Masanori Mizuno
Overlapping between the object and the display device

谷口暁彦《夜だけど日食》と《透明感》@「超・いま・ここ」
ディスプレイを軸に畳み込まれ、重なり合う複数の空間

Text: Masanori Mizuno, Title image: Akihiko Taniguchi

Sorry, this entry is only available in Japanese. For the sake of viewer convenience, the content is shown below in the alternative language. You may click the link to switch the active language.

今回は、谷口暁彦の個展「超・いま・ここ」から《夜だけど日食》と《透明感》を取り上げる。《夜だけど日食》は、ディスプレイのモノとしての側面を強く意識させる作品である。対して、《透明感》は映像の表示にプロジェクターが使われていて、ディスプレイがモノではなく、イメージとして考えられている。このふたつの作品、及び、個展の際に配布されたリーフレットとの対話を通して、10年間継続して「ディスプレイ」を扱ってきた谷口が示す「ディスプレイの現在地」を探っていきたい。

モノとしてのディスプレイ/スキンとしてのディスプレイ

2007年から2017年の10年間の作品を「ディスプレイ」を軸にまとめ直した個展「超・いま・ここ」で、谷口は自作の解説と自らの活動をまとめたテキストを書いている。活動を考察したテキストの最後に、谷口は次の文章を書いている。

この10年間の作品を、時間と空間と「ディスプレイ」の問題として振り返ってみた。こうして見えてきたのは、なんらかの計算処理によって、リアルタイムに生成されるものは当然ながら、過去の出来事すらも「現在」として生起してしまう場としての「ディスプレイ」という存在だ。そして、その「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった、ということなのかもしれない。1

谷口は自身の活動を的確にまとめている。しかし、私はこの文章を読んだ際に「その「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった」という一文にひっかかりを覚えた。なぜなら、この一文のなかで、ディスプレイの状態がモノからイメージへと遷移しているからである。谷口はディスプレイと物理世界との連動を扱った作品を数多く制作している。けれど、彼はディスプレイを実際に「折り曲げたり、くしゃくしゃに変形し」たりはしていない。この部分は2015年の展示「スキンケア」で発表された《透明感》を念頭に置いて書かれている。そして、《透明感》はディスプレイを用いずにプロジェクターで映像を投影する作品であって、この作品で折り曲げられ、くしゃくしゃになったの「モノとしてのディスプレイ」ではなく、「イメージとしてのディスプレイ」だと考えられる。

立体物を3Dスキャンによって記録すると、表面のテクスチャデータと形態のメッシュデータに分解され保存される。3Dデータはあくまでも表面と形態いう表象しか記録できないため、どんなに正確に記録された3Dデータでも、現実に存在する物体とは違い、中身は空っぽとなる。西洋の幽霊 (ghost) が、しばしば中身の無い布だけの存在として描かれるように、3Dデータも皮膚だけの幽霊のように存在している。この作品では、そんな幽霊の皮膚を3つの方法でお手入れ(スキンケア)した。2

《透明感》は3Dスキャンによる表面のテクスチャデータと形態のメッシュデータとの関係を扱ったものであり、谷口はそれを「皮膚だけの幽霊」のようだと指摘している。「モノとしてのディスプレイ」を中身が空のモノとして「皮膚だけの幽霊」と見なせば、谷口はディスプレイを折り曲げたり、くしゃくしゃにしたりすることもできるだろう。《透明感》でディスプレイはモノからイメージになったと指摘したが、それは厳密に言えば、ディスプレイのモノの側面が抜け落ちて、表と裏とが一体化した「スキン」になったのである。谷口はモノではなくイメージ化したディスプレイを個別に扱うために、「イメージとしてのディスプレイ」を「スキン」という形態に限定する。確かに、《透明感》は「超・いま・ここ」に出品された他の作品と比較すると、ディスプレイではなくプロジェクターで映像を表示しているという点で異質な作品である。ディスプレイからプロジェクターの使用と谷口のテキストから、《透明感》で、谷口は「モノとしてのディスプレイ」を扱うのを止めて、ディスプレイをイメージ化して映像に送り返し、裏表が一体化した「スキンとしてのディスプレイ」を扱いはじめたと考えてみたい。

