Vapor Aesthetics #08-09

近頃はファシズムと結びついたFashwaveや、人種差別的なミームにタグ付けされることも少なくないVaporwave。その影響はInstagramなどのSNSのハッシュタグにも波及し、#Vaporwaveとは全く関連のないイメージが溢れかえるだけに留まらず、時には人権を蔑ろにするポストが見受けられるほど深刻な様相を呈しています。この現状から、かつてのVaporwaveの原風景を取り戻そうとESPRIT 空想ことGeorge Clantonを筆頭に『#takebackvaporwave』なる運動が広まりつつあります。その一環として日本人アーティストseaketaによるコンピレーションプロジェクト、TBVが始動するなど各所で広範な運動を巻き起こしているようです。Vaporwaveレーベル〈Elemental 95〉は『#takebackvaporwave』について 「Vaporwaveの誤ったイメージの拡散を停止し、その代わりに才能あるアーティストによるコミュニティのサポート」することが目的であると述べ、「サンプリングミュージックは、芸術から盗むことではなく成長させること」であると締めくくっています。

今月のおすすめ作品です。

MindSpring Memories – The Binary Ocean

Rainbow Bridge〉や〈Swamp Circle〉などといった先鋭的なレーベル運営を展開し、また90年代ごろからノイズや具体音楽、サイケデリック、ブラックメタル、ドリームポップなど多彩な音楽スタイルで活動してきたシカゴ在住の女性作家Angel Marcloid。彼女は数多もの名義を有しており(Dementia And Hope Trails、Dim Dusk Moving Gloom、Apk ♀ ᴎᴇᴛ ☯ LtdFAX、……等)その佇まいはどこかNew Dreams Ltd.時代のvektroidを思わます。そんなAngel MarcloidのエイリアスのひとつであるMindSpring Memoriesはアンビエント的な側面からVaporwaveにアプローチしたプロジェクト。チリの〈No Problema Tapes〉からリリースされた最新作『The Binary Ocean』は、表題を冠した50分にも及ぶ壮大なアンビエントが特徴的。0と1とで構成されたインターネットの海を漂う虚しさ、安らぎにいつまでも身を任せていたくなるようなサウンドスケープが繰り広げられていきます。おニャン子クラブの『シーサイド・セッション』というサンプルソースを、およそ45分にも渡って引き伸ばし、虚構のデジタル・ビーチサイドを創り上げたt e l e p a t h テレパシー能力者の『海側恋人』然り、こういった長尺のVaporアンビエント作品には蒸気から「Water(水)」へと相変化した表現が広く見受けられるように思います。

HYPERMEDIA – EXOSPHERE

ミネソタ州の新興レーベル〈Sunset Recordings〉によって集められた総勢45名のVaporwave作家による集合体HYPERMEDIAによるコンピレーションアルバム『EXOSPHERE』。本作は「SKY(空)」「CITY(街)」「DREAM(夢)」という3つのフェイズから構成されています。「SKY(空)」にはDigital Sex、猫 シ Corp.、Trademarks & Copyrights、さらには骨架的なども参加しており、オーソドックスなスタイルのVaporwaveを存分に堪能することができます。続く「CITY(街)」はChungking MansionsやYoshimi、Shinatamaなど〈Dream Catalogue〉や〈Antifur〉、〈Kudatah〉といったレーベルカラーを感じる近未来的なテクノロジーと調和するエレクトロニックなフェイズ、最後の「DREAM(夢)」はSangamやs a k i 夢、P A T H S パスによる夢見心地なアンビエントなフェイズへと移り変わっていきます。『EXOSPHERE』は現行のVaporwaveシーンを象徴する素晴らしいコンピレーションアルバムだと思います。

Vaporwaveフィジカルの世界

さて、現行のVaporwaveシーンを語るうえで欠かすことのできないもの、それがカセットテープを始めとするフィジカル(物理メディア)です。Vaporwaveが懐古趣味的なサンプルソースを多様しているせいか定かではありませんが、Vaporwave作品の多くはデジタルフォーマットに伴ってカセットテープでリリースされるという傾向が強いです。カセットテープでのリリース量は去年だけでも数え切れないほど。Discogs市場ではMacintosh Plusの『Floral Shoppe』のカセットテープが10万円近い値で取引され、Vaporwaveカセットのみに特化したコミュニティ「Vaporwave Cassette Club」には7000人以上ものVaporwaveカセットファンが集っていたり、一方では『Obi Strip Cassette』と呼ばれるカセットテープに帯を付ける独自の文化が生まれたり。また、カセットテープのみならず近年ではVHSやフロッピーディスク、MD、カセットテープの豪華ボックスセットといった物理メディアも登場するなど、他に類を見ない独自のカルチャーを築き上げているように見えます。このコーナーでは、そんな魅惑のVaporwaveフィジカルの世界を、私が集めたコレクションの中からいくつかご紹介していこうと思います。

仮想夢プラザ – 仮想夢プラザ〈Ephemera Archives〉

t e l e p a t h テレパシー能力者によるVaporアンビエント・ドローンプロジェクト、仮想夢プラザ。過剰なピッチダウンにより引き伸ばされ、蒸気というよりも液状と化したアンビエンスが押し寄せるVaporドローンの金字塔的な作品として知られています。このアンビエント超大作が〈Ephemera Archives〉によってフィジカル化がなされました。アルバム収録曲の総計はおよそ16時間以上。それを、なんとわざわざカセットテープというフォーマットに収めるという暴挙により、カセット16本のボックスセットという仕様になっています。本作はもともとは限定25部に制限されており、それを抽選形式で選ばれた人のみに購入権が与えられるという仕組みで販売されました。お値段も2万円超。ですが、熱心なVaporカセットジャンキーたちが殺到し、結果、レーベル側によって増産が決まったという経緯があります。Vaporwaveのカセットボックスセットといえば、断片化された友人「Fragmented Memories」や、Tech Noir「完」などがありますが、本作はそれらを凌駕する量と密度。Vaporwaveシーン界隈はカセットテープ至上主義的な風潮があり、それがここに極まっているように思えます。カセットは8本が収まるボックス2つが木製のケースに収められており、ケースに彫り込まれたプラザの大理石タイルを模したようなデザインがとても美しいです。ちなみに現在は販売期間を過ぎてしまったため購入は不可能です。

ZONΞ ΞATΞR, §E▲ ▓F D▓G§ – ZONΞ ΞATΞR vs. §E▲ ▓F D▓G§〈Chamber 38〉

〈Bludhoney Records〉は名だたるVaporwaveアーティストから、ASTROやC.C.C.C.などの活動でも知られる日本のノイズミュージシャン長谷川洋までもが参加するVaporwaveとエクスペリメンタルシーンを繋ぐ重要なレーベル。その実験部門というコンセプトのもと立ち上げられたサブレーベル〈Chamber 38〉からリリースされたのは、先日〈Orange Milk Records〉からの最新作『Pharma』が記憶に新しいNmeshことAlex KoenigによるプロジェクトZONΞ ΞATΞR(ZONE EATER)、そして、Vaporwaveのサブジャンル『Oceangrunge(オーシャングランジ)』のパイオニア§E▲ ▓F D▓G§(Sea Of Dogs)によるスプリット作。実験部門というコンセプトに相応しく、カセットは生物兵器を封じ込めるための袋に密閉され、検体移送用の伝票が付けられてリスナーのもとに届けられます。

James Webster – Virtual Utopia Experience: The Movie〈Baudway Video〉

カセットテープ至上主義的なVaporwaveフィジカルにおいて、もう一つ特筆すべきはVHSです。Vaporwaveの魅力は、音楽だけでなくアートワークや独創的な映像世界という視覚的な分野にもあり、VHSはそれを実現する最適なフォーマットだと言えます。Vaporwave VHSの起源は遡ること2015年。カナダのレーベル〈Lost Angles〉はLuxury Eliteのアルバム『Fantasy』のYoutube動画をVHSに収録してリリース。20部限定のVHSは熱心なファンたちによって30秒足らずで完売してしまいました。(筆者も争奪戦に参加したのですが、カートに入れた瞬間売り切れました。)〈Lost Angles〉はこの反響を受け、VHSのみに特化したレーベル〈Baudway Video〉を立ち上げ、Luxury Eliteのリイシューをはじめ〈Business Casual〉を主宰するchris†††の『Social Justice Whatever』をVHSでリリースするなど積極的に活動しているようです。VHSはその後、大流行の兆しを見せます。lペプシマンlKROPNなど自主制作でVHSをリリースする作家が現れたり、Vaperrorが主宰する〈PLUS100 Records〉からはテレヴァペの『永』がVHSで、〈Sunset Recordings〉からはVHSテープリワインダーの『Forgotten Passions』がVHSでリリースされるなど大手レーベルが参入するなど、現在ではVHSはマストアイテムとなっています。猫 シ Corp.も自身の自主レーベル〈Oasys Virtual Entertainment Productions〉から来年辺りにVHSリリースを予告しており、大きな反響を呼ぶこととなりそうです。

さて、今回はそんなVHSシーンを創り上げた〈Baudway Video〉のカタログの中からJames Websterの『Virtual Utopia Experience: The Movie』をご紹介しましょう。
本作は、Death’s Dynamic Shroud.wmvやHCMJなどの名義でも知られるJames Websterによって制作されたミュージックビデオや映像作品15本から構成されています。Death’s Dynamic Shroud.wmv、CONSUMERプロダクト、Xepter RoseなどJames Webster本人が携わった楽曲ほか、Giant Claw、VAPERROR、PowerPC MEといった現行Vaporwave周辺のシーンにおける主要な作家の楽曲も数多くコンパイルされており、彼がこの界隈において欠かせない人物であることが窺い知れます。ビデオを再生するや否や、視聴者はヴァーチャル・ユートピアへと引きずり込まれていきます。チープなローポリゴンで構築されたターミナルや工業地帯、かと思えば近未来的な3DCGによって描出された美しい山々や海が広がり、そこに入り乱れる幾何学的な造形物。もはやユートピアではなくディストピアをさまよっているとしか思えない非現実的な空間が展開されたり、グリッチが発生したり、場面が唐突に切り替わったりと、カオティックな1時間を存分に堪能することができます。『Virtual Utopia Experience: The Movie』はVaporwaveシーンのみならず、2010年代のインターネットというバーチャルな空間に漂う空気感を映し出した、極めて重要なアーカイブスと言えるでしょう。

捨てアカ
島根県在住のVaporwaveリスナー。〈New Masterpiece〉より発刊された『蒸気波要点ガイド』に寄稿している。
disposable-id.hatenablog.com

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水野勝仁 連載第12回 モノとディスプレイとの重なり

連載の第一部終了となる今回は、まず前回書いた「ディスプレイ場」の補足を行う。その後、ディスプレイなきディスプレイ場を示す作品として、ラファエル・ローゼンダールの《Shadow Objects》をベクター画像、穴、影という観点から考察してく。最後に、連載のこれまでのまとめとして「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルを改めて考えつつ、その先にあるディスプレイなきアニミズム的世界について示したい。

「光|モノ」の二項対立に重ね合わされた「ソースコード/データ」

前回の終わりに私は「ディスプレイ場」という言葉を書いた。ディスプレイ場とは光とモノとが複雑に絡み合える場であり、「ディスプレイ」という装置がなくてもこの世界に現れるものである。ディスプレイ場を支えるのは、前回も引用したエキソニモの千房けん輔の言葉が示すように、デジタル世界の構造が「表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っている1」からである。エキソニモは裏の記号的なソースコードとデータの存在を認識し、その操作方法を習得しているからこそ、ディスプレイの表面を光とモノとで塗りつぶし、これまでにないような光とモノとの絡み合いをつくりだす。彼らは《Body Paint》シリーズにおいて絵具で塗りつぶして、光がモノに擬態する可能性を示し、《201704EOF》ではディスプレイを青い光で塗りつぶして、モノが光の性質に寄せられる可能性を示したのである。そして、《A Sunday Afternoon》ではディスプレイ全面を絵具で塗りつぶして、「多様な意味や記号が絡み合う、新しい点描的”知覚”混合2」を起こるディスプレイ場を現出させたのである。

コンピュータと接続されたデジタルデータをXYグリッドのピクセルで表示するディスプレイは二項対立的なモノと光が占める表面と、表と密接に関係するデータとそれを操作するソースコードという記号的な裏面とが一体化しているものと言えるだろう。それは映画のスクリーン(モノ)に対してのプロジェクター(光)のような別の存在によってつくられる光の平面ではなく、モノと光とが記号的なソースコード/データのもとで一元的に操作可能になる平面になっている。光とモノとの一元的操作を可能にする場をつくるのは、ディスプレイに現時点ではモノとして存在するフレームである。フレームは光とモノとが絡み合う前段階としての緩衝地帯が機能しており、この緩衝地帯にモノと光とが互いに引き寄せられ、混じりあうのである。さらにはソースコード/データという記号的存在が光とモノとを単なる二項対立ではなく、ディスプレイというひとつの実体として包み込む。そのとき、光とモノとは対立するものではなく、ソースコード/データという記号的存在のもとでの操作対象としてひとつの平面に置かれる。

モノ/光とソースコード/データとが一体と平面では、データが平面を透過して表面のモノと光と裏面のソースコードとのあいだを行き来している。光とモノから得られるデータに基づいてソースコードが、ディスプレイでの光とモノとの絡み合いをコントロールしている。デジタルな世界でのディスプレイはモノと光との二項対立だけを内包しているのではなく、ディスプレイとともに現れる場には、光とモノの二項対立が成立する平面の裏に第三項として光とモノから得られるデータを操作対象とするソースコードが必ず存在している。ソースコードは必ずしもコンピュータのプログラムを意味するのではない。実際、エキソニモの《A Sunday Afternoon》はコンピュータには接続されていない。第三項としてのソースコード/データは、光とモノとが互いに変化し続けるルールのようなものである。今はまだ明確になっていないこのルールに基づいているかぎりで、ディスプレイがコンピュータに接続されていなくても、さらには、ディスプレイ自体がなくても、ディスプレイ場はいつでも物理世界に可視化されるのである。ディスプレイ、及び、ディスプレイ場とはモノと光とによって成立する平面とソースコード/データからなる記号的平面が表裏一体になった平面のことなのである。

《Shadow Objects》が示すベクター画像に依存する穴と影

今回はディスプレイなきディスプレイ場を可視化する作品として、ラファエル・ローゼンダールの《Shadow Objects》を取り上げてみたい。ローゼンダールの《Shadow Objects》は、レーザーカッターで切り抜かれたスチールプレートを展示した作品である。ベクター画像がつくるかたちをレーザーカッターでくり抜かれたスチールプレートが、壁から5cm浮いた状態で設置され、壁に影を投げかけている。この作品を印象的なものとしているのはスチールプレートというモノではなく、メインはそこにあいた穴であり、光が穴を透して壁に投げかける影である。

ローゼンダールはインターネットを中心にして作品を発表している。しかし最近は、TwitterやGoogleなどのウェブサイトをChromeのプラグインをつかって色のコンポジションに変換したものをタペストリーにする《Abstract Browsing tapestries》を発表するなど、ウェブを物質化する方向の作品も制作している。「私がやっているのは、インターネット上のスクリーンページのように、数秒で移ろいゆくものを捉えて、物理的なものに変換すること3」と、ローゼンダールは語っている。《Shadow Objects》もウェブの物質化の流れの作品である。ここで物質化されているのはベクター画像である。デザイナーの田中良治との対談でローゼンダールは次のように述べている。

ラファエル:私が仕事をするときピクセルもベクターも使うんですが、ベクターをマテリアルで展開するのを考えた時に、一番近い行為がメタルをカッティングすることでした。4

「ベクター」とはベクター形式の画像であり、ローゼンダールがウェブの作品でよく使うものである。ローゼンダールはインターネットの作品の特徴を可変的なコンポジション、つまり、ウィンドウが自在に変形できることに求めている。そのため、ローゼンダールは自由に変形できる画像形式としてベクター画像を作品によく使用している。また、ローゼンダールは「Compression by Abstraction: A Conversation About Vectors」という記事でベクター画像について、次のように答えている。

ベクター画像は数学の等式に基づいている。等式は完全である。私たちがどんな試みをしたとしても、いかなるメディウムにおいても完全な円を表現することは決してできない。たとえできたとしても、私たちの不完全な眼はその完全さを認識することができないだろう。5

そして、ローゼンダールが求めるのは数学的な完全さに基づいたベクター画像によって、物理世界を再構成することなのである。そして、ローゼンダールはベクター画像こそが、コンピュータというメディウム特有の表現だと考えている。彼のウェブサイトの作品は、ベクター画像で再構築した数学的正確さに基づくクリーンな世界を示している。しかし、ベクター画像をディスプレイの外に持っていくとなると、ディスプレイでかろうじて保たれていたベクター画像の数学的正確さは簡単に失われてしまう。それでもなお、ローゼンダールは《Shadow Objects》で、ウェブサイトを構成してきた多くのベクター画像のマテリアル化を試みる。その際に最もディスプレイ上のベクター画像を示すのと近い行為として選んだのが「メタルをカッティングすること」であった。メタルを切り抜いた作品《Shadow Objects》は、どうしてベクター画像がもつ数学的正確さを保ちながら、モノとして物理世界に存在することができるのだろうか。

Shadow Object 16 07 07
Steel, (H)145cm x (W)105cm, 2016
©Rafaël Rozendaal, Courtesy of Takuro Someya Contemporary Art, Photo: Ken Kato

Shadow Object 16 07 01
Steel, (H)50cm x (W)50cm, 2016
©Rafaël Rozendaal, Courtesy of Takuro Someya Contemporary Art, Photo: Ken Kato

Installation view of the exhibition “Convenient”
©Rafaël Rozendaal, Courtesy of Takuro Someya Contemporary Art, Photo: Ken Kato

岡﨑乾二郎らは『芸術の設計』で、現在主流のふたつの画像形式であるベクター形式とビットマップ形式の比較を行っている。ビットマップ形式は「色彩の「ビット(画素)」を、格子状の二次元マトリックスである「マップ」に配置する表現する」、ベクター形式は「線の起終点の位置───曲線であればその曲がり方や太さ、それら線に囲まれた面など、画像のパスと呼ばれる特異点だけを数値で表わす」としたうえで、「情報の量」という観点から次のような興味深い指摘をしている。6

ビットマップ形式の画像データが、ベクター形式の画像データより重いのは、部分の配分を決める全体があらかじめ存在するため、画像自体に「スケール」が内包されており、いわば時間と空間、焦点の連続性が質量としてデータ化されているからだ。
それとは逆にベクター形式は特異点だけを数値化するため、あらかじめフレームのサイズという概念をもつビットマップ形式よりも、はるかにわずかなデータで、画像を表示することができる。いくら拡大/縮小しても、特異点だけで図は表示されているため、その「見え」は変わることはない。要するに、ストラクチャー(構造や関係)だけを取り出し量を消去しているがゆえに、その画像はスケールを内包していないのだ。いいかえればベクター形式は、図形であり幾何学である。7

岡﨑らは、ビットマップが「時間と空間、焦点の連続性が質量としてデータ化されている」のに対して、ベクターは「ストラクチャー(構造や関係)だけを取り出し量を消去している」と指摘している。この対比は、ローゼンダールの《Shadow Objects》を考える上で有益な示唆を与えてくれる。なぜなら、ベクターが「量を消去している」というのは、ローゼンダールがベクター画像をマテリアル化する際に選択した「メタルをカッティングする」行為に呼応していると考えられるからである。いや、カッティングするだけなく、田中が「ネガが作品になっているというか、切り取った残りの方が使われているのが面白いです8」と言うように、プレートから切り取った幾何学的なかたちをもったモノを作品にするのではなく、プレートに残った「穴」を作品としていることが、ベクター画像の特質として考えられる「量の消去」と呼応していると言ったほうがより正確だろう。ローゼンダールは質量を持たず、構造や関係のみを示す幾何学的なかたちをした穴としてベクター画像をマテリアル化している。

《Shadow Objects》 でベクター画像を体現している「穴」について考えてみたい。私たちの身の回りにはドーナッツの穴をはじめとして、地面の窪みや排水溝、時計のバンドの通気孔など、多くの穴が存在している。けれど、それはモノとして存在しているのであろうか。それとも、モノの欠如として、そこにあるだろうか。哲学者の加地大介は『穴と境界』のなかで次のように穴について述べている。

いまの立場は、物質的であれ、非物質的であれ、そもそもいかなる素材も持たないということを穴の本質として捉えていることである。したがって、「依存的非物質体(immaterial body)説」との相違を強調するとすれば、それは「依存的非質量体(mattterless body)説」ともいうべき立場である。これを肯定形で言い換えれば、穴はその質量としての何らかの素材によって通時的同一性を保持するのではなく、その形相としての外的境界によって通時的同一性を保持するという意味で、「依存的形相体(fomarl body)説」「依存的輪郭体(contour body)説」ともいうべき立場であることになる。やはり穴は、im-materialというよりは、matter-less、matter-freeであるという点で、非物質的な質量から成る何かとしての幽霊や天使よりは、光の輪郭によって形成される何かとしての影に近いのである。9

「依存的」というのは、穴はそれ単体では存在することができずに、常に何か別のモノとともに存在しているということを意味している。《Shadow Objects》においても、メタルプレートがなければベクター画像のかたちの穴は存在することはできない。加地は穴をほとんど「無」に近い存在として「依存的非質量体(mattterless body)」「依存的形相体(mattterless body)」「「依存的輪郭体(contour body)」と考えている。ローゼンダールはベクター画像が示す「質量のなさ」を示すために、非質量体である穴を選択したといえるだろう。さらに、ベクター画像がコンピュータとディスプレイに強く依存した図形であることを示すためにも、作品の要素に穴を選択することは最適解だと考えられる。

また、加地は穴が影に近い存在だと指摘している。ローゼンダールの《Shadow Objects》も、タイトルが示すように「影」が穴とともに作品を構成する重要な要素となっている。ローゼンダールは「モノにはマテリアルとか、色とか、コンポジットとかシェイプがある。この作品には色がない代わりに、壁から5cm浮いていることによって、光の具合で違う影が生まれます。ここにオーガニックな要素をもうひとつ入れ込みたかったんです」と述べている。光の具合によって変化する要素として影が採用されている。ローゼンダールはスチールプレートをくり抜いた変化しない穴と、穴の輪郭にあたる光と見る者の動きによって変化する影とを組み合わせて、ディスプレイ上で自由自在に変化するベクター画像をディスプレイ外の物理空間で表現しようとしている。ここで再び、岡﨑らが指摘するベクター画像の特徴を引用したい。

ビットマップ形式が持つ「解像度」という概念に対して、ベクター形式には「鮮明さ」という概念が対置することができるだろう(たとえるなら、まるで新古典主義のカノーヴァの彫刻のように、遠くからでも近くからでも一貫してツルツルに見えるという「鮮明さ」)。この「鮮明さ」とは、あくまで輪郭や形態がはっきり見えるということであって、いくら見る距離を変えても質(密度)は変わらないということを意味する。つまり関係が固定的であるため、ディテールはないのだ。10

光の輪郭を描く影はベクター画像とともに輪郭が鮮明な存在である。ベクター画像をよく使うローゼンダールが影を選択した理由はここにもある。質量を持たない関係のみで構成されたベクター画像として、依存的非質量体である穴と常に鮮明な輪郭を描く影とをペアにして使うことで、ベクター画像という物理空間には元来存在しないディスプレイ由来の量を消去したイメージの表現を試みているのである。

しかし、ディスプレイはXYグリッドで構成されるピクセルの集積からできている。ならば、ベクター画像もまたビットマップ形式で表示されているといえる。ベクター形式で画像を作成するプログラムがディスプレイにベクター画像を表示する。そのとき、ディスプレイのピクセルの構造はほとんど考えられることはない。ディスプレイの高精細化でベクター画像を難なくラスタライズすることができるようになっているので、ディスプレイの構造を考えなくても問題はないのかもしれない。だとしても、千房が指摘するようにディスプレイの表とソースコード/データの裏とが表裏一体になっているのがデジタル表現だとすれば、ディスプレイにおける表(光/モノ)と裏(ソースコード/データ)とのあいだに齟齬があることは問題として取り上げる必要がある。

なぜ、ベクター画像はディスプレイのビットマップという構造を無視して考えることができるのだろうか。ここでは、ディスプレイの表面(モノ/光)があたかもないようなかたちで、ベクター画像とソースコード/データとが重なり合わされている。つまり、ディスプレイを構成するモノと光とがつくる平面の構造は変わることはないが、ベクター画像とソースコード/データとがモノ/光の平面を両面から挟み込み、「解像度」に基づく原理ではなく、「鮮明さ」に基づいて非質量体を表示可能な平面を仮想的につくっているのである。

《Shadow Objects》でローゼンダールは、ベクター画像とソースコード/データとがディスプレイの表面に行っていることを物理空間に応用している。日本で《Shadow Objects》を展示したTakuro Someya Contemporary Artによる展示紹介のテキストから、その応用テクニックを考えてみたい。

作品の様相は、その空間の光と鑑賞者の視点により規定される普遍的な佇まいを持っていますが、ただ光と影をあつかった作例は、美術史のなかで多いことはよく知られています。例えばモネが取り組んだ『ルーアン大聖堂』では聖性を背景に受け取った、光と影そして時間を主題としてあらわしました。一方、ローゼンダールは幾何学形態を切り出したオブジェクトをとりまく光と影の変化をつくりだしてみせています。前者が、画家の感性によって直に感取された変化であり、後者は、プログラムとウェブを介して自然を逆に照らし出すアプローチをとっています。それは、自然法則も、人による法則(プログラムやコンセプト)も、それそのものを等しく作品に内包しうる、という考え方を持つアーティストであることが伺えます。この傾向は、ウェブ作品にもよくみてとることができ、その作品群をとおして『Shadow Objects』を観ると、厳密な計算と装置によって切り出されたシェーディングが、まるで光と影もプログラムするかのように、自然法則をも内側に取り込むように静かに佇んでいることが分かります。11

ここでは、ローゼンダールが自然法則とプログラムとを等しく作品に内包させているということが指摘されている。自然法則とプログラムとが等しいのであれば、プログラムでスチールプレートをプログラムに基づいて厳密に切り出すレーザーカッターを制御するように、光や影といった自然現象もコントールできる。このように考えると、ディスプレイの裏面のソースコードが物理空間を制御する物理法則と同等になり、その適用範囲が拡張されていくことになる。ここで《Shadow Objects》の影の特異性を示すために、ヴィクトル・I・ストイキツァが『影の歴史』で光と影をめぐる作品のひとつ例として取り上げた、ブランクーシが撮影した写真を参照したい。

原型的な形を写真によって創造することで、ブランクーシは「この世界の始まり」を、二重化のドラマという形式で、あるいは、影をモノのなかにひっくり返す(転-覆[カタ−ストローフ])という形式で語っているのである。この方法において、ブランクーシはマン・レイの二重化をもっと高度なもの、もっときわどいものに変形させた。すなわち、影は「モノと同じ」ではなく、モノより大切なのである。というのも、影は、モノのパラダイムという地位につくからである。12

ストイキツァは影とモノとを対比させている。しかし、ローゼンダールの《Shadow Objects》では、影とモノとは対比されることはない。影は穴と結びつき、これらは非質量体としてモノではないからである。影と穴とが対比させられるとしたら、それはスチールプレートにくり抜いた厳密な計算を可能にするソースコード/データといった記号的存在である。《Shadow Objects》で、影は「モノのパラダイムという地位」ではなく「ソースコード・データのパラダイムという地位」についているのである。

ローゼンダールはソースコードと重なり合いディスプレイの表面の原理を上書きしたベクター画像を使って、影という物理法則に基づく現象の性質をプログラムする。ディスプレイをコントロールしていたソースコードを読み解き、それを物理法則に基づくコードに書き換えて、光とモノとの絡み合いを操作可能にするディスプレイ場を物理世界に出現させる。ローゼンダールの《Shadow Objects》は、ディスプレイなしで「ディスプレイ場」をつくる作品となっている。「ディスプレイ」というこれまでのかたちと光の明滅という原型的性質をもっていなくても、ソースコードを読み解き、物理法則に書き換え、そこにモノと光とがあれば「ディスプレイ場」はあらわれる。モノが穴に変化し、穴が光を影に変えるというかたちで《Shadow Objects》は、ベクター画像をディスプレイ場とともに物理世界を出現させるのである。このとき影や穴は物理法則のもとにありながらも、その存在のあり方はベクター画像に依存するようになっている。穴と影とが物理法則に基づく存在ではなく、ローゼンダールの操作によってソースコードに基づく存在に上書きされ、改変されているのである。

「モノとディスプレイとの重なり」が示すアニミズム的世界

この連載を「モノとイメージとの重なり」ではなく「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルにしたことが、ここまで書いてきて、私にはやっと分かってきた。タイトルをつけた当時の私はディスプレイが示すモノとイメージとの二項対立をそのまま扱ったのでは、ディスプレイが示す不思議さは考えられないということを直感的には思っていたのだろう。確かに、ディスプレイではモノとイメージとが重なり合っている。それは穴が物質なのか、非物質なのか分からないような不思議さである。しかし、コンピュータと接続されたディスプレイは物質でも非物質でもなく、「非質量」とでもいえる記号的な存在であるソースコードやデータを合わせもつものであった。そして、記号的な存在が物理世界にあるためには何かしらのモノに依存する必要がある。だから、ディスプレイをモノとイメージとの重ね合わせを可能にするソースコードやデータを含めたひとつのモノとしてディスプレイを考える必要があったのである。

この連載で扱ってきた作品はディスプレイのモノとしての側面を示し、モノとイメージ、モノと光との関係を扱っている。その際に、ディスプレイは物理法則のもとにあるのだが、ディスプレイが示す光の集積としてのイメージとそれを構成するソースコード/データが示すルールが、さまざまなかたちで物理世界を上書きして、あらたなかたち、状態、平面をつくるようになっている。そして、ディスプレイ以外の物理空間でも、モノと光とがソースコード/データに基づいて一元的に扱われるディスプレイ場を現出してきている。だから、エキソニモの《A Sunday Afternoon》はディスプレイ全面を塗りつぶし、今回取り上げたローゼンダールの《Shadow Objects》は、ディスプレイから離れたところに現れるディスプレイ場の可能性を示しているのである。

もはやディスプレイはモノとして存在しなくてもいい。文字通り「フレームレス」になっていくディスプレイは、モノから理念的な存在となっていく。だから、本連載はこれまでディスプレイを用いた作品を扱ってきたけれど、これからはディスプレイから離れていった作品も扱うことになるだろう。

私は連載の1回目でディスプレイをめぐる状況を次のように書いている。

デジタルやインターネットという物理世界と切り離されているとされた領域が、センサーを備えたスマートフォンのディスプレイとともに物理世界に置かれるようになった。同時に、ディスプレイは「データの具現化」が引き起こすアニミズム的状況のなかで、データの支持体として絶対的な存在ではなくなり、テープやめんつゆと同列のモノになりつつある。このような大きな変化にあるディスプレイを、ポストインターネットのアーティストたちは作品のメディウムとして選択する。それは、ディスプレイがいち早くデータと融合して物理世界に反応したモノとして、これからのアニミズム的状況を先取りしているためである。だから、ポストインターネットの作品は、データとモノとの融合を妨げるためにディスプレイを使っているのではなく、その融合を効果的に見せるために現時点でモノとデータとが最も融け合っている装置としてディスプレイを使っているのである。13

ここではデータとモノについての言及しかないけれど、連載で作品の考察していくなかで、ディスプレイはモノであると同時に光を操る装置であることは何度も言及してきた。つまり、ディスプレイは、光とモノとをソースコード/データによって一元的に操作可能にすることで、「データを具現化」してあらゆる事象を提示する装置として絶対的な存在であった。ソースコード/データという裏面の状況を、モノと光を操作して表面に現出し続けるディスプレイは、あらゆるものに「霊=データ」が宿るアニミズム的状況をいち早く示していたと言えよう。そして、ディスプレイはスマートフォンというかたちで世界に遍在するようになっている。

哲学者の清水高志は『実在への殺到』において、パースによる「記号一元論」とジェイムズによる「経験一元論」を表裏一体させることで、アニミズム化した世界を考えられるとしている。

アニミズムおよびパースペクティヴィズムを、複数の記号過程が競合する世界像として解釈し、さらに記号一元論と経験一元論を同じものの両面と捉えることによって、こうしてアニミズム化ははじめて可能になる。14

清水が示す「経験一元論」と「記号一元論」が表裏一体となり、その先に見えてくるアニミズム的世界をいち早く見せていたのが、記号を一元的に扱うコンピュータと接続したディスプレイによるモノと光の一元的な操作であったといえよう。ディスプレイはソースコード/データという記号とモノと光というヒトの経験をつくりだす要素とが表裏一体になっている。マウスなどのインターフェイスを構成するモノの操作がソースコード/データを変更し、データの変化が光を変化させる。ディスプレイはコンピュータとともにソースコード/データという非質量体によって、光の明滅という現象を操作して画像をディスプレイ表面に提示すると同時に、ディスプレイを取り囲むフレームというモノが光の明滅に質量を折り重ねてきたのである。

しかし、今、コンピュータはディスプレイから解放されつつある。コンピュータはディスプレイで得たスキルを、モノのインターネットというかたちでディスプレイを必要とせずにモノ/光とソースコード/データとを重ね合わせが可能な理念的な場をつくりつつある。モノとしてのディスプレイが理念的なディスプレイ場へとスライドしていくなかで、ソースコードがディスプレイ外のモノと光とがもつデータにアクセスして、上書きしていく。

ディスプレイ、及び、ディスプレイ場が操作することになるモノと光は物理空間に遍在している。あとは、ソースコード/データを物理空間に拡張し、モノと光をソースコード/データのもとで変化をあたえさすれば、モノの変化が光を変化させ、光の変化がモノを変化させて、さらに、モノの変化が光を変化させて… といったモノと光の変化の循環が物理空間に起こる。モノと光の変化の循環のなかでディスプレイはソースコード/データと一体化した存在として特別なものでなくなり、あらゆるものがソースコード/データと表裏一体の存在となっていき、物理世界の光とモノとの関係を変えていく。そして、そこにあらゆるモノと光とがソースコード/データによってアクセス可能となるアニミズム的世界が生まれるのである。

参考文献・URL
1. 千房けん輔「半透明な記憶から」『セミトランスペアレント・デザイン (世界のグラフィックデザイン)』、DNP文化振興財団、2014年、p.7
2. エキソニモ「Milk on the Edge」展リーフレット、2017
3. ラファエル・ローゼンダール×田中良治「インターネットは移ろいゆく無常の自然」、Bound Baw, http://boundbaw.com/inter-scope/articles/11
4. 同上URL
5. Rafaël Rozendaal and Jürg Lehni, Compression by Abstraction: A Conversation About Vectors, RHIZOME, http://rhizome.org/editorial/2013/jul/30/compression-abstraction/
6. 岡﨑乾二郎編著『芸術の設計―見る/作ることのアプリケーション』、フィルムアート社、2007年、p.236
7. 同上書、p.240
8. ラファエル・ローゼンダール×田中良治「インターネットは移ろいゆく無常の自然」
9. 加地大介『穴と境界』、春秋社、2008年、p.96
10. 岡﨑『芸術の設計』、p.240
11. 「ラファエル ローゼンダール | Convenient」、展覧会テキスト、Takuro Someya Contemporary Art、http://tsca.jp/ja/exhibition/rafael-rozendaal-convenient/#works
12. ヴィクトル・I・ストイキツァ『影の歴史』、平凡社、2008年、p.254
13. 水野勝仁、連載・モノとディスプレイとの重なり 第1回「「ポストインターネットにおけるディスプレイ」MASSAGE、http://themassage.jp/monotodisplay01/
14. 清水高志『実在への殺到』、水声社、p.200

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Romero Report 1 x 1: 02
Everyday, Today [Kenta Cobayashi] x [Terrell Davis]

今回のエッセイでは、新進のアーティスト小林健太(デジタルツールを用いて画像処理を施すフォトグラファー)とTerrel Davis(生活を取り巻いている人工的なモノを3Dレンダリングした画像を制作しつつ、幅広い分野にわたって活動するアーティスト)の作品を見ていく。彼らは写真技術や技法を使用して画像にさまざまな効果、編集、操作を施している。小林とDavisは常に動きのある世界をとらえていいて、それは現実的であると同時に、人工的な世界なのである。

現在の肖像を示そうとするコンテンポラリーアートは、しばしば儚いものである。コンテンポラリーアートはデジタルカルチャーの存在を無視できるものである一方で、セルフィー、ミーム、バーチャルリアリティやPhotoshopが描くグラデーションといったものをいち早く取り入れた作品もある。しかし、これらのアプローチは短絡的で偏ったものであるようにも感じられる。しかも、リアルとデジタルといったテーマは人気ではあるが、極端なものが好まれ、ふたつが微妙に混ざり合っている曖昧な部分は見過ごされていることがほとんどである。小林とDavisは現実世界と人工的な世界とのあいだにある領域を探求しており、それはネット接続された僕たちの奇妙な自己をよりよく映し出したものになっている。

東京を拠点とする小林はiPhoneを使用して、日常生活、彼自身や友人たち、身の周りのものを撮影する。撮影した写真のなかで好奇心を刺激するものがあると、小林は写真をフォトプロップスなどのツールで編集する。画像に映るネオンサイン、窓のブラインド、人物といったものに染みやにじみのようなものがつけられたり、それらがつぶされたり、引っぱられたり、ひっかかれたりして、あたらしい次元に突入していく。この染みなどがつくる歪みが日常生活のどこにでもあるありふれた風景を再定義する。編集された画像が、僕たちの生活において言葉で言い表せない側面を示すメタファーとなっていることは間違いないだろう。それは僕たちが見ることはできないが感じているものであり、あわただしい都市を彷徨うなかで感じる目眩や目を離しても心のなかに留まり続けるネオンサインのぼんやりした残像のような存在なのである。小林は映像、zine、VRをベースとした作品の制作も行なっており、現代に生きている私たちの生態系を探求し続けている。

ニューヨークで活動するDavisはインターネットで入手した現実世界のモノを使って、3Dの静物画を制作している。さまざまな文化や地理的境界を超えて集められたモノには、たまごっちのような時代遅れのテクノロジー、ブランドものの香水ボトル、ニューヨークのメトロカード、日本のスナック菓子、綺麗な花束といったものがある。3D編集ソフトによって、モノには新しい色調と彩度を与えられ、鮮やかな光を放つ作品に組み込まれていく。モノのもつ独特の空気を明確にすることで、作品はコンセプトである「もののあはれ」を示すようになる。モノはつかの間の存在であって、生活のなかに現れては消えていくことを、僕たちは知っている。同時に、モノはそれぞれ特徴を持っている。Davisはモノを見えるままに見せるのではなく、編集技術を駆使して、モノの別のあり方を見せる。モノは僕らが望む、あるいは、心のなかに思い描く状態により近いように見えてくるのである。

小林とDavisの作品における類似点は、僕たちが見過ごしがちな周囲のものごとを観察し、作品に取り込んでいることである。いくつかの点で彼らの画像編集方法は、デジタル化された日々の生活でのリアリティをそのまま見せるのではなく、リアリティがどのように見えるのかに対しての解釈を提示している。それはにじんでいたり、輝いていたり、鮮やかでいきいきとしたものである。もちろん、彼らが主題としているものは様々である。小林が人や場所にフォーカスする一方、Davisは過去と現在を同時にもたらすモノとインターネットを作品のリソースとして、それらから派生する哀愁や共感を作品の主題に置いている。主題としているものが対照的であるにもかかわらず、ふたりとも日々の生活や日常的なものの見方を解き明かすことに関心をもっている。小林とDavisは「すべてのもの」を異なったフィルター、あるいは、異なった見方を通して見せるのである。

(left) Kenta Cobayashi, Line, #smudge, 2016. (right) Terrell Davis, Pride 3, 2017.

