2016-Sep-1231 Shares

DIS Magazineキュレーションによるベルリン・ビエンナーレの楽しみ方。あるいはオンライン・ラディカリズムの実空間への移植は成功したか②

ベルリン・ビエンナーレについての原稿、第2回目です。

さて今回はビエンナーレについて、少し率直な感想について書いてみたいと思います。実はベルリンに在住している友人たちにビエンナーレの感想について聞いてみたのですが、そもそも関心がないか、あまりよい感想は持っていないようでした。以前のビエンナーレに比べてパワーが感じられないと言っている人もいました。

ぶっちゃけて書いてしまうと、そう言いたくなる気持ちもわかる気がしました。

ビエンナーレに訪れるのは初めてなのですが、ベルリン・ビエンナーレ自体は今回で9回目の開催になります。1996年に発足なので、したがって20年の歴史があることになります。その20年の間に、現代美術はその規模を拡大し、もっとも投機的な市場と呼ばれるまでになりました。DIS Magazineは今回のテーマとして、「パラドックス」というキーワードを挙げていますが、こうしたアート領域の経済化もそのひとつに数えられるにちがいありません。

ベルリンは自由都市の呼び名にふさわしく、左翼的な考え方が強いことで有名ですが、こうしたグローバル経済のパワーを押しとどめようという意識がとても強く存在しています。それはこの街の特性、多様な文化を認める寛容の精神や、低コストで生活できる住環境の良さなどに由来しています。いつでも大きな潮流に飲み込まれず、カウンター的な存在であり続けているのも、この街の特色のひとつなのです。街に遺伝子レべルで刻まれたそうした性質は、ベルリン・ビエンナーレのベースに常に存在していたということができると思います。

そのような文脈のなかでDIS Magazineの起用は、非常に理解できるものでありましたが、また同時に、このベルリンの空気感の中で鑑賞する展示は、そのような文脈から切り離されたところに存在しているもののように感じました。

Canadian Art誌によるインタビューで、インタビューアーのTess EdmonsonはDISのキュレーターたちに次のように聞いています。

「(会場が)Auguststrasseから離れることは、明らかに安い家賃、芸術的な自由、まだ使われていない都市空間、そして初期のベルリンビエンナーレが定義したもの、けれどたぶん真実ではないか、少なくともかつてほどではなくなった神話のようなものへのノスタルジーを拒絶しようとする意図が読み取れます。」

この質問に対してDISは、自分たちはそこから始めなくてはならなかったといような答えを返しています。つまり会場構成において、DISのキュレーターたちはこれまでのベルリンの文脈から距離を置くことを明確に意図していたということです。

ベルリンの自由都市的な風土が神話かどうかはさておき、NYからやってきたDISの現状を批判しない姿勢は明確で、作品そのものからダイレクトに伝わる衝撃が薄いのは、こうした複雑な現実をそのままの姿で見せようという姿勢に由来しているように思います。その代わりに彼らは現在の複雑さを示すために「パラドックス」という概念を採用しました。それは作品群の背後にあって確かに見えにくいですが、DISの現実の複雑性へ挑む知的で洗練された手つきのように感じます。

つまりそれは、モノそのものより、現実の複雑性が産み出したモノの背後にあるさまざまな奇妙な事態(つまりパラドックス)にこそ現在において検証すべき可能性があるということなのです。

さて、最後にひとつだけ作品をあげておきます。アムステルダム在住のKatja Novitskovaという、ポストインターネットを代表するアーティストでもある作家の作品「Expansion Curves (fire worship, purple horns)」です。

彼女は企業などの作り出しているイメージを引用したような彫刻を発表してきたアーティストなのですが、最近の作品はハリボテのようなぺらぺらのオブジェクトになってきています。写真に撮ると逆に伝わらないかもしれませんが、その造形は完全に消失してしまっており、ただの板のようなものなのです。立体であるのに正面からしか見ることのできない彫刻。それを堂々と展示してしまうということは、現代のメディア状況の以前では絶対にありえない出来事だったと思います。

スクリーンという存在の広範囲な進出により、わたしたちは現実と現実のイメージというふたつの世界にどっぷりと暮らすようになりました。そしてついにスクリーンの中にしか存在しなかった、平面的な事物が現実に進出してきた。わたしたちはそうした現実を受け入れるようになったということなのです。

以前、彼女の同手法の作品に関して、ライターでキュレーターのBrian Droitcourが「THE PERILS OF POST-INTERNET ART」というオンライン上の原稿で、ポストインターネット・アートへの批判を展開していました。

水野勝仁さんがMASSAGEの連載で引いていたものの孫引きで申し訳ないのですが…

「ポストインターネット・アートは、洗濯洗剤がコマーシャルでよく見えるようにブラウザでよく見える。洗濯洗剤がコインランドリーでは魅力的ではないように、ポストインターネット・アートもギャラリーでは輝いていない。作品のまわりを周りながら観るのは退屈である。それは実のところ彫刻ではない。空間を活性化しない。ポストインターネット・アートの作品はしばしばその正面がカメラのレンズに向けて整えられている。」

img_3241

img_3237

彫刻の体験としては実際にチープなのですから、Brianの主張にも同意できるところはあります。それはそうなのですが、それを言ってしまうのはあまりにまっとうな批判過ぎてつまらない。むしろその批判自体、あきらかに彼女の作品の中に構造的に組み込まれています。現実の方が虚構より劣って見えること。それは彼の批判とは逆に、現実と虚構の間にある階級差を反転してしまうという、彼女の作品の持つラディカルな可能性にほかなりません。またそれこそDISの言わんとする「偽装された現実」であるのです。

DIS Magazineの「現在」における試みは、あたらしい事態を描写してみせることなのだから、そういう視点で見るとこの作品はとてもわかりやすい。だから、これこそがもっとも象徴的な作品だなと思うわけです。

気が向いたらまた続きも書いてみたいと思います。