では、もし《透明感》が谷口のディスプレイをイメージとして扱うひとつの転換点だったすれば、谷口がディスプレイをモノとして扱う転換点はどこになったのか、それは「ディスプレイの中に表示される映像と、その外側にある現実の物理的な空間を様々な方法で関係付けることを模索したインスタレーションのシリーズ」である「置き方」からである。谷口は「置き方」シリーズを制作していくなかで、「現実の空間に配置された、ある厚みのあるオブジェクトとしてディスプレイを扱わなければならないという問題が見えてきた」と書いている。この問題は連作「思い過ごすものたち」へ引き継がれていく。しかし、今回、《透明感》が示す「皮膚だけの幽霊」としてのディスプレイと対比させたいのは、「置き方」シリーズのひとつでもあり、「幽霊をつくること」という課題に対して制作された《夜だけど日食》である。

とてつもなく地味な作品なのだけれど、そこで起きている出来事については結構気に入っている。まったく同じ仕組みで動作する過去の映像と、現在の実物が、その仕組みゆえに互いに影響しあうように動いてしまう。3

谷口が《夜だけど日食》について端的に書くように、この作品を含む「置き方」から「思い過ごすものたち」の流れは、物理世界に置かれた「厚みのあるオブジェクトとして」のディスプレイを軸にモノとイメージとが重なり合った領域に出来事が現れる作品になっている。特に、《夜だけど日食》では、ディスプレイを軸にして手前と奥のふたつに空間が分けられ、それぞれが「過去」と「現在」とを「モノ」と「映像」という異なる状態で示し、それらが重なり合って、そこに「幽霊」が現われたような不可思議な出来事が起こる。

このように考えてみると、谷口は10年間のほとんどを《夜だけど日食》をはじめとする作品で、モノとイメージとが重なる領域で現れる「幽霊」を「モノとしてのディスプレイ」とともに物理世界に引っ張り出していたといえるだろう。対して、《透明感》はモノとイメージとを重ね合わせて出来事を起こすところまでは《夜だけど日食》と同じ方法を使いつつ、プロジェクターによってその出来事を表示することで、「皮膚だけの幽霊」と化した「スキンとしてのディスプレイ」を提示しているのではないだろうか。このふたつの仮定のもと、《夜だけど日食》と《透明感》の個別の考察をしていきたい。

ディスプレイが可視化するふたつの空間の重なり合い

小さなディスプレイには、音に反応して明滅する電球の映像が映し出されている。電球は、音に反応してon/offを行う回路によって制御されていて、作者の鼻歌に反応して明滅する。その様子を映像として記録し、小さなディスプレイで再生している。このディスプレイの背後には、映像に記録されたものと同じ電球が配置され、映像の中に記録された作者の鼻歌に反応して明滅する。結果、ディスプレイの中の電球と、その背後にある実物の電球も同じタイミングで明滅することになる。またそれは、ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしているかのようにも見える。4

谷口の作品解説からわかるように、《夜だけど日食》(2008−2010)はディスプレイ内の電球の明滅が音をトリガーにして、ディスプレイ背後に設置された電球と同期するというシンプルな構造の作品である。ふたつの電球の明滅が同期すると、「ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしているかのようにも見える」ので、ディスプレイの内と外とがつながったような感じを受ける。「内」と「外」というのは少し異なるかもしれない。「内/外」と全方位的につながるというよりも、ディスプレイの表示面とディスプレイの裏側という限定的な重なりが生じているという感じを受ける。しかし、ここで起きているのは、実際には過去の映像と現在の実物とが放つ異なる光を同一のもの見なして、時制の歪みが生じるという複雑な出来事である。