スナップ写真と染み

小林とDavisの作品制作には、ふたつのポイントがある。1つ目は、現実世界にあるものを捉えるスナップ写真という点である。2つ目は、スナップ写真を独特で異質なものにする染みのようなものである。日常的な写真は彼らの作品とは異なっている。撮影と編集は誰でも行なうことができるが、僕たちは画像にクリエイティビティの欠如を見続けている。だから、屋上で過ごすリッチな人々、東京スカイツリー、ニューヨークの薄っぺらな食べ物といった画像が何百枚も存在しているのだ。幾度となく、これらのイメージにはおなじみのフィルターがかけられ、編集されて、何か意味のあるものを見ているような気分を作りだしている。それらの画像はすぐに目の前から消え去り、デジタルというエーテルのなかに格納されていく。このありふれた日常の画像は過度に思わせぶりで、現実味がなく、落ち着きがない広告の画像と混じり合って表示されている。このように、僕たちが日常生活で生み出す画像と見ている画像は、ありふれた現実と手の届かない幻想との間で引き裂かれているのである。小林とDavisは、これらふたつの極端なもののあいだの領域を前面に出すように画像と日常生活にアプローチする。そこでは、僕たちのリアルの生活とデジタルの生活が並行して進行している。彼らが観測し、編集する風景は躍動感や活力があるように見えたり、目を引いたりするかもしれない。しかし、それはいつものモノや場所、散らかった机の上や公園に座っている友人などの画像である。日常はあらたな目的を与えられる。小林とDavisはつかみどころのなく、超高速で人々が互いにつながれていく社会をとらえている一方で、スローな部分や個人の場所がもつ親密さをまだ社会は含んでいるのだということもはっきりと示しているのだ。

僕たちの現在そのものをスナップ写真でとらえることは難しい。僕たちは、ステータス通知と新しいテクノロジーをとりつかれたように気にしながら、高速で未来へと移動している。しかし同時に、インターネットは過去と現在のどちらをも保存する。Davisの画像の構成方法はこのことを示している。彼の作品では、過去のモノと現在のモノとが混ざっている。モノに境界はない。高価な水差しがマライア・キャリーのCDの隣に置かれ、ノキアの旧型の携帯電話がフラワーアレンジメントのなかに置いてある。モノたちは動かないが、光を発しており、また、光を反射している。それらは儚げであり、同時に、時間のなかに閉じ込められているようでもある。美術史的な観点から静物画に関して述べると、Davisが作り出す作品の構成方法は僕たちの現代生活の様子と一致していると言える。その構成は、まるで僕たちが自分の机を見ているかのように上から見下ろす眺めであることが多い。自分に向けて輝きを放っている好きなものに囲まれたなかで、カギを探したり、携帯電話でメールやメッセージに返信しようとしたりしている瞬間を示しているである。

小林の写真についての考え方は、これまでの決まったやり方にしばられないものだ。主にiPhoneを使うことによって、彼が撮影できるものに限界が生まれる。iPhoneではフラッシュ、ズーム、持ち方が限られてくるからである。しかし、iPhoneを使うことは写真に新しい可能性をもたらす。パーソナルなデバイスを使って写真を撮ることで、予測できない瞬間を撮ったりすることができる。例えば、渋谷の交差点の写真は何百万枚も存在しているが、もっとずっとダイナミックでエモーショナルなシーンを作るために、小林は画像を編集する。指先ツールは撮影しただけではとらえることのできない、画像の性質を引き出すメソッドとなる。小林は写真を撮るという一連の動きのなかでヴィジョンを見ており、そのヴィジョンが可能になる方法を考えている。起こったままにそのものをとらえることには意義がある。しかし、編集のプロセスを通すことは、出来事に付随する感情をとらえるということなのである。指先ツールがつくる染みやにじみは、僕たちが画像を見て直接思い出すことはできないが、記憶として感じることができる部分を表現するのである。


Terrell Davis, Pride 4, 2017. Kenta Cobayashi, City (Kuala Lumpur), #smudge, 2015.

物質世界に生きる

Davisはモノを記録することでモノの記憶をつくり出す。一方で、小林は瞬間をとらえ、それがはかなく消え去るものであることを示す。しかし、どちらのアーティストもモノや人や風景をとらえることと編集することを通して、デジタル時代が発する感覚や空気を明確に描き出している。コンテンポラリーアートにおいて、ここに彼らの作品の重要性がある。小林とDavisは日々の出来事、モノ、日常の行動、場所、人々といったものを現在の名残り、あるいは、現在の人々が行なったことの結果であるかのように見ている。彼らの作品はモノ、こと、そして、僕たちが見過ごしがちな生活のなかで起こる相互作用を示す作品なのである。小林がクアランプールをとらえて画像にするとき、デジタル化されたメガロポリスの流れや携帯電話でメッセージのやり取りとする群衆ひとりひとりの動きが示されているのだ。Davisにとって現在をとらえることは、つかの間の儚さをとらえることであり、その作品はノスタルジックな感情や儚さを示しているである。時代遅れとなったテクノロジーが彼の画像のなかで復活する。しかし、それらは生花やスナック菓子といった傷みやすいもののなかに置かれている。皮肉なことに、Davisはこうした画像を、モノたちの魂を永遠に保存するインターネットを通して入手しているのだ。

Terrell Davis, 2016.

もうひとつ、どちらのアーティストもテレビゲーム、あるいは、少なくともテレビゲームの美的感覚に関心が高いということが、作品のインスピレーションとしてあることを指摘しておかなければならない。ふたりとも90年代生まれなのだが、90年代はおかしなゲームやアメリカと日本との文化交流が多い時代だった。Davisの作品で特徴的なのは、懐かしい日本のゲーム機が含まれていることだ。ゲーム機はたまごっちだったり、ファイナルファンタジーがプレイされているPSPだったり、ドリームキャストだったりする。僕は小林ともゲームの話をしたことがあり、特に「キッドピクス」についての話をした。マリオペイントに似たゲームであるキッドピクスは、へんてこな編集ツールが豊富で、驚くほど独創的な柔軟性で画像を描くことができるものである。コンテンポラリーアートの世界では、アーティストの過去の出来事や生活は作品から除外されている。しかし、Davisや小林のようなアーティストにとっては、過去と過去のなかでアクセスできたものが、彼らの現在に明らかに影響を与えているのである。

現在、僕たちはメッセージをチェックすることや現実世界でデジタル画像を眺めることに多くの時間を費やしている。デジタルワールドに入って、その光景を見ることもふつうのこととなってきている。僕たちが見るもの、触れるものすべてにデジタルのフィルターがかけられている。小林とDavisは、現在のリアリティをかなり違ったかたちで見ていると僕は思う。彼らの作品は、リアルとバーチャルのあいだに存在しているものを僕たちに見せるための観測行為なのである。彼らは、世界がほんとうはどのようなものであるかを見るための、より良い方法を差し出しているのだ。それは可塑性があり、編集ができ、カスタマイズ可能で常に変化していて、さらには、ダウンロード可能で、アクセスしやすく、どこにいようと関係ないものなのである。

Kenta Cobayashi, solo exhibition Insectautomobilogy / What is an aesthetic? @ G/P gallery, Tokyo until 8/12.
Cobayashi and Davis are featured in Forever Fornever, a group exhibition curated by Chris Romero at Rhode Island College, Oct 5 – 28, 2017.

Instagram: Kenta Cobayashi [@kentacobayashi] / Terrell Davis [@nikewater]
 

クリス・ロメロ
現代アートとデジタルカルチャーに関心を持つキュレーター、ライター、アーティスト。キュレーション、アーカイビング、ビデオ、写真、イラストの要素をさまざまな領域にわたるプロジェクトに取り入れている。そして、何がアートであり、何がアートではないのかといった厳密な概念を壊すコラボレーション的な活動を行なっている。新進のアーティストとの取り組みや、一風変わった、これまでにはないプロジェクトの製作、文化的、地理的な交流の開拓などに特に関心が高い。今後のプロジェクトには、国立近現代美術館でのソウルの若手研究者育成活用事業の促進、プロビデンス市のロードアイランドカレッジでのエキシビションForever Foeneverの開催、そして、the Wrong Biennaleのためのオンラインエキシビションのキュレーションなどが含まれる。

www.romerochris.com
ig: @cromeromero

 
 

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水野勝仁 連載第11回 モノとディスプレイとの重なり

エキソニモの個展「Milk on the edge *」で展示されていた《201703EOF》、《201704EOF》、《A Sunday afternoon》はそれぞれディスプレイを用いた作品であることは間違いない。しかし、これらの作品のうち、《201704EOF》、《A Sunday afternoon》はしばらく見ていると「ディスプレイ」の存在が危うくなってくる感じがある。《201704EOF》のディスプレイは全面が青く塗りぶされたように光っており、9つのフレームが青い光に浮かぶ黒い枠線のように見えてくるし、《A Sunday afternoon》のディスプレイは白色、水色、緑色などの絵具で塗りつぶされており、光の明滅がつくる映像は見えなくなっている。このようにエキソニモの新作は、ディスプレイが「ディスプレイ」として機能するために必須だと考えられる「映像」がなくなっているような感じを見る者に抱かせる。そこでのディスプレイは光で塗り潰されるとともに、絵具でも塗り潰されている。「塗り潰されたディスプレイ」は何を示しているのだろうか。

フレームを光に寄せる

201703EOF》は単体のディスプレイに動きのある映像が表示されているのに対して、《201704EOF》、《A Sunday afternoon》は複数のディスプレイが用いられていて、映像を含めて作品で動きを示すものがない。このことから、《201703EOF》はディスプレイ単体かつ映像に動きがある《Body Paint》、《Heavy Body Paint》から《201704EOF》、《A Sunday afternoon》へと至る過渡期の作品だと考えられる。《Body Paint》と《Heavy Body Paint》では、ディスプレイの光がヒトとビンとを表示しつつ、フレーム内のその他の部分が絵具で塗りつぶされていた。その結果として、光とモノとのあいだで揺れる境界線上で、光がモノに擬態していく様子が見られた。《201703EOF》ではシンプルにディスプレイの黒いフレームが光とモノとの境界線として示されている。ディスプレイの内と外とを区切るのは、フレーム本来の機能である。しかし、ディスプレイの裏側につけられたLEDライトが光り、ディスプレイ裏側の壁が照らされるということが、フレームを通常とは異なる条件に置く。ディスプレイの表と裏からは異なる色の光が放射されているため、フレームはふたつの色の光に挟まれているように見える。

201703EOF》のディスプレイ中央部には何も映っていないけれど、ディスプレイの縁に沿ってフレームを照らし出すような赤、青、緑といった色が緩やかな移行を繰り返している。それと呼応するように、ディスプレイ裏側の光も様々な色へのトランジションを繰り返している。フレームを挟むふたつの光のトランジションを見ているうちに、ディスプレイ周囲のどこに焦点を当てて見ているのかわからなくなっては、瞬間的に意識がフレームに集中することが起こる。しかし、しばらく見ていると、また作品のどこを見ているのかわからなくなる。このような意識の揺れは、ふたつの異なる色のトランジションがとらえどころのない感じで繰り返され、その光に挟まれたフレームが動くことない確固としたモノとして目の前にあるから起こるのだろう。《Body Paint》と《Heavy Body Paint》はディスプレイを塗りつぶした絵具と映像との境界線が揺らぐことで、光がモノへと擬態するような認識のバグを引き起こしていた。《201703EOF》では逆に、色のトランジションを繰り返す光が、ディスプレイの最も外側にあり、モノとして動くことのないフレームを挟み込んで、光の領域に組み込もうとしているように見えるのである。

視覚のルールでは、光があるときだけ物が見える。この不動の視覚典範が、テレビでは完全に破られている。われわれは経験に照らして、そのルール破りを直ちに見破る。一方視認的には、テレビ画面は、光色をもつことによって、家具より前に突出する。だがその瞬間、画面周囲を囲んでいる四角形、つまり〈窓を演出するフレーム〉を認めた脳は、光色画面の突出する事実のほうを否定して、正常位置に後退するよう訂正することを知覚に求める。その結果われわれが認めるのは、光色画面が、前に出て見えながら、前には出ていないという、知覚的横車の状態である。その矛盾作業は眼のレベル(光学反応)と脳のレベル(認知)の軋轢であって、過大なストレスの一因となるのは当然のことである。1

201703EOF》を考える前提として、「色」という観点からヒトの感覚を人類史的スケールで論じた小町谷朝生が指摘したテレビの映像とフレームとの関係を参照したい。ここでのテレビはブラウン管であるが、液晶ディスプレイもブラウン管と同様に表面が光っており、その周囲にフレームがあることは代わりがない。むしろ、ディスプレイそのものが「窓」そのものになっているといえるため、小町谷の指摘がより当てはまるフレームに囲まれた光る平面ができたといえるだろう。小町谷が指摘する通りフレームはディスプレイ内部の光と物理世界のモノとを分けるものである。しかし、ディスプレイのフレームは厳然とふたつの世界を分けているとは考えられない。その理由は、フレームの素材であるプラスチックが示す色の特性にある。小町谷は別の著書でプラスチックについて次のように書いている。

我々が目にする日用品のプラスチックスは、肌がつるつるで透明感がある色をもっている。そのような性質の対象は表面がよく見えない。それだから、色だけがポンと見えてくる。通常、物体は形と色と肌とがいっしょに目に入る。その状態は、不透明色な物体の場合によく認められる。だが、プラスチックスのように透明色めいていて表面がよくつかめない対象の場合は、物体の形態から色調が遊離して感じられやすい。つまり、形と色とが分離して見えやすい対象なのだ。不透明色の場合に一つであった色と形は、このように透明色では二つの要素に分化する。その分化し遊離化した色彩を、物体に所属する色を「物体色」と呼ぶのに対して、「情報色」と呼ぶことにしよう。その言葉を使って言えば、プラスチックスは物体色であるよりは情報色でありやすいのである。このような物質は、ガラスのようにほぼ透明なものを別とすれば、今迄の生活物品のなかには出てこなかったのである。少なくともこのようには大量にはなかった物品である。その点が視覚作用の観点からは実に興味深いわけである。2

小町谷はディスプレイのフレームがモノとして担っている光の平面を押さえる役割とプラスチックの性質とを接続しなかった。けれど、液晶ディスプレイのフレームはプラスチックでできているならば、このふたつは合わせて考えみる価値があるだろう。コンピュータと接続されたディスプレイが物体から遊離したRGBの数値で指定可能な文字通りの情報色を表示し、その光をモノでありながら情報色に近い色を示すプラスチックのフレームが取り囲んでいる。このことから、フレームは確かに光とモノとの世界とを分けるものではあるけれど、同時に、光からモノの世界へ、逆に、モノの世界から光の世界へと、ふたつの世界を情報色を経由して、トランジションさせる緩衝地帯として機能しているとも考えられる。

201703EOF》でトランジションを繰り返しながら画面の縁を彩る様々な色の光は、フレームよりも前に出ようとする。しかし、ディスプレイの黒いフレームが表面の光を枠内に抑える。このときすでに、ディスプレイと接する黒いフレームのモノ性は情報色を経由して、光側に引き寄せられている。さらに、《201703EOF》ではディスプレイの裏側からも光が放たれている。この外側からの光もまたディスプレイ表面の光を後退させようとするフレームを光の領域に引っ張るのである。両側を光に挟まれたフレームは光の平面が前に出てくるのを抑えつつも、そのモノ性は表裏両面からの光に融解していく。そのような状況のなかで、ディスプレイのフレームは表と裏との光に挟まれて、鮮明な黒色を示すようになる。それは光を発せずに何も映すことがない画面中央部よりも鮮やかで透明感あふれる黒であり、フレームが光の領域に引き込まれていることを示すのである。しかし、色のトランジションを繰り返しながら、朧気な輪郭を示す光に挟まれたフレームは動くことがなく、明確な輪郭を示し続けてもいる。フレームはモノ性を光側に引寄さられながらも、不動という点でモノとしてあり続けているのである。《201703EOF》のディスプレイのフレームはモノと光とのあいだで揺れ動いている。だから、この作品を見る者はフレームを含んだ光がつくる情報色の曖昧な領域のどこに焦点を合わせればいいのかわからない状態と、モノとしてのフレーム自体に焦点が合ってしまう状態を繰り返すことになるのである。

世界を独自の濃度で見せるディスプレイ

モニターの画面全体を覆う青い映像と、背面を照らし出す青いLEDライト。モニターの中にあるデジタル・イメージと、物質世界を照らし出すLEDライトが発光することによって、その間にあるフレームを照らし出し、現代人がとらわれている枠組みそのものを浮かび上がらせる作品。3

エキソニモは《201703EOF》でフレームをモノと光の領域のあいだに移した。その発展系と考えられる《201704EOF》は、9つのディスプレイで構成され、ディスプレイは表と裏から青い光を放ち続けて、ディスプレイ表面はもちろんのこと、裏側の壁までも青色で塗りつぶしているような作品になっている。「塗りつぶし」は、エキソニモが《Body Paint》から用いている手法である。

ペインターがディスプレイにペイントする場合、多くの場合はその人が別のメディアにペイントしていたスタイルの延長として行なっている場合が多く見られます。エキソニモに関しては元々ペイントしていないので、ペイントスタイル自体がありません。そんな中、選んだ方法は「塗りつぶす」という方法です。一番最初にこのやり方で作った「Body Paint」では、まず人間の体をボディーペイントしてから撮影し、その映像を映したモニターの、人間以外の部分(余白の部分)を同じ色で塗りつぶすという方法で制作しました。4

塗りつぶす」という手法から考えると、《201704EOF》の方が《201703EOF》よりも《Body Paint》や《Heavy Body Paint》に近い作品となるだろう。しかし、《201704EOF》には映像に動きがない。その代わりに、作品が複数のディスプレイで構成されるようになっている。9つのディスプレイを配置して、その表と裏から放たれる光を重ね合わせて、単体のディスプレイを超える領域を青い光で塗りつぶす。複数のディスプレイには各々フレームがあるけれど、それが作品全体の境界ではなくなり、青い光がつくる曖昧な境界が生まれている。9つのディスプレイの各フレームは、より大きな青い光の平面のなかに組み込まれている。

エキソニモは《201703EOF》で掴んだフレームを光に寄せる技法と「塗りつぶし」とを組み合わせて《201704EOF》を作成したのだろう。だから、《201704EOF》は複数のディスプレイを用いて、映像も動きがない青一色にすることで、ディスプレイのフレームを跨いだより大きな領域を塗りつぶした平面をつくり、モノとしてのフレームが作品全体の領域を区切ることを無効化する。《201703EOF》はフレームを境界として、見る者の意識がモノと光とのあいだで揺れることになったけれど、《201704EOF》ではフレームと映像とのあいだでの焦点の切り替えが起こることがなく、一面の青い光を見ているという感覚になる。そこでは、フレームのモノ性がほぼ青い光のなかに融けて出してしまい、青い光の一区切りをしめす黒い線となっているように見える。

201704EOF》には、2種類の光の平面が生まれている。ひとつはディスプレイの光がつくる情報色から生じている9つの平面であり、もうひとつはディスプレイ裏側のLEDの光が壁の物体色をLEDの青い光で塗りつぶして情報色に近い状態にした平面である。9つの情報色の青い平面とLEDがつくる情報色もどきの青い平面とが重なり合って、ディスプレイのフレームを超える青い光がつくる情報色の平面が生まれる。そこで、フレームはディスプレイ前面の青い情報色とディスプレイ背面の青い情報色もどきに挟まれている。ディスプレイ前面の青い情報色からみれば、フレームは物体色にちかい情報色であり、ディスプレイ背面の情報色もどきからすれば、同じような情報色もどきとして存在することになる。そして、これらの情報色と情報色もどきのふたつの青い平面が映像として動かないがゆえに、《201703EOF》で成立していた光と黒いフレームのモノ性との対比が成立しない。だから、《201704EOF》のフレームは青い情報色を示すふたつの平面がつくる大きな青い光の平面のなかにモノ性を強調することなく存在し続ける。すべてが情報色にちかい青い色でつくられた平面は、9つのディスプレイを含むそれ自体がモノから逃れるような透明感に満たされている。そして、透明感に満ちた青い平面に9つの黒い枠線が描かれているように見えるのである。

201704EOF》では、モノと光との緩衝地帯として機能するためのフレームのモノ性が放棄されつつある。それでもなお、フレームは黒い枠線としてディスプレイの情報色と壁の情報色もどきとを分け続けている。ここにフレームの役割が示されている。フレームは内と外との区別をつくるけれど、緩衝地帯としてディスプレイの光と物理世界の光とを接続していく。フレームの内と外とで別々の世界が展開しているが、フレームがなければ、これらの世界は単に混ざり合うだけである。フレームがあるから内と外との区分けが生まれ、そこから平面が生まれ、平面からその表と裏とが生まれていく。フレームがあるから複数の世界が共に存在し、重なり合うことができるようになる。フレームは単に内と外とを区切る「縁」ではなく、異なる世界を重ね合わせる枠としても機能する。フレームは「重なり」をつくるインターフェイスなのである。

しかし、《201704EOF》で、エキソニモはフレームが分けたふたつの世界をひとつにしてしまう。フレームの世界を分ける機能を前面と背面からの青い光でハックして、フレームの内と外とで区切られた世界を両側からの光によってひとつに接続するのである。ここでのフレームは区切るモノではなく、フレームのなかを覗くモノになっている。「覗く」といっても、《201704EOF》の9つのディスプレイのフレームは別の世界を見るための「ウィンドウ」ではない。ディスプレイは眼鏡やルーペのように世界に重ねられているのである。ディスプレイ毎に背面の青い平面の一部を別の見え方に変えるため、見る者はディスプレイを透して、9つの異なる濃度の青色を見ることになる。このとき、ディスプレイはルーペのようにそれ自体は透明な存在となり、その表面に何かを示すのではなく、フレームの向こうにあるひとつの世界を独自の濃度で見せるフィルターになっている。《201704EOF》はフレームがつくる重なりを利用して、青い光で満たされたより大きな平面を9つの異なる濃度で見せる。エキソニモは、ディスプレイのフレームを世界を区切るための装置ではなく、ひとつの世界を異なる濃度で見せる装置として機能させたのである。

「光⇆モノ」が常に可能な場としてのディスプレイ

Aから始まるAシリーズの第1作であり、デジタルイメージとフィジカルなマテリアルとの境界線を探求したBody Paintから続くシリーズの最新作。Aシリーズでは、モニターの全面が塗りつぶされ、そこに映っている(かもしれない)映像は完全に覆われ見えなくなっている。しかし観客は、塗りつぶされたモニターの奥にあるはずの映像の存在を感じる、もしくは求めるかもしれない。5

絵具に塗り潰されたディスプレイは機能しているのかはわからないけれど、絵具が示す形から確かにそこにあるようには見える。けれど、ずっと見ていると、ディスプレイがそこにあるのかも不確かになってくる。塗りつぶされたディスプレイという奇妙な状況は、見る者にどのような振る舞いを求めているのであろうか。ディスプレイが機能しているのか否か、さらには、その存在がシュレディンガーの猫的な状況に置かれているなかで、ヒトはディスプレイに何を見るのであろうか。

ディスプレイを塗りつぶすことは、映画のようなプロジェクターの光を受けるスクリーンを塗りつぶすこととは異なっている。なぜなら、スクリーンもそれ自体が光るわけではなく、外部からの光を必要とするからである。スクリーンは塗りつぶされたとしても、外部からの光で映像を示すことができる。対して、ディスプレイは外部からの光を必要とせず、それ自体が光源である。フランスの思想家レジス・ドブレはディスプレイがつくり出す光が映像の歴史において、大きな区切りとなっていると指摘する。ドブレは映画のスクリーンとテレビなどのディスプレイとの違いを次のように記している。

なぜ多色のテレビ/ビデオ映像に大きな区切りを見るのだろうか? 重なり合った二つの理由がある。まずはブラウン管によって、われわれが<映写>から<放送>へ、あるいは、外部の<反射光>からスクリーンの<放射光>へと移行したことである。テレビは、演劇、幻灯機、映画に共通の、暗い部屋と光の啓示を対置する古くからの装置を破壊する。テレビの場合、像にはおのれの光が組み込まれている。像はみずから示すのだ。おのれを源とするがゆえに、われわれの眼には、「自己原因」と映るのである。神、あるいは実体の、スピノザ的な定義だ。映写ではすべからく、スクリーンの外側に立つ映写技師が必要とされ、したがって二重化が前提となる。一方、ブラウン管の像は、表象の二つの極を、事物そのもののある種の放射へと融合する。次のようなメタファーがさほど仰々しくないなら、こういってもよいだろう。つまり、画素みずからが、世界の量子的構造を示すのである。つまり、担うものと担われるものとは同質なのである。われわれは美学から宇宙論へと移行したのである。6

ドブレの指摘に従うならば、エキソニモは《A Sunday afternoon》で、ディスプレイを塗りつぶして、光源という「自己原因」を消去したことになるだろう。「自己原因」を消失したディスプレイはフレームも同時に失い、絵具が塗られたひとつの板となるだろう。だから、ディスプレイは塗りつぶされたあとに、その表面に映像を示すことはできない。

エキソニモは確かにディスプレイの前面を塗りつぶして、「自己原因」である光源を消去してしまったのかもしれない。しかし、それでもなお、ディスプレイに電源ケーブルをつないで展示しているのは、なぜだろうか。ドブレはディスプレイにおいて「画素みずからが、世界の量子的構造を示す」と述べているが、それは単にピクセルが「光の明滅」であるといっているにすぎない。確かにディスプレイは映画とは異なりそれ自体が発光するため、プロジェクターとスクリーンのように映像を映す装置として二重化は必要としない。けれど、ディスプレイは光だけで構成されているわけではない、そこにはフレームも含めたモノが存在している。スクリーンが一枚の布としてモノとしての側面を極限まで希薄にしているのに比べると、ディスプレイはモノが複雑に組み合わされて光を精巧につくりだすものであって、モノ性は無視できないものなのである。光源として機能するピクセルを明滅させるためには、電源ケーブルが必要なのである。だから、エキソニモはディスプレイに電源ケーブルを接続することで、「ディスプレイは塗りつぶされたかもしれないけれど、光源が消去されたかはわからないですよ」という曖昧な状態をつくりあげているのである。電源ケーブルがあるということは、いつでも電気が供給されて、ディスプレイが光を明滅させられることを示しており、光の明滅を直接見れなくても、電源ケーブルというモノが「自己原因」たる光源の存在を示唆しつづける。つまり、画素=ピクセルだけでなく、電源ケーブルを含めたディスプレイ全体が「自己原因」となりうるひとつの場を構成しているのである。

では、ディスプレイ全体はどのような場を構成しているのであろうか。ディスプレイが構成する場を考えるために、《A Sunday afternoon》でディスプレイを塗りつぶすモノである絵具の意味を考えてみたい。エキソニモによる作品解説では次のように書かれている。

A Sunday afternoonは、ある有名な点描の風景画からいくつかのピクセルをピックアップした色で複数のモニターが塗られている。点描という手法は、現在でも印刷物の網点やモニターなどの色の表現で用いられる視覚混合の技術であるが、Aシリーズでは、その1点、1ピクセルをフレームを含むモニター全面にまで拡大することで、デバイスとしてのモニターの機能性や記号性、そこに映し出されるべき映像、そして絵の具というメディアを通した、多様な意味や記号が絡み合う、新しい点描的”知覚”混合を試みている。7

有名な点描の風景画とはジョルジュ・スーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》のことである。スーラの点描が示した視覚混合の技術が現在のディスプレイでも用いられていることは、エキソニモが指摘する通りである。スーラはモノに反射した物体色としての色を分解して、絵具に置き換えて、キャンバスに描いた。現在、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》はシカゴ美術館にあるが、多く人はインターネットで検索し、ディスプレイを介して作品を見ている。この時には、スーラが光からモノへと変換した絵具が、再び、光に変換されている。《グランド・ジャット島の日曜日の午後》はまさに「絵画自体が光る」というスーラが望んだであろう状態で、世界中のディスプレイで表示されている。ディスプレイはスーラが分解した光をさらに分解して、RGBの三原色の光からなるピクセルを制御している。エキソニモはピクセルの光をピックアップし、絵具へと変換して、ディスプレイを塗りつぶす。スーラが光からモノに変換したように、エキソニモもまた光からモノに変換している。しかし、その意味は大分異なっている。なぜなら、スーラはキャンバスという発光しない平面を発光させるために光を分解してモノとして描いたのに対して、エキソニモはもともと分解された光を示す平面を塗りつぶして、ディスプレイから光を奪う方向に向かっているからである。

あの作品は、画面内のピクセルを捉えて、モニター自体を覆い尽くす過程で発光体から反射体に、データから物質に、内側から外側に、とあらゆる意味で相転移している事の意味が、捉えきれないことが作品たらしめているんだと感じています。赤岩はまた別の問題を感じたようです 8

千房のツイートが示すように、ピクセルの光がディスプレイを絵具として塗りつぶすことで、ディスプレイというデバイスにはあらゆる意味で相転移が起こっている。ディスプレイは光の明滅という原型的性質を絵具というモノで覆われる。しかし、その絵具が示すのは、光の明滅がつくるピクセルである。ディスプレイは光源としての単位であるピクセルを全体に拡大する際に、モノに覆われる。これはモノであるディスプレイ全体を「ピクセル=光」へと相転移させることであったとも言えるだろう。千房のツイートで指摘される「発光体から反射体に、データから物質に、内側から外側に」というのは、同時に逆の方向「反射体から発光体に、物質からデータに、外側から内側に」も向かっていると考えられる。つまり、ディスプレイを塗りつぶすことで「光⇆モノ」という流れが生まれているのである。

ここで、赤岩が感じた問題についての千房のツイートをみてみたい。

赤岩は実際に塗った人間ですが、その時にイメージがデバイスから開放されていく開放感を感じたそうです。見に来た人の中には真逆にイメージが閉じ込められていると言う人もいました(水野さんも)。赤岩は「もうモニターはいらない」と言ってました。9

ここには私の名前も出てきているが、赤岩と私とでは全く別のベクトルの感じを作品から受け取っている。このように全く別のベクトルの考えがでてくるのも、ディスプレイを塗りつぶすことで光とモノとが相互に相転移する状況が生まれるからである。ここで興味深いのは「もうモニターはいらない」という赤岩の言葉である。エキソニモはネットアートから作品制作を始めており、作品は常に「モニター=ディスプレイ」とともにあったと言える。このことを考えた上で、ディスプレイを塗りつぶした赤岩が発した「もうモニターはいらない」という言葉を考える必要がある。赤岩の言葉を考えるために、ここでエキソニモがディスプレイを塗りつぶし始めたことについての千房の言葉を参照したい。

LEDディスプレイに直接ペイントするという手法はそれ自体ではもはや珍しいわけでもなく、元々絵描きの人たちにとっては、ディスプレイがあらゆる場所に氾濫するような時代になってきているので、その上にもペイントしようというのは必然的な流れであると言えるでしょう。しかし、元々絵描きではない自分たちエキソニモは、画面の中でプログラミングなどを使って作品を作っていた人間なわけで、絵の具を手にとってディスプレイ面に塗りたくり始めたというのには、ちょっとした飛躍があります。10

ここで千房が書く「ちょっとした飛躍」と赤岩の「もうモニターはいらない」という言葉は、《A Sunday afternoon》で重なり合うと考えられる。エキソニモにとってディスプレイはプログラムを具現化するためのものでしかなかった。ディスプレイは作品の支持体ではなく、プログラム通りに光るモノであり、プログラムと見る者とのあいだでデータを光に変換する「インターフェイス」である。エキソニモにとってのディスプレイは「光⇆データ」が常に可能な場としてのインターフェイスなのである。インターフェイスはふたつの存在を接続可能な状態にする「あいだ」である。ならば、赤岩が《A Sunday afternoon》でディスプレイを塗りつぶした瞬間に、そこに表示されているかもしれない光の明滅を見る者が自由に想像することができるようになったと指摘することは、ディスプレイがインターフェイスとして「あいだ」になったことを示すのだろう。つまり、ディスプレイが絵具で塗りつぶされた瞬間に、光の明滅を示すモノとしてのディスプレイは消失したかもしれないが、「光⇆データ」「光⇆モノ」といったかたちで、どんな存在であっても光と変換可能な状態にする場というディスプレイの本質が現れたのである。

「ディスプレイ場」というプレイグラウンド

最後に、千房がデジタル表現の特性を指摘したテキストから、エキソニモがディスプレイの何を塗りつぶし、何を得たのかを考えてみたい。

ものを作るという行為は本来「退屈」を減らす行為なのではないか。目の前の美しさに目を奪われれば、退屈は失われていく。しかし、美しさを目前にしながらも退屈を感じてしまう、そんな二重化された感性をもつことによって、構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界から現れて来た彼らが、本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか。11

エキソニモはディスプレイの表面の「スクリーン」を塗りつぶしただけなのである。ディスプレイは「自己原因」ではなく光とモノとに二重化されている。「二重化」といってもスクリーンと映写機とが示す距離がある二重化ではない。光とモノとは「ディスプレイ」というひとつのモノのフレームで、複雑に絡み合いながら重なり合っている。ディスプレイは光とモノとが重なり合う場をつくるインターフェイスなのである。だから、単にディスプレイのモノの部分を塗りつぶしたとしても、光は消え去ることはない。エキソニモはディスプレイの「裏」の存在を信じている。だからこそ、ディスプレイは表面を塗りつぶした絵具の背後で、それ自体が発光する可能性をもちつづけるのである。絵具が光を完全に遮るとしても、ディスプレイが光を放つ可能性を0にはできない。光が実際に明滅しているか、つまり映像を示すことではなく、光源であることがディスプレイの機能であり、存在証明なのである。同時に、その存在証明である光源を構成するモノが存在するのである。それゆえに、塗りつぶされたモノと重なり合う光源は、塗りつぶされてなお光を放つ可能性をもつことになる。ディスプレイは光とモノとが重なり合う場であり、ディスプレイというインターフェイスがあるからこそ、光とモノとが複雑に絡み合えるのである。そして、それはデバイスとしての「ディスプレイ」が消失したとしても、「ディスプレイ場」というかたちで世界にあり続ける。《A Sunday afternoon》の塗りつぶされたディスプレイは、ヒトが光とモノとをディスプレイを離れた物理空間で自在に操れる「ディスプレイ場」というプレイグラウンドを手に入れつつあることを示している。


exonemo solo exhibition “Milk on the Edge”
May 5 – June 10, 2017 @hpgrp Gallery New York
434 Greenwich Street, New York, NY 10013
http://hpgrpgallery.com/newyork/

参考文献
1. 小町谷朝生『地の眼・宙の眼───視覚の人類史』、勁草書房、1996、p.286
2. 小町谷朝生『色彩と感性のポリフォニー』、勁草書房、1991、pp.78-79
3. エキソニモ「Milk on the Edge」展リーフレット、2017
4. 千房けん輔「デザイン・サイコメトリー 第35回ワクワクの時代」、MdN 2017年6月号、p.132
5. エキソニモ、前掲リーフレット、2017
6. レジス・ドブレ『レジス・ドブレ著作選4:イメージの生と死 』嶋崎正樹訳、NTT出版、2002年、p.336
7. エキソニモ、前掲リーフレット、2017
8. 千房けん輔(@1000b)のツイート https://twitter.com/1000b/status/877743348022378499(2017/07/02アクセス)
9. 千房けん輔(@1000b)のツイート https://twitter.com/1000b/status/877744214791999489(2017/07/02アクセス)
10. 千房けん輔、前掲記事、p.132
11. 千房けん輔「半透明な記憶から」『セミトランスペアレント・デザイン (世界のグラフィックデザイン)』、DNP文化振興財団、2014年、p.7

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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Vapor Aesthetics #5-6

YouTubeに転載されたインターネットミーム頌歌『リサフランク420 / 現代のコンピュー 』の動画はじわじわと再生回数を伸ばし、去年の7月24日の早朝8時半頃に1000万回再生を突破。にわかに再興の兆しを匂わせていたVaporwaveは、その辺りから再び大きな盛り上がり見せ始めました。2016年を経て2017年現在。Vaporwaveはよりわたしたちの身近な存在となったように思えます。5万人以上もの生徒数を誇るアメリカの名門大学ニューヨーク大学がウェルカムウィークに際して制作したビデオを観ても分かるように、もはや一種のスタイルとして定着したのではないでしょうか。インターネット下層の吹き溜まりでナードたちに消費されて消えると思われていたVaporwaveは、信じられないことに今や現実世界へと漂い始めているのです。日本でも〈NewMasterpiece〉がVaporwaveのZine『蒸気波要点ガイド』を発刊するなど、国内でも再び脚光を浴びるようになってきました。そんな現行Vaporwaveシーンにおいて、2017年の上半期のおすすめアルバムを20作品ほど選出しました。オールドスクールなスタイルを貫くものもあれば、新たな解釈によって生まれ変わったものまで様々。現在進行系のVaporwaveを知るきっかけになれば嬉しく思います。それでは、どうぞご堪能ください。

  1. 天気予報 – 現在の地域条件

    新興Vaporwaveレーベル〈蒸発音〉からグッドのS1やマカフシキなどの名義でold skoolな作品を発表しているVirtual Polygonによるバーチャル気象観測プロジェクト、天気予報。各地の気象予報に乗せて届けられる深夜のウェザーリポート・ジャム。

  2. Mute Channel – Unseen Finale〈Chilodisc〉

    Dream Catalogue〉や〈Bludhoney Records〉などの活動によりレトロなサイバーパンクからフューチャーリアリスティックなフェイズへと移行したVaporwave、〈H.V.R.F. CENTRAL COMMAND〉や〈ANTIFUR〉を主戦場に、懐古主義的なVaporwaveに徹底抗戦の姿勢を表明したHardvapour。日本人コンポーザーCompetorによるプロジェクトMute Channelの最新作『Unseen Finale』は、某惑星のラストシーンを象ったアートワークのごとく、さらにその先に待ち受ける文明崩壊後の未来像を描き出しているのかも知れません。朽ち果てた人工物は、かつてそこに存在した都市の営みを物語り、今はそこに流れることのないコマーシャルの断片が亡霊となって儚げに漂うような、ディストピア・モールソフトな逸品。本作はVaporwave界の『An Empty Bliss Beyond This World』的な位置づけなのでは。

