネットを通して入手しているのだ。

Terrell Davis, 2016.

もうひとつ、どちらのアーティストもテレビゲーム、あるいは、少なくともテレビゲームの美的感覚に関心が高いということが、作品のインスピレーションとしてあることを指摘しておかなければならない。ふたりとも90年代生まれなのだが、90年代はおかしなゲームやアメリカと日本との文化交流が多い時代だった。Davisの作品で特徴的なのは、懐かしい日本のゲーム機が含まれていることだ。ゲーム機はたまごっちだったり、ファイナルファンタジーがプレイされているPSPだったり、ドリームキャストだったりする。僕は小林ともゲームの話をしたことがあり、特に「キッドピクス」についての話をした。マリオペイントに似たゲームであるキッドピクスは、へんてこな編集ツールが豊富で、驚くほど独創的な柔軟性で画像を描くことができるものである。コンテンポラリーアートの世界では、アーティストの過去の出来事や生活は作品から除外されている。しかし、Davisや小林のようなアーティストにとっては、過去と過去のなかでアクセスできたものが、彼らの現在に明らかに影響を与えているのである。

現在、僕たちはメッセージをチェックすることや現実世界でデジタル画像を眺めることに多くの時間を費やしている。デジタルワールドに入って、その光景を見ることもふつうのこととなってきている。僕たちが見るもの、触れるものすべてにデジタルのフィルターがかけられている。小林とDavisは、現在のリアリティをかなり違ったかたちで見ていると僕は思う。彼らの作品は、リアルとバーチャルのあいだに存在しているものを僕たちに見せるための観測行為なのである。彼らは、世界がほんとうはどのようなものであるかを見るための、より良い方法を差し出しているのだ。それは可塑性があり、編集ができ、カスタマイズ可能で常に変化していて、さらには、ダウンロード可能で、アクセスしやすく、どこにいようと関係ないものなのである。

Kenta Cobayashi, solo exhibition Insectautomobilogy / What is an aesthetic? @ G/P gallery, Tokyo until 8/12.
Cobayashi and Davis are featured in Forever Fornever, a group exhibition curated by Chris Romero at Rhode Island College, Oct 5 – 28, 2017.

Instagram: Kenta Cobayashi [@kentacobayashi] / Terrell Davis [@nikewater]
 

クリス・ロメロ
現代アートとデジタルカルチャーに関心を持つキュレーター、ライター、アーティスト。キュレーション、アーカイビング、ビデオ、写真、イラストの要素をさまざまな領域にわたるプロジェクトに取り入れている。そして、何がアートであり、何がアートではないのかといった厳密な概念を壊すコラボレーション的な活動を行なっている。新進のアーティストとの取り組みや、一風変わった、これまでにはないプロジェクトの製作、文化的、地理的な交流の開拓などに特に関心が高い。今後のプロジェクトには、国立近現代美術館でのソウルの若手研究者育成活用事業の促進、プロビデンス市のロードアイランドカレッジでのエキシビションForever Foeneverの開催、そして、the Wrong Biennaleのためのオンラインエキシビションのキュレーションなどが含まれる。

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