映像の電球とモノの電球の明滅の同期というシンブルの構造から、時制が歪むような複雑な出来事が生じている。その理由を作品の制作方法から考えていきたい。

「置き方」でも同様の方法で、かつディスプレイ外の、現実の空間へと関係が作用していくことを考えていた。だから、音に反応してモーターを動かしたり、扇風機などの機器の電源をon/offする回路だけを先に制作した。つまり何らかの入力を受け取り、別の動きに変換して出力するインターフェイスだけ用意しておいて、あとは実際に入力と出力のバリエーションを即興的に試して決定するというプロセスで制作していったのだ。5

谷口は《夜だけど日食》を含んだ「置き方」シリーズの制作方法をこのように書く。「同様の方法」というのは、「置き方」シリーズの前に制作された《inter image》で試みられた、ルールのみを固定し、そこに収まる要素(《inter image》の場合は映像)の自由に選択可能にするといったものである。この方法に則って、「置き方」シリーズもルールとなる「インターフェイスだけを先に制作した」という点に注目したい。谷口は「置き方」シリーズで入力と出力とをつなぐ変換規則となるインターフェイスだけを先につくり、後に即興的に入力と出力を接続している。通常は、入力と出力というふたつの存在が先にあって、そのあいだをつなぐインターフェイスが求められるのに対して、谷口はまずインターフェイスをつくる。「インターフェイス」というふたつの存在のあいだが先につくられるのである。そして、インターフェイスが入力と出力とにつながれると出来事が現れる。そこで現れた興味深い出来事のひとつが《夜だけど日食》が示す「ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしている」という出来事である。実際にはディスプレイの裏側にある電球の光とディスプレイに表示されている電球の光とを同一視しているのだとしても、作品を正面から見る者の多くに対して「ディスプレイの電球の光が背後に漏れだす」という出来事が成立しまう。その出来事は、実際にはディスプレイの裏側にある電球の光とディスプレイに表示されている電球の光とが重なり合ったものである。

ふたつの電球の光の重なりはディスプレイというモノが光を放つと同時に、光を遮るから起こる。物理世界にモノとしての電球があり、ディスプレイに映像としての電球が表示されている。それらはディスプレイという平面を軸として分けられたふたつの空間にある。モノの電球の手前にディスプレイがあるため、見る者はディスプレイに表示されている映像の電球は見えるけれど、モノの電球はディスプレイに遮られて見えない状態にある。その状態で、映像の電球が光るとモノの電球も光る。このとき、映像の電球の光は後ろに漏れることはない。なぜなら、ディスプレイの構造上、映像の光は前方へ放たれるからである。しかし、《夜だけど日食》ではディスプレイの裏側にモノとして電球があり、その光の明滅が映像の電球の光の明滅と同期しているがゆえに、通常は裏側に回り込むことがない光が裏側に周り込んだように見えてしまう。そこでは、映像の電球とモノの電球というふたつの光がモノとしてのディスプレイによって遮蔽されながらも、互いに重なり合って、絡み合ってしまっている。そこで、ディスプレイが分断したふたつの空間が示す過去と現在とが「光」でつながり、時制の歪みが生じるのである。

入力と出力とのあいだにインターフェイスがあると考えるとき、たいてい、それは平面的な図で描かれる。だから文字でも「入力→インターフェイス→出力」と記すことができる。そのとき、視点は情報の流れを俯瞰できる位置に固定されている。《夜だけど日食》において「光が漏れだしている」状態を見ているとき、作品を見る者はディスプレイを正面のある一点から見ている。そこから見えるのはふたつの電球の光だけであって、ディスプレイの裏側に空間があることはわかるけれど、その空間の状況を確認することはできない。ディスプレイの裏側の状況を知るには視点を移動する必要がある。視点をディスプレイの裏側が見えるように回り込ませると、そこにはモノとしてのディスプレイが視線を遮っていたために見えなかった、もうひとつの電球が見える。当たり前ではあるが、ディスプレイの前方と後方の空間はひとつの物理空間でつながっているから、見る者の視点の移動は可能なのである。ヴァーチャルカメラのようにiPod touchの脇から背後へと視点を移動して、はじめて、見る者は《夜だけど日食》がディスプレイの表面に映る電球とディスプレイの背後の電球とが音をトリガーとして、光の明滅を同期させているのを見て、不思議な出来事の仕組みを理解する。しかし、ここではふたつの電球の明滅が同期しているだけであって、ディスプレイの表面とディスプレイの裏側とがぴったりと重ね合わされて、同一の存在になっているわけではない。映像の電球とモノとしてのディスプレイ、モノの電球とのあいだには物理的にも、時制的にも隙間がある。視点の移動によって見えるようになる隙間が、先につくられたインターフェイスによってつくられたものである。インターフェイスがつくる隙間が空間をふたつに分割することで、ふたつの電球が重なり合っているのである。