  3. Zadig The Jasp – プラズマミラー

          文字多重
        キャプテン
     ビデオディスク
       パソコン

  4. Floristic Regions – Vol 2〈Occasionally Tapes〉

    近年、インターネットショッピングの台頭により、全米のショッピングモールのうちおよそ数百もの店舗が経営の悪化により閉店の危機に瀕しているそうです。世界各地から消えつつあるショッピングモールのかつての原風景を描き出したDisconsciousの『Hologram Plaza』を筆頭に、買い物客でにぎわう店内の環境音とそこに流れるミューザックを併存させることでバーチャルなショッピングモールを展開した猫 シ Corp.の『Palm Mall』、식료품groceriesの『슈퍼마켓Yes! We’re Open』、超級市場の『On Sale Now!』、そしてLeisure Centreの『High Fashion』へと引き継がれてきたMallsoftの系譜。Vaporwaveの支流であるMallsoftは、ショッピングモールに香るアンビエンスに独自の美学を見出したタームであると言えます。〈Occasionally Tapes〉からリリースされたFloristic Regionsの『Vol 2』は、そんなMallsoftの安寧に包まれるような作品。

  5. Trademarks & Copyrights – So Hot〈Adhesive Sounds〉

    「私はたった1日だけ、あなたに会いました。そして、もう二度とあなたに会えるか分かりません。しかし、この夏で最も素晴らしかったのは、確かにあなたのことでした。イングリッド、このアルバムをあなたに捧げます。」と語るように、Trademarks & Copyrightsの最新作は、彼が心惹かれたイングリッドという女性に捧げられたアルバム。彼女への募る想いを一言で表したタイトルがニクい『So Hot』なサマー・チューン。

  6. AOTQ – e-muzak

    インターネットミーム・プロデューサーを名乗る新鋭シンセポッププロデューサーAOTQの初のフルレングス。すべてのインターネット利用者のためのヴァーチャル・ラウンジミュージック。

  7. particle dreams – drive carefully〈Gorgeous Lights〉

    夜に息づく都市の営みを嫋やかなスムースジャズと “#late night lo-fi” なるタグを添えて描き出したベッドルームの夢想家たち。なかでも、死夢VANITYや蜃気楼MIRAGEなどの作家勢がシーンに与えた影響は大きく、日没後の都市景観に窓明かりがぽつりぽつりと灯っていくように、夜に想いを馳せる多くのフォロワーを生み出しました。マンハッタン在住の作家particle dreamsもそのうちのひとり。そんな彼の最新作『drive carefully』は、COSMIC CYCLER率いる〈Gorgeous Lights〉よりリリース。80年代中期から90年代にかけて放映された深夜の街を散策するスローテレビプログラム『Night Ride』を彷彿とさせる上質なレイトナイト・ドライビングミュージック。

  8. GenomeTV – ゲノムテレビネットワーク〈Elemental 95〉

    Fuji Grid TVの『Prism Genesis』を源流に、This Program is Brought to You, Bye.による『群馬ハイヌーン』、OSCOBの『チャンネルサーフィン1978​​-​​1984』などマスメディアが発信する音声、なかでもテレビコマーシャルをサンプルソースとして用いる手法は現在でも脈々と流れています。Vaporwaveが手法として形骸化してしまった現在でも、こんなアルバムを熱心に作り続ける作家が存在するのはとても尊いことだと思います。

  9. Windows彡96 – Reflections

     

           (̅_̅_̅_̅(̅_̅_̅_̅_̅_̅_̅_̅_̅̅_̅()ڪے~ ~

  10. 骨架的 – Opal Disc

    もはや説明不要の生ける伝説、骨架的の3年ぶりの最新作が2作同時リリース。今回はその中から2014年録音のアルバム『Opal Disc』を。相も変わらず懐古趣味的なポップミュージックやスムースジャズにスクリューやエフェクトを施すという一貫した作風ですが、7年もこのような音楽を創り続けるのは畏怖の念すら抱いてしまいます。このリリースをきっかけに、約7年もの間「#vaporwave」というタグ付けを頑なに拒んでいた彼がすべてのアルバムにそのタグを冠したことに関しても、この『Opal Disc』は記念碑的なアルバムとなるのではないでしょうか。

  11. 豊平区民TOYOHIRAKUMIN – リフレクション〈New Masterpiece

    「あの”思い出”から1年…彼女の物語はまだまだ続く。」と題された日本人コンポーザー豊平区民TOYOHIRAKUMINの最新作は、前作『メモリーレーン』の続編となる『リフレクション』。彼女の新たな物語を演出するのはVaporwaveファン感涙の総勢20名の豪華リミキサーたち。前作の出来事を20通りの解釈で回想していく本作は『The Music of the Now Age』以来の傑作コンピレーションアルバムだと思いました。

  12. 猫 シ Corp. & Mezzaluna – Black Mesa Research Facility〈Midnight Moon Tapes〉

    ビデオゲーム『Black Mesa』の舞台となる極秘研究施設を題材に、そこに漂う無菌室のような清潔な空気感をMallsoftへと昇華させた『Black Mesa Research Facility』は猫 シ Corp.とMezzalunaによるスプリットアルバム。もともとBeutewaffenやMesektetなどの名義でノイズやインダストリアル、ダークアンビエントシーンでの活動を行っていた異色の経歴を持つ猫 シ Corp.によるAサイドは文句のつけようがないほど素晴らしく、Mallsoft特有の空間の広がりを感じさせるサウンドスケープはもはや神々しさすら感じられます。〈Advanced Materials〉から唯一のリリースを行い、その存在は完全に謎に包まれていたMezzalunaによるBサイドも必聴。

  13. Psychic LCD – FACADE〈Ailanthus Recordings〉

    Lasership StereoやDiskette Romancesなどの名義でも知られるPsychic LCDによる4年ぶりの新作『FACADE』が〈Ailanthus Recordings〉から。2013年に〈Fortune 500〉からリリースされた前作『Nexxware』で発揮されていた審美性はより研ぎ澄まされ、ヴァーチャル・リアリティ空間に溶け込んでいくようなサウンドスケープが展開されていきます。彼はもともと、Lasership Stereo名義で『Soft Season』『Meet Local Singles』の2作を同レーベルから発表しており、本作『Facade』によって6年ぶりに〈Ailanthus Recordings〉へと復帰を遂げることとなります。……6年も続くVaporwaveレーベルってやばくないですか。

  14. glaciære – water slide

    スウェーデンの作家Stevia Sphereによるプロジェクトglaciæreの2作目『water slide』。清らかな水面にしずくが弾むような繊細なレタッチで描出されるプールサイド・アンビエンス。これからの季節にぴったりなとてもクールなアルバム。

  15. Elite Geographic – Synthetic Environments

    テネシー州の新鋭シンセストElite Geographicのデビューアルバム『Synthetic Environments』は耳当たりの良い超正統派シンセポップに仕上がっています。Vaporwave出身のシンセ使いといえばEyelinerやDonovan Hikaruなどが有名ですが、Elite Geographicもまた彼らのような文脈で語られることになりそう。近く〈Elemental 95〉からのリリースも予定されているそうで、今後の動向が楽しみな作家のひとりです。

  16. Phantom ’97 – Melancholy Moonlight

    オハイオ州のプロデューサーRyan QueenのプロジェクトPhantom ’97による最新作。1999年の秋、とあるゴミ処理場に廃棄されていたeMachines社製コンピューターのハードドライブから、いくつかの音楽ファイルが見つかったという。それらは『Melancholy Moonlight』というフォルダに入っていたそうだが、のちにハードドライブの故障によってファイルは破損。たまたまその音源をカセットテープに残していたそうで、このアルバムはそのリッピングである。という、真偽のほどの分からない設定の作品ですが、往年のスーパーファミコンを彷彿とさせる人懐っこいシンセに乗せて奏でられるメロディがとても楽しい一作。

  17. Club Fantasy – Rainy Night in Hachioji〈Kaiseki Digital〉

    日本とロンドンを股にかけ「Onsen Vapour ♨」な音楽活動を展開するKelmanixによるプロジェクトClub Fantasy。「眠らない大都市、八王子」を主題に物語が展開されていく『Rainy Night in Hachioji』は、シティホテル、早朝の街、雨の降りしきる八王子、京王線などを舞台に、そこに聞こえる街の喧騒や雨音などを大胆なフィールドレコーディングと共に描いた作品となっています。

  18. SAYOHIMEBOU – 卡拉OK♫スターダスト東風〈Business Casual〉

    まるでグリッチにかけたような独創的な言語感覚、ネオン街のような極彩色の輝きを放つ奇抜なアートワーク。鬼才さよひめぼうによる2ndフルアルバム「卡拉OK♫スターダスト東風」はそんな装いに相応しく予測不可能・奇妙奇天烈なサウンドが展開されています。Kool & The Gangの往年の名曲をカバーした #2 “せれぶれーしょん” では、まさかのアーメンブレイクが炸裂し、緩やかなピアノの旋律がアンビエントを燻らせる #3 “HOTEL♥プレタポルテ1987”、MCヘブンズドア&ヘルズエンジェルをフィーチャリングした表題曲 #5 “卡拉OK♫スターダスト東風(feat.MCヘブンズドア&ヘルズエンジェル)”では突如として女性の悲鳴がトリッキーなビートを刻み、#11 “深海スペースデブリ監視ネットワーカー”では深い深海に潜り込んでいくかのように轟くドープなビート。超展開に次ぐ超展開が怒涛の勢いで耳に押し寄せ、やっと掴んだと思ったグルーヴは即座にそこで崩壊し、また新たな地平へと暴走していく……。もはやこんな文章を読むより、再生ボタンを押したほうが早いですね。本当に必聴のアルバムなのでぜひ。

  19. Jerry Galeries – Quartz Plaza〈Batalong Productions〉

    シンガポール在住の作家、Jerry Galeriesの最新作『Quartz Plaza』。 VaporwaveやMallsoftの代名詞でもあるプラザを讃える表題に、古代ギリシャの石柱、ヤシの木、イルカ、フィジーウォーター……。一見するとVaporwaveのテンプレートに則ったアートワークにも見えますが、かき鳴らされているのは、そのサンプルソースとして提示されても違和感がないほどの高純度なポップス。本作は、表題を冠したイントロダクション#1 “Quartz Plaza” から幕を開けます。天気予報のBGMのような飾り気のないフュージョン調の楽曲であるが、終盤、穏やかなプラザの景観は徐々にきらめきを帯び、燦然とミラーボール輝くダンスフロア #2 “In For A Long Night” へと鮮やかにクロスフェードしていきます。夜を彩るネオンサインのように彩色豊かなシンセがスパークし、繰り返される陶酔的なリリック “We are in for a long night for a long night” は週末の華やいだ夜の訪れを祝福するかのような多幸感に満ちていて。場面は一転し、#3 “Wishing Well” では、過ぎ去りし彼女を想い続け、再会を強く願う男の後悔をノスタルジックに描いた静かな夜の抒情詩のような趣。”Quartz Plaza” を舞台に繰り広げられるストーリーはじつに様々。どの楽曲にも往年のソウル・ファンク、AOR、シティポップの旨味をふんだんに盛り込まれており、Jerry自身も日本のシティポップに強く影響を受けたと語っています。”vibes machine from the lost summer of ’85” を自称するJerry Galeriesの奏でるサウンドは、我々を過ぎ去りし80年代の都市風景へと誘ってくれます。

  20. chris††† – social justice whatever

    現行Future Funkubeシーンを代表する〈Business Casual〉を主宰する一方、SNS上では自身の存在すらミームと化し、圧倒的な存在感でVaporwaveシーンに君臨するインターネットミームの権化、chris†††ことJohn Zobeleの最新にして最低のミックステープ『social justice whatever』が自身のBandcampからリリースされました。彼自身も「the worst album ever.」と称すように、その内容は、商業的にヒットを収めた往年の名曲や、著名なインターネットミーム動画をmp3でぶっこ抜き、歪ませ、切り刻み、繋ぐというよりも雑多にぶちまけたかのような――もはや、完膚なきまでにクソを貫いたような様相を呈しています。用いられている楽曲はスクリューによって捻じ曲げられ、原型を留めていません。この時点で元ネタへのリスペクトは皆無ですが、極めつけは、再生されている音楽は、聴いている最中にまるで飽きたとでも言わんばかりに突如としてスキップされ、次の曲、次の曲へとせわしなく転換していきます。アメリカのレコメンドエンジンEcho Nestは、膨大なビッグデータをもとにSpotifyユーザーの視聴傾向を分析したところ、48.6%のリスナーが音楽が終了する前にその音楽をスキップしているという結果を発表しました。カット&ペーストされたEDM楽曲のドロップ部分のみが寄せ集められたジャンクフードのような動画が無数に蓄積するYoutubeチャンネル。おびただしい数の情報が流れ行く濁流のフィードに乗ってWebブラウジングをしていくような不健全さ、それによって生じる多幸感。これは大量消費社会への賛美歌なのか? はたまた鎮魂歌なのか。

ベスト・トラック。

t e l e p a t h テレパシー能力者 – Agia’s Theme

ベスト・ビデオ

17-03-02 I’m Just a Kid

ベスト・ジャケ

Costanza – Assman

捨てアカ 島根県在住のVaporwaveリスナー

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水野勝仁 連載第10回 モノとディスプレイとの重なり

今回は、谷口暁彦の個展「超・いま・ここ」から《夜だけど日食》と《透明感》を取り上げる。《夜だけど日食》は、ディスプレイのモノとしての側面を強く意識させる作品である。対して、《透明感》は映像の表示にプロジェクターが使われていて、ディスプレイがモノではなく、イメージとして考えられている。このふたつの作品、及び、個展の際に配布されたリーフレットとの対話を通して、10年間継続して「ディスプレイ」を扱ってきた谷口が示す「ディスプレイの現在地」を探っていきたい。

モノとしてのディスプレイ/スキンとしてのディスプレイ

2007年から2017年の10年間の作品を「ディスプレイ」を軸にまとめ直した個展「超・いま・ここ」で、谷口は自作の解説と自らの活動をまとめたテキストを書いている。活動を考察したテキストの最後に、谷口は次の文章を書いている。

この10年間の作品を、時間と空間と「ディスプレイ」の問題として振り返ってみた。こうして見えてきたのは、なんらかの計算処理によって、リアルタイムに生成されるものは当然ながら、過去の出来事すらも「現在」として生起してしまう場としての「ディスプレイ」という存在だ。そして、その「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった、ということなのかもしれない。1

谷口は自身の活動を的確にまとめている。しかし、私はこの文章を読んだ際に「その「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった」という一文にひっかかりを覚えた。なぜなら、この一文のなかで、ディスプレイの状態がモノからイメージへと遷移しているからである。谷口はディスプレイと物理世界との連動を扱った作品を数多く制作している。けれど、彼はディスプレイを実際に「折り曲げたり、くしゃくしゃに変形し」たりはしていない。この部分は2015年の展示「スキンケア」で発表された《透明感》を念頭に置いて書かれている。そして、《透明感》はディスプレイを用いずにプロジェクターで映像を投影する作品であって、この作品で折り曲げられ、くしゃくしゃになったの「モノとしてのディスプレイ」ではなく、「イメージとしてのディスプレイ」だと考えられる。

立体物を3Dスキャンによって記録すると、表面のテクスチャデータと形態のメッシュデータに分解され保存される。3Dデータはあくまでも表面と形態いう表象しか記録できないため、どんなに正確に記録された3Dデータでも、現実に存在する物体とは違い、中身は空っぽとなる。西洋の幽霊 (ghost) が、しばしば中身の無い布だけの存在として描かれるように、3Dデータも皮膚だけの幽霊のように存在している。この作品では、そんな幽霊の皮膚を3つの方法でお手入れ(スキンケア)した。2

《透明感》は3Dスキャンによる表面のテクスチャデータと形態のメッシュデータとの関係を扱ったものであり、谷口はそれを「皮膚だけの幽霊」のようだと指摘している。「モノとしてのディスプレイ」を中身が空のモノとして「皮膚だけの幽霊」と見なせば、谷口はディスプレイを折り曲げたり、くしゃくしゃにしたりすることもできるだろう。《透明感》でディスプレイはモノからイメージになったと指摘したが、それは厳密に言えば、ディスプレイのモノの側面が抜け落ちて、表と裏とが一体化した「スキン」になったのである。谷口はモノではなくイメージ化したディスプレイを個別に扱うために、「イメージとしてのディスプレイ」を「スキン」という形態に限定する。確かに、《透明感》は「超・いま・ここ」に出品された他の作品と比較すると、ディスプレイではなくプロジェクターで映像を表示しているという点で異質な作品である。ディスプレイからプロジェクターの使用と谷口のテキストから、《透明感》で、谷口は「モノとしてのディスプレイ」を扱うのを止めて、ディスプレイをイメージ化して映像に送り返し、裏表が一体化した「スキンとしてのディスプレイ」を扱いはじめたと考えてみたい。

では、もし《透明感》が谷口のディスプレイをイメージとして扱うひとつの転換点だったすれば、谷口がディスプレイをモノとして扱う転換点はどこになったのか、それは「ディスプレイの中に表示される映像と、その外側にある現実の物理的な空間を様々な方法で関係付けることを模索したインスタレーションのシリーズ」である「置き方」からである。谷口は「置き方」シリーズを制作していくなかで、「現実の空間に配置された、ある厚みのあるオブジェクトとしてディスプレイを扱わなければならないという問題が見えてきた」と書いている。この問題は連作「思い過ごすものたち」へ引き継がれていく。しかし、今回、《透明感》が示す「皮膚だけの幽霊」としてのディスプレイと対比させたいのは、「置き方」シリーズのひとつでもあり、「幽霊をつくること」という課題に対して制作された《夜だけど日食》である。

とてつもなく地味な作品なのだけれど、そこで起きている出来事については結構気に入っている。まったく同じ仕組みで動作する過去の映像と、現在の実物が、その仕組みゆえに互いに影響しあうように動いてしまう。3

谷口が《夜だけど日食》について端的に書くように、この作品を含む「置き方」から「思い過ごすものたち」の流れは、物理世界に置かれた「厚みのあるオブジェクトとして」のディスプレイを軸にモノとイメージとが重なり合った領域に出来事が現れる作品になっている。特に、《夜だけど日食》では、ディスプレイを軸にして手前と奥のふたつに空間が分けられ、それぞれが「過去」と「現在」とを「モノ」と「映像」という異なる状態で示し、それらが重なり合って、そこに「幽霊」が現われたような不可思議な出来事が起こる。

このように考えてみると、谷口は10年間のほとんどを《夜だけど日食》をはじめとする作品で、モノとイメージとが重なる領域で現れる「幽霊」を「モノとしてのディスプレイ」とともに物理世界に引っ張り出していたといえるだろう。対して、《透明感》はモノとイメージとを重ね合わせて出来事を起こすところまでは《夜だけど日食》と同じ方法を使いつつ、プロジェクターによってその出来事を表示することで、「皮膚だけの幽霊」と化した「スキンとしてのディスプレイ」を提示しているのではないだろうか。このふたつの仮定のもと、《夜だけど日食》と《透明感》の個別の考察をしていきたい。

ディスプレイが可視化するふたつの空間の重なり合い

小さなディスプレイには、音に反応して明滅する電球の映像が映し出されている。電球は、音に反応してon/offを行う回路によって制御されていて、作者の鼻歌に反応して明滅する。その様子を映像として記録し、小さなディスプレイで再生している。このディスプレイの背後には、映像に記録されたものと同じ電球が配置され、映像の中に記録された作者の鼻歌に反応して明滅する。結果、ディスプレイの中の電球と、その背後にある実物の電球も同じタイミングで明滅することになる。またそれは、ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしているかのようにも見える。4

谷口の作品解説からわかるように、《夜だけど日食》(2008−2010)はディスプレイ内の電球の明滅が音をトリガーにして、ディスプレイ背後に設置された電球と同期するというシンプルな構造の作品である。ふたつの電球の明滅が同期すると、「ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしているかのようにも見える」ので、ディスプレイの内と外とがつながったような感じを受ける。「内」と「外」というのは少し異なるかもしれない。「内/外」と全方位的につながるというよりも、ディスプレイの表示面とディスプレイの裏側という限定的な重なりが生じているという感じを受ける。しかし、ここで起きているのは、実際には過去の映像と現在の実物とが放つ異なる光を同一のもの見なして、時制の歪みが生じるという複雑な出来事である。

映像の電球とモノの電球の明滅の同期というシンブルの構造から、時制が歪むような複雑な出来事が生じている。その理由を作品の制作方法から考えていきたい。

「置き方」でも同様の方法で、かつディスプレイ外の、現実の空間へと関係が作用していくことを考えていた。だから、音に反応してモーターを動かしたり、扇風機などの機器の電源をon/offする回路だけを先に制作した。つまり何らかの入力を受け取り、別の動きに変換して出力するインターフェイスだけ用意しておいて、あとは実際に入力と出力のバリエーションを即興的に試して決定するというプロセスで制作していったのだ。5

谷口は《夜だけど日食》を含んだ「置き方」シリーズの制作方法をこのように書く。「同様の方法」というのは、「置き方」シリーズの前に制作された《inter image》で試みられた、ルールのみを固定し、そこに収まる要素(《inter image》の場合は映像)の自由に選択可能にするといったものである。この方法に則って、「置き方」シリーズもルールとなる「インターフェイスだけを先に制作した」という点に注目したい。谷口は「置き方」シリーズで入力と出力とをつなぐ変換規則となるインターフェイスだけを先につくり、後に即興的に入力と出力を接続している。通常は、入力と出力というふたつの存在が先にあって、そのあいだをつなぐインターフェイスが求められるのに対して、谷口はまずインターフェイスをつくる。「インターフェイス」というふたつの存在のあいだが先につくられるのである。そして、インターフェイスが入力と出力とにつながれると出来事が現れる。そこで現れた興味深い出来事のひとつが《夜だけど日食》が示す「ディスプレイの背後から、映像の中の電球の光が漏れだしている」という出来事である。実際にはディスプレイの裏側にある電球の光とディスプレイに表示されている電球の光とを同一視しているのだとしても、作品を正面から見る者の多くに対して「ディスプレイの電球の光が背後に漏れだす」という出来事が成立しまう。その出来事は、実際にはディスプレイの裏側にある電球の光とディスプレイに表示されている電球の光とが重なり合ったものである。

ふたつの電球の光の重なりはディスプレイというモノが光を放つと同時に、光を遮るから起こる。物理世界にモノとしての電球があり、ディスプレイに映像としての電球が表示されている。それらはディスプレイという平面を軸として分けられたふたつの空間にある。モノの電球の手前にディスプレイがあるため、見る者はディスプレイに表示されている映像の電球は見えるけれど、モノの電球はディスプレイに遮られて見えない状態にある。その状態で、映像の電球が光るとモノの電球も光る。このとき、映像の電球の光は後ろに漏れることはない。なぜなら、ディスプレイの構造上、映像の光は前方へ放たれるからである。しかし、《夜だけど日食》ではディスプレイの裏側にモノとして電球があり、その光の明滅が映像の電球の光の明滅と同期しているがゆえに、通常は裏側に回り込むことがない光が裏側に周り込んだように見えてしまう。そこでは、映像の電球とモノの電球というふたつの光がモノとしてのディスプレイによって遮蔽されながらも、互いに重なり合って、絡み合ってしまっている。そこで、ディスプレイが分断したふたつの空間が示す過去と現在とが「光」でつながり、時制の歪みが生じるのである。

入力と出力とのあいだにインターフェイスがあると考えるとき、たいてい、それは平面的な図で描かれる。だから文字でも「入力→インターフェイス→出力」と記すことができる。そのとき、視点は情報の流れを俯瞰できる位置に固定されている。《夜だけど日食》において「光が漏れだしている」状態を見ているとき、作品を見る者はディスプレイを正面のある一点から見ている。そこから見えるのはふたつの電球の光だけであって、ディスプレイの裏側に空間があることはわかるけれど、その空間の状況を確認することはできない。ディスプレイの裏側の状況を知るには視点を移動する必要がある。視点をディスプレイの裏側が見えるように回り込ませると、そこにはモノとしてのディスプレイが視線を遮っていたために見えなかった、もうひとつの電球が見える。当たり前ではあるが、ディスプレイの前方と後方の空間はひとつの物理空間でつながっているから、見る者の視点の移動は可能なのである。ヴァーチャルカメラのようにiPod touchの脇から背後へと視点を移動して、はじめて、見る者は《夜だけど日食》がディスプレイの表面に映る電球とディスプレイの背後の電球とが音をトリガーとして、光の明滅を同期させているのを見て、不思議な出来事の仕組みを理解する。しかし、ここではふたつの電球の明滅が同期しているだけであって、ディスプレイの表面とディスプレイの裏側とがぴったりと重ね合わされて、同一の存在になっているわけではない。映像の電球とモノとしてのディスプレイ、モノの電球とのあいだには物理的にも、時制的にも隙間がある。視点の移動によって見えるようになる隙間が、先につくられたインターフェイスによってつくられたものである。インターフェイスがつくる隙間が空間をふたつに分割することで、ふたつの電球が重なり合っているのである。

《夜だけど日食》では、インターフェイスと結びつけられたディスプレイを基準として手前と奥にふたつの空間があり、ふたつの空間にある電球は光の明滅の同期によって重なり合い、視点はその周りの物理空間を移動できるようになっている。ディスプレイの表面は平面上のイメージを表示している。同時に、モノとしてのディスプレイは、物理空間に一定の厚みをもって置かれているがゆえに、見る者にその裏側の空間を見せる。ディスプレイの裏側はディスプレイがないと存在しない空間であり、ディスプレイとセットで生じる空間である。けれど、通常は単なるニュートラルな物理空間として処理されている。《夜だけど日食》におけるディスプレイの裏側は、インターフェイスに接続されたディスプレイとともに現れるため、周囲の物理空間とは異なる個別化した裏側の空間となっている。なぜなら、裏側の空間にある電球は先につくられていたインターフェイスのルールによって、ディスプレイの表面の映像と同期するからである。しかし同時に、ディスプレイ裏側の空間は作品の周りの空間を視点が自由に移動することで発見されるため、ヒトとディスプレイとを取り囲む物理空間の一部でもある。制御するルールのスケールが、ディスプレイの裏側の空間はインターフェイスであり、ディスプレイ周囲の空間は物理法則とで異なってはいるけれど、これらふたつの空間は併置可能となっている。なぜなら、ディスプレイ裏側に生じる個別空間は、ニュートラルな物理空間にインターフェイスの特性を与えて、物理空間を複数化したものだからである。物理空間はインターフェイスという「隙間」によって、複数化していく。そして、谷口はインターフェイスの接続先にディスプレイを選択して、ふたつの空間の併置を可視化してしまう。ディスプレイは異なるふたつの空間の接続だけではなく、空間の重なりから現れる「幽霊」を可視化してしまう。インターフェイスが物理空間に隙間をつくり、物理空間を複数化して、それらをつないでいく。そして、インターフェイスに接続されたディスプレイがふたつの空間をつなぐ軸となって、ディスプレイに表示されている電球の光と裏側に置かれた電球の光とを重ね合わせていくため、時制が歪んでいくような不思議な出来事が起こるのである。

プロジェクターが畳み込む「スキンとしてのディスプレイ」

《透明感》は2015年の展示「スキンケア」で発表されたものだが、その際には真っ黒な背景に3Dモデルが回転していた。今回の「超・いま・ここ」に展示された《透明感》は、テクスチャデータを展開した画像の手前に3Dモデルが配置されるアップデートが行われている。

谷口は同様のアップデートを「思い過ごすものたち」(2013、2014)と「滲み出る板」(2015)でiPadを用いた作品《A.》と《D》とのあいだで行なっている。《A.》と《D》では、天井から吊るされたiPadがサーキュレータからの風を受けて、ゆらゆらと揺れている。《A.》のiPadには真っ黒い空間に3Dモデルの箱ティシュが置かれ、ティシュが風に揺れている様子が表示されている。《D》のiPadには背面カメラが捉えた物理世界の映像にカーテンがつけられた窓の3Dモデルが重ね合わされ、カーテンが風に揺れている様子が表示されている。連載の5回目「モノとディスプレイとが重なり合う平面」で、私は《A.》からアップデートされた《D》から、ディスプレイが表示する映像と物理世界に置かれたディスプレイのモノとしての側面との関係を考察した。そして、映像とディスプレイとのあいだに起こる「二次元と三次元との交錯」が、モノとしてのディスプレイを軸にさらに交錯して、「乱層のディスプレイ」という状態をつくることことを示した。「乱層のディスプレイ」はモノとしての厚みをもって揺れ続けるiPadとディスプレイに張り付いた平面の映像とを同時に提示し、見る者にモノとイメージとの重なり合い意識させる体験をつくりだす。6

《夜だけど日食》の考察から《D》における「乱層のディスプレイ」を改めて考えてみる。カメラを持つ「iPad」というインターフェイスと接続したディスプレイが示す個別空間と周囲の物理空間とが、ディスプレイに表示される3Dモデルの窓とカーテンを軸にして入れ替わり続けている。この出来事を揺れ続けるiPadというモノを介して見る、というのが「乱層のディスプレイ」体験となるだろう。ここではカメラで切り取られた物理空間の映像に3Dモデルの窓とカーテンが重ねられていることで、iPadとともに揺れ続ける物理空間を示す映像がディスプレイの揺れとともに、iPadの厚みをもった個別空間へと変換され続ける。

ディスプレイというモノを軸とした「乱層のディスプレイ」の体験を、プロジェクターからスクリーンに投影される映像を軸として表現したものが「スキンケア」の《透明感》だと、私は考えている。ディスプレイを用いない作品である《透明感》に対して、谷口は次のように書く。

この作品を、なおもまだディスプレイの問題として考えるならば、この作品で前提とされているのは、平面状のディスプレイのことではないのかもしれない。この「透明感」におけるディスプレイは、3Dデータのポリゴンによって作られる凸凹とした表面のことではないだろうか。その凸凹に対してテクスチャーデータの画像が貼り付けられていくわけだが、テクスチャーデータの画像は、折り紙のように、離散的で複雑な変換規則に基づいて3次元的に変形し、貼り付けられていく。この時、時間と空間は、3Dデータ表面の起伏を基準にして、前後/隣接関係が離散化した状態で張り付き、リアルタイムな入力に対し、逐次の計算が行われることで表示され、現在を演じる。そもそもディスプレイ(display)の語源は、畳まれたものを広げる(dis-plicare)という意味だ。ならば、3Dスキャンで生成された3Dデータの表面を、織り込まれたディスプレイと見做すのもあながち間違えた方向でもないだろう。7

谷口はプロジェクターを使った《透明感》を説明する際に、「この作品を、なおもまだディスプレイの問題として考えるならば」と、「ディスプレイ」にこだわり続け、その概念を拡張している。私は谷口による「ディスプレイ」の拡張を擁護したい。なぜなら、谷口は10年間、継続して「モノとしてのディスプレイ」を考察し、作品制作を行ってきたのであり、その結果として、谷口は「モノとしてのディスプレイ」を拡張し、3Dモデルのテクスチャとの関係づけた「スキンとしてのディスプレイ」というあたらしいディスプレイ概念をつくろうとしていると考えられるからである。そして、「モノとしてのディスプレイ」を「スキンとしてのディスプレイ」へと拡張できるとすれば、「二次元と三次元との交錯」を内包した「乱層のディスプレイ」を、イメージに送り返すことができると、私は考えている。なぜなら、谷口が示した「ディスプレイ」の語源である「畳まれたものを広げる(dis-plicare)」という意味は、ディスプレイがもともと幾つかの層に畳まれた状態にあったことを示すからである。語源の意味を示すように、3Dモデルのテクスチャから考えられた「折りたたまれたディスプレイ」という状態においては、ディスプレイはもともと平面ではなく「折り紙」のように「二次元と三次元との交錯」のなかにあり、さらに、それらは「前後/隣接関係が離散化した状態」にある。これらのことから、「乱層」の度合いは、「モノとしてのディスプレイ」よりも「スキンとしてのディスプレイ」の方が強いと考えられる。谷口は「モノとしてのディスプレイ」から「スキンとしてのディスプレイ」へと移行し、畳み込まれた乱層状態のディスプレイを扱うことで、より原理的にディスプレイの可能性を追求しようとしている。

しかし、「ディスプレイ」を3Dモデルのテクスチャデータと結びつけて考えているのであれば、《透明感》は「モノとしてのディスプレイ」を使ってもよかったのではないだろうか。つまり、《透明感》で問題としたいのは、3Dモデルのテクスチャデータに「ディスプレイ」という言葉を付与していることではなく、「折りたたまれたディスプレイ」や「織り込まれたディスプレイ」という言葉をつくってまで「ディスプレイ」にこだわって考察している《透明感》において、谷口はなぜディスプレイではなくプロジェクターを使ってスクリーンに映像を投影したのかということである。

まずは《透明感》の概要を谷口の説明から確かめるところからはじめたい。

テーブルの上に置かれたお菓子を3Dスキャナーで記録すると、形態を記録したメッシュデータと、表面の柄を記録したテクスチャデータに分かれて保存される。通常はコンピューターの中でメッシュデータにテクスチャデータを貼り付けて表示するが、この作品ではテクスチャデータを大きくプリントアウトして壁に掛け、それをカメラで撮影し、リアルタイムにメッシュデータに貼り付けて表示している。壁にプロジェクションされたCGは、一見すると何の変哲も無い3Dデータのように見えるが、鑑賞者が壁に掛けられたテクスチャデータの前に立つと、鑑賞者自身がテクスチャデータとなり、お菓子の3Dデータに貼り付けられ表示される。メッシュデータと、テクスチャデータの間に現実の空間が挟み込まれる。8

メッシュデータに貼り付けられるテクスチャデータは様々な視点から撮影された画像の集積である。つまり、見る者の視点は限定されるが、映像で回転する3Dモデルは物理空間を移動して得た視点の集まりとしてそこに表示されているのである。なおかつ、3Dモデルは視点の移動の結果を見せつけるように自転している。《透明感》2015では、回転する3Dモデルの背景が真っ黒であったため、3Dモデルは物理空間とは異なる空間に置かれていたといえる。カメラとプリントされたテクスチャデータとのあいだに見る者が入ると、見る者はあらたなテクスチャとして3Dモデルのある空間へと飛ばされた。《透明感》2017では、3Dモデルはテクスチャマップのプリントがある物理空間に重ねられている。それはどこか別の空間にあるのではなく、モデルを構成するテクスチャマップとその手前に存在する物理空間と同一の空間で回転するようになっている。見る者がカメラの前に入ると、3Dモデルのテクスチャとなることに変わりはないが、それは物理空間と重ねられた3Dモデルに張り付けられるため、3Dモデルがある別の空間に飛ばされるという感覚がなくなっている。

《透明感》2017では、ヒトは別の空間に飛ばされるわけではない。ヒトは画像とカメラとのあいだにある物理空間にいながら、テクスチャ化されて3Dモデルの空間に介入する。しかし、《透明感》2015でも、ヒトは画像とカメラとのあいだにある物理空間にいながら、テクスチャ化されて3Dモデルの空間に介入している。この介入を可能にしているのが、カメラとテクスチャマップのプリントとのあいだの何もない空間である。谷口は「メッシュデータと、テクスチャデータの間に現実の空間が挟み込まれる」ようなプログラムを書くことで、何もない空虚な空間をインターフェイスとともにある隙間に変更し、個別空間へと変える。プログラムによって個別空間ができ、カメラとテクスチャマップのプリントとが設置されて、これらのあいだで出来事が形成される。その個別空間はヒトをテクスチャにして、3Dモデル空間へと飛ばす。しかし、《透明感》2017では、物理空間と3Dモデル空間とが映像のなかで重なられて表示されているため、作品を体験するヒトが今、どこにいるのかが映像で確認できるようになっている。アップデートされた《透明感》によって、ヒトと3Dモデルと物理空間とが映像ですべて重なり合うようになったのである。

谷口は《透明感》でプロジェクターを採用して、カメラと画像とのあいだだけではなく、プロジェクターとスクリーンにも介入できるようにした。カメラとプロジェクターどちらの前に立っても、物理空間にいるヒトは3Dモデルが置かれた空間に介入することができる。プロジェクターとスクリーンのあいだにはプログラムは設定されていないが、物理法則が設定されている。プロジェクターの光をヒトが遮ると3Dモデル空間に影が投影され、介入が起こるのである。プロジェクターは映像の手前に物理法則で制御された個別空間をつくるのである。ここで重要なのは、ディスプレイはヒトが直接介入できる空間をつくれないということである。ディスプレイと接続されたカメラと画像とのあいだにはヒトは介入できるけれど、プロジェクターのスクリーンとのあいだに介入して映像に影を投げかけるようなことはできない。「モノとしてのディスプレイ」は、モノとしてフレーム内の映像を取り囲むがゆえに、そこに示されるディスプレイ内空間およびディスプレイ周囲に発生する個別空間がなによりも優位になってしまうのである。そこで、谷口はディスプレイではなくプロジェクターを使うことで、映像という面で重なり合っている複数の空間そのものに見る者の意識を向けさせる。つまり、谷口はプロジェクターを用いて、「スキンとしてのディスプレイ」という複数の空間が重なり合う面をつくるのである。プロジェクターを用いた《透明感》では、カメラとテクスチャマップとのあいだ、プロジェクターとスクリーンとのあいだにはスケールは異なるけれど、プログラムと物理法則というルールがある。「スキンとしてのディスプレイ」はふたつの異なるルールを呑み込み、ヒト、物理空間、3Dモデル空間を優劣なく畳み込んでいく面をつくっているのである。

《透明感》2017では、視点が回り込める物理空間のなかで3Dスキャンされたモノが3D空間に置かれて、物理空間とテクスチャマップに重ね合わされる。テクスチャデータとモデルデータとが重なり合うだけではなく、そこに物理空間も重なり合わされている。それらはカメラとテクスチャマップのプリントとのあいだ、そして、プロジェクターとスクリーンとのあいだの物理法則で制御された空間を軸として、物理空間と個別空間と3Dモデル空間とが重ね合わされる。その重ね合わせを可能にするのが離散的で、折り曲げたり、くしゃくしゃしたりできる「スキンとしてのディスプレイ」である。つまり、谷口の「折りたたまれたディスプレイ」とは、もはやモノである必要はなく、プログラムや物理法則といった明晰なルールに基づいて、3Dモデル空間と物理空間とが折り畳まれていき、重ね合わされたひとつの面を指すのである。インターフェイスと接続された「モノとしてのディスプレイ」が物理空間に個別空間をつくるのだとすれば、「スキンとしてのディスプレイ」はプログラムによって空虚な空間を個別空間につくり変えて、個別空間、物理空間、3Dモデル空間といった複数の空間が重なり合う面として機能している。「スキンとしてのディスプレイ」は厚みをもつことはないけれど、複数の空間が畳み込まれて重なり合っていく面なのである。

モノとディスプレイとイメージとを畳み込んで重ね合わせる

今回取り上げた谷口の《夜だけど日食》と《透明感》は、個展のタイトル「超・いま・ここ」が示すように、谷口が考える「ディスプレイの現在地」を示す作品であった。《夜だけど日食》はディスプレイというモノを軸として「ディスプレイの裏側」をディスプレイの表面に重ね合わせて、モノとディスプレイとイメージとの重ね合わせを示している。それは、谷口が「これまで」の10年間追求してきたモノとしてのディスプレイの物理世界に置かれている状態を端的に表している作品といえる。対して、《透明感》はモノとディスプレイとイメージとの重なりを映像で示した作品だと考えられるだろう。テクスチャデータが示すイメージのレベルで「ディスプレイの裏側」をディスプレイの表面に重ねて、プロジェクターから投影される映像で表現する。それは谷口にとってモノとディスプレイとイメージとの重なりの「これから」の展開を表している。だから、個展のタイトルには「いま・ここ」の前に「超」がつき、「ディスプレイの現在地」が超えられていくことが示されているのである。