《夜だけど日食》では、インターフェイスと結びつけられたディスプレイを基準として手前と奥にふたつの空間があり、ふたつの空間にある電球は光の明滅の同期によって重なり合い、視点はその周りの物理空間を移動できるようになっている。ディスプレイの表面は平面上のイメージを表示している。同時に、モノとしてのディスプレイは、物理空間に一定の厚みをもって置かれているがゆえに、見る者にその裏側の空間を見せる。ディスプレイの裏側はディスプレイがないと存在しない空間であり、ディスプレイとセットで生じる空間である。けれど、通常は単なるニュートラルな物理空間として処理されている。《夜だけど日食》におけるディスプレイの裏側は、インターフェイスに接続されたディスプレイとともに現れるため、周囲の物理空間とは異なる個別化した裏側の空間となっている。なぜなら、裏側の空間にある電球は先につくられていたインターフェイスのルールによって、ディスプレイの表面の映像と同期するからである。しかし同時に、ディスプレイ裏側の空間は作品の周りの空間を視点が自由に移動することで発見されるため、ヒトとディスプレイとを取り囲む物理空間の一部でもある。制御するルールのスケールが、ディスプレイの裏側の空間はインターフェイスであり、ディスプレイ周囲の空間は物理法則とで異なってはいるけれど、これらふたつの空間は併置可能となっている。なぜなら、ディスプレイ裏側に生じる個別空間は、ニュートラルな物理空間にインターフェイスの特性を与えて、物理空間を複数化したものだからである。物理空間はインターフェイスという「隙間」によって、複数化していく。そして、谷口はインターフェイスの接続先にディスプレイを選択して、ふたつの空間の併置を可視化してしまう。ディスプレイは異なるふたつの空間の接続だけではなく、空間の重なりから現れる「幽霊」を可視化してしまう。インターフェイスが物理空間に隙間をつくり、物理空間を複数化して、それらをつないでいく。そして、インターフェイスに接続されたディスプレイがふたつの空間をつなぐ軸となって、ディスプレイに表示されている電球の光と裏側に置かれた電球の光とを重ね合わせていくため、時制が歪んでいくような不思議な出来事が起こるのである。

プロジェクターが畳み込む「スキンとしてのディスプレイ」

《透明感》は2015年の展示「スキンケア」で発表されたものだが、その際には真っ黒な背景に3Dモデルが回転していた。今回の「超・いま・ここ」に展示された《透明感》は、テクスチャデータを展開した画像の手前に3Dモデルが配置されるアップデートが行われている。

谷口は同様のアップデートを「思い過ごすものたち」(2013、2014)と「滲み出る板」(2015)でiPadを用いた作品《A.》と《D》とのあいだで行なっている。《A.》と《D》では、天井から吊るされたiPadがサーキュレータからの風を受けて、ゆらゆらと揺れている。《A.》のiPadには真っ黒い空間に3Dモデルの箱ティシュが置かれ、ティシュが風に揺れている様子が表示されている。《D》のiPadには背面カメラが捉えた物理世界の映像にカーテンがつけられた窓の3Dモデルが重ね合わされ、カーテンが風に揺れている様子が表示されている。連載の5回目「モノとディスプレイとが重なり合う平面」で、私は《A.》からアップデートされた《D》から、ディスプレイが表示する映像と物理世界に置かれたディスプレイのモノとしての側面との関係を考察した。そして、映像とディスプレイとのあいだに起こる「二次元と三次元との交錯」が、モノとしてのディスプレイを軸にさらに交錯して、「乱層のディスプレイ」という状態をつくることことを示した。「乱層のディスプレイ」はモノとしての厚みをもって揺れ続けるiPadとディスプレイに張り付いた平面の映像とを同時に提示し、見る者にモノとイメージとの重なり合い意識させる体験をつくりだす。6

《夜だけど日食》の考察から《D》における「乱層のディスプレイ」を改めて考えてみる。カメラを持つ「iPad」というインターフェイスと接続したディスプレイが示す個別空間と周囲の物理空間とが、ディスプレイに表示される3Dモデルの窓とカーテンを軸にして入れ替わり続けている。この出来事を揺れ続けるiPadというモノを介して見る、というのが「乱層のディスプレイ」体験となるだろう。ここではカメラで切り取られた物理空間の映像に3Dモデルの窓とカーテンが重ねられていることで、iPadとともに揺れ続ける物理空間を示す映像がディスプレイの揺れとともに、iPadの厚みをもった個別空間へと変換され続ける。

ディスプレイというモノを軸とした「乱層のディスプレイ」の体験を、プロジェクターからスクリーンに投影される映像を軸として表現したものが「スキンケア」の《透明感》だと、私は考えている。ディスプレイを用いない作品である《透明感》に対して、谷口は次のように書く。

この作品を、なおもまだディスプレイの問題として考えるならば、この作品で前提とされているのは、平面状のディスプレイのことではないのかもしれない。この「透明感」におけるディスプレイは、3Dデータのポリゴンによって作られる凸凹とした表面のことではないだろうか。その凸凹に対してテクスチャーデータの画像が貼り付けられていくわけだが、テクスチャーデータの画像は、折り紙のように、離散的で複雑な変換規則に基づいて3次元的に変形し、貼り付けられていく。この時、時間と空間は、3Dデータ表面の起伏を基準にして、前後/隣接関係が離散化した状態で張り付き、リアルタイムな入力に対し、逐次の計算が行われることで表示され、現在を演じる。そもそもディスプレイ(display)の語源は、畳まれたものを広げる(dis-plicare)という意味だ。ならば、3Dスキャンで生成された3Dデータの表面を、織り込まれたディスプレイと見做すのもあながち間違えた方向でもないだろう。7

谷口はプロジェクターを使った《透明感》を説明する際に、「この作品を、なおもまだディスプレイの問題として考えるならば」と、「ディスプレイ」にこだわり続け、その概念を拡張している。私は谷口による「ディスプレイ」の拡張を擁護したい。なぜなら、谷口は10年間、継続して「モノとしてのディスプレイ」を考察し、作品制作を行ってきたのであり、その結果として、谷口は「モノとしてのディスプレイ」を拡張し、3Dモデルのテクスチャとの関係づけた「スキンとしてのディスプレイ」というあたらしいディスプレイ概念をつくろうとしていると考えられるからである。そして、「モノとしてのディスプレイ」を「スキンとしてのディスプレイ」へと拡張できるとすれば、「二次元と三次元との交錯」を内包した「乱層のディスプレイ」を、イメージに送り返すことができると、私は考えている。なぜなら、谷口が示した「ディスプレイ」の語源である「畳まれたものを広げる(dis-plicare)」という意味は、ディスプレイがもともと幾つかの層に畳まれた状態にあったことを示すからである。語源の意味を示すように、3Dモデルのテクスチャから考えられた「折りたたまれたディスプレイ」という状態においては、ディスプレイはもともと平面ではなく「折り紙」のように「二次元と三次元との交錯」のなかにあり、さらに、それらは「前後/隣接関係が離散化した状態」にある。これらのことから、「乱層」の度合いは、「モノとしてのディスプレイ」よりも「スキンとしてのディスプレイ」の方が強いと考えられる。谷口は「モノとしてのディスプレイ」から「スキンとしてのディスプレイ」へと移行し、畳み込まれた乱層状態のディスプレイを扱うことで、より原理的にディスプレイの可能性を追求しようとしている。