ここで一度、谷口の「超・いま・ここ」が示したように、本連載もまた始点と現在地を確かめておきたい。本連載は次のような私の直観から始まっている。

プロジェクターからの光を受けるスクリーンはディスプレイと同じ、イメージの支持体である。けれど、スクリーンはディスプレイよりも「イメージ」そのものという感じがある。スクリーンはイメージと一体化している。スクリーンはモノであるけれど、モノである感じがほとんどない。そして、薄型ディスプレイもイメージと一体化して扱われるようになっている。けれど、そこでやはりイメージを提示しつつもモノであることを強調することで、イメージの支持体としてのディスプレイが物理世界との関係のなかで、あらたな見え方をするのではないか。私にはそのような直観があった。

そこで、私は「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルで連載を始めた。連載をはじめる前に書いた概要を読み返すと、私はモノがデータと結びつき従来のモノではなくなっていくとする渡邊恵太の『融けるデザイン』と、ピクセルが認識できなないほど小さくなってモノのように鮮明なイメージを表示可能なレティナディスプレイのことを念頭に起きながら。次のように書いていた、

ディスプレイの内外でモノがモノとしての境界を失いつつある。その結果として、ディスプレイとモノとの境界が重なりあうところにモアレのような動的な現象が起きている。ディスプレイにあるモノの存在が、物理世界のモノのあり方に影響を与える。9

ここで私が考えていたのは、イメージがモノのように見えるのであれば、ディスプレイという支持体とその表面に表示されるイメージを「モノ」というカテゴリーで括ってしまっていいのではないかということである。そこからさらに、「モノ」というカテゴリーでモノとディスプレイとを重なれば、モノとディスプレイとイメージとがひとつの括りのなかで重なり合うことが可能となる。けれど、モノとディスプレイとイメージとは平面上で接しているのではなく、それぞれが垂直的に重なり合っているため、非接触の状態にある。その状態を俯瞰的な視点から見るとすべてが重なり合ったように見え、まずは俯瞰的な固定視点からディスプレイを用いた作品から現れる現象や出来事を観察し、徐々に視点を移動させて、それらの重なり合いの隙間を考察してきた。その結果が、これまで書いてきた「モノとディスプレイとの重なり」のテキストである。

そして、谷口の「超・いま・ここ」は、この連載で私が示した「ディスプレイの現在地」を超えていくように要求する。

「ディスプレイ」を、外の物理世界と繋げてみたり、それ自体を物理的な板として使ってみたり、折り曲げたり、くしゃくしゃに変形していた10年だった。10

私が最初に読んだ時にひっかかりを感じたこの一文には、谷口のディスプレイに対する感覚の「これまで」と「これから」と畳み込まれている。それゆえに、「モノとディスプレイとの重なり」というタイトルの本連載にあらたな視点でディスプレイを見ることを要求している。それは、「モノとしてのディスプレイ」だけではなく、これまでの考察で得た「モノとしてのディスプレイ」の特性を考慮しながら、さらに「イメージとしてのディスプレイ」の可能性を追求していかなければならない、ということである。これまでは視点を移動させながら「モノとしてのディスプレイ」がつくるモノとディスプレイとの重なり合いの隙間を考察してきたけれど、これからは、その隙間を一度畳み込むことで見えてくる、あらたな重なり合いを考察する必要がでてきた。幾ら畳んだとしても、そこには隙間は存在し続けるだろう。けれど、隙間はより小さく、薄くなっていくはずである。このようにして「モノとしてのディスプレイ」だけではなく、「イメージとしてディスプレイ」も考察していきたい。そして、「イメージとしてのディスプレイ」の可能性のひとつが、ディスプレイを複数の空間、様々な要素が重なり合うように畳み込まれた面として機能する「スキンとしてのディスプレイ」なのである。

参考文献
1. 谷口暁彦「超・いま・ここ」、個展で配布されたリーフレット、2017
2. 同上
3. 同上
4. 同上
5. 同上
6. 水野勝仁 連載・モノとディスプレイとの重なり 第5回「iPadがつくる板状の薄っぺらい空間の幅 谷口暁彦「思い過ごすものたち《A.》」と「滲み出る板《D》」について」MASSAGE、http://themassage.jp/monotodisplay05/、2016年9月8日公開
7. 谷口暁彦「超・いま・ここ」
8. 同上
9. 水野勝仁「00_タイトル、概要、トピック案」
https://docs.google.com/document/d/1dzJjzZhkgmFiHxOro1vjg9lRWf5Iyyk0qh50sqLny3w/edit?usp=sharing 最終編集日:2016年2月8日
10. 谷口暁彦「超・いま・ここ」

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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水野勝仁 連載第9回 モノとディスプレイとの重なり

ディスプレイは通常、動かないモノとして扱われる。ディスプレイは動かないけれど、そこで表示される映像は動き続ける。ディスプレイを見つめるヒトもまたあまり動かずに映像を見続ける。映像を見るのに疲れたり、飽きたりしたヒトは動いてどこかに行く。ディスプレイだけが動くことなく、ただそこにあり続ける。だから、ディスプレイを用いた作品でも「ディスプレイが動く」ということは、ほとんどない。つまり、「ディスプレイが動かない」ということが前提で、ヒトはディスプレイを支持体とした映像を体験している。スマートフォンやタブレットは別として、ある程度の大型ディスプレイの作品においては、この連載でも「ディスプレイが動かない」ということが暗黙の了解として、モノとディスプレイとの関係を考察してきたところがある。では、「ディスプレイが動く」ことが前提とされたら、ヒトとディスプレイとの関係やモノとディスプレイとの重なり方はどのように変わるのだろうか。

ディスプレイは、映像という表現形式における物理的支持体である。ゆえに、映像の内容を文字通りディスプレイ(表示)するための装置であり、モノではあるが、“ないもの”として機能することが宿命づけられている。そこで、画面そのものを動かすことによって、画面内の映像に向けられる視線を、ディスプレイという“モノ”に向けさせる。“モノ”としてのディスプレイ/動くディスプレイという地点を出発点とし、コンテクストの操作によって生じる機能の文節のされ方から見出せる、ディスプレイの特性を読み解きながら表現の可能性を考察する試みである。それは単にモノとして見た時の形状や質感のような属性のみを扱うのではない。カメラ側の身体として“ブレ”といった動きと、画面そのものの動きの関係性。ディスプレイのモノとしてのフレームや厚みが参照されることによって生起する、映像とモノの新たな“画面”状態。そういった映像との結びつきから導かれているものでもある。1

ステイトメントで作家自身が書くように、小林椋の《盛るとのるソー》のディスプレイは動き続ける。これまでこの連載で扱ってきた作品はほとんどが固定されていた。ディスプレイが動いていたのは、谷口暁彦の「思い過ごすものたち」の《A.》と「滲み出る板」では《D》で、両作品ともにiPadが天井から吊られて、ユラユラと動くものであった。けれど、それは大型の液晶ディスプレイなどの「ディスプレイ」ではなく薄い板としての「iPad」の一部としてのディスプレイであった。それゆえに、谷口の作品ではディスプレイでありながら、焦点になるのは「薄い板」ということであった。小林の《盛るとのるソー》はフレームをもち、厚みをもち、モノとして重いディスプレイを回転させたり、振動させたり、傾けたりする。だから、見る者の意識が、通常は動かないディスプレイというモノ自体に向かうものになっている。しかし、ディスプレイが動くというだけで、見る者の意識がディスプレイに向かうかというと、そう簡単にはいかない。ディスプレイは動いているけれど、映像もまた動いているからである。見る者の意識はディスプレイと映像とに分かれていく。小林はモノとして動かせるディスプレイとそこに表示される映像に豆やスポンジといった別のモノを組み合わせて、一度分岐した見る者の意識を再統合していくようなあらたな「画面」という状態をつくりだしていく。

ヒトの帰属先を巡る争い

カメラが木の板の表面を上から撮影している。キネティックな機構で動く木の棒の先につけられたカメラで撮影された映像は、少し離れた壁に掛けられたディスプレイに映し出されている。ディスプレイはゆっくりと回転している。スマートフォンやタブレットでディスプレイを回転させるというのは当たり前になったけれど、大型の液晶ディスプレイが回転することはほとんどないだろう。ディスプレイは回転するが、スマートフォンとは異なり、映像がディスプレイの傾きに合わせて向きを変化させることはない。そのため、ディスプレイの回転と映像が示す木目の流れがズレることになり、ディスプレイの傾きと映像の木目の流れのいずれにも意識が引っ張られ、混乱に陥る。通常のディスプレイは固定されているため、ディスプレイに表示されている映像がどの方向に移動していようとも、見る者の意識はその流れに委ねられる。ここにはモノとしてのディスプレイと画面内の映像とのあいだに齟齬は起きない。しかし、小林の作品ではディスプレイが動いているために、モノとしてのディスプレイの傾きが見る者の意識に強く介入してくる。そのため、ゆっくりと回転するディスプレイを見ていると、つられて首を同じ角度に傾けてしまいそうになる。ディスプレイの回転に合わせて、首をかしげてしまったとき、ヒトはモノとしてのディスプレイと連動していると言えるだろう。

けれど、通常、見る者とのあいだで連動が起こるのはディスプレイに表示されている映像である。インターフェイス研究者の渡邊恵太は「カーソル」に対する考察から、画面内の映像という非物理的存在とヒトとの連動を「自己帰属感」という言葉で捉えるようになった。自己帰属感とは「この身体はまさに自分のものである」という感覚のことである。渡邊はディスプレイ上のカーソルが映像における「手の延長」とよく言われることに対して、その原理は映像とヒトとの連動にあると指摘する。映像とヒトとが連動しているがゆえに自己帰属感が生じて、身体が非物理的な映像まで拡張していくのである2。しかし、小林の作品にはマウスとカーソルのようなヒトの行為を映像に伝える装置がないため、映像とヒトとのあいだに連動性を生み出すきっかけがない。《盛るとのるソー》では、ディスプレイを「見る」ことしかできない。けれど、そのディスプレイは動いている。それは「モノではあるが、“ないもの”として機能することが宿命づけられている」ディスプレイを「あるもの」として機能させるためである。その結果、ディスプレイがモノとして見る者のなかで視覚対象化され、映像と同列に扱われるようになる。ディスプレイと映像とが同列になると、ヒトとディスプレイとはともに物理的存在であるため、そのつながりはヒトと非物理的な映像のつながりよりも強いものになるはずである。しかし、何も映っていないディスプレイが回転しても、ヒトはディスプレイの傾きに合わせて首をかしげることはないだろう。つまり、ディスプレイが映像の枠として機能しているときに限り、ヒトは映像を水平に保とうとしてディスプレイと連動して首をかしげるのである。壁に掛けられたディスプレイが回転する小林の作品において、ヒトは映像に連動しているわけでも、モノとしてのディスプレイに連動しているわけでもなく、「映像のフレーム」としてのディスプレイに連動しているといえる。

小林は比較的自由に扱える映像ではなく、物理世界の制約が強く課せられているディスプレイを回転させて、モノとしてのディスプレイと映像とを同列化していく。同列化したディスプレイとそこに映る映像が、ヒトを「見る」という状態から「連動」という状態へと強制的に移行させるあたらしい「画面」を発生させる。そこではマウスとカーソルといったインターフェイスが例示する「ヒトとモノと映像とがひとつの流れ」となるような連動がうまれるわけではない。この画面はヒトの身体をモノとしてのディスプレイと映像とに同時に連動させようとする。ディスプレイが回転することで、モノと映像とのあいだでどちらがヒトを帰属させるのかという争いが生まれるのである。それゆえに、ヒトはモノと映像とにそれぞれ引っ張られ、帰属意識が分岐するような気持ち悪さを感じる。ディスプレイを見つめるヒトは自己の帰属先がモノとしてのディスプレイなのか、映像なのかが決まらない状態に置かれるようになる。ヒトは帰属の基点ではなくなり、ディスプレイが帰属の基点となっているのである。

ガラス面にまかれた豆の帰属先

ディスプレイを水平に設置して、そのうえに豆を30粒くらいまく。このとき、ディスプレイの電源がオフで映像が表示されていなければ、単に黒い板の上に豆がまかれていることになる。けれど、この作品のディスプレイは電源がついており、手持ちカメラで撮影したかのような映像がディスプレイに表示されている。このとき、ディスプレイが動かなければ、野原の映像と動かない豆との対比が鮮明になることになる。けれど、この作品のディスプレイは小刻みに振動しており、ディスプレイ上の豆もまたディスプレイの振動に合わせてコロコロと小刻みに動いている。ディスプレイのフレームが表示面のガラスよりも少し高くなっているので、豆はディスプレイの外に飛び出すことはない。ディスプレイの振動は豆と物理的に連動するだけではなく、映像とも連動しているような感じを与える。ディスプレイ内の映像が揺れているのが手ブレなのか、ディスプレイの振動なのかがわかりづらい状態になっているからである。

モノとしてのディスプレイの表示面にはガラスがあり、その上に豆が置かれているため、ディスプレイと豆の揺れは物理的に連動している。ガラスの下ではピクセルが明滅して、映像を表示している。そして、ガラスを含んだディスプレイそのものが揺れている。だから、ガラスの上の豆が揺れていれば、ガラスの下の映像も揺れていることになる。けれど、映像の揺れは撮影時の手ブレでもあるためディスプレイの振動から独立しているともいえる。さらに、視界にディスプレイのフレームが入らないようにして豆を見ていると、豆は解像度が非常に高い「映像」として、野原の映像に重ねられたひとつのレイヤーのように見えてきて、豆がディスプレイというモノではなく、映像の要素のひとつと感じられるようになる。

ガラス面下の映像とも関係を持ちつつ、ガラス面を含んだディスプレイ全体と密接に連動している複数の豆は、iPhoneのホーム画面で壁紙の上に並べられたアプリのアイコンのようにあたらしい画面の状態をつくっているのではないだろうか。なぜなら、豆の小気味いい動きは、ディスプレイの振動と物理的に連動するもので、映像とは異なる原理で統一された平面を形成しているように見えるからである。渡邊はカーソルが存在しないiPhoneにおいて、ユーザに自己帰属感を与えるのは「画面全体」であると指摘して、以下のように書く。

たとえばiPhoneのホーム画面は指に追従し、アプリケーションリストが左右に移動する。ウェブブラウザでは画面全体が指に追従しスクロールする。カーソルはないが、カーソルと同じレベルでiPhoneの画面は非常になめらかに連動している。この連動が画面の中と指を接続し、自己帰属感が生起して身体の一部となり、ハイデガー的に言えば、道具的存在になるのだ。3

マウスとカーソルを用いた連動とは似て非なるiPhoneのヒトと画面全体との連動は、あたらしい画面をつくりだしたといえるだろう。指は映像に直接触れるわけではなく、ガラス面に触れる。しかし、ガラス面のみに触れているわけではなく、その先の情報を操作し、映像に変化を与えている。このとき映像はガラス面の表面にまで拡張しているといえる。そこにはモノとしてのディスプレイと映像とがセットになって、「ヒトと連動する画面」というあらたな場が生じているといえる。iPhoneを使うヒトはカーソルが代表していた画面のなかの映像とではなく、ディスプレイを基点に拡がるモノと映像とが重なり合った「画面」とインタラクションすることになったのである。

iPhoneの画面の考察を小林の作品に適応すると、豆は「画面」をディスプレイと映像とともに構成していると考えられる。アイコンをスワイプすると、画面全体に配置されているアイコンがすべて指の動きとともに横に移動する。このとき、iPhoneのアイコンは個別にホーム画面に置かれたものではなく、その下にアイコンの挙動を制御する透明な平面としての画面が映像のなかにあることが判明する。《盛るとのるソー》の豆を用いた作品は、iPhoneの画面のようにヒトとの連動によって自己帰属感を生起させることを求めているわけではない。その代わりに、モノとしてのディスプレイとそこに表示される映像とが我こそ豆の帰属先になるべく争い続けているのである。その結果として、ディスプレイ上の複数の豆はアイコンと同じように映像の一部として振る舞わされると同時に、全体の挙動はディスプレイの物理的な振動に制御されることになる。小林は豆の帰属先を曖昧な状態にすることで、ディスプレイを基点としてモノと映像とが入り交じるあらたな画面をつくっているのである。

画面を構成する「赤い鼻」

水平に置かれ、1/4回転を繰り返すディスプレイのガラス面の中央にかまぼこ状の赤いスポンジが置かれている。ディスプレイは回転しているだけなので、ガラス面に置かれた赤いスポンジが豆のように動くことはない。その意味では、赤いスポンジはディスプレイの上に載っているだけともいえる。しかし、動かないからといって、赤いスポンジが画面を構成しないわけではない。ピントがあっていない映像は世界をぼかし、ひとつの平面にしている。物理世界をぼかして半透明の平面となった映像がガラス面を無効化して、赤いスポンジの設置面として機能する。iOS7でジョナサン・アイブは半透明の平面を通知センターのデザインに取り入れた。半透明の通知センターはその向こうに世界が存在し続けることを示しながらも、透明なガラスとは異なり、そこにひとつの平面があることを主張する4。赤いスポンジはディスプレイのガラス面に置かれると同時に、映像の「ボケ」がつくる半透明な平面に置かれるかたちで映像に直接介入し、画面を構成している。

ディスプレイに映るぼけた映像は台座から伸びている木の棒の先についたカメラが撮影したリアルタイムの物理世界である。カメラもディスプレイとともに回転している。そして、台座から伸びるもうひとつの棒の先には木のような緑色のオブジェクトがあり、それ自体が回転している。もちろん、このオブジェクトもディスプレイと連動して動いている。ディスプレイ、カメラ、オブジェクトの連動によってつくられる映像が物理世界をボカして半透明な平面に変換する。そして、半透明な平面に赤いスポンジが置かれることで、ディスプレイ内に映像の不鮮明さとモノの鮮明さとが同居する画面がつくられる。また、赤いスポンジはそれ自体が動きはしないけれど、ディスプレイ、カメラ、オブジェクトの連動に巻き込まれている。それが如実に現れるのは、カメラが緑のオブジェクトを捉えたときである。半透明の平面のなかに、突如、緑のオブジェクトが赤いスポンジのような鮮明さで現れる。回転する緑のオブジェクトは半透明の平面を突き破り、画面上にある赤いスポンジに襲いかかる。しかし、緑のオブジェクトの攻撃は、赤いスポンジには届かない。緑のオブジェクトと赤いスポンジとのあいだには透明なガラスがある。「緑のオブジェクト」という映像と「赤いスポンジ」というモノとのあいだに大きな溝がある。けれど、緑のオブジェクトと赤いスポンジとは同じような鮮明さで同時に存在し、ひとつの画面を構成するのである。

カメラはモノとしての緑のオブジェクトを捉えて、映像に変換する。この際に、通常は緑のオブジェクトの映像は単にディスプレイに表示されるだけである。ディスプレイはそこにないものとして、カメラが捉えた映像を表示しつづける。その映像がボケていようが、鮮明だろうが、そこには大した差はない。しかし、《盛るとのるソー》ではディスプレイに赤いスポンジが載せられていることから、モノと映像とが同じ次元に置かれる画面が発生しているといえる。ディスプレイに載せられた赤いスポンジの意味を明確にするために、渡邊の「WorldConnector:カメラへの身体性付与による映像世界へ入り込むインタフェース」を参照したい。

ビデオゲームにおいて一人称視点として画面内にアバターの身体の一部を映すことによって、アバターになりきったかのような臨場感を高める工夫がされていることがある。本研究は、記録装置のカメラと再生装置の画面に物理的な棒を取り付ける方法を用いることによって、利用者が画面の中に入った、画面内へ介入しているような感覚を実現するWorldConnectorを提案する。5

渡邊は「かんたんに、画面に、入る」ためにカメラに「赤い鼻」のようなものをつけて撮影して、ディスプレイには赤い鼻につながる棒をつける。そうすることで、ヒトが画面のなかに入ったような感覚をつくる。「WorldConnector」はディスプレイを基点にした自己帰属感研究の発展系ではあるけれど、ヒトが画面に入ってしまうというところが、映像と身体とがディスプレイを中心軸にしてそれぞれ別の世界に置かれて発生する自己帰属感とは異なるものになっている。ディスプレイを基点にしてモノと映像とがひとつの次元に置かれるようになる。ヒトと映像とが連動しているだけなく、連動を可能にする場が物理世界と映像世界と別個のものではなく、ヒトと映像とを含んだひとつの画面となるのである。《盛るとのるソー》では、画面のなかには「赤い鼻」はないけれど、ディスプレイに「赤い鼻」が置かれることで、映像と物理世界とが相互に介入可能なひとつの画面が生じているといえる。映像のなかに「赤い鼻」をつけることで、ヒトが画面のなかに介入しているようになるのだとすれば、映像の外、つまり、ディスプレイというモノの側に「赤い鼻」をつけることは、映像となった緑のオブジェクトを物理世界に介入させることもありうるからである。渡邊の研究に影響を与えている生態心理学者のJ・J・ギブソンは世界を認識する際の「鼻」の役割を次のように指摘している。

人が世界を見るときには同時に自分の鼻を見る。というよりは、むしろ世界と自分の鼻が両方とも同時に特定されているが世界と鼻についての認識は両方の間で推移しうる。6

ディスプレイに置かれた赤いスポンジは視界における「鼻」のような存在として機能する。普段、映像にその存在を現さないモノとしてのディスプレイがガラス面に置かれた赤いスポンジによって拡張され、映像とモノとしてのディスプレイとが共在するひとつの画面が生まれる。そうすることで、モノとしてのディスプレイから伸びた緑のオブジェクトが赤いスポンジに触れようとすることが可能になる。物理世界では緑のオブジェクトと赤いスポンジとはともにディスプレイを基点としながらも、互いが触れ合えることはない。けれど、ディスプレイの上に置かれた「赤い鼻」を基点として拡がるモノと映像とが互いに介入可能な画面のなかでは、映像とモノとが同じ次元で認識される状況が生まれているため、緑のオブジェクトと赤いスポンジと互いに触れ合えるようになっているのである。

ディスプレイの厚みと映像の厚み

水平に置かれて、回転するディスプレイの上に白い台座が設置され、その上にカメラと丸みをもったギザギザの青いオブジェクトが置かれている。白い台座に固定されたカメラはスライド運動する青いオブジェクトを撮影し、その映像はディスプレイに映し出される。ディスプレイが回転しているがゆえに、固定されたカメラが捉える青いオブジェクトの映像もまたディスプレイとともに回転し続ける世界を表示している。しかし、ディスプレイの上に白い帯状の台座が設置されているために、映像に見えない部分ができている。豆や赤いスポンジもディスプレイの一部に見えない部分をつくっていたけれど、それらはディスプレイや映像に連動するオブジェクトであるため、映像と一体化して画面を構成するひとつの要素となっていた。しかし、白い台座はその上に置かれたカメラ、青いオブジェクトのために設置されているため、映像に溶け込むことがなく、画面を構成するというよりは、モノと映像とのあいだに分断をもたらしているように見える。けれど、この台座のおかげで他の作品とは異なり、青いオブジェクト、カメラといった作品を構成する要素がすべてディスプレイの上に載ることが可能になっている。ディスプレイの上でスライドし続ける青いオブジェクトがカメラで撮影されて、リアルタイムで台座下のディスプレイに表示される。

「厚み」という観点から、青いオブジェクトの作品を考えていきたい。ディスプレイは通常、「厚み」のないものとして扱われる。しかし、小林はステイトメントで、「映像とモノの新たな“画面”状態」を生起させるひとつの要素として「ディスプレイのモノとしてのフレームや厚み」をあげている。このことを示すように豆の作品では、ディスプレイのフレームの厚みが豆を外に飛び出させないためのガードとして機能している。では、青いオブジェクトの作品における白い台座の端の部分はどんな機能をもつのであろうか。白い台座の端はディスプレイのフレームの下辺に合わせた厚みになっている。けれど、ディスプレイに台座を置くだけであれば、端の下辺をディスプレイの厚みと合わせる必要はないはずである。だとすれば、台座の端の下辺に合わせたのは、ディスプレイの厚みそのものを明確に示すためと考えられる。台座の端はディスプレイのモノとしての厚さと映像表示平面の薄さとの対比を鮮明にするのである。その対比のなかで、台座の上でスライドする厚みのある青いオブジェクトはカメラで撮影されて、厚みのない映像としてディスプレイに表示される。台座の端が示すディスプレイの厚み、青いオブジェクトの厚み、映像のオブジェクトの厚みのなさを示しながら、ディスプレイと映像は回転しつづける。

回転するディスプレイの上でスライドし続ける青いオブジェクトとカメラは撮影して、台座下の平面に送り続ける。厚みのあるオブジェクトは映像化され、台座下の薄い平面に送られる。ディスプレイを横切る白い台座が平面の重なりをつくり映像の平面性を強調するけれど、同じ台座の端がディスプレイの厚みを強調して「ディスプレイの厚み=映像の厚み」となる可能性を与えてもいる。ディスプレイの回転が映像の青いオブジェクトとディスプレイの厚みを示す白い台座の端との関係を変化させ続けて、本来であれば厚みをもたない映像に厚さを与えようとしては、自らが平面性に引き戻すことを繰り返していく。映像は厚みを持ちそうで持たないどっちつかずの居心地の悪い状態に置かれることになる。しかし、それは「ディスプレイの厚み」を軸としてモノと映像とを統合して扱えるようなあたらしい画面のなかにヒトが置かれたことを意味するのである。白い台座の台座として回転し続けるディスプレイの上に置かれた青いオブジェクトは白い台座が示すディスプレイの厚みとともに「モノのような映像」としての側面を見せては、回転のなかで即座に映像の平面性のなかに押し込められることを繰り返す。ディスプレイの上に載せられた青いオブジェクトがモノであることには変わらないが、カメラが撮影した青いオブジェクトはディスプレイのなかで平面的な映像と「モノのような映像」とを行き来するなかで、見る者に平面的でありながらも、立体的であるという感覚を切り替えながら与えるのである。この切り替えの感覚が「居心地が悪い」のである。現時点では「モノはモノであり、映像は映像である」という状態しか存在しないなかで、小林の作品はディスプレイの厚みを基点にして「モノのような映像」が提示可能なあらたな画面を構築している。まだ誰も見ていないような映像の状態だから、ディスプレイ内の映像は「居心地悪そう」に見えて、時に「気持ち悪い」感じを見る者に与えるのである。

映像にインタラクトするディスプレイ

水平に置かれたディスプレイが前後にスライドしている。ディスプレイのガラスの上には犬のようなシルエットの丸みを帯びた白くて薄いオブジェクトが置かれている。さらに、スライドするディスプレイと同様に、芝生と野原の映像がスライドしつつ、入れ替わっている。芝生の映像はディスプレイのスライドの速度とほぼ一致しているけれど、野原の映像はディスプレイよりもだいぶ速くスライドしている。この作品は豆や赤いスポンジの作品と同様に、犬のような白いオブジェクトとスライドするディスプレイと映像とで画面を構成している。ディスプレイと同期しているような芝生の映像では、白い犬は気持ちよく散歩しているように感じられるけれど、ディスプレイのスライドよりも速い速度で動く野原の映像では、白い犬は何かに追い立てられているようにも見える。モノとしてのディスプレイと映像との連動性によって、白いオブジェクトを基点とした画面に対する感覚が大きく異なっている。

渡邊はインターフェイスの印象を語る際に「モッサリ」や「サクサク」といった印象表現が使われることと自己帰属感との関係に注目する。自己帰属感の連動が少しでも遅れると「モッサリ」であり、モノと映像との連動がぴったりのときは「サクサク」と呼ばれる。白いオブジェクトの作品の場合は、芝生のときは「サクサク」という感じであり、野原のときは「モッサリ」と映像との連動が遅れているわけではなく、どこか映像の上をオブジェクトがすべっているような感じであり、どちらかと言えば「ヌルヌル」しすぎているという感じである。

「ヌルヌル動く」という表現は、サクサクより上の評価として使われることが多い。この表現はおそらく、動きの連動が高いことが前提のうえで、自分で操作しているのとは若干違う「すべり」を感じている様子と筆者は考えている。つまり、自己帰属感はあるのだけれど、自分が動かす以上に、より素晴らしく補正されたかのように動いてくれる感触表現ではないだろうか。7

小林の作品では「素晴らしい」補正ではなく、「勝手な」補正となっているが、ディスプレイと映像のスライドの速度のちがいから、映像とのインタラクションがなく、見ているだけにもかかわらず、白いオブジェクトに「すべり」を感じる。白いオブジェクトが「ヌルヌル」と勝手に動かされている感じというか、高速度のランニングマシンに載せられているような感じとでもいえばいいだろうか。そこに触覚的な感覚が生じるのは、ディスプレイと映像とオブジェクトの連動からあたらしい画面の状態が生まれているからである。ヒトが見るだけの状態に置かれているからこそ、モノとしてのディスプレイが動くことで、映像に対しての働きかけとして機能する。ヒトではなく、ディスプレイが映像にインタラクトしているのである。それはある意味、モノとしてのディスプレイが映像のなかに入り込んだ画面をつくっているともいえる。

また、白いオブジェクトの作品では、ディスプレイが置かれた白い台からは黒いコードが伸びている。コードの先には青いオブジェクトがあり、そこからピンクのスポンジでつくられた犬のリードみたいなものがピクピクと振動している。ピクピクするリードまで画面は拡張させられるのだろうか。

小林のこの作品が示すのは、モノとしてのディスプレイは四角い枠のままであっても、モノと映像との重ね方を工夫することによって、それらの連動とともに拡張される画面は融通無碍に変化していくということだと考えられる。そこでは、ディスプレイは「映像のフレーム」という従来の機能から逸脱していく。ディスプレイがひとつの基点となり、モノと映像とを統合して扱える画面という状態が拡がっていくのである。それゆえに「ピクピクするリード」を構成する青いオブジェクトやピンクのスポンジといったモノもまた、ディスプレイを基点として生じるモノと映像との連動から生じた画面に組み込まれる。モノと映像との重なりのなかで画面が拡張していき、これまでディスプレイ内の映像と特権的に連動してきたヒトはその地位を剥奪され、画面を構成するモノと映像と同列に置かれるようになる。それゆえに、モノと映像との連動がヒトの身体とその感覚を勝手に補正するという事態が起こる。ディスプレイを基点に拡がるモノと映像とが統合された画面のなかで、ヒトはどこに自己を帰属させていいのか分からないまま、勝手に感覚を補正される奇妙な感覚に出会うのである。

フィジカルでありながら非視覚的な画面

垂直に壁に掛けられたディスプレイの回転運動は見る者の首をかしげさせたけれど、《盛るとのるソー》で垂直に近い状態で壁に掛けられたもうひとつのディスプレイの作品をみてみたい。この作品のディスプレイは壁とのあいだに隙間をもちながら、少し手前に傾くかたちで設置されている。そして、公園のような風景の下の方に赤いスポンジが横切っている映像が流れている。「ジュゥワウ」という動作音とともに映像の赤いスポンジの両端に力が加えられたかのようにくの字に曲がると、ディスプレイも同時に壁の方に引っ張られてほぼ垂直になる。そして、「ジュー」という動作音とともに加えられた力が解かれたようにスポンジが水平にもどると、ディスプレイも力が抜けたようにもとの傾いた状態にもどる。ここでは白いオブジェクトのときとは逆に、映像がディスプレイに働きかけているように見える。動作音とともに映像内の赤いスポンジに力が入り、その力でディスプレイが引っ張られ、動作音とともにスポンジの力が抜けて、ディスプレイが弛緩するような感じである。このディスプレイは他の作品とは異なり、見る者に重さを感じさせる。

ディスプレイを設置しているパネルの後に回り込むと、そこにはディスプレイを動かす装置があり、さらにパネルに対して垂直に設置された赤いスポンジが見える。それはディスプレイに映っているものと同じように見える。そして、このスポンジもまたディスプレイの動きと呼応して、くの字に曲がる。このスポンジがディスプレイを動かしていると言いたいところであるが、スポンジの横にはシリンダーがあり、それが動作音を立てて動き、ディスプレイの傾きを制御しているのが確認できる。スポンジはディスプレイ、シリンダーと呼応して動いているだけである。映像のなかのスポンジとパネル裏のスポンジとシリンダーはすべて重さを感じさせるディスプレイの傾きと関係していそうである。しかし、物理的にはシリンダーとディスプレイのみが関係している。あとは、見る者の想像上でつながるだけである。しかし、赤いスポンジが「筋肉」としてディスプレイを支えていて、その傾きをコントロールしているような感覚を捨て去ることは難しい。

この作品では、見える部分ではディスプレイと赤いスポンジの映像との重なりしか認められないが、裏に赤いスポンジが設置されている。これらすべてを同時に見ることはできないけれど、これらがシリンダーの動作音をきっかけとして、見る者の想像のなかで混じり合い、やけに重力を感じさせる画面が構成される。モノとしてのディスプレイは物理的に重いのだが、シリンダーは軽々と傾きを制御している。しかし、映像でプルプルと触れながら曲げられている赤いスポンジとパネル裏でゆっくりと伸縮を行なっている赤いスポンジが、ディスプレイを実際よりも重く感じさせて、ディスプレイを傾けるという行為のフィジカルさを強調する。小林はモノと映像とを連動させて見る者の想像力を刺激しつつ、画面を「重さ」というフィジカルでありながら非視覚的な領域に拡張するのである。

《盛るとのるソー》の作品群は、ディスプレイを動かすことでモノと映像とを明確に分ける境界線が消え、そこにあたらしい画面が生じることを示す。この画面のなかではモノと映像とが重なり合い、混じり合っていく。ディスプレイはひとつの基点として機能しながら「モノと映像とを統合していく画面」というあらたな状態へと移行していくのである。そこではヒトは帰属の基点ではなく、ディスプレイがヒトを含めたあらゆるものの帰属の基点となっている。ヒトはディスプレイとの連動のなかで行為や感覚を決定されるようになっているのである。

参考URL
1. 小林椋《盛るとのるソー》『多摩美術大学大学院情報デザイン領域 研究制作展2017 SUBSTANTIAL VISIONS』、ページなし
2. 渡邊恵太『融けるデザイン』、BNN新社、2015, pp.89-111
3. 同上書、p.113
4. Marco della Cava, Jony Ive: The man behind Apple’s magic curtain, USA TODAY, Published 10:15 a.m. ET Sept. 19, 2013, http://www.usatoday.com/story/tech/2013/09/19/apple-jony-ive-craig-federighi/2834575/ (2017/04/01アクセス)
5. 渡邊恵太「WorldConnector:カメラへの身体性付与による映像世界へ入り込むインタフェース」2014、http://www.persistent.org/worldconnector.html(2017/04/01アクセス)
6. J.J.ギブソン『生態学的視覚論―ヒトの知覚世界を探る』古崎敬・古崎愛子・辻敬一郎・村瀬旻訳、サイエンス社、1986年、p.126
7. 渡邊『融けるデザイン』、p.121

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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水野勝仁 連載第8回 モノとディスプレイとの重なり

前回の《Translation #1》に引き続き、今回も永田康祐の作品《Inbetween》を取り上げる。《Translation #1》では水平に置かれた2台のディスプレイに注目して、ディスプレイが示す映像のZ軸が物理世界のルールを上書きしていくプロセスを考察した。しかし、《Inbetween》と題された4つの作品で使用されている5台のディスプレイのうち、水平に置かれたものは1台しかない。《Inbetween》という4つの作品において、永田はディスプレイの手前にモノを置く。水平に置いたディスプレイにはモノを直接置けたけれど、垂直に設置したディスプレイにモノを重ねるとそこには隙間が生じる。永田はこの隙間を光とモノとの分離と癒着で埋めていき、ディスプレイを含んだひとつの風景を形成しようとしている。この試みはディスプレイという光を放射するモノがもつ効力の範囲を決めるものと考えられるだろう。また、永田は《Inbetween》において、エアーキャップで包んだ状態のディスプレイを展示している。梱包されたディスプレイというのは、まさにモノとディスプレイとが重なった状態にあるといえる。しかし、それは他の3つの《Inbetween》とは異なり、単にモノ化されたディスプレイが展示空間に置かれた状態であって、作品ではないだろうと考える人もいるかもしれない。梱包されたディスプレイは、一体何を示しているのであろうか。

光とモノにおける分離と癒着

永田康祐の個展「Therapist」で展示された《Inbetween》とタイトルをつけられた4つの作品には、すべてディスプレイが使用されている。そして、ディスプレイの前に必ず、モノが配置されている。見る者とディスプレイとのあいだにモノが挿入されることはほとんどない。それはディスプレイに表示される映像を最もよく見せるためには、鑑賞者とディスプレイとのあいだには何もないのが理想の状態だからである。しかし、《Inbetween》では見る者とディスプレイとのあいだに金網とネット、透明や色付きのアクリル板、磨りガラスや観葉植物、エアーキャップといったものが配置されている。金網とネットを除いたモノはすべてディスプレイに表示されている。《Inbetween》では、ディスプレイのなかのモノがディスプレイの手前に置かれている状況がつくられている。永田はこの状況設定についてステイトメントで以下のように記述している。

この展示では、私たちが風景を得るとき常に付随する遮蔽物である、水晶体やレンズによる重なりを取り扱う。光の律動からカメラレンズによって切り出された像は、液晶による冷陰極管の遮蔽によって、もしくは顔料による写真紙の遮蔽によって再現前化される。私たちのイメージの経験は、この三重の遮蔽ーレンズ、液晶ないし顔料、そして水晶体を条件として成立している。

画像素子の前に広がるものの重なりは、ディスプレイないしは写真紙の「向こう側」として、また液晶もしくは顔料と水晶体のあいだのものの重なりは、「こちら側」として認識される。そこにはある種の分離がある。これは、リアルと呼ばれるものとヴァーチャルと呼ばれるものの分離である。しかし、これらの関係はその反転や反復が介在することによってー加工された写真と未加工の写真の違いや、絵画においてオリジナルとその模写の違いがわからなくなることのようにー無効化されることがある。ものの重なりにおける分離が、ある特定の操作によって癒着するのである。この展示が対象とするのは、この分離と癒着である。1

ステイトメントにおいて、永田はモノの重なりとともに存在した光を遮蔽し、画像素子へと屈折させるレンズ、レンズが遮蔽したかつての光を再現し、モノの重なりを表示するディスプレイ、ディスプレイの光にモノの重なりを見るヒトの眼という3つの遮蔽物をあげている。そして、レンズとディスプレイとが表現するものが「向こう側」という今は存在しないヴァーチャルなものとされ、ディスプレイとヒトの眼とのあいだが「こちら側」というリアルなものとされる。ディスプレイを境界にしてリアルとヴァーチャルとの分離が起こるというところまでは、映像を体験する誰もが感じることである。永田のステイトメントで問題にしたいのは、最後の「ものの重なりにおける分離が、ある特定の操作によって癒着するのである。この展示が対象とするのは、この分離と癒着である」という部分である。ステイトメントは個展全体に対してのものだから、《Inbetween》のみに向けられたものではない。けれど、このテキストにある「分離と癒着」からディスプレイが現在置かれた状況を考えてみることはとても有益だと考えられる。なぜなら、エキソニモ《Body Paint》シリーズをはじめとして、これまでの連載で扱ってきた作品の多くはディスプレイが表示する映像の手前に奇妙なリアリティが発生しており、その要因のひとつとして、ディスプレイが放つ光とモノとの重なり、つまり、永田のいう「癒着」があると考えられるからである。永田はディスプレイ前にモノを置くことで、本来離れていなければならないモノとディスプレイとが癒着してしまう状況を設定する。「癒着」とは、本来接してはいけないモノが接してしまった結果、離れられなくなることである。永田がディスプレイの前に置いたモノはディスプレイの光を完全には遮蔽しないけれど、ディスプレイを鑑賞者に対して最前面という特権的な位置からモノの背面に押しやる。その際に、ディスプレイの映像が示す世界とディスプレイ手前に置かれたモノが属する物理世界との癒着が起こり、あたらしいリアリティを生み出すのではないだろうか。

ディスプレイという板はリアルなモノであるとしても、そこに表示される映像は虚構、あるいはかつてあったものの再現として、ディスプレイのフレームによって閉じ込めている。ディスプレイが表示する映像はリアルな風景の再現であっても、3Dレンダリングされた情景であっても、物理世界との連続性を失った独自の世界となっている。例えば、映像に映っている複数のモノはそれぞれ個別のモノとしてディスプレイのなかに存在しているように見える。しかし、モノとモノとのあいだに手を入れて、映像のモノを物理世界に持ってこられるヒトはいるだろうか。あるいは、ディスプレイが表示するモノのどれかひとつだけを手前や奥にあるモノから引き離すことができるだろうか。そんなことは誰もできない。なぜなら、映像はひとつの平面、ピクセルの集積として光の明滅として構成されているからである。ディスプレイの平面では物理世界で個別の存在であったモノたちは、無数の光の明滅によって構成されるひとつの表面に癒着させられて、個別に存在しているように見えながら、そこから個別に何も取り出せない独自の世界を形成しているといえる。だからこそ、ディスプレイが示す映像は「向こう側」となるのである。対して、ディスプレイの手前の空間では、ヒトがモノを個別に手に取れるからこそ「こちら側」にある。もし、向こう側に手を伸ばせてモノが取ってこられるのであれば、それは物理世界と地続きであると判断されて、「向こう側」とは呼ばれないだろう。

しかし、なぜ映像は「平面に癒着した世界」という独自な存在様式であるにもかかわらず、「こちら側」と対称をなすように見える「向こう側」として機能できるのであろうか。このことを考えるために、世界をモノの表面の現われと遮蔽の連続と捉え、現われている表面と遮蔽されている表面から乱反射した光の配列にヒトの行為をアフォードする情報が存在すると指摘した生態心理学者のJ・J・ギブソンの絵画に対する考察を引用したい。

絵画を正式に定義すると、次のようになる。絵画とは、「通常の環境の包囲光配列に見出されるのと同種の情報を含んだ、範囲の限られた光配列」を、観察者が、ある観察点において利用できるように処理された面である。この定義は、写真にもカリカチュアにも該当する。カラー写真を撮影してスライドを作るとき、撮影に用いるカメラは、元の光景から発する円錐形の光を遮ることになるが、写真によるカラースライドは、それを撮影したカメラが遮った元の光景の円錐形の光が与えていたのとほとんど同じ、明るさや色のコントラストを、眼に与える。このことも、上記の定義の範囲に含まれる。光の強度やスペクトル組成の関係は、カラースライドと元の光景との2つの光配列の刺激エネルギー同士の間で充分に対応しており、両者の低次の刺激情報は、ほとんど一致する。2

ギブソンの絵画や写真の定義から考えれば、映像も同様に物理世界が示す光の情報と対応関係をもったものといえる。平面であって、そこに手を入れてモノを取り出すことができないとしても、映像は物理世界と対応する光の情報をもっているならば、物理世界と同じように見える。けれど、それは同じように見えるという情報だけであって、触れることができるモノはそこにないのである。永田はこの光の情報を利用して、ある時点における物理世界の光配列の情報に基づく映像を制作する。そこにはもちろん触れ得るモノはなく、かつては触れることができたモノの情報のみが映像に「向こう側」として映っている。そこで、永田は物理世界の光配列を構成していたモノの一部をディスプレイの手前である「こちら側」に配置して情報の二重化を試みる。ここで行われているのは、触れ得ない「向こう側」の一部をモノとして引っ張り出してきてディスプレイの前に置き、モノと映像とを重ねて光の情報を二重化し、映像で示されている触れ得ないモノ自体を「こちら側」に持ってくるという捻じれた手続きである。永田はこの手続きに則って、「向こう側」にある金網やネット、アクリル板、磨りガラス、エアーキャップといったモノをディスプレイ手前の「こちら側」に配置して、映像を構成する光とディスプレイの平面との癒着を解くと同時に、ディスプレイの平面から分離した光をその映像と対応する光配列を生み出したモノに癒着させて、あたらしいリアリティをつくろうとしていると考えられる。

3つの《Inbetween》がつくる風景

まず、ディスプレイにネットと金網とが配置されたフラミンゴが映る映像と、その下には鯉が泳ぐ池を映すディスプレイが水平に置かれて、ネットがかけられている作品を考察してみたい。この作品は本来、映っているはずのものが映像に映っていない。レンズの光学的操作によって、金網はぼかされて光のなかに融けてしまっている。ネットは撮影の際に画面に入らないように撮影されている。ここでは光とモノとが癒着という状態ではなく、金網は同化といえるような状態にされ、ネットは存在を削除された状態に置かれている。永田は自らの選択で、光に同化させた金網や映像から削除したネットを、モノとしてディスプレイ手前の空間に配置して、カメラの周囲に広がっていただろう風景の復元を試みる。作品を見る者の視線はディスプレイ手前に置かれた金網やネットと、映像内のフラミンゴや鯉とを一緒に捉える。映像のなかの光に同化してしまった金網と存在を削除されたネットと、ディスプレイ手前に置かれた金網とネットは同じようで同じではない。なぜなら、ディスプレイは見るためのものであり、その前に金網やネットが掛けられることはないからである。永田が設定した状況において、見る者は金網やネットの存在を消去することはできない。金網やネットはディスプレイと見る者とのあいだに存在し続ける。

かつて永田が構えるカメラの前にあったであろう風景がディスプレイ、金網とネット、見る者の眼という3つの遮蔽が存在する展示室という物理世界内で復元される。しかし、ディスプレイから放射される光が金網やネットの影を消去してモノと映像との境界を曖昧にしていき、それらを癒着させて映像内でも元の風景を復元しようとする。同時に、目の細かいネットはそのエッジでディスプレイの光を三原色に分解し、光と癒着して映像内で元の風景を復元することを拒んでもいる。光とモノとの縄張り争いのなかで、ディスプレイに表示されているフラミンゴと鯉の映像のリアリティが、ディスプレイ手前に配置された金網とネットがつくる平面とその前後の空間に拡張されている。ディスプレイを含んだ金網、ネットがつくりだす隙間空間とフラミンゴや鯉のいる映像の空間とが連続しているかのように見えるのである。そのことを端的に示すのがネットの上に点在する落ち葉である。落ち葉はネットによって上方に引き伸ばされたディスプレイの空間の効力が及ぶのは「ここまでですよ」と確定している。このとき、ディスプレイは金網、ネットと落ち葉とともにひとつの風景をかたちづくっているのである。

次に、ディスプレイの前にアクリル板が配置された作品を見てみよう。ディスプレイのフレーム内には3Dモデリングされた部屋が表示されている。そこには白い壁と窓のようなものがあり、黄色と茶色のアクリル板をトロトロに溶かしたかのような布が風に揺れているようにみえる。また、床には段差があり、上の段に立方体の石が置かれ、ここにも透明のアクリルが溶けたような布がかかっている。ディスプレイの手前には、石に掛けられた透明の布がアクリル板となって、まずディスプレイの大半を覆うようなかたちで配置され、その上に、風に揺れるアクリルのような布と同じ黄色と茶色のアクリル板が斜めに配置されている。ディスプレイと3つのアクリルとは少しずつ重なるように設置され、平面の重なり順としては、ディスプレイ、透明、黄色、茶色のアクリル板となっている。しかし、平面の重なりとしてはこの順番なのであるが、真正面から作品を見ると、ディスプレイに表示されている窓のような白い正方形が一番手前に見えるのである。白い正方形が最前面に見えることで、物理空間のなかでのディスプレイと3つのアクリル板によるモノの重なり順とその分離を無効化していくのである。

モノの重なり順を無化するようなディスプレイ内の白い正方形は、どこにあるのだろうか。ディスプレイとアクリル板という平面の重なりで考えると、それは単にディスプレイに映る3Dモデリングされた部屋のなかにあるといえる。しかし、白い正方形を示すディスプレイの光は手前のアクリル板を突き通して、「こちら側」にあるように見える。3Dモデリングされたオブジェクトは計算から生成され、データが直接ピクセルの光となって明滅しているので、カメラのレンズによって否応なく起こる光とモノとの癒着を起こさない。それゆえに、物理世界よりも比較的自由に窓やカーテンのような形態をしたオブジェクトを配置できる。だから、この白い正方形は3D部屋において、どこかに浮いているような物理世界では存在し得ないようなオブジェクトなのかもしれない。しかし、ディスプレイの手前に配置された3つのアクリル板があるために、白い正方形を直接見ることはできない。永田はディスプレイのなかでオブジェクトを重ね合わせて配置して、さらに、ディスプレイ手前の空間に3層のアクリル板という平面的なモノを挿入して、ディスプレイの内側に展開する部屋の情報の一部を外側に配置するかたちで、情報を二重化していく。その結果、ディスプレイの光から生まれる白い正方形がアクリル板に癒着して、ディスプレイの「こちら側」に引っ張り出される。永田はディスプレイの内側に実際に手を入れたわけではないが、3Dモデリングでの画素の適切な配置と3つのアクリル板の挿入によって、物理空間とディスプレイの映像とをつなげたのである。その結果として、ディスプレイがその手前のアクリル板とそのあいだの隙間空間にまで拡張していき、ディスプレイ周囲の空間がひとつの風景として立ち上がり、その最前面に白い正方形が見えるのである。

最後に、ディスプレイの前に磨りガラスを配置して、フレーム内の映像をぼかしている作品を見てみよう。磨りガラス以外にも、液晶ディスプレイのバックライトのように物理空間で蛍光灯が光っていて、ディスプレイの前後に観葉植物がひとつずつ配置されている。蛍光灯の光が、ディスプレイの斜め後ろに置かれた観葉植物に当たり、その影を白い壁に投影している。磨りガラスは映像の一部を多少ぼかしつつ、ディスプレイの後ろの観葉植物の輪郭を大きくぼかしている。磨りガラスの前に置かれた観葉植物は蛍光灯とディスプレイからの放射光に照らされている。ディスプレイに表示されている映像の背景はコンクリートブロックのような壁になっており、物理世界では一番手前に置かれた観葉植物がブロック塀の手前に配置されている。その観葉植物の大半を隠すように磨りガラスがあり、その手前に物理世界ではディスプレイの後ろにある観葉植物が置かれている。ディスプレイの映像と物理世界とでは観葉植物の重なり順が逆になっている。観葉植物は映像と物理世界とでふたつ置かれているが、どちらかひとつは磨りガラスの向こうに置かれることでぼやけた輪郭を示している。ディスプレイのフレーム内に磨りガラスのエッジは確認できるが、ディスプレイ手前に置かれた磨りガラスのために、そのエッジが映像にあるのか、物理世界にあるのかは判然としない。物理世界に置かれた磨りガラスとディスプレイとが重なっている部分は、ディスプレイの光によってそれほど映像がぼけていないため、一見すると磨りガラスがそこにないかのようにも見える。そのため、ディスプレイ手前に置かれた物理的な磨りガラスではなく、映像に置かれた磨りガラスが最前面にあるかのようにも見える。磨りガラスによる半透明の重なりとディスプレイの光によって、どことどこが重なっているのか、あるいは重なっていないのかが不明瞭になっている。

ディスプレイのフレーム内外の磨りガラスがその前後の空間をディスプレイという平面に癒着することを妨げている。映像には磨りガラスを基準にして平面の重なりが生まれ、その前後に置かれた観葉植物の隙間空間を強く意識させて、植物の重なり順が明確になっている。ディスプレイが置かれた物理世界では、ディスプレイと磨りガラスとが一部癒着したように見えているが、その癒着を示す磨りガラスは映像の磨りガラスである。物理世界に置かれた磨りガラスとディスプレイとのあいだには、それほど強い癒着が引き起こされていない。物理世界ではディスプレイ以外の空間のみが磨りガラスによる作用を強く受けているように見える。物理世界の磨りガラスはディスプレイの斜め後ろに置かれた観葉植物をぼかして、ディスプレイとのあいだにある空間を無効化する。そして、磨りガラスという平面にディスプレイと観葉植物とがともに癒着してしまっている。しかし、磨りガラスからはみ出て見える観葉植物の明確な輪郭が、ディスプレイの後方に植物が確かに存在していることを示している。磨りガラスからはみ出て見えるディスプレイの後ろの観葉植物がディスプレイの空間を後方に拡張する。同時に、磨りガラスの手前に置かれたディスプレイの空間を前方に引き伸ばす。ディスプレイを挟み込むように置かれた観葉植物がディスプレイ周囲の空間を確定して、ディスプレイの映像が示す空間をリアルの磨りガラスを基準線にしてひっくり返したような風景が物理空間につくられる。

リアルとヴァーチャルとが入れ替わり続ける風景

3つの《Inbetween》において、ディスプレイは最前面という特権性を喪失し、周囲に位置する金網、ネット、磨りガラス、色付きのアクリル板といった前面の平面に対して、最背面に映像が位置することになる。それでもなお、ディスプレイの光はガラス面を透過し、金網を通り抜け、アクリル板や磨りガラスを透過していき、映像を物理空間に放射している。これらの平面を光が通り抜けることで、光にそれらの平面がもつ情報が付与されていき、映像のリアリティがディスプレイのフレームを超えてその周囲にまで拡張される。このとき、ディスプレイのフレームが無効化されるわけではない。ディスプレイはその存在を確かに示しつつ、物理世界と映像との境界を明確に示している。けれど、ディスプレイの前に設置された金網、ネット、磨りガラス、色付きのアクリル板が、映像がもつ光の情報を二重化し、曖昧にしていく。それは、ディスプレイに表示されている映像とモノとの癒着が解かれて、その平面性が曖昧になっていくことを意味する。その結果、ディスプレイの前にあるモノが映像を取り込み、癒着していき、あらたな平面をつくる。ディスプレイが表示する映像がディスプレイの周囲に拡張していき、光とモノとの関係が多義的になって、ひとつの風景を形成していくのである。その際に、ディスプレイ手前で映像のようにみえるものがモノなのか、それともモノと癒着した光なのかを一意に決めることは難しい。「こちら側」にあるリアルなモノとしての情報と「向こう側」にあるヴァーチャルな情報という2種類の情報を持つような曖昧な風景になっているからである。この曖昧な風景は、ふたりの向かい合うヒトの横顔にも見えれば、白い壺にも見える「ルビンの壺」の反転図形のようなものである。ギブソンは反転図形に対して、「眼に達する光に含まれる情報に、相容れない2種類の絵画情報《pictorial information》があり、抽出する情報を観察者が一方から他方へと変える時、知覚は変化する。ある縁における奥行きを特定する情報(つまり、何が何を隠しているのかを示す情報)は、互いに異なり逆方向に広がる2つの奥行きを特定するように、入念に準備されている3」と指摘している。永田の3つの《Inbetween》も「ルビンの壺」のように、リアルとヴァーチャルとを特定する互いに異なる2つの情報を見る者に提供しているといえる。作品にリアルな「こちら側」を見るのか、ヴァーチャルな「向こう側」を見るのかを一意に決めることができない状況をつくるために、永田はディスプレイの手前にモノを配置して、映像を構成する光の情報を二重化しているのである。それは、ディスプレイの平面で癒着していた光とモノとを解きほぐし、ディスプレイ手前に配置したモノが構成するあらたな平面に癒着させて、それがリアルなモノなのか、光と癒着したヴァーチャルなモノなのかを決めることができない曖昧な状態をつくることである。そのとき、ディスプレイが表示する映像の光はカメラで撮影された際に癒着したモノとの関係を清算し、その手前にあるモノの平面とあらたに癒着していきながら、リアルとヴァーチャルとが常に入れ替わる風景を周囲に配置されたモノとともに形成しているのである。

完全に「こちら側」にありながら「向こう側」を示し続ける奇妙なディスプレイ

これまでの3つの《Inbetween》のディスプレイと異なるのが、4つ目の《Inbetween》におけるエアーキャップに包まれたディスプレイである。エアーキャップに包まれたディスプレイが映すのは、エアーキャップに包まれたカメラが撮影した映像である。言ってみれば、現在のディスプレイの状態をそのままフレーム内に表示しした映像になっている。そして、ディスプレイの映像全体を物理世界のモノが遮蔽しているものはこの作品だけである。エアーキャップは半透明であるから、ディスプレイの映像を見ることはできるが、全体を覆うエアーキャップのために映像は全体的にぼやけていて、説明を受けなければ、それが何を示しているかはわからない。また、このディスプレイだけが垂直にも、水平にも設置されずに、壁に立てかけるように木の上に置かれている。水平という重力を受け容れる体勢でもなく、垂直といった重力と対峙する体勢でもなく、重力のなかにディスプレイが単に置かれている。

3つの《Inbetween》はディスプレイ内外の光とモノとの重なりのなかで、映像の光とモノとの「分離と癒着」という手法であらたな風景をつくっていた。しかし、梱包されたディスプレイが放つ光はエアーキャップと癒着することができずに、エアーキャップとともにディスプレイそれ自体に癒着していく。このディスプレイはモノであることから脱しようと映像を表示しているけれど、それもまたそれ自体の現状を自己言及的に示すのみとなっている。梱包されたディスプレイには「向こう側」への逃げ場がない。しかし、平面が光り続けることによって、「向こう側」が存在する可能性を示唆しているのである。4つ目の《Inbetween》のディスプレイは確かに映像を示すために発光して「向こう側」が存在する可能性を示してはいるけれども、全体を覆うエアーキャップと映像で示されるエアーキャップとによって「向こう側」に至る回路を完全に削除されて「こちら側」の存在になっている。3つの《Inbetween》が映像のなかのモノを「分離と癒着」によって「こちら側」に引っ張り出す試みだとすれば、この《Inbetween》は同じ手法を用いて、ディスプレイ自体を完全に「こちら側」に引っ張り出そうとしたものになっている。その結果、エアーキャップで包まれたディスプレイは、最前面という映像を示すための特権的な位置に近い状態にありながらヴァーチャルな「向こう側」を明確に示すことなく、手前を覆うモノとの関係のなかで、リアルとヴァーチャルとが常に入れ替わるようなあらたな風景をつくることもなく、徹底的にモノ化されたリアルな存在として物理世界という風景の一部として置かれることになった。にもかかわらず、それはフレーム内の平面を光らせて、ひっそりと「向こう側」の可能性を示し続けている奇妙な存在となっているのである。

参考文献
1. 永田康祐、個展「Therapist」ステイトメント、https://docs.google.com/document/d/1odVQymCVrn9BX3Ndsxr9FSYJB6lK8ZQ68o5Ye-EEmOY/edit (2017/02/16アクセス)
2. J.J.ギブソン「絵画において利用できる情報」、『直接知覚論の根拠』、境敦史・河野哲也訳、勁草書房、2004年、pp.244-255
3. 同上書、p.251

写真提供: 永田康祐

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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水野勝仁 連載第7回 モノとディスプレイとの重なり

1ピクセルの光の明滅を見せる渡邉朋也の《画像のプロパティ》、高速で色面を切り替えるディスプレイにブラックライトで発光する蛍光塗料が塗られたHouxo Queの《16,777,216 view》シリーズ、光とモノとを融合させた魔術的平面をつくりだすエキソニモの《Body Paint》は絵画のようにディスプレイが壁に垂直に掛けられていた。天井から吊り下げられたiPadのモノとしての薄さがディスプレイ空間の薄さと連動する谷口暁彦の「思い過ごすものたち」の《A.》や「滲み出す板」の《D》、割れたスマートフォンのガラスを木に彫り込んだ須賀悠介の《Empty Horizon》といった彫刻的作品でも、ディスプレイは垂直の状態にあった。しかし、今回考察する永田康祐の《Translation #1》で用いられているふたつのディスプレイは水平に置かれている。ディスプレイが水平になるということは、スマートフォン以前では珍しい出来事だったかもしれないけれど、今では多くの人が水平のディスプレイを覗き込んでいる。このとき、ディスプレイには何か変化が起こっているのであろうか。さらに、《Translation #1》ではふたつのディスプレイに同じ映像が分配されている。映像の分配もまた普段よく見る出来事になったが、複数のディスプレイとそこに表示されている映像は同じ映像というよりは、見えない何かで結ばれた出来事が複数の場所で起こっているといったような感じがないだろうか。今回は永田康祐の《Translation #1》を扱いながら、水平に置かれたディスプレイと映像を分配されたふたつのディスプレイという問題を考えて、モノとディスプレイとの重なりをみていきたい。

モノの配置の記述とディスプレイ内の配置の記述

永田康祐の《Translation #1》には、様々なモノが組み合わされて同じように置かれたふたつのセットがある。モノの組み合わせを下から見ていくと、まずベニアでつくられた箱状の台がある。台の上に厚めの板が置かれており、その上にディスプレイと鏡が置かれている。ディスプレイは表示面を上にして水平に台に対して置かれていて、その上には石膏で型どられた石と模造大理石のプレート、木片、ステンレスでできた何かを挟むような器具が置かれている。さらに黄色から緑へとグラデーションしていく画像をプリントした紙があり、ガラスのビンがその紙をおさえるように置かれ、ビンのなかには人工観葉植物が入れられている。グラデーションの紙はディスプレイの端にかかるように置かれていて、その大半は台の上に垂れ下がっている。そして、台の上の紙をおさえるようにアルミのスプレー缶や模造大理石、ガラスのオブジェや銀色に光る重りのようなものが置かれている。そして、作品として置かれたモノをよく見ると、ふたつのベニアのボックスの木目はよく似ていたり、ふたつのディスプレイのフレームには同じ位置に指紋のような汚れがついていたり、スプレー缶にも同じ位置にくぼみがついていたりする。全く同じように見えるように注意深く置かれたふたつのモノの組み合わせが存在していて、そのなかにふたつのディスプレイが水平に置かれ、画像を表示している。

ディスプレイはその上に置かれた石や大理石、紙にプリントされたグラデーションの画像などを表示している。石の画像を示すウィンドウの上に石が置かれ、大理石の画像を示すウィンドウの上に大理石や木片や何かを挟む器具が置かれている。石は直接、石の画像の上に置かれているのではなく、石と石のウィンドウのあいだには何も表示していない白いウィンドウがある。ガラスのビンがグラデーションの紙をおさえるように、石が白いウィンドウの上に置かれている。もちろん、石は白いウィンドウに直に置かれているわけではなく、ディスプレイのガラスの上に置かれている。紙にプリントされたものと同じグラデーションの画像がデスクトップピクチャとして設定されていて、ディスプレイの最背面に表示されている。グラデーションのデスクトップの前面にはこれまで記述してきたウィンドウ以外にGoogle docsやGoogle Earthのウィンドウが表示され、さらに、ディスプレイの真ん中には等間隔に配置された大理石の板が上から下に垂直に移動していく映像を表示するウィンドウもある。このウィンドウは重なり順から、石のウィンドウの下、Google docsのウィンドウの上に位置していることがわかる。ディスプレイの最前面にあるメニューバーは「Google Earth」がアクティブなウィンドウになっていることを示している。しかし、Google Earthアプリのウィンドウは大理石のウィンドウの下にあり、最前面にはない。ディスプレイの一部を見えなくしているグラデーションの紙をよく見ると、紙が隠している部分にGoogle Earthからの何かしらのメッセージを伝えるウィンドウがでていることに気づく。Google Earthのメッセージのウィンドウが、ディスプレイの最前面にあることになる。そして、《Translation #1》にあるふたつのディスプレイは、このようなウィンドウの配置を全く同じかたちで表示している。

モノの配置の記述とディスプレイ内の配置の記述に違いはあるだろうか。「前面」「背面」という記述は、ディスプレイに特有のものであろう。ディスプレイ特有の「薄っぺらい空間」のなかで重なり合うウィンドウを記述するには、平面的な奥行きを示す「前面」「背面」という言葉は有効であろう。ディスプレイという物理世界に置かれる装置自体もディスプレイ内のウィンドウと同じように平面的であるけれど、それは板の前面にあるとは記述されずに、板の「上」にあると記述される。このような記述の違いが起こるのは、モノが置かれる物理世界は3D空間のx、 y、 z軸が絶対的な設定であるのに対して、ディスプレイではz軸があるようでないような曖昧な設定になっているからではないだろうか。

映像メディア研究者のアン・フリードバーグは『ヴァーチャル・ウィンドウ――アルベルティからマイクロソフトまで』で、「オーバーラップするウィンドウは、ほんのわずかに窓の隠喩を変えた。ウィンドウを積み重ねることができるようになって以来、表面的な窓ガラスは今や奥行きをもち、重力を無視するようになったのである」と指摘している1。レオン・バッティスタ アルベルティが絵画論で絵画の隠喩として「窓」を用いていらい、隠喩としてのウィンドウはそれ自体が世界を覗き見るフレームであったために積み重なるということはなかった。窓のメタファーを適用されてきた絵画、映画、テレビにおいて、フレーム内に描かれた世界には3D空間のx、 y、 z軸があったとしても、フレーム内の平面が個別の世界であったために、その平面世界が積み重なることは設定されていなかった。しかし、コンピュータと組み合わせられたディスプレイにウィンドウ(W)、アイコン(I)、マウス(M)、プルダウンメニュー(P)から構成される「WIMPインターフェイス」という設定が与えられたときに、絵画で世界を見渡す隠喩として機能していたウィンドウがデータを見るためのフレームとして採用されるとともに、ウィンドウ自体が積み重なる設定を付与された。平面を積み上げるという用途のために最低限の奥行きがディスプレイ内の空間に設定されて、ウィンドウが形成する平面が次々に重なり合うようになった。そして、重なり合うウィンドウは、フリードバーグが「重力を無視するようになった」と呼ぶように、ドラッグされて縦横無尽にディスプレイ平面を動き、クリックひとつでウィンドウの重なりがつくる奥行きを手前に奥へと移動した。ディスプレイ外のモノとは異なり、ディスプレイ内のウィンドウは重力から逃れている。けれど、そこには重なり合いのたびに生じる最低限の奥行きしかない。そのために、ディスプレイ内には平面しか存在できず、平面がただ積み重なるのみである。ディスプレイ内においては物理空間で絶対的なz軸は、ウィンドウという平面の「重なり」が現れるときにのみ現れるものである。ディスプレイ内では「重なり」が先にあり、その後にz軸があるものとして仮定される。このz軸の扱いの曖昧さが、モノの配置の記述とディスプレイ内の配置の記述に違いがでてくるのである。

ピクセルで形成されたモノの支持平面

《Translation #1》でのディスプレイの役割は映像表示装置であると同時に、石などが置かれる台でもある。ディスプレイが台として機能するのは、ディスプレイが垂直ではなく水平に置かれているからである。水平に置かれたディスプレイの表示面にある透明なガラスはモノとしての存在を消して、映像を見せると同時に、ガラスの板として石や紙、ビンや模造大理石などを支える支持平面となっている。永田はディスプレイを垂直ではなく、水平に置くことで、重なるウィンドウを示すディスプレイを「デスクトップ=机の上」として物理的に機能させて、モノの関係のなかに組み込んでいる。「ディスプレイ」というz軸が曖昧に設定されている装置が、水平に置かれることで強制的に絶対的なz軸の3D空間に組み込まれているため、ディスプレイにモノを置くという行為が可能になっている。このことを明示するために、永田はディスプレイ内にフルスクリーンの映像や画像やテキストではなく、「デスクトップ」と「ウィンドウ」との重なりというGUI環境でのデフォルトとなった状況を表示しているのである。GUIのデフォルト画面を水平に置いたディスプレイに表示させることで、永田が「デスクトップ」という語が示す水平性をディスプレイ内の画像の関係性に持ち込む。しかし、それはGUI環境のディスプレイ内にもともと存在していた「デスクトップ」という水平面に「ウィンドウ」という垂直面が配置されるという捻れを顕在化させることを意味している。フリードバーグは次のように指摘する。

それでは、スクリーンの空間のいくつかの「ウィンドウ」をナビゲートするコンピュータ・ユーザーについて考えてみよう。コンピュータ・スクリーンの混喩において、コンピュータ・ユーザーはスクリーンに対して比喩的に複数的な空間的関係に置かれている。各「ウィンドウ」は、互いの「ウィンドウ」の前面(窓を通して見るように垂直のスクリーンを覗き込む場合)または上部(垂直のスクリーンが重力を無視して90度回転し、上から見られるような角度でスクリーンを覗き込む場合)に重ねられる。「ページ」なのかそれとも「ウィンドウ」なのか、混喩には流動的な位置の転換が含意されている。ユーザーは水平な(デスクトップの)眺めと垂直の(ウィンドウの)眺めを行き来しているのである。デスクトップという隠喩は背景と前景の層[レイヤー]を含意しているが、それらは上から見られるものである。2

「デスクトップ」と「ウィンドウ」というメタファーを採用したディスプレイは、水平面と垂直面とが入り交じった状態をユーザに示し続けていた。そして、フリードバーグの著書のタイトルが示すようにこれまでは明らかに「ウィンドウ」の比喩の方が優勢であった。絵画の流れからディスプレイも物理的に垂直に置かれたため、ウィンドウの方がデスクトップよりも物理世界との整合性が取れていたからである。それゆえにウィンドウの移動を示すために「前面」「背面」や「手前」や「奥」と言う奥行きの表現が使われた。しかし、ウィンドウはデスクトップという水平面に置かれたものとして設定されている。ならば、それらは本来「机の上」にあるものであり、「上」「下」といった表現でその位置関係を言えるものである。実際、ウィンドウに対しては奥行きの表現と上下の位置関係の表現とが入り混じった状態で使われている。それは、デスクトップの水平性と積み重なるウィンドウとの関係性のなかで、物理世界で紙の順番を入れ替えるように、クリックでウィンドウの重なり順を変化させるという行為は定義されたけれど、この段階ではディスプレイ内のz軸は明確に設定されていなかったからである。

フリードバーグの水平のデスクトップと垂直のウィンドウという関係性は、ディスプレイが垂直に固定されていたときにのみ有効だとも言える。スマートフォンが一般化した現在では、ディスプレイ自体が流動的にその位置を変えるようになっている。メディアアーティストの藤幡正樹は次のようにディスプレイの自由度について述べている。

これまでのディスプレイは、人間が起きた姿勢で見るように、スクリーン面が地面に対して垂直であった。だから、人間の視線とスクリーン(ディスプレイ)の位置関係は、映画において、座席が動かないことと画面サイズが巨大であるために、ほぼ一意に決まっていたと言えるだろう。またテレビにおいては、画面が映画に比べて小さいうえに、人がその周りを動き回るので、見る人が首をかしげない限り、Roll方向の動きはない。つまり、横から見るとか上から見るとかいう二軸(Yaw と Pitch)方向しかなかった。しかし、携帯電話のディスプレイにおいては、まず位置情報として三つの自由度(X、 Y、 Z)があり、回転軸にも3つの自由度がある。さらに、使い手の視点との関係性でも三軸(Yaw、 Pitch、 Roll)の自由度があることになる。3

藤幡が指摘するように、縦横無尽に空間内で回転しつづけるスマートフォンのディスプレイにおいては、ディスプレイは垂直である必要はなく、それにともなって、ウィンドウという垂直性を示すメタファーがデスクトップよりも有効である理由はなくなっているのである。この流れのなかで、永田はウィンドウの垂直性ではなくデスクトップの水平性をディスプレイに与えようとする。それは垂直のスクリーンを「重力を無視して90度回転」させるというような大それたことではなく、単にディスプレイは水平に置けるということでしかない。永田はディスプレイを水平において、デスクトップを文字どおり「机の上」として使い、そこにモノを置いていく。ここで興味深い問題がでてくる。それは、ディスプレイは簡単にその位置を変えることができるようになったけれど、ウィンドウやデスクトップをディスプレイ内で180度回転させることを禁止するGoogleのマテリアルデザインのようなデザインのガイドラインができたことである。Googleのデザイン担当ヴァイスプレジデントであるマティアス・デュアルテは、マテリアルデザインについて次のように述べている。

マテリアルデザインは「私たちの考えをひとつにしました」と、Duarteは言う。さらに、「それは完全な制約となっているのです」と認めている。これらの制約は、デザインの決定をより容易にし、一貫性のあるものにしていると、彼は言う。例えば、カードをひっくり返して裏を見るというアイデアがあるとします。マテリアルデザインの世界では、それは機能しえない不正行為なのです。もしソフトウェアがこれらのデバイスのなかに実在するような物質的なものだとしたら、スマートフォンの内部にはカードを裏返すような空間はないのです。だから、Googleはその行為自体を許可しないのです。4

ソフトウェア的には可能なことでも、そのソフトウェアが機能するハードウェアの厚みから考えると、そこに充分な空間がないとされる。ソフトウェアをスマートフォン内部の空間に実在するものと考えることは、物理法則に縛られないソフトウェアの自由さに対して大きな制約であるけれど、ディスプレイ内にひとつの世界をつくり上げることに大きく寄与している。マテリアルデザインがこのように考えるのは、ディスプレイ内の環境におけるz軸を明確に定義しているからである。

マテリアル環境とは3D空間、つまりすべてのオブジェクトがx、 y、 z軸の方向を持つ空間です。z軸は表示されている平面に対して垂直に配置された軸であり、z軸の正の値が閲覧者に向かって伸びています。マテリアルのシートはそれぞれz軸に沿って1点の位置を占め、標準で1dpの厚さを持つようになっています。 ウェブ上では、z軸はレイヤリングに使用され、遠近感の表現には使用されません。3Dの世界は、y軸の操作によってエミュレートされます。5

ディスプレイの上に置かれた石やビンや模造観葉植物は、物理世界にあるものであり、そこではz軸方向に充分な空間が与えられている。けれど、ディスプレイに示された石や模造大理石にはz軸方向に充分な空間が与えられているようには感じられない。それらは立体的に見えるけれども、ディスプレイという平面に押し込められている感じが拭えない。この感覚をマテリアルデザインは明確に「マテリアルのシートはそれぞれz軸に沿って1点の位置を占め、標準で1dpの厚さを持つ」と定義している。マテリアルデザインではピクセルは単なる光の明滅ではなく、「厚みのある物理的な存在(マテリアル)6」と解釈されている。この解釈のもとで、ディスプレイが示す「デスクトップ」を考えると、その平面はz軸方向に1dpの厚さを持つ空間であり、それは「薄っぺらい空間」でしかない。「影を使うことで、マテリアル間の相対的な高度(z軸上の位置)を自然な形で表現でき」るため、影を描くことでいくらでも平面的なウィンドウは重なるかもしれないけれど、マテリアルデザインがカードの回転を禁止するように、そこにはウィンドウが回転できるような充分な空間はz軸方向にはないのである。マテリアルデザインでは、z軸が明確に定義されているけれど、それは「影」でエミュレートされているだけだからである。

マテリアルデザインは重なるウィンドウとデスクトップメタファーがディスプレイ内に曖昧なまま持ち込んだZ軸という概念を明確に定義するとともに、z軸の表現として「影」の役割を強調している。それは物理世界のルールを強く意識させることである。マテリアルデザインは物理世界でできることを、ソフトウェアとディスプレイの世界に適用していく。それゆえに強い制約が働き、ピクセルでできたウィンドウやデスクトップをディスプレイの「薄っぺらい空間」では回転させることができなくなる。しかし、永田はデスクトップを「机の上」として機能させるために、ディスプレイ自体を回転させる。ディスプレイは物理世界のルールに従うので、それは垂直から水平に回転させることができる。ディスプレイが回転しても、ウィンドウが垂直で、デスクトップが水平であることは変わらない。ここには物理世界のルールは適用されずに、ソフトウェア世界のルールが適応されるからである。けれど、マテリアルデザインのようなディスプレイ外の物理世界のルールを意識した強い制約と一貫性をもった世界がディスプレイ内につくられたのであれば、ディスプレイの置き方がディスプレイ内に強く影響を与えるということもまた起こるはずである。

ディスプレイの置き方を強い制約とするようなインターフェイスデザインはディスプレイの向きに合わせて画像が回転することがあるくらいで、マテリアルデザインのような決定的なディスプレイ内のデザインはでてきていない状況である。しかし、Microsoftがディスプレイの傾きを自在に変更できるSurface Studioとともに発売したSurface Dialは、PixelSenseと名付けられたディスプレイが水平に近い角度に傾けられ、そこに置いて使用することを前提としている点で、ディスプレイの置き方から派生したインターフェイスと考えられる。PixelSenseが水平に傾けられると、その表面にSurface Dialが置かれて、ピクセルとモノとが直接インタラクションしているかのような状況が生じるようになる。水平のディスプレイ表示面に物理的なモノが直接置かれるというインタラクションによって、ディスプレイ内のピクセルがつくる表示面がモノとの接地面となって、ソフトウェアと物理世界とがより密接に触れ合いはじめるのである。

永田の《Translation #1》はGoogleのマテリアルデザインとMicrosoftのSurface Dialが示すようなディスプレイのあらたなあり方を示している。そのあらたなあり方を顕著に示すのが、ディスプレイの上に直接置かれている白い石や模造大理石はガラスとの接地面にある影が消失し、まるでディスプレイの最前面に配置されているように見える箇所である。ディスプレイが水平に置かれることで、「ウィンドウ」という向こう側を見る垂直面の存在よりも、「デスクトップ」という水平面の存在が強くなり、ウィンドウが示す影によって生じるディスプレイ内のz軸方向の空間と物理空間のz軸と融けあい、ひとつのz軸として実在性が強調される。その結果として、デスクトップが「厚みを持ったピクセル」というあらたなマテリアルから成立している支持平面として機能し始める。だから、《Translation #1》ではディスプレイのガラス面にモノが置かれているのではなく、Surface Dialのようにピクセルという接地面にモノが直接置かれているのである。Houxo Cueやエキソニモは絵具という物理的なマテリアルでガラス面を上書きしたけれど、永田の作品ではz軸を設定されたピクセルというソフトウェアとディスプレイのルールでガラス面を上書きして、ピクセル自体をモノの支持平面にしてしまうようなことがおこっている。ディスプレイに表示されるウィンドウは影を示して、ディスプレイ内のz軸が実在していることを示すけれど、ディスプレイの光はその上に置かれた石やビンなどの影を消し、物理世界のz軸とディスプレイ内のz軸とを融合させてひとつにしてしまうことで、見る者に奇妙な感覚を与えるようになっているのである。