しかし、「ディスプレイ」を3Dモデルのテクスチャデータと結びつけて考えているのであれば、《透明感》は「モノとしてのディスプレイ」を使ってもよかったのではないだろうか。つまり、《透明感》で問題としたいのは、3Dモデルのテクスチャデータに「ディスプレイ」という言葉を付与していることではなく、「折りたたまれたディスプレイ」や「織り込まれたディスプレイ」という言葉をつくってまで「ディスプレイ」にこだわって考察している《透明感》において、谷口はなぜディスプレイではなくプロジェクターを使ってスクリーンに映像を投影したのかということである。

まずは《透明感》の概要を谷口の説明から確かめるところからはじめたい。

テーブルの上に置かれたお菓子を3Dスキャナーで記録すると、形態を記録したメッシュデータと、表面の柄を記録したテクスチャデータに分かれて保存される。通常はコンピューターの中でメッシュデータにテクスチャデータを貼り付けて表示するが、この作品ではテクスチャデータを大きくプリントアウトして壁に掛け、それをカメラで撮影し、リアルタイムにメッシュデータに貼り付けて表示している。壁にプロジェクションされたCGは、一見すると何の変哲も無い3Dデータのように見えるが、鑑賞者が壁に掛けられたテクスチャデータの前に立つと、鑑賞者自身がテクスチャデータとなり、お菓子の3Dデータに貼り付けられ表示される。メッシュデータと、テクスチャデータの間に現実の空間が挟み込まれる。8

メッシュデータに貼り付けられるテクスチャデータは様々な視点から撮影された画像の集積である。つまり、見る者の視点は限定されるが、映像で回転する3Dモデルは物理空間を移動して得た視点の集まりとしてそこに表示されているのである。なおかつ、3Dモデルは視点の移動の結果を見せつけるように自転している。《透明感》2015では、回転する3Dモデルの背景が真っ黒であったため、3Dモデルは物理空間とは異なる空間に置かれていたといえる。カメラとプリントされたテクスチャデータとのあいだに見る者が入ると、見る者はあらたなテクスチャとして3Dモデルのある空間へと飛ばされた。《透明感》2017では、3Dモデルはテクスチャマップのプリントがある物理空間に重ねられている。それはどこか別の空間にあるのではなく、モデルを構成するテクスチャマップとその手前に存在する物理空間と同一の空間で回転するようになっている。見る者がカメラの前に入ると、3Dモデルのテクスチャとなることに変わりはないが、それは物理空間と重ねられた3Dモデルに張り付けられるため、3Dモデルがある別の空間に飛ばされるという感覚がなくなっている。

《透明感》2017では、ヒトは別の空間に飛ばされるわけではない。ヒトは画像とカメラとのあいだにある物理空間にいながら、テクスチャ化されて3Dモデルの空間に介入する。しかし、《透明感》2015でも、ヒトは画像とカメラとのあいだにある物理空間にいながら、テクスチャ化されて3Dモデルの空間に介入している。この介入を可能にしているのが、カメラとテクスチャマップのプリントとのあいだの何もない空間である。谷口は「メッシュデータと、テクスチャデータの間に現実の空間が挟み込まれる」ようなプログラムを書くことで、何もない空虚な空間をインターフェイスとともにある隙間に変更し、個別空間へと変える。プログラムによって個別空間ができ、カメラとテクスチャマップのプリントとが設置されて、これらのあいだで出来事が形成される。その個別空間はヒトをテクスチャにして、3Dモデル空間へと飛ばす。しかし、《透明感》2017では、物理空間と3Dモデル空間とが映像のなかで重なられて表示されているため、作品を体験するヒトが今、どこにいるのかが映像で確認できるようになっている。アップデートされた《透明感》によって、ヒトと3Dモデルと物理空間とが映像ですべて重なり合うようになったのである。