ふたつのディスプレイをつなぐ幽霊チャンネル

ディスプレイとその周囲のモノとの関係だけでも充分に複雑さを示しているところに、永田はもうひとつの同じ構成のモノの組み合わせを置く。このふたつのモノのセットの意味を、ふたつのディスプレイの関係から考えてみたい。ディスプレイ内のピクセルが放つ光はモノの制約から逃れているけれど、モノに影響を与える。GUI環境のディスプレイはデスクトップというかたちでモノのあり方を模しているけれど、それはモノになりきることがない光がモノの制約から逃れている平面である。しかし、エキソニモの《Body Paint》シリーズが示した光によるモノの擬態のように、ディスプレイがひとつだけだとディスプレイ内のピクセルはモノ化してしまう傾向がある。しかし、永田はディスプレイを複数用いることで、ディスプレイ内のピクセルが放つ光をモノ化せずに扱おうとしている。モノの集合のなかに置かれたひとつのディスプレイの光はあらたなマテリアルとなりモノの接地面になっている。けれど、ふたつのモノの集合のなかにそれぞれ置かれたふたつのディスプレイが放つピクセルの光はモノ化を免れて、光独自のルールを見せている。それは矛盾している感じであるが、矛盾を含みながらモノとディスプレイとの関係を探っているのが、永田の《Translation #1》なのである。再び、マテリアルデザインを先導するデュアルテの言葉を引用したい。

僕らはリアルな物理を使うとはいってますが、リアル世界をコピーしようとは考えていません。ただ、脳や心にとって自然なものを作ろうとしているだけです。ソフトウェアの可能性を開いて、変化のある本当にマジカルな体験を作っていく、僕らはそんなラインの上でダンスしようとしています。7

永田はディスプレイ内のピクセルのモノ化とそれと相反する光としての性質を示し、ソフトウェア世界の可能性を示そうとしている。だからこそ、ディスプレイを用いた《Translation #1》は、ディスプレイなしで構成された《Translation #2》よりもマジカルな体験を見る者に与えるのである。《Translation #1》は《Translation #2》に比べると、モノの置き方も特徴的である。《Translation #2》が回転台に載せられたモノの位置がズレているにもかかわらず、ひとつの台の上に平行移動でコピペされたようにふたつのモノの組み合わせが並んでいるのに対して、《Translation #1》は同じ配置のふたつのモノはふたつの台とその上に配置されたモノが、あたかも異なる見え方になるように設置されている。しかし、その異なる見え方のなかで、ディスプレイ内の表示は寸分違わずに表示されている。あたかもハメコミ合成されたかのようにふたつのディスプレイ内に表示される同一の映像が、ふたつのモノの組み合わせがモノではなく光に基づいた同一ルールのもとにあることを示すマジカルな体験の土台を形成している。コピペされるように同一のモノが氾濫するということは、大量生産の時代にはよくあることである。しかし、《Translation #1》でふたつのディスプレイが示す同一の表示は、モノの大量生産とは異なるソフトウェアが切り開くあらたな体験を見るものに与えているようにみえる。このあらたな体験を哲学者の戸田山和久が「幽霊チャンネル」と呼ばれるものを説明する際に、ひとつのコンピュータに接続されたふたつのディスプレイを例として用いていることから考えてみたい。

Translation #2

因果連鎖は情報の流れの必要条件ですらない。二股因果と呼ばれるケースがある。たとえば、コンピュータAがそれぞれ別室にあるモニタBとモニタCを制御して同じ画像を映しているとしよう。AはBで起こることとCで起こることそれぞれの原因だが、BとCには直接の因果関係はない。しかし、この場合でも、Bで起きたことを知ることによってCがどうなっているかを知ることができる。Bにリンゴが映っていたら、Cのにもリンゴが映っている条件付き確率は1だ。この場合、BとCの間には通信路のようなものがあり、情報の流れがあると言ってよいだろう。こういうとき、BとCには「幽霊チャンネル」(ghost channel)があると言う。ホラー専門のケーブルテレビ局みたいだけど。8

戸田山の例と同じように永田の作品でふたつのディスプレイに映っている映像はひとつのコンピュータが処理したデータが分岐したものであるから、同じ映像である。ディスプレイの個体差があるから、モノのレベルでデータの見え方は極々僅かにちがいがでてきているのだろうけれど、データとしては同じものである。同じ映像がそこに映っているけれど、そこには直接の因果関係がないとされる。ふたつのディスプレイのあいだには幽霊チャンネルがある。では、ディスプレイ以外にモノには「幽霊チャンネル」が成立するのであろうか。一般的にモノの関係においては、恐らく幽霊チャンネルは存在しないだろう。なぜなら、モノの変化は同時には起きないからである。片方に汚れを意図的につけたとして、それと同じように、もうひとつにも注意深く汚れをつけるということを行わなければならない。物理世界にあるモノに対して、同じ出来事が同時に起こることはほとんどない。しかし、映像を分配した複数のディスプレイのあいだではそのようなことが常に起こる。モノの組み合わせのなかにディスプレイを用いるということは、ふたつのディスプレイが示す幽霊チャンネルのような関係を組み合わせたモノにまで適用させようとする意図が、永田にあったと考えられる。

情報の流れがあるためには、出来事同士が、「あれが起きているならこれも起きている」という仕方で互いに結びついている必要がある。そのような結びつきがあるために、二つの出来事がじかに因果関係でつながる必要はない。二股因果が下支えしている幽霊チャンネルであってもよい。しかし、次のことは言える。幸いなことに、われわれの住む世界では、出来事が因果の鎖で結ばれていて、その結果としてさまざまな「あれが起きているならこれも起きている」関係で出来事同士が結ばれている。だから、情報が流れる世界になっている。そういう仕方で、因果が情報の流れを支えていると言えるだろう。9

私たちの世界は「因果が情報の流れを支えている」けれど、幽霊チャンネルがつなぐ関係があってもよい。分岐したディスプレイは「幽霊チャンネル」でつながっているため、出来事が同時に起こる。ふたつのディスプレイのうちでどちらが基準ということはない。ディスプレイが同じものであればなおさら、どちらが主ということはない。ユーザが見ている方が主と言えるかもしれないけれど、それはたいしたことではない。ひとつのディスプレイで何かが起きたときには、もうひとつのディスプレイでも同じことが起きているように見える。しかし、ここでは「同じ」ことが起きていると考えるのは間違えであって、ただ単にそれぞれのディスプレイにその出来事が起きているのである。幽霊チャンネルでつながったふたつでのディスプレイとともにあるモノは、ふたつのディスプレイが示す関係から逃れられなくなる。モノを足したり、引いたりする時に、幽霊チャンネルでつながれた関係がでてくる。Aのモノと同じようにBのモノが注意深く置かれるのではなく、それらはともにAとして置かれたモノとして見えてくるのである。このときのAには、因果関係でモノとモノとが結ばれた物理世界とは異なるルールが適用されている。《Translation #1》はソフトウェアとディスプレイとがつくる「幽霊チャンネル」というルールをモノにまで適用させているのである。永田はディスプレイを含んだふたつのモノの組み合わせを置くことによって、ソフトウェアとディスプレイによるルールが物理世界のルールを上書きする状態をつくっているのである。

物理世界のルールを上書きして生まれるマジカルな体験

マテリアルの表面と輪郭は、現実世界に基づく視覚的な手がかりとなります。人間にとってなじみのある感覚を取り入れることで、ユーザーはどのように操作すればよいのかがすぐわかるのです。さらにマテリアルの柔軟性は、人間と物(マテリアル)との関係において、物理的法則を破ることなく現実世界とは違った可能性を生み出します。10

永田の《Translation #1》はGoogleのマテリアルデザインのようなクリーンさで、ヒトとディスプレイとの関係において「物理的法則を破ることなく現実世界とは違った可能性を生み出し」ている。谷口やエキソニモが物理世界のモノをベースにしてモノとディスプレイとを重ねているとすれば、永田はソフトウェアとディスプレイのピクセルが放つ光からつくられるあらたなマテリアルをベースにモノとディスプレイとの重ね合わせを行なっているといえる。そこにはマテリアルデザインと同じように物理世界を模しながらも、そのコピーではない独自の原理に基づいて物理世界をディスプレイ内に組み込もうという意思がある。物理法則は物理世界で基本的なものであるけれど、ソフトウェアとディスプレイとの組み合わせによって絶対的なものではなくなった。《Translation #1》は物理世界のルールがソフトウェアに制御されたディスプレイの光がつくる「厚みを持ったピクセル」というルールによって上書き可能であることを示す。永田はソフトウェアとディスプレイとが制御するピクセルというマテリアルを物理世界と融合させて、物理世界のなかにありながらもその基本的なルールを上書きし、見る者の脳や心に自然でありかつマジカルな体験をつくるのである。

参考文献・URL
1. アン・フリードバーグ『ヴァーチャル・ウィンドウ――アルベルティからマイクロソフトまで』、井原慶一郎、宗洋訳、産業図書、2012年、p.318
2. 同上書、pp.328-329
3. 藤幡正樹『不完全な現実』、NTT出版、2009年、p.223
4. Dieter Bohn、 Material world: how Google discovered what software is made of、 2014 http://www.theverge.com/2014/6/27/5849272/material-world-how-google-discovered-what-software-is-made-of(2016.12.7 アクセス)
5. Google「マテリアル デザインのガイドライン(日本語版)」2016、https://material.google.com/jp/(2016.11.27 アクセス)
6. 深津貴之「マテリアデザインとその可能性」『UI GRAPHICS -世界の成功事例から学ぶ、スマホ以降のインターフェイスデザイン』、BNN新社、2015年、p.31
7. Gizmodo「マテリアル・デザインって何? Androidデザイン責任者にインタヴュー」、2014 http://www.gizmodo.jp/2014/07/_android.html (2016.12.7 アクセス)
8. 戸田山和久『哲学入門』、筑摩書房、2014年、pp.188-189
9. 同上書、p.191
10. Google「マテリアル デザインのガイドライン(日本語版)」

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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水野勝仁 連載第6回 モノとディスプレイとの重なり

これまではディスプレイが常に光を明滅させている状態を考察してきた。しかし、電源がオフのとき、つまり、光の明滅面が機能していないとき、ディスプレイはディスプレイなのだろうか、それとも、単なる黒い平面をもつモノなのだろうか。そもそも、私たちは「ディスプレイ」のみを見ているのだろうか。iPhoneやiPadのディスプレイは、どこまでがディスプレイで、どこからがiPhoneでiPadなのだろうか。ノートパソコンのディスプレイはどうだろうか。もちろん、それらは分解すれば「ディスプレイ」をモノとして取り出せるだろう。しかし、それらはあくまでもモノとしてのディスプレイであって、「ディスプレイ」そのものではない。「ディスプレイ」そのものをモノとディスプレイとの重なりから抽出することは可能なのだろうか。今回は、須賀悠介の作品《Empty Horizon》という木製のディスプレイを通して、「ディスプレイ」そのものを切り出してみたい。

どこがディスプレイなのか?

須賀悠介のスマートフォンの割れたディスプレイを木彫で表現した作品《Empty Horizon》を見て、最初に気になったのは、スマートフォン前面のディスプレイ以外の部分、iPhoneで言えばホームボタンやフロントカメラなどは排除されていることであった。確かに、ホームボタンなどのところはディスプレイではないから、当たり前である。しかし、「ディスプレイが割れた」というとき、実際に割れているのはスマートフォンの保護ガラスであって、それはホームボタンやフロントカメラの周囲を覆っているモノである。だから、「割れたディスプレイ」というとき、それは単にスマートフォンの前面の保護ガラスが割れるのであって、ディスプレイの光の明滅面が割れるということではない。保護ガラスが割れるだけだから、スマートフォンにおける光の明滅面は機能している。しかし、多くの人は保護ガラスの割れを「ディスプレイの割れ」だと思う。恐らく、須賀はこのような問題を回避するために、光が明滅する部分のヒビのみを彫ることにしたのだろう。そうすることによって、ヒビはより光の明滅面に密着することになり、ディスプレイの上に位置して、スマートフォン前面全体を覆っていた保護ガラスがディスプレイの一部となる。須賀はスマートフォンからディスプレイのみを切り取るために、光の明滅面の上のヒビ割れたガラスだけを木の板に彫り、それ以外を捨象する。それにともない、スマートフォンというモノからガラス面と光の明滅面とが結合された薄い膜のような平面がスパッと切り取られたかたちで、木の板に表現されるのである。その際、ヒトはガラス面にはモノとして厚みを感じるとしても、光の明滅という現象が起こる平面にモノとしての厚みを感じるのだろうか。

木製のディスプレイ

スマートフォンの画面が割れるとディスプレイがモノ化し、立体化する。光の明滅面は平面であり続けるけれど、ガラス面は立体化するため、割れる前までは一体化していたガラス面と光の明滅面とが分離する。割れたガラスは平面には戻れない。平面に戻れないスマートフォンの割れたディスプレイを木に彫り込んだレリーフである《Empty Horizon》は、木であることを覆い隠すように黒く塗られた表面は周囲の光を反射はするけれど、木製のレリーフが自ら光ることはない。「光の明滅」という原型的性質を失ったディスプレイは、もはやディスプレイでないといえるかもしれない。けれど、ディスプレイを保護するガラスのヒビの形状を彫り込まれた板状の木がディスプレイに擬態しているようにみえるのも事実である。このどっちつかずの状態は、ディスプレイが単にモノなのでもなく、モノと光の明滅という現象のふたつの層から構成される存在であることを示している。

ディスプレイはモノとして存在しているが、それは電源を入れた瞬間に光を明滅しはじめ、常に変化する平面に変わる。電源を落とすとディスプレイはモノとして存在しはじめるけれど、それはディスプレイの原型的性質を消失したモノである。原型的性質を消失したとしても、それは「かつてディスプレイであったもの」となるわけではなく、ディスプレイでありつづけ、電源がONになればディスプレイとして機能するようになる。電源がOFFになっているディスプレイの平面は一度モノに回収されているようにみえる。しかし、実際は電源が切られて黒い平面になったディスプレイは、光の明滅によって変化する平面でもなく、モノの平面でもなく、ただの黒い平面なのかもしれない。光の明滅という機能を一時的にも失った平面は、何も表示しない黒い平面というモノとしても、現象としてもヒトの注意を引きつけない存在になっている。モノと光の明滅という現象とが重なり合う平面は黒い平面のなかにのみ込まれてしまい、「ディスプレイ」がテレビやスマートフォンというモノに融け込んでしまうのである。

しかし、ディスプレイと一体化しているかのようなガラスが割れると、「ディスプレイ」がモノとして剥き出しな状態で常に存在するようになる。電源が点いていようが、消えていようが、割れて立体化したディスプレイがモノとしてそこにあり続ける。割れたガラスがディスプレイを黒い平面に回収させずに、モノとして立体化したディスプレイの状態を剥き出しにする。だが、それはディスプレイの光が無い状態での話である。光が明滅しているディスプレイでは、ガラスが割れることで、ガラスというモノがつくる平面と光の明滅という現象がつくる平面というふたつの平面に分離される。同時に、光の明滅という現象はガラスが割れてもこれまで通りに起こり、ガラス面もこれまでと同様にその光を透過させ、ヒビに光が入り込みガラス面と光の明滅とが同化していくのである。

だが、木製のディスプレイは決して光りはしないがゆえに、ヒビに光が同化することはない。だからこそ、須賀は木の表面を黒く塗り潰し、光の明滅面をモノに最も近い状態である黒い平面にして、ディスプレイを構成するガラスと光の明滅面とを徹底的にモノとして彫り出すのである。光の明滅という現象は彫り出せるものではないけれど、ディスプレイがモノに同化した平面、言い換えれば、光の明滅が無の状態ならば、光の明滅面をガラスのヒビと同化したかたちで彫ることができる。それゆえに、《Empty Horizon》では、本来のディスプレイでは分離しているモノとしての平面と光の明滅面とが同一平面に存在するようになる。須賀は《Empty Horizon》で、ヒビ割れたガラスというモノと本来は彫るという行為が不可能な光の明滅という現象とを同一の平面に置いて彫り出そうとしているのである。

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「ディスプレイ」を「一様な厚みをもつ面の層」として切り出す

須賀の作品はガラス面というモノの平面と黒い平面としてモノ化された明滅面とが、木に彫り込まれたヒビを介して同一平面に存在するようになっている。このことが強く意識されるのは、作品を見る視点を作品の横に移動したときである。正面から見ると黒く塗り潰された平面はモノというよりは、光の明滅を模したように外界を反射して像を表示している。けれど、作品を斜め横からみると、そこにはディスプレイアームにマウントされた木製ディスプレイのエッジが一定の厚さを持って示される。それは彫られた木の物理的なモノとしての厚さであるけれど、そこにガラスというモノの平面と光の明滅面とが結合したディスプレイそのものの厚みがとても薄いことを感じさせるのである。《Empty Horizon》が示すディスプレイの厚みを作品制作に用いられている「レリーフ」という手法から分析していきたい。19世紀ドイツの彫刻家であるアードルフ・フォン・ヒルデブラントは『造形芸術における形の問題』で、レリーフは三次元の物理世界を二次元に落とし込むひとつの手法で有効であることを、ヒルデブラントは次のように書く。

芸術家には、複雑な三次元の表象を、まとまりのある像の表象に変えるという課題が与えられている。わたしたちが前の章で見てきたのは、芸術家は、この課題を解決しようと思えば、対象の面としての作用と包括的な奥行表象とを対置することに、しだいに全力を集中せざるをえなくなるということだった。この両者をうまく対置することができれば、芸術家は、単純明快な容量の表象、つまり、奥行方向へと続く展開の出発点となる、一枚の面の表象を手に入れることができる。この表象方式をわかりやすくするには、ガラス板を二枚平行に立てて、その間にそれと平行に人体をはさみ、人体のいちばん外側の点がガラスに触れるようにしたところを考えるとよい。このとき、この人体が要求するのは、奥行の厚みがどこもすべて等しい、ひとつの空間だ。ここで人体は、同じ厚みの奥行のなかに手足を配置することで、この空間の存在を物語ることにある。こうして、ガラスを通して前から見れば、この人体は、見分けやすい対象の像として、一様な厚みをもつ面の層のなかでまとまって見える。 1

須賀は無色透明で存在しているガラスがその姿をあらわすひとつの形態であるヒビ割れた状態をレリーフとして模すことによって、ディスプレイを表現する。それはディスプレイを保護するガラスを立体化することで、光の明滅面とのあいだに「一様な厚みをもつ面の層」という平行空間をつくることを意味する。そこはヒルデブラントが平行に立てられたガラス板のあいだに立つ「人体が要求するのは、奥行の厚みがどこもすべて等しい、ひとつの空間」と呼ぶような、2枚の平行する板のあいだに押し込められたすべての存在が一様の厚さでスッパリと切り取られてしまう空間である。ディスプレイはガラス面と光の明滅面とがつくる平行空間であって、そこではすべての存在の厚みが一定の薄さに切り出された状態で存在しているはずなのである。

しかし、光の明滅面は三次元の奥行きをつくる画像を表示するがゆえに、そこには奥行きが生じているように見える。光の明滅面を現象として扱っている限りは、ヒビ割れたガラスという半立体的な平面を前面としても、背面に物理空間を模した画像がひろがるため、ガラス面が物理世界と画像とをつなげるインターフェイスとして機能してしまう。それゆえに、ここにはディスプレイがつくる「一様な厚みをもつ面の層」を見ることは難しい。けれど、光の明滅面を黒く塗り潰して明滅が無の状態にしてしまえば、奥行きを示す画像が消失し、ひとつの平面となる。そして、その無の明滅面をヒビ割れたガラスというモノの平面と重ねると、そのあいだにディスプレイそのものを抽出したような平行空間がある一定の厚みをもったモノとして出現する。

ガラスと無の明滅面との重なりという意味ではスマートフォンの電源がオフのときのディスプレイは割れていなくても、一定程度モノに融け込んでいるものである。だから、スマートフォンのディスプレイはモノのように持ち歩け、正面だけでなく、あらゆる角度から見ることが出来る。しかし、スマートフォンの場合は、ディスプレイがモノに融け込んでいるがゆえに、たとえガラスが割れている場合でも、どんな角度から見ても、ディスプレイそのものをスマートフォンから抽出することは難しい。しかし、ヒビ割れたガラスとともに光の明滅の無の状態のみを彫り出した《Empty Horizon》を少し斜め横から見ると、そこにはヒビ割れと同一平面にある黒く塗り潰された平面の存在が強調され、光の明滅面という普段はその厚みを知ることができない平面が現れ、モノの平面と平行空間をつくり、「一様な厚みをもつ面の層」を示すのである。

木に彫られたガラスのヒビというモノと、モノと同化された無の状態の光の明滅面とが組み合わされて、普段は明確に区別することができないモノとディスプレイとの重なりから「ディスプレイ」のみが「一様な厚みをもつ面の層」をもつモノとして抽出される。《Empty Horizon》という木彫りの割れたディスプレイは、ディスプレイに関して光の明滅という原型的性質も含めて徹底的にモノ化することで、「ディスプレイ」という存在をガラス面と光の明滅面とを結合した「一様な厚みをもつ面の層」として切り出し、その厚みを抽出して、木のエッジが示す薄さとそこからひろがる平面に擬態させているのである。

この木のエッジの物理的なモノとしての厚さとそこからひろがる平面が「一様な厚みをもつ面の層」を切り出すと同時に、ディスプレイ特有の二次元平面と三次元空間、モノとイメージとが交錯する特異な状態である「薄っぺらい空間」をつくりだしている。「薄っぺらい空間」は、ディスプレイがモノとして厚みをもちながら、その原型的性質が厚さをもたない光の明滅であることから生じるものである。前回取り上げた谷口暁彦の作品「滲み出る板《D》」は「薄い板」としてのiPadのディスプレイが「薄っぺらい空間」を示したけれど、須賀の《Empty Horizon》はモノとディスプレイとの重なりによって、「薄っぺらい空間」をつくるわけではない。谷口の作品は、斜めから見た時のiPadのモノとしての厚さとそのディスプレイにうつる3DCGの窓枠が示す厚さをもたない平面とのあいだに「薄っぺらい空間」を表示させたけれど、《Empty Horizon》が示すのは、ともにモノとして彫り出されたガラス面と光の明滅面とが結合したディスプレイそのものの厚みである。実際にはそれは木の厚みにすぎないものが、理念的なディスプレイの厚みへと擬態するのである。それは「理念的」であるがゆえに、実際は厚さを示さないマルセル・デュシャンの「アンフラマンス」のような極薄の印象を見る者に与えるのである。須賀は「ディスプレイ」という装置のモノとしての側面を木彫りのレリーフという手法で前面にだし、木の表面そのものに光の明滅という現象面をもモノとして彫り出すことで「薄っぺらい空間」を木のエッジの薄さとそこからひろがるヒビ割れた黒い平面に出現させるのである。

参考文献
1. アードルフ・フォン・ヒルデブラント『造形芸術における形の問題』、加藤哲弘訳、中央公論美術出版、1993年、pp.55-56

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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Yusuke Suga, Kosuke Nagata, Issei Yamagata Exhibition “Seeing things”

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須賀悠介、永田康祐、山形一生による3人展「Seeing things」が開催された。3DCGを扱うという共通点を持つ3人のアーティストが、「イメージ」というテーマのもと作品を制作し、tokyoarts galleryの空間にバラエティ豊かな作品を展開した。

眩しい光沢を放つ商品、美しい肌の色、一つの汚れもないハイクオリティな生活。美しい写真が撮れる、スマートフォン。メディアと商業資本が作り出すイメージは、企業の欲望が投影された単なる記号にすぎないけれど、その記号によりドライヴされたイメージは強大な力を内包している。

イメージというとわたしたちは平面を想像しがちだが、その視野に映る世界も実際のところ眼球の奥へ投射された光なのだから、そもそもわたしたちは平面的に世界を眺めている。だから奥行きというのは、想像された世界なのかもしれない。

わたしたちは想像の力で、平面の向こう側へと突き抜けようとしてきた。絵画平面への没入を誘うさまざまな試みはその表れだが、数学の面で言えばその結実はデカルト座標のような概念といえるだろう。その3つの矢印はいまやわたしたちの空間理解の見えざる基礎となっている。人間が作り出した道具がこのように、現実の認識にまで影響を与えるのは興味深いことである。

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3Dソフトウェアツールで作られているものは、我々の実物空間の理解や接し方などを大きく変えた。それは今の建築家が、設計に使ったAutoCadのバージョンを認識できるぐらい影響の強さがある。(Manuel Fernández Interview

Manuelが言うように、わたしたちの認識の仕方は、社会構造とセットになってひとつのインフラを形作っている。そのときメディアを形作るテクノロジー群は、自然環境のように透明な存在となってしまう。だから今のメディアアーティストには、テクノロジーは必要ない。彼らが目に見える形でテクノロジーを使用していないのが、その証拠である。

記号の操作のようなもので豊穣な意味が生み出されていくなら、わたしたちはその新しい空間に書き込まれた意味を読み取って楽しむことができる。しかしその結果には、なにか恐ろしいものが待ち受けている予感がする。イメージに内包されたパワーが、わたしたちを侵食するからである。

幸運なことに私たちはまだその手前の段階にいるのかもしれない。その現実にどのような姿勢を持つかは人それぞれだが、その「現在」の可能性を紐解く必要はあるように思える。だからメディアに意識的なアーティストは、テクノロジーではなく、「現在」の可能性という実験にシフトしていく。結果生み出されるのが、ただ「奇妙な感覚」のようなものだとしても、少なくともその感覚はわたしたちの見方をふたたび新しくしてくれるに違いない。

会期: 2016.09.02‒15(終了)
会場: tokyoarts gallery
http://seeingthings.xyz
出展作家:須賀悠介永田康祐山形一生

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水野勝仁 連載第5回 モノとディスプレイとの重なり

前回はエキソニモの「Body Paint」シリーズを取り上げて、ディスプレイを絵具の支持体として用いることで、その表面で光がモノに擬態する魔術的平面が生まれていることを示した。今回はスマートフォンやタブレットといった表面一面をディスプレイが占めるモノを取り上げてみたい。スマートフォンやタブレットはモノとディスプレイとがもともと重なりあって、ひとつのデバイスとして機能している。そのモノとディスプレイとの重なりに、エキソニモの「Body Paint」シリーズが示す魔術的平面のような特異な平面は存在しているのであろうか。

谷口暁彦はスマートフォンやタブレットを用いた「思い過ごすものたち」(2013〜)と「滲み出る板」(2015)という作品を制作している。「思い過ごすものたち」は《A.》と題され、「滲み出る板」では《D》と題された作品で、iPadはともに天井から吊られて、ユラユラしながら映像を表示している。ディスプレイがユラユラと空間に吊らされている状態は、これまで本連載が扱ってきた作品になかったことである。エキソニモの「Body Paint」シリーズ、Houxo Queの《16,777,216 view》 シリーズがともに壁にディスプレイを絵画のように設置した作品だったのに対して、谷口の《A.》と《D》はディスプレイを彫刻的に扱った作品と言える。それゆえに、これまではディスプレイを正面から見ていたのに対して、側面や背面などディスプレイをひとつのモノとして構成する要素が問題となるのである。「思い過ごすものたち」と「滲み出る板」は連作の作品であるから、本来はそれぞれ連作内において作品の連関を読みとるべきものであろう。しかし、「モノとディスプレイと重なり」を追ってきたこの連載ではiPadを用いた《A.》と《D》のみを考察して、ディスプレイが表示する映像と物理世界に置かれたディスプレイのモノとしての側面との関係をみていきたい。

ディスプレイと物理世界との間違った接続

谷口はHouxo Queとの対談「ディスプレイの内/外は接続可能か?」で「iPadやiPhoneの画面の中と外をどのようにつなぐかを考えて、最初に制作したのが「A.」という作品です」と述べている。そして、次のように《A.》の説明を続ける。

3DCGのティッシュペーパーが風でたなびいている15秒くらいの映像を、天井から吊るしたiPadでループ再生しています。そばに扇風機があって、その風があたるとiPadが揺れ、画面に映るティッシュペーパーもたなびいているように見えるというものです。画面の中のティッシュの映像は、風とは無関係にただループ再生されていることは見ればすぐわかる。iPadそのものを揺らすことは間違えた接続なのだけれど、それによって風が画面の中に入っていくように感じられてしまう。こうした、本来はフィクションとして閉じている画面の中の映像を、いかに画面の外の世界と接続し、関係させるかということがこれまでも僕の作品の共通の問題としてありました。1

《A.》で画面の外と中とを接続するために扇風機の風をiPadに当て、ディスプレイに表示されているティッシュペーパーと物理世界とが接続された感じを生じさせるのであれば、iPadを天井から吊るさなくてもいいのではないだろうか。iPadを壁に設置して、そこに扇風機の風を当てたとしても、多くのヒトはディスプレイの内と外とをつなげてしまうと考えられる。しかし、谷口はiPadを天井から吊らして、揺らす。その理由は、谷口がタブレットやスマートフォンについて、「画面が薄い板状で、触って操作できるということは、向こう側を覗く窓(Windows)から、いまここにある物質っぽさを強く感じさせます2」と言っているところに見いだせるだろう。ディスプレイを「窓」として捉えるならば、iPadを絵画のように壁に設置するだろうが、谷口は「コンピュータを一枚の板として彫刻の素材に使うことができるんじゃないか3」と考え、iPadのモノとしての側面を強調するために、iPadを天井から吊り下げる。天井から吊り下げられたiPadは「間違えた」方法でディスプレイの内と外とを接続する。

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スマートフォンやタブレットという薄い板状のコンピュータの登場によって、ディスプレイを「窓」ではなく、「モノ」として使用することが「誤用」とは言い切れなくなっている状況になっている。ディスプレイは「見る」ための装置であったけれど、タッチパネルを備えたスマートフォンやタブレットの登場によって、ディスプレイは「触れる」対象となったために、そのモノ性が強調されるようになった。さらに、ディスプレイはヒトの手に持たれることで、モノとしての側面を強調するようになった。映画のスクリーンやテレビの画面は見る者に対して垂直に置かれているのに対して、スマートフォンやタブレットはヒトの持ち方で見る角度を自由に変更可能である。それゆえに、側面や背面などディスプレイをひとつのモノとして構成する要素が視界に入るのである。このようなディスプレイの変化のなかで、谷口はiPadやiPhoneをひとつのモノと見なして、彫刻の素材として用いる。だから、「思い過ごすものたち」で使用されているiPadやiPhoneは、額縁のなかの絵画や映画のスクリーンのように見るための存在として物理世界から半ば独立した平面的な状態に置かれることはない。それらは彫刻のように物理世界のなかに置かれ、物理法則が作用するモノとして扱われることになる。

《A.》でモノとして吊り下げられているiPadは風に当たると揺れる。そして、そのディスプレイに表示されているティッシュペーパーも揺れている。ふたつは扇風機からの風によって揺れているように見える。しかし、ディスプレイ自体の揺れとそこに映されたたなびくティッシュペーパーとを結びつけてしまうのは間違った接続なのである。iPadが物理世界の情報を取得する加速度センサーなど各種センサーをもっていることが、この間違った接続をもっともらしく見せていることに貢献しているとしても、そのセンサーは機能していないため、iPadは物理世界に対する情報を取得することはない。ここで起こっているように見えるのは、物理現象である風が物理世界から切り離されているはずのディスプレイの世界にも作用するという奇妙な現象なのである。

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ここで《A.》におけるディスプレイとその外の物理世界との間違った接続を考えるために、「箱ティッシュはどこにあるのか?」という問いを立ててみたい。箱ティッシュは真っ黒な3DCG空間のなかに置かれていると言えるし、iPadのディスプレイのピクセルを構成する光の明滅によって現われている平面にあるとも言える。フィクションとして3DCG空間があり、それを具現化するためのディスプレイの光の明滅による平面がある。そのどちらに3DCGの箱ティッシュはあるのだろうか。ここでコンピュータグラフィックスを初期のころから作品のメディウムとして用いているメディアアーティストの藤幡正樹のテキストを引用してみたい。

ルールにしたがってタイプされた数字や記号が結果として画像を作りだしてしまうということは、はっきり言って信じられないことだ。が、これを繰り返していくうちにコンピュータ内にストックされた記号が記号としてしか取り出せないことに苛立ち始めた。記号は三次元の形態を意味しているにも関わらず出力される画像は二次元でしかない。特に初期のコンピュータ・グラフィクス映像がやたらと物体の周りを回り込む様に動くのは、動きというもうひとつの次元、時間の次元を画像に付け加えることによってなんとか三次元をみせようということにほかならない。4

藤幡のテキストから考えると、三次元的形態としてモデリングされた箱ティッシュは、その三次元性を保ちながら、二次元の画像としてディスプレイに表示されているといえる。その際に箱ティッシュのみではなく、その周囲の3DCG空間も二次元化される。箱ティッシュは三次元でありながら、ディスプレイに二次元の画像として表示され、しかも、その三次元性を示す「モノの回り込む様な動き」も失っている。このように考えると、ティッシュペーパーは映像として扇風機の風とは関係なくたなびいているけれど、箱ティッシュも含めた3DCG空間自体がディスプレイとともに扇風機の風に揺れているのである。言い換えれば、「モノの回り込む様な動き」の代わりに、扇風機で揺れている動くiPadが「動きというもうひとつの次元」をディスプレイに付け加えて、そこに表示されている風にたなびくティッシュペーパーを取り巻く空間自体に三次元性を再び与えているのである。

ティッシュペーパーは扇風機の風と連動しているかのように動いているけれど無関係であり、それが置かれた3DCG空間はディスプレイに平面的に表示されながら、扇風機からの風を受け揺れているディスプレイとともに揺れている。だとすれば、ティッシュペーパーは扇風機の風の影響を受けていて、3DCG空間がその支持体であるディスプレイとともに揺れていることになる。そのとき、揺れているのはディスプレイでしかないのに、見る人はその物理的な揺れを映像のティッシュペーパーの揺れと連動させて見てしまう。そして、物理的な揺れとティッシュの揺れの連動が扇風機の風を3DCG空間に吹き込むのである。それは間違った接続でしかないのだけれど、その間違いの延長で、ディスプレイに表示されている映像に物理的揺れというかたちで「動きというもうひとつの次元」を与える。つまり、iPadの物理的な揺れが3DCG空間でオブジェクトを三次元的に見せる動きの操作に擬態して、ディスプレイに表示されている映像全体に三次元性を与えるのである。

3DCG空間における「モノの回り込む様な動き」を擬態するiPadが箱ティッシュのティッシュペーパーを揺らすことで、3DCG空間に扇風機の風を接続して、ディスプレイがもつ二次元という制約から箱ティッシュを解放している。けれど、それは錯覚にすぎない。すべてはiPadのディスプレイという平面で起きていることである。錯覚だとしても、一度そのように思い過ごしてしまうことは、「風」によってiPadが揺れ続けることで、物理世界とディスプレイという二次元の平面に表示されざるを得ない3DCG空間とを「三次元」というフレームでつなぐ環境が構築されたことを意味する。それがたとえ錯覚で思い過ごしだとしても、物理空間と3DCG空間というふたつの世界が接続されたという意識経験は確かに見る人に起こったのである。

二次元と三次元との交錯

「滲み出す板」の《D》は「思い過ごすものたち」の《A.》とは何が異なるのだろうか。まずは、谷口の作品説明からみていきたい。

天井からiPadが吊るされていて、扇風機の風で揺れている。iPadには、カーテンのついた窓枠のCGの映像が映し出されていて、 カーテンが風で揺らめいている。その窓枠の背景には、iPadの背面のカメラで撮影している現実の空間の風景が映し出されていて、 iPadが揺れる動きによってその風景も揺れ動く。しかし、窓枠のCGの映像はそれとは無関係に中央に映し出されている。5

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《D》が《A.》と異なる点は3つである。ひとつ目は表示されているオブジェクトが「カーテンのついた窓枠」であること。ふたつ目は、窓枠の背景が真っ暗ではなく「iPadの背面のカメラで撮影している現実の空間の風景が映し出されてい」ること。最後は作品自体の違いではなく、作品説明後半の「空間」についての以下の記述である。

この時、iPadの中に映る現実の風景は、iPadを透明な窓のように作用させ、奥行きのある空間性を持つが、CGの窓枠はむしろ、 iPad自体の厚みと対応する、板状の薄っぺらい空間に貼り付いたように見える。5

谷口はここで「iPad自体の厚み」に注目している。《D》と同じように《A.》のiPadももちろんモノとして厚みをもつものであったが、そのことには言及されていない。《D》のiPadは厚みをもつモノとして意識的に扱われていることで、《A.》よりも彫刻的要素が強く扱われている。同時に、それは絵画のように向こう側を示す「窓」としても機能している。この彫刻と絵画とのあいだに、もうひとつの3DCGの窓枠とカーテンが示されている《D》は《A.》よりも複雑な構造を示している。

まずは《A.》の手法を引き継いでいるところからみていきたい。《D》のiPadもまた《A.》と同様に扇風機の風を受けて揺れており、3DCGの窓枠につけられたカーテンも揺れている。《D》のカーテンは《A.》のティッシュと同じように物理世界と3DCG空間とを接続する役割を担っている。しかし、《D》のもうひとつのオブジェクトである窓枠は、箱ティッシュとは異なり枠の向こうにあるものを見せるという機能をもつがゆえに、その枠からみえる視点=パースペクティブを見る者に与えるのである。そして、3DCGの窓枠はiPadの背面カメラという「窓」とは異なる視点を与えられている。それゆえに、《D》のiPadのディスプレイには、真っ黒な3DCG空間に置かれた箱ティッシュを捉えるパースのみを示していた《A.》とは異なり、背面カメラと3DCGモデルの窓枠が示すふたつのパースが混在した平面が展開していることになる。

《D》では《A.》とは異なりiPadが具体的な厚みを持ったものとして扱われている。iPadは平面的であるが、厚さをもたない概念的な平面ではない。しかし、ディスプレイを正面から見ている際には、iPadは「平面」である。しかし、それを風で揺らすことで、iPadは様々な角度を見る者に見せる。そこに具体的な厚みが生じる。ただし、具体的な厚みといっても、それは「薄さ」と対応するような「平面的」と形容することを許容する厚みである。もちろん《A.》のiPadにも平面的な厚みを見ることはできる。しかし、その厚みがディスプレイのなかに示されている映像と関係を持つことはない。《A.》のiPadは単に風に揺れるモノであればいいのであって、具体的な厚みは映像との関係では捨象されている。それゆえに、3DCG空間そのものがディスプレイとともに揺れるのであり、いかなる角度においても、ティッシュペーパーは3DCG空間にあり続けるのである。

しかし《D》では、平面的な厚みを見せる3DCGの窓枠が示すパースと揺れるiPadが示すモノとしてのディスプレイのパースが重なったときに、見る者はiPadの具体的な厚さとその平面的な薄さを同時に見ることになる。そして、そこに谷口が作品説明の後半で「空間」について書いている「iPad自体の厚みと対応する、板状の薄っぺらい空間に貼り付いたように見える」状態が生まれる。そのとき、窓枠の向こうに映されていた物理世界もまた板状の薄っぺらい空間に貼り付く。そこでは世界は覗き見る対象ではなくなり、角度的に見づらいけれど、そこに存在することは否定出来ない板状の薄っぺらい空間になっている。ここにはiPadの具体的な厚さとディスプレイとがつくりだす独自の状態が生まれている。板状の薄っぺらい空間の幅は最大でiPadの厚みをもつと同時に、それはiPadのディスプレイの光の明滅という厚さを持たない二次元の平面でもある。つまり、3DCGの窓枠とiPadが異なるパースで互いに示していた物理世界は、最大でiPadというモノの厚み、最小でディスプレイの光の明滅というほとんど厚みを持たない現象のあいだに生じる二次元と三次元とが交錯する特異な状態に置かれるのである。