谷口は《透明感》でプロジェクターを採用して、カメラと画像とのあいだだけではなく、プロジェクターとスクリーンにも介入できるようにした。カメラとプロジェクターどちらの前に立っても、物理空間にいるヒトは3Dモデルが置かれた空間に介入することができる。プロジェクターとスクリーンのあいだにはプログラムは設定されていないが、物理法則が設定されている。プロジェクターの光をヒトが遮ると3Dモデル空間に影が投影され、介入が起こるのである。プロジェクターは映像の手前に物理法則で制御された個別空間をつくるのである。ここで重要なのは、ディスプレイはヒトが直接介入できる空間をつくれないということである。ディスプレイと接続されたカメラと画像とのあいだにはヒトは介入できるけれど、プロジェクターのスクリーンとのあいだに介入して映像に影を投げかけるようなことはできない。「モノとしてのディスプレイ」は、モノとしてフレーム内の映像を取り囲むがゆえに、そこに示されるディスプレイ内空間およびディスプレイ周囲に発生する個別空間がなによりも優位になってしまうのである。そこで、谷口はディスプレイではなくプロジェクターを使うことで、映像という面で重なり合っている複数の空間そのものに見る者の意識を向けさせる。つまり、谷口はプロジェクターを用いて、「スキンとしてのディスプレイ」という複数の空間が重なり合う面をつくるのである。プロジェクターを用いた《透明感》では、カメラとテクスチャマップとのあいだ、プロジェクターとスクリーンとのあいだにはスケールは異なるけれど、プログラムと物理法則というルールがある。「スキンとしてのディスプレイ」はふたつの異なるルールを呑み込み、ヒト、物理空間、3Dモデル空間を優劣なく畳み込んでいく面をつくっているのである。

《透明感》2017では、視点が回り込める物理空間のなかで3Dスキャンされたモノが3D空間に置かれて、物理空間とテクスチャマップに重ね合わされる。テクスチャデータとモデルデータとが重なり合うだけではなく、そこに物理空間も重なり合わされている。それらはカメラとテクスチャマップのプリントとのあいだ、そして、プロジェクターとスクリーンとのあいだの物理法則で制御された空間を軸として、物理空間と個別空間と3Dモデル空間とが重ね合わされる。その重ね合わせを可能にするのが離散的で、折り曲げたり、くしゃくしゃしたりできる「スキンとしてのディスプレイ」である。つまり、谷口の「折りたたまれたディスプレイ」とは、もはやモノである必要はなく、プログラムや物理法則といった明晰なルールに基づいて、3Dモデル空間と物理空間とが折り畳まれていき、重ね合わされたひとつの面を指すのである。インターフェイスと接続された「モノとしてのディスプレイ」が物理空間に個別空間をつくるのだとすれば、「スキンとしてのディスプレイ」はプログラムによって空虚な空間を個別空間につくり変えて、個別空間、物理空間、3Dモデル空間といった複数の空間が重なり合う面として機能している。「スキンとしてのディスプレイ」は厚みをもつことはないけれど、複数の空間が畳み込まれて重なり合っていく面なのである。

モノとディスプレイとイメージとを畳み込んで重ね合わせる

今回取り上げた谷口の《夜だけど日食》と《透明感》は、個展のタイトル「超・いま・ここ」が示すように、谷口が考える「ディスプレイの現在地」を示す作品であった。《夜だけど日食》はディスプレイというモノを軸として「ディスプレイの裏側」をディスプレイの表面に重ね合わせて、モノとディスプレイとイメージとの重ね合わせを示している。それは、谷口が「これまで」の10年間追求してきたモノとしてのディスプレイの物理世界に置かれている状態を端的に表している作品といえる。対して、《透明感》はモノとディスプレイとイメージとの重なりを映像で示した作品だと考えられるだろう。テクスチャデータが示すイメージのレベルで「ディスプレイの裏側」をディスプレイの表面に重ねて、プロジェクターから投影される映像で表現する。それは谷口にとってモノとディスプレイとイメージとの重なりの「これから」の展開を表している。だから、個展のタイトルには「いま・ここ」の前に「超」がつき、「ディスプレイの現在地」が超えられていくことが示されているのである。

ここで一度、谷口の「超・いま・ここ」が示したように、本連載もまた始点と現在地を確かめておきたい。本連載は次のような私の直観から始まっている。

プロジェクターからの光を受けるスクリーンはディスプレイと同じ、イメージの支持体である。けれど、スクリーンはディスプレイよりも「イメージ」そのものという感じがある。スクリーンはイメージと一体化している。スクリーンはモノであるけれど、モノである感じがほとんどない。そして、薄型ディスプレイもイメージと一体化して扱われるようになっている。けれど、そこでやはりイメージを提示しつつもモノであることを強調することで、イメージの支持体としてのディスプレイが物理世界との関係のなかで、あらたな見え方をするのではないか。私にはそのような直観があった。

そこで、私は「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルで連載を始めた。連載をはじめる前に書いた概要を読み返すと、私はモノがデータと結びつき従来のモノではなくなっていくとする渡邊恵太の『融けるデザイン』と、ピクセルが認識できなないほど小さくなってモノのように鮮明なイメージを表示可能なレティナディスプレイのことを念頭に起きながら。次のように書いていた、

ディスプレイの内外でモノがモノとしての境界を失いつつある。その結果として、ディスプレイとモノとの境界が重なりあうところにモアレのような動的な現象が起きている。ディスプレイにあるモノの存在が、物理世界のモノのあり方に影響を与える。9

ここで私が考えていたのは、イメージがモノのように見えるのであれば、ディスプレイという支持体とその表面に表示されるイメージを「モノ」というカテゴリーで括ってしまっていいのではないかということである。そこからさらに、「モノ」というカテゴリーでモノとディスプレイとを重なれば、モノとディスプレイとイメージとがひとつの括りのなかで重なり合うことが可能となる。けれど、モノとディスプレイとイメージとは平面上で接しているのではなく、それぞれが垂直的に重なり合っているため、非接触の状態にある。その状態を俯瞰的な視点から見るとすべてが重なり合ったように見え、まずは俯瞰的な固定視点からディスプレイを用いた作品から現れる現象や出来事を観察し、徐々に視点を移動させて、それらの重なり合いの隙間を考察してきた。その結果が、これまで書いてきた「モノとディスプレイとの重なり」のテキストである。

そして、谷口の「超・いま・ここ」は、この連載で私が示した「ディスプレイの現在地」を超えていくように要求する。

「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった。10

私が最初に読んだ時にひっかかりを感じたこの一文には、谷口のディスプレイに対する感覚の「これまで」と「これから」と畳み込まれている。それゆえに、「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルの本連載にあらたな視点でディスプレイを見ることを要求している。それは、「モノとしてのディスプレイ」だけではなく、これまでの考察で得た「モノとしてのディスプレイ」の特性を考慮しながら、さらに「イメージとしてのディスプレイ」の可能性を追求していかなければならない、ということである。これまでは視点を移動させながら「モノとしてのディスプレイ」がつくるモノとディスプレイとの重なり合いの隙間を考察してきたけれど、これからは、その隙間を一度畳み込むことで見えてくる、あらたな重なり合いを考察する必要がでてきた。幾ら畳んだとしても、そこには隙間は存在し続けるだろう。けれど、隙間はより小さく、薄くなっていくはずである。このようにして「モノとしてのディスプレイ」だけではなく、「イメージとしてディスプレイ」も考察していきたい。そして、「イメージとしてのディスプレイ」の可能性のひとつが、ディスプレイを複数の空間、様々な要素が重なり合うように畳み込まれた面として機能する「スキンとしてのディスプレイ」なのである。

参考文献
1. 谷口暁彦「超・いま・ここ」、個展で配布されたリーフレット、2017
2. 同上
3. 同上
4. 同上
5. 同上
6. 水野勝仁 連載・モノとディスプレイとの重なり 第5回「iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」について」MASSAGE、http://themassage.jp/monotodisplay05/、2016年9月8日公開
7. 谷口暁彦「超・いま・ここ」
8. 同上
9. 水野勝仁「00_タイトル、概要、トピック案」
https://docs.google.com/document/d/1dzJjzZhkgmFiHxOro1vjg9lRWf5Iyyk0qh50sqLny3w/edit?usp=sharing 最終編集日:2016年2月8日
10. 谷口暁彦「超・いま・ここ」

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。