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乱層のディスプレイ

しかし、「二次元と三次元との交錯」はもともとコンピュータに接続されたディスプレイが示していたものであったともいえる。デザイナーの戸田ツトムは、次のように書いている。

コンピュータはひとつのディスプレイ上に、概念的な平面とゴミ箱が置かれた街角のような空間を同時に混在させる。空間性不要のウィンドウでもスクロールツールによって全体の平面内をなぜか文字列がパンする。同様に「平面」上でウィンドウが重なり、後ろに回り、別ウィンドウの上を通過したり…。平面に存在し得ない状況の様々である。「絶対の平面・空間に置かれた平面・深さと線遠近法的な性格をある程度もった平面」、これら言わば乱層するデスクトップを、ユーザーはそれほどのストレスや戸惑いを感じることなく受容し得た。これは驚くべきことではなかったか? 6

谷口の《A.》《D》は、いわば戸田が「乱層のデスクトップ」と呼ぶ体験を、ディスプレイを基点にして反転させた作品だと考えられる。そして、「乱層のデスクトップ」をディスプレイというモノを用いて、物理世界に引っ張り出してきているのが、谷口の作品であり、この連載でこれまで扱ってきたエキソニモの「Body Paint」シリーズ、Houxo Queの《16,777,216 view》 シリーズだと考えられる。これらの作品はすべてディスプレイの光の明滅という原形質的性質とモノとしての性質を組み合わせて、あらたな平面をつくりだしている。私たちはディスプレイを覗きこみ続けて、そこに表示されていた奇妙な平面を見続けて、その感覚を蓄積していった。それはモノとしては体験できないものであった。しかし、ディスプレイ自体が薄くなり、また、タブレットやスマートフォンというあたらしい装置の登場によって、「乱層のデスクトップ」的体験をディスプレイというモノを経由して、物理世界で体験可能になっている。そして、Houxo Que、エキソニモ、谷口の作品は「乱層のデスクトップ」にモノという側面を付け加えて、光のうえに浮遊するようなモノ、モノに擬態する光、モノの厚みと光の薄さとの交錯といった「乱層のディスプレイ」とでも言える体験をつくりだし、ヒトが慣れ親しんできたモノと物理世界に揺さぶりをかけているのである。

参考文献
1. 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」,美術手帖 2015年6月号,美術出版社,P.87
2. 同上書,p.87
3. 藤幡正樹「四次元からの投影物」,『アートとコンピュータ ─ 新しい美術の射程』,慶應義塾大学出版会,1999年,p.120
4. 谷口暁彦「滲み出る板 / board ooze out 2015」,http://okikata.org/☃/shimideruita/(2016.8.30 アクセス)
5. 同上URL
6. 戸田ツトム『電子思考へ…―デジタルデザイン、迷想の机上』,日本経済新聞社,2001年,pp.20-21

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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Dirt on Tape Vol.07

8月のあいだカセットテープをつかってDJをさせていただく機会が毎週ありまして、ちょうど〈Awesome Tapes From Africa〉のBrian Shimkovitzも来日していたので、カセットテープのDJのことをすこし。

Brian Shimkovitzは2本再生できるデッキを用意してきて、発掘音源をつなげてゆくっていうスタイルで、現場へはゆけなかったんですが、これまでのBoiler Roomなどの動画をみて、うまくつなげられるのが奇跡的で驚かされます。頭出しもその場でやってるようにみえますし。

こちらはどうやっているかといいますと、ラジカセとポータブルプレイヤーをイヤフォンジャックから赤白のライン入力。あとはあらかじめかけたいカセットテープを頭出ししていってます。カセットMTRなどがあればもっと複雑なこともできるとおもうんですが、レコードをつなぐ感覚で、カセットをつないでゆきます。テープによって音圧やヒスノイズなど個体差がかなりありますし、その音を流す環境にもよるとはおもいますが、おもいのほかしっかりと音がなります。ただし、ポータブルプレイヤーの場合は、テープを巻き込んだり、音圧のこともありますので、ラジカセ推奨ですが。カセットテープを買ってらっしゃる方はぜひいちどDJに取り入れてみてはいかがでしょうか。

今月は〈Nostilevo〉のことを紹介したいとおもいます。

2011年にデトロイトで発足、現在はLAへ移ったインダストリアル、ノイズ、EBMをおもにリリースするレーベルです。ノイズのレーベルといったらふだんきかれない方にはとっつきにくいかんじがあるとおもいます。そしてノイズは現行のカセットが盛り上がる盛り上がらない関係なくずっとリリースされてきていました。でも、ここは現行のレーベルという意味で特別なところだとおもいます。

パワーエレクトロニクス、ノイズのL.F.A.ことKhristopher Reinshagenが主宰で本人のリリースからはじまりましたが、ここのレーベルといえばやはりSiobhanことTravis Gallowayです。テープが腐食してしまったかのようながびがびとしたノイズが重なるとんでもなくローファイな録音のなか、すかすかなダンスビートが不気味な陽気さをともなってつきすすみ、そのあいまに垂れ流されるこれまたがびがびな本人の声が呪いのようで。別名儀のTraagでは〈Opal Tapes〉のはやい時期からリリースされ、のちにここからSiobhan名義でもレコードをリリース、Jカードの印刷が現行カセット界隈でいちばんうつくしい〈Goaty Tapes〉や、最近ではほぼ毎月くらいなリリースを重ねる〈German Army〉とともにUS、UKに限らずデンマークの〈Speaker Footage〉などさまざまな国やレーベルからリリースされるようになり、地下インダストリアルのヒーローを作り上げました。

ほかにも映像や鏡をつかったインスタレーションなどで活躍するPod Blotz、Body Of Lightの片割れによるダブテクノBlue Krishna、がびがびノイズレイブのXakatagawaなどもリリースし、Destraction UnitのJ.S. Aureliusソロ別名儀Pleasure KorpsもはやくにリリースするなどブルックリンやLAのほかのレーベルともつながりながらも、絶妙な距離感を保ちローファイな姿勢を崩すことなく、黒い美学を貫きとおしています。

Jカードの印刷も音にあわせてがびがびな粗い印刷で、ときおりさわっていると手にインクがついて黒くなるくらいの粗さなんですが、そういうあたりも音をあらわしていてよいですし、12面パネル(折り返している面の数)だったりとつくりもかっこいいです。

ノイズときいてハードルが高いとおもわれるかたも、カセットできいてこそなローファイな質感をたのしめるとおもいますので、ぜひカセットを手にとって、耳も手も黒くがびがびになってみてはいかがでしょうか。

https://nostilevo.bandcamp.com/

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7月に買ってよかったもの、いくつか。

3月にレーベルへ直接注文したのにまったく送ってこないんで、どうなってますか? とメールしてみたら、ちゃんと送るよと返事をいただいて、そこからももはや2ヶ月たってしまい。日本のお店で売られてるのをみて、あきらめて買いました。こういうのって、あきらめて買ったらその翌日届いた、っていうオチがあるもんなんですが、いまだに届きません。

Dirty Beachesがはじめて来日したときにシンセ担当で帯同していたモントリオールのBernardino Femminielli。ことしになってから〈Total Black〉からもリリースしていたり、〈Mind Records〉からレコードもだしていたり(これも届かない)とソロでの活動が活発になってきました。

2月の〈Total Black〉からのカセットはバロックなシンセもので、彼の趣味全開な雰囲気でしたが、その分今作はさらに振り切れてました。コズミックなシンセと怪しいささやきフランス語ヴォーカルはこれまで通り、そこに暴走するノイズをはらんだビートがすさまじいし、Jカードの紙質もよいし、ちゃんと送ってくれさえすれば最高なレーベルです。

Bernardino Femminielli “L’ENFER ET SES FILS” (Mind Records)

うえのFemminielliとおなじくカナダのモントリオール出身のPhoebe Guillemot新作。これまで〈Total Stasis〉や〈1080p〉からとよいレーベルからのリリースがつづき、新作は〈RVNG〉からと躍進しています。

密林をおもわせるエキゾティックなシンセが飛び交うなか、パーカッションのビートに、自らの声やサンプリングした声をダブ処理して重ねていて。こういう音ってけっこうありそうなんですが、飛び交うシンセにちょっとゆるめのビートがどの作品も彼女独特な間と音の質で。初期はもうすこしビートが強めだったんですが、今作はそのビートもゆったりめ、南国アンビエント感が増していて、夏にとてもあいます。これも直接注文したものが届かなかったので、日本のお店で売られていたものを買いましたが……。

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Ramzi “For Haku” (RVNG)
https://rvng.bandcamp.com/album/for-haku

MASSAGEでもとりあげられていたオーストラリア? のレーベルからデジタルで発表されていたものがカセットテープ化。レーベルの方からロシア語でこちらのTwitterにコメントがついたりと、ほんとはどこのひと? なかんじがおおいのも謎でたのしい。

カセットのレーベルは、メーリングリストに登録しておいてそのお知らせを受け取らないと注文できないとか、秘匿性の強いところもあったりと、そういう謎がおおいところほど追っていてたのしかったりします。

エコグライム、っていうことばどおり、ニューエイジなアンビエントにグライムなビートが攻撃的にのっかってきます。どれも短めな曲なんですが、立体的な自然空間を切り裂くビートがかっこいいです。カセットテープにはリミックスが収録、とおもいきやデータがダウンロードできるだけでA、B面ともにオリジナルの音源が収録されていました。日本のDJWWWWやCVNもここのレーベルと絡んでいたりしますし、これからもたのしみです。

HERBARIUM “DIVINE HERBA” (Eco Futurism Corp. / Genot Centre)

直筆ジャケットでレコードを20枚限定でリリースしたり、DJ NJ Droneなどおなじくブルックリンの〈Bootleg Tapes〉と近い人たちをリリースPurple Tape PedigreeがはじめたカセットZINEシリーズ “CELL” の1本目。A面にその号の音楽を。B面は音楽ではなくそのときのテーマにあわせた声のコラージュという構成がおもしろいです。

今号はBaby Blue。Chino Amobiなどと同系列なゲームサンプリング音に、アンビエント、唐突で攻撃的なビートがつなぎ合わさっていて。カセットや映像で活躍するJónó Mí Lóも1曲参加しています。

正直なところ、英語が堪能ではないわたしにはB面をまともにきけるかっていうとしんどいですけれど、購入時にレーベル主催者によるスムージーのレシピがPDFでダウンロードできたりと、カセットではなくレコードのほうで注目をあびはじめているここがカセットテープでもおもしろいことをやってきていて、これからも注目です。

“CELL, Issue 01: Baby Blue – Void Gate / CELL 01 (Audio Codex) ” (Purple Tape Pedigree)

Blood RoomとのユニットIXTAB、Best Available TechnologyとのユニットBOAでも活動するGary Geilerのソロ新作はアイルランドの〈Fort Evil Fruit〉から。いま最もおもしろいレーベルのひとつ〈Seagrave〉からもリリースがあるので、乾いた立体的な質感のビートがミニマルに反復、空間をうめてゆくシンセドローンの重なりに、所々に浮び上がってくるかさかさとした物音に、かなりローファイにくぐもった音質のミニマルな曲にと、これまでのかろうじてテクノなかんじをこえて、かなりエクスペリメンタルな方向へすすんでいます。同時リリースに日本のTAKAHIRO MUKAIのなまえもあったりとUKのあたらしいところによりエクスペリメンタルな濃さを足したような人選がすばらしいレーベルです。

Ovis Aurum “Nocturnal Pools” (Fort Evil Fruit)

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水野勝仁 連載第4回 モノとディスプレイとの重なり

前回のHouxo Queの《16,777,216 view》 シリーズとEvan Rothの《Dances For Mobile Phones》シリーズに対する考察で、光とモノとデータとの重なりを一度バラバラに解体して、再度、それらが一塊で展開していくような平面をつくりだす。ディスプレイの構成要素を分解し、再度まとめることで、光、モノ、データの重なりにズレが生じて、そこにこれまで意識しなかったような平面が生まれると書いた。そして、このあらたな平面が認識のバグを発生させるとした。

今回は、エキソニモの《Body Paint – 46inch/Male/White》と《Heavy Body Paint》への考察から、認識のバグが起こる平面の形成プロセスを明らかにしていく。ディスプレイは光の明滅を原型的性質とする平面であったけれど、エキソニモの作品は、ディスプレイが放つ光とモノとの関係を一変させて、見る者に強い錯覚=認識のバグを否応無しに発生させる。それゆえに、《Body Paint – 46inch/Male/White》と《Heavy Body Paint》を分析していくと、「モノに擬態する光」という認識のバグを発動させる条件を見出すことになる。ディスプレイは「モノに擬態する光」を伴い、モノとの重なり方を更新して、あらたな状態に変わりつつある。

《Body Paint》が示す錯覚

NTTインターコミュニケーションセンター(ICC)で開催されている「オープン・スペース2016 メディア・コンシャス」展に、エキソニモの《Body Paint – 46inch/Male/White》と《Heavy Body Paint》という同じ手法で制作された2つの作品が展示されている。まずは、《Body Paint – 46inch/Male/White》を考察していきたい。

《Body Paint – 46inch/Male/White》はタイトルが示すように46インチのディスプレイに男のヒトの上半身が映しだされている。しかし、ディスプレイに映し出されるヒトは全身を白色で塗られ、ディスプレイもヒトが表示される領域以外はフレームも含めすべて白で塗られている。このことが《Body Paint – 46inch/Male/White》(以下、《Body Paint》)に、ヒトが実際にそこに存在するかのような特異な質感を与えている。エキソニモは《Body Paint》について次のように書いている。

全身を単色でペイントした人物の映像がLCDディスプレイに映され、その人物以外の部分が同色で直接ディスプレイにペイントされている。映像内の人物と背景にあたる部分が同色にペイントされていることで、見る側の視覚に混乱が起き、絵画とも映像とも判別できない感覚 ― そこに実際の人物が存在するかのような錯覚すら ― を引き起こし、身体とデバイスの境界の不確かさに感覚が揺さぶられる。1

ヒトとディスプレイに同色のペイントを施すことで「実際の人物が存在するかのような錯覚」が生まれる。その錯覚は、普段は画像の支持体であるディスプレイを「キャンバス」のような絵具の支持体として見なして、絵具を塗るという通常は行わない行為をすることからつくられる「認識のバグ」と言えるだろう。ディスプレイにペイントするという行為は、前回取り上げたHouxo Queの《16,777,216view》シリーズと同じである。そして、《16,777,216view》シリーズの考察を通じて、ディスプレイが放つ光と絵具というモノとの組み合わせが「未だ名づけ得ない平面」をつくることを示した。では、エキソニモとQueの作品は同じようなバグを引き起こすのだろうか。Queはインタビューで「同年代に、他にもディスプレイに描いた作家はいましたか?」という問いに、梅沢和木とKen Okiishiを挙げている2。しかし、QueはのちにTwitterで「エキソニモ」も挙げるべきであったとツイートしている3。ここで興味深いのは、このツイートを受けて、エキソニモの千房けん輔が「ウチはディスプレイにペイントしているわけではなくて、Body Paintをしたらディスプレイまで塗らざるをえなくなっただけで、たぶんみんなとは別のベクトルです」4とツイートしたことである。「別のベクトル」という千房の言葉から、エキソニモは《Body Paint》シリーズとQueの《16,777,216view》シリーズとでは異なる認識のバグが生じると考えられる。

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Photo: KIOKU Keizo 撮影:木奥恵三 Photo courtesy: NTT InterCommunication Center [ICC] 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

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では、《Body Paint》シリーズと《16,777,216view》シリーズは、ともにディスプレイに絵具をペイントしておきながら、何が異なるのだろうか。ひとつはディスプレイの存在感であろう。Queは「現実とディスプレイに同等のリアリティーがあるという状態」で、ディスプレイと自分の能力であるペインティングを結びつけようとする5。Queにとってディスプレイへのペイントは「画面を切り替えればディスプレイに映し出されるものが変化するという揺らぎの強さを前にしたときに、ペインティングの価値を再考」するために必要な行為であった6。その結果、ディスプレイが表示可能な16,777,216色を60fpsで表示させて、光を放つ装置としての「ディスプレイ」という存在が最も顕わになった状態で、ペイントという行為がなされる。その結果、モノとディスプレイの光とのあいだに仮想的な平面がバグとして生じる。

対して、エキソニモは、表示されているモチーフを除いてフレームも含めて、ディスプレイを塗り潰してしまう。それは、Queとは対照的で、ディスプレイの存在を消去しようとするような行為である。千房が書くように、《Body Paint》は「ディスプレイ」にペイントしているわけではないのであろう。スマートホンを持ち歩くようになり、インターネットの常時接続するようになったヒトの「身体」を考えてみると、スマートホンへのプッシュ通知が身体を震わせるように、デバイスが身体の一部となっていると言える状況が生まれてきている。そう考えると、情報が提示され、データのやり取りが行われるディスプレイもまた「身体」の一部となる。そのような状況で「Body Paint」を行うとすると、ヒトの身体だけではなく、ディスプレイも「身体」としてペイントされなければならない。ヒトの身体とディスプレイとが地続きになった状態をつくりだすために、エキソニモは「身体」と「ディスプレイ」をともに「Body」としてペイントしている。ヒトとディスプレイは同一色でペイントされ、強制的に同一条件に置かれることで、見る者の認識をハックし、バグを引き起こしている。ディスプレイに映るヒトは描かれた肖像画のような印象を見る者に与えるけれど、実際は映像である。なおかつ、映像とペイントされたディスプレイとの組み合わせによって、ディスプレイの光で描かれるヒトは、そこに実際にいるかのような存在感を示すのである。

肖像画や人形がモノでありながら生きているような感覚を見る者に与えるように、ヒトの似姿を象ったものには不思議な力がある。《Body Paint》もまたヒトというかたちが見る者に錯覚を引き起こしているのであって、ディスプレイにペイントすることはあまり重要ではないと考えることもできるかもしれない。しかし、ヒトという形から錯覚が引き起こされているのであれば、《Body Paint》はリアリスティックにヒトを表現した絵画や彫刻と変わりがなくなってしまう。重要なのは、《Body Paint》を見て、驚く人の多くがそれを肖像画だと思い込んでいた点にある。《Body Paint》はディスプレイといういつでも表示を切り替えられる平面に映されたヒトを、描かれた肖像画だと見る者に認識させてしまう。動かないはずの絵画が、突如、動くからこそ、作品を見る者の多くが驚くのである。では、なぜ、ディスプレイに映る映像を、ヒトをリアルに表現した絵画や彫刻だと思い込んでしまうのだろうか。ここにこそ、ヒトを描いた《Body Paint》だけではなく、絵具のビンを描いた《Heavy Body Paint》で使われたモチーフとディスプレイとを同色で塗るという「Body Paint」という手法が示す認識のバグの秘密がある。

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Photo: KIOKU Keizo 撮影:木奥恵三 Photo courtesy: NTT InterCommunication Center [ICC] 写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]

《Heavy Body Paint》が示す再帰構造と色の問題

ディスプレイでヒトが表示されている《Body Paint》には「そこにいないはずのものがいる」という奇妙な生々しさを含んだホラー的な怖さがある。だからこそ、《Body Paint》はディスプレイに等身大のヒトを映し出すことで、見る者の認識を効果的に揺さぶる作品になっている。しかし、ヒトがモチーフとなっているがゆえに、ディスプレイにペイントするという行為によって引き起こされる認識のバグの原因を見えにくくしている。対して、《Heavy Body Paint》はディスプレイにペイントするという行為を前面に押し出した作品といえる。そのため、《Heavy Body Paint》を分析することで、ディスプレイが引き起こす認識のバグの要因を突き止められると考えられる。

《Heavy Body Paint》では「Heavy Body」という文字がプリントされたラベルが貼られた絵具のビンがディスプレイに映しだされている。ビンの色は黄色、白、青と3色あり、《Body Paint》と同様にそれぞれの色でビンが映しだされる場所を除いたディスプレイ全体が塗られている。 ヒトをモチーフにした《Body Paint》に対して、絵具のビンが表示された《Heavy Body Paint》には怖さはなく、どこかコミカルな要素がある。それは「Heavy Body」と名付けられながらも、そこに表示されているのがヒトではなくビンであるというダジャレ的な要素もあるかもしれない。あるいは、動くはずのないビンが動いていることに由来するかもしれない。しかも、そのビンは「重い身体」というラベルが貼られているにもかかわらず、小刻みに軽快に揺れていたりもする。

当たり前だが、ヒトと異なりモノはそれ自体が動くことはない。けれど、《Heavy Body Paint》で表示されているビンは動いているように見える。《Heavy Body Paint》が展示されている「オープン・スペース2016 メディア・コンシャス」展の作品説明には、次のように書かれている。

《Heavy Body Paint》(2016)では、絵具のボトルが、[《Body Paint》と]同様のやり方で提示されています。それは、先の作品と同様に、認識のゆらぎをもたらしますが、そこには人物は映っていません。しかし、手持ちカメラで撮影された、手ぶれを伴う映像によって、そこに撮影者という人間の存在を感じさせるとともに、「見ている」ということを考えさせます。7

作品説明にあるように「撮影者」というディスプレイのフレームの外にいるヒトの存在が、ビンに動きを与えていることは確かであろう。しかし、ビンが小刻みに動いていることを、撮影者という存在に帰してしまっていいのであろうか。2009年からエキソニモは連作「ゴットは、存在する。」を制作している。このシリーズは「標準的なインターフェイスやデバイス、インターネットの中に潜む神秘性をあぶり出すことをテーマにした」ものである8。連作のひとつ《祈》は、通常はヒトがひとつのマウスで操作するカーソルを、ふたつのマウスの重ね合わせで動かした作品である。《祈》が端的に示すように「ゴットは、存在する。」では、インターフェイスからヒトが排除されて、モノがコンピュータを「操作」している。「ゴットは、存在する。」の延長に《Heavy Body Paint》があるとすると、この作品もまた《祈》のようにヒトとモノとのあいだに大したちがいがないことを示していると考えられる。だとすると、ビンの動きは撮影者の手ぶれに帰するものではなくなり、ヒトという存在を消去して、モノ自体に起こるひとつの現象として見る必要がでてくる。

《祈》では動作の主体だと考えられるヒトを消去して、モノの組み合わせが情報を生み出し、それがディスプレイ上のカーソルを動かした。《Heavy Body Paint》のモチーフであるビンは単体で動くことはないし、どう組み合わせたところで、コンピュータの何かを動かすわけではない。しかし、ヒトによって撮影され、ディスプレイに映され、「Body Paint」を施された絵具のビンは、自律的に動いているような感じを見る者に与える。それは、ディスプレイを塗り潰すという手法によって、ビンに動きを与えている手ぶれを引き起こしている撮影者の存在感が消去されるからである。《Heavy Body Paint》でも《Body Paint》と同様に「撮影者」というヒトがディスプレイとともに塗り潰される。「撮影者」というヒトの存在をペイントによって消去することで、ビンはヒトの生命を譲り受けたかのように、勝手に揺れ動く。

絵具のビンが動きはしないことは、誰もが知っている。しかし、ディスプレイにペイントされた《Heavy Body Paint》が示すビンは、それ自体が動いているような感じを見る者に与える。それは錯覚でしかない。けれど、「ゴットは、存在する。」からのエキソニモの作品の流れを考えると、《Heavy Body Paint》にはアニミズム的感性が現れているといえる。 《Body Paint》が「身体とデバイスの境界の不確かさ」をヒトの側から示した作品だとすると、《Heavy Body Paint》はディスプレイのフレームの外に位置するヒトの存在を塗り潰してしまうことで、あたかも生命が宿っているかのような存在としてビンを見せ、モノの側からヒトとモノとの境界の不確かさを示した作品だと考えることができるだろう。

しかし、《Heavy Body Paint》にアニミズム的感性を見出すのであれば、ディスプレイに表示されるモチーフはモノであればなんでもいいのではないだろうか。いや、《Heavy Body Paint》のモチーフは、そこに描かれている絵具のビンでなければならない。なぜなら、「Heavy Body」と記された絵具のビンをモチーフとすることで、作品に再帰構造が与えられるからである。「Heavy Body」という文字は《Body Paint》からの作品の継続性を示しながら、ビンに記されたものと同じ文言がタイトルにも使われたり、映像で示されるビンのなかの絵具でディスプレイがペイントされたりという再帰構造が絵具のビンを起点として生じてくる。それゆえに、《Heavy Body Paint》のビンは《Body Paint》のヒトのように「Body Paint」される必要がないどころか、「Body Paint」してはいけないのである。けれど、ビンはところどころペイントされている。それは意図的なペイントではないかもしれないが、ビンには絵具が付いている。そして、このビンについた映像の絵具とディスプレイにペイントされた絵具とが、ときに同一の平面に存在するかのような感覚を引き起こす。そのとき、映像の絵具とモノの絵具が同一のものとして認識される。この認識はディスプレイにペイントされた絵具が、映像で示されているビンのなかの絵具であったということを、見る者が意識することから生じると考えられる。つまり、「Heavy Body」と記された絵具のビンをモチーフとすることで、絵具を巡る再帰構造が作品に導入され、映像で示されるビンやそこに付着する絵具が、ディスプレイに塗られた絵具と同じようなモノとして感じられるのである。

そして、《Heavy Body Paint》の再帰構造においては、《Body Paint》のときには単にヒトとディスプレイとを同一条件にする役割を担うとされていた「色」が大きな意味をもつことになってくる。なぜなら、ディスプレイが放つRGBの三原色がつくる光の色とモノに由来する色とが全く異なる色のあり方になっているからである。《Heavy Body Paint》はRGBとCMYKを同一平面で扱おうとしている。メディアアーティストの藤幡正樹はコンピュータによる色の操作の可能性をまとめた『カラー・アズ・コンセプト』のなかで、コンピュータによる色の価値観の変化を次のように書く。

コンピューターが扱う光の3原色によって、色彩の価値観が解放されたといってもいいでしょう。どの色もその物質性から自由になって、高いから使われないとか、安いからなおざりに扱われるということがなくなりました。ところが、この光の3原色は、従来から私たちが扱ってきた絵具の3原色とは、極端に異なった振る舞いをします。光の3原色のルールでは、赤色と緑色が混ざり合うと黄色ができるのですが、これは特に昔から色彩について慣れ親しんでいる人にとっては、ほとんど理解ができない世界です。さらに、実際には「色を混ぜる」ということが、コンピューターの上ではありえません。残念ですが、絵具同士がとろとろ次第に混ざっていく「あの感覚」が、コンピューターの上にはないのです。ここに大きな意識上のギャップがあります。絵具からコンピューターへ至る変化、物質から概念への移行によるギャップなのです。9 

エキソニモの《Heavy Body Paint》は同一の絵具の一部が映像に映り、一部がディスプレイに塗られている。これは絵具の一部が光で示され、一部がモノであることを意味する。光の色は物質の色のように混ざることはないと藤幡が指摘するのと同じように、通常、光の色はモノの色とも混ざることはない。なぜなら、このふたつの色のあいだには概念と物質という超えがたいギャップが存在しているからである。しかし、《Heavy Body Paint》においては一瞬、光の色とモノの色とが交じり合い、同一のものだと感じられる。それはモノの色と光の色とのあいだにあるギャップが、一瞬、埋まってしまった結果として起こるものだと考えられる。《Heavy Body Paint》が示す再帰構造において、ディスプレイが示す物質から概念へ移行した色が、再び、物資へと強制的に移行させられるような事象が起こり、それに伴い、光の色とモノの色とのギャップが埋められる。絵具のビンをモチーフにした《Heavy Body Paint》は、「Heavy Body」と記されたビンを起点に絵具を巡る再帰構造を作品に取り入れ、モノから解放された概念化した色=光を、再び、モノに具現化する流れを明示するのである。

ヒトの身体の延長としてディスプレイを塗ることから始まったエキソニモの「Body Paint」は、《Heavy Body Paint》が示すように、色を巡る再帰構造をディスプレイに持ち込むことで、モチーフと同一色でモチーフの表示部分以外のディスプレイを塗り潰す手法となりヒト以外のモノへも適用可能となった。それはヒトとデバイスの境界だけでなく、デバイス同士、モノ同士の境界も曖昧になってきていることを示しているのかもしれない。モチーフがヒトであろうと、ビンであろうと「Body Paint」は、映像で示されるモチーフと塗りつぶされたディスプレイのあいだで、光の色とモノの色とが混ざり合う事象を発生させる。そして、見る者に「実際のモノが存在するかのような錯覚」=認識のバグを引き起こすと考えられる。

モノに擬態する光

エキソニモの《Body Paint》と《Heavy Body Paint》を見たときには、 前回考察した Houxo Que や Evan Roth の作品とは異なり、ガラスが全く意識されない。ガラスが意識されないのはもとより、ディスプレイそのものがその存在をひっそりと隠している。ディスプレイが消失しているといったほうがいいのかもしれない。ある程度遠くからみると、ヒトや絵具のビンというモチーフが中心に描かれている「絵画」のように見える。しかし、近づいて、作品を見ると「絵画」のように見えたものの支持体がディスプレイであるということがわかる。ディスプレイがヒトや絵具のビンの像を形成する光を放ち、そのガラス面とフレームにまで絵具が塗られている。絵具というモノがひとつ平面をつくり、ペイントされていない領域からは光が放たれている。

《Body Paint》と《Heavy Body Paint》では、ピクセルの支持体として機能しているディスプレイそのものが絵具の支持体となっている。ディスプレイはピクセルの支持体として存在しているが、そのことは普段ほとんど意識されない。ディスプレイは画像の表示面をもち、それを保護するためのガラスの平面をもっている。そして、ガラスの平面は樹脂製のフレームで囲まれている。フレームがガラスの平面に保護された画像表示面である光る平面を他の空間から明確に区切る。このフレームがヒトの注意を光る画像のみに集中させて、ディスプレイというモノの存在を消失させる。しかし、エキソニモはディスプレイのフレームを含めてペイントしてしまい、モノとしてのディスプレイと画像の表示面としてのディスプレイの区分けを曖昧にする。エキソニモの作品においては、通常はガラスを透過して見る者に放射される光はヒトとビンの輪郭に沿って塗られた絵具で遮断されるため、光はヒトと絵具のビンだけを表す。

光とモノとがヒトやビンのシルエットに沿って確固とした境界をつくると同時に、常に揺れ動いているヒトとビンとがこの境界を曖昧にする。この明確であると同時に曖昧な境界は、光とモノとのちがいを強調するのではなく、逆に、そのちがいを曖昧にして、ディスプレイの光をディスプレイに塗られた絵具と同一平面に押し出す。そして、光と絵具とが交じり合いながらひとつの平面をつくり、ディスプレイのガラスを消失させる。それゆえに、そこに「絵画」のような存在が現れる。それはヒトとビンを構成する光とその周囲の絵具というモノとが融け合おうとしているからである。ヒトとビンというモチーフは明確に示されるが、それらを構成する光と周囲の絵具というマテリアルのレベルが互いに融け出して、ひとつの平面をつくりだす。

光と絵具とが形成するひとつの平面において、光は絵具のようになって、「光でもあり絵具でもある」というキメラ的状態になっているように見える。しかし、実際には光が絵具になることはない。あくまでも、光と絵具というモノが混ざったように見えるだけである。では、なぜ混ざるはずがない光とモノとが混ざるのか。それは、光と絵具とが形成する平面において、光が絵具というモノに擬態するからである。「擬態」というと単に別のモノの様子に似せるカモフラージュの意味を思い浮かべるかもしれない。しかし、フランスの哲学者、ロジェ・カイヨワは「擬態」を「魔術使いが自分で自分に罠をかけるという、至上の形態のまじない」として定義する10。なぜなら、カイヨワは、昆虫の擬態が敵から身を隠すためのカモフラージュではなく、最終的な目的が「周囲の環境への同化」であるために、擬態が昆虫の形態を決定していたと考えているからである11。《Body Paint》と《Heavy Body Paint》のディスプレイ上で起こっている光の擬態は、単にモノを真似ているのではなく、カイヨワが指摘するように、光が周囲のモノである絵具と同化して、その形態を変えていると考えられる。擬態は形態変化というひとつの魔術であり、エキソニモは「Body Paint」という手法で、光をモノへと擬態させる。

ここでもうひとつ「擬態」について引用したい。美術批評家のロザリンド・クラウスはカイヨワの擬態論を受けて、次のように記している。

動物のカムフラージュは動物の生命を救いはしない、とカイヨワはいう。カムフラージュは視覚領域の出来事だが、動物の捕獲は臭いを媒介として行われるからだ。擬態は適応行動ではない。そうではなく、それは「空間」の呼びかけに対する特異に心理的な応答なのだ。内側と外側の境界、即ち、図と地の境界の維持の失敗なのだ。それは、自己の全体の輪郭を、自己保持をゆるめることであり、ドゥニ・オリエのいうように「主観性の縮小」の一例だ。自身の環境に乗り移られるように、身体は崩壊し、溶解し、周囲の空間の写しを作り出す。写しを作り出すのはまさにこの乗り移りなのであり、それは実際、図を消すことなのである。地の上の地。12

クラウスの擬態論における図と地の話から、もう一度、エキソニモの《Body Paint》と《Heavy Body Paint》とを見ていきたい。ディスプレイのガラスに塗られた絵具によって、このふたつの作品のディスプレイは「光の明滅」という原型的性質を一度剥ぎ取られる。その結果、作品は「絵画」のようにみえる。それはいわば「図」を構成する光が崩壊し、ディスプレイのガラス面を絵具で塗りつぶした「地」に溶解して、周囲に平面に同化してしまったことを意味する。光が示すヒトやビンという図は輪郭を絵具という地に取り囲まれることで、その境界を明確にするのではなく、「図と地の境界の維持」に失敗する。なぜなら、常に揺れ動く映像の光が、絵具がつくる平面との境界にゆらぎをもたらしているからである。そして、映像という図から発する光は輪郭を取り囲む絵具という地に擬態し、絵具とモノに擬態した光とが「地の上の地」を形成する。ここでの「図」と「地」とは、ディスプレイの光が描くヒトやビンのモチーフとその周囲の絵具で塗りつぶされた平面のことではなく、モチーフを描く「光」と平面を塗り潰す絵具という「モノ」というマテリアルレベルのことを言っている。光がモノへと形態変化を遂げるような魔術的な平面がマテリアルレベルでつくられている。

しかし同時に、光は光としてヒトとビンを示し続け、モノと光とが交じり合った平面から浮き出てくる像を形づくる。この時の光は単なる光ではなく、一度、モノに擬態した光として、ヒトとビンの像を形成する。それゆえに、その像は映像の光でありながらも、あたかもヒトやビン自体がそこに存在するかのように見えるのである。 《Body Paint》と《Heavy Body Paint》では、ヒトやビンが際立ってみえることが重要なのではない。一度は周囲の絵具に擬態して「地の上の地」を形成した光が、モノに擬態した状態で再度、光とモノとが混合したあらたな平面の上に図を描くことが重要なのである。クラウスの擬態論はアンフォルメルを目指し、明確なかたち、区分をなくしていくことを意図していたけれど、エキソニモの「Body Paint」がつくりだす光の擬態はマテリアルの境界を崩し、魔術的平面をつくるけれど、その上に描かれる図は保たれるのである。

エキソニモは、これまで引き剥がすことも付け足すこともできないとされたディスプレイの光の平面に絵具をペイントすることで、モノとモノに擬態した光とが交じり合った「地の上の地」をつくる。一見すると、エキソニモの作品は「図=光=モチーフ」と「地=モノ=絵具」の対比によって、光をモノのように見せているように見える。しかし、それはモチーフのレベルではなく、マテリアルレベルで光とモノとを重ね合わせているのである。エキソニモが 《Body Paint》と《Heavy Body Paint》で用いた「Body Paint」という手法がディスプレイにあらたに実装したのは、モノとモノに擬態した光とが重なり合い、キメラ的なマテリアルとなって混じり合った平面自体なのである。このあらたな平面ではモノに擬態したあらたなマテリアルである光が、これまでの絵画やディスプレイに映る映像における図のように機能している。だから、「Body Paint」を見る者は、これまでのディスプレイ体験から得た感覚とあらたな魔術的な平面が引き起こす感覚を同時に感じることになる。そして、あらたな感覚を受け容れるために、従来の感覚とのすり合わせが行われる。その結果、「実際のヒトやモノが存在するかのような錯覚」をつくりだしてしまう。しかし、そこにあるのはモノではなく、ディスプレイでこれまで試されたことがなかった光とモノとの重ね合わせであり、その結果生じた、光がモノに擬態し、光とモノとが互いが融け合った魔術的マテリアルが展開する平面なのである。

ディスプレイの魔術的状態と認識のバグ

ディスプレイは光の明滅を原型的性質とする平面であった。けれど、エキソニモがディスプレイにペイントしたように、ディスプレイを光とモノとが融合可能な支持体にしてしまうことで、そこに光がモノに擬態する平面が生まれる。それは、光がモノに擬態して、モノと交じり合って形成された「地の上の地」である。そして、「地の上の地」はさらに融合して光とモノとが融合していく魔術的なマテリアルを展開する平面となる。そして、その平面に描かれた「図」が、ヒトの注意を引き込んで認識のバグを引き起こし、光とモノとを同一の存在として認識させる。つまり、ディスプレイが引き起こす認識のバグとは、光とモノという異なる形態が融け合う平面という条件のもとで、ヒトの認識が否応なしに光とモノとを同一視してしまうことなのである。しかし、実際にはそれはバグではない。なぜなら、ディスプレイでは光とモノとが融け合う魔術的な状態が徐々につくられてきているからである。ディスプレイで起こりつつある魔術的な状態への遷移を「認識のバグ」というのは、モノに擬態する光などディスプレイが示すあらたな状態が、これまでのディスプレイ体験と著しくズレているからなのである。

しかし、光という融通無碍な存在は、モノにだけ擬態するわけではないだろう。光はデータにも擬態して、「地の上の地」をつくりだし、それらが融合したあらたな魔術的な平面をディスプレイにつくり、そこにあらたな図を描いていると考えられる。次回は、光とモノとが融け合った平面だけではなく、光とデータとの融け合った平面の形成の可能性を探るために、ディスプレイの「薄い板」という型状自体を作品に意識的に取り入れた谷口暁彦の連作「思い過ごすものたち」や「滲み出る板」を考察し、記述していきたい。

参考文献・URL
1. エキソニモ、Body Paint (series)、http://exonemo.com/works/bodypaint/?ja (2016.7.25 アクセス)
2. Featured Interviews_Houxo Que」、“QUOTATION” Worldwide Creative Journal no.22、2015年、p.116
3. Houxo Que(@ QueHouxo)のツイート、 https://twitter.com/QueHouxo/status/670218641321758720(2016.7.25 アクセス)
4. エキソニモ・千房けん輔(@1000b)のツイート、https://twitter.com/1000b/status/670431002838368256(2016.7.25 アクセス)
5. 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」、美術手帖 2015年6月号、美術出版社、p.86
6. 同上書、p.83
7. NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]「オープン・スペース 2016 メディア・コンシャス」展、《Body Paint – 46inch/Male/White》及び《Heavy Body Paint》の作品解説、http://www.ntticc.or.jp/ja/archive/works/heavy-body-paint/(2016.7.25 アクセス)
8. エキソニモ、「ゴットは、存在する。」 (series)、http://exonemo.com/works/spiritualcomputing/?ja (2016.7.25 アクセス)
9. 藤幡正樹『カラー・アズ・コンセプト デジタル時代の色彩論』、美術出版社, 1977、p.7
10. ロジェ・カイヨワ『神話と人間』、久米博訳、 せりか書房、1975、p.113
11. 同上書、pp.113-114
12. ロザリンド・クラウス「視覚的無意識」小俣出美・鈴木真理子・田崎英明訳、『モダニズムのハード・コア―現代美術批評の地平』kindle版、太田出版、2015、Location 4948

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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Dirt on Tape Vol.06

日本でも、ことしからカセットストアデイが公式に開催されることが決まりました。レコードストアデイとはまたちがって現行の流れとまったく関係のないところからはじまってたり、リリースされるものは現行レーベルのものよりも過去の音源のカセット化みたいなのが中心だったりと、アメリカでできてからけっこうな議論がなされていて、わたしが追っている現行カセット界隈からは不評だったりするんですが。現行の流れと、なつかしいかんじやカセットの復権みたいな流れとはいつまでたっても溝が深くって、日本での公式の活動ってどうなるんでしょう。わたしがこういうことを書くから溝を深めてるのもありますが。開催が発表されたところなのでどんなかんじになるか見守ってゆきたいとおもいます。

現行カセットテープ界隈で尊敬しているひとがふたりいます。ひとりは過去にFact Magazineで毎月カセットテープのコラムをかいてたくさんの地下のレーベルやアーティストをすくいあげてきたり、たとえば日本のConstellation Botsuや食品まつりなど尖ったひとをリリースして世界へ知らしめるきっかけをつくった〈Digitalis〉のBrad Rose。長い休息期間にはいってしまいましたが。もうひとりはBasic HouseのなかのひとStephen Bishopです。

今回はそのStephen Bishopが運営する〈Opal Tapes〉について。

もはや〈Opal Tapes〉はレコードのリリースも安定していて、カセットレーベルというくくりでは語れない雰囲気ですし、Resident Adviserによる2013年のインタビュー記事で彼のカセットテープ愛についてかなり語られていますが、やはり現行カセットテープ入門という流れでかかせていただいてるなか、いっとう好きなレーベルなのでここはかいておきたいです。

初回で書いたように、現行カセットレーベルの流れでおもしろいのはテクノやダンスミュージックのレーベルが流行の雰囲気をおしあげたかんじがあるということ、そしてUKのレーベルの躍進だとおもいます。〈1080p〉オーナーにいちばん影響を受けたレーベルは〈Opal Tapes〉と語らせるように、〈Opal Tapes〉はその基礎をつくり、いまもかわらずつきすすんでいるレーベルだとおもいます。

黒い靄がかったテクノやノイズ、ダンスミュージックをリリースしてきた〈Opal Tapes〉ですが、はじめからUKということにこだわらずに、メルボルンのTuff Sherm、スウェーデンのD.Å.R.F.D.H.S.ProstitutesやTraag、PHORKなどアメリカ勢とローカルなシーンから発するものではなくレーベルの色を意識した人選で貫き通されています。

レコードでのリリースが安定してきたいまでも、しっかりとレーベルの色にあったあたらしいひとをカセットテープでリリースするところがすばらしいです。ことしにはいってからだけでも、ペルーのリマ出身のブラックメタル/ノイズ女子CAO、エジプトのカイロ出身$$$TAG$$$、テヘランのハードコアテクノSote、そしてButtechnoの来日が予想をこえた動員で大成功だったりと注目されるモスクワ周辺ですが、〈Opal Tapes〉も春のリリースでロシアとウクライナのまだあまり知られていないプロデューサーを集めたコンピーション “U S S R” をリリースと、世界の流れのさらに深いところをつきすすんでいます。

ここのよいところはPatriciaBody BoysMetristなどカセットテープのリリースがよかったひとたちをこんどはレコードでリリースしてと、さらに高いところへもってゆくところ。そして〈Tesla Tapes〉や〈Acid Wax〉など周辺のレーベルのマスタリングも引き受けていたりと、人選、リリース、活動がすべて未来へ向かっているかんじがします。一見、閉ざされたような黒いイメージと、未来へむかう明るさのバランスがレコードをだすようになったいまもしっかり保たれていて。ただリリースするだけでなく、カセットレーベルをしっかりと根付かせるモデルとして、すばらしいです。

レーベルの持つ美意識は統一された黒いケースとJカードの黒い背のデザインまですみずみまで反映されていて、その統一感は棚で並んだときにうつくしく買う側もそろそろ日本人もここへくい込んでほしいなとおもっています。UKだけでなく外へも目を向けているレーベルなんで、可能性はあるんじゃあないでしょうか。ポンドが安くなってすこし買いやすくなっていますので、これを機会に日本であまり流通のないカセットテープのほうも買ってみてはいかがでしょうか。

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6月によかったもの、いくつか。

東京のCONDMINIMUM主催でBatman WinksのメンバーでもあるKota Watanabeのソロ名義Cemeteryのデビュー作です。さわやかな高揚感とせつないかんじが同時進行なシンセの音のつらなりと、そこに重なるノイズと音の割れるかんじ、そのバランスがかっこいいです。Cemeteryにその周辺の若い子たちの行動力に振る舞いと、いまの東京のインディというかんじがして、これまでどちらかというと日本のひとたちに耳を傾けなかったこちらもどきどきします。石像ジャケットなものってよいものがおおいんですが、Jカードの裏側、白黒で印刷された曲名のところに、A面B面の文字だけカラーとかさりげなく細かいところまで凝っているところもよいです。

Cemetery “DENIAL” 〈CONDMINIMUM〉
https://cemeteryjpn.bandcamp.com/releases

Dean BluntとInga CopelandのコラボレーターでもあるJohn T. Gastの新作は自身のレーベルから。これまでも映画『ウォーターワールド』の日本版ポスターをそのまま盤面に転写したCD-RをリリースするなどHype Williams周辺なひとだけあっておかしなことをしてましたが、今作はけっこうまっすぐかっこいいのでは。全体的に不穏なアンビエントな質感、そこに破裂するようなビートに、話し声のサンプリング、鳴り響くブラス、いまっぽさをたくさん詰め込みながらもおかしな脱力感があって。最後のボーナストラック扱いの曲がパーカッションとギター? 爪弾きの不協和音っていういきなりな生な楽器だったりとつかみどころがないです。ひさびさなタッパーみたいなケースです。あまりこれは好きではありません。

John T. Gast “INNA BABALON” 〈5 Gate Temple〉
https://5gatetemple.bandcamp.com/album/5gt0025-john-t-gast-inna-babalon

限定25本リリースをつづけてきたポルトガル、コインブラの〈Exo Tape〉の姉妹レーベルから。DJWWWWなど複数名義で活躍し、7月からアート、音楽に関するメディアSim MagazineをはじめたLil $egaことKenji Yamamotoの+you名義と、レーベルオーナーであるjccgの別名義xccgのsplit。それぞれのサイドに相手へあてた曲がはいっていたりと、個人的な関係性もかいまみえて、カセットテープでのリリースってこういうひとのつながりが色濃くみえてたのしかったりします。+youサイドはあたたかく、木漏れ日のようなすこしまぶしい光のようなアンビエントに、かさこそと物音、水の音、鐘の音、話し声などが溶け込んでゆくような。“sad” にはその深海アンビエントにノイズが弱いながらも破裂していて、ただアンビエントではないかんじ。xccgサイドはあたたかくすこしさびしいギターのアンビエントの重なりから、ゆったりと水のなかをすすむようなシンセのアンビエント。Lil $egaさんいわく初夏に向けた作品ということで、ぜひいまの季節に。Jカードがカセットをつつむかんじで、ケースの突起が突き抜ける仕様で、ちょっとどきっとします。

+you / xccg “buranko” 〈A Q U A E〉
https://aquaardens.bandcamp.com/album/you-xccg-buranko

AngoisseCønjuntø Vacíø、そしてそれらを扱うDeadmoon Recordsなど、黒い雰囲気のEBMやノイズだったらいまはスペインのレーベルが熱いです。この〈B.F.E. Records〉もスペインのヴァレンシアのレーベルで。このあたりを追ってるひとたちにとっては現時点ベストななまえのならび。〈Nostilevo〉からもだしてるSiobhan、Craow、Ariiskに、ことしすでに10作品は越えてるGerman Army、UKでいまいっとう信用できるレーベル〈Night School〉オーナーのApostille、ことしベストレーベルのひとつ〈Seagrave〉運営コンビによるIXTABContainerForm A Logも結成し〈Not Not Fun〉からもリリースしていたProfligate、大阪〈birdFriend〉からもリリースしていたベルリンのテクノ女子Wilted Womanなど、個人的にはことしのコンピレーションベストです。

V.A. “MATERIAL ELÉCTRICO VVAA” 〈B.F.E. Records
https://bferecords.bandcamp.com/album/b-f-e-37-material-el-ctrico-vvaa-cs

Minimal ViolenceはバンクーバーのAshlee LukとLida Pの女子二人組。これまでカナダのこれから注目していきたい女子ばかりだす〈Guenero〉からリリースしていました。ローファイでけっこう荒削りなテクノをやってるんですが、前作から1年たった今作はハイハットやクラップ音が過剰にリヴァーヴがかっていたり、ドラマティックなシンセの反復だったり、音はしっかりしてきたけれども打撃が唐突だったりとさらに暴力的なかんじになっていて。Marco Lazovicは知らなかったんですがモスクワの方みたい(調べてもいまいちでてこない)。いまのモスクワのひとたちと共通するような靄がかったテクノからちょっとダサめなハウス。

Minimal Violence / Marco Lazovic “MV x ML” 〈Jungle Gym Records〉
https://junglegymrecords.bandcamp.com/album/udg-005-mv-x-ml

ベルリンのレーベルから。Pete SwansonThurston MooreとライブしていたりなイタリアControl UnitSilvia Kastelソロです。Control Unitではヴォーカル、というか叫び声というか、それとシンセを担当していて、片割れのNinni Morgiaの前衛ギターとあわさって、きいててぽかんとしかならなくって、たのしかったんですが、おととしバンドな音色になって、人気がでるかとおもったら、そうでもなかった。久々のソロ作は、明滅、暴発するシンセやドローンにポエトリーリーディングや声のループが重ねられて。Jカードが本人写真でとてもよいです。

Silvia Kastel “The Gap” 〈Noisekölln Tapes〉
https://noisekoelln.bandcamp.com/album/the-gap

Dirty Dirt
現行のカセットテープコレクター。2015年は450本購入。カセットテープに関するブログ、zine、雑誌への寄稿、たまにカセットDJなど、現行のカセットテープのことならなんでも。 http://dirtydirt2.blogspot.jp

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Amira Zhogadu: dichotomy

C

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J

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T

U

南アフリカのアーティストAmira Zhogaduより、デジタルペインティングとコラージュが融合されたアートワークが届きました。どういったバックグラウンドを持っている方か分からないのですが、アートは独学で学んだそうです。この作品の元になったのは、女性をターゲットとした雑誌に掲載されている化粧品などの広告イメージ。彼女はフォトショップを用いてそれを解体し、異なる文脈に転換することを試みている、とのことです。

異なる意味合いや目的を作り出すために、どのようにこのヴィジュアル言語が解剖され、再ファッション化するのか。それだけでなく購入することである理想的な美しさへと女性を誘う、広告によるヴィジュアル言語をわたしは探求しようとしています。

広告は過去の数10年で奇妙な転換に見舞われました。多くの広告にはほとんど、内面化された異性愛規範性以降の家父長制的視線があります。そこでは一般的に受け入れられた理想の美しさと、女性らしさが、熱望されるなにかに、そして言うなれば「フェミニズム」の類型になってしまいます。私はこの記号現象とイメージに駆動される事実に興味をそそられました。

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水野勝仁 連載第3回 モノとディスプレイとの重なり

前回の渡邉朋也の《画面のプロパティ》に対する考察で、ディスプレイがヒトに対して光をモノのように扱う認識のバグを引き起こしつつあると書いた。今回はその認識のバグの原因を探るために、データと連動しないディスプレイのガラス面に焦点をあてていきたい。ディスプレイの光に対して意識的な画家、Houxo Queの《16,777,216 view》 シリーズを考察したい。Queの作品は1/60秒という高速で色面を切り替えつづけるディスプレイに塗られた蛍光塗料が、支持体であるディスプレイから半ば浮いているような不思議な存在感を示している。本来はディスプレイのガラス面と塗料とは密着しているものであり、実際にそれらは確かに定着しているにもかかわらず、《16,777,216 view》はディスプレイの光と蛍光塗料というモノのあいだにあるはずのガラス面に覆い被さるようなあらたな平面の現れを示すのである。次に、スマートフォンとダンスを踊り続けるヒトの様子を記録したEvan Rothの《Dances For Mobile Phones》シリーズの考察を行いたい。Rothの作品からは、不可視な光を捉えるバイノーラルカメラによって光を遮られたディスプレイに残されていく指紋の意味を考えていく。この指紋の層はヒトの身体がガラスと接触した痕跡であり、ヒトがそれ以上先に行けないことを示している。同時に、指とガラスの接触から生じたデータだけはディスプレイの向こう側に行っており、指紋の痕跡はヒトとコンピュータとの対話の記録になっている。超自然現象を捉えるパラノーマルカメラを用いた《Dances For Mobile Phones》は、ガラスを挟んで光、モノ、データがつくりだすパラドキシカルな関係を示しているのである。

データに基づき作用する未だ名づけ得ない平面

Houxo Queの《16,777,216 view》シリーズの作品は、16,777,216通りの光の色面が1/60秒で切り替わっていくディスプレイの上に、ブラックライトで発光する蛍光塗料が塗られたものである。《16,777,216 view》では、メディウムとして選択されたディスプレイが60fpsで切り替えていく光の色面に導かれて、蛍光塗料は動き出しそうだが、動かない。蛍光塗料は動きはしないけれど、ディスプレイの光によって見え方を瞬時に変えつづけている。1/60秒という間隔で切り替わりつづける色面とブラックライトを受けて光ってはいるけれど凝固した蛍光塗料との対比から、光る色面に塗料というモノが浮いているような感覚が生まれる。また、ヒトの眼では捉えられない紫外線を受けた蛍光塗料自体が発光していることも、塗料とディスプレイとを分離させて、そこに浮遊感を醸し出す一因となっている。しかし、それはあくまでも作品を見ているヒトの認識上のことであって、実際には、蛍光塗料はディスプレイのガラス面に定着している。

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蛍光塗料がディスプレイに「定着」しているのか、それともディスプレイから「浮遊」しているのかは、《16,777,216 view》をどのように見るかによってちがう。60fpsで色面を切り替え続けるディスプレイと蛍光塗料とのあいだには光とモノとの断絶のようなものがあり、浮遊しているように見える。対して、作品のディテールを切り取った静止画は、ディスプレイに蛍光塗料がしっかりと定着している状態を映し出している。塗料はディスプレイに確かに定着しているのだけれど、光を明滅させ色面を切り替え続けるディスプレイがその物理的事実を認めないかのようである。

「1600万色が60フレームで、ランダムの演算で常に明滅し続けているんです。ペインティングは明滅させた状態で行っています」と、Queは作品制作の様子を説明し、次のように続ける。

常に変化し続けているディスプレイの画面上では置いた塗料を含め、すべてが瞬間的に変わり続けているためにコントロールをすることができない。自意識を定着させることが困難になっているというか。その自意識の反映の困難さみたいなものは、日常生活のなかでディスプレイに向き合っているときの人間の振る舞いと同じなのかもしれないと考えています。1

ディスプレイの明滅による色面の変化は、Queの自意識が定着するのを拒むのと同じように、ガラスの上に置かれた塗料が凝固して、モノとしてそこに定着することを拒絶しようとしている。それでも塗料は凝固し、モノとして存在するようになり、透過光を遮るようになる。60fpsでの明滅のなかで、Queが画家としての自意識をディスプレイに定着させることが難しいとしても、ペインティング行為の結果としてディスプレイに塗られた蛍光塗料はモノとしてディスプレイのガラスに定着していく。

この光る板は、私たちに超越的な体験を与えてしまうので、どれほどディスプレイのなかに強く自己を投影しても、現状それは身体には反映されない。むしろより一層その存在を明らかにされてしまう。どれだけ深く没入しても私たちが実際に触れることができるのは、ディスプレイの表面でしかないんです。同時に、触れるというゼロ距離での行為は絵画に繋がってくるんです。つまり、絵の具を持って画面に触れなければ、絵の具が定着しないじゃないですか。実際画家がおこなう作業は、画面に絵の具を触れさせ続けるという接触する行為なんです。2

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Queが蛍光塗料をディスプレイにいくら定着させたとしても、この光る板はモノが表面に留まることを許さない。画家としてQueがいくらディスプレイの表面に接触し、絵具をこすりつけたとしても、放射され続ける光はディスプレイのガラスと蛍光塗料というモノ同士の接触を剥がそうとする。その結果、切り替わり続ける光る色面とともに表示され続けるディスプレイと密着した塗料は、ガラスの板に密着しているというよりも、その存在はどこか宙に浮いたような状態になる。なぜなら、蛍光塗料がペイントされているディスプレイのガラス面が、明滅する光とモノとのあいだで鑑賞者の意識から消失してしまうからである。ディスプレイのガラスは光を透過させつつ、塗料をその表面に定着させていたけれど、高速の光の色面の明滅のなかにその存在が呑みこまれていく。光のなかにガラスが消失してしまうがゆえに、塗料が光の色面のなかに浮遊しているような不思議な感覚を受けるのである。しかし、一般的にいえば、ディスプレイは常に高速の光の明滅に晒されているものであり、そのガラス面は消失している。さらに、アンチグレアフィルムなどでガラスの反射を極力なくし、ガラスがそこにない状態を理想とするのがディスプレイの本来のかたちである。しかし、《16,777,216 view》は普段から消えていて意識されることもないガラスが、あるべき場所から消失している感覚を見る者に強く抱かせる。このガラス面が消失しているという感覚は画家としてQueがディスプレイに塗った蛍光塗料によって引き起こされる。ディスプレイに塗られた蛍光塗料と明滅する光とが付かず離れずの状態にあるからこそ、そのあいだにあるガラス面が意識されるのである。

ガラス面がヒトの意識から消えると指摘したけれど、それはあくまでもヒトの認識上のことであり、比喩的なものである。だから、作品のディテール画像を見ると、蛍光塗料はディスプレイのガラスに密着している。モノとしてディスプレイに定着した塗料が、ハードウェアとソフトウェアの合いの子であるピクセルを堰き止めるようにガラス面に覆いかぶさっている。そして、光が塗料を透過する部分もあれば、塗料が光を遮断している部分もつくっている。けれど、ここで注目したいのは、ガラスと塗料とのきわが光を滲ませたようになっていることである。様々な色が混ざり合った蛍光塗料の塊の縁がディスプレイから放射される光と干渉して、滲みのような光配列をつくりだしている。この光とモノとのきわにできる滲みのような光配列もまた、蛍光塗料とガラス面の密着を曖昧にし、光る平面に塗料が浮いているような感覚をつくりだすのに一役買っているのである。

色面の高速の切り替えがディスプレイの最前面に位置するガラスという存在を消失させる。同時に、蛍光塗料と光がモノを透過して相互に干渉したきわにできる滲みの光配列が、ディスプレイの最前面にガラス面とは異なるもうもうひとつの平面をつくりだす。 Queの《16,777,216 view》において、ガラス面は消えるのではなく、モノとして確かにそこにあることが強調されつつ、その上に光とモノとの合いの子のようなもうひとつの平面が生じるのである。それはPhotoshopが一般化した「レイヤー」という概念に近いものかもしれない。けれど、それはもちろん無色透明のデータ上のみに存在するレイヤーではない。それは光でもモノでもない。それは光源を見続けることになったヒトに起こる認識のバグであり、データに基づき作用する未だ名づけ得ない平面なのである。

ヒトの痕跡がつくるもうひとつの平面

《Dances For Mobile Phones》シリーズの作品は、フルスペクトル赤外線/紫外線を撮影できるパラノーマルカメラを用いて、Evan Rothがスマートフォンを操作するヒトの指の動きを記録したものである。パラノーマルカメラで撮影されたスマートフォンのディスプレイには何も映っていない。真っ黒なディスプレイに対して、ヒトの指がせわしなく動いている。一見、何をしているのだろうかと思ってしまう。しかし、その指の動きは、タップやスワイプなどスマートフォン以後、多くヒトが行っている行為そのものである。

ヒトが何も映っていないディスプレイとともに指を動かし続けている。Rothはこの行為を「ダンス」と名付けた。スマートフォンとともにダンスを踊りつづけるヒトには、アプリのアイコンやソフトウエアキーボードが見えているはずである。しかし、パラノーマルカメラがそれらを記録することはない。パラノーマルカメラはヒトの眼がとらえることがない範囲の光を記録する。それゆえに、iPhoneの上部で光が明滅するのが見える。それは近接センサーの役割を果たす赤外線である。パラノーマルカメラのもとでは、ヒトの眼では捉えることができない光が常に明滅し、ヒトが常に見ているディスプレイは真っ黒になる。

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光はディスプレイガラスを透過しているのだが、パラノーマルカメラには映らない。普段は光で溢れるディスプレイに何も映っていない。けれど、ヒトは指を動かし続ける。データを具現化した光の明滅はパラノーマルカメラに映っていないだけで、実際にはそこに表示されている。だから、ヒトは指を動かし続ける。超自然的現象がここで起こっているわけではない。行われているのは極々日常的な行為である。しかし、光の捉え方を変えるだけで、日常の行為を超自然的に捉えることができることを、Rothの作品は示している。ヒトはスマートフォンとダンスを踊り続けている。それはヒト主導ダンスかもしれないけれど、赤外線の明滅を見ていると、ヒトが踊らされているとも思えてしまう。何も映っていないかのように見えるディスプレイが放射する光にこそ、ヒトは踊らされているのであろう。《Dances For Mobile Phones》を展示したギャラリー、Carroll/Fletcherの作品説明には「不自然な動作と普段は不可視な光を一緒に見せることで、この作品は私たちのジェスチャーを制御しているのは誰もしくは何なのかという問題を提起している」と書かれている3。普段見えているものが見えなくなり、見えないものが見える。この反転からわかるのは、スマートフォンが赤外線というヒトの眼では捉えることができない光とディスプレイが放つ可視光という2つの光の明滅とともに、ヒトはスマートフォンとダンスを踊り続けているということである。

ヒトは可視光とともに不可視な光に晒されている。Queは明滅の速度から不可視な状態をつくり、そこに定着することがない意識を導いたけれど、Rothは日常的な行為を超自然的な観点から捉えることで、光の明滅から剥離して浮遊した行為を導き出している。指の動きに追随するディスプレイの可視光が見えなくなると、スマートフォンとともにあるヒトの意識が浮遊したかのように、指が夢遊病者のように見えてくる。タッチスクリーンに触れるといっても、記録された指の動きを捉えた映像を見ると、ヒトはガラスに触れているだけであることがよくわかる。パラノーマルカメラで撮影されたディスプレイは何も表示することなく、真っ黒な面を見せるだけであるから、指の動きが殊更良くわかるようになっている。さらに、ディスプレイのカバーガラスが割れたiPhoneのダンスでは、無意識的にガラスのヒビの部分は避けられていることがわかる。パラノーマルカメラはディスプレイの光を記録することはないけれど、ガラスのヒビというモノの状態は記録する。割れたガラスによって、指が刻むステップが変わる。光の明滅の状態だけではなく、その前面に置かれたガラスというモノの状態もまた、ヒトの行為に影響しているのである。

スマートフォンを操作する指は、ディスプレイの最前面にあるガラスへの接触を繰り返し、時に指紋を付けていく。Queが画家としてディスプレイに接触したように、ヒトはスマートフォンを操作するために、デバイスの最前面に位置するガラスに接触し続ける。同時に、ガラスに触れた痕跡としての指紋を残していく。普段は、ディスプレイの光が指紋などヒトの痕跡をガラスの存在ごと見えなくしている。けれど、パラノーマルカメラはディスプレイからの光を捉えないために、画面は真っ黒になっている。それゆえに、ヒトとディスプレイのガラス面の痕跡として指紋などの痕跡が鮮明に記録される。指紋はヒトがガラスの先には行けないことを示しているかのようである。しかし、光のみがガラスを透過して、ヒトはガラスを通り抜けることはできないのではない。モノとしてのヒトはガラスを通り抜けることができずに指紋という痕跡をそこに残すのみだけれど、データとしてヒトはガラスを通り抜けることができるのである。光の明滅とガラスというモノの重なりを通して、ヒトの指のステップがコンピュータにデータとして伝えられる。このように考えた瞬間に、バイノーラルカメラが捉えた真っ暗なディスプレイに対してせわしなく動きつづけるヒトの指とその痕跡として残りつづける指紋への意識が変化する。指紋というヒトの痕跡がガラス面の上につくるもうひとつの平面は、普段は汚れとして除去されるものでしかない。しかし、それはヒトがディスプレイに行った接触行為の集積であるとともに、接触を介してのデータの入力行為の痕跡でもある。真っ黒なディスプレイの上に浮かび上がる指紋がつくる平面は、ヒトとコンピュータとの対話の記録なのである。

Rothの《Dances For Mobile Phones》が示す真っ黒なディスプレイに浮かび上がる指紋の平面は、特に認識のバグを引き起こすわけではない。しかし、この作品におけるディスプレイ上の指紋はガラスを挟んで光、モノ、データがつくりだす逆説的な関係を示している。それは、光がガラスを透過するようにヒトはガラスの向こうには行くことができないのに対して、ヒトとガラスとの接触から生じたデータはやすやすとガラスを通りすぎていくということである。さらに言えば、この作品は、バイノーラルカメラという脱身体化したヒトのエネルギーを記録するための装置が、ディスプレイのガラス面にヒトとデータとのやり取りを示唆するような霊的な存在を映像におさめるのではなく、指紋という身体の痕跡をくっきりと浮かび上がらせるという奇妙な現象を生みだしているのである。 

光、モノ、データの重なりのズレから生じる平面

私たちは普段、ディスプレイを光、モノ、データを区別することなく単に画像やテキストの表示装置として見ている。ディスプレイは光源であり、それはRGBの光が精密に制御されたものであり、画像やテキストを示すピクセルの集積である。データに基づいたディスプレイの光が、ガラスというモノの存在を見えなくする。そして、ガラス面を透過してくる光は画像やテキストとして認識される。この状態では、光とデータとは連動している。けれど、ガラスというモノは見えないことが理想の状態として扱われる。ガラスが見えない状態にあり、ヒトに意識されないことではじめて、ディスプレイの光、モノ、データがピッタリと重なり合う。そこでは、ガラスというモノは存在しないかのように扱われるがゆえに、光ともデータとも連動することはないのである。

しかし、QueのディスプレイへのペイントとRothのパラノーマルカメラによるディスプレイの撮影は、データと連動することがないガラス面を半ば無理矢理データと連動させるような状態をつくる。普段はデータと連動しないガラス面を強調することで、QueとRothは光とモノとデータとの重なりを一度バラバラに解体して、再度、それらが一塊で展開していくような平面をつくりだす。ディスプレイの構成要素を分解し、再度まとめることで、光、モノ、データの重なりにズレが生じて、そこにこれまで意識しなかったような平面が生まれるのである。普段のディスプレイでは光、モノ、データがぴったりと重なっているため、ヒトに認識のバグを起こすことはない。けれど、その重なりを少しだけズラすと、ヒトの認識を揺さぶるようなあらたな平面ができる。そして、この光とモノとデータとのズレがつくりだすあらたな平面がヒトの感覚や意識を拡張していき、認識のバグをしばしば発生させていくのである。

最後に、Houxo Queがヒトとディスプレイの現状を明快に示した言葉で今回のテキストを終わりにしたい。

単純に僕たちの実生活のなかで、ディスプレイを見過ぎていると気づいたんです。実生活のなかで平面メディアを見る体験として、圧倒的にディスプレイを見る時間の方が長い。僕たちが生きている時代のなかで、自分たちが最も触れていて、かつては存在しなかった形式としてディスプレイがある。そのように浸透しきった新たな技術というのは、私たちの生活にとっての何らかの影響や反映を生んでいるのではないかと考えました。それゆえに日常的に私たちがディスプレイから受け取るもの、また与えているものの存在を考えていくのは重要だと思っています。そこで観察していった時に、結局現れてくるものは光なんですよ。私たちは光を見ている、光源そのものを見てしまっている。それはそもそも私たちの進化の過程であった環境では、想定されていなかったことではないでしょうか。そして、光る板を日常的に見る習慣なんてかつてはなかったですよね。でも今は日常化してしまっている。4

私たちは光源を日常的に見る状況にあるからこそ、改めてディスプレイという「光る板」を考察しなければならない。ヒトはこれまでにない頻度で光源そのものを覗き込んでいる。ディスプレイは最初、テレビという「光る箱」で家庭のなかに入り込み、今では「光る板」として一家に複数あるものになり、さらにスマートフォンという形でひとり1台持つようになっている。光源を持ち歩き、常に見るようになったヒトの認識は変わり始めている。その認識の変化は、最初は「バグ」として扱われる。「光る板」を見続けることによって生じる認識のバグは日常生活においては、たとえそのバグを見たり、触れたりしても、それはなかったものとして処理されていく。しかし、これまで考察してきたようにポストインターネット的な作品は、そのバグ自体を作品に取り込んでいく。なぜなら、「日常的に光源を見つめる」という行為がヒトの進化の過程になかったからこそ、「光る板」をメディウムとして積極的に用いることが、光源に囲まれた状況に適した状態にヒトの認識をアップデートする可能性が大きいからである。「認識のバグ」は単なるバグではなく、光源に囲まれたヒトの認識の変化を端的に示しているかもしれないのであり、バグをリスクとともに組み込んでいくポストインターネットの作品はヒトの認識への挑戦なのである。

次回は、エキソニモの《Body Paint》シリーズを取り上げて、ヒトとディスプレイとの境界を考えつつ、「光る板」が引き起こす「認識のバグ」という現象そのものを掘り下げていきたい。

参考文献
1. 谷口暁彦×Houxo Que「ディスプレイの内/外は接続可能か?」, 美術手帖 2015年6月号, 美術出版社, p.86
2. 「Featured Interviews_Houxo Que」, “QUOTATION” Worldwide Creative Journal no.22, 2015年, p.114
3. Evan Roth: Voices over the Horizon, http://www.carrollfletcher.com/exhibitions/39/overview/ (2016.6.14 アクセス)
4. “QUOTATION”, p.115

水野勝仁
甲南女子大学文学部メディア表現学科講師。メディアアートやネット上の表現を考察しながら「インターネット・リアリティ」を探求。また「ヒトとコンピュータの共進化」という観点からインターフェイス研究を行う。

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Dirt on Tape Vol.05

現行カセットテープ入門というかんじでかいていますが、入門者ははたして増えているんでしょうか。MASSAGEを読まれるような方でしたら、とっくに入門をはたして、いいかげんまわりがカセットカセットいうのにうんざり、となっていないか心配すらしていますが。もうそろそろ、深いところのレーベルのはなしもしてみてもよいでしょうか、とおもいながら、今回もまた入門なかんじで。

Constellation Tatsu〉を紹介します。いっしょな頃にはじまったレーベルはけっこう活動をやめてしまってさびしいんですが、ここはコンスタントにすばらしいアンビエント作品をリリースしつづけています。

日本では “しー辰” の愛称でよばれる〈Constellation Tatsu〉はアンビエントのレーベルとしてはいっとう知られているレーベルではないでしょうか。いまのカセット界隈全体の盛り上がりの先陣をきってきたレーベルでもあります。コラージュアーティストであるカリフォルニアのSteven Ramseyが2012年に立ち上げたレーベルです。

いまのアンビエントの王道といってもよいレーベルで、現行カセット界隈3大シンセアンビエントとよばれるPanabriteGünter SchlienzPulse Emitterの3人ともをリリースしていたり、日本のHakobuneの作品を毎年リリース、最新のバッチではいまその界隈では最も勢いのあるH. Takahashiも出しています。ほかにも夕方の犬Chihei Hatakeyamaなど日本人のリリースが目立ちます。

いまのまっすぐなアンビエントのよいところをききたければ、ここのを買ってみてまちがいがないんですが、そこにまぎれたレーベルとしては冒険をしている作品がとくべつおもしろかったりします。

Mind Records〉や〈Orange Milk〉からも出しているモントリオールのBataille Solaireのニューエイジなシンセとコラージュ、〈Beer On The Rug〉からのリリースがすばらしかったJames Ferraroと並ぶ存在だと勝手におもっているAngel 1を知ったのはこのレーベルで。そのBOTR主宰のC V L T Sや、Giant Clawがシンセドローン作品を出してみたり、White Poppyの〈Not Not Fun〉デビュー寸前のアコースティック作品は彼女のベストだとおもいます。

もうすぐ〈Kranky〉からリリースされるMJ Guider、きょねんLXVとの共作がすばらしかったKara-Lis Converdale、はじめは何者? となりながらもそのあとからたてつづけにリリースがつづくDang Olsen Dream Tapeなど、ここからのカセットをきっかけに飛躍してゆくひともたくさんいる印象で。

毎回しっかり3、4本のバッチで出してくるあたりがカセットレーベルらしさがあります。そしてはじめのころから300本くらいとしっかりとした本数をつくっているのでしっかりと流通していて。バッチをまとめて買うと、ポスターをつけてくれたりするんですが、いちどレーベルのロゴのはいった蜂蜜がついてきたことがありました。そういうおまけをつけてきてくれるあたり、カセットをレーベルから直接買うたのしみでもあります。そしてここからのものは郵送途中に袋が破れてくる可能性が高いというのも、カセットレーベルらしさがあって。そしてここがレーベル別でいうとこれまでにいっとうたくさん買ったレーベルでもあります。Jカードのデザインもシンプルなのからコラージュなものまでさまざまで、集めるのもたのしいです。

現行のカセット界隈のなかでも、いっとう入りやすいレーベルだとおもいますので、ここへ注文して袋が破けて届いて冷や冷やするという経験をしてみてはいかがでしょうか。

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5月でよかったもの。

買った経緯がおもいだせないんですが、そういうのもときどきあります。レコードよりもそのあたりはとても気軽に買うことができるのもカセットのよいところ。いま調べてみたらCVNさんに教えていただいたUmfang入り〈Sweat Equity〉のコンピレーションに参加していて、気になっていたらふと発売されて買いました。
フィラデルフィアのCouples Counseling、Cc。もこもこした質感のテープがかすれるかんじに、細切れな声のサンプリングと全体的にゆるい雰囲気なんですが、トツゼンな立体感のある電子音がゲームっぽくっていまっぽかったりと、つかみどころのなさがものすごくよいです。


Cc “Haha Panorama”
https://couplescounseling.bandcamp.com/album/haha-panorama

Lil $egaの運営する〈Wasabi Tapes〉からきょねん末にリリースされた “美しい (Utsukushii) ” にも参加していたDavid WinklerのJulienが〈Orange Milk〉入り。大胆すぎる無音なスペースの挿入と、そこから一気にたたみかけてくるビートの緩急がすばらしいです。ビートもフットワークから四打ち、声のサンプリングも赤ん坊からメタルの叫び声までたくさん。全体的にかなりせわしないかんじでたたみかけてくるんですが、ビートの鳴っていないところのシンセの質感がよいのと、つめこんだ内容だけれどすごくポップなきこえ方で、〈Orange Milk〉っぽさ全開です。


Julien “FACE OF GOD” (Orange Milk)
https://orangemilkrecords.bandcamp.com/album/face-of-god

Primitive Languages〉周辺Lolitoのレーベルから。音楽だけでなく映像にコラージュや3Dなアートワークのフライヤーをつくっていたりと多才なセント・ルイスのBlack JamesことIce。チープなシンセとビート、そこにささやきヴォーカルが主な流れなんですが、唐突な本人演奏のバンジョーによるフォーク、ピアノやら会話のサンプリングをはさんできたり、男性のラップがのせられたりと、展開がはちゃめちゃで、ひとつのものがたりを読んでいるような。
このレーベルはJカードのデザインが統一されていてよいです。ただ紙の表面がつるんとしてるのがマイナスではありますが。


Ice “Scream Club” (More Records)
https://morerecords.bandcamp.com/album/scream-club

いまいっとう好きなひとのひとり、rkss新作です。〈Reject & Fade〉、〈Seagrave〉からでたこれまでの作品はノイズにビート、かりかりした金属音があわさってとよくわからないテクノをやっていたんですが、今作でさらにつきすすみました。全編、早回しのようなかすれたノイズ、そのなかを立体的に跳ね回る電子音、もこもこと浮び上がってくる欠落したビート。はっきりとした音がとりはらわれながらも、空間いっぱいにつかいながら立体的に様々な音が不規則に暴れ回り、全体をとおしてうっすらとしたビートになりきらないリズムがかんじられて、ふしぎなかんじ。〈Where To Now?〉なのでカラフルな色で文字をあしらったリゾグラフなJカードがきれいなんですが、さすがにすこし飽きてもきました。かえられても困りますけど。


rkss “Top Charted” (Where To Now?)
https://wheretonow.bandcamp.com/album/top-charted

まえから交流のあった2人のsplit。Jカードのアートワークもそれぞれのをあわせていて。しー没サイドはBotsu500番台。作品番号が曲名になってるんですが、これまでみさせていただいたライブなかんじがいっとう濃く反映されてるので、きょねんの夏頃につくられた曲でしょうか。飛び散り続ける金属質なノイズ、そこに重なる立体的でクリアな電子音、それらを高速でタブレットの画面に向かって絶え間なくちからづよく打ち続けるかんじ。公開されてる600番台後半から700番ではノイズがおさえられて歌がはいってきてとあたらしい展開をみせているので、つぎのリリースもたのしみです。
先月も取り上げたGood WillsmithメンバーMaxソロMukqs側はしー没さんにあわせたのか、20分にわたる金属質なノイズの裏で、サンプリングな音声、ビートがつぎつぎといれかわる前作よりも攻めた内容。いつかこのふたりで日本ツアーをしていただけたならうれしいです。


Constellation Botsu / Mukqs “Miracle Hentai” (Suite 309)
https://suite309.bandcamp.com/album/miracle-hentai

キリがないので毎月5本と決めてるんですが、これもよかったので。カセットテープは好きなんですけれど、ミックステープってほとんどきかない、どちらかというと個々の作品が好きで、でもこれはすごく気に入って歩きながらよくきいていました。Low Jackつながりのベルギーが拠点のふたり。Low Jackなどいまいっとう変でかっこいいあたりからLiaisons Dangeereusesまでと新旧な曲を、ガバな雰囲気もはさんでみたりしながら、終始ものすごいテンションなままつないでゆきます。Jカードなしっていう簡素なつくりもミックステープっていうかんじがしてこれだとかっこいいです。

DJ Coquelin & MC Cloarec “Je M’en Tape” (PRR! PRR!)

Dirty Dirt
現行のカセットテープコレクター。2015年は450本購入。カセットテープに関するブログ、zine、雑誌への寄稿、たまにカセットDJなど、現行のカセットテープのことならなんでも。 http://dirtydirt2.blogspot.jp

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